今年は雨の夏が長かった。外に出て歩く時間がまり無いと、その分だけ老いが進む。とくに私は今、歩行能力が下がりつつあるのを通説する。まだ何とか歩けるが、歩行速度が今や時速1キロ程度になってしまった。何とかリハビリして元に戻したい。
そこで初秋になりようやく晴れの日が続くので、遠足に出かけるのだ。もともと歩くのだけは得意だったのに、それが衰えては老衰そのものだ。とにかく出かけてマイペースで歩くのだ。さて今日はどこに行こうかと考えつつ、朝起きたらすぐに昨日夕食の残り物を弁当にした。
さてどこに出かけようか、いつもの根岸森林公園や掃部山は飽きたしと、グーグルマップを睨んだら、比較的近くの市街地の中にぽっかり浮かぶ緑の小山があり、森の中には寺院もあるらしいことが見て取れる。この森は面白そうだと興味がわいた。
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| グーグルマップで見つけた今日の遠足先 市街地の中にぽっかり浮かぶ緑の島 |
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| 森の中には寺院があるらしい |
だが、石段下でたじろいだ。急な石段には手すりが無いのだ。今の弱った足のわたしは、這ってしか登ることも下ることもできない。そうしてもよいのだが、ちょっと面倒だ。出鼻をくじかれたが、いまどきだからどこか別のところに車の登れる道もあるだろうと探す。
見当つけて山裾をゆけば、住宅地の先には森の中に入り込む緩やかな道があった。森の中にの斜面地には、かなり古そうな墓地があり、それらを森が包み込もうとしている。なかなか良い雰囲気である。
その墓地を抜けて登ってゆけば、平場らしいところに出た。草むらの中と低木に囲まれて鐘楼がある。いかにも鐘楼らしい建築だ。その向こうには本堂らしい建物も見える。なかなかに立派な寺院だが、今は草木に覆われつつあるようだ。
| 左は鐘楼、右は本堂 |
| 鐘 楼 |
| 本 堂 |
さらに道とも言えない草の間の踏み後をゆくと山門があり、これは先ほど石段下から見上げたものらしい。見ると組み物や装飾彫刻もあり本格的な建築だ。山門の正面には、方形の瓦屋根を乗せた本堂が立っている。二軒には組み物はなく、柱頭には素朴な舟形が並ぶのが見える。基本的な形は古い茅葺の寺院建築らしい均整の取れた形だ。この平場の建築群がこの寺院の中心部らしいが、全体に草木に覆われつつあるのを見て取れる。
かつては寺院の本堂前あたりのまえは、寺院広場として整えていたらしく、それらしい樹木もあるのだが、全体に庭園的な手入れが長く放棄されているらしく、自然の形に帰りつつある。地表のほとんどは草に覆われ、野草が花を咲かせている。山裾から低木軍が押し寄せてきて、かつての森に帰りつつあるようだ。
その草むらの中にしつらられたベンチに座り、周りを眺めまわす。そう、ここは今、自然の森に還りつつある景観である。自分空間と自然空間とがせめぎあいっているが、どうやら自然側のほうがイニシアチブを握りつつあるらしい。わたしはこの景観を好きだ。
昔は本堂前の庭であったらしい草ぼうぼうの広場には、樹木や敷石の小道がある。地面はどこも草が生え放題で、そこかしこに自生したらしい低木類が繁茂している。かつては庭園的なしつらえがあったようだが、今は庭としては荒れ果てて、自然の植生がはびこる。
なかなか立派な境内のしつらえと庭園的植樹もあるが、葛がからみ蜘蛛が巣が張り、周りの山からも緑があふれ込みつつつつある。秋草の花がそこここに咲き、まさに自然に買えりゆく景観で、それなりに興味深く、しかも快い風景だった。
| かつての寺院庭園の石灯籠が還りくる植生群落の中に立ち尽くす |
| 足元は種々の草花 |
| 背後から森が迫ってくる |
| 座ったベンチの周りも野趣のある草花が咲き乱れる |
柵があって見に行けなかったが、本堂の裏あたりには大きな池もある立派な庭園があるらしいことが、グーグルアースでわかる。今、森がそれらを覆いつくそうとしていることも、よくわかる。ここはかつて人間が深い森を切り開いて広場や庭園や建築群の人文の宗教的秩序空間が、自然の植生遷移の空間秩序へと還っていく過程を見事に見せている。
| 右は山門 この荒れ寺景観が実に心地よかった |
なお、ネットで調べると、かつて江戸時代は、この地域ではかない栄えた寺院であったらし。今は山門、本堂、鐘楼、庫裏しか建っていないが、かつては灌頂堂、客殿、山門、長屋門、鐘楼、経蔵、弁天堂、宝篋印塔などのある伽藍であったようだ。
その灌頂堂がいまの本堂であり、17世紀末の方形屋根の乗る古建築で、二軒には組み物はなく、四周の壁の各柱の上には素朴な舟肘木が乗って梁を支える。もとは茅葺屋根だったそうだから、素朴にしてさぞ美しい姿だったろうと思わせる。
こうして人文と自然のせめぎあい、いやむしろ融合への道程というべきか、その景観をゆっくりと眺め回すのは、ゆったりとした心を養ってくれたようだ、そうだ、思えば、これはわたし自身の姿のようにも思うのだ。
そう、わたしは今、人間から自然へと還りゆく道程の最後あたりの場面にいるのだ。わたしという老いさらばえた一人の人間は、この自然が迫る景観の中に溶け込んでいたに違いない。その時は卒呪の自分を忘れていたようだ。
(2026/10/20記)



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