2013/03/09

728二川幸夫・伊藤ていじ「日本の民家」に53年ぶりに出会って年寄りになったと自覚して懐古譚

●本棚にある2冊の宝物本
 建築写真家の二川幸夫が1950年台前半に写した、日本の民家の写真展を見に行った。これはいろいろな意味で懐かしい。
 写真の風景そのものが懐かしいのはもちろんだが、実はその写真そのものが懐かしい。学生時代にその写真の民家に強烈に魅せられたことがあるのだ。そしてまた、その写真に民家の論考を書いた伊藤ていじ先生との出会いに、強烈な思い出もあるからだ。


 近頃はなんだか、昔の回顧展が多いような気がするが、そうじゃなくて老化して懐古趣味になったわたしが、そういう展覧会に目が向きやすくなったということだろう。
 歳をとるとしだいに原点回帰する現象が起きる。わたしは建築学を学んで大学を出た。卒業研究は建築史の研究室で、京都御所遺構に関する論文を書いた。
 社会に出て建築設計の仕事に就いたが、いろいろとあって30歳半ばころからしだいに都市計画に転向していった。建築家になれずに都市計画家になってしまった。
 そして建築史を趣味としたのである。これはなかなか品がよろしい。

 建築学生の時に、二川幸夫が発表した民家の写真を見て、そのあまりに美しい風景、建物のプロポーション、しつらえの良さに感激し、魅せられてしまった。二川は本物の民家を見て魅せられ、わたしは二川の民家の写真に魅せられた。
 わたしの魅せられっぷりは、卒業設計にいくつかそのデザインをパクッてアレンジした覚えがあるほどだ。
 倉敷の町屋は、少年時に見ていたから美しさをそれなりに知っていたが、二川の写真で再認識した。

 わたしの本棚に宝物のごとく鎮座する2冊の本、それが二川幸夫の写真と伊藤ていじの論考が載っている『日本の民家』(「陸羽・岩代」編、「山陽路」編、美術出版社 1958 各420円)である。
 420円という定価は、学食の昼飯定食が30円の時代だからけっこう高額である。貧乏学生がよく買ったものだと思うが、それだけ感激したということだろう。
 少年時代、学生時代に買った書籍類は、何回もの引っ越しで一冊も手元に残っていない中で、この2冊だけは表紙の背が切れてぼろぼろになっても、いまだに宝物のごとく持っている。
 

 二川の民家写真の中でももっとも感激したのは、遠野の千葉邸であった。力強い中にやさしい茅葺の曲線があり、全体に均整のとれた配置にマイッたのでああった。
 ところが千葉邸にはまだいったことはない。今は保存公開されているとのこと、いつの日か訪ねる楽しみを、残り少ない人生にとっておくのだ。


●伊藤ていじ先生の思い出
 展覧会場のロビーで、二川幸夫にインタビューする映像を見せていた。
 美術出版社が二川の民家写真を出版してくれることになり、伊藤ていじと組んで全国を撮影に回った端緒について語っている。
 その始まりが1950年とすれば、伊藤ていじは28歳、その頃、死にそうになった大病(肺結核)がようやく治癒したばかりだった。二川は伊藤より9歳若い。

 二川は、写真に論考を書く相棒を、それまでの民家研究者や建築史家ではなくて、まだ若い研究者だった伊藤を選んだそうだ。後の伊藤のことを思うと、その人選は実に見事だったし、二川の眼力のすごさに驚嘆する。
 病み上がりの伊藤が全国行脚を渋るのに対して、二川は、どうせ一度は死んだんだから一緒に回って死んでも同じだろう、と、説得したのだそうだ。

 1960年の夏、わたしの所属する藤岡道夫研究室と東大の太田博太郎研究室の共同研究として、丹波の農村に滞在して民家調査をした。
 両大学から学生、院生、指導教官が集まって、毎日、手分けして民家を訪ねた。
 建ててから100年ほども経った大きな農家に上り込んで、間取りの現状と変化を調べ、天井裏に入って構造を調べる。囲炉裏から舞い上がって天井裏についている煤で、頭から真っ黒になってしまった。余談だが、それから48年後に越後の山村で、そのようなことをして懐かしかった。

 その指導教官に、伊藤ていじ先生がいらしたのであった。体力がないので、荷物は持たない、やむ得ず持つときは風呂敷ひとつであった。
 伊藤先生は毎晩よくしゃべった。それが実におもしろかった。若いみんなで聞き入ったものだ。けっこう与太話もあった。
 その話はもう覚えていないのだが、一つだけ強烈に覚えている話が、二川さんが映像で言っていた、ほとんど死にかけた病気のことだ。

 伊藤さんは、東大の院生の頃、肺結核で病院のベッドに伏して起き上がることさえできない日々、ほとんど死にかけていた。
 ある日、ふと目覚めると、ベッドの周りで何人もが泣いている。ははあ、自分は死ぬんだな、そう思っても、気力がないから何の感情もなく眺めていたという。

 肺結核は死の病であり、戦争直後の日本を、いまの癌のように席巻していた。
 その治療薬の抗生物質ストレプトマイシンが発見されたのが1944年、結核がこれの投与で治るようになった。
 ストレプトマイシンは戦後ようやく日本にも入ってきたが、初期だからそれを誰にでも投与するほどの数がない。

 そこで医者は優先的に投与する人を選んだのだが、その選に伊藤先生もはいったので、生き返ったのだそうだ。
 つまり、東大の将来ある学者としての立場がその選定の理由で、それで命は助かった。
 しかし、その陰には後回しにされて死んだおおぜいの患者がいる、その人たちに自分はおおきな借りがある、だからその人たちの分までもこれから生きるのだと、若い伊藤さんの熱のある話は、若いわたしの心を揺さぶった。

 わたしを魅了した日本の民家という名著ができたのも、ストレプトマイシンのおかげだった。そしてこんにち、それを懐古することもできたのだ。
 その後はわたしと伊藤先生とは縁はなかったが、個人的に尊敬する心の師匠として、出版されるご本を買ったものだ。
 記憶にはないが、もしかしたら丹波で伊藤先生の話にこの本のことをもあって、どうしても買いたかったのかもしれない。
 
 わたしが大学を出てからの伊藤先生との再会は、それから40年ほどたったころ、東京駅ステーションホテルの宴会場での何かのパーティーで出くわした。
 もちろん先生がわたしを覚えておられることはなかったが、しっかりをお礼を述べてあの時を思い出していただいた。

 ついでに、わたしの民家写真も一枚乗せておこう。

 
*「二川幸夫・建築写真の原点 日本の民家一九五五年」は、2013年1月12日(土)~3月24日(日)、新橋の「パナソニック 汐留ミュージアム」にて開催中。

(追記2013/0312)
 新聞報道によれば、二川幸夫さんは2013年3月5日に逝去されたとのこと。惜しいことです。
 
 それでふと思いついて、伊藤ていじ先生が亡くなられたときに、丹波の思い出を書いたような気がして、このブログ記事を探したら2010年2月に書いていた。伊藤先生も惜しいことであった。
 「236丹波の伊藤ていじ先生」http://datey.blogspot.jp/2010/02/236.html
 

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