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2020/01/31

1440【フェイクバカ2020年1月狐乱夢】寿町、ゴーン、渋谷、震災、入試、バウハウス、コロナV、津波、バカ総理

1月3日【初徘徊は寿町】
 2020新年初徘徊は、その名もめでたい寿町、46年も続く越年炊き出し、そして直ぐ近くの元町と中華街の超賑わい、豊かな日本列島正月風景。

伊達の眼鏡ブログ新記事:横浜関外関内ヨタヨタブラブラ初徘徊

https://datey.blogspot.com/2020/01/1437.html

1月5日【トランプがイラン高官暗殺】
 キリスト教会で殺人を自慢する大統領!、それを神の福音と聞いてか祝福支持する福音派教徒たち!、日本でも中国で似たことやって暴支膺懲なんて日中戦争に、、コワいなあ。



1月5日【元ニッサン会長ゴーン氏日本脱走】
 Ghosn Has Gone  Ghosn With The Wind!


1月9日【渋谷駅ゴチャゴチャ再開発】
 東京の渋谷駅の電車乗換巨大立体迷路、もう何年も行くたびに変化して、よくまあ作るものだとホトホト感心。
 この正月から地下鉄銀座線渋谷駅が、百貨店ビルの中から明治通りの上空に移転、「スクランブルスクエア」なる新築ビルが立体乗り換え通路に整備されたとか。これで立体迷路もついに解消かと思ったら、ますます迷路性充実で混雑混乱ゴッチャゴチャ度は増すばかり。
 ところがこの立体迷路開発者はよく分っていて、新ビル名「Scramble Square」、日本語だと「ゴッチャゴチャの自乗」。
 うまいネーミングだなあ「ゴチャゴチャ×ゴチャゴチャ」とはねえ、そう、建築デザインはゴッチャゴチャ、歩行者動線もゴッチャゴチャだもんね。


1月10日【怪しいハイテク:PC】
今月からWIN7の面倒見をもう止めるぞ、新品PCを買えと、真っ黒粗太から脅迫が来た。アコギなIT屋である。
 フン、それならうちの机上でVUやったろうぜ。で、うちのPC君はなんと開始から約6時間半もかけて、7から10へと3段飛び昇級試験に、見事に合格したのである。
 思えば、わたしが使ったPCのOS歴をたどると、1988年のMacintoshから始めて、windows95、98、ME、CE、XP、7、10とやってきたことになる。まったくよく買い替えさせられたものよ。コンチクショウメ!
●伊達の眼鏡新記事:うちのPCWIN7が3段飛級試験合格WIN10に
https://datey.blogspot.com/2020/01/1438.html


1月11日【渋谷毒虫デザイン再開発】
まだ行ってないけど、無気味で怖くて行く気がしないなあ、毒虫デザイン




1月17日【阪神淡路大震災四半世紀】
今日は1月17日、阪神淡路大震災からもう四半世紀か、3月になってようやく訪れることができた神戸、歩いて歩いて歩いて、その光景を凝視し記録し続けた。写真はその時の数枚。その後も何回も訪れたが、何も支援できず。
 それから9年半後2004年秋に中越大震災発生、今度はNPO仲間と継続的に訪れて、被災山村でささやかながら復興手伝いをした。
 そして2011年春、東日本大震災ではなすすべもなく、ネパールに逃げたが、その4年後ネパール大震災、もう逃げる先はあの世しかない。



1月19日1月【入試落ちた】
 今日の新聞はいやに厚い、見れば共通の大学入試問題が何ページにもわたって載っている、関係ないから無駄、新聞代がもったいない、でも、せっかくだから1問くらいはやってみるか、暇つぶしに。
 で、原民喜をとり上げた国語問題をやって、解答と比べて、ありゃそうなの~?、う~ん、こりゃ落第だ、や~めたっ。
 でもなあ、なんでそれが正解なんだろ、わからん、??、問題作った人の考えを聞いてみたい。

1月22日【バウハウス100年】
 近所の映画館で、「バウハウス100年映画祭」シリーズのC「、『ファグス ― グロピウスと近代建築の胎動』」を見た。https://trenova.jp/bauhaus/ 
 『ミース・オン・シーン』では、実物を見てないが、映画で見たバルセロナパヴィリオンはすごい。これまで実物を観たミースの作品は、シーグラムビル、ベルリン国立美術館・新ギャラリー、IITクラウンホール。
 対する『ファグス ― グロピウスと近代建築の胎動』のファグス工場は、時代相を考えないで観ると駄作だね。まあバウハウス校舎もそうだけど。
 そういえば、私はグロピウスの孫弟子になるのだな、それにしてはグロピウス作品については、ニューヨークでパンナムビルを遠望したくらいなものだから、孫弟子は取り消し。作品がもともと少ないし、建築家よりも教育者だものね。
 「「バウハウス 原形と神話」では、戦間期に大きく輝いたこのバウハウスというアート運動にも、実はナチス協力の陰影もあったらしいことが、、。
・伊達の眼鏡ブログ記事:【バウハウス100年映画祭】ミースとグロピウスそして山口文象たち世代の戦争責任は
https://datey.blogspot.com/2020/01/1439.html


1月24日【新型コロナヴィールス武漢三鎮攻略作戦】
 中国の武漢がいま総攻撃を受けているそうだ。攻撃しているのは新型兵器を持つコロナウィルス軍。
 武漢攻撃と聞けばすぐ連想するは、あの有名な「武漢三鎮攻略作戦」、あの時は日本軍から総攻撃を受けたよなあ、
 え、知らない?、そうかなあ、まあ、昔々の1938年のことだからなあ、もっとも私だって直接は知らないよ、日中戦争を少し勉強したから知っているけどね、このあたりから日中泥沼戦争に入っていった。その泥沼の中に若妻と赤ん坊を残して入っていった父もいた。
 そして今、武漢市は都市封鎖作戦で防御戦中とか、どうか頑張ってください。あの時は陥落はしたけれど、結局は最後は追い出したのですから。

1月25日【確率ってこういうことかしら?】
 今後30年のうちに高さ3mの津波が、海岸に押し寄せる確率が26パーセントって、どういう意味ですか?
 確率ほぼ4分の1というのだから、4年に1回は3m以上の津波が来るってことか?、これまでそんなに津波来てないよな、南海虎が急に心変わりしたのか、けっこう怖いなあ。

1月25日【地域再生は選挙で:河合某議員に自民党が1.5億円交付】
 いいなあ広島の人たちは~、去年の春夏たった4か月間に、ドサッと1億5千万円+千五百万円も、自民党から地域に投資があったんだあ、選挙で広島は活性化したんだろうなあ~。
 それにしても選挙って、そんなに投資するんだから、当然のことに儲かるんですね、だったら地域再生政策として、毎年国会議員選挙をやりましょう~。
 次はぜひ、うちのあたりでどなたか、自民党から立候補して、短期に2億でも3億でも、地元にお金落としてくださいな。

1月29日【内閣総理大臣の資質】
 衆院予算委員会でこんなやり取りをしたと、動画がネットに流れていて、見れば確かにこう言っている。
 宮本議員「幅広く募集をしているということは、いつからご存じだったんですか」
 安倍首相「私はですね、幅広く募っているという認識でございました。募集してるという認識ではなかったものです」
 可笑しいなア、国会ってそういうところなんだあ、。
 こういうやり取りは、どこまで本気なのだろうか。 安倍さんが本当に「募る」と「募集」とは違う意味だと思っていたので、バカと嗤われるとは全く思うことなく、堂々とこう回答したのだろうか。
 それとも、嗤われると知りながら委員会の質疑応答時間を浪費して野党の追及を逃れる戦術で、わざとバカを装ったのか。
 どっちにしても、一国の宰相が急性もしくは若年性認知症でないことを願うばかり、もちろん真正バカでないことも。

1月29日【新型コロナヴィールス肺炎流行と老人】
 ただいま世の中は、新型コロナヴィールスによる新型風邪が大流行開始の危機にあり、用もないのに出歩くと犯罪扱いの模様、さて、ずっとうちで寝てるのは楽でいいけど、年寄りは足腰が弱って、そのまま寝たきり老人になる虞れ十分、ここは、いっそのこと出かけて積極的に感染、コロリと逝けば楽なのにと思えど、死亡率は中途半端だしなあ、うちにいても困る、出かけても困る、どうしたもんだかねえ。

2019/06/18

1405【1950年代モダニズム建築の再生】2:横浜の紅葉ヶ丘の今昔と神奈川県立図書館・音楽堂


【1950年代モダニズム建築の再生】(1)からつづき

 今年5月に鎌倉の八幡宮境内にあった神奈川県立近代美術館が閉館して、建築は復元的再生して別のミュージアムに生れ変った感想を、このブログの前の記事として書いた。続いて同じくこの春に復元的再生をした県立音楽堂について感想を書く。
 県立美術館は1951年開館、音楽堂は県立図書館と合せて1954年に開館、どちらもオーナーは当時の神奈川県知事内山岩太郎である。内山は会館知事と言われた程に沢山の開館を県内に建て、今でいうところの箱モノ行政をやって、あの貧乏な時代に人々の文化への希求をうまくとらえたともいえる。

紅葉ヶ丘の文化施設群
●驚くべき紅葉ヶ丘の景観変化

 鎌倉八幡宮で美術館を見てきた眼で、横浜市中区の紅葉ヶ丘に立って県立音楽堂を見ると、その景観のあまりに奇妙さに、音楽堂を可哀そうに思ってしまった。

左に県立音楽堂、正面は高層共同住宅群とMM21超高層建築群
左端に音楽堂、右上は青少年センター
音楽堂ができた頃はこのむこうには空だけだったはず
今ではそれなりに見慣れたが、それでも昔の景観を思いだすと戸惑う気分になるのは、ここは髙い丘の上なのに、丘の下に建つ超高層ビルから見下ろされているからである。
紅葉ヶ丘の音楽堂前の駐車場広場の標高は約25mの高台だが、その東側の丘の下は海を埋め立てて造った標高4m程の平らな街がひろがり、そこに建つ超高層建築群が丘よりも高くそびえているのである。

 紅葉ヶ丘の景観の主役であった音楽堂・図書館そして青少年センターは、その座をひきずりおろされてしまっているのである。
 かつて東に大きく開かれて広場は、妙にデコボコスカイラインと色とりどり建築ファサードに取り囲まれた。たぶん今後も増加して変化していくだろう。
 それはひとりの建築家がつくりあげた紅葉ヶ丘上の建築群のまとまりある景観に対峙して、何ともまとまらない景観を投げかける。
 この景観の大変化の中で、建築保全とはいったい何だろうかと、鎌倉の旧美術館と比較するとあまりの違いに、都市景観と建築について大いに考えさせられるのである。
  
紅葉ヶ丘を見下ろす丘の下の超高層建築群
紅葉ヶ丘は、横浜が開港した19世紀中ごろ、幕府はここに奉行所を設置して、横浜の街を管理した官庁街だった。戦後は県公舎用地となり、知事公舎と職員住宅が建っていた。その知事公舎跡地に1954年に立てたのが図書館と音楽堂だった。
 その頃は丘の上から東の横浜港を俯瞰すると、目の下には横浜造船所のクレーンやドックのある工場が広がり、その向こうに東京湾を出入りする船が見えていた。
 それが20世紀末になると造船所は引っ越し、海を埋立てて土地を作り、「みなとみらい21」プロジェクトの新市街形成が進んだ。横浜で最激変の地である。
1988年丘の下の造船所跡地等埋立大変化中
わたしは20年も前だったか、久しぶりに音楽堂にやってきた時に、ランドマークタワーが音楽堂にのしかかっているのに遭遇し、文字通りにビックリ仰天したものだった。えっ、こんなに近くてこんなに髙いのかと、ただ見上げるばかり。
 そのときは紅葉ヶ丘の景観に割り込んでいたのは、ランドマークタワー一本だけだったが、その唐突さに不思議な思いだったが、その後にまとまりなくあれこれと景観は乱れて行った。
 今では音楽堂のすぐ下の斜面地にあった、中層の花咲団地が建てなおされて高層建築共同住宅群になり、いまや海も見えないどころか、丘の上から見晴らす風景が消滅してしまった。

●“黒沢天国”の紅葉ヶ丘

 それを嘆くことではないが、あまりの景観変化に今でもまだ戸惑いがある。横浜だけではあるまいが、海や川沿いの低湿地と丘の上の高燥な土地との間には、自ずからそれぞれの品格の上下差があって、もちろん丘上が格が上で低地を見下ろしている。
 そこで思い出すのが、黒沢明監督映画「天国と地獄」(1967年)であり、その天国とは丘の上の住宅、地獄とは低地のスラム街であり、横浜がモデルになっている。あの凶悪犯は低地から丘の上を見上げて、そこにいる富裕層への劣等感をつのらせる。
 ところが紅葉ヶ丘は、見事に低地から見下されていて、なんだか逆転している感があるのだ。この現象は実に現代的で、興味深い。
映画「天国と地獄」の天国と地獄の風景
丘の上と下の関係で言うと、市民の利用する文化施設の図書館・音楽堂を、紅葉ヶ丘の上という駅からも街からも遠くて、急な坂を登る不便なところつくったのだろうか。
 たまたま県有地があったからとは言い切れないのは、美術館の例を見ても明らかだし、関内には空き地だらけで県有地もたくさんあったはずだ。

 思うに、昔は(今もか)文化施設は、猥雑な街なかを避けて丘の上とか郊外の緑の中とかに作っていたものだった。文化は高尚だからと思っていた節もある。
 利用する市民の不便さよりも、立地の環境が美しく建物も景観的に見栄えが良いようにつくり、行政トップの政治的見栄としての箱モノ行政だったようだ。今もその傾向があるのは、隣の横浜能楽堂がそうである。

 実は紅葉ヶ丘はわたしの今の住み家から近いので、図書館に調べものでよく訪れるし、趣味の能楽鑑賞で横浜能楽堂にもちょいちょい入る。音楽堂と青少年センターにも、たまによって音楽や演劇鑑賞もする。
 東の桜木町から紅葉坂を歩いて登るアプローチは、なんと高低差約20mもあって、歳とるとなんとも苦しいので、わたしは日ノ出町方面からバスで登るのだ。
桜木町から登る紅葉坂
桜木町方面から路線バス便は無くて、音楽堂のイベントに合わせての特別バスだけである。ぜひとも紅葉坂を登る路線バスを開設してほしい。
 桜木町駅から横浜美術館、MMホール、紅葉ヶ丘の図書館、音楽堂、青少年センター、掃部山の能楽堂、野毛山の横浜市立中央図書館、そして日ノ出町駅へと巡回してはどうですか。
 
●“黒沢地獄”の丘の下

 1950年代半ばに内山知事があちこちで箱モノを目論んでいた頃、鎌倉の美術館は高台ではないが、超一級の立地であることは確かだ。
 では県立図書館・音楽堂はどうかと言えば、まさに丘の上の“天国”立地だが、なぜ人々が利用しやすい横浜都心の関内や関外ではなかったのか。
 この問いに最も直接的な回答は、そのころは横浜の関内関外のほとんどが、敗戦と同時に進駐してきた連合軍の基地として占領されていたので、そこに建てるとは誰も考えようがなかったからだろう。
1954年開館当時の図書館・音楽堂 手前に県の公舎が見える
 図書館・音楽堂が開館した1954年前後の紅葉ヶ丘は、空襲による焼失を免れて、林の中に県の公舎が立ち並び、県知事公舎もあり、まわりも静かな住宅地だった。
いっぽう、丘の下の桜木町から関内・関外にかけての市街地は、空襲によってほとんど焼失した後に、敗戦直後から占領軍に半分以上を接収されて兵舎や軍用機財置き場等の用地になった。
 そこで、接収を免れた桜木町あたりから野毛、日ノ出町、黄金町にかけての大岡川から日ノ出川沿いに人々が移ってきて、戦後の横浜都心になた。つまり紅葉ヶ丘と野毛山の麓が新たな都心になったのだ。

 1950年に朝鮮戦争が始まると横浜港はその兵站基地となり、紅葉ヶ丘下の横浜港も横浜造船所もおおいに活況を呈して、多くの労働者が全国から集ってきた。麓の狭い土地に集る人々で、街は闇市と安宿の密集スラム街となり、街も丘も野宿者たちがあふれ、犯罪が横行していた。黒沢映画の“地獄”はその一部である。
 そして紅葉ヶ丘には、高尚なる文化の殿堂の図書館音楽堂が建った。まさに“天国”である。県都横浜の都心に作りたかったかもしれないが、地獄の街に文化施設はありえなかったのだろう。
1956年の紅葉ヶ丘(黄丸)と横浜都心北部
下中央部に占領軍接収地の兵舎群が見える
2018年の紅葉ヶ丘(黄丸)と横浜都心北部

●音楽堂は昔も今も超一級ホールか?

 それにしてもそのような時代なのに、いやそのような時代だからこそか、図書館・音楽ホールとよく作ったものだ。開館当時から西欧の名演奏家がこの音楽堂にやってきたそうだが、その聴衆は下界の労務者たちではなかったことはたしかだろう。
 もっとも下界のアメリカ軍キャンプでは、ジャズ音楽が響いていたことだろう。
 その頃の、レコードによる西欧クラシックの復活について、個人的な記憶がある。わたしの1954年頃は、住民が1万人程の城下町盆地で高校生だったが、LPレコードでクラシックを聴く会になんどか行った記憶がある。片面30分のレコード盤が出てきた頃で、田舎高校生でもクラシック音楽に憬れていたのだった。

 都会には本物演奏に憬れていた人たちが多くいただろうから、音楽堂への希求が大きかっただろう。実はこの音楽堂でもその頃にはLP鑑賞会があったらしい。
 まだ日本全体が若い時代、図書館だろうが音楽堂だろうが、文化を求めて丘の上に登るのは苦労ではなく喜びだったろう、ホールらしいホールはここしかなかったから。
 そしてこの音楽堂はクラシック音楽ファンに愛されて、竣工直後に改修や増築しているから設計所で不具合があったのだろう。90年代はじめの建替え話も乗り越えて、2008年には耐震工事を経て今回の大改修へと、今日まで生きてきた。

 わたしは音楽ホールの建築的なことも音楽的なことも知らないが、ちょっと思いつくだけでも今や横浜都心部には音楽系大ホールが、ここのほかに4箇所もある。音楽堂よりもはるかに設備は整っているし、便利な立地にある。
 そのような時代を迎えても、はじめの頃と今とはどのように使い方が変っているのか知らないが、この音楽堂は当初からそして今でも素晴らしい音楽の場なのか、復元保全に値する記念的モダニズム建築だろうか。

 ここではモダニズム建築の保全について書こうとしているのだが、まだ建築と言うよりも都市環境の話から抜け出せない。ほかにもここの建築外部環境への対応にいくつものハテナと思うところがある設計で、あの前川國男も初期の初めての公共建築では下手だったなあと思うのである。
 建築再生の話は続きで。
                 (つづく


2019/06/07

1404【50年代モダニズム建築再生】(1)神奈川県立近代美術館が鎌倉鶴岡八幡宮ミュージアムに転生した

●身近な二つの有名建築公営文化施設の再生

 今年(2019年)の春、身近にあって親しんできた文化施設二つのリニューアルオープンに出会う機会があった。どちらも戦後早期にできたモダニズム有名建築である。
 ひとつは鎌倉の鶴岡八幡宮境内にある「神奈川県立近代美術館」であり、もうひとつは横浜中区の紅葉が丘にある「神奈川県立音楽堂」である。この音楽堂は県立図書館と同時にできた連携する施設であるが、図書館リニューアルは後回しで音楽堂が先行してオープンした。

 実はどちらの施設もわたしが親しんできた施設で若干の思いいれがあり、その建築、環境、景観そしてそれが生れた頃の社会的背景について考えさせられたので、感想を書いておくことにした。
リニューアルオープンした鎌倉文華館(旧県立美術館鎌倉館)
リニューアルオープンした県立音楽堂
 近代美術館は、40年ほど前から四半世紀を旧鎌倉の東寄りに住んでいたので、美術館のある鶴岡八幡宮境内はしょっちゅう通りぬけており、参道に出ている美術館の展覧会ポスターを見て、ちょくちょくふらりと入ったものだった。

 音楽堂については、2002年に横浜の関外に移り住んだので、近くの紅葉が丘にある横浜能楽堂には趣味の能楽見物によく行くし、県立図書館にも調べものでちょくちょく行くから、それらの隣にある音楽堂や青少年センターホールでの出し物に触れるようになった。
 もっとも、鎌倉に住む前は横浜の日吉に10年ほど住んでいたので、そのころも何度か音楽堂に来た記憶がある。

 美術館(設計:坂倉順三)が1951年、音楽堂(設計:前川國男)が1954年の創設だから、まだまだ日本全体が貧困きわまっていて、文化施設よりも住宅を食物を求める時代であった。1950年頃から復興への歩みが起きようとして来て、そのような殺伐とした時代だからこそ文化が求められる空気も出てきたのであろう。

 当時の神奈川県知事は内山岩太郎であり、内山のリードで文化施設として美術館、音楽堂、図書館を造ったのだった。それにしても、どちらもモダニズムデザインの旗手たる建築家をコンペで選出したのだから、よくもやったものである。そのころはわたしは中学生だったが、あの頃の新たな時代への社会の意気込みが分るような気がする。

●近代美術テーマの美術館

 内山が鎌倉に県立近代美術館を作ったのは、美術展覧会のできる会場が欲しいと言う市民の要請があったからのようだが、まだまだ苦しい時代でありながら、文化復興への息吹がようやく出てきたということだろう。政治家としてそれをとらえて美術館に結実させたところがさすがである。

 しかし、建てたのが県都の横浜市内ではなかったのは、横浜が戦中の大空襲による戦災ダメージに加えて戦後は都心部が占領軍基地になっていたからであろうし、古都の鎌倉にしたのは、鎌倉は戦災に遭わず各界文化人たちも多かったことにあるだろう。
 しかも八幡宮境内という絶好の立地を得たのだった。つづく県立音楽堂の横浜の立地と比べると、その後の現在までの立地環境や景観の変化のあまりの差異に驚くのである。

 美術界のことは知らないが、このとき「近代美術」というテーマを掲げたのは、この美術館企画に深く携わり館長になった土方定一によるものだろう。近代という言葉の持つ前衛性に戦後の文化復興の進路を見出そうとしたのだろうか。あるいは鎌倉の八幡宮境内には「鎌倉国宝館」が既にあったことが、ジャンル分けを明確にさせたのだろうか。

 日本の近代美術館としては倉敷の「大原美術館」(1930年設立)が戦前から有名である。企業家大原孫三郎によるいわゆる泰西名画のコレクションによる私設美術館である。
大原美術館遠望 2011
近代美術に限ってはいないが、その充実がすごい。
 わたしは少年時代を過ごした街が倉敷に近いのでなんどか行ったことがあり、その展示されている名画の数多くを記憶にある。近年に六本木の国立ギャラリーにそれらの多く名画がやってきて「大原美術館コレクション展」があり、懐かしく思い出しつつルノアールやセザンヌを見たのだった。

 考えてみれば、わたしが倉敷でそれを見た頃は、鎌倉の近代美術館が生れた頃のまさに戦後貧困期であった。そしてそれら美術が中学生の心に深く刻みこまれて、なにほどかは後に建築デザインの世界へと向かわせたかもしれないから、この県立近代美術館も都会の少年たちを文化へと目覚めさせたことだろう。

 ところで、いまでこそ近代美術館を名乗るものは多いが、そのころは日本では皆無だっただろう。そして鎌倉の県立近代美術館は、近代美術を掲げた公立美術館としては日本あるいは戦後で最初であったと書いている資料を散見する。例えば「神奈川県立近代美術館」サイト「日経アーキテクチュア1978年8月7日号」、「鎌倉文華館」サイトであるが、わたしの知見では実はこれは正しくないはずである。

 高松市の栗林公園内にあった「高松近代美術館(山口文象設計、後に高松市立美術館)は、1949年に高松市立の近代美術館として開館している。わたしは1978年に訪ねたことがあるが、鎌倉の近代美術館に負けないモダンデザインだったが、大名庭園の中で異彩をはなっていた。
高松近代美術館 1978
これを近代美術館としたのは、この美術館の企画者だった猪熊弦一郎によるものだろうし、山口文象に設計させたのも猪熊の推薦であったとは、わたしが猪熊から直接に聞いたことがある。
 1988年に閉館して市内の別のところに移転した。建築は今は無いが、設計図面はRIAが保管している。山口は次の年の久が原教会を発表して戦後復帰を果たしたのに、この戦後最初の作品とも言うべき高松近代美術館を発表しないままだったのは、なぜだろうか。

近代美術館は八幡宮ミュージアムに

 ところで、この美術館と音楽堂という二つの文化施設の今回のリニューアルオープンで興味深いのは、施設にも運営にも大きな差異が起きたことだ。音楽堂は県立のままだが、美術館は民営になり中身も変わった。
 鎌倉の美術館は「鎌倉文華館・鶴岡ミュージアム」と名を変えて、鶴岡八幡宮が所有して運営、神奈川県は撤退して県立近代美術館の看板を下ろしてしまった。
県が八幡宮から境内地の一部の土地を賃借していたのだが、その賃貸借契約期限が切れて延長ができなかったのがその理由であるという。八幡宮が跡地利用を考えて土地の返却を求めたらしい。

 もっとも、県立美術館は分館が近くにあって継続するし、葉山にもあるから消滅はしないのだが、今の八幡宮境内立地よりも交通不便であり、わたしは鎌倉別館には数回、葉山館には1回訪れたのみである。
 さて八幡宮はどのようなミュージアムにするであろうか。宗教活動の場なのか、それとも純粋に美術館経営をするのだろうか。先般の見学に行ったときに、施設管理者たちの衣装が白衣と水色袴であったのが、いかにも八幡宮施設となったことを認識させた。
鎌倉文華館の鶴岡八幡宮参道からのメインアプローチ

●建築の復元保全について

 当初は八幡宮としては新しい施設を建てなおすつもりがあったようだが、長年親しまれた池に臨む美しい内外の風景とともに戦後名建築の消滅を惜しんだ市民たちの要望があったようだ。
 八幡宮は市民の要望に対応して、美術館建築の本館部分を残して復元的リニューアル、新館は取り壊し、付属棟は建て直して、新ミュージアムとして再登場させたのである。

 これをどう評価するか。景観保全としては成功だろうが、建築保全としてはどうだろうか。わたしはなんでもかんでも当初に復元保全という保存原理主義には同調できないが、ここではどこまで原理主義的であるのだろうか。
 モダニズムデザインとして印象的な本館は、できるだけ復元設計されたとのことであり、池からの景観は美しく、ピロティからの池の眺めも楽しい。


元の設計のもっとも目立つ真っ白い立面の外壁面は、スレートボードを目地押さえ金物でつなぐといういかにもチープなものであった。これをリニューアルでをどうするのか気になっていて、今どきの設計ならば新館に使ってあったホーロー鉄板を使って目地押さえ金物など使わないだろうと思っていたが、原設計のままにチープさと共にリニューアル復元されていて、それなりに美しくなっていた。
 なおリニューアル設計は丹青社であるが、なぜ坂倉建築事務所ではないのだろうか。

 建築復元としてはともかくだが、最も大きな改変はメインアクセスを八幡宮参道側にしたことだろう。あの大階段が招き入れる機能がほぼ死んでしまったのがもったいない。この大階段を上手に使う展示やイベントがなされることを期待する。
 だが、考えてみると、実質的には入館者のほとんどが参道側から入るだろうから、これが正しくて元の設計が間違っていたといってよいだろうが、なんだか引っ掛かる。
元の正面玄関が裏玄関になった鎌倉文華館
近代美術館だった頃の正面入り口風景 2009年
 県立時代には中庭や外構のあちこちに彫刻作品がおかれていたのが、いまは何もない芝生やペーブになっているのが、何だかさびしい。もとのままに置いておくことはできなかったのか。そのうちに何かがおかれるのだろうか。
かつて県立美術館であった記憶の風景は、建築だけがあればそれでよいのだろうか。わたしの頭には建築と彫刻とが一体になった風景が記憶に刻まれている。
 
●完全消滅した新館

 新館がすっかり取り壊されて、メインアクセスルートの芝生の下に消えた。これは池との関係で悪くない景観ではあるが、新館が影も形もないのが気になる。
左に本館、右に新館があった旧県立近代美術館 2009年
本館と新館の間に池が入り込んでいた 2009年
 新館はいつのころからだったか、建築構造上の問題が起きたとて使用禁止になっていた。それを聞いてわたしが訪ねたのは2009年夏だったが、なるほどあちこちの鉄骨の柱の根元がボロボロに錆びていて、フランジに穴さえ開いていた。
 この鉄骨は耐候性鋼と言われ、錆が被覆となってメンテナンス不要が売り物の新材料だったはずである。わたしも1970年頃にこの鉄骨を使うオフィスビルに関わったが、それは今も健在であるから、ここの鋼材は不良品だったのか。
旧近代美術館時代の新館 右が本館 2009年
コルテン鋼柱の根元の穴空き腐食 2009年
 この増築は最初から予定されていて、開館は1966年だから晩年の坂倉順三(1901-1969)の設計になるそうだ。わたしはこの新館の吹き抜け展示空間を大好きだった。大きな絵を見ることができるし、大ガラス越しの外の池の景色もよかった。
できればこちらも復元してほしかったが、消えたのはどうしてだろうか。そういえば鎌倉文華館の開館記念展示には、本館のことは詳しかったが、新館については全く何もなかったのは、どういうわけだろうか。

 附属棟の跡地の三角屋根展示場も悪くないけれど、復元新館をそれに充てることできなかったのだろうか。せめて、芝生アプローチの中にあのボロボロ鉄骨柱数本を元の位置に建てると野外アートにもなるし、この美術館の変転史を伝えることができるとも思うのだが、記憶に残る建築であっただけに、惜しいことだ。

変わらなかった環境

 さて全体的に見て、これも建築保全としての一つの回答だろうが、建築復元にこだわり過ぎて、どこかつまらないのである。要するに創造的なところがどこにもないのである。
 もちろん元の設計が、小さな建築なのに大きな階段、広い中庭、気持ちよいピロティ、そして何よりも八幡宮境内の環境が素晴らしく、結果は実に良いのだ。森の泉のほとりの宝石箱である

 ただ、これはずっと前から気にくわなかったのだが、あの水と緑の立地環境のなかで、内外相互貫入する建築空間を、一連の連続する空間として体験ができないことである。
 建築に入る段階で入場料を支払う人為的なバリアーがあることで、連続すべき動線が切れてしまうのであるのが、実にもったいない。
 池を巡る道がピロティに連続するようにしてほしい。ピロティや中庭は外扱いにして入場料をとらない、あるいは参道からの敷地入り口で入場料をとればよいのに、と思う。

 創造的なところがあるとすれが、付属棟跡の新展示施設であろうか、あるいは逆説的だが新館の消滅による空間デザインが創造的と言えば言えるだろうが、建築空間としては復元にとらわれているところが、どうも、いじましいのである。
 昔のもとの姿に復元せよと言う、建築保存原理主義者の言い分にに負けたのだろうが、それを一歩踏み出すと新たな創造的空間が生まれるだろうに、惜しいことである。
 最初にコンペで坂倉を起用したように、再生設計コンペにすればよかったかもしれない。これはないものねだりだろうか。いや、坂倉を越えるのは無理か。

 建築的なことはともかくとして、ここでもっともすごいと思うのは、この立地環境がこれが建った1951年からほとんど変化していないということである。後述するが県立音楽堂の立地する横浜紅葉が丘が、都市開発圧力による結果として景観が大変化したことと比べると、こちら鎌倉のほとんど変化しないことに驚く。

 もちろん鎌倉にも開発圧力は高いのだが、都市計画としては八幡宮境内は市街化調整区域であるし、まわりも含めて古都法や景観法などで環境と景観の保全施策があるし、それよりもなにりも市民に環境保全思想が行き渡っていて、開発となるともめごとになるからだろう。
1956年の鶴岡八幡宮あたりの空中写真
2018年の鶴岡八幡宮あたりの鎌倉空中写真
1990年の近代美術館と鎌倉八幡宮周辺景観
 そういえば、1964年に起きたいわゆる「御谷(おやつ)騒動」といわれる鎌倉八幡宮裏山宅地開発反対運動のときに、この美術館を作った内山知事は、開発行政をつかさどる長の立場にありながら、政治家として開発反対に動いたことで開発は止り、1966年に古都法を生み歴史的環境保全へと歩むようになったのであった。
 
今回の美術館のリニューアルで、建築・環境・景観は1951年時点に復元したことになるのかもしれない。ただしハードウェアはそうだが、公立から離れて宗教法人活動の場となって、ソフトウェアとしては原点復元ではない。
 いや、そうではない、もともとが宗教法人の敷地内だから、宗教活動のできない異物だった公立施設の排除で、むしろこうなってこそが原点復元と言うべきだろう。なかなかに稀有な興味深い事例である。

(次の県立音楽堂の記事につづく

2019/04/30

1399【FACEBAKA2019年4月与太記事まとめ】元号翼賛騒動、桃源郷花見、アメリカ歌人、日米会談、

4月1日 【次の元号発表の日】 
わたしは元号嫌いだけど、元号騒ぎならば大好き、さてさて、今日はどんな大エイプリルフールが政府発表されるのか、楽しみなことだ、明日には本物の元号発表があるのだろうなあ。
【戯報新聞スクープ】2019年5月1日から和暦の新元号は「西暦」(セイリャク)と決定!! https://datey.blogspot.com/2018/04/1331.html

さすがに有識者って人たちは偉いもんだ、中国の『帰田賦』の「仲春令月、時和気清」も、それをなぞった日本の『万葉集』の「初春令月、気淑風和」も、なんでも知っているんだなあ、すごいなあ。

金貸し令和かよ

4月2日 【伊達の眼鏡ブログ新記事:令和騒動】
それにしてもまた面倒なことが増えて、暗算不得意の年寄りには困る。
 明治、大正、昭和、平成と元号で書かれた年を見ては、いちいち換算呪文を唱えて西暦にするのだが、またそれが増えてはもうお手上げである。
https://datey.blogspot.com/2019/04/1395.html


4月5日【横浜都心花見】
横浜都心を流れて港にそそぐ川ふたつ、そのひとつ大岡川の桜は満開にて、この川筋の市民たちが花見のそぞろ歩きの盛り、花見は非日常ではない生活圏の行事、気分は最高。
 大岡川から分かれる中村川ももちろん桜は満開、でも、だれも花見に出て来ない、だって、花と水の上に架かる高速道路から、花びらといっしょに排ガスと振動と騒音がひっきりなしに降ってくるんだもん~、これって飛鳥田・田村による横浜六大事業の成果のひとつ。




4月5日【アキヒトさんに国民栄誉賞を】
イチローという人が、国民栄誉賞を政府が授与するというのを3回も断ったとは、気骨のある人だ。
 どんな人でどんな賞か知らないが、多分、世のミーチャンハーチャンがもてはやす人が引退するときに与える賞らしい。
 とすれば、当然のことに、あと1カ月のうちに引退するアキヒトさんに、授与することに決まってるんだろうな。
 ナントカ勲章はアキヒトさんが与える側だから、まさか自分に与えるわけにはいかないが、政府が与える賞なら受けとるのでしょうね。それともイチローさんを見習って、辞退すると言ってるのだろうか。

4月7日【北鎌倉宝庵訪問】
もう五月の様なさわやかな風が通る茶席「北鎌倉宝庵」を、かつてその設計者の謦咳に接した仲間4人で訪ねた。「夢窓庵」は屋根の架構修復と茅葺き替えで端正な姿に、情趣あった旧観を懐かしみつつ、「常安軒」から眺める吉野窓に美しい顔(かんばせ)を夢想する。数えてみると一昨年暮れからもう5回目、次第に環境が美しく整ってきて、85年の老建築を維持管理運営する方々の努力に敬服。






4月14日【カリフォルニア歌人朝日歌壇入選】
U.S.A.に帰化して暮らす知人の歌、朝日歌壇の馬場あき子選にはいる。
広島核爆弾被爆者のこの人が、核廃絶の集会に招かれることのない時代は、果たして来るのだろうか。
なお、歌人本人からメールが来て、「看板」とはその招かれる核廃絶運動の会(白人ばかり)の「人寄せパンダ」のことだそうである。
これは実は意識的にパンダになってる自嘲の歌らしい。

4月15日【伊達の眼鏡ブログ新掲載:桃源郷花見】
今年最後の花見は、桜も桃も一緒に花咲く甲州の桃源郷、もう何年も観に行っているのに、桜と桃の大いなる違いに今ごろ気がついた。
その1 https://datey.blogspot.com/2019/04/1396.html
その2 https://datey.blogspot.com/2019/04/1397.html
その3 https://datey.blogspot.com/2019/04/1398.html

4月15日【沈黙の音楽】
聴かないために聴きに行きたい、???、4月20日県民ホールで、ジョンケージ『4分33秒』演奏、悩む。

4月17日【ノートルダムのカネ】
パリの有名なノートルダム寺院の屋根と尖塔が焼け落ちて、遠いこちらの日本でも大騒ぎ、あちらではあっという間に1000億円の修復費用の寄付が集まったそうだ。あ、日本からも寄付したのかねえ。
 さあて、どんな修復が行われるのだろうか、もとの形と同じにしたのではツマンナイ、ベルリンのカイザーウィルヘルム教会みたいにしてくれると面白いなあ、現代のヴィオレ・ル・デュクは誰なんだろうか、ジャン・ヌーベルとか、、。
 それにしても、1000億円もが瞬時に集るってのが、キリスト教の底力かねえ、それにしても不気味、宗教ってなんだかコワ~イ。
 ところで、日本で最も多くの利用者があった公共建築で屋根が燃え落ちた超有名建築って、近年に修復された東京駅丸の内駅舎ですよね、あれって500億円かかったそうだけど、誰も寄付しなかった、しょうがないから、周囲の土地に一部容積移転(旦那衆に身売り)して、あのコテコテ花魁鬘簪化粧衣装代を稼いだので、周りのノッポ旦那衆の日陰(者)になっちゃった。わたしは復元反対論者だけど、負けた、ま、たった一人で言ってただけの蟷螂の斧。

4月26日【強制元号
おい、おい、まだ元号強要西暦排除を続ける気かよ、お役所は、、、困ったなあ、もう耄碌して和暦西暦換算を暗算でやるのが難しくてねえ、しょっちゅう間違えるんだなあ、せめて西暦でしか覚えてないあたしの誕生日だけでも、西暦使用をお許しくださいませ、お願いでごぜえますだよ、お代官さまあ、、元号強要届出をいやだから、婚姻しないぞ、子もつくらないぞ、、で、少子化がますます、、、ついでにお願い、年貢を8分から1割に上げるのも、なにとぞご勘弁を、、

4月27日【強制10連休】

4月27日【ネットバカコンサバ】
ほお、世論調査で、内閣と自民支持率6割以上、憲法改定賛成7割だって、へえ~、ヤバー、マックロソフト、フェイスバカ、つい言ったあ、なんてネットだけでニュース読む人たちは、こんな保守層になるんだってさ、年齢はやっぱり若い層なんだろうなあ。
 わたしもネット記事をちょくちょく見るが、とにかく簡単すぎて内容に踏み込まないから、全くもって面白くないんだけど、生まれた時からネット社会に生きる若者たちは、ニュースとはそういうもんだと思って、「多数派これ無事」となるのかしら。
 でもこの調査の母数は何人かしらと別の記事見たら、なんとたったの102人、これで世論になるのかあ、う~む、「統計」ってなんだろね。

4月28日【日米首脳会談のレベル】
アベ首相はいろいろ言われるだろうなあ、「即位行事をそんな球遊びと比べて100倍ぐらいと答えるとはケシカラン、不敬罪だぞ、なんで1000倍と言わなかったんだ」なんて、。
一方、トランプ大統領は日本の首相に、もし自分が再選されたら就任式に来てくれるかと聞いたのだが、首相は「その行事はアメリカ人にとって、高校野球決勝試合と比べてどれくらい大きいものなんだ?」と尋ねた、かも。

4月30日【なんでもかんでも平成最後付和雷同】
今日の翼賛TV番組欄を眺めて思う「我ガ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」

なんだか哂える#一億そろって平成最後
なんだか怖い#一億そろって天皇称賛

元号で考えると国際感覚を失う証拠
平成って戦争がない平和な時代だったって上も下も言ってるけど、え、そうだったのかあ、え~とさ、湾岸戦争、ソマリア内戦、チェチェン紛争、アフガニスタン侵攻、イラク戦争、シリア内戦、クリミア危機・ウクライナ東部紛争なんてのは、平成元年1989年よりも前の事件だったのかあ、月日のたつのは速いものだなあ、オカシイナア