こういう図が何度も出てくると、だんだんと不感症になりそうだ。
今朝(2013/05/29)の朝日新聞に載った、南海の虎が暴れたらこんなになるンだぞ、という恐怖予想図である。覚えのためにここに載せておく。
3・11以来、パンドラの箱か地獄の釜かの蓋が空きっぱなしになって、津波やら火山やら原発稼働やら地滑りやら洪水やら子殺しやら憲法改悪やら、コワいぞコワいぞなんとかしなくちゃ災害情報が、次から次へと出てくる。
ええい、勝手にしてくれと、言いたくなる。
でも情報を拒否はしない。不感症になってもきちんと見ておかなくっちゃ、とは思うのである。それは、自分が死ぬ原因くらいは知っておきたい、と思うからだ。
わたしのこれまでの人生は、戦争直後の少年時の空腹の日々はひどかったが、そのほかはそれほど悪くはなかったのに、これはどうも最後に来てどえらいことに遭遇しそうだ。
まあ、こちとらは歳が歳だから、明日にでも閻魔さまがこちらに避難しなさいって、お迎えにいらっしゃるかもしれないが、あの世の地獄とこの世のそれとどっちがいいかなあ。
明日にでも南海の虎が暴れるぞって、その筋の専門家たちがもう20年くらい言ってるような気がするが、待ちわびてるのじゃないけど、まだ来ないのかよ~。
とうとう、先生たちも、もういつ来るか予測がつかないよ~、って匙を投げたと、今日のニュースである。
まあ、人間の時間と地球の時間とが、あまりにスケールが違いすぎていて、とても人間の時間で測れないってことだろう。
2013/05/29
2013/05/28
780いったん出した鎌倉世界遺産登録推薦を成績不良だって取り下げるってカッコウ悪いだろうなあ
「不登録」というのか、「不記載」というのか、分かりやすく言えば「失格」か、鎌倉世界遺産登録「逆お墨付き」が、ユネスコから出てきそうな騒ぎになっている。
当局はしょうがないから、逆お墨付きが出てしまう前に、こちらから登録推薦の取り下げをすると決めたそうだ。
大学入学試験の1次テストの成績が受験資格剥奪になりそうなほど悪すぎたので、2次テスト辞退して、傾向と対策の勉強しなおして、また先々に受験しなおすってことか。
熊さん「ねえ、ご隠居、もういつになるか分からないけど、こうなりゃ、このままず~っと世界遺産登録運動し続けるってのも、まちづくりの前向きの動機になって、なかなかいいかもしれないって、あたしゃ思うんですよ」
ご隠居「そうだね、もたもたしているうちに200年もたって、歴史文化感が変わってしまう、鎌倉時代よりも昭和時代のほうが遺産価値がある、なんてことになるかも」
ご隠居「その間に、本気で世界遺産に登録したけりゃ、ああもしよう、こうもしよう、そうもしようって、誰もかれもが一緒になってお節介さん(世界遺産)に、、、なんてね」
●裏長屋の世界遺産談義(2009/12/05)
http://homepage2.nifty.com/datey/kama-sekaiisan.htm
●鎌倉若宮大路景観戯造
http://homepage2.nifty.com/datey/keikangizo/wakamiyaoji.htm
当局はしょうがないから、逆お墨付きが出てしまう前に、こちらから登録推薦の取り下げをすると決めたそうだ。
大学入学試験の1次テストの成績が受験資格剥奪になりそうなほど悪すぎたので、2次テスト辞退して、傾向と対策の勉強しなおして、また先々に受験しなおすってことか。
熊さん「ねえ、ご隠居、もういつになるか分からないけど、こうなりゃ、このままず~っと世界遺産登録運動し続けるってのも、まちづくりの前向きの動機になって、なかなかいいかもしれないって、あたしゃ思うんですよ」
ご隠居「そうだね、もたもたしているうちに200年もたって、歴史文化感が変わってしまう、鎌倉時代よりも昭和時代のほうが遺産価値がある、なんてことになるかも」
ご隠居「その間に、本気で世界遺産に登録したけりゃ、ああもしよう、こうもしよう、そうもしようって、誰もかれもが一緒になってお節介さん(世界遺産)に、、、なんてね」
●裏長屋の世界遺産談義(2009/12/05)
http://homepage2.nifty.com/datey/kama-sekaiisan.htm
●鎌倉若宮大路景観戯造
http://homepage2.nifty.com/datey/keikangizo/wakamiyaoji.htm
2013/05/27
779中越震災から再生した山里の棚田で田植えして東北震災地の農業のことも気になった
今年も山里の棚田で田植えをしてきた。2004年中越大震災復興の手伝いが縁で仲間たちと行くようになった、長岡市小国町法末集落である。
ひんやりとした田んぼの泥水の中に両脚を踏ん張り引き抜きつつ、黙々と早苗を植え進んでいく。近くの林からカッコウ、ウグイス、ホトトギスのさえずりがひっきりなしに聞こえる。
晩春の陽にゆるゆる照らされ、草木の緑に染まるほどに囲まれて、静謐な山里の風景に自分が融け込んでいることがわかる。
もちろん遊びの米つくり(GIFアニメ参照)であるが、今年でもう8年目である。
3段の小さな棚田を合わせて7アールの広さだが、10人ほどで1日半の田植え作業は、8年前のわたしに比べるとそれなりに年とったので、あの半端な中腰の姿勢を続けると、体にこたえることおびただしい。アミノバイタルを飲んだくらいでは効かない。
周りの田んぼはどこも機械農業の中で、この3段棚田だけが手で植えて、手で刈って、自然乾燥という、古典的な手法をつかう米つくりである。
もっとも、はじめは手による草取りもやっていたが、さすがにできなくなって今は除草剤を入れている。
田植えしてきたといっても、田植えまでには現地でいろいろな作業がある。それは現地住まいの仲間がやってくれる。
次は稲刈りだが、そこにいたるまでにはいいろいろと日常作業がある。植えておけば稲が勝手に育つのではない。
夏には緑、秋には黄金の敷物で覆われる美しい棚田風景は、天候を見ながらの絶え間ない管理があればこそである。
だが、集落のあちこちの棚田が耕作放棄されて、草が生い茂り、萱原となり、木々が育つ風景が見える。農業機械が入らない場所や、震災で水の道が絶たれたり、営農者が高齢化しても後継者がいないなどが主な原因である。
営農をしたいと新住民が入るには、豪雪の棚田の山里はなかなかに難しいようだ。でも、冬は近くの街の中に住まい、雪解けになったら山里に住んで農作業するという生活スタイルはありうる。
現に山里生まれ育ち山里住まいであった人たちの中で、街に住まいを持ち、いわゆる2地域居住をしている人たちもいる。
今、こうして平和な風景だが、2004年からの数年は、今、東北地方で起きていることがここでもあったのだ。地が割れ、棚田は崩れ、道が切れ、家が傾き、集落全員が避難所生活を強いられた。
話題は漁業集落のことが多い東北でも、実は農業集落で広大な農地が津波で潮をかぶって被災している。
中越地震被災の山里では、崩れた棚田をブルドーザーが動き回り、幾何学的な棚田に作り直した。風景としては味気なくなったが、農作業をしやすくなった。営農者は減ったが、棚田面積は増えた。
さて、東北の津波塩害農地は、どう復興するのだろうか。
参照:中越山里の暮らしコラム
ひんやりとした田んぼの泥水の中に両脚を踏ん張り引き抜きつつ、黙々と早苗を植え進んでいく。近くの林からカッコウ、ウグイス、ホトトギスのさえずりがひっきりなしに聞こえる。
晩春の陽にゆるゆる照らされ、草木の緑に染まるほどに囲まれて、静謐な山里の風景に自分が融け込んでいることがわかる。
もちろん遊びの米つくり(GIFアニメ参照)であるが、今年でもう8年目である。
3段の小さな棚田を合わせて7アールの広さだが、10人ほどで1日半の田植え作業は、8年前のわたしに比べるとそれなりに年とったので、あの半端な中腰の姿勢を続けると、体にこたえることおびただしい。アミノバイタルを飲んだくらいでは効かない。
周りの田んぼはどこも機械農業の中で、この3段棚田だけが手で植えて、手で刈って、自然乾燥という、古典的な手法をつかう米つくりである。
もっとも、はじめは手による草取りもやっていたが、さすがにできなくなって今は除草剤を入れている。
田植えしてきたといっても、田植えまでには現地でいろいろな作業がある。それは現地住まいの仲間がやってくれる。
次は稲刈りだが、そこにいたるまでにはいいろいろと日常作業がある。植えておけば稲が勝手に育つのではない。
夏には緑、秋には黄金の敷物で覆われる美しい棚田風景は、天候を見ながらの絶え間ない管理があればこそである。
だが、集落のあちこちの棚田が耕作放棄されて、草が生い茂り、萱原となり、木々が育つ風景が見える。農業機械が入らない場所や、震災で水の道が絶たれたり、営農者が高齢化しても後継者がいないなどが主な原因である。
営農をしたいと新住民が入るには、豪雪の棚田の山里はなかなかに難しいようだ。でも、冬は近くの街の中に住まい、雪解けになったら山里に住んで農作業するという生活スタイルはありうる。
現に山里生まれ育ち山里住まいであった人たちの中で、街に住まいを持ち、いわゆる2地域居住をしている人たちもいる。
今、こうして平和な風景だが、2004年からの数年は、今、東北地方で起きていることがここでもあったのだ。地が割れ、棚田は崩れ、道が切れ、家が傾き、集落全員が避難所生活を強いられた。
話題は漁業集落のことが多い東北でも、実は農業集落で広大な農地が津波で潮をかぶって被災している。
中越地震被災の山里では、崩れた棚田をブルドーザーが動き回り、幾何学的な棚田に作り直した。風景としては味気なくなったが、農作業をしやすくなった。営農者は減ったが、棚田面積は増えた。
さて、東北の津波塩害農地は、どう復興するのだろうか。
参照:中越山里の暮らしコラム
2013/05/24
778昔々山岳部のオレも三浦雄一郎みたいに広告媒体になってもいいからヒマラヤに登りたいものだ
三浦雄一郎なる80歳の年寄りが、チョモランマ(ネパールから登ったのだからエベレストじゃない)に登頂したとて、報道屋が騒いでいる。
先般、ネパールに行ったが、聞くところによれば、近頃はヒマラヤの高峰でもカネさえ出せば、シェルパたちが背負って連れて行ってくれて、ヤッコラサと押し上げてくれるのだそうだ。あ、三浦さんのチョモランマのことじゃないよ、あくまで一般論、、。
(この写真は本文と関係ありません。2011年4月にわたしが撮ったポカラから見るヒマラヤ)
ポーラー法登頂時代から、ルートハンティング時代になり、無酸素とか単独行とかのプロフェッショナル時代も過ぎて、今じゃあヒマラヤ高峰に登るのは女性でも珍しくない時代になった。
だから、年齢とか回数とか特別のことだけがニュースネタになる。
そしてただ今のニュースでは、現地で81歳の男がチョモランマ登頂準備中だそうだ。ネパールの人だそうだから、もしかしたらシェルパか。
考えてみると地元のシェルパの登頂はニュースにならないが、かれらはもう何十回もそして超高齢者も登頂しているに違いない。
次は若さ競争になって、少年が、いや乳幼児が登頂する時代になるんだな。
今朝の朝日新聞(2013年5月24日)の一面に大きく、三浦さんが旗を持っている写真が載っている。そこにこの登頂の金蔓らしい企業名などが書いてある。(こちら)
なになに、酒屋、原発屋、金貸し、車屋かよ、、、ふ~ん、なるほどそうか、マラソンのゼッケンと同じで、これも広告媒体の三浦さんであったか。
ああ、昔々山岳部のオレも、チョモランマ登りたいなあ、、だれか、、。
参照→156昔山岳部
http://datey.blogspot.jp/2009/07/156_18.html
先般、ネパールに行ったが、聞くところによれば、近頃はヒマラヤの高峰でもカネさえ出せば、シェルパたちが背負って連れて行ってくれて、ヤッコラサと押し上げてくれるのだそうだ。あ、三浦さんのチョモランマのことじゃないよ、あくまで一般論、、。
(この写真は本文と関係ありません。2011年4月にわたしが撮ったポカラから見るヒマラヤ)
ポーラー法登頂時代から、ルートハンティング時代になり、無酸素とか単独行とかのプロフェッショナル時代も過ぎて、今じゃあヒマラヤ高峰に登るのは女性でも珍しくない時代になった。
だから、年齢とか回数とか特別のことだけがニュースネタになる。
そしてただ今のニュースでは、現地で81歳の男がチョモランマ登頂準備中だそうだ。ネパールの人だそうだから、もしかしたらシェルパか。
考えてみると地元のシェルパの登頂はニュースにならないが、かれらはもう何十回もそして超高齢者も登頂しているに違いない。
次は若さ競争になって、少年が、いや乳幼児が登頂する時代になるんだな。
今朝の朝日新聞(2013年5月24日)の一面に大きく、三浦さんが旗を持っている写真が載っている。そこにこの登頂の金蔓らしい企業名などが書いてある。(こちら)
なになに、酒屋、原発屋、金貸し、車屋かよ、、、ふ~ん、なるほどそうか、マラソンのゼッケンと同じで、これも広告媒体の三浦さんであったか。
ああ、昔々山岳部のオレも、チョモランマ登りたいなあ、、だれか、、。
参照→156昔山岳部
http://datey.blogspot.jp/2009/07/156_18.html
2013/05/23
777津波被災地再生にも流行らしい太陽光発電メガソーラーって本当にいいものなのかしら
メガソーラー発電所を野蒜につくるそうだ。こんなニュースは普通は見逃すのだが、たまたま津波で被災した東松島市の野蒜地区のことを書いていたので、目に留まった。
メガソーラー発電所とは何のことか、よくはわからないが、広い土地に太陽光発電装パネルをいっぱい並べて、大規模な発電をするところらしい。
野蒜海岸のそばの津波で一切が壊れた公園跡地に、先般、行った時に工事中だったのを見たことを思い出した。
東松島市が発表した資料を見ると、発電事業に参入した企業がつくって営業するようであり、不毛になった津波被災跡地の活用策として、市が市有地を貸して誘致したのだろう。公園の再建をあきらめたのか。
ここで発電して電力会社に売るのだろうか。
その技術的なことやら経営的なことやらはわからないが、この立地が本当に良いのだろうか。
絵を見ると野蒜海岸に近い松林(復旧するのだろう)の中にあるようだが、ここは津波でやられたところだから、次の津波にもやられるような気がするが、それでも立地するのだろうか。
まあ、確率的に言って次の大津波は100年先とすれば、メガソーラー発電はそれまでには十分に採算が取れる商売なのだろう。
どうも福島原発事故以来、いま、ソーラー発電は時流に乗っているらしい。津波がもたらした時代の新しい流れである。そこに発電事業参入企業も目をつけている。
そしてまた同じ津波による被災地においても、集団移転跡の広大な空き地に、その発電所を誘致して新たな産業を起したいとする復興計画を考える。東松島市だけではなくて、あちこちでその動きがあるらしい。
発電所はできたとしても、作った電気は電線で他に持っていけばよいのだろうから、それが被災地に他の産業を誘致する種になるのだろうか。
産業誘致も難しい地理的条件で、人間が住めない広い土地となれば、土地代も安いだろうから、発電新規参入企業もこれをチャンスに被災地への発電所立地を意図するだろう。
もちろん津波被災地だけではなく、農業地域の農業後継者がいなくなって広がるばかりの耕作放棄地も、目をつけられているようだ。ちょっとまえは、稲を植えるよりも住宅や大型店を植えると儲かると田畑がつぶれていったが、今や植えるものがなくなって発電機を植える時代となった。
ところで、太陽光発電は、発電原資エネルギーが太陽熱なので、エコロジカルともてはやされているが、大規模な太陽光発電所そのものは果たしてエコロジカルなのだろうか。
ネットでいくつかのメガソーラー発電所なるものの画像を見つけたが、どうも気にかかる。すなおに受け入れられないのである。
とにかく草も木も生えない広大な土地を必要とするらしい。地表を一面に真っ黒な板で覆いつくしてしまって、これはとても生態的つまりエコロジカルではない。
なにしろ太陽の光だけが頼りだから、地上に設ける場合は、周りにビルがあるとか、枝葉の繁る樹木や背の高い草とかで、日陰ができるような環境はもってのほからしい。建物の屋根や屋上に設けるのは良いが、建物によって設置が制限される。
だから広い、真っ平ら、あるいは緩やかな南下がりで、何もない土地でなければならないらしい。
発電パネルの下から草や木が生えてきては困るので、コンクリートで固めたり、砂利やシートを敷き詰める。
これでは広大なる荒地であり、まるで砂漠である。
普通の大規模工場でも敷地周りや構内に緑を配しているし、工場立地法によって発電所は敷地の25%以上緑化義務がある。ところが、このソーラー発電工場は、工場立地法から除外されていて緑化義務がない。よくわからないが、環境アセスメントも必要ないらしい。広大な砂漠をつくってもよいのである。
そこには従業員はほとんどいないらしいが、ほんとうに何ヘクタールもの広大になってくると、はたしてよいものだろうか。熱風が吹くとか、周辺地区の微気候に影響がでるような気がするが、どうか。野蒜ならば、せっかく松林を復元しても、枯れるかもしれない。
景観的にも、真っ黒パネルの広がるのは、おぞましい風景である。
中山間地で耕作放棄地が広がっているから、平地の田畑ばかりか、なだらかな南斜面地の棚田空間も狙われやすいかもしれない。ここがメガソーラー発電所になると、いったいどんな風景になるのだろうか。
放棄された田園は、それなりに草木が生えてきて緑豊かな自然空間に戻っていくのが、日本の気候風土である。
それがエコロジーだとか土地の有効利用とかの美名に聞こえる仕業のもとに、一面の鉄とガラスのパネルで真っ黒に覆われてしまって、実質的に砂漠化するといったいどうなるのか。
海面埋め立て地のような平らなところは好都合だろうから、津波被災移転跡地や売れない工業用地などの海辺立地も多くでるらしいが、津波が来るとどうなるのだろうか。
津波で破壊されても原発のように核毒を出すことはないが、発電機能は絶えるだろう。電力が絶えること自体が問題だろう。
そもそも津波や地震で危ない立地に発電所をつくること自体に、根本的な問題があるだろうと思う。
ネットで見るメガソーラー発電所のメリット・デメリットの記事には、こういう土地利用面や景観面のことは出てこない。いろいろと疑問がある。
メガソーラー発電所とは何のことか、よくはわからないが、広い土地に太陽光発電装パネルをいっぱい並べて、大規模な発電をするところらしい。
野蒜海岸のそばの津波で一切が壊れた公園跡地に、先般、行った時に工事中だったのを見たことを思い出した。
東松島市が発表した資料を見ると、発電事業に参入した企業がつくって営業するようであり、不毛になった津波被災跡地の活用策として、市が市有地を貸して誘致したのだろう。公園の再建をあきらめたのか。
ここで発電して電力会社に売るのだろうか。
その技術的なことやら経営的なことやらはわからないが、この立地が本当に良いのだろうか。
絵を見ると野蒜海岸に近い松林(復旧するのだろう)の中にあるようだが、ここは津波でやられたところだから、次の津波にもやられるような気がするが、それでも立地するのだろうか。
まあ、確率的に言って次の大津波は100年先とすれば、メガソーラー発電はそれまでには十分に採算が取れる商売なのだろう。
どうも福島原発事故以来、いま、ソーラー発電は時流に乗っているらしい。津波がもたらした時代の新しい流れである。そこに発電事業参入企業も目をつけている。
そしてまた同じ津波による被災地においても、集団移転跡の広大な空き地に、その発電所を誘致して新たな産業を起したいとする復興計画を考える。東松島市だけではなくて、あちこちでその動きがあるらしい。
発電所はできたとしても、作った電気は電線で他に持っていけばよいのだろうから、それが被災地に他の産業を誘致する種になるのだろうか。
産業誘致も難しい地理的条件で、人間が住めない広い土地となれば、土地代も安いだろうから、発電新規参入企業もこれをチャンスに被災地への発電所立地を意図するだろう。
もちろん津波被災地だけではなく、農業地域の農業後継者がいなくなって広がるばかりの耕作放棄地も、目をつけられているようだ。ちょっとまえは、稲を植えるよりも住宅や大型店を植えると儲かると田畑がつぶれていったが、今や植えるものがなくなって発電機を植える時代となった。
ところで、太陽光発電は、発電原資エネルギーが太陽熱なので、エコロジカルともてはやされているが、大規模な太陽光発電所そのものは果たしてエコロジカルなのだろうか。
ネットでいくつかのメガソーラー発電所なるものの画像を見つけたが、どうも気にかかる。すなおに受け入れられないのである。
とにかく草も木も生えない広大な土地を必要とするらしい。地表を一面に真っ黒な板で覆いつくしてしまって、これはとても生態的つまりエコロジカルではない。
なにしろ太陽の光だけが頼りだから、地上に設ける場合は、周りにビルがあるとか、枝葉の繁る樹木や背の高い草とかで、日陰ができるような環境はもってのほからしい。建物の屋根や屋上に設けるのは良いが、建物によって設置が制限される。
だから広い、真っ平ら、あるいは緩やかな南下がりで、何もない土地でなければならないらしい。
発電パネルの下から草や木が生えてきては困るので、コンクリートで固めたり、砂利やシートを敷き詰める。
これでは広大なる荒地であり、まるで砂漠である。
普通の大規模工場でも敷地周りや構内に緑を配しているし、工場立地法によって発電所は敷地の25%以上緑化義務がある。ところが、このソーラー発電工場は、工場立地法から除外されていて緑化義務がない。よくわからないが、環境アセスメントも必要ないらしい。広大な砂漠をつくってもよいのである。
そこには従業員はほとんどいないらしいが、ほんとうに何ヘクタールもの広大になってくると、はたしてよいものだろうか。熱風が吹くとか、周辺地区の微気候に影響がでるような気がするが、どうか。野蒜ならば、せっかく松林を復元しても、枯れるかもしれない。
景観的にも、真っ黒パネルの広がるのは、おぞましい風景である。
中山間地で耕作放棄地が広がっているから、平地の田畑ばかりか、なだらかな南斜面地の棚田空間も狙われやすいかもしれない。ここがメガソーラー発電所になると、いったいどんな風景になるのだろうか。
放棄された田園は、それなりに草木が生えてきて緑豊かな自然空間に戻っていくのが、日本の気候風土である。
それがエコロジーだとか土地の有効利用とかの美名に聞こえる仕業のもとに、一面の鉄とガラスのパネルで真っ黒に覆われてしまって、実質的に砂漠化するといったいどうなるのか。
海面埋め立て地のような平らなところは好都合だろうから、津波被災移転跡地や売れない工業用地などの海辺立地も多くでるらしいが、津波が来るとどうなるのだろうか。
津波で破壊されても原発のように核毒を出すことはないが、発電機能は絶えるだろう。電力が絶えること自体が問題だろう。
そもそも津波や地震で危ない立地に発電所をつくること自体に、根本的な問題があるだろうと思う。
ネットで見るメガソーラー発電所のメリット・デメリットの記事には、こういう土地利用面や景観面のことは出てこない。いろいろと疑問がある。
2013/05/22
776鎌倉の谷戸の住宅地の20年の変遷の定点観測をGIF動画にしてみた
(これは2010年の記事ですが、GIF動画にしたので再掲)
鎌倉市の十二所という深い谷戸の奥に四半世紀住んでいました
鶴岡八幡宮まで2kmほどのところでしたから
滑川沿いに自転車や徒歩でブラブラしながら
四季の遷り変わりや街並みの変化を楽しんでいました
報国寺や釈迦堂遺跡など鎌倉名所もあります
◆
その途中の住宅地に囲まれて大きな田圃がありました
鎌倉街道の裏道からのその風景は
向うに衣張山が見事な山容を見せていて
春の田植えの頃は田圃の水面に映る逆さ冨士のようにも見え
夏は稲の緑のじゅうたんが涼しく広がり
秋は稲穂が輝く金色の大池となり
冬は冬で土の色を懐かしく思い
四季折々を楽しみながら通ったものでした
◆
2000年頃からだったでしょうか耕作放棄されたらしく
草ぼうぼうの空き地となってしまいました
それはそれで四季の情緒がありました
◆
2002年にわたしは鎌倉から引っ越したので
しばらくご無沙汰していて2007年秋のこと
久しぶりに通りかかったら宅地造成して田圃は消滅
そしてまた2010年秋に通りかかると
10数軒の小住宅が建ちならんでいました
鶴岡八幡宮まで2kmほどのところでしたから
滑川沿いに自転車や徒歩でブラブラしながら
四季の遷り変わりや街並みの変化を楽しんでいました
報国寺や釈迦堂遺跡など鎌倉名所もあります
◆
その途中の住宅地に囲まれて大きな田圃がありました
鎌倉街道の裏道からのその風景は
向うに衣張山が見事な山容を見せていて
春の田植えの頃は田圃の水面に映る逆さ冨士のようにも見え
夏は稲の緑のじゅうたんが涼しく広がり
秋は稲穂が輝く金色の大池となり
冬は冬で土の色を懐かしく思い
四季折々を楽しみながら通ったものでした
◆
2000年頃からだったでしょうか耕作放棄されたらしく
草ぼうぼうの空き地となってしまいました
それはそれで四季の情緒がありました
◆
2002年にわたしは鎌倉から引っ越したので
しばらくご無沙汰していて2007年秋のこと
久しぶりに通りかかったら宅地造成して田圃は消滅
そしてまた2010年秋に通りかかると
10数軒の小住宅が建ちならんでいました
◆
その定点観測をGIF動画でご覧ください
その場所の空中写真で黄色矢印の位置から見ています(google earth)
2013/05/21
775法末集落風景の四季の遷り変わりをまとめてGIF動画にしてみた
2004年の中越大震災復興の手伝いに2005年秋から行くようになった
中越・長岡市小国町法末集落で四季の写真を定点観測的に撮ってきたその中のいくつかをGIF動画なるものにしてみた
愛宕山から見る法末集落全景
ブナの森
棚田の米つくり
小千谷道
棚田
登録文化財の家「おもや」の四季
登録文化財の家「おもや」の夏冬
集落メインストリートの夏冬
法末の隣の芹窪集落の消えた家
2013/05/20
774迷惑かけても謝らない教育委員会ってのもリッパなもんである
「近所に迷惑かけているが、理解して協力せよ」
言葉は丁寧だが、迷惑かけていると言いながら、
一言も謝らず、詫びず、恐縮もしない。
こんな文書が郵便受けに入っていた。
横浜市の教育委員会はなかなかの硬骨漢である。
2013/05/19
773【横浜ご近所探検】横浜の中のアメリカ合州国住宅地と日本ミニ開発住宅地のギャップに驚く
狭苦しい横浜下町の中から、見上げる山手の丘の上に、なんだか広々としたところがありそうに見える。公園かゴルフ場でもあるのかしら。
ご近所探検に、坂道を登って行ったら、突き当りになにやら鉄条網が見える。
おお、ここはアメリカ軍の基地であるらしい。物々しいゲートである。
横にまわりこんで見ると、鉄条網に「NO TRESPASSING」と大書してあり、網の中に住宅のようなものが見える。
尾根の上から南のほうを見下したら、住宅らしい建物群が、芝生の中にゆったりと配置されて建っている。これが下から眺めた広々とした公園かなにかの正体であった。
家の大きさからみて、子どもが遊んでもいるから、アメリカ軍兵士の家族住宅地らしい。ここはいまだに横浜の戦後占領が続いているらしい。
兵器はないのだろうが、これこそいまどきいうところの典型的なゲーティッドコミュニティだ。軍事施設だからそういうものだろうか。
尾根の上から反対側の北を見ると、なんとまあ南側とは違う風景だろうか。どちらも人間が棲んでいるが、これほど違う風景をみると、人間はどんな環境でも住めると思えてくる。
goole earthで調べて、ここはアメリカ軍の根岸住宅地であった。根岸住宅地には、別のところから近づいたこともあったが、こんなところまで広がっているとは気が付かなかった。
それにしても、この金網の外と中の密度の違いは驚異的でさえある。アチラさんがゆったりし過ぎなのか、それともこちらがセコ過ぎるのか。
関連ページ:「横浜風景」弧乱夢一覧
ご近所探検に、坂道を登って行ったら、突き当りになにやら鉄条網が見える。
おお、ここはアメリカ軍の基地であるらしい。物々しいゲートである。
横にまわりこんで見ると、鉄条網に「NO TRESPASSING」と大書してあり、網の中に住宅のようなものが見える。
尾根の上から南のほうを見下したら、住宅らしい建物群が、芝生の中にゆったりと配置されて建っている。これが下から眺めた広々とした公園かなにかの正体であった。
家の大きさからみて、子どもが遊んでもいるから、アメリカ軍兵士の家族住宅地らしい。ここはいまだに横浜の戦後占領が続いているらしい。
兵器はないのだろうが、これこそいまどきいうところの典型的なゲーティッドコミュニティだ。軍事施設だからそういうものだろうか。
尾根の上から反対側の北を見ると、なんとまあ南側とは違う風景だろうか。どちらも人間が棲んでいるが、これほど違う風景をみると、人間はどんな環境でも住めると思えてくる。
goole earthで調べて、ここはアメリカ軍の根岸住宅地であった。根岸住宅地には、別のところから近づいたこともあったが、こんなところまで広がっているとは気が付かなかった。
それにしても、この金網の外と中の密度の違いは驚異的でさえある。アチラさんがゆったりし過ぎなのか、それともこちらがセコ過ぎるのか。
もうちょっと拡大して見てさらに驚くのは、このアメリカ・日本・あの世(墓地)と3つの空間が併存している様子である。死んだらもっともっと過密居住?になるのであった。
まあ、死ねば物質に戻るのだからそれでも一向にかまわないが、こうしてじかに並ぶと、なにか奇妙であるし、文化人類学的にというか、民俗として興味深いものがある。関連ページ:「横浜風景」弧乱夢一覧
2013/05/18
772アフリカの林の中に誕生してグレートジャー二―で日本列島にまでやってきた人類は今も林の中に棲んでいる
東京・上野の科学博物館で、「グレートジャーニー」なる特別展をみた。
久しぶりに会った友人が行くというので、予備知識もなくついて行った。
もちろん、グレートジャーニーとは、人類がアフリカで発生してから、地球上の各地に至る長い長い旅のこと、一般知識としてそれくらいは知ってはいた。だからその足取りの資料の展示だと思った。
ところが、TVでそういう題名の番組があったらしく、タレントか冒険屋か知らないが、人類発生からの旅をトレースしたので、その関連の展示だった。
だから、沢山の展示の飛び飛びに博物館的資料があるのだが、多くはそのタレントが乗った船とか、集めた?珍しい人頭のミイラとか、旅先で出会った珍しい情景の写真パネルであった。
TV番組を見ていた人には面白いだろうが、TV嫌いのわたしには、これはいったい何のことやらであった。国立科学博物館企画としては、いかがなものか。
ちょっと面白かったのは、360万年前のアファール猿人の足跡の立体レプリカである。タンザニアのラエトリ遺跡にあるそうだ。
その足跡を2足歩行でつけたであろうと想定した親子3人家族のレプリカ展示があり、そのまわりを歩く見物の現代人の親子家族との対比が、実に面白かった。
現代人も猿人も裸になれば同じだよなあ、、。わたしたちは360万年経って、どれほど変わったのだろうか。
彼らが棲んでいたアフリカの疎林やサバンナの中での生活は、どんなものだったのだろうか。
博物館から外に出て、久しぶりに上野公園の中を歩けば、おや、その林の中に現代人が棲んでいる。
おお、アフリカからグレートジャーニーで日本列島にやってきた人類は、今も疎林の中に青い巣をつくって棲むのであったか。
十数年昔の上野公園と比べたら、その段ボールハウス青テントの巣の数が、ずいぶん減っている。どこに行ったのだろうか。
でもそれは、たぶん、景気がよくなって脱出したのではなくて、公園管理者が林の下に繁っていたブッシュを刈り込んで棲みにくくして、現代猿人たちを追い出したからだろう。
かれらは、再びグレートジャーニーに出かけたのだろうか。
久しぶりに会った友人が行くというので、予備知識もなくついて行った。
もちろん、グレートジャーニーとは、人類がアフリカで発生してから、地球上の各地に至る長い長い旅のこと、一般知識としてそれくらいは知ってはいた。だからその足取りの資料の展示だと思った。
ところが、TVでそういう題名の番組があったらしく、タレントか冒険屋か知らないが、人類発生からの旅をトレースしたので、その関連の展示だった。
だから、沢山の展示の飛び飛びに博物館的資料があるのだが、多くはそのタレントが乗った船とか、集めた?珍しい人頭のミイラとか、旅先で出会った珍しい情景の写真パネルであった。
TV番組を見ていた人には面白いだろうが、TV嫌いのわたしには、これはいったい何のことやらであった。国立科学博物館企画としては、いかがなものか。
ちょっと面白かったのは、360万年前のアファール猿人の足跡の立体レプリカである。タンザニアのラエトリ遺跡にあるそうだ。
その足跡を2足歩行でつけたであろうと想定した親子3人家族のレプリカ展示があり、そのまわりを歩く見物の現代人の親子家族との対比が、実に面白かった。
現代人も猿人も裸になれば同じだよなあ、、。わたしたちは360万年経って、どれほど変わったのだろうか。
彼らが棲んでいたアフリカの疎林やサバンナの中での生活は、どんなものだったのだろうか。
博物館から外に出て、久しぶりに上野公園の中を歩けば、おや、その林の中に現代人が棲んでいる。
おお、アフリカからグレートジャーニーで日本列島にやってきた人類は、今も疎林の中に青い巣をつくって棲むのであったか。
十数年昔の上野公園と比べたら、その段ボールハウス青テントの巣の数が、ずいぶん減っている。どこに行ったのだろうか。
でもそれは、たぶん、景気がよくなって脱出したのではなくて、公園管理者が林の下に繁っていたブッシュを刈り込んで棲みにくくして、現代猿人たちを追い出したからだろう。
かれらは、再びグレートジャーニーに出かけたのだろうか。
あ、そうか、こちら渋谷の宮ノ下公園のブルーシートストリートは、現代グレートジャーニー途上の姿かもしれない。アベノミクス空景気は、彼ら現代猿人には届かない、、、わたしにも、、。
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