東日本大震災復興への提言として、植物社会学者の宮脇昭さんが、「森の長城」づくりを提言している。津波が襲った三陸から東北地方の太平洋側海岸に、300kmの森による防波堤を築こうというのである。
しかもこの万里の長城は、震災ガレキを使って土を混ぜて高く盛り上げ、その上には潜在自然植生種の苗木を、市民参加で植えていくのだ。
これはもう40年以上も前から、宮脇さんが提唱して実施している通称「宮脇方式」といわれている森づくり手法で、全国の学校の環境林、道路の騒音防止、工場緑化、ダム緑化などに実現している。
今回の提言はそれらの延長上にあるのだが、これまでと大きな違いは、宮脇さんが特定のプロジェクトとして提言していることだ。これまで宮脇方式は、どちらかというと開発計画が先にあって、これに対応して宮脇さんに指導を受けて森を造るのであった。
推測だが、宮脇さんが自らのプロジェクトとして実現した森は、横浜国大のキャンパスだけのように思う。これは宮脇さんが最初に手がけた、ご自身の研究拠点であり、これが成功したことが、次へのステップとなったのである。
そして潜在自然植生という宮脇理論と、それによる宮脇方式「ふるさとの森づくり」を、宮脇さんは繰り返し唱え続けてきている。
だが、それが緑化のメインストリームとはならない。
宮脇方式を導入する森づくりは、いつも彼にたまたま共鳴した奇特な人々による特殊な事例であり続けるのだった。
宮脇さんは浜岡原子力発電所の防災林作りのための調査も行っていて、海側に津波よけの森づくりを提案したが、海側は津波対策は大丈夫だからと断られ、裏山を切り崩してできた崖地に宮脇方式の森をつくったそうだ。
宮脇方式が普及しないのは何故だろうか。
そこには日本の森に関する研究と実践において、宮脇さんの理学部系の生態学派と、農学部系の林学及び造園学派の対立があるらしい。宮脇さんの提唱する常緑広葉樹林に対して、造園学派からの強烈な反駁の文章を読んだことがある。
今回の宮脇さんの提言には、根こそぎ津波にやられた松林の海岸林は、その植生が間違っていたと痛烈に述べる。
宮脇さんに言わせると、津波で何万本も根こそぎ倒れたのに一本だけ残って有名になった陸前高田の奇跡の一本松は、健気どころか失敗の象徴であることになる。
海岸に松を植えることは、全国的に当たり前に行われている。この松林の海岸林を作ったのは林学派だろうから、そちらの反発が多分ありそうな気がする。
わたしから見れば、生態学派は森へ人間も含む生物の生命からアプローチし、林学造園学派は森へ人間の生活・生産からアプローチしていている。盾の両面だ。
その両者の間には、自然林、二次林、生産林、里山、庭園、田畑などの、いくつかの森や緑の様相がある。それが環境というものである。対立する意味がない。
ただし、造園業界からの反発は分る。だって、1本が百円かそこらの苗木では儲からない。お庭に立派な成木を持っていくと1本百万円だってとれるのになあ。
さて、ここに来てようやく宮脇さんからナショナルプロジェクトの提案である。一部の自治体や学校などで実行に移しているらしい。
この構想がこれまでどおりに、一部の奇特な人々による一部のプロジェクトで終わるのだろうか、それともナショナルプロジェクトに位置づけて、300kmの「森の長城」が実現するのだろうか。
宮脇さんの今回の提言を述べる最近の著書、『「森の長城」が日本を救う』(河出書房2012.3)を読んだ。「列島の海岸線を「いのちの森」でつなごう!」と副題がついている。
宮脇さんの著書は、1972年の「植物と人間」をはじめとして何冊もあって、わたしは宮脇研究室に出入りしていた頃、名著「日本の植生」(学研1977)の制作を手伝ったこともある。
一般書の内容は、ほぼ変わらない主張(キーワードは、潜在自然植生、鎮守の森、ポット苗、本物の森、混ぜる)が繰り返されており、今年の新著にもそれが述べられる。
昔と変わったところといえば、よく言えば思想的、はっきり言うとお説教的な言説が多くなってきたこと、そして同じことの繰り返しが多くなったことだ。
この繰り返しは、初めは気になるが、何回もいろいろな話の局面で登場すると、それはもう歌のリフレインのごとく、こころよく聞こえるのである。宮脇教の教祖様の唱える宮脇経である。
植物社会の秩序概念を人間社会にアナロジーとする言説は、分りやすいが人間はそうは行かないものだろうと気になることもある。
提言は三陸から福島にかけての300kmの森の長城プロジェクトだが、これは実は東海道ベルト地帯の海岸線にこそ緊急プロジェクトのはずである。
東北被災地がガレキをどこかに引き取ってもらいたいなら、こちらに持ってきて森の長城の基盤となるマウンド作りに使ってはいかがですか。
宮脇さんの提案そしてその理論と実際を知るには、下記のサイトが最も適切である。
●IGES 地球環境セミナー基調講演 (2012.3.23)
「効果的がれき処理と自然の再生:緑の防波堤構想」
横浜国立大学名誉教授 (財)IGES 国際生態学センター長 宮脇 昭
http://www.iges.or.jp/jp/news/event/20120323earthquake/pdf/1_miyawaki.pdf
宮脇さんの書いた本はどれも読みやすいが、その理論と実践を一番よくわかるのは、皮肉なことに宮脇さんの自著よりもノンフィクションライターが書いたものである。
「魂の森を行け―3000万本の木を植えた男」(新潮文庫 一志治夫 2006)
●「伊達の眼鏡」サイト内関連ページ
583イオンの森と津波
http://datey.blogspot.jp/2012/02/583.html
560核毒の森づくりが始まる
http://datey.blogspot.com/2011/12/560.html
479●21世紀の「谷中村」は「核毒の森」
http://datey.blogspot.jp/2011/08/47921.html
001ふるさとの森の大学キャンパス
http://datey.blogspot.com/2008/05/httpwww.html
2012/04/23
2012/04/22
608伊勢佐木モールの新顔店舗
伊勢佐木町の商店街に中型の店舗「カトレアプラザ」が開店した。そこは208年10月に閉店した百貨店の松坂屋があった跡地である。
伊勢佐木町の松坂屋は、横浜の関内・関外という昔からの横浜都心にある最後の百貨店であった。
その松坂屋の建物は、石に細工をした装飾をまとった5階建てで、デザイン的にはそれほどのものでもなかったが、かつてのデパート繁栄時代を偲ばせる堂々たるファサードだった。
わたしはこの松坂屋には買い物の用事はほとんどなかったが、4階にあった郵便局が自宅から一番近かったのでちょくちょくよったものだ。なんだかガランとしている印象がいつもあった。
それが閉店してから3年半、取り壊してまた何か建築していて、伊勢佐木町モールの重要な一角に長い板囲いで店が途切れていた。
ようやく再開した店舗は、3階建てで、一階には量販店、2階には安売り衣料や百円均一安売り店など、3階には美容院やマッサージなどがある。
これらの新たな店舗構成を見ていると、百貨店時代は確実になくなった、伊勢佐木町モールのどこか低落する様子を思わせる。
それは、この新ストアーの前に最近出店した安売り靴屋が、店頭路上に乱雑に商品を張り出し、客引き男が大声を上げていることに象徴される。
チェーン店やゲーム屋がだんだんと侵食してきている。老舗はどうなるのだろうか。わたしが用事がある唯一の老舗は有隣堂書店である。がんばってくれい。
さてこの新ビルは、表の3分の1ほどのエレベーションに、旧松坂屋ビルのファサードの一部をコピー再現している。その努力には敬意を表するが、あまり上手ではない。ファサード全部を再現する必要はないとしても、新旧の取り合わせが安易である。
内部にもちょこちょこと旧松坂屋デザインを継承している。以前のそれらを知っていると面白い。せっかくだから、その案内を掲示してはどうか。
伊勢佐木町の松坂屋は、横浜の関内・関外という昔からの横浜都心にある最後の百貨店であった。
その松坂屋の建物は、石に細工をした装飾をまとった5階建てで、デザイン的にはそれほどのものでもなかったが、かつてのデパート繁栄時代を偲ばせる堂々たるファサードだった。
わたしはこの松坂屋には買い物の用事はほとんどなかったが、4階にあった郵便局が自宅から一番近かったのでちょくちょくよったものだ。なんだかガランとしている印象がいつもあった。
それが閉店してから3年半、取り壊してまた何か建築していて、伊勢佐木町モールの重要な一角に長い板囲いで店が途切れていた。
ようやく再開した店舗は、3階建てで、一階には量販店、2階には安売り衣料や百円均一安売り店など、3階には美容院やマッサージなどがある。
これらの新たな店舗構成を見ていると、百貨店時代は確実になくなった、伊勢佐木町モールのどこか低落する様子を思わせる。
それは、この新ストアーの前に最近出店した安売り靴屋が、店頭路上に乱雑に商品を張り出し、客引き男が大声を上げていることに象徴される。
チェーン店やゲーム屋がだんだんと侵食してきている。老舗はどうなるのだろうか。わたしが用事がある唯一の老舗は有隣堂書店である。がんばってくれい。
さてこの新ビルは、表の3分の1ほどのエレベーションに、旧松坂屋ビルのファサードの一部をコピー再現している。その努力には敬意を表するが、あまり上手ではない。ファサード全部を再現する必要はないとしても、新旧の取り合わせが安易である。
内部にもちょこちょこと旧松坂屋デザインを継承している。以前のそれらを知っていると面白い。せっかくだから、その案内を掲示してはどうか。
2012/04/16
607原発再稼動時期は些細なこと?
政府の公式発言は、わたしのような高齢者にも分るように言ってもらいたい。
原発の「再稼動の時期に必ずしもこだわる必要はない」(細野原発担当相)
この人が発言している意味は、次のうちのどれなんだろうか?
どれにしても意味不明とか、おかしいような気がする。
①「再稼動の時期については、必ずしもさまたげになる必要はない」
②「再稼動の時期については、必ずしも気にしなくてもよいような些細なことなのでとらわれる必要はない」
③「再稼動の時期については、必ずしもなんくせをつける必要はない」
参考までに広辞苑にある「こだわる」の意味
①さわる。さしさわる。さまたげとなる。
②気にしなくてもよいような些細なことにとらわれる。拘泥する。
③故障を言い立てる。なんくせをつける。
原発の「再稼動の時期に必ずしもこだわる必要はない」(細野原発担当相)
この人が発言している意味は、次のうちのどれなんだろうか?
どれにしても意味不明とか、おかしいような気がする。
①「再稼動の時期については、必ずしもさまたげになる必要はない」
②「再稼動の時期については、必ずしも気にしなくてもよいような些細なことなのでとらわれる必要はない」
③「再稼動の時期については、必ずしもなんくせをつける必要はない」
参考までに広辞苑にある「こだわる」の意味
①さわる。さしさわる。さまたげとなる。
②気にしなくてもよいような些細なことにとらわれる。拘泥する。
③故障を言い立てる。なんくせをつける。
2012/04/15
606おバカネットSNS=Silly Network System
自慢じゃないが、わたしに英語でメールをくれる人はいない。いや、なくもないが、たとえば「Penis Enlargement Pills - $59.95 」とか「Discount 70% OFF, overthrow apples」とか「Viagra」とか、何のことかトンと分らない。
こういうやつは、そのまま屑メール篭に入るようになっているが、それをすり抜けてきたのが、「Invitation to connect on LinkedIn」とあって、なにやらクリックせよとURLが書いてある。
ご存知のごとく、運動部の先輩後輩関係は厳しいノダ。ハテ、どうしようかと悩み考えた。
思いついて、まずはカリフォルニア在住の山岳部同期生にメールを出して、こんなの来たけどどうするのかと聞いてみた。NASAでロケットを飛ばしていた電気屋だから分るだろう。
そいつにもそのメールは来ていて、さっそく先輩ご当人に問い合わせてくれて分った。
なんでもそれは科学技術者の間でのSNSであって、そのシステムが先輩のストックしているメールアドレスを勝手に引き出して、当人が知らぬ間に入会お誘いメールを世界中に発信したのだそうだ。
結論は「ホットケ」ということになった。お騒がせメールであった。それにしても、スマートフォン(スマホたあなんだよ)の普及で、どいつもこいつも歩きながら書き込んでいるらしく、いま頭が痒いとか、屁がでた、滑った転んだ、エエカゲンにせえ!
こちとら自慢じゃないが、スマフォなんてもなあ持ってねえんだ、PCでシコシコ書いてんだぞ。いや、べつにうらやましがってんじゃないよ、どうぞ歩きつつでも寝床の中でも便所の中でもおカキください。
あまりしょうもないことばかり書くヤツのは、「○○さんのフィード購読をやめる」の操作で、いっさい読まないようにしているのだ。ハハ、ざまあミロ。
で、その「フィード購読」が気に入らない。
フィードたあ何のことだよ、辞書を引いても分らない。状況判断して、それらしょうもない書き込み(あ、しょうもあるもののほうが多いデス)のことらしい。だったら「書き込み」って翻訳したらどうだ。
購読たあ、なんだよ。購読ってのは金だして買って読むってことだぜ、このフィードってくだらない書き込みを読んだら金をとるのかい、えかげんにせえッ。
どこからいくらの請求書がいつ来るのか、ビクビクしている毎日である。
ほかにもそういうのがいっぱいある。「いいね!」も珍妙であるが、これをあげつらうと日が暮れそう(夜が明けそう)だから、ここではやめる。
元は英語なんだろうが、訳語が分らないと安易にカタカナのままだし、分ったふりして翻訳すれば間違い言葉にするから、ますます分らなくなるSNS:Silly Network Systemである。
だったら、ヤメリャイイジャン、、う~ん。
2012/04/11
605日本橋上空高速道路撤去反対論
東京駅復原反対論がついに失敗したから、次はこれだっ。
今朝の朝日新聞に、東京・日本橋の上にかかる高速道路を、地下道路を掘って付け替えようというという検討を再開したしたというニュースがある。
「日本橋付近の地下化検討を 首都高改修で国交省検討会議」 2012-04-11
東京・日本橋の上を横切る首都高速道路を地下に埋めることができないか――。こうした課題を含め、首都高の今後のあり方を議論する国土交通省の検討会議が10日始まった。夏までに提言をまとめる。国の重要文化財でもある日本橋付近の地下化は、小泉政権時代にも議論されたが、財源が問題となっている。
首都高は主要路線の都心環状線などで1964年の東京五輪にあわせ整備を急いだため、川の上や堀を埋め立てて道路を造り、歴史的景観を損ねているとの指摘が強かった。国交省が10日に始めた「首都高速の再生に関する有識者会議」(座長=政治評論家の三宅久之氏)は、景観への配慮など今後のあり方を議論する。
(朝日新聞http://www.asahi.com/politics/update/0410/TKY201204100586.html)
日本橋だけのことではないらしいが、日本橋上空高速道路地下化は「またぞろ検討」の典型である。
ずいぶん前からこの話はあったが、2001年から小泉政権のときに伊藤滋委員長で構想を具体的に検討していたことがあったが、立ち消えた。
これについては、わたしのサイトに批評を書いたことがある。
また、わたしがたった一人で勝手に撤去もした報告がこれである。やってみて、たいしてよい風景が現れるのでもなかったが。
さて、近頃わたしはこう考えるようになった。
あの空中日本橋(橋の上の高速道路のこと)を、歴史的建造物として保全することに決めてはいかがでしょうか。
だって、あれは1964年の東京オリンピックに向けて、戦後復興の総仕上げとして東京大改造、そのシンボルプロジェクトですからね。
特に20世紀初期の日本近代へのテイクオフの象徴であった石造で優美な西欧的様式表現の“本家”日本橋と、戦後産業社会へのテイクオフの象徴であった鉄造の力強い即物的構造表現の“分家”日本橋とが対峙する風景は、二つの時代を重ね餅(二重橋か)にして見せてくれる貴重なる景観ですからね。
東京駅の赤レンガ駅舎が、20世紀初期の日本近代化期の姿と、戦後復興期の姿を重ね餅にして見せてくれていたのが、ついに消え去ったので、せめて日本橋の重ね餅風景を保全してほしいものです。
保全するならば、今のようにヘンな厚化粧している姿じゃなくて、オリンピック当時の鉄の箱桁が丸見えのダイナミックな姿に復原してくださいませ。
今朝の朝日新聞に、東京・日本橋の上にかかる高速道路を、地下道路を掘って付け替えようというという検討を再開したしたというニュースがある。
「日本橋付近の地下化検討を 首都高改修で国交省検討会議」 2012-04-11
東京・日本橋の上を横切る首都高速道路を地下に埋めることができないか――。こうした課題を含め、首都高の今後のあり方を議論する国土交通省の検討会議が10日始まった。夏までに提言をまとめる。国の重要文化財でもある日本橋付近の地下化は、小泉政権時代にも議論されたが、財源が問題となっている。
首都高は主要路線の都心環状線などで1964年の東京五輪にあわせ整備を急いだため、川の上や堀を埋め立てて道路を造り、歴史的景観を損ねているとの指摘が強かった。国交省が10日に始めた「首都高速の再生に関する有識者会議」(座長=政治評論家の三宅久之氏)は、景観への配慮など今後のあり方を議論する。
(朝日新聞http://www.asahi.com/politics/update/0410/TKY201204100586.html)
日本橋だけのことではないらしいが、日本橋上空高速道路地下化は「またぞろ検討」の典型である。
ずいぶん前からこの話はあったが、2001年から小泉政権のときに伊藤滋委員長で構想を具体的に検討していたことがあったが、立ち消えた。
これについては、わたしのサイトに批評を書いたことがある。
また、わたしがたった一人で勝手に撤去もした報告がこれである。やってみて、たいしてよい風景が現れるのでもなかったが。
あの空中日本橋(橋の上の高速道路のこと)を、歴史的建造物として保全することに決めてはいかがでしょうか。
だって、あれは1964年の東京オリンピックに向けて、戦後復興の総仕上げとして東京大改造、そのシンボルプロジェクトですからね。
特に20世紀初期の日本近代へのテイクオフの象徴であった石造で優美な西欧的様式表現の“本家”日本橋と、戦後産業社会へのテイクオフの象徴であった鉄造の力強い即物的構造表現の“分家”日本橋とが対峙する風景は、二つの時代を重ね餅(二重橋か)にして見せてくれる貴重なる景観ですからね。
東京駅の赤レンガ駅舎が、20世紀初期の日本近代化期の姿と、戦後復興期の姿を重ね餅にして見せてくれていたのが、ついに消え去ったので、せめて日本橋の重ね餅風景を保全してほしいものです。
保全するならば、今のようにヘンな厚化粧している姿じゃなくて、オリンピック当時の鉄の箱桁が丸見えのダイナミックな姿に復原してくださいませ。
2012/04/09
604渋谷の山手教会の建築が消滅(実はわたしの誤認だった)
渋谷の公園通りの坂道を、NHKに向かって登っていた。
と、左に大きな空き地ができている。はて、ここに何があったっけ?
建物がなくなると、そこに何があったか思い出せないことが多くなったのは、わたしの忘却力の向上のせいだろうか。
しばらく歩きながら考えていて、思い出した、ここに東京山手教会と共同住宅ビルがあり、地下に「ジャンジャン」という小劇場があったのだった。
引き返して写真を撮った。
手元の資料(RIA1953~1983 30年記念誌)を調べたら、後ろに共同住宅ビルとセットで建てたキリスト教会ができたのは1963年、50年前であった。設計はRIAと毛利武信の共同である。
見事に取り壊されて、次の建物の工事をやっている。たぶん耐震問題で建物の物理的寿命が切れたのだろうし、半世紀前と比べるとこの立地はほかの採算の良い不動産事業の適地になっているからだろう。
公園通りはパルコの進出で大きく変わったのは、1970年代だったろうか。いま、パルコのひとつは閉鎖されていて、公園通りに次への転機がきているらしい。
渋谷駅前にあった東急文化会館は1950年代半ばに建った記憶があるが、これも取り壊されてヒカリエ(妙な名前)の複合ビルになった。次は渋谷駅の大改造だろう。
わたしが学生の頃の渋谷は、駅の周りだけが繁華で、公園通りはもちろん、ハンズのあるあたりは怖い感じがしたものだ。
その後、どういうわけかガキどもが集まるゴチャゴチャしてきて、大人は敬遠する街になってしまったが、その一方で東急文化村ができた90年代から、大人もまた行く街になった。
わたしは松濤の観世能楽堂によく行ったから、渋谷の盛衰は興味を持ってみてきた。
東横線が地下鉄に直結して埼玉まで行くようになると、この街や東急沿線がどう変わるのか楽しみである。
身近では、東横線が横浜からMM地下線に直結して、横浜関内あたりが大きく変わりつつある現象を楽しく徘徊して見ている。
(追記2013/08/20)コメント欄に匿名の方から「当教会、未だ消滅しておりません。現存しております。アップルストアの前、GAPと西武 opening ceremonyにございます」と書き込みをいただきました。匿名の方には対応しないのですが、特別に。1963年に建てた教会建築はなくなっていることは確かです。おっしゃる意味は、教会は別のところに存続しているということでしょうか。まさかあんな大きな建物を曳家したのではないでしょう。表題を一部変えておきます。
(追記20141203)このブログに、また「消滅していない」とコメントをいただきましたので、現地確認したところ、わたくしの間違いでした。現にまだ存在しています。勘違いをお詫びいたします。
山手教会はいまも建っております。お詫びして訂正いたします。
と、左に大きな空き地ができている。はて、ここに何があったっけ?
建物がなくなると、そこに何があったか思い出せないことが多くなったのは、わたしの忘却力の向上のせいだろうか。
しばらく歩きながら考えていて、思い出した、ここに東京山手教会と共同住宅ビルがあり、地下に「ジャンジャン」という小劇場があったのだった。
引き返して写真を撮った。
手元の資料(RIA1953~1983 30年記念誌)を調べたら、後ろに共同住宅ビルとセットで建てたキリスト教会ができたのは1963年、50年前であった。設計はRIAと毛利武信の共同である。

見事に取り壊されて、次の建物の工事をやっている。たぶん耐震問題で建物の物理的寿命が切れたのだろうし、半世紀前と比べるとこの立地はほかの採算の良い不動産事業の適地になっているからだろう。
公園通りはパルコの進出で大きく変わったのは、1970年代だったろうか。いま、パルコのひとつは閉鎖されていて、公園通りに次への転機がきているらしい。
渋谷駅前にあった東急文化会館は1950年代半ばに建った記憶があるが、これも取り壊されてヒカリエ(妙な名前)の複合ビルになった。次は渋谷駅の大改造だろう。
わたしが学生の頃の渋谷は、駅の周りだけが繁華で、公園通りはもちろん、ハンズのあるあたりは怖い感じがしたものだ。
その後、どういうわけかガキどもが集まるゴチャゴチャしてきて、大人は敬遠する街になってしまったが、その一方で東急文化村ができた90年代から、大人もまた行く街になった。
わたしは松濤の観世能楽堂によく行ったから、渋谷の盛衰は興味を持ってみてきた。
東横線が地下鉄に直結して埼玉まで行くようになると、この街や東急沿線がどう変わるのか楽しみである。
身近では、東横線が横浜からMM地下線に直結して、横浜関内あたりが大きく変わりつつある現象を楽しく徘徊して見ている。
(追記2013/08/20)コメント欄に匿名の方から「当教会、未だ消滅しておりません。現存しております。アップルストアの前、GAPと西武 opening ceremonyにございます」と書き込みをいただきました。匿名の方には対応しないのですが、特別に。1963年に建てた教会建築はなくなっていることは確かです。おっしゃる意味は、教会は別のところに存続しているということでしょうか。まさかあんな大きな建物を曳家したのではないでしょう。表題を一部変えておきます。
(追記20141203)このブログに、また「消滅していない」とコメントをいただきましたので、現地確認したところ、わたくしの間違いでした。現にまだ存在しています。勘違いをお詫びいたします。
山手教会はいまも建っております。お詫びして訂正いたします。
2012/04/08
603花見は花街で(横浜ご近所探検隊)
今はなんといっても花の話。昨日今日と天気が良くて、ふらふらとご近所探検隊も花見に出かけた。
花を見るには、やっぱり花街でなくっちゃと、元がつく花町だけど黄金町界隈へ。今日は家族連れも大勢出てきて、大岡川沿いの満開桜の下で、道でのフリーマーケットやら飲み屋の屋台やらや川の上での音楽イベントやらを楽しんでいる。
だが10年前には家族連れが来るところではなかった。
黄金町あたりはいわゆる青線街だったところで、戦争直後の混乱時代は麻薬の魔窟といわれた街だったし、安定した時代が来ても非合法下半身商売地帯だった。
遊びに来ている家族連れたちほとんどが知らないだろうが(知る必要もないが)、間口1間程度の店に間仕切られた2階建てアパート風の建物があちこちにあるが、これらが売春店舗だった。
10年ほど前に夕方に通るとそれぞれの店の前に、モモもあらわな茶髪ミニスカラテン顔ネエチャンが立ち並んで客引きをしていたものだ。
道を歩くのはわたしのような野次馬はともかくとして、横須賀基地からやってきたと思しい若い男どもが多かった。
ある日の朝10時頃に通ったら、もう立ち並んでいて驚いた。
そのアダ花の咲きようがものすごいので、街歩き仲間を誘ってわざわざ散歩に来たものだった。
ものの本(「黄金町マリア」八木澤高明2006)によれば、一時はこのあたりに250軒の「チョンの間」があり、約500人の娼婦がいたそうだ。
その国籍は、中国、タイ、中南米、東欧そして日本と多様であった。でも歩いていて目に付くのはラテン系、つまり中南米系だった。10年ほど前に夕方に通るとそれぞれの店の前に、モモもあらわな茶髪ミニスカラテン顔ネエチャンが立ち並んで客引きをしていたものだ。
道を歩くのはわたしのような野次馬はともかくとして、横須賀基地からやってきたと思しい若い男どもが多かった。
ある日の朝10時頃に通ったら、もう立ち並んでいて驚いた。
そのアダ花の咲きようがものすごいので、街歩き仲間を誘ってわざわざ散歩に来たものだった。
ものの本(「黄金町マリア」八木澤高明2006)によれば、一時はこのあたりに250軒の「チョンの間」があり、約500人の娼婦がいたそうだ。
チョンの間利用料金は20分で1万5千円が相場、そのチョンの間営業のために借りている娼婦は月家賃20万円とか。
さて、今はソメイヨシノの花が咲き誇り、家族連れが花の街を行き逢っているが、いろいろな言葉が聞こえてきて、やはりここは多国籍の街である。
こうしてこの街が昔のことを忘れていけば、新たな都心生活の場として再生するに違いない。さて、今はソメイヨシノの花が咲き誇り、家族連れが花の街を行き逢っているが、いろいろな言葉が聞こえてきて、やはりここは多国籍の街である。
◆
もう6年ほども前に都市計画決定しながら、一向に動きが見えなかった駅前の市街地再開発事業が動き出したらしい。事業地区内の営業店舗のほとんどが閉店していて、そろそろ撤去作業が始まるようだ。
その一角を占めるのが、1950年代の防火建築帯の共同建築である。戦後復興の象徴のような事業であったが、今、ようやくにして次の復興の時代を迎える。
日之出町あたりも黄金町の続きで、その戦後史的な土地利用の名残が、ストリップ劇場とかエロ映画館とかが健在である。
その一方ではそばに野毛山公園があり、市立中央図書館があり、古書店がいくつかあるという雰囲気も持っている。
日ノ出町再開発が都心再生にどう機能するか、注目である。
◆
さて、横浜の花町といえば永真遊郭である(であった)。
黄金町から南へ300mほどのところに真金町・永楽町という、こちらは赤線地帯があった。つまり公認の遊び場であった。
その中のメインストリートの中央に分離帯があって、今桜の花の並木が咲き乱れている。でも、だれもこちらには花で騒ぐものはいない。
まわりは高層の共同住宅が立ち並んでいて、黄金町とは違ってすっかり様変わりの元花街である。
もうだれも昔は赤線地帯だったとは知らないみたいに過ごしているようだ。
さて、横浜の花町といえば永真遊郭である(であった)。
黄金町から南へ300mほどのところに真金町・永楽町という、こちらは赤線地帯があった。つまり公認の遊び場であった。
その中のメインストリートの中央に分離帯があって、今桜の花の並木が咲き乱れている。でも、だれもこちらには花で騒ぐものはいない。
まわりは高層の共同住宅が立ち並んでいて、黄金町とは違ってすっかり様変わりの元花街である。
もうだれも昔は赤線地帯だったとは知らないみたいに過ごしているようだ。
だが、なんとなく何かがありそうだ。それは高層共同住宅のネーミングに、真金町とか永楽町とつけているものがないので、どうやらイメージ上では避けているらしい。
ネーミングで地名をつけるときは、「大通り公園」(公園は元が川だからかなり長いのでこれでは場所特定はできないだろうに)、「関内」(ここは関外だから明らかに地名詐称、それとも1kmも遠くのJR線駅名か)、「長者町」(隣の隣の町の名前)等としている例ばかりだ。「阪東橋」と言うのがあったが、これはもう川がなくて橋もなくなったから地下鉄駅名である。
そのなかで「永楽」とつけたものをひとつ発見、どうやら遊郭イメージも忘却のかなたにきつつあるようだ。
ネーミングで地名をつけるときは、「大通り公園」(公園は元が川だからかなり長いのでこれでは場所特定はできないだろうに)、「関内」(ここは関外だから明らかに地名詐称、それとも1kmも遠くのJR線駅名か)、「長者町」(隣の隣の町の名前)等としている例ばかりだ。「阪東橋」と言うのがあったが、これはもう川がなくて橋もなくなったから地下鉄駅名である。
そのなかで「永楽」とつけたものをひとつ発見、どうやら遊郭イメージも忘却のかなたにきつつあるようだ。
数ヶ月前まで、遊郭建築らしい建物が一軒だけあったのだが、今日見たら駐車場になってしまっていた。
公衆浴場も消えて共同住宅になったし、残る遊郭街の延長の土地利用は、永楽町にある5~6軒のラブホテル街だけになったようだ。
ラブホには夜桜がよく似合う。
2012/04/06
602建築家2代の風景
特に背景に超高層ビルが見えると、その対比がなんともいえない良さがある。
ここにある交差点から、建築家丹下2代のなせる新宿風景を鑑賞することができる。かたや父・健三設計の東京都庁舎、かたや息・憲孝設計のデザイン学校である。 どちらがうまいとはいえないが、どちらかというと息子の、ひとつ目小僧包帯ぐるぐる巻きミイラビルのほうが、新宿によく似合う。
2012/04/01
601絆を解いて民族大移住時代へ
古希になったばかりの友人が、半世紀住んだ東京の住まいをたたんで、特に縁がある土地でもないのに、神戸に移住するという。聞けば、これまでとは違う環境で、これまでとは異なる生活をしてみたいのだそうだ。
わたしは高齢者に数えられる年齢になったときに、4半世紀過ごした鎌倉から、横浜都心に移った。でも、鎌倉に移る前には横浜郊外に住んでいたから、友人のように東京から縁もない神戸への差には及びもつかない。
ご当人の動機はともかくとして、これはなかなか素晴らしい移転先選択であると思う。そう、神戸は、日本では今もっとも地震に安全な大都市であるのだ。
まず、1995年の阪神淡路大地震から考えて、確率的には当分の間は(少なくとも生きている間には)大地震は来ないだろう。
そしてまた、いま話題沸騰の近未来に起きる本州南の太平洋側の大地震と大津波の被災予想地域から外れている。
●続きの全文はこちら「絆を解いて民族大移住時代へ」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/jinko-ido
わたしは高齢者に数えられる年齢になったときに、4半世紀過ごした鎌倉から、横浜都心に移った。でも、鎌倉に移る前には横浜郊外に住んでいたから、友人のように東京から縁もない神戸への差には及びもつかない。
ご当人の動機はともかくとして、これはなかなか素晴らしい移転先選択であると思う。そう、神戸は、日本では今もっとも地震に安全な大都市であるのだ。
まず、1995年の阪神淡路大地震から考えて、確率的には当分の間は(少なくとも生きている間には)大地震は来ないだろう。
そしてまた、いま話題沸騰の近未来に起きる本州南の太平洋側の大地震と大津波の被災予想地域から外れている。
●続きの全文はこちら「絆を解いて民族大移住時代へ」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/jinko-ido
2012/03/26
600山口文象設計戦前モダン木造住宅現存発見
建築家・山口文象の設計した建物探しは、いまだに新発見があって面白い。
先日(2012年3月)、世田谷文学館で、「都市から郊外へ―1930年代の東京」展覧会を見てきた。
その展示に彫刻家の菊池一雄のアトリエ建築の写真と、菊池の手書きのアトリエ案内地図があった。
おお、「菊池一雄アトリエ」は山口文象作品だ、思いがけない出会いに感激。これは1931年に建っているから、山口文象にとっては渡欧直前であり、建築家としてはまだ世に名が出ていないころの設計である。
石本喜久治の事務所で経験をつんではいるが、個人作品として現実に建った建築はまだ2、3作目のはずだ。
RIA所蔵の山口文象コレクションにもその写真はあるのだが、手書き案内図を見てこんなところに建っているのかと知ったのであった。
学芸員の方に聞くと、建築家・池辺陽による増改築の手が入っているが、現存しているとのこと。
早速に行ってみた。
元の山口文象デザインが変わっているとしても、池辺デザインならすぐわかるに違いないと、見当つけて歩いていたら、おお、やっぱり池辺デザインだ、これは。
例の池辺が一時期よくつかったことのあるスレート波板である。鉄骨と波板という工業製品を自在に組み合わせる池辺デザインが、鉄骨は見えないがここにも生きている。
もっとも、普通眼にはどう見ても工場にしか見えないので、そのデザインの意義は玄人にしかわからないだろうが。
道路は北側にしかないから見ているのは北面である。アトリエが建った頃はこの道路はなくて畑が広がっていた。
こちら側にあのアトリエのガラス面とガラス屋根そして急勾配瓦屋根の組み合わせによるモダンスタイルの立面があり、その峰から南に向かって大きな勾配屋根が下がっていっていた筈だ。
その北立面は全面にスレート波板の壁が立ち上がり、そのままスレート屋根になって登り、峰から南に南に向かって大きな勾配屋根が下がっている。
ふむ、これは南への大屋根は元のままで、北の壁を壁を壊してここに池辺デザイン増築をしたらしい。北側からみると昔の面影を伝えているものは、大屋根勾配とシャープな下屋庇であるようだ。スレート壁に瓦屋根の下屋が取り付いているのは、もとの瓦屋根のイメージ継承のつもりだろうか。
南側の庭の方を見ることはできなかったが、グーグルアースの衛星写真で見ると、大屋根のままだから、もしかしたらそちらは元のデザインがあるかも知れない。
山口文象とはかなり親しかった池辺陽だから、必ずやイメージとしては継承しているだろうと思う。
グーグルアースで見ると、周辺の家がどれも道路に直角に建てているのに、この菊池アトリエだけが南北軸にあわせていて、微妙にずれているのがわかるのだが、これはアトリエが当初の建物であることの証明である。
普通に見れば池辺デザインは異様であるが、それは芸術家の家であることのサインである。
山口文象作品でモダンデザイン木造住宅はひとつも現存しないと思っていたが、かなり変わってはいるがこれは現存している唯一のものだろう。
竣工時の写真では、まるで畑の中の一軒家のごとくであるが、いまはそれなり密度の高い住宅地のなかにある。
展覧会のテーマである「都市から郊外へ」については、1930年代から東京周辺の緑地帯は、こうやって住宅地化されていったのである。
そのなかで芸術家が果たした役割のようなことが、この菊池アトリエもそうだが、展覧会のひとつの柱らしい。
そこのところは、展覧会を見ても実はわたしにはまだよく飲み込めていないのだが、面白いテーマであるとおもう。
1930年代の東京の大きな変化は、1923年の関東大震災に起因するのである。
このところそのあたりの資料がありそうな展覧会で、この世田谷と、葉山の神奈川県立美術館での「村山知義展」、そして新橋パナソニックミュージアムでの「今和次郎展」をハシゴしたのであった。
そこで村山も今も、関東大震災を契機に新展開したことを確認したのであった。
建築家・山口文象を産み落としたのも同じく関東大震災であるから、20世紀末と21世紀はじめの東西の大震災は何を産み落とすのか、あるいは産み落とさないのか、興味があることだ。
参照→山口文象アーカイブス
先日(2012年3月)、世田谷文学館で、「都市から郊外へ―1930年代の東京」展覧会を見てきた。
その展示に彫刻家の菊池一雄のアトリエ建築の写真と、菊池の手書きのアトリエ案内地図があった。
おお、「菊池一雄アトリエ」は山口文象作品だ、思いがけない出会いに感激。これは1931年に建っているから、山口文象にとっては渡欧直前であり、建築家としてはまだ世に名が出ていないころの設計である。
石本喜久治の事務所で経験をつんではいるが、個人作品として現実に建った建築はまだ2、3作目のはずだ。
RIA所蔵の山口文象コレクションにもその写真はあるのだが、手書き案内図を見てこんなところに建っているのかと知ったのであった。
学芸員の方に聞くと、建築家・池辺陽による増改築の手が入っているが、現存しているとのこと。
早速に行ってみた。
元の山口文象デザインが変わっているとしても、池辺デザインならすぐわかるに違いないと、見当つけて歩いていたら、おお、やっぱり池辺デザインだ、これは。
例の池辺が一時期よくつかったことのあるスレート波板である。鉄骨と波板という工業製品を自在に組み合わせる池辺デザインが、鉄骨は見えないがここにも生きている。
もっとも、普通眼にはどう見ても工場にしか見えないので、そのデザインの意義は玄人にしかわからないだろうが。
道路は北側にしかないから見ているのは北面である。アトリエが建った頃はこの道路はなくて畑が広がっていた。
こちら側にあのアトリエのガラス面とガラス屋根そして急勾配瓦屋根の組み合わせによるモダンスタイルの立面があり、その峰から南に向かって大きな勾配屋根が下がっていっていた筈だ。
その北立面は全面にスレート波板の壁が立ち上がり、そのままスレート屋根になって登り、峰から南に南に向かって大きな勾配屋根が下がっている。
ふむ、これは南への大屋根は元のままで、北の壁を壁を壊してここに池辺デザイン増築をしたらしい。北側からみると昔の面影を伝えているものは、大屋根勾配とシャープな下屋庇であるようだ。スレート壁に瓦屋根の下屋が取り付いているのは、もとの瓦屋根のイメージ継承のつもりだろうか。
南側の庭の方を見ることはできなかったが、グーグルアースの衛星写真で見ると、大屋根のままだから、もしかしたらそちらは元のデザインがあるかも知れない。
山口文象とはかなり親しかった池辺陽だから、必ずやイメージとしては継承しているだろうと思う。
グーグルアースで見ると、周辺の家がどれも道路に直角に建てているのに、この菊池アトリエだけが南北軸にあわせていて、微妙にずれているのがわかるのだが、これはアトリエが当初の建物であることの証明である。
普通に見れば池辺デザインは異様であるが、それは芸術家の家であることのサインである。
山口文象作品でモダンデザイン木造住宅はひとつも現存しないと思っていたが、かなり変わってはいるがこれは現存している唯一のものだろう。
竣工時の写真では、まるで畑の中の一軒家のごとくであるが、いまはそれなり密度の高い住宅地のなかにある。
展覧会のテーマである「都市から郊外へ」については、1930年代から東京周辺の緑地帯は、こうやって住宅地化されていったのである。
そのなかで芸術家が果たした役割のようなことが、この菊池アトリエもそうだが、展覧会のひとつの柱らしい。
そこのところは、展覧会を見ても実はわたしにはまだよく飲み込めていないのだが、面白いテーマであるとおもう。
1930年代の東京の大きな変化は、1923年の関東大震災に起因するのである。
このところそのあたりの資料がありそうな展覧会で、この世田谷と、葉山の神奈川県立美術館での「村山知義展」、そして新橋パナソニックミュージアムでの「今和次郎展」をハシゴしたのであった。
そこで村山も今も、関東大震災を契機に新展開したことを確認したのであった。
建築家・山口文象を産み落としたのも同じく関東大震災であるから、20世紀末と21世紀はじめの東西の大震災は何を産み落とすのか、あるいは産み落とさないのか、興味があることだ。
参照→山口文象アーカイブス
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