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2016/10/22

1225【鳥取・倉吉地震】高梁盆地で少年時唯一の地震体感の恐怖記憶がよみがえってきた

 熊本のつぎは鳥取県の倉吉あたりで大地震だそうだ。昨日の新聞夕刊に何も出ていなかったのは、発生が14時過ぎだったので記事にするのが間に合わなかったのあろう。
 今朝の新聞のトップ記事だろうと思っていたら、一面にはあるけどトップではないのだった。ここが震源から遠い関東であるせいだろうか、それとも熊本と比べて被災程度が軽いからか。

 鳥取地震と言えば、2000年に大きな被害があったが、また起きた。あの辺りは地殻のひずみがたまりやすいところだそうだ。
 わたしの少年時の地震を怖いと体感した経験は、記憶にあるのはたったの1回である。
 調べてみるとそれが鳥取地震であり、1943年9月の夕刻、震度6、1083人死亡だった。

 そこから南西に100kmあまり、高梁盆地にあるわたしの生家の御前神社では、境内の森はゆさゆさと揺れ騒ぎ、社殿はみしみしと揺れ響いた。
 森の中の社務所の縁側から、恐怖をもって眺めていた大きく揺れるモミの大木の記憶は、もしかしたら社務所の揺れの視覚的な相対現象だったかもしれない。
 この地域に被害はなにもなかった(とおもう)が、少年時の唯一の地震恐怖体験を忘れない。

 他にも地震があったはずだが、高梁盆地あたりは地震が少ない地域であるらしく、地震の記憶はこれしかない。
 たしかに調べてみると、全国的にも有数の地震が少ない地域であることに気が付いて、わたしの故郷は安全なところなんだと思い込んでいた。
 しかし、どうもこのところのあちこちで地震が多く発生するのに加えて、今回は100キロほどの近くに迫ってくると、自信が無くなってきた。

 とりあえず、故郷の友人に見舞いメールを出したのだが、返事には、震度3、揺れにびっくりしたが、被災はなさそうだとの返事にホッとした。

●参照 ブログ内関連記事
大揺れ天災人災列島だけどすこしでも安心して暮らす場所を探してもう逃げだそうと思う

2016/08/22

1209【敗戦忌】父は三度の戦地から三度とも生還したが兵器となった釣鐘は戻らないまま

わたしの生家の御前神社にある釣鐘のない鐘楼  2015年
 鐘楼の鐘も戻らぬ敗戦忌   (いすみ市)菊地正男

 今朝の朝日俳壇入選句に、わたしの目がとまった。
そうだ、わたしの生家の神社の鐘楼がまさにそうだった。

 もう敗戦忌から一週間も経ったか、今年は靖国神社に野次馬見物にも出かけない夏だったので、いつも書くのに忘れていたが、やっぱりあの日のことなど書いておこう。
 
 わたしの生家は、城下町の高梁盆地をとり囲む丘陵の中腹にある神社であった。
 長い石段の参道脇に、木造で3階建てほどの髙さの塔状の鐘楼があり、時の鐘が吊るされていた。
 その鐘は、17世紀半ばに鋳造されてそこに釣られて以来、神社代々の宮司が毎日定時に撞いて街の人々に時を知らせる「時の鐘」であった。
 太平戦争が始まる前年の1940年末に、その鐘は兵器となるために政府に供出されて出て行き、そのまま戻らない。 鐘楼だけが、いまだに立ち尽くしている。
1926年の鐘楼の写真(高梁高校創立記念写真集56より)

 その鐘楼の1926年の写真があるから、少なくとも90年以上も前の建物だろう。
 多分、かなり老朽化しているだろうに、今もすっくと立って、その役割を失ってからも、帰らぬわが子を待ち続けるかのように、よくぞ立ち続けているものである。
 今年も「鐘楼の鐘も戻らぬ敗戦忌」であったはずだ。
 
 鐘が出て行った1940年は、その鐘を撞く役割を勤めるべきわたしの父は、日中戦争で中国の北部にいた。戦場でも戦死者の祭祀を司っていたらしい。
 1938年に神社を出て大陸に渡り、戻ってきたのは1941年の5月であった。父の兵役はこの時が2度目であり、最初は満州事変のとき、更に3度目が太平洋戦争のときだった。
1940年元旦、紀元2600年記念で
鐘を2600回撞いた
父が不在の時には、母が鐘楼に登っていた。母は3歳幼児を連れて高い鐘楼に登ることはできないから、わたしをひとり家に残して出て行ったが、夜の留守番役は怖かった記憶がある。

 1943年、3度目の召集令状で出て行った父を、母はわたしを連れて駅に見送った。
 そして家に戻るやいなや、いきなり泣き伏した。ひとり畳に伏して号泣する母のそばで、幼いわたしは意外な母の行動におどろき、ただぼう然とするばかり、12月のことだった。
 父は南方に送られるべく姫路城にある兵舎で輸送船舶を待っていた。時々は母と面会に行ったし、時には父が休日に戻ってきたりしたのは、未だ戦火が国内に来ない頃だったのだろう。

 1945年の7月、戦火を避けて集団疎開児童が神社にやってきた。芦屋市精道国民学校初等科6年女生徒20人と職員1名が、社務所の中で暮らすようになった。
 この子たちがいない間の芦屋は、アメリカ軍の空爆で大被災し、なかには孤児になった児童もいたようである。

 そして8月15日の真昼、社務所玄関前に近所の人々と疎開児童たちが集まり、一台のラジオ受信機をとりまいた。
 森の中に降りしきる蝉しぐれとともに聴く、音の悪いラジオ放送が終わると、近所の人々は黙りこくって一列となり、石段を下って鐘のない鐘楼のそばを通り、神社の森からとぼとぼと抜け出て行った。

沈黙の湖になりたる盆の地よ昭和二十年八月真昼 
          (まちもり散人2014年詠)

 疎開児童たちは芦屋に戻って行き、街には戦場から戻る人たちがぼつぼつと増えていった。
 わたしも父が戻ってくるかもしれないと、石段の上から参道を見下ろして毎日毎日待ち受けていた。ある日、鐘楼のそばの石段を登ってくる父を見つけて、飛びついた。
 後に調べると、それは1945年8月31日のことだった。父はその年の初めから、小田原に移っていた。制海権を敵に取られて、姫路で待っていた南方への輸送船はやってこなかったのだ。

 小田原では本土決戦とて、湘南海岸から上陸してくる敵兵を迎え撃つべく、丘陵に穴を掘って戦場陣地の構築をしていたのであった。
 8月15日の小田原空襲ものがれて、無事に戻ってきたきたわたしの父は、3度の戦場を生き抜いた強運の人でああった。
 わたしの身内では、母方の叔父が戻ってこなかった。父と違って運悪く輸送船が間に合ってしまい、フィリピンルソン島マニラの東方山中の戦場に消えた。後に若妻と乳飲み子がのこった。

 戦争が終わって、父は戻ってきたが、鐘は鐘楼に戻ってこなかった。
 むなしい鐘楼を何とかしたいと父は思ったのであろう、1946年の夏、その鐘がまだあるかもしれないと、父と伯父は各息子を連れて、瀬戸内海の直島にさがしに行ったことがある。
 各地からこの島に集めた鐘を、島にあった製錬所で溶融して兵器にしたらしい。樹木がひとつも生えていない丸禿げの島だった。

 集められたまま熔かされないでいた無数の釣鐘の群れが、野天の荒れ地に累々と並んで夏の太陽に照らされていた有様は、子ども心にもなんともシュールな風景であった記憶がある。
 背丈より高い釣鐘の林を歩き回って探したが、生家の神社のそれは見つからなかった。
 その直島の製錬所は、いまは三菱マテリアル直島製錬所となり、工場見学もできるそうだが、戦争と鐘の記憶を伝えているだろうか。

 それからかなりの後に聴いた話で、わたしも父も盆地を離れてからのことだが、その鐘楼にプラスチック製の釣鐘を寄附した人がいた。
 その鐘は、テープレコーダとスピーカにつながっていて、録音の鐘の音が定時に自動的に街に鳴り響いて、時を告げていたそうだ。いまはその鐘もない。
 そういえば、とっくに100年を超える本殿と拝殿は今も健在だが、疎開児童が暮らした社務所は建替えられたし、わたしが育った宮司の住宅も今はもう無い。
 あの鐘楼は100年の命を保つことができるだろうか。

◎関連するわたしのサイトページ『父の十五年戦争
https://matchmori.blogspot.com/p/15senso-0.html

2015/05/31

1095【小笠原地震】大揺れ天災人災列島だけどすこしでも安心して暮らす場所を探してもう逃げだそうと思う

●天も地も右も左も上も下も大揺れの日々

 久しぶりに大揺れだったなあ、小笠原のあたりが震源だとか。
 うちの7階空中陋閣借家は、ユッサユッサ、歩くとフラフラしたのは、ただいま第4腰椎圧迫骨折の身の身障者体験中のせいもあるが、歩行する足を上げておろそうとすると、そこの床が逃げるのであった。ユラユラ歩く。
ひび割れガラス板に乗る日本列島

 やや、なにやら家の中でザ~ザ~水が流れる音がする。7階まで津波がやってきたか。
 なんとまあ、風呂の湯が大波となって蓋を押し上げ、津波となって洗い場をバチャンバチャンと襲っているのである。
 この風呂の湯の流失による損失が、今回の唯一の震災被害であった。

 このあたりは幕末の開港の街として、入り江を埋め立てつくったから、地盤が悪い。
 こういう類の地震があると、なにやら長周期地震動とか言って、高層ビルはユルユルと大きく揺れるのだそうだ。それが嵩じるとポキンと折れたり、バタンと倒れるのだろう。
 倒れなくても歪んだら、鉄ドアが開かなくなって幽閉さてしまう。あわてて玄関を開けたのであった。

 一昨日は奄美群島の口永良部島で火山の噴火、近くの箱根山が噴火するらしいなんて言ってたら、遠くでこの噴火、それに桜島も噴火だそうだ。
 そういえば御嶽山の噴火があったなあ、こうなれば近くの富士山も負けていられないって、噴火したくてウズウズしているんだろうなあ。
 火山ばかりにいい格好させたくないって、地震ナマズが奮い立って、小笠原あたりで大地震を起したらしい。次はもうちょっと北に寄って、東南海トラフで暴れるぞって、ナマズも健在を誇示している。地球がきな臭い。
 そういえば、つい先日茨城県あたりでも揺れたなあ。だんだん近づくずくなあ、楽しみだなあ。

 きな臭いのは地球ばかりじゃなくて、人間の方だよなあ。集団的自衛権行使問題なんて、東京のあたりを震源地にして、人間ナマズが暴れている。
 遠くのISとか凹ハラムとか北コリアとかって人間ナマズも暴れているらしい。
 もう、この地上では、どこにに行けば安心して暮らせるのか、皆目分らない。日本列島はなんだかひび割れガラス板に乗っているようだしなあ。

 それでもいくところがないから、せめて日本列島の中で暮らすに安心できそうなところを探してみよう。
 その条件は次のようである。
(1)地震がないって無理だろうからせめて他と比較して少ないこと
(2)海で地震があっても津波がやって来ないこと
(3)噴火する活火山から遠いこと
(4)核発電所(原発のこと)から遠いこと
(5)軍事基地から遠いこと
(6)気候が寒冷あるいは猛暑でなくて温暖なこと
(7)山間や荒蕪の僻地でなくて適当に便利なこと
 
 この中での「~から遠いこと」の条件だが、実はどれくらい遠くなら良いのかわからないから、まあ100~200kmくらいにしておこうか。

●日本列島で安全なところは、ここだ!

 実は、先ごろそう思って、あれこれ調べていたら、その結果が実に意外なところにおさまったのであった。そこは、わたしの生まれ故郷(岡山県高梁市)だったのだ。
 ぴったりとあてはまったのは、客観的データによるのであるから、贔屓目じゃなくて、本当ですよ。
 このブログにそれを書いていたのだが、一部補足整理してここに採録する。
高梁の位置
(1)の地震問題である。
 これ↓を見てください。高梁のあたりは地震が少ない。
  日本全国広域 最新30日間の震央分布図 (独立行政法人防災科学技術研究所)
 http://www.hinet.bosai.go.jp/hypomap/

 (2)の津波問題である。
 そして今の一番怖い四国沖での南海大地震が起きても、何とか大丈夫のよう。
 中央防災会議資料 http://www.jjjnet.com/image/shindo_nankai.gif
 東南海トラフ大地震が起きても四国の向うの事件だし、津波が起きても瀬戸内海から高梁川を遡上して到達するには、あまりに遠すぎる。

 (3)の火山問題は、鳥取県の大山が一番近いが、それでも結構遠い。富士山が爆発しても、高梁まで灰が降ってくることはなかろう。

 (4)の核発電所問題である。
 島根原発が、高梁に一番近いがそれでもかなり遠い。下記のサイトで島根原発のところの図を見てください。
  全国の原子力発電所の周辺人口(2005年)埼玉大学谷謙二研究室
 http://ktgis.net/tohoku_data/genpatsu/

 (5)の軍事基地問題は、一番近い米軍基地は山口県岩国だから、これもかなり遠い。

 (6)の気候問題は、住んでいた少年時代の記憶では、雪はめったに降らないし、猛暑でもない、温暖な地であった。
 ところが最近、ときどき日本一の猛暑ランキングに高梁市が登場する。この50年ほどで気候変動が起きたのか。不思議だ。
 故郷に住む旧友に聞けば、昔と変わらないけど、その原因は、最近、数年前に気象台の測候所ができたことだという。え、なんのこと?
 住民が肌寒い日であっても、「今日は日本一の高温」と発表されて、奇妙かつ不思議な気分だそうだ。「気温を測ってる場所がおかしい」とのこと。ということで、(6)も、まあ問題なしとしよう。

 (7)の僻地問題は、地方都市としては、そこそこに便利なところであるから、良しとしよう。

 というわけで、生れ故郷は良いところと分ってはいたけど、こういう意味でよいところと今頃になって知ったのである。
 わたしの生まれ故郷だけがそうではないが、各地域がこの地こそ安全な条件にあることを宣伝すれば、日本列島の人口再配分が進みそうな気がする。
 この場所は危険だという情報はたくさん出てくるようになったが、ここなら安全だという情報が意外に少ないのは、どういうわけだろうか。

 もっとも、わたしは今の地から逃げ出すには、もう間に合わない。生まれ故郷にはもうひとりの親戚もなし、父母の住んだ家も空き家問題解消のために処分した。
 だが、わたしには、ひとつだけ逃げ出すべき安全な場所が、かなり近くにあるのだ。これを思うと気楽なもんだ。
 それは、あの世である。。

2014/12/16

1039懐かしや郷土伝統芸能「備中神楽」を東京新橋のビルの中で見てきた

「よいとまあたあ、やあはあ、ドンドン、よいとそうりゃあ、はあ、ドンドドン、ドン、」

 太鼓に乗ったどこか間延びした調子のお囃子が、東京の繁華街のビルのイベント会場に響く。
 わたしは少年時の記憶を少しづつ思い出しながら眺めている。目の前の神楽舞の動きよりも、囃子の音が記憶を引き出す。
 東京・新橋であった「備中神楽」(びっちゅうかぐら)の公演を見てきた。(2014年12月14日)

 わたしは備中地方の高梁盆地にある神社の生れだから、少年時は毎年の夏祭りの夜は、生家の前の広場で行われる奉納神楽を見て育った。
 暗い社叢林の中の境内広場に、その夜のためだけに仮設の神楽舞台が裸電球に照らされて出現する。ここで神楽舞を神に奉納するのである。
 大勢の見物客が取り囲に中で、暗くなるころから始まり夜更けに終了する。
 最後のあたりの演目、大スペクタクル出し物のヤマタノオロチ退治を見たいから、眠いのを我慢したものだ。

 故郷を出てから久しく観る機会はなかったが、十数年前に三宅坂にある国立劇場で備中神楽の公演があり、懐かしく思って観に行った。
 ところが、わたしが少年時に見たことのない神楽だった。調べてみるとそれは「荒神神楽」(こうじんかぐら)と呼ばれていて、神社の祭礼で舞われる「宮神楽」とは、重なりあう演目もあるが、基本的には異なるものであった。
●大蛇退治
https://youtu.be/l9oxzPesw0Y
わたしの少年時に心を躍らせたヤマタノオロチ退治は、荒神神楽にはなくて、宮神楽の出し物だったのだ。
 今回、新橋でヤマタノオロチ公演するときいたので、これは行かねばならない。

 ほかの地域の特徴的な郷土芸能を見たのは、若狭の風祇能、山形の黒川能、宮崎の高千穂夜神楽、福井の池田水海田楽舞である。
 黒川能、高千穂夜神楽、水海田楽舞は、集落をあげての芸能を中心とする神社祭礼である。集落の人たちが演者となって舞うから、まさに地域の人たちの自分たち自身のための芸能である。
 それに対して備中神楽は、備中地方の各所に複数の神楽を舞うプロもしくはセミプロの結社(社中)があり、神社の祭礼や荒神祭りに依頼されて出演するのであるから、住民自身が舞う芸能ではない。だから、その舞は素人ではできない技術を持っている。
 若狭の風祇能も、能舞の結社が行っているから備中神楽と同様である。
 集落民たちが舞う黒川能や高千穂夜神楽には、それなりのひなびた良さがあるのだが、舞にキレがないのは仕方がない。
 備中神楽は修練を経たプロの舞だから、舞のキレは決まっているし、激しい刀剣や長刀による大立ち回りは、まさに迫力満点である。
恵比寿舞

 長い時間がかかる一連の神楽の中で、観客を飽きさせないように途中で道化師が登場する演目もある。ヤマタノオロチ退治のために大蛇に飲ませる毒入り酒を造る場面がその典型であり、新橋でもあった。
 面白おかしいことを、囃子方の太鼓とかけあいながら言うのだが、少年時に頃に聞いたときは、芸能ではよくあることだが、かなりの頻度で卑猥なエロ話があった。もっとも少年にどこまでわかっていたか疑問だが。
 新橋では、エロ話はなかったのは、いまはもうやらないのか、場所柄をわきまえて言わなかったのか、どちらなんだろうか。若干の世相風刺があった。
 ただ、こちらが大人というか年寄りになって、笑いの質を問うようになってしまい、その点ではどうも笑いに乗れなかった。


 今回は抜粋だったが、はじめからしまいまで通しで、いつの日か何時間かかけてみたいものである。
 今では備中神楽も、ウエブサイトで見ることができるが、それでは迫力がない。ネットで石見神楽の大蛇退治を見ると、ド派手なカラー大蛇が何匹も登場して、まったくもって見世物化しているらしい。
 備中神楽はどうなの知らないが、祭礼が減少した現代に郷土芸能が生き残るには、そういうことが必要にもなっているのだろう。
 
 今回の新橋での公演を、主催者の了解を得て動画でも撮ってきたので、その一部をご覧ください。 
●大蛇退治
https://youtu.be/l9oxzPesw0Y
●大黒舞
http://youtu.be/o_NxsfV4WnY

伊達の眼鏡内の関連ページ
◆池田:能楽で地域興し(2001,2003)
https://sites.google.com/site/machimorig0/ikeda-dengakumai
◆高千穂夜神楽(2008)
http://datey.blogspot.jp/2008/12/blog-post.html
◆高千穂夜神楽(動画)
https://www.youtube.com/watch?v=icokd9I61GY

2014/11/13

1026美しくも懐かしい故郷・高梁盆地の秋の風景を友人が送ってくれた

 秋の美しい風景画像が、わたしの故郷の高梁盆地に住む友人からやってきた。
 高梁盆地は高梁川から発生する霧で、真っ白な海の底のようになる朝がたびたびある。
 そのような日は、深い霧は午前中に消えて、必ず快晴となる。霧が深いほど空は青い。

 その霧の盆地を、霧の上にでた山上から見下ろすと、盆地は真っ白な湖であり雲海である。
 高梁盆地は城下町であった。盆地の街の北にそびえる臥牛山の麓には城主の館があり、山上には天守のある城郭があった。
 城主の館は、今は高等学校の敷地に変っているが、山上には城郭跡と天守がいまもある。

 その山上の天守が、雲の海の中に島々を従えて浮かび上がる。まさに天空の城、幻想的な景観である。
高梁盆地の雲海に浮かぶ備中松山城  撮影:川上正男
 故郷の有名な景観だが、実はわたしはこの目で見たことがない。
 この景観を撮影するには、朝、まだ暗いうちから、山上にカメラを構えて待ち続けるらしい。しかも、その朝にそれが現れるかどうか、その予想もできないらしい。
 友人はそれをうまく撮ったと送ってきた。なるほど、なるほど。

 なお、この雲海の城のことは、以前にもこのブログに書いたことがある。
 空の城と言えば、竹田城が有名らしいが、これもわたしは見たことがない。
ついでながら、スイスのシャモニーに行ったとき、見上げたエギ-ユドミディの小屋が、天空の城のようだった。
夕陽に輝くシャモニーの天空の城  撮影:伊達美徳
 友人が送ってくれた高梁盆地の風景の中に、わたしの生家の神社もあった。おお、こんなに美しい紅葉であるか。
 少年時代を過ごした生家だが、こどもの眼には紅葉は映らなかった。四季の景色をめでるのは、大人のすることであった。
 これを見ると、わたしがいたころはもっと樹木が多くて、境内は暗かったような気がする。
高梁盆地の御前神社の紅葉   撮影:川上正男
(追記)送ってくれた友人からの知らせでは、雲海の古城を見るのは、時期的には11月~12月半ばまでで、雨上がりで天気の良い冷え込んだ朝の8時~9時30分頃だそうである。

2014/10/03

1007短歌を詠んだがいつもは詠む趣味はないから突然の歌人

 短歌を詠んでみた。いつもは詠む趣味はないから、突然である。

                        遥 
                        か 
                        西 
ふ   花   大   空   沈       の 
る   咲   川   翔   黙       故 
さ   か   よ   け   の   少   地 
と   せ   わ   る   湖       を 
は   歌   れ   少   に   年   想 
晩   詠   を   年   な       い 
夏   み   連   の   り       て 
や   重   れ   夢   た       `
少   ね   去   い   る       歌 
年   少   れ   く   盆       人 
老   女   濁   た   の       に 
い   ら   流   び   地       倣 
に   よ   に   も   よ       い 
け                       て 
り   老   い   醒   昭       詠 
    い   ず   む   和       め 
は   に   く   れ   二       る 
あ   け   に   ば   十         
り   ら   て   盆   年         
ゃ   し   あ   地   八         
あ   な   れ   の   月       ま 
さ   生   空   森   真       ち 
∫   ひ   広   の   昼       も 
よ   に   け   奥           り 
お   け   れ   底           散 
お   る   ば               人 
い   ぞ                     
や   や                     
さ                         
あ                         
 
     
 詩や歌に解説はいらないだろうが、せっかく詠んだのだから解説しておく。
 「遥か西の故地」とは、わたしが少年時代を過ごした生まれ故郷のの高梁盆地(岡山県)のことである。どうでもいいけど、映画「男はつらいよ」シリーズで、寅次郎の義弟(妹さくらの夫)の出身地で、シリーズに2回登場する町である。
高梁盆地
「歌人に倣いて」とあるのは、これは故郷に住む歌人の歌集の「あとがき」として載せているからだ。なぜ頼まれたかと言えば、実はその歌集を、わたしがDTPで制作したからだ。
歌集「ぽかりぽかり」
歌つくり:藤本孝子
花つくり・写真:定森治子
本つくり:まちもり散人
あとがきを頼まれて、そうだ、わたしも歌を詠んでみるかなと考えていたら、意外にすらすらと心象風景がでてきた。もちろん推敲を何度もした。
 歌のできの良し悪しはともかくとして、詠んだ当人はよくできたもんだと自賛している。
 故郷を想えば誰もが歌人になれるらしい。斉藤茂吉も石川啄木も寺山修司も、そういう歌が多い。それでは、べつの主題で詠んでみようかと頭をひねったら、これがぜんぜんできないのは、何とも不思議である。

 「沈黙の・・・」の歌に解説はいらないだろうが、あの敗戦放送に黙りこくった大人たちの風景である。

 「空翔ける・・」の歌は、さすがに今は見なくなったが、少年時代には空を飛ぶ夢を見たものだった。いや、結構大人になっても見た。
 わたしは丘の中腹にある神社の森の中で生まれ育った。境内から見下ろす街の屋根の上を、夢で何度も飛びまわったものだ。だが、盆地を囲む山を越えることはなかった。

 「大川よ・・」の大川とは高梁川である。この川が盆地をつくって、南に流れて瀬戸内海に注ぐ。少年のわたしは四方を山に囲まれた盆地の閉塞感に悩み、どうやって抜け出るか考えていた。
 結局は大学に入って関東へと脱出を果たしたのだった。故郷の町の歴史文化の深みと美しい景観を認識して高く評価できるようになったのは、ずいぶん後のことである。

 「花咲かせ・・・」は、歌人の親友が育て撮った花の写真が、この歌集に文字通りに花を添えているので、この2人の昔の少女たちへの挨拶歌である。
 歌の後段は、「筒井筒井筒にかけしまろがたけ 生いにけらしな老いにけるぞや」(世阿弥元清・能「井筒」より)のコピーだが、格好よく言えば本歌取りである。
 老いと生いを入れ替えたのは、二人の若さへのお祝いのつもり。老いたのか、いや、成長したのだ、と。

 「ふるさとは・・」の後段は、高梁盆地に伝わる盆踊り歌の囃子言葉である。知っている人なら、そのメロディーが頭の中を流れてくるだろう。
 この歌も本歌取りである、と格好つけて言っておこう。元歌は「村境の春や錆びたる捨て車輪 ふるさとまとめて花いちもんめ」(寺山修司・歌集「田園に死す」より)。

(2016年9月10日追記)
 この藤本孝子歌集「ぽかりぽかり」の続編として、2016年9月に「また、ぽかりぽかり」を制作し、高校の同期会では配布した。
 更に両歌集を総合編集して「ぽかりぽかり2007-2016」を制作した。なお、藤本孝子氏には歌集「春楡のうた」(2007年 砂子書房)がある。
参照記事http://datey.blogspot.com/2016/09/1210.html


2014/07/06

970空を飛ぶ夢を超久しぶりに見た

 昨晩、空中を遊泳する夢を見た。この前に空飛ぶ夢を見たのは、いつだったろうか、かなり久しぶりである。少年、青年の頃はよく見たものであったのに。
 夢のわたしがいるところは、どうやら山川がある村のようである。その山中から、自分の家に戻りたいわたしは、草の繁る野の道を歩いている。

 歩きにくい。ひょいと思いついて、そうだ、空中を飛べばよいのだ。さっそくピョンと飛び上れば、地上10mほどをスイスイと飛びだした。そうそう、こうやって行けばよいのだ。
 おや、深くて広い渓谷があって、その手前に樹林がある。この谷を飛び越すかと、樹林の枝葉の間をくぐりぬけて、渓谷の青い水の流れの上を飛んでいく。

 地上の水や緑、田畑の風景が美しい。
 でも、こういう風景を、どうしてオレが知ってるんだろうかと、ふと疑問が浮かんだ。半分くらいは、これは夢なんだと、自分でも分かっていた感じである。
 そこでわれながら思い出して可笑しいのは、そうか、これはグーグルアースをちょくちょく見ているからなんだと、夢の中の自分が納得したことであった。
 大人になっても夢で空中を飛ぶことができるのは、グーグルのおかげであるのか、苦笑、、。 

 渓谷を飛び越えたところで、地上の道に降りると、目の前に廃屋があり、このあたりから集落である。
 ここの空中を飛ぶと、家の中を覗くことができて、面白いかな、いや、騒ぎなるからやめとこう、なんて、夢なのに妙に分別が働いた。

 ここからは地上を歩く。夢を思い出しても、現実のわたしは知らない集落風景なのだが、夢の中のわたしは何度も歩いた道で、その先がどこにいくのかわかっている。
 そこから先の夢は支離滅裂になって、突然に親戚に家に泊まっていることになって、その家に戻って、自分の荷物のリュックサックをもって出ようとするのだが、もう、うまく思い出せない。

 空飛ぶ夢は、だれでも少年時には見るらしい。わたしもそうだった。しょっちゅう見ていた。
 わたしの生家は、盆地を囲む丘の中腹にある神社であった。街の道のそばにある鳥居をくぐって石段の参道を20mほど登ると境内の広場になって、その一角にある家だった。社殿はそこからまた鳥居をくぐって、10mほど石段を登った広場に建っていた。

 わたしの空飛ぶ夢は、家の前の参道の石段の一番上から、水平に空中に飛び出すのだ。
 そのまま飛行して鳥居の上を越して、竹藪を下に見ながら街の上に出て、連なる瓦屋根の上を自在に飛び回る。
 夢の中の街の空中からの風景は、生家のある丘の中腹から、いつも俯瞰している風景であるから、グーグルアースがなくてもよく分っていたのだ。


参照:高梁盆地
 

2014/06/02

930気象台ができてから急に暑くなった故郷の盆地

 昨日(2014年6月1日)のNHKニュース岡山県版にこうある。
「1日の岡山県は高気圧に覆われてよく晴れ、厳しい暑さとなりました。このうち高梁市は日中の最高気温が35度1分とことし県内で初めて猛暑日となりました。また6月1日に猛暑日となるのは県内の観測史上、最も早いと言うことです。」

 と言うこと、だそうですが、誰が言ってるんでしょうかね、気象台ですかね。
 近ごろは異常気象が多いけど、気象台は対策をとらないのか、なにをしているか?
 気象台ってのは国土交通省の機関だそうだから、これはやっぱり安倍内閣が無策なのがいけないっ。

 上のニュースに出てくる高梁とは、実はわたしが少年時代を過ごした生まれ故郷である。
 一昨年だったか、日本一暑い街って全国ニュースに出たことがある。今年はもう、県内で最初の猛暑日を迎える「栄誉」に輝いたらしい。
 関東では熊谷とか高崎とか甲府などの、内陸部盆地地形の街が猛暑としてしょっちゅうあがっていたから、高梁盆地も例外ではない地形だ。
 思い出したが、20年以上前、高崎で40度という気温の日の記憶がある。燃えるような暑さだけが高崎の記憶である。

 そうなると居直って「アツイぜ!高梁市」とかって、キャッチフレーズで売り出そうとしているとか。
http://www.city.takahashi.okayama.jp/soshiki/2/atsuizetakahashi.html
 でもなあ、「暑いぜ」なんて関東方言のような気取った言い方が、なんだかおかしいよなあ。
 高梁弁ならば「あちーがあ!たかはしゃあ」でしょ。え、これじゃあ読んでもわからんか。

 それにしても、わたしの少年時代には、自分の住む街が日本一暑いなんてニュースを聞いたことがない。どうしてなのかと、故郷にいる旧友に尋ねたら、思いがけない答えが返ってきた。
 高梁が暑いというニュースが多くなったのは、高梁盆地の中に気象台の観測所ができてからのことだというのである。いつできたか聞きのがしたが、そう遠くない前だろう。
 そうか、急に暑くなるはずがないと思っていたが、気温を計るようになったので、他の地域と比べて暑いことが分かった、というわけだ。

 気温が高いから暑いのではなくて、暑いから計ってみたら気温が高いのだが、感覚というものはおかしなもので、気温が高いから暑いのだと思う。
 気象台の発表する今日の天気の気温を、予想や結果よりも2、3度低く発表し、日本全国にある温度計を2、3度低く表示するよう改造したら、どうだろうか。そうすれば、ちょっとは涼しいと思いこむかもしれない。簡単な避暑方法である。
 

2014/05/19

926・霧の海に浮かぶ故郷の古城が天空の城とて急に評判とか

 小さな盆地の城下町で、わたしは生まれ育った。四周を囲む山稜の鍋底の街に、江戸時代から今に至るまで、1万人ほどが暮らしている。岡山県の高梁盆地である。
 城下町の景観が今に伝わり、盆地北端の山上には古城があって、昔からそれなりにマニアの観光地となっている。ところが最近、急に観光客が増えてきたと、故郷の旧友からの便りである。

 その故郷の山上の古城が、盆地を埋める深い霧の海のうえに、その姿をぽっかりと浮かべてみせる幻想的な風景が、今、評判になっているそうだ。

 城郭建築を愛でる旅は珍しくないが、ただ、古城があればよいのではなくて、その古城をめぐる個性的な風景をめでるようになったらしい。
 雲海に浮かぶ城址と言えば、朝来市にある竹田城である。天守は失われているが、壮麗な石垣が有名である。その竹田城と並ぶ天空の城ともてはやされているらしい。

 わたしが少年時代を過ごしたその街は、朝起きるとあたりはすっぽりと深い霧に埋もれてしまっている日が、しょっちゅうあったような記憶がある。
 そのような日は、旅人は今日は雨が降るかなと思うのだが、霧の底に暮らす者は、霧が深ければ深いほど今日はしっかり晴れるぞと思うのである。そして10時頃から急に霧は消え去って、抜けるような晴天が盆地の蓋となって現れる。あの敗戦の日も、そうであった。

  お城山(正しくは臥牛山というが地元では誰もそう言わない)には、多分、故郷で過ごした少年時代に100回は登ったような気がする。そこから盆地をめぐる丘陵の稜線を歩いて回ったことも何度もある。
 だが実はわたしは、その備中松山城が雲海に浮かぶ姿を見たことはない。
 雲海に浮かぶ天守が幻想的風景であるとは聞いてはいたが、それを観るには時期、時刻、場所がかなり限られるから、わざわざその気にはならなかった。
 地元に住んでいればいつでも見られるさということもあったかもしれない。そして見ないままに故郷を離れた。

 故郷の旧友からの便りには、天空の城を観る術が書いてある。
「高梁では3月初旬~4月初旬、2~3日前に雨が降った後で前日との最低気温と最高気温の差が大きく、当日、晴天・風が弱い日の7時30分~8時30分の間です。
 場所は楢井から大松山へ向けての山道に天空の城展望台があります。

 条件が揃っていてもシャッターチャンスに遭遇するにはキャンプを張るぐらいの気持ちで一か月ぐらい臨戦態勢で撮影場所へ通う気構えが必要と思います。朝起きて、家から山を見て霧が出ているからと走って行っても遅いのです。
 高梁へ帰られることがあれば展望台から城を眺めるのは何時でも案内をします。」

 いまでは雲海の天守を遠くから眺める展望台ができているらしい。山城の周りの森は切り払われて、その姿を遠くからも見える。もちろん雲海のない時にも眺められるから、多くの観光客が山上にやってくるのだろう。
 わたしが少年時代に遊んだ山城は森の中にあって、滅亡した歴史上の城主たちの怨念が見えたものだが、今はあっけらかんと明るい城である。それはそれでよい。


参照:故郷の風景


2013/06/14

793どうもピンとこないが日本は暑くなっているらしく先日は故郷の高梁が日本第2位になったとか

 ここ横浜はふつうに初夏であるのに、どうもおかしい。どうもピンとこないのだが、日本がもう猛暑になっているらしい。
 NHKnewsWEB 2013/06/12にこんなことが載っている。

日中の最高気温は、▽新潟県上越市で35度9分、▽岡山県高梁市で35度6分、▽兵庫県豊岡市で35度1分と、いずれもことし初めての猛暑日になりました。また、▽松江市では34度4分と、6月としては統計を取り始めてから最も高くなったほか、▽秋田県大館市で32度1分、▽北海道北部の名寄市で31度8分などと、広い範囲で30度以上の真夏日となりました。

 おお、高梁市とはわたしの生れ故郷である。
 惜しい、あと4分で日本一だったのに、へえ~、故郷はそういうことを誇る地位?になっているのか。

 関東に住んでいると、日本一は熊谷市とばかり聞いていて、内陸地の盆地が暑くなるんだとおもっていたが、そうか故郷も内陸盆地であった。
 居直って暑さで町おこししているらしい熊谷が暑いのは、新潟・群馬県境の三国山脈から乾いた熱い風が入ってくる地点にあるからだそうだ。

 ということは、高梁も中国山地から同じ現象が起きているのだろう。盆地の底に熱い風が吹き寄せられて溜まっているのだろうか。
 日本各地暑さランキングを見ると、なかなかすごいものである。故郷ももっと頑張って日本一になってほしい??。
 ということで、ふるさとのみなさま、早々と暑中お見舞い申しあげます。

 
 

2012/11/08

687わが故郷の高梁盆地を訪ねた先輩からエッセイ「がんじい備中高梁に寄る」をいただいた

 大学の先輩のわが敬愛する建築家が、わたしの故郷の高梁盆地を訪ねて、エッセイ「がんじい備中高梁に寄る」を書いて送ってくださいました。
 この著者・松吉利記さん、つまり「がんじい」さんは、わたくしと同じ横浜市内に住んでいらして、松江市が故郷だそうです。
 その松江に法事にいらっしゃるとて、久しぶりに列車で行くから、途中で高梁に寄ってみたいとおっしゃるのです。
  わたくしは大喜びで、あれこれと訪問していただきたいところなどを、地図に書き込んで差し上げたのでした。
 故郷を出てしまったわたくしでも、たまに故郷を訪ねると、やはり内なる眼で見るのですが、いただいたエッセイを読むと、なるほど余所者の眼ではこうなるのかと面白いのです。
 暖かい心のこもった内容とともに、まことに興味ある書きぶりなので、ご了解を得てここに掲載をしました。

●松吉利記氏エッセイ全文がんじい備中高梁に寄る
https://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/ganji
●参考⇒故郷高梁盆地の風景
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#hurusato

2012/07/05

638日本一安全な故郷で生家の大木が切り倒されて老人ホームで第2のお勤めをしている

昨日のこと、故郷にいる同級の友からのメールに、こう書いてある。
「先日、高梁初の有料老人ホーム「さくらの苑」が開所されました。今朝の新聞に記事が載っていて、『各階の大黒柱には御前神社の境内で伐採したメタセコイアを使っている・・・』とありました。」

 わたしの故郷は高梁盆地、そこの御前神社が生家である。鎮守の森にはたくさんの大木がある。大木になりすぎて危険になって切り倒されることもある。
 そんなことをこのブログにも書いた。
 一昨年3月の「大銀杏の死」では、わたしの少年のときに切り倒されたイチョウの木のことを書いた。http://datey.blogspot.com/2010/03/250.html
 昨年10月の「ふるさとの鎮守の森」では、最近に切り倒されたメタセコイヤについて書いた。http://datey.blogspot.jp/2011/10/510.html

 そう、このメタセコイヤのことに違いない。

 「ふるさとの鎮守の森」から一部を引用する。
 高校生だった1955年の夏、少し遠くに住む同級の友人が遊びにきた。
 持ってきたてメタセコイヤの苗木を、境内の石垣の小段に植えた。すくすくと育って30mくらいの大木になっていた。
 青春の記念樹であったが、これも伐られて大きな切り株だけになっていた。大木が風でゆすられて、石垣が危うくなったのだろう。

 そのことを友への返事に書いたら、さっそくそのホームに伝えてくれて、そこからメールが来た。
「『さくらの苑』は、樋口満理事長により開所しました老人ホームで、このたび、御前神社のメタセコイヤをいただき、老人ホーム玄関に設置いたしましたので、別添のとおり写真を送らせていただきます。」

 そうであるか、わが青春のあの記念樹は、わたしが生家を去ってから育ったが、わたしよりも先に真新しい老人ホームに入り、ホールの真ん中にでんと構えて第2のお勤めをしている。うらやましいヤツである。
 そのように生かしてくださった樋口満理事長に、心からお礼を申し上げる。
   ◆◆◆◆
 実は故郷の友からのメタセコイヤメールのきっかけは、わたしが高梁関係の知人たちに送った「高梁は日本一安全な街であるらしい」というこんなメールであった。要約する。

 地震、津波、原発事故、その上に消費税も上がるとて、うっとうしい梅雨ですが、ちょっと故郷のよいところを新発見しました。
 まずこれを見てください。高梁のあたりは地震がないのです。
 日本全国広域 最新30日間の震央分布図 (独立行政法人防災科学技術研究所)
http://www.hinet.bosai.go.jp/hypomap/

 そして今の一番怖い四国沖での南海大地震が起きても、何とか大丈夫のようです。
 中央防災会議資料
http://www.jjjnet.com/image/shindo_nankai.gif

 上の地図だと島根県あたりのほうが安全に見えますが、そこには島根原発があります。島根原発は高梁に一番近い原発ですがそれでもかなり遠い。下記のサイトで島根原発のところの図を見てください。
 全国の原子力発電所の周辺人口(2005年)埼玉大学谷謙二研究室
http://ktgis.net/tohoku_data/genpatsu/

 南海やら東海やら大地震が起きてもなんとかなるだろうし、津波が起きても瀬戸内海から高梁川をさかのぼるには遠すぎるし、島根原発が放射能出してもここまでは来ないだろう、富士山が爆発するらしいけど高梁まで灰が降ってくることはなかろう。
 というわけで、故郷はよいところと分ってはいたけど、こういう意味でよいところと今頃になって知りました。
 これを日本全国に宣伝すると人口が増えるでしょうね。でも相対的によその町を危険と言うのが、ちょっとつらい。

●参照→ふるさと高梁の風景
https://sites.google.com/site/machimorig0/#chusikoku

2012/02/11

582映画で見る故郷

故郷の高梁で、まちづくりの話を一般の人たち相手にしてきた。
 その事前準備のときに思いついて、高梁がでてくる5つの映画のDVDを、ディスク貸屋さんから借りてきて観た。
 映画のスタジオ外撮影場所(業界用語ではロケーションというらしい)として、各地が映画屋(っていうのかしら)に売込みしているのは、その映画の評判で観光客を呼び込もうという算段なのだろう。
 それとも、映画屋が高額な撮影料を払うのだろうか。

「男はつらいよ」シリーズの2つで高梁が登場する。第8作(1971年寅次郎恋歌)と第32作(1983年口笛を吹く寅次郎)である。
 寅次郎の義弟が高梁の石火矢町の旧家の出という設定になっているからだ。
 わたしが少年時代を過ごした町だから、記憶にある風景が出てきて懐かしい。背景となるそれぞれ40年前、30年前の街の風景がどう変わったか、それを見たかったのだ。

 たとえば第8作では蒸気機関車が走るのに、第32作では電化されているとか、現在の街並みでは消えた寅次郎騒動の家などをみる、というような面白さがある。
 映画はフィクションだから、風景をうまく編集していかにもそれらしく使うことはあたりまえだろう。
 だが現地を知っているこちらとしては、その場面のつづきはそういう風景にはならないはずだよと、突っ込みたくなることもある。

 第32作で、寅次郎が住み込んだ寺の跡取り息子の青年が、写真家になりたくて東京へ列車に乗って出奔する。その列車を青年の恋人が、踏切で見送る場面がある。
 ところが東京に行くなら上り列車のはずが、やってきたのは下り列車で、それに青年は乗っているのだ。鳥取県経由で東京行きとは、米子空港から飛んだのかしら。
 このほうが絵になると撮影したのだろうが、見ているこちらはそりゃ違うよって、興がそがれるというか、たぶん映画監督が意図しない哄笑をしたのであった。

 映画「バッテリー」では、岡山県内の高梁や津山などいくつかの街の風景をつきまぜているものだから、もっとわけがわからない。
 高梁のあそこだなあと観ていて、続く場面で、はて高梁であんなところあったしらという風景が、しょっちゅう登場してきて、頭がこんがらかってくる。
 まあ、それを楽しむという見方も、あるにはあるだろう。

 映画「県庁の星」では、高梁の街の中にある小売量販店舗が撮影場所であった。
 しかし、高梁である必然性はまったくない内容で、たまたま撮影に使ったということらしい。
 外の風景といえば、だだっ広い殺風景な駐車場が出るくらいなものである。

 せんだってその駐車場に行ってみたのだが、ここに限らないが、ああいう場所はどうして木を一本も植えないのだろうかと、不思議でならない。
 そのあまりの殺風景さについて、先日の講演の中で写真を映して、ここを森で囲みなさいと言ってしまったくらいである。

2012/02/08

581死に甲斐のある故郷へ

2月5日に故郷の高梁で、高梁盆地へのオマージュ「美しい故郷へ」と題して講演をしてきた。
 少年時代をすごしてよく知っている町だが、その後の半世紀を越える時間をブランクにしている。
個人的な印象きわまる少年時代の想い出の町を、都市計画を職能とする冷徹な目で眺めて話すという、ここでしかできない、今しかできない、そんな稀有な機会であった。
  ◆
 都市計画の仕事で訪ねた町で、いろいろ調査してその街の人に話すのは、客観的であるが他人事に終始する。聞いているほうも醒めているだろう。
 ところが故郷を話すのは、主観と客観の入り混じり具合を、自分でどうコントロールして話すか、これがなかなか難しいが、それだけに実に面白い経験であった。
 故郷にいる友人たちも、わざわざ帰郷してきて聞いてくれた旧友たちも、昔話のような、でも故郷の先々を語っているような、そんな気持ちで聞いてくれたようだ。
  ◆
 あらためて故郷の町を都市計画の目で調べて、新発見、再発見したことがあった。
 盆地の北半分が藩政時代に築いた市街地で、南半分は田んぼであったところを太平洋戦争後に市街化したのである。
 つまり北半分は19世紀前半までにでき、南半分は20世紀後半以降にできたのである。この二つが合わさって高梁盆地の生活圏を構成している。
 ところが、その戦後市街地のあまりに都市計画のないこと、その反対に藩政時代の市街地の都市計画のあまりにありすぎること、その対照に驚いたのであった。
 それでもすごいことは、高梁盆地は、今まちづくりの最先端を行く見事なコンパクトタウンなのである。そう、一周遅れのトップランナーである。
  ◆
 もうひとつ驚いたのは、その盆地人口が藩政時代から現代まで約1万人ほどで、ほぼ変わらないで来ていることである。これをどう考えるか。
 もっとも、人口の数は変わらなくても、人口の年齢構成は大きく異なっている。いわゆるピラミッド型(若いほど人口が多い)であったのが、今は大きく肩幅を広げて下がすぼまった高齢者が多くて若くなるほど少ない形になっている。
 ところが、まるでバレリーナのスカートか腰のフラフープ(昔流行した)のごとくに、18歳から25歳のあたりだけが突出して人口が多いのである。大学生がいるからだ。
 さて、そのスカート層が、これからもいてくれる町を維持することができるか、勝負の時が来ているだろう。
  ◆ 
 人口の推移も面白い現象がある。
 行政区域人口は減少の一方である。今の高梁市の行政区域は、盆地の外の高原地域の町村と大合併して、とんでもない広い範囲となっているのだが、その高原区域の人口が減少するばかりだから当たりまえである。
 その一方で、都市計画区域人口は18000人強でほぼ変わらないできている。2005年には増加している。
 都市計画区域は、市域の中の3つの盆地を対象としているが、要するにそこが昔からの町村のそれぞれの中心なのである。高原地域から盆地へと移動をしているのだろう。
 これからも盆地が受け皿になるか、そこが勝負だろう。
  ◆
 故郷にはもう血のつながりは一人もいなくなった。だが、故郷を愛する幼ななじみの友人たちがいる。その一人が今回の講演の仕掛け人である。
 そして、なんと東京で知り合った岡山にいる都市計画の専門家が、この故郷で仕事をしているのに出会ったのだった。
 縁はつながる。故郷に感謝!。
 講演時間が足りなくていい足りないことばかり残った。
 話の最後は、川端五兵衛さんの言の受け売りで納めた。
「死に甲斐のあるまちに!」

講演会資料
講演会広報リーフレット(pdf 282 KB)
講演会当日配布レジュメ(pdf 872 KB)
講演全文ブックレット「美しい故郷に」 (後日補綴あり)(pdf 4114 KB)
同上ブックレット表紙(pdf 107 KB)
●参照→ふるさと高梁の風景

2012/01/17

572ふたつのアルテシュタット

わたしの故郷の高梁盆地の旧城下町と、ドイツのハイデルベルクのアルテシュタットとが、地形や街並みの構造や規模が実に良く似ていることを発見して驚いたのは、遊びに行った1991年5月のことだった。
 その驚きについては、わたしの「まちもり通信」サイトや雑誌にも記事として載せた。

 しかし、それは印象だけのことであって、面白がってあちこちでの座興の話にはしたが、それ以上に深く調べることもなかった。
 縁あってこの2月9日に故郷で講演をすることになった。1998年にも講演しており、そのときにハイデルベルクの話をした。
 またハイデルベルクの話でもあるまいと思いつつも、それでも少しはイントロダクションとしてその話をするかと、あらためて調べてみた。

 そうしたら、インターネット時代のありがたさで、ハイデルベルク市や高梁市のサイトに入ると、新たにいろいろとわかったことがある。
 google earthなる衛星写真で、世界のどこでも、もちろんハイデルベルクでも高梁でも、空から覗き込めるようになって、これも都市計画を専門とする目で見ると、いろいろ興味深いことを発見したのである。

 そこで「ふたつのアルテシュタット」、つまりオールドタウンを並べて、いろいろと比較して、思いつくことを書いてみた。
 ついつい「ハイデルベルクでは、、」と、出羽の守になってしまうがシャクだが、故郷のまちづくりの話の種にはなるだろう。

●参照→ふたつのアルテシュタット(1)コンパクトタウン
http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/taka-heider-altestadt
●参照→ふたつのアルテシュタット(2)街と道
http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/taka-heider-altestadt2
●参照→高梁論集一覧
http://homepage2.nifty.com/datey/index3.htm#takahasi

2012/01/04

565高梁:盆地の山並み風景

●山あての風景
  盆地は周りが山だから、街に中のどこからも山が見える。外の通りからでも家の庭からでも、向こうに必ず緑の山があり、それが背景となって風景を作っている。

 高梁盆地にJR伯備線で高梁川をさかのぼって南から入ると、向こうに見えるのが臥牛山である。ああ、高梁だとこれではっきりと認識する。それは舟で海に出ている漁師が、自分の港に戻るときに陸にある山を目印にする「山あて」とおなじである。

 高梁に暮らして毎日見ていると何ということもないだろう。だが、久しぶりに故郷を訪ねて、駅前から稲荷山が、駅の向こうにお城山が、街の通りの向こうに高倉山が、小路の向こうに八幡山が、方谷橋のアーチの向こうに方谷林が、その反対からは御前神社のある秋葉山が、それぞれに特徴を持って見える。どれもこれもなるほどなるほどと、独りでうなづきたくなる。

 だからわたしはハイデルベルクで、同じような山あて風景に出会って、懐かしい風景であることを再認識したのであった。 もちろんそれだけではなく、方谷林から見下ろすように、ハイデルベルクの哲学の道から見下ろし、あまりの類似に驚いたのだ。

●つづきの全文は→高梁:盆地の山並み風景
http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/takahasi-yamanami

●関連→ふるさと高梁論集やあれこれ
http://homepage2.nifty.com/datey/index3.htm#takahasi

2011/12/16

553故郷の高梁で講演(予定)

  生まれ故郷の高梁で講演をすることになった(2012年2月5日午後 高梁市文化交流館)。

 20年ほど前にもあったのだが、故郷で話すには独特の心構えがいる。
 これまで仕事関係であちこちで話したが、住んだこともないところだと、いくら調査しても一般論となりやすいし、また、その街のことはある面では勝手なことが言える。
 その一方、聞いている住民たちには、よそ者の無責任な発言と思っているだろう。
 故郷で講演するとなると、今はよそ者だが、少年時代をすごして街も人もそれなりに知っているから、そのことを踏まえる必要があるので、これまでとはちょっと違うのである。
故郷では仕事がらみではなくて、出身者としてなにか話せとのことである。
 まちづくり関係の話になるとしても、「まちづくりとは!」と大上段に話す必要もないし、それでは話すほうも聞くほうも面白くもない。

 どんな話をしようかと考えているうちに、わたしの少年時代の高梁の街と今のそれとを比べると、まちづくりの現代的諸課題がおのずから立ち上がってくるのが、われながら面白いと気がついた。
 少年時代の風景を頭に描きつつ、久しぶりに故郷の町を歩くと、変化していないところも多いが、当然ながら変化しているところのほうが多い。

 わたしの生家の神社はほとんど変わっていないのだが、その境内敷地や山林のすぐ外まわりでは変化が著しい。
裏山のそのまた裏の山林だったところには、大運動公園ができている。
 畑や藪だったところには、戸建や共同の住宅が立ち並んでいる。丘の中腹にある境内から街を俯瞰することがわたしの楽しみだったが、いまはそれらにさえぎられて見えにくい。
 参道下の車は行き止まりだった道の先は、立派な道路ができて通り抜けできるようなった。

 だが、そんな風景も、見ているそのとき限りで、列車に乗って故郷を離れるともう、わたしの頭の中は昔の少年時代の風景に戻っているのが、おかしい。

 そのギャップをどう解釈するか、昔の風景を単に懐かしがるのではなく、まちづくりとしての展開にそれをどう考えていけばよいのか、そのあたりに新たな考え方がありそうだと、故郷でなければできない都市論があるかもしれないと、われながら楽しみにしている。
●高梁論集はこちら
https://sites.google.com/site/machimorig0/#chusikoku

2011/12/11

551ふたつの美観地区

ふるさと高梁の紺屋川美観地区で、クリスマスイルミネーションをやっているという。
 紺屋川沿いは美観地区と名づけているが、美観地区といえば元祖は倉敷である。倉敷まで電車で30分ほどの高梁だが、どうも倉敷のほうが有名であるのは仕方がない。
 ちょっと二つの美観地区を比べて見てみよう。

 どちらもそれなりに個性的であるが、大きな違いは倉敷の美観地区は徹頭徹尾観光地区になっていることで、高梁は観光もあるが基本的には生活の町である。
 この違いはどちらが良いとか悪いとか言うのではない。立地がそうさせたのだろうが、観光写真にしやすいのは倉敷である。


 わたしの好みから言うと倉敷美観地区は、あまりにも川柳といい土蔵の町並みといい、どうも絵になりすぎる風景で、その統一感がいささか気持ちが悪い。
 それでもナマコ壁土蔵ばかりのなかに、昔の町役場の擬洋風建築と大原美術館の洋式建築が顔を出していて、ちょっとは救われる。街は程よい程度のざわめきのある風景がよい。

 ここへは少年の頃から大原美術館を訪ねて何回も行ったことがあるので、昔の姿も覚えている。もちろん今ほどになまこ壁の町並みはそろっていなかったし、土産物屋もなかった。
 高梁美観地区にもなまこ壁の蔵が、紺屋川下流の老松橋南の高梁川との出会うあたりにある。かつて高梁川が水運の道であった時代に活躍した建物だから、倉敷の蔵と機能的には同じだろう。歴史を思わせるとはこのような風景だ。

 ついでに言うが、その蔵の前の道の向かいにある紺屋川の堤防立ち上がりに、ペンキでなまこ壁を描いている。それが今はハゲてきて美しくないのだが、はげてなくてももともとペンキ塗りが奇妙であった。本物にしてはどうか。でなければ真っ白ペンキのほうが良い。

 倉敷が今に至るような歴史的町並み風景を作り上げていったのには、バックには倉敷の財閥の大原家がいただろうが、それなりの先進的な努力があった。
 なかでも美観地区の周辺に高い建物を建てさせないようにする背景条例の制定は、1970年代という実に先進的な施策であった。ただ、これほど観光商業的な風景を予想していたのだろうか。

 高梁も1970年代から倉敷に追随するように、紺屋川美観地区や石火矢町ふるさと村などの歴史的環境整備に力を入れだしたのであった。
 倉敷の美観地区の風景の特徴は、倉敷川の水面に写る柳や家並みの情緒がある。
 しかし、高梁の紺屋川はいつもはほとんど水が流れていない。だから、川底に散歩道を作っていて、いくつもの小さな橋をくぐっていくことができるのが面白い。

全文は→ふたつの美観地区(紺屋川:ふるさとの川その3)

2011/12/06

545生活景と造園景-故郷の谷川の公園

●谷川に出現した滝石組
 狭い谷川に沿た道をだらだらと登っている。両側の山の森と谷川の間には、雑木林や狭い畑と農作業小屋があったりして、日本の原風景の趣もあって楽しい。どうってこともないのだが懐かしい風景である。
 と、こ谷の向こう岸に突然、にょっきりと巨大なとがった屹立する2本の巨岩が顔を立っている。
 ふむ、支流の谷かと見れば谷はなし、岩がすっくと直立しすぎているし、周りには似たような石はまったくないし、どうも不自然に見える。
 巨岩の間によく見るとその2本の間には石垣が積んであって、水が流れ落ちているのがみえる。下のほうにも巨岩がいくつか転んでいて、滝つぼのようなものを作っている。
 自然でこううまくは並ぶまい。そうか、これは日本庭園によくある滝石組らしい。2段の竜門瀑かしら、そう思ってみると、下のほうに滝を登る鯉を模した鯉石のようなものもある。これは造園工事だな。
 でも、ここは日本庭園でもなし、どうしてだろう。

●続きと全文は「生活景と造園景-故郷の谷川の公園
http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/seikatukei-zouenkei

2011/11/09

526【ふるさと高梁盆地】昔よりも短くなった方谷橋

 高梁盆地の高梁川には、現在は2本の橋が架かって、東西の町を結んでいる。
 下流側の「高梁大橋」は1972年に架けた、現代のありふれた鋼製の桁橋である。
上流側の「方谷橋」は、上に鉄骨アーチをもっていて特徴ある形態だ。これは1934年の水害の後、1937年に架けている。
 上のアーチから、下の路盤面を支える直線の鉄骨主桁を吊っている形式である。
 でもよく見ると、路盤側の主桁もかなり立派なものだから、アーチと直線の桁とでつくる半月形の構造体で、これをランガー形式というらしい。



 土木学会のサイトで図面を見ると、半月の弦の長さは56メートルである。
 アーチの両端部を、それぞれ橋脚が支えている。それに加えて路盤を支える主桁が、アーチの両端から4.4メートルはねだし形式(カンチレバー)でもちだして、それは皿という字の上を丸く描いた形である。土木の専門語で「下路カンチレバー状ランガー」形式というそうだ。
 その皿の下の一文字の先に別の桁が架かっていて、両岸と結んでいる。橋の総長さは99.9メートルだが、竣工時の図面では110.7メートルとなっている。


 
 方谷橋が竣工したときの1937年に写した記念写真がある。今の方谷橋と比べて見る。
 大きな違いはふたつある。ひとつはアーチの先の東側の桁が西側のそれと比べて、10メートルほど短くなっていることだ。
 橋の主桁についている工事銘盤に1972年3月とあるから、このときに東側の桁を短縮左右のバランスが崩れた。

 ということは、その年に川の東岸にある国道を10mほど拡幅したことになる。その拡幅分の川幅が狭くなるから、それまでどおりに流水量を確保するためには堤防を高くする必要があったのだろう。
 いまでは堤防の道からの立ち上がりが2メートルくらいは高くなって、 街から川は見えなくなってしまっている。昔はそれが1メートルくらいだった。
 川岸の国道は広く、堤防は高く、川と街は切り離されたようだ。

 もうひとつの違いは、かつてあったおしゃれな高欄親柱が、今はなくなっていることである。橋には欄干などで構成する高欄がどこでもある。その一番端っこには大きな柱を立てるが、これ親柱という。親柱は橋の玄関の門のような役割をする。
  関東大震災の後で多くの鉄の橋がかけられ、そこには都市の風景としてのデザインが加えられるようになってきた。
 方谷橋ができるころは、日本の橋のデザインもセンスがよくなってきたが、その片鱗を方谷橋でも見ることができる。

 ここでは当時の流行のひとつである表現派風の曲線が見えていて、アーチの曲線と共におしゃれなモダン風景である。
 それは両岸側共にあったのだが、今はどちらにもない。いつ頃なくなったのであろうか。無愛想なコンクリの塊に橋名板があるだけだ。
 高いコンクリ塀となった堤防を土塀コピーするのも、まあ、よろしいが、国道拡幅でなくした親柱を復元してはいかがか。

●全文は→ふるさとの川と橋
●関連→高梁の風景論集