2024/10/12

1840【ノーベル平和賞】平和とはもはや叶わぬ夢なれや核も戦も地球に溢れて

●ヒバクシャにノーベル平和賞

 今年のノーベル平和賞が、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)に授与された。「核兵器のない世界の実現に向けた努力」を評価したのだそうだ。

 受賞した被団協に祝意を表するとともに、この時期にこの団体に授与したノーベル賞委員会に敬意を表したい。それにしても、その受賞団体名が、その悲惨な出自を物語って、いかにも禍々しいことと思う。


 ノーベル賞委員会による授与理由には、核兵器を登場の過去、現在、未来の現実の恐怖を圧縮して述べている。人間が核兵器をはじめて戦争に使って80年になろうとする。1945年に最初の核兵器による殺人数は約12万人だった。
 そしてその後に核兵器に死んだ者はそれに匹敵する数であるというそして更に今も核兵器で殺すと脅していると言う。

 この間に人間は十分に核兵器の恐怖を知っていて、被団協の人たちが身をもって訴えても、人生ほどにも長い時間が経っても、核を廃絶できないのはなぜだろうか。もしかしたら核という毒は、人間の心に深く入り込んで巣食ってしまった麻薬かもしれない。 

 核が電気エネルギーを作ることを知った人間は、その時から核が兵器であることを忘れて麻薬に化したのだろう。そして麻薬に侵された人間には、もう立ち直るときが失われているような気がする。

 唯一のヒバクシャを出した国であるのに、ここのトップの総理大臣石破茂でさえもが、「核の共有や持ち込み」を具体的に検討するべきだと主張している始末である。そういえば1974年にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作は、非核三原則の表明によるものだった。この国もすっかり核の麻薬中毒になっているのである。

 ヒバクシャ発祥から80年も経っているのに、被団協のノーベル賞受賞を祝い事として受けとることを、むしろ悲しむべきであろう。これほど訴えても麻薬から抜け出せないあんまりである。今や、まだ被爆体験がある生きている被団協の人たちがいるうちに、受賞が間に合ったことだけを、うつろに喜ぶしかないのかもしれない。

平和とはもはや叶わぬ夢なれや 核も戦も地球に溢れて

ヒバクシャ歌人は短歌で核加害を糾弾する

 わたしにはの友人の中に広島核爆弾被害者、つまりヒバクシャの兄妹の二人がいる。わたしと同年の兄の方は昨年逝き、今回のノーベル賞には間に合わなかった。
 その妹なる人は歌人であり、その父も母も奪った加害者の国USAに住みながら、核兵器を三十一文字の韻文で糾弾してやまない。

 その最近作は朝日新聞歌壇の高野公彦選による入選歌(2024年10月6日)

    爆死せし屍の上に建つヒロシマ 屍の土で基地つくる沖縄 
                    (アメリカ 大竹幾久子)

 その大竹幾久子さんにはこのような朝日歌壇入選歌もある。
    被爆者の証言こそが抑止力になるとて今日もズームで証言  
    原爆死の父は机上で笑みており娘が米人となりしを知らずに
    父は死に我は生きたり原子雲の下で二キロを離れただけで 

 そしてその母の被爆体験記を日本語と英語で出版している。

 わたしが生きているうちに、またもや核戦争に出会うなんてことは、もう絶対に嫌である。被団協の活動により、それが今まで避けられたというのがノーベル賞授賞理由だが、もう避けられないような気がする。
 今や数え歳で米寿になったこの身を、その不幸な出会いから避けるには、できることはたった一つしかない、と思っているのだが、さて、この矛盾をどう考えるか。

老いた身に戦に出会わぬ術ありて 戦の前にこの世を去るべし
(2024/10/12記)
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伊達美徳=まちもり散人
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2024/10/10

1839【年金生活】提出必要とも不要とも両方を指示する書類が来て困惑し年金事務所に訊きに行ってきた

 年金生活者である。毎年今頃になると日本年金機構なる役所(?)から「扶養親族等申告書なる書類に書きこんで提出せよと、たくさん紙を送って来る。提出は一枚だけだが書き込み方についての解説書類が多い。年金受給者全部に送っているのだろう。

 最初に読むようにと、大きな字の紙がある。フローチャートが書いてあり、順番に質問にしてがってYES or NOの回答を選んで進むのだ。それで提出の必要不要を判断する。

 先に結論を書いておくが、わたしの場合は本当は書類提出が必要だが、解説フローチャートの間違いで不要となっているだった。 

 フローチャートをたどると、途中で「所得控除の対象となる配偶者または扶養親族がいますか?」の質問があった。わたしはこの夏に配偶者を亡くしたので、去年までとは違って「いない」を選んで進む。ここが重大な間違いのところだ。

 そうやって最後までくると提出が不要にたどりつた。しかも最後の桝には「前年に申告書を提出している場合でも提出は不要です」と念入りに書いてある。
 
 あれっ、毎年提出しているし去年も提出しているのに今年は不要なのか。
 それは今年は配偶者が死んだから、もう提出の必要がなくなったのだろうか。でも、扶養親族がいなくなったことを申告しなくてよいのかしら、この書類はそのためのものだろうに、変だなあ。

 すでに市に死亡届を出しているから、それを日本年金機構はすでに知っいて、この申告しくなてもよいのだろうか。でもそうやっていち早く家族情報を手に入れているのなら、毎年申告させているのは、わかっていることを念入りに申告させているのかしら、なんだか変である。

 でもまあ提出しなくていいのなら、このやってきた書類を見もしないで捨てようと思ったが、待てよ、念のために提出不要という「扶養親族等申告書」用紙を出して眺めた。その作成の手引きも見た。

 そこには、変更があればその人物を記述を訂正・追記・抹消をせよとの指示が書いてある。抹消とは即ち死亡をも意味するのであろう。
 ということは変更があれば提出が必要と考えるのが普通だろう。

 ではフローチャートによれば提出不要とはなぜだろうか、どこかに配偶者死亡の場合は提出すべしと例外規定の注意書きがあるかと克明にさがしたが、見つからない。
 そこで年金事務所が近所にあるから、閑老人として出かけて直接に訊くことにした。それに、ボケ防止活動にもなるし、。

 横濱中年金事務所を訪ねて係にそういうと、しばらくフローチャートを眺めて言った。
 「配偶者死亡の場合は提出が必要ですが、なるほどこれだと提出不要となりますねえ、でも、もしかして提出しないでもよいかもかもしれません、調べますのでお待ちください」
 そして30分くらい待たされた結果は、
フローチャートにはそうなっていますが、申告書を提出してください
 要するにフローチャートの誤りというが不備である。

 このままでは今年配偶者に死なれたものは、みんなこの書類を提出しなくてもよいと判断するだろう。それで年金事務は問題がないのだろうか。
 わたしのようにこの一年で配偶者に死なれた人は、日本全国に何人いるのか知らぬが、特に珍しいこととも思われない。

 その場で書いて提出した。もっとも、これを提出しないと国が税金の取りそびれになる可能性があるのだから、納税する庶民にとっては都合がよいことかもしれれない。でもいまさらフローチャート印刷やり直しはしないだろうから、自己満足にすぎない。

(20241010記)


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2024/10/08

1838【横浜MM21浦島太郎】ぴかぴか整然超高層新都市ビジネス街には浦島太郎気分が湧きにくい

  この5年ほどコロナと介護で出歩けなかったが、8月から独り身になったのっで独り街歩きを少しづつ再開している。ついでに言えば、同時にやめていた酒飲みも少しづつ再開練習中である。
 街歩きはコロナ前にはしょっちゅうやっていて、何時間でも歩いていたものだが、介護で逼塞している間に、老いが進むとともに脚力が衰えた。老いてもまだ歩けるうちに、せっせと都市歩きをやっておきたい、転ばぬように杖を突いて。。

 復活してから訪ね歩く街は、5年もあれば大変化に十分な時間であり、まるで浦島太郎の気分になることもできて、それはそれで楽しいものだ。品川駅東地区新宿駅周辺地区についで、新横浜駅周辺地区に行ってみたが、駅そのものと新幹線には浦島気分だったが、町はそうでもなかったので、ここに書くほどのことはない。
 昨日は、横浜「みなとみらい21」地区(MM21)に浦島太郎気分を味わいに行ってきた。まあまあ太郎気分もなくはなかったが、新宿と比べるともの足りなかった。

 みなとみらい地区に入るのはたぶん5年ぶりだろう。わざわざ紅葉丘から掃部山に登り、山を下っていく昔のルートから、久しぶりのMM21である。
 国道16号を横断し、頭上を走るJR線路の高架をくぐり、すぐまた地上を走るJR貨物線の踏切を渡るという、せせこましいMM地区入口を過ぎると、途端に超高層街が現れるのが面白い。実はこの踏切あたりは、かつて巨大造船所時代には工場の門があったそうだから、伝統的には正し入り方である。

街からMM地区に入るには国道をわたり鉄道高架をくぐりぬける
 
鉄道高架をくぐり貨物線の狭い踏切を渡ってMMへ、昔このあたりが造船所の門だった

 もちろんもっと北や南の広い道から入るのが普通のルートだが、今日は久しぶりにこのルートにしたのは、浦島太郎気分のためである。踏切を過ぎると高速道路の高架をくぐるという、まことに念入りに現代風のゲートが仕組まれている。ここは昔のままの風景である。
 はいってしまうと広い広い道路に高い高いビルが立ち並んでいて、昔はこのあたりが原っぱだったことが不思議な世界になっていた。さすがに海だったころを知らない。

 ここにあった大きな広い平屋のDIY屋は、黒くて高いホテルのビルに変わっていた。ごちゃごちゃした住宅展示場も白いオフィスの超高層になっている。巨大なイベント会場もできている。汚らしい幟りやら小旗がはためいていた野天の自動車屋はどうしたのかしら。子供でにぎわっっていたアンパンマンなんとかってのはどこに行ったのだろうか。


 浦島太郎気分であたりを見まわしつつ歩けば、広い道路に沿って一様に白っぽい壁と黒っぽいガラスの似たような超高層ビルばかりが並び立ち、歩道がにぎわうことはなさそうだ。ちょっと寄ってみようかなと思った建物は、神奈川大学が新キャンパスの白い超高層であった。ここだけは広場に学生たちがいて、3階あたりまで一般開放しているらしいから、人影があるのがよろしい。広い芝生がないキャンパスは寂しい。

 アトランダムに風景を載せる。






 モールの樹木は高くなり緑が繁って、景観がよくなっている。でもビルの姿は空き地に大きなものが建っても基本的には変わりがないというか、別に面白くもないものだ。


  PCの中を探したら上の写真と同じアングルの10年前の写真を見つけた(下図)。遠くの正面にビルが建ち、左の空き地にもビルが建ったところが変化だろうか。
10年前のモールは緑が貧弱で街に潤いがなかった
 
 ふらふらとあてどもなく歩く。用がなくて動くのだから、変化がないと疲れてくる。似たようなオフィス然としたファサード構えばかりではなくて、店舗の賑わいにも出会いたいのだが、それがなんだか難しい。任意に撮ったどの写真を見てもわかるように、全体に広告や看板類の規制が実によく働いていて、それらが一つも見えない。だから歩いていてもビルの前まで来てはじめて、あ、ここは食べ物屋か、食品量販店か(スーパーマーケットともいう)、お茶飲めるな、ここでは酒飲めるかもしれないな、なんてことをようやくわかる。
 
 これは来訪者には不親切だが、ここで暮らし働く人たちだけがが、それらの場所を分かればよいのだろう。観光客を呼びたいとは思わないのだろう。街の賑わいなんてことよく言われるが、一方で街の景観なんてことも言われるようになり、これらは対立概念ではないが、ここのような新しい街を作るときにどちらに親切になるように傾くのか、興味がある。

 でも考えると、今どきは誰もがスマートフォンを持っており、その中にある町案内に頼って歩けば、どこに何があるかわかる。ビルの上やら前やらに看板広告を掲示する必要がないのだろう。なるほどネット時代は街の景観をすっきりさせるのか。今に中華街もすっきりするのだろうか?

デッキレベルの歩行者ネットワークも充実してきた

 かつては横浜駅からアクセスすると、広い空き地だらけで、草ぼうぼうの地を眺めながら歩いたものだが、それが懐かしくなって、PCの中を探してみた。アトランダムにそれらの原風景を載せておくが、今となっては私にはどこであったかわからない。まさに浦島だ。
2011年12月13日

2011年12月13日

2014年3月25日

2009年10月1日

2014年3月25日

でも、まだ空き地はあり、こんな風景がごうごうと音を立てていた。

 総じていかにもニュータウン的ビジネス街になってきたが、どこかで見てきたような新都市風景であって、どこかに計画の鬼が潜んでいるらしい。しばらく見ぬ間に自然に変わったのではないから、浦島太郎的気分がわかなかった。新しいものばかりだと記憶がないからだろう。

 みなとみらいプロジェクトはこのあたりメインの地域だろうが、私の好みとしては新港地区の方がはるかに面白い。もう20年もたてば、MM21のピカピカ地区もいろいろと崩れたところが出てきて、味が出てきて面白くなるかもしれない。その時に私が訪ねてくることはありえないが、もし来たらそのときは浦島太郎になれることであろう。

 最後に2014年と2022年のグーグルアース写真を載せておく。
2014年3月16日MM21空撮 google earth

2024年2月12日MM21空撮 google earth

 (2024/10/08記)

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2024/10/02

1837【東京科学大学】工業から科学へ母校の名が変わりなぜか肩身が広がる気分


 2024年10月1日から、東京工業大学と東京医科歯科大学が統合して、「東京科学大学」というのだそうだ。

 まさかと思うが、「千葉科学大学」というのがすでにあって、経営難で自治体に引き取ってくれと言っているそうだから、東京科学大学もその系列で経営難から統合して一つになった、なんてのではあるまいな。

 なんしろ統合したら国からの運営交付金の金額的ランキングが上昇したらしいから、つまり懐が豊かになったらしいので、統合は金銭的にメリットがあるんだろうなあ。

 わたしはその片割れのひとつの大学を卒業したけど、あまり昔過ぎて関係ないからどうでもよいのだ。あ、ちがうな、実は毎年の桜の季節にキャンパス花見に遊びに行っているから、無関係とはいいがたい。あの花咲くキャンパスを、増えた運営交付金投入して、これからも維持してくださいませ。参照:2024大岡山花見

 ところで、卒業生たちはこれまでは「工大」とテキトーに縮めて呼んでいたが、これからは「科大」というべきだろうか。なんだか合併でたくさん課題が出てきているのではあるまいな、いやまあ過大な期待をしないでおこう。

 あそうだ、英文の方はどうなるのだろうかとネットを見ると正式には「institute of science tokyo」、略して「science tokyo」というそうだ。これをさらに略して「IST」か「ST」かしら。

 私が学生だった頃は「tokyo institut of technology」を略して「TIT」といったものだが、これは英語の隠語ではイヒヒなので(かどうか知らぬが)、最近は「tokyo tech」と略称していたようだ。

 ところで旧名大学の卒業生はこれからは母校名をどう呼べばよいのかしら。今日の新聞に載っている石破内閣の大臣の中に、ここの卒業生が一人いるが、出身校名は東京科学大学ではなくて旧名のままだったが、そうするものなんだろうか?

 わたしはこれまで「工業」と着く大学名がどうもダサすぎると思っていたから、「科学」に換わってちょっと嬉しい、ちょっとは賢くなるような気がする。だって、科学というなら社会科学もお勉強するんでしょ、わたしのころはがちがちの製造屋ばかりだったもんなあ。

 実はわたしは「遺構による近世公家住宅の研究」(その一部はこちら参照)というまことに工業的でない建築史の卒論を書いて出たものだから、「オレは理工学部卒じゃなくて文学部卒だ」と勝手に言っているので、これでようやく肩身が広くなるかも?、狂歌を、、。

工業から科学へ母校の名が変わりなぜか肩身が広がる気分

(2024/10/02記)

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