原発被災土地の地価がどうなるのか気にしていたら、こんな新聞記事が出た。
「国税庁は1日、相続税や贈与税の算定基準となる2011年分(1月1日時点)の路線価に、東日本大震災直後の地価下落を反映させる調整率(倍率)を発表した。(中略)第一原発周辺の警戒区域と計画的避難区域、緊急時避難準備区域(9月30日解除)については、放射性物質などの影響を算定できないとして、調整率の設定を見送り、税務申告の際、路線価の欄に「0円」と記せるようにした。国税庁は「土地の価値を0円と判断したわけではない」としている」(読売新聞2011年11月1日夕刊)
路線価は税制上の値で、国税庁が「土地の価値を0円と判断したわけではない」と言っても、現実の土地取引価格に影響するのは常識である。
地震津波被災では対応する調整率を示したが、原発被災地では示すことが不可能としてはいるが、実態は価格ゼロを不動産業界では意味するだろう。
地震津波は天災だから、天災の影響を受けやすい土地の価格が低くなるのは、取引上ではあたりまえ。
だが、原発事故被害は天災ではなくて人災である。
これまでも人災による被害はあってもそのまま土地価格下落に影響することは、ないことはないだろうが、ほとんど一過性だっただろうと思う。
原発の場合は、人災ながらもその影響の深刻さ、時間の長さ、範囲の広さがはなはだしいから、土地価格へも大きな影響が長期に響く。
その公的な認知が、原発被災地の路線価対応でようやく始まったといえる。
さて、その土地価格ゼロ円になった財産下落について、その原因者の東電はどう補償するのだろうか。
いま行いつつある被害補償に、この項目もあるるのだろうか。多分、ないだろう。核毒の濃度、除染の具合、元に戻る期間など、算定条件があまりにも難しい。
だからといってこの財産侵害を等閑視しておいてよいことでもない。
そのいっぽうで、こんなことも考えるのだ。
これは8月22日にこのブログに書いた記事21世紀の「谷中村」は「核毒の森」http://datey.blogspot.com/2011/08/47921.htmlであるが一部再掲する。
『「菅政権は、東京電力福島第一原発の周辺で放射線量が高い地域の住民に対し、居住を長期間禁止するとともに、その地域の土地を借り上げる方向で検討に入った。(朝日新聞8月21日朝刊)」
わたしでさえ予想していたのだから、その筋の業界のかたがたは、現地地権者との折衝に、すでに動いていらっしゃるかもしれない。
こうなったら、政府は土地建物立木等権利移動凍結・価格凍結の施策を今すぐにでも打つべきである。
もたもた遅れている間に、妙なことをする人々が介入してきて権利移動・価格高騰が起きると、結局は住民にも国民にも迷惑がかかることになる』
つまり、住民がもう戻れないと見られる土地、つまり路線価ゼロ円の土地を、いまのうちに所有者から買い叩いて買占め、いずれ政府なり自治体なりに高額に貸したり売りつけようって、そういうアウトローなことが起きるのではあるまいかって、ことである。
わたしの杞憂であれば幸いである。
(追記111103)
相続税が減額されるってことは、国の税収が減るってことである。
その原発によっての減額に関しては、その原因者の東電が、原発事故がなかったなら徴収できるとみなした差額の税金を、国に補填をするべきである。
でないと関係のない沖縄の人までも被災することになる。
同様に、固定資産税も減額になるだろうし、その他、土地取引にかかる諸税、事業所がなくなるに伴う諸税など、もろもろの減少についても同様である。
2011/11/02
2011/11/01
518天日干し自作新米がやってきた
さあ、今夜は自作のうまい米の飯だあ!
中越の法末から新米コシヒカリが、先ほど届いた。
わたしもメンバーの「法末棚田クラブ」の仲間たちで作ったものである。
今回で6回目の収穫である。
わたしは今年は、田植えと稲刈りの2回だけの参加だったが、実態は、会費さえ払えば、それだけで米ができるものではない。
田植えの前の準備、田植えしてから水の管理と草取り、ハサつくり、稲刈り、天日干し、そして脱穀、精米、袋つめ、発送などなど、たくさんの仕事がある。
指導してくださる地元の田の持ち主、ちょっと現地にはまって稲作をがんばってくれる仲間たちがいるからこそ、うまい飯に到達できる。感謝。
●参照→中越山村の四季
中越の法末から新米コシヒカリが、先ほど届いた。
わたしもメンバーの「法末棚田クラブ」の仲間たちで作ったものである。
今回で6回目の収穫である。
わたしは今年は、田植えと稲刈りの2回だけの参加だったが、実態は、会費さえ払えば、それだけで米ができるものではない。
田植えの前の準備、田植えしてから水の管理と草取り、ハサつくり、稲刈り、天日干し、そして脱穀、精米、袋つめ、発送などなど、たくさんの仕事がある。
指導してくださる地元の田の持ち主、ちょっと現地にはまって稲作をがんばってくれる仲間たちがいるからこそ、うまい飯に到達できる。感謝。
●参照→中越山村の四季
2011/10/30
517福島観光パンフレットを見て
横浜の都心部の日本大通りで、東北復興支援のイベントが開催されていた(2011年10月29日)。
福島県の観光パフレットをもらってきた。震災後まだ行っていないので、震災と核災のお見舞いには、どう行けばよいか知りたかったのだ。
ところがである。震災も核災(原発事故被災)も一切書いてないのだ。
う~ん、そういうものかしら。
それらしいことは、地図の上に事故原発を中心に灰色の半円が書いてあるだけ。その半円も何キロか分からない。それが原発関連だと、わたしは知っているけど、地図には何も書いていない。
常磐線久の浜駅ー亘理駅間は運転見込みが立ってない、と書いてあるのだが、地図には久の浜駅も亘理駅も記載がないから、どこか分からない。
観光パンフレットだから、震災や核災は関係ないのだってことだろうか。福島には震災も核災もなかったことにする、そういうようである。
なんだか間違っているような気がする。
これをおつくりになった方の意図を忖度すれば、ひとつは災害情報は物見遊山の来客を阻害する、もうひとつは物見遊山気分でこられては困るって、そういうことなんだろう。
しかし、いまの東北に行くのは物見遊山だけではない、いやあってはならないと思うのは、いまや世の常識である、とわたしは思う。
その地の光を見るという古典的な観光ではないが、震災と核災というその地の闇をこの眼で見ることで、次の時代への光を探る(当て字をすれば「観荒」か)のも、重要なる観光であると、わたしは思う。
福島の人たちの気分を害してもいけないと思うが、世の警鐘として震災・核災をひろく知らしめることが、いまの福島の役割でもある、福島観光はそういう新たな時代に突入していると、そう考えてはどうだろうか。
わたしが福島原発を世界遺産にせよと唱えるのも、物見遊山の見世物観光ではなくて、深い沈思の文化への志向をも観光に意図するからである。
福島県の観光パフレットをもらってきた。震災後まだ行っていないので、震災と核災のお見舞いには、どう行けばよいか知りたかったのだ。
ところがである。震災も核災(原発事故被災)も一切書いてないのだ。
う~ん、そういうものかしら。
それらしいことは、地図の上に事故原発を中心に灰色の半円が書いてあるだけ。その半円も何キロか分からない。それが原発関連だと、わたしは知っているけど、地図には何も書いていない。
常磐線久の浜駅ー亘理駅間は運転見込みが立ってない、と書いてあるのだが、地図には久の浜駅も亘理駅も記載がないから、どこか分からない。
観光パンフレットだから、震災や核災は関係ないのだってことだろうか。福島には震災も核災もなかったことにする、そういうようである。
なんだか間違っているような気がする。
これをおつくりになった方の意図を忖度すれば、ひとつは災害情報は物見遊山の来客を阻害する、もうひとつは物見遊山気分でこられては困るって、そういうことなんだろう。
しかし、いまの東北に行くのは物見遊山だけではない、いやあってはならないと思うのは、いまや世の常識である、とわたしは思う。
その地の光を見るという古典的な観光ではないが、震災と核災というその地の闇をこの眼で見ることで、次の時代への光を探る(当て字をすれば「観荒」か)のも、重要なる観光であると、わたしは思う。
福島の人たちの気分を害してもいけないと思うが、世の警鐘として震災・核災をひろく知らしめることが、いまの福島の役割でもある、福島観光はそういう新たな時代に突入していると、そう考えてはどうだろうか。
わたしが福島原発を世界遺産にせよと唱えるのも、物見遊山の見世物観光ではなくて、深い沈思の文化への志向をも観光に意図するからである。
516敵は東電だろうに
それにしても不思議なのは、原発事故問題で、政府の偉いおかたばかりが福島にたびたび行くし、たびたび謝ることだ。
これってほんとはぜ~んぶ東電がやることでしょ。
除染ってのも、ほんとは東電がやることでしょ。なぜ政府がしゃしゃり出るのかしら。
東電の尻をたたいてやらせるのが政府の役目のような気がする。
ってことは、つまり東電がその能力を欠いているので、緊急を要する社会的大事件なので、政府がかわりにやってるってことかしら。
もしそうだとしたら、そんなアホな事業者に危険とわかりながら原子力発電を任せていたことが、そもそも間違っていたことになる。
ということは、他の電力会社もそうなんだろう。
能力ないのは困るけど、せめて政府のあとをくっついていくぐらいするモンでしょ、直接原因者なんだから。
あ、もしかして東電も動いているんだけお、マスコミが伝えないだけかもなあ。
世の中には、なんでも政府が悪い行政が悪いと言っていれば、とりあえずは万事がうまく収まるって、そんな風潮があるのに、メディア連中も尻馬に乗って煽っているのだろう。
そして本当の敵を忘れさせる。
なんだか東電の身代わりで政府が怒られているような。
ということはその政府を作っているわたしたち、みんなが東電の身代わりになってるのか。
東電の不始末の尻拭いを、日本中でよってたかったみんなでやってあげるって、そんな構図になってるのは、いったいどういうわけなんだろうか。
だんだんと東電のことを忘れて、基地問題みたいに政府を追及するばかりになるのかしら。
だんだん敵を間違えてきているような気がする。
これってほんとはぜ~んぶ東電がやることでしょ。
除染ってのも、ほんとは東電がやることでしょ。なぜ政府がしゃしゃり出るのかしら。
東電の尻をたたいてやらせるのが政府の役目のような気がする。
ってことは、つまり東電がその能力を欠いているので、緊急を要する社会的大事件なので、政府がかわりにやってるってことかしら。
もしそうだとしたら、そんなアホな事業者に危険とわかりながら原子力発電を任せていたことが、そもそも間違っていたことになる。
ということは、他の電力会社もそうなんだろう。
能力ないのは困るけど、せめて政府のあとをくっついていくぐらいするモンでしょ、直接原因者なんだから。
あ、もしかして東電も動いているんだけお、マスコミが伝えないだけかもなあ。
世の中には、なんでも政府が悪い行政が悪いと言っていれば、とりあえずは万事がうまく収まるって、そんな風潮があるのに、メディア連中も尻馬に乗って煽っているのだろう。
そして本当の敵を忘れさせる。
なんだか東電の身代わりで政府が怒られているような。
ということはその政府を作っているわたしたち、みんなが東電の身代わりになってるのか。
東電の不始末の尻拭いを、日本中でよってたかったみんなでやってあげるって、そんな構図になってるのは、いったいどういうわけなんだろうか。
だんだんと東電のことを忘れて、基地問題みたいに政府を追及するばかりになるのかしら。
だんだん敵を間違えてきているような気がする。
2011/10/29
515普天間問題に似てるような
福島第1原発によって各地に降った核毒汚染物質を集めて、それぞれ近場に仮置き場を設けて3年間ほど置いておくそうだ。
参照http://www.asahi.com/national/update/1029/TKY201110290361.html?ref=any
どこに置くかもめるだろうなあ、NIMBYで当たり前だもんなあ。
絶対にNIMBYといえないのは東電ただひとりだけである。そうか、原発作っている東芝や日立、三菱もそうかな。
山の中の国有林におくとかの話もあるようだが、水が流れてくる上流部においたら、雨のたびにだんだん流れて、人里にやってきそうだよなあ、いいのかしら。
といって、隣の町との境のあたりに置くと、隣が文句言うよなあ。
3年ほどの後に、こんどは中間貯蔵施設に持っていくのだそうだ。で、この中間貯蔵施設だって、仮置き場と同じ問題を抱えてるから、難しいよなあ。
それからまた30年以内に福島県外の最終処分場に移設するのだそうだ。そこには大量の核毒がやってくるのだろうなあ。
お近くの人は、30年も毒に行き来されては、たまったものじゃないよ。
県外に移設って、はて、どこかで聞いたような、あそうかUSARMY普天間基地移転の話だ。
そう、大迷惑施設の受け入れ先が、福島県外って言っても、どこなんだろうか。
これって原発立地の交付金以上に持参金をつけたら、こんな醜い嫁あるいは馬鹿な婿でも、もらう気になる自治体が出てくるのだろうか。
もういちど鳩山宇宙人にでも、ゆきさき探しをお願いますかねえ。
このブログに何度も書いてきたけど、わたしはどう考えても、東京電力が福島原発敷地とその周辺の土地を買い増しして、そこに持っていくしかないと思う。
ITNPYである(in TODEN nuclear power plant yards)。
あ、そうだ、そこは福島県から分離して、東電県としてはどうか、それなら県外である、って、冗談を言ってみたが、考えるとありうるかもなあ。
あ、そうそう、で、東電県を世界文化遺産に登録するのであったよ。
東電はご自分が出したすべての核毒を抱えこんで、その毒が消えるまで何百年間かしらないが、世界の文化遺産としてずっと県土をお守りなさって下さいませ。
参照http://www.asahi.com/national/update/1029/TKY201110290361.html?ref=any
どこに置くかもめるだろうなあ、NIMBYで当たり前だもんなあ。
絶対にNIMBYといえないのは東電ただひとりだけである。そうか、原発作っている東芝や日立、三菱もそうかな。
山の中の国有林におくとかの話もあるようだが、水が流れてくる上流部においたら、雨のたびにだんだん流れて、人里にやってきそうだよなあ、いいのかしら。
といって、隣の町との境のあたりに置くと、隣が文句言うよなあ。
3年ほどの後に、こんどは中間貯蔵施設に持っていくのだそうだ。で、この中間貯蔵施設だって、仮置き場と同じ問題を抱えてるから、難しいよなあ。
それからまた30年以内に福島県外の最終処分場に移設するのだそうだ。そこには大量の核毒がやってくるのだろうなあ。
お近くの人は、30年も毒に行き来されては、たまったものじゃないよ。
県外に移設って、はて、どこかで聞いたような、あそうかUSARMY普天間基地移転の話だ。
そう、大迷惑施設の受け入れ先が、福島県外って言っても、どこなんだろうか。
これって原発立地の交付金以上に持参金をつけたら、こんな醜い嫁あるいは馬鹿な婿でも、もらう気になる自治体が出てくるのだろうか。
もういちど鳩山宇宙人にでも、ゆきさき探しをお願いますかねえ。
このブログに何度も書いてきたけど、わたしはどう考えても、東京電力が福島原発敷地とその周辺の土地を買い増しして、そこに持っていくしかないと思う。
ITNPYである(in TODEN nuclear power plant yards)。
あ、そうだ、そこは福島県から分離して、東電県としてはどうか、それなら県外である、って、冗談を言ってみたが、考えるとありうるかもなあ。
あ、そうそう、で、東電県を世界文化遺産に登録するのであったよ。
東電はご自分が出したすべての核毒を抱えこんで、その毒が消えるまで何百年間かしらないが、世界の文化遺産としてずっと県土をお守りなさって下さいませ。
2011/10/26
514【くたばれ乗用車】年寄りの自転車
土地がまったいらな横浜都心に住むようになって、足も老化しつつあるこちとらには自転車の利用をしやすい。
でも近所をまわるにはともかく、遠出となると横浜都心の周りは丘陵ばかりで、けっこう歩いて押さなければならない。
まあ、足の運動になってよろしい。
先般東京の有楽町から浅草まで自転車で走った。横浜都心でもそうだが、自転車で走っていて困るのは、車道に停車している自動車である。
これを回避するために、さらに車道の中側にはいって走るのが怖い。それが、しょっちゅうあるのだ。
車道の駐車を回避するために車道の中よりに移るとき、とうぜんのことながら後方確認をする。
年寄りになって反射神経が鈍くなると、自転車での走行時によそ見をすると、ふらふらする。
ふらふらしても、歩道なら倒れてもなんとかなるだろうが、車道で倒れたらこれは危ない。
危ないから歩道を走ることになる。
でも歩道には車道から建物に入るために切込みがあるので、自転車は上へ下へと振られて不安定である。これも老人には危ない。
車道に自転車専用レーンのようなものは、見たことがない。
で、今日の新聞に、歩道を走る自転車の危険運転や歩行者との事故が目立つとして、警察庁は自転車は車両であることを庶民に認識させて、歩道通行自転車を断固取締りすると決めたとの報道である。
警察庁の通達を見た。http://www.npa.go.jp/koutsuu/kikaku/bicycle/taisaku/tsuutatu.pdf
「車道を通行する自転車の安全と歩道を通行する歩行者の安全の双方を確保」という大義名分であるらしい。
自転車の取締りをしっかりやるってことは、車道に駐まる自動車もしっかり取り締まるのでしょうね。パーキングメーターのある道路は、どうするのだろう。
車道を走っても安心できる自転車専用レーンをつくるのでしょうね。
警察庁の最新通達を見たら、書いてあった。
曰く、「自転車道等の整備を検討」とか「パーキング・メーター等を撤去を検討」とある。
あのなあ、役人用語で「検討」って、昔から「やらない」って意味だったはずですが、どうなんですか。
自転車は歩行者なのか車両なのか、よくわからないままに、その場その場で変身するカメレオンをやってきたが、これはいけないのだった。
歩道を通ってよい例外は、13歳未満の子ども、70歳以上の高齢者、身体障害者とある。法を調べると道路交通法施行令第26条にあった。
そうか、わたしも例外にはいるのか、ではこれからは堂々と歩道を走ることにするか。つかまったら、身分証明書を出すのだ。
美術館無料とか、映画1000円とか、自転車歩道走行OKとか、年寄りの役得である。
(追記111028)書き忘れたこと。 自転車で出歩くと一番困るのは、とめるところがないことだ。
歩道走行云々もけっこうだが、駐輪スペースをなんとかしてほしい。
コンビニ、パチンコ屋くらいは止めるスペースを確保しているが、商店街ではほんとに困る。
特に横浜中華街では、従業員用駐輪場ばかり大きいが、客用はどこにもなくて、ちょっとしたデッドスペースに止めようとすると、かならず駐輪禁止と書いてある。なんとあかしろ。
量販店の前の歩道にむやみに広がるのは、みっともないし、危ない。
神奈川県民ホールにもないので、どうすればよいか聞いたら、道をわたって山下公園にある駐輪場を使えという。
新しくできた神奈川芸術劇場には駐輪スペースがある。
横浜開港資料館では、駐輪スペースはないので、建物の陰にでも置いておけという。
参照→021老いて徳はないけど得をする
http://datey.blogspot.com/2008/07/blog-post_22.html
222交通信号を歩行者のために
http://datey.blogspot.com/2009/12/222.html
でも近所をまわるにはともかく、遠出となると横浜都心の周りは丘陵ばかりで、けっこう歩いて押さなければならない。
まあ、足の運動になってよろしい。
先般東京の有楽町から浅草まで自転車で走った。横浜都心でもそうだが、自転車で走っていて困るのは、車道に停車している自動車である。
これを回避するために、さらに車道の中側にはいって走るのが怖い。それが、しょっちゅうあるのだ。
車道の駐車を回避するために車道の中よりに移るとき、とうぜんのことながら後方確認をする。
年寄りになって反射神経が鈍くなると、自転車での走行時によそ見をすると、ふらふらする。
ふらふらしても、歩道なら倒れてもなんとかなるだろうが、車道で倒れたらこれは危ない。
危ないから歩道を走ることになる。
でも歩道には車道から建物に入るために切込みがあるので、自転車は上へ下へと振られて不安定である。これも老人には危ない。
車道に自転車専用レーンのようなものは、見たことがない。
で、今日の新聞に、歩道を走る自転車の危険運転や歩行者との事故が目立つとして、警察庁は自転車は車両であることを庶民に認識させて、歩道通行自転車を断固取締りすると決めたとの報道である。
警察庁の通達を見た。http://www.npa.go.jp/koutsuu/kikaku/bicycle/taisaku/tsuutatu.pdf
「車道を通行する自転車の安全と歩道を通行する歩行者の安全の双方を確保」という大義名分であるらしい。
自転車の取締りをしっかりやるってことは、車道に駐まる自動車もしっかり取り締まるのでしょうね。パーキングメーターのある道路は、どうするのだろう。
車道を走っても安心できる自転車専用レーンをつくるのでしょうね。
警察庁の最新通達を見たら、書いてあった。
曰く、「自転車道等の整備を検討」とか「パーキング・メーター等を撤去を検討」とある。
あのなあ、役人用語で「検討」って、昔から「やらない」って意味だったはずですが、どうなんですか。
自転車は歩行者なのか車両なのか、よくわからないままに、その場その場で変身するカメレオンをやってきたが、これはいけないのだった。
歩道を通ってよい例外は、13歳未満の子ども、70歳以上の高齢者、身体障害者とある。法を調べると道路交通法施行令第26条にあった。
そうか、わたしも例外にはいるのか、ではこれからは堂々と歩道を走ることにするか。つかまったら、身分証明書を出すのだ。
美術館無料とか、映画1000円とか、自転車歩道走行OKとか、年寄りの役得である。
(追記111028)書き忘れたこと。 自転車で出歩くと一番困るのは、とめるところがないことだ。
歩道走行云々もけっこうだが、駐輪スペースをなんとかしてほしい。
コンビニ、パチンコ屋くらいは止めるスペースを確保しているが、商店街ではほんとに困る。
特に横浜中華街では、従業員用駐輪場ばかり大きいが、客用はどこにもなくて、ちょっとしたデッドスペースに止めようとすると、かならず駐輪禁止と書いてある。なんとあかしろ。
量販店の前の歩道にむやみに広がるのは、みっともないし、危ない。
神奈川県民ホールにもないので、どうすればよいか聞いたら、道をわたって山下公園にある駐輪場を使えという。
新しくできた神奈川芸術劇場には駐輪スペースがある。
横浜開港資料館では、駐輪スペースはないので、建物の陰にでも置いておけという。
参照→021老いて徳はないけど得をする
http://datey.blogspot.com/2008/07/blog-post_22.html
222交通信号を歩行者のために
http://datey.blogspot.com/2009/12/222.html
2011/10/25
513城下町・高梁の玄関の風景
でも、通りの向こうに霧にけぶる山が見えるのがうれしい。この山あての風景こそが高梁の大切な個性であるし、わたしの記憶の中の大切なふるさと風景である。
とくに高梁の象徴である備中松山城のある臥牛山(がぎゅうざん)は、街のどこからでも山あて風景となっている。
でも、並木がどうしてこんなにショボイのかしら。
でも、並木がどうしてこんなにショボイのかしら。
ありふれた駅前風景だが、おや、なんだか目障りな看板がビルに張り付いている、ブサイクな風景だなあ。
え、「学園文化都市 ようこそ高梁へ」だって? これってどうみても非文化的な風景だけどなあ。
ロケってどんな高梁名物なの?で、駅の方に振りかえると、おお、こちらも負けすに大きな看板。
あのね、この備中高梁駅舎って、歴史的な代物なんですよ。なにしろ1926年、大正15年8月にできたってのですからね。
今はなんだか年寄りの厚化粧って感じだけど、皮をむくと昔の姿が出てくるだろう。
やる気があるなら登録文化財くらいにはしてもバチが当たらないと思いますがねえ。もうちょっと大切に姿をまもってあげてはどうですか。
もちろん、宣伝なさるのはよろしいのですが、どこかこの風景は、品がないと思うのです。
学園文化都市もよろしいし、映画になるような文化的風景都市もよろしい。
ですが、もうちょっと、文化的な宣伝のしかたというか、文化的な風景になる看板のあげ方がありそうなもんです。
せっかく、歴史的街並みの保存の努力をなさっているのに、玄関先がこれじゃあねえ。
ついでに、自動車での玄関口を見るかと、グーグルストリートを探した。
高梁川沿いに国道180号を北上してきての玄関は、向こうに臥牛山が山あてで見えているのはよいのだが、鉄塔やら赤い看板やらなにやらが、いただけない。
お客をまねきいれるホスピタリティに欠けていて、愛想なしである。
両側に樹木を植えた美しい並木道にして、うるおいある風景にしてほしいものである。
もうひとつの玄関は、ループ橋からおりきったあたりだろうが、そこはグーグルストリートにはでてこない。どんな風景なのだろうか気になる。
どこの町でも、こういうところには派手な看板が立ちならんで、ゲンナリとさせてくれる。
実例として、長野県の城下町・松代に行ったときの、わたしのゲンナリ風景をご覧ください。
http://datey.blogspot.com/2008/10/blog-post_27.html
ふるさとの街の客間や居間をきれいになさるのはもちろん嬉しいことですが、玄関もきれいにしてくださるといいのになあと、おもいました。
2011/10/23
512路地と小路
街の中の狭い道が、自動車が通りやすくとか、災害時に消防車が入りやすくとかの理由で、次第に広げられていく。
昔の道は、人が歩き荷車がとおればよいから、ほとんどの道幅が6尺程度でよかった。街を貫通する大動脈のような数本の主な表通りは広くても、それらをつなぐ毛細血管のような道は細くてよいのだ。
そこでは子どもの遊び場でもあったし、ちょっと広がったところに井戸があって井戸端会議をする。縁台を出して涼みながら将棋をうったりして、近所つきあいの場でもあった。
先般、ネパールに行ったとき、カトマンヅ盆地の古都バクタプルを訪ねて裏町を歩いたら、子どもが遊び井戸端会議のある路地が生きていた。
戦前の都市計画では、便所の汲み取り路として、細い裏道をわざわざつくったものだ。それが生活の道となって今も生きているところがある。東京の銀座にもそのような細い裏道が今も生きている。
そんな狭い横丁や裏道を「路地」とか「小路」とか、各地で呼び名がちがう。
いまは法律が4m幅未満の道路を許さない。だから、今も生き残る狭い路地は道路としては違法であるか、または道路ではない街の隙間である。
「全国路地サミット」なる妙な名前の会合が、毎年一回は各地で開かれている。今年は、東京都墨田区の向島地区である(2011年10月21~23日)。
毎回、100人ばかりが全国からやってきて、うろうろとあちこちの狭い路地を歩きまわったあとは、みんなで集まって路地を守ろうと気勢を上げる。もちろん路地裏の飲み屋での2次、3次の会が続くらしい。
自動車が通りやすいように道を広げてばかりいるが、狭い道がかつて持っていた地域での生活の場としての役割を見直そう、というのが会合の大義名分である。そのいっぽうでは裏路地の飲み屋の保存も大切な目的であるらしい。
新潟市や諏訪市など、かなり興味深い路地保存運動がされているところがある。行政マンが市民運動として保存運動をしているのも面白い。
墨田区では、来年の夏にスカイツリーなるノッポ鉄塔ができて、これの見物客がわっと押し寄せる。そうすると路地にも観光客が入り込んでくるかもしれない。
表通りの商売人は喜ぶだろうが、路地はほとんどが住宅地だから住民は大いに迷惑である。さて、どう考えるか、そんなことが話題になっている。
だが、住宅地の面白くもない路地に入ってくるのは、物好きだけだろうとおもう。
もっとも、鉄塔がらみの観光客は年間2千万人と皮算用だそうだから、その0.1パーセントの物好きがいても2万人か、ちょっとした数ではある。

1923年の関東大震災以来のその下半身商売繁盛の街は、1945年の東京大空襲による丸焼けのあともさらに北に広がって繁栄する。1956年の売春防止法の施行によって幕を閉じた。
いま残るのはその曲がりくねった細道ばかりだが、これは江戸時代からの遺産で、田んぼの畦道がほとんどそのままに現代に引き継がれているのだ。
細い路地を通り抜けながら、故郷の高梁の小路(しょうじ)をおもいだしていた。
こちらは江戸期の都市計画の城下町だから、道は曲がりくねるのではなくて直線だが、ところどころに筋替えとなる食い違いがあるのが特徴である。
向島はまったいらだから、路地の向こうには広い表道に建つビルが見えるが、高梁は盆地の中で小路の向こうには必ず山が見える。ハイデルベルグの路地と同じなのである。
高梁救助か町にはたくさんの小路があるが、それらの名前のなかでわたしの記憶にあるのは「菊屋小路」と「牢屋小路で」、「森小路」というのがあったような気がする。
菊屋小路は幅6尺ほど、わたしの生家と母の実家を結ぶ路の一部だったので、よく通ったものだ。両側に蔵が並び、途中で食い違いに折れ曲がる。
幼児のわたしが、ひとりで母の実家に行くとき、母に必ず言われたことは、菊屋小路からでて本町(ほんまち)通りを横切るときには「左右を見てバスに気をつけて!」
その本町通りは、なんとまあ狭い道であることか。
だが、高梁のそのような小路も、自動車が通りやすいように道幅を広げているし、食い違いはまっすぐにしている。時代の要請だろうが、道の先が見え隠れする面白さがなくなって、味気ない風景となっていく。
せめて道の上に、元の道の形を色違いにして描いて、城下町の記憶のよすがにする工夫をしてほしいものだ。
菊屋小路は今もあることを先日に確認したが、この道は都市計画によって12mに拡幅されることになっている。
はたしてそれが必要なのだろうかと思うが、わたしのノスタルジック小路は、さて、いつまであるものやら。
牢屋小路はいまもあるのだろうか。
昔の道は、人が歩き荷車がとおればよいから、ほとんどの道幅が6尺程度でよかった。街を貫通する大動脈のような数本の主な表通りは広くても、それらをつなぐ毛細血管のような道は細くてよいのだ。
そこでは子どもの遊び場でもあったし、ちょっと広がったところに井戸があって井戸端会議をする。縁台を出して涼みながら将棋をうったりして、近所つきあいの場でもあった。
先般、ネパールに行ったとき、カトマンヅ盆地の古都バクタプルを訪ねて裏町を歩いたら、子どもが遊び井戸端会議のある路地が生きていた。
戦前の都市計画では、便所の汲み取り路として、細い裏道をわざわざつくったものだ。それが生活の道となって今も生きているところがある。東京の銀座にもそのような細い裏道が今も生きている。
そんな狭い横丁や裏道を「路地」とか「小路」とか、各地で呼び名がちがう。
いまは法律が4m幅未満の道路を許さない。だから、今も生き残る狭い路地は道路としては違法であるか、または道路ではない街の隙間である。
「全国路地サミット」なる妙な名前の会合が、毎年一回は各地で開かれている。今年は、東京都墨田区の向島地区である(2011年10月21~23日)。
毎回、100人ばかりが全国からやってきて、うろうろとあちこちの狭い路地を歩きまわったあとは、みんなで集まって路地を守ろうと気勢を上げる。もちろん路地裏の飲み屋での2次、3次の会が続くらしい。
自動車が通りやすいように道を広げてばかりいるが、狭い道がかつて持っていた地域での生活の場としての役割を見直そう、というのが会合の大義名分である。そのいっぽうでは裏路地の飲み屋の保存も大切な目的であるらしい。
新潟市や諏訪市など、かなり興味深い路地保存運動がされているところがある。行政マンが市民運動として保存運動をしているのも面白い。
墨田区では、来年の夏にスカイツリーなるノッポ鉄塔ができて、これの見物客がわっと押し寄せる。そうすると路地にも観光客が入り込んでくるかもしれない。
表通りの商売人は喜ぶだろうが、路地はほとんどが住宅地だから住民は大いに迷惑である。さて、どう考えるか、そんなことが話題になっている。
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もっとも、鉄塔がらみの観光客は年間2千万人と皮算用だそうだから、その0.1パーセントの物好きがいても2万人か、ちょっとした数ではある。
その物好きのひとりであるわたしは、昨日、向島の玉の井をうろうろしてきた。永井荷風が愛した私娼窟だった街である。
実は歩いてみても、その名残はなにもないのである。東京下町によくあるありふれた木造建物が密集する住宅街である。
1923年の関東大震災以来のその下半身商売繁盛の街は、1945年の東京大空襲による丸焼けのあともさらに北に広がって繁栄する。1956年の売春防止法の施行によって幕を閉じた。
いま残るのはその曲がりくねった細道ばかりだが、これは江戸時代からの遺産で、田んぼの畦道がほとんどそのままに現代に引き継がれているのだ。
細い路地を通り抜けながら、故郷の高梁の小路(しょうじ)をおもいだしていた。
こちらは江戸期の都市計画の城下町だから、道は曲がりくねるのではなくて直線だが、ところどころに筋替えとなる食い違いがあるのが特徴である。
向島はまったいらだから、路地の向こうには広い表道に建つビルが見えるが、高梁は盆地の中で小路の向こうには必ず山が見える。ハイデルベルグの路地と同じなのである。
高梁救助か町にはたくさんの小路があるが、それらの名前のなかでわたしの記憶にあるのは「菊屋小路」と「牢屋小路で」、「森小路」というのがあったような気がする。
菊屋小路は幅6尺ほど、わたしの生家と母の実家を結ぶ路の一部だったので、よく通ったものだ。両側に蔵が並び、途中で食い違いに折れ曲がる。
幼児のわたしが、ひとりで母の実家に行くとき、母に必ず言われたことは、菊屋小路からでて本町(ほんまち)通りを横切るときには「左右を見てバスに気をつけて!」
その本町通りは、なんとまあ狭い道であることか。
だが、高梁のそのような小路も、自動車が通りやすいように道幅を広げているし、食い違いはまっすぐにしている。時代の要請だろうが、道の先が見え隠れする面白さがなくなって、味気ない風景となっていく。
せめて道の上に、元の道の形を色違いにして描いて、城下町の記憶のよすがにする工夫をしてほしいものだ。
菊屋小路は今もあることを先日に確認したが、この道は都市計画によって12mに拡幅されることになっている。
はたしてそれが必要なのだろうかと思うが、わたしのノスタルジック小路は、さて、いつまであるものやら。
牢屋小路はいまもあるのだろうか。
2011/10/22
511【ふるさと高梁盆地】小堀遠州作の名園の借景を守る
高梁には江戸初期の幕府官僚アーキテクト・小堀遠州政一がデザインをした頼久寺庭園がある。
小堀遠州は15年ほどの間、備中松山藩の代官だったことがあり、頼久寺に居を構えていて作庭をした。
豪快なサツキの大刈り込み、その背景の高い生垣、その向こうに雄大な愛宕山(あたごさん)がゆったりとやさしい三角の山容を見せている。遠近が効いていて大きな庭になっている。
この愛宕山の借景が、遠州の作庭のポイントであったのだろう。
ところが、地図や航空写真で見ると、実にちっぽけな庭である。それがどうしてあれほど大きく見えるのか、そのポイントは遠くにある愛宕山の借景にある。
庭と愛宕山頂上とは、水平距離にして1.5kmもはなれている。その距離をこの庭に圧縮してとりこんだのである。
庭と愛宕山頂上とは、水平距離にして1.5kmもはなれている。その距離をこの庭に圧縮してとりこんだのである。
同じような借景庭園として有名なものに、京都岩倉の円通寺がある。比叡山をとりこんでいる。
頼久寺と同じ頃に作られたが、こちらは後水之尾上皇による。頼久寺が武家の作庭なら、こちらは公家のそれである。
わたしは1960年ごろに、この庭を見た記憶があるのだが、そのときは刈り込みの背景の生垣の上に、すぐ外にある養老院のセメント瓦の屋根が見えていたような気がする。
そう思ってアルバムを探したら、わたしが撮ったそのとおりの写真があった。
今は外の建物が見えないのは、その建物がなくなったのかと思って、向こうの生垣のすぐ外に出てみた。頼久寺と同じ頃に作られたが、こちらは後水之尾上皇による。頼久寺が武家の作庭なら、こちらは公家のそれである。
そう思ってアルバムを探したら、わたしが撮ったそのとおりの写真があった。
下の写真に見るように、それらしい建物が今もあるから、建物の高さを低く建て直し、周りに常緑樹による生垣を高くめぐらしたようだ。
そう思って庭の中からみると、生垣がちょっと高すぎる感がある。外の建物を見切るためにそうなっているのであろうが、内外の境界を感じさせる。
当然のことに、小堀遠州が作庭したころは、外は田園であろうし、小さな茅葺きの家はあったかもしれないが、刈り込みの背景をこれほど高い生垣をたてて、外を見切る必要はなかっただろう。
いまよりは低い生垣で、おおらかに外の風景につながっていたにちがいない。
それにしても、庭園の中から見る愛宕山と、庭のすぐ外の墓地に出て同じ視線でみる愛宕山とは、あまりにも異なる風景であることに驚く。とても同じ山を眺めているとは思えない作庭テクニックである。
借景庭園の外に、高い建物が建って借景の山は見えなくなってしまった庭は多くあるだろう。
あるいは借景の山がなくとも、庭園を取り囲む樹木の連なりが美しい庭園の外に、庭の樹林の上に無粋な四角なビルが顔を出したりすることも多い。
東京の名園はどこもかしこも、ビルにのぞきこまれていいる。のぞきこむ名園が隣にあることを売り物にしている住宅ビルもあるから、まったく始末におえない。
そのおかげで東京の浜離宮庭園が、ニューヨークのセントラルパークみたいになって、大名庭園は台無しになった。
頼久寺も円通寺も、その危惧があるので、庭から見える借景の範囲にある街に、高い建物を建てないように、都市計画で規制をしている。
頼久寺の場合は、吉備国際大学の新設のときに、「地区計画」(都市計画の規制手法のひとつ)を決めたそうだ。
それまでは特に高い建物が建つようなところでもなかったが、大学ができると高いビルが建つことは十分に考えられる。
都市計画の用途地域も、それを許す指定であったので、市民から何とかするべきとの声が上がった。
そこで、庭園の外の借景が見える方向の街の中の、高い建物が建ちそうなところに風船を上げて、頼久寺の庭から眺めてそれが見えない高さに、建物の高さ規制値を定めたそうだ。
市民の努力は実って、いまも借景の愛宕山は美しい姿を見せている。
そういえば庭園ではないが、高梁の近くにある倉敷市の有名な倉敷川あたりの美観地区では、その風景の背景に高いビルが建たないように条例を決めて規制している。(2011.11.121960写真追加、関連して文を一部修正)
参照→怨念の景観帝国(京都岩倉円通寺庭園の今)
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伊達美徳=まちもり散人
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2011/10/21
510ふるさとの鎮守の森
久しぶりの生家の御前神社訪問で、鳥居が新品で白くなってびっくりしたが、参道を登って境内広場に入ってまたびっくり、見えなかったもう一段上の境内にある社殿が見えるのだ。
参道を登って丘の中腹を、2段に伐って境内地はつくられている。その下の段に広場があり、ここではかつては祭りには神楽が舞われ、戦時中には武道訓練の矢場になったり、戦後食糧難の頃は芋畑になったりしていた。いまは駐車場である。 ここからまた鳥居をくぐって、石段を登り上の段の境内にでると社殿がある。下の段から上の段の社殿は、森の樹木の葉にさえぎられて見えない、はずなのが、今は丸見えになっているのである。
その森の何本かの大木が伐られて、見通しがよい、明るいのだ。私の住んでいた宮司住宅はとりこわされて空き地に、それにつながる社務所は建て替えられえ、明るい白壁が見える。
1957年にわたしが出てゆき、弟たちが去り、そして最後に両親がここをあとにしたのは1966年であった。
少年の日と比べて、なにもかも明るい。広場も建物もきれいに管理されている。
少年のわたしは、ここを掃除させられるのがいやだった。掃いても掃いても落ち葉はあるし、むしってむしっても草は生える。
社殿の横で栗の実を一つぶ拾った。ここでは少年の頃にも拾ったと思い出したが、何代目の木だろうか。ジーンズのポケットに、いまもはいったままだ。おもいだせば、あれは戦後すぐのころだろうか、下の段の境内広場の南にあった、大人が3人でかかえるくらいの、イチョウの巨木を倒したことがあった。ここにしか倒す方向はないという位置に、樵職人はみごとに切り倒した。(参照→大銀杏の死)
周りは暗く真上の空だけはやけに明るい境内の森の中を、社務所で敗戦の放送を聴いたばかりの大人たちが、列になって黙りこくって参道を下っていく風景を思い出す。
それは1945年8月15日、暑く快晴の昼過ぎのことであった。(参照→66年目の空襲と疎開)高校生だった1955年の夏、少し遠くに住む同級の友人が遊びにきた。
持ってきたてメタセコイヤの苗木を、境内の石垣の小段に植えた。すくすくと育って30mくらいの大木になっていた。
青春の記念樹であったが、これも伐られて大きな切り株だけになっていた。大木が風でゆすられて、石垣が危うくなったのだろう。
わたしも木も歳をとりすぎた。 わたしの記憶の中にある秋と春の祭礼の日には、境内から参道に幟旗やぼんぼりが立ちならび、綿菓子を売る露店などがでて、街から人々がおおぜいやってきた。
そして人々の肩にかつがれた重い神輿が、行列をしたがえて街の中をめぐる。神輿の直前には、装束をつけた父が歩いている。
今も、祭礼はあり、神輿が街を巡るそうだ。
だが、氏子といわれる旧城下町の北半分の街の人口は減り老齢化が進む。神輿はトラックの荷台に載せて巡るそうだ。あとは推して知るべしである。
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