2013/03/30

748震災核災3年目(15) これほどの分散型復興でコンパクトシティ時代に逆行する理由を知りたい

「747震災核災3年目(14)」からのつづき
   (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 ここに南三陸町の地図がある。「南三陸町土地利用構想図」(2013年2月13日公表)とあり、これは南三陸町のウェブサイトに掲載されている震災復興計画図のひとつである。
 志津川湾の周りにいくつもの黄色の丸があり、矢印がつないでいる。これは実線黄色丸は被災した集落や街で、点線黄色丸は新しくつくる集落や街であり、矢印は移転する元と先を結んでいるらしい。

●南三陸町土地利用計画図

 移転先の点線黄色丸の数を数えたら30か所ある。ということは、これから30か所に大小のニュータウンを造成して、三陸町の被災移住民たちが集団で大移動するのである。
 いや、すごいことである。移動住民が何人になるのかわからないが、町の作った復興計画書を見ると被災者総数は町民の55%、9800人弱だから、その全部ではないにしても、大変な人数である。それが30か所で起きるのである。
 町民にとって津波、避難につづく巨大イベントである。

 人口が1万8千人もいない小さな町で、どうしてこれほどたくさんのニュータウンをつくる分散型復興計画にする必要があるのだろうか。
 図面を見ると、リアス式海岸の小さな入り江ごとにある集落それぞれにニュータウンをつくるからだと読むことができる。
 つまり津波で壊滅した集落を社会をそのまま近くに再現するという、復旧優先であるようだ。このあたりの人たちは、それほどにも、いわゆる「絆」につながれた暮らしをしてきていて、これからもそれを求めているのだろうか。それは世代に関係なくそうなのだろうか。

 おおぜいが集まるニュータウンならまだしも、少人数のニューヴィレッジならば、人口減少の波をかぶって、早晩消えざるを得ないようにも思う。
 そう、人間自身が起こす人口減少という津波が、いま日本列島を襲っている最中なのである。
 南三陸町の人口はこれまで減少に減少を重ねてきていて、被災直前は17666人、その55.2%も被災してしまった。被災後もこの町に、その集落に住み続ける人たちは、どれくらいの数だろうか。
 災害が人口減少のスピードを早めるのは、わたしは中越震災復興の現地で見聞きした。

 南三陸町だけが人口が減らない、ということはありえない。復興計画にはこれからも減少していくが、2021年の町人口総数を14555人に見込んでいる。そこには政策的な意図も入っている。
 しかし、国立社会保障・人口問題研究所が2013年3月に発表した日本の各市町村の将来推計人口のうち、南三陸町の2020年の値は14448人で高齢化率35.3%、そして2030年には12385人で41.3%になる。

 これから超高齢化して減少する町の人口が、ばらばらと散らばって暮らすのは、どういうことになるだろうか。
 自然の豊かさを享受する生活と言えば聞こえはよいが、20年後に高齢人口が35.9%(町復興計画)になると、そうはいかないことが起きてくることは目に見えている。
 これほどに分散型となる生活圏を復興という名目で作り上げても、南三陸町は大丈夫なのだろうか。

 どうせ移動して新しい街、集落、家にすむのだから、これほど分散しなくて、ある程度に集まる方が、これからの生活のためにはよいだろうとおもう。
 そう思うのは、現地事情を全く知らないものの言い分であることは承知している。地域共同体の緊密さ、三陸漁業のありかたなど、まったく知らない。
 なにかそれらの地元固有の文化や産業のありようが、この分散型復興計画が出てくる所以なのだろう。それを知りたいのである。

 海岸近くの多くの場所で、しかも短期間に同時に、これほどの大土木工事を進めても、海には影響がないものだろうか。
 先般、三陸町の人から聞いたのだが、南三陸町の母なる志津川湾は、養殖漁業が発達していて、一年中なにかが水揚げされていたが、近年はそれゆえにかなり汚れていた。
 ところが先般の津波が、海底にたまっていたヘドロを沖に持ち去ってくれて、この海は若返って生産力が復活したそうだ。

 これだけ一度にニュータウン工事をすると、その湾のまわりの土木造成による土砂が流れ込むように思うが、大丈夫なのだろうか。
 せっかく復活した海が汚れるかもしれないと、わたしは遠くから机上でよけいな心配をするのである。
 どこか3、4か所くらいに、まとまることはできないのだろうか。そのほうが土砂流出対策もしやすいだろう。

 そしてまた、分散型よりもまとまりのある生活圏を構成するほうが、なにかと便利なはずである。コンパクトシティ、コンパクトタウンがこれからはあるべきまちづくりの方向だとされている時代に、せっかくそれを実行することができるチャンスなのに、これほども逆行するには何か特別の理由があるに違いない。
 もちろん、各小さな入り江ごとに分散する生活を否定するものではないが、それには覚悟が要るし、お金も要りそうだ。(つづく

●地震津波原発日誌コラム一覧

747震災核災3年目(14)大被災した南三陸町の応急仮設住宅地を衛星写真で見て心配になった

「745震災核災3年目(13)」からのつづき
   (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 三陸津波被災地の南三陸町の一枚の地図がある。
 応急仮設住宅地の位置が記してあるのだが、その箇所数の多さに驚いた。人口がさぞ多いからだろうと思ったら、被災直前は1万8千人弱の町である。
 なぜこれほどの分散しているのだろうかと、google earthの衛星写真と照合してしげしげと見ていった。

●南三陸町応急仮設住宅位置図(南三陸町ウェブサイトより)

 
 リアス式海岸特有の大小の入り江ごとの狭い平地に街や集落があって、それらがほとんどすべて被災して壊滅したようだ。
 そこでその街や集落がチリジリになりながらも、できるだけ元の位置に近いところで、仮設住宅を建てるために、津波に襲われなかった近くの台地の空き地を応急的に探したので、これほどたくさんの場所になったらしい。

 そのとき、壊滅した元の平地さえも狭いのに、台地の上はさらに狭いから、まとまることもできずに、これほどたくさんの位置に配置せざるを得なかったということなのだろう。
 もちろんあくまで、わたしの勝手な推測である。 

 
 衛星写真でそれらひとつひとつの場所を見ていくと、心配なことが出てくる。
 生活の拠点であった集落が一切なくなったのだから、もちろん生業の場もなくなり、日常の買い物の場もなくなったのだろう。山の中に10数戸で孤立しているような仮設住宅もある。
 日常生活はうまく成り立つのだろうか。病院通いはどうするのだろうか。

●南三陸町波伝谷地区の仮設住宅(2012年2月22日撮影google earth)
 
 衛星写真で仮設住宅を探すのは難しいだろうなあと思いながら見はじめたら、すぐに仮設住宅とわかる特徴を見つけた。
仮設住宅地は、真っ白な(茶色もあるが)な屋根の細長い建物が、平行してびっしりと建ち並ぶから、まわりの山林や戸建て住宅地とは際立って異なるのである。一か所だけ例外があったが、いずれも狭い隣棟間隔で同じ向きに平行して並ぶのである。
 土地がどこもかしこも四角というわけでもないし、学校の校庭とか公共施設のような広い敷地でも、大昔の公営住宅団地を彷彿させる並び方である。

●南三陸町 志津川小中学校あたりの仮設住宅(2012年2月22日撮影google earth)
左の仮設住宅地だけが例外的に平行配置ではない。
 
●上と同じ位置の震災直後(2011年3月30日撮影google earth)
 これで見ると左の仮設住宅地は津波被災地であるようだ。
 
これは応急仮設住宅設置の補助要綱とかにそうせよと書いてあるに違いない。でなければこれほどまでに右へ倣えということはあるまい。
 でも、一か所だけ例外的な平行でない配置もあったから、必ずしも制度上の縛りではないのかもしれない。
 同じ敷地でも、もう少しは暮らしやすそうなプラニング技術が、この時代にはありそうなものである。
 あるいは実例があるので言うが、被災した土地でもよいならもっと楽に建てられるところがありそうなものである。
 南三陸の人たちは、いくら狭い入り江の奥の谷戸であっても、これほど狭い路地に好んで暮らしていたので仮設住宅もそうしたいとの希望であったとは考えにくい。
 どうも、土地がここにある、とにかく機械的に配置して行こう、そうしたとしか思えないのだ、どうなのだろうか。

 南三陸町では事実上は初めての応急仮設住宅ではあるだろうが、日本で初めてではあるまい。
 日本ではやむを得ない大災害がかなりの頻度であり、災害時の応急仮設住宅に経験のある専門家とか建設業者がいるだろうと思うのだが、同じ戸数を入れるにしても、こういう時の配置のあり方のノウハウ蓄積はありそうなものだ。
 わたしはその暮らしの実態は何も知らないのだが、これで快適なのだろうか。応急だからこれでいいのだと、そういう慣習というか制度かもしれないと思うと、心配である。

●南三陸町 歌津地区平成の森仮設住宅地(2012年2月22日撮影google earth)
町内最大規模の246戸を詰め込んでいる
 
●同じく津波から1か月後の平成の森(2011年4月6日撮影google earth)
 
実はわたしは南三陸町に行ったことはない。たまたま先日、南三陸町の住民の方を東京に招いて話を聞く会があり、そこに参加して若干の現地情報を得たので、いろいろ考えることがあった。
 そこで、これまでは一般論的に心配ごとを書き連ねたが、これからはケーススタディ的に考えることにしたのだ。

 わたしは生れは岡山県で、東北には縁者も知り合いもなし、引っ越しは多かったが住んだことはなし、仕事では秋田県内のいくつかの都市にかかわったが、そのほかは全く縁がなかった。
 三陸というからには、リアス式海岸だから岩手県と思ったら、ここは宮城県であったというお粗末なレベルである。
 しかし、今度の震災で被災直後の壮絶なる風景を新聞やネットで沢山観た中で、南三陸町のボロボロの姿は最も強烈に脳内に残っている。それで町の名前だけは覚えた。

 google earthで被災地を南から北まで見るのが日常になっていたが、地理不案内のわたしにはどこも同じように見えて、地上のその場の惨事と結びつけるのが難しい。要するに岡目八目で、本当の悲惨さはちっともわからないのである。
 それを承知の上で、岡目八目のもつ意義もなにほどかはあるだろうと勝手に思い、よそ者の心配事を書き連ねる日々である。(次は復興計画を考える。つづく

2013/03/28

746玉久三角ビルから東横デパートへと渋谷の変わりゆく姿を追う

 駒場から渋谷まで、なんの用もないけどふらふらと歩いた。
 駒場公園の旧前田侯爵邸をちょっと見た。デザインは悪いが昔のお殿さまってのは金持ちだったんだと思った。
 40年ぶりくらいで日本民芸館に入った。大昔に入った時のほうが感動があったが、今回は柳宗悦というひとも金持ちだったんだなあ、なんて思い、わたしは年寄りになってひがみが出たらしい。

●三角ビルのある町
 住宅街をふらふらと行くと、おっ、三角の家だ。横尾忠則が好きそうなY字路の角に、鋭角そのままに見せて建つ家である。

  ▼三角住宅とその空中写真


せまい土地に建つこんな家は大都市では珍しいわけではない。思いついて渋谷までの間に三角ビルを探して歩いた。
 元は四角な土地だったのが、都市計画道路で斜めに切り取られて残ったのが三角土地になり、やむを得ず三角ビルを建てる。そういうのは探せばいっぱいある。
 好きで三角の建物をつくる人は、まあ、いない。変形土地では建物の設計に苦労すると思うが、建築家の中にはそういうのに意欲を燃やす人もいる。
 この写真の家を設計した建築家もそうだろうと思う。

 三角ビルで有名なのは、新宿駅西にある住友三角ビルである。
 土地は三角でもないのにわざわざ三角の平面の超高層ビルである。オフィスビルとしては使いにくいだろうと思う。
 最近は超高層ビルだって平気で壊すから、これもあまり長くない運命かもしれない。

 ▼空中写真による渋谷三角地帯の三角ビルふたつ
「クロサワ楽器店」(左上の円の中)と「玉久」(右下)

 ▼クロサワ楽器店

●玉久三角ビル
 わたしが渋谷で昔から知っている三角建物は、「玉久」ビルである。三角ビルになる前の三角木造平屋時代から知っている。
 むかしむかし、このあたりは恋文横丁とよばれる三角地帯で、戦後バラックそのままの店が連なる狭い路地が錯綜していた。学生時代にウロウロしたことがある。
 その頃のことについては、「50年代の渋谷三角地帯」というページに、よく調べて細かく書いてある。
http://tokyo.txt-nifty.com/tokyo/2003/04/50_39c7.html

  
 玉久(たまきゅう)は、その一角で表通りにあった。外も中も汚い木造の平屋の店だったが、三角地帯の中でこの建物そのものが三角であった。
 汚いながらも実に美味い魚を食わせていて、お値段もけっこう高かった。渋谷の放送局関係者のふところ暖かい連中が、粋がって常連だったようだ。

 この玉久もある三角地帯を地上げして、東急が109ビルを建てたのは1979年だった(ウィキペディア)。竹山実設計の銀色にかかがやく建物は、戦後バラックイメージをさっぱりと払しょくした。
 工事が終わったら玉久もなくなるのか、109ビルに入るのだろうと思っていたら、周りはそうなったが玉久だけは残った。

 109のアルミ板壁にペタッとくっつく真っ黒な木造建物には緑の葉が茂る1本の木が立っていて、それらの取り合わせが奇妙に面白い風景であった。
 格好よく言えば、変わりゆく渋谷の象徴的な点景であった。そのころ気になる風景として、わたしが撮った写真がどこかにあるのだが、みつからない。
 ネットに昔の玉久の絵と写真があるから紹介する。
http://www.makoart.com/Report/reportImages111027/Report1110-5.jpg
http://www.hachiyamayumi.mydns.jp/~hachiya/19930320tokyo45091.jpg

 ずっとこのままでいてくれるといいなあ、なんとなくそう思っていたが、あれは何年ごろだったか、玉久ビルになってしまった。
 今見ると109ビルと合体したかのように見えるが、実は隙間があって、三角木造店は独立した三角ビルになっているのであった。三角鉛筆ビルである
 ビルになって8階あたりの高みに登ったらしい玉久には、いまだ入ったことがない。値段も高みに登っていそうだから。

 ▼玉久(ガラス張りビル)と109(アルミ板張りビル)

 ▼上のと反対から見上げると二つのビル間に隙間が見える

●渋谷東横デパート
  渋谷東横百貨店を見上げたら、「さようなら東館」と壁に大きくかいてある。そうか、これを壊すのか。東横線が地下に入って地上も大改造計画のはじまりか。
 このあたりの風景の変化は、わたしが生きているうちに間に合うだろうか。無理だな。
 ▼東横デパート東館 

 ついでながら東横線が地下鉄に乗りいれして、これまでは横浜から座って寝ていれば渋谷に到着していたのが、今やうっかりすると秩父の山奥まで連れて行かれるらしい。
 渋谷で井の頭線に乗り換えるのに15分も歩いたぞ。横浜でも中華街まで連れて行かれてしまうし、まったく不便になったものだ。バリヤーだらけになった。
 偶然だが、新聞博物館で「東横百貨店開店披露大売出し」の広告を見つけた。日付は1934年10月31日らしい。ということは79年前である。

 ▼東横百貨店開店時の新聞広告
 後に西館と南館を増築(設計は坂倉順三)したが、そちらはまだ解体しないらしい。
 この東館と西館をつないで山手線の上をまたぐのが中央館である。4(5?)階建ての橋のような建物で、東西二つのビルを足場にして架かっている。東館が無くなれば片方の足場が消えるから、ここもとり壊すのだろう。
 1950年代としてはかなり珍しい建築構造方式で、その構造設計はわたしが大学時代に教わった(が単位は落した)二見秀雄教授であったと、なにかで読んだ記憶がある。

2013/03/27

745震災核災3年目(13)まちづくりの一環として中心街に復興公営住宅を建設することに期待する

「744震災核災3年目(12)」からのつづき
   (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 実は発災直後の2011年3月20日に、わたしは自分のブログに「内陸母都市に疎開定住公共賃貸住宅を」と題して、次のようなことを書いた。

「これから、ぜひとも公共賃貸借住宅を災害疎開者のために建設してほしい。新たな住宅建設のための負担を、持家優遇政策で被災者に借金させてはならない。
 それも被災した地域の内陸にある母都市の中心部に、疎開者の元のコミュニティ集団に対する単位として建設するのだ。
 こうすることで、災害疎開者のコミュニティの継続と、空洞化する地方都市の再生とをセットにする震災復興都市計画、いや震災再生国土計画とするのである。
 繰り返すが、災害復興政策として持家建設やマンション購入ばかりを優遇する金融や税制を優先するのではなく」


 2013年3月6日の報道(NHK NEWS WEB)にはこう書いている。 
「政府がまとめた住宅再建の工程表によりますと、集中復興期間に当たる平成27年度までに、被災した住宅を自力で再建できない人のための災害公営住宅を、岩手県では計画の9割に当たる5100戸、宮城県では計画の7割に当たる1万1200戸を建設するとしています。
 一方、津波に加えて原発事故による影響を受けている福島県では2900戸を建設するなど、3県合わせて2万戸近くを建設するとしています。
 さらに、住宅の高台への集団移転事業などについて、ことし9月までに、岩手県では計画の6割の、宮城県では計画の7割の宅地の整備を進捗させるとしています。」


 つまり、2016年3月までとしても、これから3年間である。3年で3県に計2万戸も公営住宅を建てるというと、これは忙しい。
 もちろん必要なことは分かるし、わたしは賃貸借居住主義者だから、大賛成なのだが、どうも気になる。
 あまりに建設の速度が早すぎてしかも大量だから、わたしが期待するような公営住宅ができるのだろうか。

 公営住宅政策は長らく日陰者だったから、自治体に計画、建設、管理のノウハウはあるのだろうか。
 よい交通立地、よい生活環境、よい買い物や地域施設が整うのか、よいプラニングになるのか、よい景観になるのか、そしてよい管理体制が整うのだろうか。土地の手当てができるのだろうか。
 大急ぎでつくるから、とりあえず取得できた土地にとりあえず造る、なんてことになっているかもしれないと危惧する。
 あるいは公営住宅は公営住宅だけ、民間住宅は民間住宅だけ、商店街や公共施設はまたそれ独自に、それぞれの別個のゾーニングの範囲でのみ計画して建設するかもしれないと危惧する。これではまちづくりにならない。

 日本のこれまでのような経済政策としての「住宅政策」ではなく、これからは社会政策としての「居住政策」として、今後の模範となるような、公営住宅ができることを期待しているのだが、現場はどうなのだろうか。
 新たな都市づくりのひとつとして公営住宅建設をしてほしい。特に内陸部の被災しなかった中心市街の空洞化対策と連携して、その既成市街地の中に埋め込むように建設してほしいものだ。
 その方がインフラ整備の必要がないし、居住者の生活も便利で、高齢化時代に対応するとともに、コンパクトタウン形成になるからだ。
 あるいは被災地から集団移転する台地上の新市街地につくるとしても、ミックスコミュニティとすることや、戦後ニュータウンのような寝るだけの街にしないようにしたい。生業が成り立つ新たな街を作ってほしい。
 公営住宅はその街づくりのリーダーとなってほしい。

 賃貸の公営住宅の良いところは、計画的に良い環境住宅をつくり、一体的に管理してよい環境を維持できること、次世代へ円滑に継続することなどがあるのだから、それらに力を注ぎ込んでほしい。
 わたしは今、都心の公的賃借住宅に住んでいる。ここを積極的に選んだのは、上のようなことを期待しているからである。賃料を除けば、ほぼ満足している。

 とにかく、戸数消化主義が今は求められているようだが、場当たりの土地、場当たりの計画、場当たりの入居制度、場当たりの管理になって、結局は住みにくくて元の津波被災地に戻るってことにならぬように、頑張ってほしいものだ。

 関東大震災のあとで同潤会によって建設した共同住宅は、のちのちまでも都市住宅の模範であり続けた。
 東北地方の復興公営住宅も、地域における模範となる共同住宅となってほしい。(次につづく)

2013/03/26

744震災核災3年目(12)震災復興シンポでの専門家論についてはデジャビュ感があった

741震災核災3年目(11)」からのつづき
   (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 大地震で大被災した南三陸町の復興状況の話を聞いた。
 日本都市計画家協会と東京大学が、町民4人をまねいて、シンポジウムを開催したので、聞きに行った(2013年3月24日、於:東京大学生産技術研究所)。
 会場には100人あまり、ほぼ全員がいわゆる専門家とよばれる人たちだったろう。わたしも元がつく専門家ということにしておこう。
 
 来ていただいた4人の人たちから聞く復興の諸課題は、当然のことだろうが、どれも深刻なることばかりである。
 興味深く聞きつつも、これまでここに書いてきたように書斎で机上心配するだけのわたしなのに、意外なことと思うことは少なくて、これまでの心配が深まることばかりであった。

 会場からの専門家たちの発言には、どうももうひとつピンとこなかったものがおおい。
 これは、まあ、専門家たちが悪いのではなくて、予期せぬ発言者を指名していったコーディネーターのせいだろう。

 被災者の方の話に、復興計画について行政と地元住民との間の意思疎通に齟齬があり、地元住民の中に入ってきて住民の立場で行政に対抗することができる知恵を授けてくれる専門家をほしいとの訴えがあった。
 既成市街地での都市再開発・まちづくりの世界では、もう昔からこういうことがあって、それなりにアドボケイトプランナーが育ち、それに対応する支援制度が動いていたはずだ。
 そのノウハウ蓄積が被災地では生かされていないのだろうか。それとも被災地があまりに広くて、人材が足りない、制度が追い付かない、ということだろうか。

 いろいろな情報によると数多くのプランナーが各地に入っているらしい。
 そのなかにはアドボケイトのベテランもいるはずなのに、いまだにこのようなことを言われているのかと、不思議というかデジャビュ感があった。

 専門家に対する住民のいらだちに対応して、専門家のあり方について、個別の専門家を束ねてコーディネートする能力のある専門家が要ることの発言が、大学研究者からあった。
 むかしむかし、わたしはコンサル・コンサルタントとひそかに自称していたので、これもデジャビュ感が強かった。そのような人材はいっぱいいたと思うのだが、どうなっているのか。
 会場から、専門家は地元にボランティアで行けとの発言があり、これもまちづくりの世界では昔から聞かされ、専門家はカスミを食って生きるのかとの反発も、デジャビュ感があった。

 それにしても、日曜日の朝早くから、こんな不便な会場に、専門家たちがおおぜい集まったこと、そして若い人たちが多いことを見て、まちづくり人材が育っていることに明るい希望を持ったのであった。
 もっとも、会場で久しぶりに出会ったある知人に聞けば、相変わらず食っていけない世界のようだが。

 さて、復興計画そのものについてだが、会場でいただいた復興計画図を見ると、数々の心配が湧いてきた。これで南三陸町の将来はどう展望できるのだろうか? (次回につづく

(追記0328)
 もう8年くらい前のことだったか、国交省の都市計画課で、まちづくり人材リストをつくったことがあった。かなり大掛かりにやったから、その後も活用しているはずだが、どうなっているのだろうか。

●参照→「地震津波火事原発コラム一覧」

2013/03/25

743能「隅田川」の眼でオペラ「カーリューリバー」を見る

●オペラ「カーリューリバー」
ベンジャミン・ブリテンの作によるオペラ「カーリューリバー」を、神奈川芸術劇場で見た。演出が日本舞踊家の花柳寿輔というのが意外である。だが、オペラの演出はかなり自由が許される世界であるらしいから、不思議はないだろう。
 その自由な演出のオペラの元になっているのが、かなり不自由な演出しか許されない日本の伝統芸能の能「隅田川」であることが面白い。
 B・ブリテンは1956年に日本に来た時に、この能を見て感動し、翻案してオペラをつくったそうだ。初演は1964年。
 カーリューとは鳥のシギの一種らしい。隅田川の都鳥をこう置き換えたのだ。
 カーリューリバーの基本的な話の筋は、能「隅田川」にほぼ忠実であるといってよい。もちろん隅田川に出てくる念仏を唱える仏教から、かの地のキリスト教に翻案していて、教会堂で演じる宗教奇跡譚の仮面劇になっている。
 舞台の構造も能とは違って、螺旋のような形であるらしい。ユーチューブにいくつかのこの公演実写映像が登場するが、なかにひとつだけこの形のものがある。
http://www.youtube.com/watch?v=zDrcgTKmGbc&list=PLA393D79883D4C185
 今回見た花柳寿輔演出での舞台は、真四角な白木の床の能舞台であった。もっとも、4本の柱はなく、橋掛かりは下手奥からではなくて客席を縦に貫通する花道状に渡した。

●続きの全文は「能「隅田川」の眼でオペラ「カーリューリバー」を見る」
https://sites.google.com/site/matimorig2x/opera-curlew-river


2013/03/23

742近年は季節がドカンドカンと突然に変わるので四季遷移の情緒がない

 今日、わたしの空中陋屋のある共同住宅ビルの外に出てビックリ、ピンク色に明るい、おお、道が桜の花で満開だあ。
 ヘンだなあ、昨日だって外に出たのに、気が付かなかったぞ。わたしがボケていたわけではなくいて、これは昨晩中に突然に咲いたにちがいない。

わたしの空中陋屋のある共同住宅ビルも花で飾られている。
 
 この数年は、冬からいきなり春にドカンとなってしまう。徐々に春めいてくるってことがなくて、なんとも情緒にかける。
そしてちょっとしたらドカンと夏がやってきて、また、ドカン、、、の繰り返しであるようだ。
 なんだか四季というよりも、2季か3季のような感じがしてならない。

 空中陋屋から見下ろす中学校の入り口に、黒い服の男たちがたまっているので、何事かと近づいて見れば、校門の門柱に「閉校式」とかいた立て看板が立っている。
 え、閉校するのか、式参列でいらしたお偉いさんたちらしい。
 この中学校では、去年になにかおおきな工事していると思ったら、仮設のプレファブリケーション校舎が建った。校庭グラウンドは半分くらいになった。

 どうもそれまでの校舎が耐震性で問題があったらしい。そちらを建て直すので、狭い校庭と安物仮校舎で、しばらく不便をしのぐのだろうと思っていた。
 それが閉校ということは、1年後に要らなくなるけど、東日本大震災の余震の大地震がもしも去年中に来たら危ないという判断であったのか。
 それはまあ慎重でよろしいが、結果としては無駄遣いであったことになる。

 空中陋屋からまた別方向を見ると、こちらには新しい共同住宅ビルの建設が始まって、高い工事用クレーンが建っている。
ふーむ、あのクレーンほどの高いビルができるのか、日陰にはならないが、視界の邪魔だなあ。
 むこうの山手の丘に咲く桜も、あのビルで見えなくなるのか、残念。
 でも、こういうのが建つと、小中学生が増えて、廃校中学校をまた再開校することになるかもしれない。
●参照→「ニッサンバカ広告が消えたと思ったらまたビルが建つらしい」

2013/03/22

741震災核災3年目(11)被災者が移転する先が高地価になってアベインフレ政策成功かしら

  昨日の「738地震津波火事原発3年目(10)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)
 
 先般、今や日本民族は津波を恐れて内陸に大移動だと書いたら、今日の新聞に地価公示(2013年1月1日現在)が載っていて、すでにその傾向が地価に表れたそうだ。
 東日本大震災被災地では、特に内陸部や台地上の土地の価格が上昇しているらしい。あたりまえながら、そちらに移転する需要がたくさんあるから、地価が高くなる。

 仙台都心部では共同住宅(いわゆる分譲マンション)が売れて、高額になりつつあるという。石巻では高台の住宅地が飛びぬけて高額になった。
 困ったことである。これでは被災者は2重に苦を蒙ることになるのだが、それへの地価抑制政策はどうなってるのか。
 アベノミクスではそのへんはどうなっているのだろうか。あ、インフレ政策だから高地価は政策どおりなのか。困ったもんだ。

 関東では今、超高層共同住宅ビルがにょきにょき林立中の川崎・武蔵小杉の地価上昇がものすごい。困ったものである。そもそも高層の共同住宅ビルは地震に根本的に弱いのであることがわかっているのだろうか。
 このことの問題は別にくどくど書いているからそちらに譲る。
http://homepage2.nifty.com/datey/kyodojutaku-kiken.htm

 地価抑制策がないどころか、地価が上昇して景気がよくなったと喜んでいる向きが多いらしい。不動産屋とか土地を担保に金の貸し借りする企業や金融業はよかろう。
 だが、地価が高騰して金のない庶民は、ますます津波危険地域に住まざるを得ないことになる。
 家ってものは借金して買わなければ日本では暮らしが成り立たないって、ヘンなことになっている。もっと公的な賃貸借住宅を教習するべきである。

 そして高地価に関係なく庶民が民族移動して、津波や災害から逃れる都市づくりをするべきと思うのだが、被災地ではどうなっているのか。
 被災地では大量の災害公営住宅の供給画があるようだ。これなら地価には関係なく移住できるからよろしい。わたしは賃貸借居住主義者だから喜ばしいことであると思う。
 公営住宅に入居者するひとびとが、家が買えないからやむを得ずそれを選ぶのではなく、積極的に選んで住む時代になってほしい。
 どうか負け組意識になってほしくない。賃貸借住宅のほうがよいのだと、自治体はそのような公営住宅の供給をしてほしいものだ。

 70年代から持ち家政策が進んで、賃貸借住宅政策がおろそかになり、公営住宅供給もどんどん細ってきている。
 それが賃貸借住宅の質的低下をもたらすと同時に、持ち家も価格を下げるためにミニ開発と郊外地立地で、こちらも質的低下である。価格を下げるために戸数を稼ぐ高層巨大共同住宅ビルも同様である。

 
 いまようやくにして社会政策として、公営住宅が再登場してきたことを喜ぶのだが、巨大災害がその機縁であること悲しいし、一般政策には広がる気配がないのも悲しい。
 とりあえずは、その災害公営住宅に移り住む人たちが、防災集団移転事業による自力建設の住宅と同じがそれ以上に良い居住環境になって、賃貸住宅として続いていくことを期待している。(明日の記事につづく

●参照「地震津波火事原発コラム」一覧
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm


2013/03/21

740歴史は下手な小説よりも虚構に満ち満ちていて面白い

 わたしの書斎兼寝室兼居間兼晩酌室には、壁4面の本棚に未読本がものすごくたくさんある。
 金はないけど、閑はある、せっかく買ったのに読まないままに死ぬのはもったいないから、もう書店で本を買いこむ癖をやめて、それら未読本制覇にとりかかった。 

 どれからにしようかと考えて、思いついて日本史を読みながら、いろいろと他の本も並行することにした。
 日本史の本は「週刊朝日百科『日本の歴史』」である。A4版、全133冊だが、一冊は32ページで図版写真が多いから、気楽に読める。
 1985年の刊行だから、現代史ではもう古くなっていることや、近頃の研究で内容が変わっている事項もあるだろう。

 でも、この30年でどう歴史の叙述かかわったかそれも面白いだろうと、「宇宙と人類の誕生」編から読み始めた。
 これは猿人とか旧人とかが出てくるところまでで、今では違う学説もあるかもしれないが、まあ、よろしい。

 次は「原ニホン人と列島の自然」の巻、フムフム、そんな昔から日本列島に人間はいたんだなあ。
 え、30万年も前からいた可能性があるって、え、座散乱木遺跡って、アレ、なんだ引っかかるなあ、なんだっけ、あそうだ、これって以前に大スキャンダルニュースで騒ぎになった旧石器遺跡捏造事件で聞いたことあるぞ、あれだあれだ。
 なんだ、2巻目にしてもう歴史が変わる事件にぶつかってしまった。
 
 さっそく書棚にあるはずの、スキャンダル発掘暴露した毎日新聞が書いた本を探すのだが、みつからない。
 昔なら図書館にでも行くところだが、いまや貧者の百科事典ウェブサイトのお世話になる。あるある、いっぱい出てくる。
 昔の本に書いてあったこと以上に、裏の裏まで書いたものもある。全く便利になったものだ。

 それによると、捏造事件発覚は2000年11月のことであった。
 藤村なにがしという遺跡発掘の専門家が、発掘のたびにあらかじめ発掘する石器を地中の何十万年も前の地層に埋めておいて、発掘時に「新発見」をし続けたという事件である。

 このなかに座散乱木遺跡があったのだが、おかげで遺跡が遺跡じゃなくなった。ほかにも40ほどの発掘で捏造をして、石器どころか遺跡そのものが捏造だったという。
 捏造遺跡にしたがって、何十万年も前から日本列島には石器をつくることができる人間がいたという、考古学会のおとぎ話が構築されていて、この本にも写真解説付きで載っている。


 それにしてもあれは変な事件だった。
 たった一人の石器アマチュアが嵩じて発掘屋になった男が、発見の名誉心にかられて、日本中の石器時代遺跡でほかで拾った石器を埋めては、自分で発掘する「新発見」を続けて20年余、その間、専門家のだれひとり見抜けなかったというのだ。
 一部に見抜いた人がいたが、その人たちは学会から村八分にされたそうだ。

 あの当時も呆れたが、いまネットでいろいろ読んでてさらに呆れた。
 30万年も前にそんな精巧な石器(実は弥生時代の石器)をつくったり祭祀遺跡を持つところは、世界中になかった。日本だけで文化を持った旧石器人が発見されたのだ。
 そこで日本の考古学者たちは考えた、日本人はそれだけ文化的に優秀な民族だったからだ、と。そう発見当時に語っているのであった。
 これって、日本民族は世界にぬきんでて優秀だから、鬼畜米英には負けない高い文化国家なのだって、まるっきり戦中のおハナシだよなあ。

 で、その後の考古学の世界では、あのスキャンダルを藤村ひとりに全部押し付けて、誰も責任は取っていないのだそうである。
 さすがに当時藤村のそばにいつづけてその新発見を学問的業績にした学者たちは、わが身の不明を謝ってはいるが、学界の重鎮のままらしい。
 さらに疑問は続いているらしく、あんな一介の発掘屋の(こういう差別的な言い方もどうかと思うが)藤村ひとりでできるはずはない、実はストーリーをつくってやらせた学者がいる、そこには学会の勢力争いが裏にある、なんて話もある。こちとら庶民を面白がらせてくれる。

 思い出したが、昔、永仁壺事件てのがあったなあ。現代の名工がつくった古びた壺を、文部省は永仁期の本物とまちがえて重要文化財に指定してしまったのだった。あれもおかしかった。
 歴史は面白い。下手な小説よりもまことに虚構に満ち満ちている。
 このあと読んでいてどんな虚の歴史が出て来るか、楽しみになってきた。

739震災核災3年目(10)これを機に日本の住宅政策を経済政策から社会政策に転換せよ

 昨日の「738地震津波火事原発3年目(9)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●日本の住宅政策の欠点を大災害が暴露した

 朝日新聞の資料の一覧を見ていて「災害公営住宅」がかなり多くなっていることに、興味をひかれた。記事にもこの公営住宅希望者が増加しつつあるそうだ。
 東北被災3県合わせて、2万戸近くを建設するそうである。そんなにも建てなければならないのか、これまで公営住宅に空き家の余裕はなかったのか。

 その希望者が多い理由は、どこにあるのだろうか。
 高齢者が多くなっていて、新たに借金して建てても返済できない、ということは金融機関が貸してくれない、そのようなこともあるだろう。とくに今回の被災地は高齢者が多い。

 持ち家の自宅を建設することが資金的にできなくて、公営の賃貸住宅のほうを選択しているのだろう。資金的にできなければ借り入れる方法もあろう。
 だが問題は、借りようにも、被災してなくなってしまった住宅建設のためにすでに借り入れていて、いまだに返済が終わっていない、借金返済だけが残っている、2重借金はできない、どうもそういう例が多いらしい。
 
 そうであろう。日本では一生かかって返すほどの借金を負わないと、自分が住む家がないという政策の国なのだ。

 住宅というものは、基本人権の生存権とセットになっているはずだが、日本の住宅政策は社会政策ではなくて経済政策になっているのだ。
 自分が家族と暮らすための家を得るのに、日頃見たこともないほどの大借金を抱えなければならない。その金を返すためには20年30年とかかるから、その間は一生けんめいに働く。借金を返し終えたころは、疲れた老人になっている。

 言葉は悪いが、家の借金を返すために遊里苦界に身を沈めた遊女のごとく、借金に追いまくられて働く人生である。じつはわたしもその道を歩んできた。
 わたしは賃借住宅主義者である。なのに50歳で借金住宅を建てたのは、賃貸住宅に適切なものがなかったからである。
 それは、賃貸住宅政策は冷遇され、売り家住宅政策ばかり厚遇されているので、立地、家賃、広さなどが適切な住宅がなかなかないのだ。だから無理しても借金住宅になる。

 賃貸住宅冷遇の証拠は、東京区部にドーナツ状の広大な木造住宅密集地域にあるアパート群である。家を建てられない、つまり借金できない層が暮らす、いわゆる木賃住宅群である。
 需要に応じて土地持ちが庭先に無秩序に建てていった木造2階建て共同住宅群が、いつの間にか東京都心部を取り囲むドーナツ状になり、災害には最も弱い地域をつくっている。
 社会底辺からの需要があるのに、住宅政策が対応していない結果である。
今になって首都圏直下大地震で、被害甚大地帯になると騒いでいる。もっと前にわかっていたことだが、後回しになった。
 
 そのような借金住宅政策が、公営あるいは公団や公社等の公的賃貸住宅を縮小させて行き、民間賃貸住宅も供給が少なく質的低下もまねき、それが大災害を機に一挙に矛盾を暴露したのだ。
 公的住宅が多くあれば、被災者の避難先として、その空き家を柔軟に対応することができただろう。
 公的賃貸住宅政策が行き渡っていれば、2重借金問題は少なかったはずである。

 住宅は持ち家でなければならないという政策をつくったのは、戦後高度成長期1970年代からのことである。国民に少額でも土地建物という財産を持たせて保守化して、保守政権を維持させようという政治戦略であった、と、わたしは思っている。

 その前の戦後の時代は、公団住宅が典型のように戦後も借家は当たり前だったし、戦前の日本は借家が普通だった。
 戦後しばらくは住宅政策は社会政策だったが、それを保守安定政権維持のために経済政策に転換してしまったのが、あまりに乱暴すぎるのである。

 衣食住というが、衣はファッションとなり、食はグルメとなったが、住はいまだに問題を引きずっていることは、この災害が露呈した。
 あの大戦争から立ち直る時期には、住宅を社会政策としてつくってきたことを思い出し、この大災害からの立ち直りも住宅をしっかりと社会政策としてつくり、それは災害復興のための一過性の政策ではなく、これからの日本の基本政策に転換してほしい。(明日の記事につづく

●参照→「賃貸借都市の時代へ」(まちもり瓢論)

2013/03/20

738震災核災3年目(9)津波甚大被災土地を自然の森や海に戻す土地不利用政策は荒唐無稽か

  昨日の「737地震津波火事原発3年目(8)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●土地海面化事業が必要な時代が来た

 津波で甚大な被災をした土地を、自然に返還するという論を勝手に思いついて、ここまで書いてきた。
 そのような考えが、今の復興現場にあるのだろうか、それともないのだろうか、現に震災復興にかかかわっている知人たちに聞いてみた。

 まず、災害被災低地をどう利用するかの議論は、現地ではまだまだ進んでいないのが現実だそうである。その理由は、こんなことらしい。
 今は高台整備、漁港復旧、防潮堤整備などの検討と調整の作業がいっぱいになっていることから、跡地利用まで手が付かないこと。
 それらの仕事も行政の縦割りでいろいろな事業が進んでいるので、総合的判断をしにくい現状であること
 行政で用意している復興の事業メニューに、低地利用を進めるための手法がないこと。
 そして被災者も行政もいまは住宅の再建での悩みがいっぱいあって、まだ跡地の低地利用のことを考える余裕がないこと。

 その一方で、空き地となる低平地を自然に戻すとか農林地にしようとかの考えは、一部の地域の人たち、専門家、あるいは支援者などから、ひとつのアイデアとしては出ている。
 しかし、実現手法の点、合意形成の点で進捗ははかばかしくないという。

 復興は基本的に復興交付金事業の40事業メニューで進んでいる。
 そのなかに広大な土地を自然て土地利用に近いと言えるメニューは「都市公園事業」くらいなものである。
 公園事業には「都市林」というものもあるが、海にするというのはあるだろうか。
 これまで海面埋め立て事業というのはあったが、その逆に土地海面化事業なんてのが必要な時代になったような気もする。
 公共事業として自然環境を復興事業としてやるのは、どうもできそうもないらしいのだ。

 そこには、日本の土地利用はいまも「経済の論理による開発の思想」で動いていることがある。
 開発的な土地利用をやめて森林とか海などの自然に戻すとしたら、行政としては、それが市民の暮らしや産業の振興のために必要なことという「公共性」を求められる。しかし、その論理がまだ見いだせない段階では、行政が手を出せないという。
 開発をしない土地利用事業には税金を投じないということである。

 とにかく、事業手法がないからやれないのではなくて、こういう考えはありなのか、無しなのか、そこのところから考えてはどうか。
 今の東北地方には、先進的な役人、優秀な研究者、有能なプランナーたちがおおぜい結集しているのだから、ぜひとも今のうちに何とかして、人間の土地から自然の土地への転換(還元)について論理、制度、手法を構築してもらいたいと思う。

 明治三陸津波(1896年)の教訓は、昭和三陸津波(1933年)で生かされずに多くの死者をだし、その2度の教訓も生かされずに平成三陸津波(2011年)にはさらに多くの死者を出した。
 それを繰り返さないなら、津波甚大被災土地を永久に使えないようにするしかない。それがこの思いつきの原点である。

 と同時に、人口減少時代における生活圏のコンパクト化の動きへの対応の、ひとつの方法でもある。(明日の記事につづく

●参照→588『津波と村』海辺の民の宿命か
http://datey.blogspot.jp/2012/02/588.html

2013/03/19

737震災核災3年目(8)こんな日本列島巨大地震津波ハザードマップをみると諦めが先にたつ

  昨日の「736地震津波火事原発3年目(7)」からのつづき
http://datey.blogspot.jp/2013/03/736.html
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●こんな巨大災害が日本列島南半分で起きるのならもう諦めるしかない

 津波被災地の復興についての書斎での心配を書き綴ってきているが、今朝の新聞を見てなんだか心配が小さすぎるって気になった。
 昨日、巨大地震対策の検討をしている国の有識者会議のワーキンググループが、南海トラフ巨大地震の被害想定を発表した。
 総額220兆円とあるが、巨額らしいが庶民にはなんのことやらである。これはものすごいとわたしでも分かるのは、死者32万3000人の数値である。

 庶民には、地震でわが身がどうなるかが心配なのである。
 今朝の朝日新聞(2013年3月19日朝)がその大災害起きる様子を視覚化してくれていてる。まさにに「日本列島地震津波ハザードマップ」である。
 地震4分後に高さ34mの津波に襲われる土佐清水市では何が起こるのか、新島では31mの津波だとすると島全部が海の底になるのか。

 これを見ていると、もう日本列島から逃げ出すか、すっぱり諦めてこのまま暮らすか、その二つにひとつしかないと思えてきた。まあ、金もなし、先も長くないわたしは後者である。

 もちろん若い人々には、その二つの中間がある。津波と地震からちょっとでも安全らしいところを探して引っ越すという手もあるだろう。そこがどこなのか、という大問題はあるのだが。
 少し前にそう思ってちょっとだけ探索したら、意外にもわたしの生まれ故郷の高梁のあたりがよさそうだと気が付いたことがある。
参照→696日本で地震からも津波からも核毒からも米軍基地からも逃れる地域はどこだろうか http://datey.blogspot.jp/2012/12/696.html

 この日本列島ハザードマップの逆の図をつくってほしいと思う。地震・津波・原発から安全な地域はここだ、それがわかる「日本列島安全地図」である。いや「日本列島比較的安全地図」か、いやまあ「日本列島多分安全地図」でもいいか。

 いま日本は、人口減少と超高齢化で生活圏の再編が必要となって人口移動が起きているが、その移動先が列島沿岸部にある大都市に向いている。
 そのようなときに、この「日本列島地震津波ハザードマップ」は冷や水を浴びせるものである。内陸部の地震の少ない地域への人口誘導政策が必要になっている。

 内陸への民族大移動は、津波と原発からの事前避難である。いわゆる国土政策は、この視点から進めなければなるまい。
 多分、これまでの国土政策をつくってきた優秀な官僚たちも、これは分かっていたのだろうが、経済政策が許さなかったのだろう。
 いま、とうとう、パンドラの箱が開いた。そして2万人もの人柱を立てて、ようやく安全優先の国土政策が始まろうとしている。
 わたしはそう思いたいのである。

 だが、わたしはもう自分の人生には間に合わない。すっぱりと諦めることにする。(明日の記事につづく

2013/03/18

736震災核災3年目(7)これまで人間が自然から借りていた土地をそろそろ返還する時期か

  昨日の「735地震津波火事原発3年目(6)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●自然から借りていた土地を返す時期が来た
 これまで人口増加と経済成長の20世紀では、住家も産業施設も増えるから、土地が必要だとばかりに、山を削り海を埋めてそれらのために土地をつくってきた。そしてかなりの範囲で無計画に街を拡大してきた。
 だが、いまになって思うと、どうも土地を使いすぎたようだ。中心街から人が減って空き地空き家がいっぱいで来ている、郊外住宅地でも同じだし、郊外胃に移転した企業も撤退している。
 現にしだいに街が空洞化しているし、更にこれから日本の人口が減少傾向は1世紀くらいは続くようだ。自然から人間が収奪してきた広大な土地が余る時代が来ている。

 そこで話が災害危険区域に戻るが、そこになにか住宅以外の利用にしようと一生懸命に使わなくても、空き地のままでもよい時代が来たと、わたしは思う。
 災害危険区域全部を使わないと言っているのではなくて、どこもかしこも使う必要はない、ところによってはまったく使わなくすることもあるだろうと思うのだ。

 
 土地を使わなくなるとどうなるか。使わない土地は、荒れ地になってそのうちに砂漠になる、きちんと維持管理しないと災害を招くと、言われることがある。
 そんなことはない。日本の気候では、土地を放っておくとどんどんと草が生えてくる。初めは、例えば黄色の花が一面に咲くセイタカアワダチソウのような荒れ地好みの草が一面に生えてくる。これは大変だと思う人もいるが、実は次々と植生は交替して行って、落葉樹が生えて林になり、常緑樹が生えて森になって行く。これを自然遷移という。
 現に今、山間地では過疎化が進み、放棄された田畑や人家などの跡地がどんどんと緑に覆われて、森に還りつつあるのは、日本中に見られることだ。
 日本の気候はそういう温暖なのだ。これなら維持管理費もかからない。

 それではもったいないとするなら、用材になる樹種を植林するのもいいだろう。
 現在の日本の山々の生産林としての植林地は、土地が急峻だったり、利用する地域から遠隔地だったりして、木材利用のためにはコストがかかる。これが海岸部の平地林ならば、植林、保育、伐採、運搬などにコストが低廉になるだろう。
 もちろん生産林ばかりではなく、保養林にもなる多様な植生の森をつくるのもよい。
 バイオマスエネルギー原料にもなるだろう。市街地に近いとレクリエーションの場にもなるだろう。そしてなにより、海辺に近いのだから津波の防砂林、防潮林になる。

 津波被災地で、いまだに津波に乗ってきた海水が居座ったままの地域も多いそうだ。
 そこはこれから埋め立てしてまた陸地に戻す計画だろう。その土は山を削るのだろう。高台をつくるときに発生する残土をもっていくのだろうか。

 どこもかしこもそうしなくても、昔そうであったように、海に戻すという方法はどうだろうか。そのまま海にしておけば、自然干潟になってそれなりに有用であるような気がする。
 あるいは、積極的に浚渫して、漁港をつくる、養殖漁業海域にする、海浜レクリエーションの場にするなどの考えはどううだろうか。

 要するに人口増加時代の人間が自然から借りて使っていた土地を、このたびの地震津波という自然からの手荒な返還催促に従って、もとに還すのである。
 どうも20世紀に無理な借財をしすぎたかもしれないし、そろそろ不要になったから、このへんでお返しするのである。
 そう考えてはも差し支えない地域だってあるように思うのである。机上の寝言と言われればそれまでだが。
 でも、現地ではどうなんだろうかと、そちらに詳しい人に聞いてみた。(明日の記事につづく

2013/03/17

735震災核災3年目(6)二股かけて復興まちづくりして虻蜂取らずになるかもしれない

 一昨日の「734地震津波火事原発3年目(5)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 悲観論ばかり言ってもしょうがないけれども、では、住宅移転してきた高台の街もできた、災害危険区域も店舗や工場がやってきて両立する街が復興できた、うまくいったとしよう。
 でも、どこの被災地でもこうはいくまい。わたしにはそれがどこかわからないが、それはかなり限られた都市になるだろう。

 さてうまく両立した復興の街づくりができたとしよう。そこからの問題は、巨大都市を除いて、日本のどこも人口減少であることだ。
 いま、日本の都市・地域問題は、21世紀の人口減少社会の進行において、20世紀に人口増加を前提とした社会の構造、あるいは都市・地域の構造が耐えうるかということである。
 そこで、いま流行しているのは、新たな人口減少に対応する都市と地域の構造として、拡大している20世紀の生活圏を、コンパクトな生活圏に再構成することである。いわゆるコンパクトシティである。
 
 この点から見ると、高台にも街をつくり、元の街も再建したのでは、コンパクトタウン化の逆方向であることは確かだ。
 人口減少が避けられない時に、人口増加型の都市・地域をいまさらにつくっていいのだろうか。
 高台の街が、交通にも買い物にも働くにも便利で安全に、しかもコンパクトに整っているならばよい持続するだろう。 

 だが、単なる住宅地であるならば、そのうちに人々は便利な元の津波で被災した街に戻ることだろう。それを禁止しても、止めることはできないだろう。高台の街は衰える。
 人間は忘れる動物である。忘れたころに津波はやってくる。二股かけた復興都市再生は、虻蜂取らずになるのだろうか。また悲観論になった。

 そこで思うのだが、やっぱり、災害危険区域は単に住宅禁止ではなく、土地利用そのものを禁止するしかないだろう。
 都市計画では市街化調整区域に指定変更してはどうだろうか。

 人口増加時代を前提とする現在の都市計画法は、都市の範囲を市街化区域と市街化調整区域に分けている。
 後者は人口増加で市街化の圧力が強い時代に、その抑制と計画的な開発を調整するという意味だが、一般に市街化予備区域としてとらられている。

 なお、都市計画法を決める初めの検討では、4つの区域を考えていた。既成市街地、市街化区域、市街化調整区域、保存区域である。保存区域は開発を一切しない区域である。
 災害危険区域を、この保存区域なみにしてしまうのである。もちろんそれには土地所有者からの公的買取請求を認めることになろう。それは現に防災集団移転事業では行っていることである。
 このように、津波の危険区域は都市的土地利用をしないとしたら、どうなるのだろうか、考えてみたい。

参照:自然と人間はどこで折り合って持続する環境を維持できるのか
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru

参照:地震津波火事原発コラム一覧
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#jisin
 

2013/03/15

734震災核災3年目(5)災害危険区域という広大な空き地は何かで埋めるのか

  昨日の「732地震津波火事原発3年目(4)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●災害危険区域という広大な「空き地」はどうするのか
 「災害危険区域」は津波に襲われて大被災した区域であり、指定後は人の居住が制限される。この指定区域一覧表にある各自治体の指定面積を足してみたら12492.1ヘクタールになる。岩手県は、たぶん、これから指定する予定の自治体もたくさんあるだろうから、もっと広くなるだろう。
 阪神大震災(1995年)では1市1地区1.59ヘクタール、新潟県中越地震(2004年)では2市14地区27.97ヘクタールの指定だったそうだから、今回はものすごい広大さである。

 災害危険区域に住んでいた人々は、区域外の高台や他の新旧市街地などに移転する必要があるから、そのあとには広大な空地が発生する。
 すでに津波によって広大な空地ができている。今は避難していても、元に戻って家を建てて住むわけにはいかない。住宅以外なら立ててもよいが、実際のところは店舗や工場などが、どれほど建つだろうか。
 郊外型大型小売店舗ならべつにしても、人が住まない街で普通に商売するのは、なかなか難しいだろう。

 問題は、住むことを禁止しても、商工業や農林水産業あるいは公園などに再利用することはできるということである。
 大ショッピングセンターができたり、大規模遊園地ができたら、住んでいるよりもはるかに多くの人がいることになる。住んでいて津波で被災することは防ぐことはできても、買い物や働きに、あるいは遊びに来た人の被災は防げないが、よいのだろうか。

 更に心配は、東北の太平洋沿岸地域に、南北数百キロにわたってばらまかれたこの広大な空き地に、いったい何が立地するのだろうか。
 たとえば、宮城県山元町の災害危険区域は、行政区域の3割以上の広さを指定、津波前の可住地の8割以上が非可住地になったようだ。
 津波で一切が失われた荒涼たる跡地は、いったい何がありうるのか。農業も田畑の塩害で簡単には立ち直れないだろう。草ぼうぼうの空き地ばかりとなるだろう。


 空き地がなにかで埋まるのか。
 この「空き地を埋める」という言い方は、「開発」的な考えが基本にある。土地は何か人間の日々の生活のために利用しなければならない、という強迫観念のようなものが、20世紀的な開発の基本にありそうだ。

 「復興」という言葉はまさにそれを一言で言い表している。
 震災復興、戦災復興、火災復興などどれもこれも、早く復興しなくては増える人口に間にあわない、産業の復興のためには広く開発していこう、そのためには公共投資をいとわない、復興さえすれば取り戻すことができる、これが近代の災害復興の思想であった。
 戦後復興期のまっただなかの人口増加時代を生きてきたわたしには、それがよくわかる。

 しかし、人口減少時代の今もそうなのか。
 
 反対に、「空き地は空き地のままでよろしい」という考え方は、あるのだろうか。つまり、人間の日々の生活のためにどこもかしこも土地は使わなくてもよろしい、とするのである。
 だって、人口が減る、地域は縮退する、高齢化して生活圏は縮む、そのような世の中である。そんなに土地を利用しなくてもよいではないか。
 いや、利用したくても利用できないかもしれない。(明日の記事につづく)

733この160年間の日本の災害で死者最多は空襲という人災だった

 建築学会の機関誌『建築雑誌』2013年3月号は、『「近代復興」再考』と題する特集号である(編集担当:中島、牧、村尾)。
 近代日本の災害復興の歴史をふりかえり、これからの復興のあり方を展望しようとする、なかなかに興味深い内容である。

 その表紙に1847年からの日本の大災害での死者と行方不明者のリストを、円の大きさで視覚化している。
 その数の上位から並べると、1位は太平洋戦争下の空爆被災(1944~45年、330,000人)、2位が関東大震災(1923年、142,000人)、3位が明治三陸地震津波(1896年、21,959人)、そして次の4位に今回の東日本大震災(2011年、18,587人)が登場する。


 こうやって一目で比較できるようにしてくれて驚くのは、戦争末期の空襲による死者の円が、はるかにとびぬけた大きさであることだ。
 天災ではなくて、まさに人災そのものの災害の巨大さに絶句する。

 これにはもちろん広島長崎の原爆死者(約20万人)も入っているだろう。
 空襲による死者の半分は原子爆弾によるものである。つまり、原子力発電と兄弟関係にあるのだ。
 なんとまあ、人間の文明災害は、自然災害よりも上を行っているのであったか。

 2年も前の原子力発電所の事故によって、いまだに17万人もの人が避難している現実がある。
 68年も前の原爆投下によって、いまだに死者が増え続けている現実もある。その数も加えると、死者の円の大きさはさらに巨大になる。

 原発事故被災はかなり異質の被災であると思ったが、実は原爆ですでに起きたことだった。あのときは誰も何も教えられず、事後避難もしなかったのである。
 地球上に人間がいるかぎり、災害はなくならないようだ。災害とは、人間が受ける害であることと、人間がひき起こす害であるという、二つの意味からである。
 

2013/03/14

732震災核災3年目(4)災害危険区域にショピングセンターができてもよいのか

  昨日の「731地震津波火事原発3年目(3)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●災害危険区域にショピングセンターができてもよいのか
 またこんな問題もある。災害危険区域から「防災集団移転事業制度」によって津波の来ない地域に集団移転する場合は、跡地を自治体が買い取る。
 しかし、全員が強制的に移転させられるのではない。なかには移転を待ちきれなくて、破損した住宅を改修したり、新築した人がいて住み続ける、あるいはどうしても住み続けたいと居座るとなると、法的には問題あるが例外的に危険区域にも住宅は存在し続けることになる。

 となると危険区域には、住宅でない施設、まばらな住宅、公有地となった住宅跡地とが、まだら模様になるのだろう。
 そのような公有地をどう使うのか。公共施設を建てるには、広くもない住宅跡地では使い勝手が悪いだろうし、そもそも危険区域に公共施設を建てることを、市民が許さないだろう。
 

 大きな商業施設が空き地になった災害危険区域に進出してくるのは、歓迎されるだろうか。そうなると、移転先の新住宅地につくるであろう商業施設が劣勢になって閉店、買い物のために毎日もと住んでいた街までやってくることになるのか。
 大規模商業施設を災害危険区域に建てることは、法的には問題ないらしいが、そのような不特定の集客施設を、災害危険区域内に設けることは理にかなっているのだろうか。
 おおぜいがショッピングセンターに買い物にやってきているときに、津波が来ないという保証はない。
 では、学校はつくってもよいのか。たとえば小中学校をつくろうとすると、これはもう市民が許さないだろう。なのに商業施設はよいのか。
 どうも、ヘンである。

 大型ショピングセンターは、災害危険区域を選んで進出することはない、なんてことはあるまい。あの類の施設は、土地は借りて安価な建築で、2年も営業すれば元を取るのだから、絶好の進出機会だろう。なにしろ危険区域だから土地代は安価にきまっている。
 買い物が便利となると、危険だったことを忘れて、平地に次第に人々が住むようになるかもしれない。それはもちろん災害危険区域では違反行為である。
 だが、法による指定は、法によって解除することもできる。かつて1933年の大津波の跡で居住禁止にした地域に、やはり戻ってきて住みついて、このたびの災害に会った人は多いはずだ。

 実は「災害危険区域」の指定は、防災集団移転事業とセットになっていることに、基本的な課題がありそうである。防災集団移転事業で移転すると、手厚い公的補助制度があるが、それには災害危険区域からの移転である必要がある。
 とにかく津波被災地から移転したい、それには補助金が入る事業を行うのがよろしい。となると防災集団移転事業だ、そのためには災害危険区域を指定した、いまは移転先のことで一生懸命で、移転跡の災害危険区域をどうするのか、そこまだまだ頭が回らない、どうもこのようなことであるらしい。

 現場を知らないものの勝手な推測だが、本末が転倒しているような気もする
 と書いて、怒られないように付け加えておくが、早期に災害危険区域指定をした自治体は、津波跡地の乱開発を防ぐための、とりあえずの政策意図であったことは確かであろう。(明日の記事につづく)

2013/03/13

731震災核災3年目(3)災害危険区域で住宅のみ排除する意味はどこにあるのだろうか

  昨日の「730地震津波火事原発3年目(2)」からのつづき
     (現場を知らないわたしの机上心配年寄繰り言シリーズ)

 それにしても「災害危険区域」という制度はよく理解できない。
 建築基準法によって、自治体の長が条例でその区域を決める。だから県知事あるいは市町村長と議会が決定権をもっていることになる。
 災害危険区域を指定すると、その範囲の土地から住居系の施設だけを追い出さなければならない

 事例を見ると追い出し方もいろいろである。
 住宅全面禁止して他の区域への水平的追い出しから、津波が来ない上層階なら住宅OKという垂直的追い出しとか、各種の決め方ができようだ。住宅だけの追い出しのほかに、ホテル、保育園、病院を禁止する例もある。

 いくつかの今度の被災地の自治体のウェブサイトで指定の事例を見たが、とにかくその区域指定した範囲が広いことに驚いた
 例:宮城県山元町の災害危険区域図  http://goo.gl/eaNKA
        岩手県宮古市田老地区の災害危険区域    http://goo.gl/gLd1w

 先般の津波で被災した区域を指定するのだから、平地の少ない三陸地方では、市街地があった平地のほとんどがその指定区域になるようだ。
 逆に平地部の多い宮城県南部では更に広大になる。山元町では市域の3分の1が災害危険区域である。

 この津波が来る前はそこが人々が生きていた拠点となる街であったろうに、それをそっくり指定してよいものだろうか。だからこそ指定したのかもしれない。
 状況変化によってあとで変更すればよいからと、とりあえずは津波が来た区域に住宅が建つことを制限しておこう、そういう戦術かもしれない。
 あるいは、高台移転の補助金支給のために、決めるということもあったかもしれない。
 それはそれでよくわかる。だが、それなりの問題もありそうだ。

 もちろん津波が来ても平気なように、街の土地全部を盛り上げて高くすれば、災害危険区域にしなくてもよいだろう。
 あるいは防潮堤を高く造って、街を塀の中に囲い込めば、指定は不要かもしれない。
 指定していても、そうなったときに変更してもよいだろう。

 どちらも金がかかりそうだ。
 もともとは海だったところ埋め立てたとちだから、その時にすでにかなりの造成費がかかっている。その上にさらに金がかかる2重投資である。
 津波が怖いからとて高台移転した後になって、移転跡地に土盛りや防潮堤をつくると、さらに3重の投資になる。
 命を守るという大義名分はあるが、未来に大借金を残さざるを得ないのが、難しいことである。

 津波被災地域は中小市街や集落ばかりだから、たいていのところは職住接近あるいは職住一体の町であったろう。商店はたいていが2階が住宅だったろう。
 つまり、それまでの中心的な仕事と生活の場から、住宅だけが強制的に追い出されるのである。職住分離を無理やり行うのであるが、それではさて、地方の小さな市街地はそれで成り立つのだろうかと、心配になる。
 住む人がいない街なんて、大都会のビジネス街か工業専用地域くらいのものであろう。

 居住空間だけの禁止という考え方は、どこから来るものだろうか。
 人々の日常の生活域を考えると、夜は住宅で寝ているが、昼は仕事や買い物あるは学校などにいる時間が多いだろう。ということは、寝ている夜の時間が確率的にはいちばん長い利用の生活空間から、そこに災害が発生しにくい土地利用ゾーニングをするということだろう。

 あるいは個人の財産である住宅を優先的に保護して、災害直後に路頭に迷うことのないようにするということかもしれない。
 企業の財産はよりも個人の財産優先ということは、それなりにわかるが、そういうものだろうか。

 では命を保護する面ではどうか。
 このたびの津波では、職場や店舗あるいは学校などで多くの人が命を落とした現実がある。住宅だけを排除することにどれほど意味があるのだろうか。
 よくわからなことばかりだが、不慮の災害とはそういうものだろう、とも思うにしても、、。 (明日の記事につづく)

2013/03/12

730震災核災3年目(2)次の巨大津波は迫っても事前危険排除都市計画は無いらしい


           昨日の「729地震津波火事原発3年目(1)」のつづき

●災害危険排除建築から津波防災地域づくりへ
 災害危険区域指定の制度について、ちょっと調べたのだが、どうもよくわからないことがある。
 この制度は建築基準法という、安全な建築をつくるための法律である。一つの建物が地震や火災に強いようにすることとともに、複数の建物相互の関係で環境が悪化しないようにすることを決める。

 その中に「津波、高潮、出水等による危険の著しい区域」を、災害危険区域として地方公共団体の長(県知事、市町村長、特別区長)が決めることになっている。
 ここの「等」には、何が含まれるのだろうか。「核毒」も含まれるとしたら、福島でも使えるだろうが、今のところそうしていいない。
 

 というのも、全国の災害危険区域の指定状況を調べる能力はないだが、ウェブサイトをパラパラと見た限りでは、どうもこれまでの指定状況は、いちばん多い例は、がけ地崩壊危険区域である。
 市街地の開発で崖地が崩れて死ぬ事件がおきたので、災害危険区域を指定したらしい。
 そのほかは河川の洪水による出水、例外的なのは伊勢湾台風による高潮地域がある。どうも津波による区域指定は、今回の東北地方より前では、奥尻島だけらしい。

 気が付いたことは、災害危険区域のどれもこれもが、実際に災害が発生して、死者とか負傷者とかが発生した地域だけらしいのだ。全部を調べてはいないので確信は持てない。
 指定条件の「危険の著しい」区域とは、「危険の著しいと予想される区域」とは違うのだろう。
 以前から思っていてこのブログにも書いたが、日本では人柱が建たないと政策は動かないのだが、やっぱりそうらしい。

 ここに「関東の津波リスク」という図がある(2013年3月3日朝日新聞朝刊から引用)。 

 これを見ると、いつの日か、いや、明日かもしれないが、やってくる東南海トラフの大揺れによる大津波を思うと、今のうち災害危険区域を事前的に指定するべきだろう。
 大津波がやってきて死人がでてから指定しても遅いのは、3・11津波で経験したとおりである。
 まあ、事前指定するにはいろいろ問題はあるだろう。事後指定した東北地方の被災地でも、指定反対がずいぶんあったらしい。なにしろ、そこにもう住めなくなるのだから。

 多くの地域で指定した目的は、防災集団移転事業という補助金欲しさのためという目先の必要性(それが悪いと言っているのではない)もあるらしい。
 そのことはこれから後に問題が見えてくるだろうが(これについては別に後述する)、今は、それどころではない、というのが現場だろう。

 
 ところで、2011年に「津波防災地域づくり法」という新法ができている。この法に「津波災害特別警戒区域」を指定する制度がある。これは県知事が決めることになっているのは、津波は市町村の範囲を超えてやってくるからだろう。
 この指定区域では建築の制限をすることができるので、建築基準法の災害危険区域と似たような制度であるが、もうすこし柔軟で広く使える制度らしい。

 建築基準法による災害危険区域は、区域の危険を排除するけれども、その区域を今後どうするのかという都市計画の視点が欠けていると思う。
 津波防災地域づくり法は、その名のごとく地域づくりの視点からの制度である。この違いについての考察は、更にしてみたい。

 しかし、WEBサイトで探したかぎりでは、現時点では津波防災地域づくり法による津波特別警戒区域指定したところは、まだ日本中にひとつもないらしい。
 事前指定すると住民が逃げ出して人口減少が進むだろうし、不動産価値が下がると文句言う人がいるだろうし、行政では難しいのだろう。

 でも早く決めて手を打たないと、今晩にでも明日にでも津波はやってくるかもしれない。それでは「防災」地域づくり法にならないけど、いいのだろうか。
          (明日の記事につづく)

2013/03/11

729震災核災3年目(1)震災復興取組が岩手と宮城でどうしてこれほど違うのか

 初めにお断りしておくが、わたしは何も東北の復興に役立つ行動をしていない。あれから3年目になっても、ただ心配しているだけの「復興心配書斎派」にすぎない。
 それでも、昨年の秋に小さなボランティア活動ついでに宮城県の被災地を見てきた。見れば、ますます心配が募るばかりである。聞いても募る。
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru
https://sites.google.com/site/dandysworldg/greatforestwall

 震災復興に関しては、2004年に起きた中越大震災の復興おてつだいで、長岡市の山村にしばらく通ったことはある。その程度の机上の心配である。素人の杞憂かもしれない。
 でも、言い訳がましく言うと、ほとんどの人たちが同じような心配をするだろうと思うから、今のうちにここにあれこれだらだらと書いておく。

 今日はあの大災害から3度目の3月11日にである。あれから2回四季がまわったのに、どれほどの回復ができただろうか。分からないことばかり。

●東北3県での復興取組状況の差に驚いた
 東北の太平洋岸側では、東日本大震災からの復興が進んでいるような、進んでいないような、地域差もあるような。
 あまりにも広い地域だから、いろいろ事情があるだろうが、どうも気になる。
 先日(2013年3月2日)の朝日新聞に、「見え始めた?仮設後 30自治体の再建状況」と題して、東北3県の居住環境復興の一覧表が載っている。
 被害が大きかった茨城県がないのはどうしてだろうか。
  

 北から南へと見ていて、ハッと気がついてショックだったのは、福島第一原発あたりの自治体は空白のまま、つまり復興はまったく手がついていないことである。
 それはそうだろう、半永久的に消えない核の毒をばらまかれた土地が、簡単に復興できるわけがないが、お気の毒の極みである。
 他の自治体だってそれほど進んではいないにしても、こうやって並べて比較するとこれがいつまで続くのか、核毒が抜けて復興ができるのだろうかと、つくづく疑問に思ってしまう。

 3県の状況を比較して眺めていて、これもショックだったのは、岩手県の自治体では「災害危険区域」の指定をほとんどしていないことである。他の2県と大きな違いである。
 宮城県ではほとんどすべての被災自治体で指定しているのに、この差はどうしてだろうか。自治体によって差があるのではなく、県全体がそうであるのはなぜなのだろうか。

 岩手県ではできないなにかがあるのだろうか、それとも積極的に指定しない県の政策なのだろうか。基礎自治体と県との間は摩擦はないのだろうか。
 岩手県の狭いリアス海岸の土地に災害危険区域を指定して、人が住まないところをつくるのは、地理的に現実的ではないのだろうか。
 それともどこの自治体も大防潮堤をつくるので、災害危険区域は必要ないという政策判断なのだろうか。

 しかし気仙沼や南三陸でも似たような地形だろうに、これほど違うのは県による政策選択に方向が違うのだろうか。それとも単に指定が遅れているのだろうか。
 それにしても、福島の遅れは分かるが、3県でこれほど差があるのが不思議である。

 ところで、福島の原発あたりこそ災害危険区域そのものだと思うのに、どうしてそうしないのか。もちろん制度が予想していないから、法的にその指定ができないってことはわかる。
 だが、ここで言いたいのは、これほど災害危険区域の立派な資格を備えているのだから、それ相当の制度を適用してあたりまえだろうに、とおもうのである。
                                                              (明日の記事につづく)

2013/03/09

728二川幸夫・伊藤ていじ「日本の民家」に53年ぶりに出会って年寄りになったと自覚して懐古譚

●本棚にある2冊の宝物本
 建築写真家の二川幸夫が1950年台前半に写した、日本の民家の写真展を見に行った。これはいろいろな意味で懐かしい。
 写真の風景そのものが懐かしいのはもちろんだが、実はその写真そのものが懐かしい。学生時代にその写真の民家に強烈に魅せられたことがあるのだ。そしてまた、その写真に民家の論考を書いた伊藤ていじ先生との出会いに、強烈な思い出もあるからだ。


 近頃はなんだか、昔の回顧展が多いような気がするが、そうじゃなくて老化して懐古趣味になったわたしが、そういう展覧会に目が向きやすくなったということだろう。
 歳をとるとしだいに原点回帰する現象が起きる。わたしは建築学を学んで大学を出た。卒業研究は建築史の研究室で、京都御所遺構に関する論文を書いた。
 社会に出て建築設計の仕事に就いたが、いろいろとあって30歳半ばころからしだいに都市計画に転向していった。建築家になれずに都市計画家になってしまった。
 そして建築史を趣味としたのである。これはなかなか品がよろしい。

 建築学生の時に、二川幸夫が発表した民家の写真を見て、そのあまりに美しい風景、建物のプロポーション、しつらえの良さに感激し、魅せられてしまった。二川は本物の民家を見て魅せられ、わたしは二川の民家の写真に魅せられた。
 わたしの魅せられっぷりは、卒業設計にいくつかそのデザインをパクッてアレンジした覚えがあるほどだ。
 倉敷の町屋は、少年時に見ていたから美しさをそれなりに知っていたが、二川の写真で再認識した。

 わたしの本棚に宝物のごとく鎮座する2冊の本、それが二川幸夫の写真と伊藤ていじの論考が載っている『日本の民家』(「陸羽・岩代」編、「山陽路」編、美術出版社 1958 各420円)である。
 420円という定価は、学食の昼飯定食が30円の時代だからけっこう高額である。貧乏学生がよく買ったものだと思うが、それだけ感激したということだろう。
 少年時代、学生時代に買った書籍類は、何回もの引っ越しで一冊も手元に残っていない中で、この2冊だけは表紙の背が切れてぼろぼろになっても、いまだに宝物のごとく持っている。
(追記:これを書いたときは忘れてたが、その後に思い出した重要なことを書いておく。この2冊の本は、のちにわたしの妻となる人からのプレゼントであった。)
 

 二川の民家写真の中でももっとも感激したのは、遠野の千葉邸であった。力強い中にやさしい茅葺の曲線があり、全体に均整のとれた配置にマイッたのでああった。
 ところが千葉邸にはまだいったことはない。今は保存公開されているとのこと、いつの日か訪ねる楽しみを、残り少ない人生にとっておくのだ。


●伊藤ていじ先生の思い出
 展覧会場のロビーで、二川幸夫にインタビューする映像を見せていた。
 美術出版社が二川の民家写真を出版してくれることになり、伊藤ていじと組んで全国を撮影に回った端緒について語っている。
 その始まりが1950年とすれば、伊藤ていじは28歳、その頃、死にそうになった大病(肺結核)がようやく治癒したばかりだった。二川は伊藤より9歳若い。

 二川は、写真に論考を書く相棒を、それまでの民家研究者や建築史家ではなくて、まだ若い研究者だった伊藤を選んだそうだ。後の伊藤のことを思うと、その人選は実に見事だったし、二川の眼力のすごさに驚嘆する。
 病み上がりの伊藤が全国行脚を渋るのに対して、二川は、どうせ一度は死んだんだから一緒に回って死んでも同じだろう、と、説得したのだそうだ。

 1960年の夏、わたしの所属する藤岡道夫研究室と東大の太田博太郎研究室の共同研究として、丹波の農村に滞在して民家調査をした。
 両大学から学生、院生、指導教官が集まって、毎日、手分けして民家を訪ねた。
 建ててから100年ほども経った大きな農家に上り込んで、間取りの現状と変化を調べ、天井裏に入って構造を調べる。囲炉裏から舞い上がって天井裏についている煤で、頭から真っ黒になってしまった。余談だが、それから48年後に越後の山村で、そのようなことをして懐かしかった。

 その指導教官に、伊藤ていじ先生がいらしたのであった。体力がないので、荷物は持たない、やむ得ず持つときは風呂敷ひとつであった。
 伊藤先生は毎晩よくしゃべった。それが実におもしろかった。若いみんなで聞き入ったものだ。けっこう与太話もあった。
 その話はもう覚えていないのだが、一つだけ強烈に覚えている話が、二川さんが映像で言っていた、ほとんど死にかけた病気のことだ。

 伊藤さんは、東大の院生の頃、肺結核で病院のベッドに伏して起き上がることさえできない日々、ほとんど死にかけていた。
 ある日、ふと目覚めると、ベッドの周りで何人もが泣いている。ははあ、自分は死ぬんだな、そう思っても、気力がないから何の感情もなく眺めていたという。

 肺結核は死の病であり、戦争直後の日本を、いまの癌のように席巻していた。
 その治療薬の抗生物質ストレプトマイシンが発見されたのが1944年、結核がこれの投与で治るようになった。
 ストレプトマイシンは戦後ようやく日本にも入ってきたが、初期だからそれを誰にでも投与するほどの数がない。

 そこで医者は優先的に投与する人を選んだのだが、その選に伊藤先生もはいったので、生き返ったのだそうだ。
 つまり、東大の将来ある学者としての立場がその選定の理由で、それで命は助かった。
 しかし、その陰には後回しにされて死んだおおぜいの患者がいる、その人たちに自分はおおきな借りがある、だからその人たちの分までもこれから生きるのだと、若い伊藤さんの熱のある話は、若いわたしの心を揺さぶった。

 わたしを魅了した日本の民家という名著ができたのも、ストレプトマイシンのおかげだった。そしてこんにち、それを懐古することもできたのだ。
 その後はわたしと伊藤先生とは縁はなかったが、個人的に尊敬する心の師匠として、出版されるご本を買ったものだ。
 記憶にはないが、もしかしたら丹波で伊藤先生の話にこの本のことをもあって、どうしても買いたかったのかもしれない。
 
 わたしが大学を出てからの伊藤先生との再会は、それから40年ほどたったころ、東京駅ステーションホテルの宴会場での何かのパーティーで出くわした。
 もちろん先生がわたしを覚えておられることはなかったが、しっかりをお礼を述べてあの時を思い出していただいた。

 ついでに、わたしの民家写真も一枚乗せておこう。

 
*「二川幸夫・建築写真の原点 日本の民家一九五五年」は、2013年1月12日(土)~3月24日(日)、新橋の「パナソニック 汐留ミュージアム」にて開催中。

(追記2013/0312)
 新聞報道によれば、二川幸夫さんは2013年3月5日に逝去されたとのこと。惜しいことです。
 
 それでふと思いついて、伊藤ていじ先生が亡くなられたときに、丹波の思い出を書いたような気がして、このブログ記事を探したら2010年2月に書いていた。伊藤先生も惜しいことであった。
 「236丹波の伊藤ていじ先生」http://datey.blogspot.jp/2010/02/236.html
 

2013/03/07

727津波の日からいまだに海水が引かない被災陸地もある

 
 昨年秋に東北被災地に、小さなボランティア活動に行った。仙石線にのって被災地を訪ね、東松島の惨状を見てこのようなことを書いた。
「地震津波被災地を見て思う」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru

 その記事の初めにこの写真を載せた。2012年11月11日に、仙石線東名駅近くの陸橋から南東方向に向いて、東松島市野蒜洲崎方面を撮っている。
 向こうに海のように見えるのは、実は2011年3月11日の津波から、いまだに居座っている海水である。
 ここから惨状をくみとって調べていろいろと書い たのだった。
ところが最近、ウェブサーフィンをしていたら、なんと、この写真の景色の真ん中の向こうのほうから、こちらにカメラを向けて写真を撮ったY.Oharaという人がいた。
 その写真ページには「許諾不要で自由に複製/再配布/二次利用/改変 OKの自由なライセンスです」と書いてあるので、コピーして拝借する。

 これはY.Oharaさんが2013年1月19日に撮ったパノラマ写真の一部を拡大した。中央あたりに陸橋が見えるが、そこからこちらを向いて撮ったのが、上のわたしの写真である。
 
 Y.Oharaさんのパノラマ写真の全景は下図である。上の拡大写真の陸橋があるあたりは、赤い矢印に下である。
わたしが撮った写真の中央上あたりの水上に建物がみえるが、それがY.Oharaさんの写真の中央にある黒い建物である。

 次の画像に、google earthの空中写真(2012/4/12)で撮影位置を示す。
 この赤色矢印の位置から撮ったのがわたしの写真、黄色○印がY.Oharaさんが撮った位置(推測)である。
 これを見ると、この区域は2011年3月11日の津波来襲から今に至るまで、ほとんど海水が引いていないことがわかる。

 
 そして下図は、津波前の2004年の空中写真である。
 一面に田畑があり、それに連なる集落がある。
 もしも津波前にY.Oharaさんがパノラマ写真を撮っていたなら、今は海面となっているところは田畑がひろがり、そのの向こうに家屋が立ち並ぶ街並みが写っていたはずである。
 
 そして、わたしも震災前に陸橋の上から撮っていたなら、海水ではなくて田畑の風景であったはずである。

 さらに詳しくは、Y.Oharaさんのパノラマ写真ページでどうぞ。
http://gigapan.com/gigapans/121827/
 このページは「助けあいジャパン|情報レンジャー」サイトにある。
http://tasukeairanger.heteml.jp/wp/

(追記)
今日のニュースで、今度はピロティ建築礼賛だそうである。
1995年の阪神淡路震災で、ピロティ建築が軒並みに崩壊、以後ピロティ建築はご法度。
ところが津波ではピロティ建築が効果的とか。津波が股下を抜けて行く。
あちら建てればこちらが建たず、なかなか世の中うまくいかないもんです。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130307/t10013027211000.html

2013/03/03

726震災津波による「災害危険区域」って人柱が建たないと指定しないのかしら

 また3月11日がやってくる。あれから2年、復興はどうなのだろうか。
 わたしが行っていた中越震災復興の長岡市小国町の法末集落の2年目、2006年を思い出せば、全戸避難した住民は7割くらいは戻って暮らし始めたが、まだ道や家の修理をしていた。
 それと津波被災地とを比べても意味はないが、それでもあれを思い出すと津波被災地は簡単ではないだろう。

 昨日と今日の朝日新聞朝刊から2枚の図を引用する。昨日は東北沿岸部の復興状況を示す図、今日は関東各県沿岸部の津波リスク図である。


 

 復興状況図をみていて「災害危険区域」指定の広大さに驚いた。広さを足してみたら1250ヘクタールにも及び、これから指定するところもあるから、もっと増える。
 早く言えば、これだけ広いところが津波で壊滅したということ、津波被害壊滅区域である。
 
 そして今日の関東各県の津波リスク図を見て、考え込んだのだが、要するに今後の津波による津波被害壊滅区域がこのあたりにしっかりとあるという図である。

 東北沿岸部の「災害危険区域」の指定は、大被害が出た後で指定したのである。
 関東沿岸部では、これから大被害が出るのである。そこは「災害危険区域」に指定するのだろうか。被害が出てからでは遅いから、その前に指定して対策をとるのが防災というものだろう。

 たとえば、わたしが住んでいた鎌倉とか、今住んでいる横浜都心とかは、いったん大津波が来たら「災害危険区域」となる資格は立派過ぎるほど備えているように見える。
 だとしたら、津波がやってくる前に指定してはどうか。指定するとどうなるかは、よく知らないが、なんでもそこに住んではいけないってことになるらしい。

 事務所、店舗や工場などは立地できるらしいが、でも、そこにも人間はおおぜいいるんだけど、それはどうしていいのだろうか。学校はどうなんだろうか。
 今の段階で指定したら、不動産業界は大恐慌だろうなあ、あ、そうじゃないか、高台や内陸に移転する人が増えて、災害前特需が生まれるかもなあ。
 災害危険区域には産業施設の立地はできるらしいが、それでもそんな危ないところから企業だって逃げるかもなあ。

 まあ、日本では昔から、なにか政策が大きく変わるのは、外圧と人柱によるものと決まっているから、実際に津波で人柱が建って初めて「災害危険区域」指定ができるのだろう。

●参照
瓢論◆絆を解いて民族大移住時代が来る
https://sites.google.com/site/dandysworldg/jinko-ido
弧乱夢◆地震津波火事原発
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm