2015/03/16

1068【終活ごっこ】たくさんの蔵書の一部を知人に貰っていただいたがまだ残りの方が多くて悩みは尽きない

 人間を永くやっていると、いろいろものがたまる。わたしには宝物や資料でも、他人にはゴミであるものばかり、今ではそれらをどうやって捨てるか、悩んでいる。
 わたしがボケたり死んだりしたら、家族は迷惑なだけである。特別に家族思いでもないが、気にはなる。

 インタネットのわたしのサイト「まちもり通信とブログ「伊達の眼鏡」には、わたしの執筆したページが、もういくつあるか見当がつかないほど、溜まりに溜まっている。
 しかし、後に迷惑かけることはないように、公開を前提の内容であるし、物体でもないから、後々に問題はないだろう。

 一番の困りものは、本、書籍の類である。ゴミではあるがゴミではなくて、溜まりに溜まっていて、都市系、建築系、歴史系、文学全集などなど、いったい何冊あるのか見当がつかない。
 数えるのが面倒なのでやったことはなが、1000冊以上は確かだろう。これでもこれまでの4回の引っ越しで、そのたびに整理したのだが、いつの間にか増えて溜まってくる。
 一昨年から、今後は本を一切買わないと固く決心したので、そこからは増えていないはずである。

 古本屋に来てもらって処分するしかない。それでも、古本屋も持って行かないものも、たくさんあるような気がする。
 うちに一冊も本がなくなったら、せいせいするだろうか、それとも寂しくてたまらないだろうか、どっちだろうか。
 若いころは、本を買うのが大好きであり、家の本棚の場所がなくなるのが大悩みだった。
 50歳で自分のオフィスを持ったとき、これで本棚の心配なく本を買うことができると、嬉しかったものだ。今の悩みなど想像もできなかった。

 先日のこと、face bakaに、知人が探していたある雑誌を、古本屋を見つけて買ったと、喜んでいる記事を載せているのを見た。
 その雑誌をわたしは持っているだから、言ってくれれば差し上げたのに、と思ったのだった。

 そこで、その知人にわたしの本棚の一部(全体の5分の1くらいか)の写真つきで、この中でご入用の本があれば、喜んで贈呈しますとメールを送った。
 迷惑かもしれないと思ったのだが、返事が来て写真の本に印をつけたので、それをほしいと言ってくれたのである。

 ありがたやと、さっそく抜き出して送るための箱詰めしたら、3箱にもなったのには驚いた。
 だって、抜き出したあとの本棚は、まだまだたくさんの本が詰まっているからだ。
 これで200冊もあるのかと数えたら、たったの73冊で、これまた驚いた。
知人に送り付けても、残りの本の方がはるかに多いばかりか、これでも全体の5分の一ほど
73冊を箱詰めしたら3箱にもなったのに驚いた
 
箱詰めしていて、こんなボロ本を送りつけていいのかなあと、思うものもあった。ひとつは「共同研究 転向」(思想の科学研究会)(3冊)である。すっかり紙が茶色になっている。
 もう一つは、二川幸夫・伊藤ていじによる「日本の民家」(2冊)である。この本のことはここに書いた
 わたしは本を集める趣味はなくて、資料としか考えていないので、現物には愛着はないが、どちらも1960年代の若い貧乏なころに無理して買ったことを、ふと思い出させてくれた。

 さて、まだまだ本はあるなあ、どうしようかなあ、また誰かに本棚お見合い写真を送って、無理やりお嫁入りさせるかなあ。
 実は、未読本がかなり多いので、それを読んでから処分したいのだが、未読本の読破終了前に、ボケが来るだろうから、もういいのだ。早くなんとかしなくっちゃ。
 終活ゴッコは、まだまだ続く。



2015/03/14

1067【終活ごっこ】技術革新で30年間も生えていたシッポがなくなってついに無線になったウチのPC

 わたしのPCから、シッポが一本消えた。インタネットつながりがようやく無線になって、LANケーブルのシッポがなくなったのである。シッポに変る「モバイルルーター」なる器械がやってきたのだ。
 もっとも、まだいくつかのデバイス用のシッポが生えているのだが、。

 うちのPCのこの通信シッポは、6年前に生えてきたのだが、その前は電話線がシッポだった。電話線時代でも、出先でどうしても無線でやる必要がある時は、携帯電話機をシンポにしてインタネット接続していた。

 ニフティサーブなるプロバイダーに登録して、電子通信(インタネットとはまだ言わない頃)を始めたのが、今から30年くらい前だったから、それだけながらく通信用シッポをつけてきたことになる。
 もちろんその間にPCは何台も替わった。インタネット時代が来る前は、ワードプロセサー専用機を電話線につないで「ワープロ通信」をやっていた。それが「パソコン通信」になって、今はインターネットである。

 そしてそれが10年くらい前から、世のなかはワイヤレス全盛時代になっているが、わたしはもう外で仕事することはほとんどないから、まあいいやと、シッポつきでやってきた。
 有線から無線にする手続きが、もう面倒な年ごろになってしまったこともある。
 でも、いよいよ年取ると、老人ホームに入るってことになるかもしれない。その時もPCを手放そうとはとても思わないのだが、問題は行く先にLANがあるだろうかということである。

 そこで思い切って、今のうちに無線化することにしたのだ。無線化すれば、どこに引っ越そうとPCとモバイルルータさえ持っていけばよい。
 そう気がついて、今やその筋の専門家システムエンジニアになっている息子に、その無線化を頼んだのである。

 それがまあ、なんともいとも簡単に無線化したのであった。昔は新システムとか新PCなどのインタネット設定は、超面倒で疲れはてたものだが、これはまあ拍子抜けするくらい簡単にやってくれた。
 しかも、通信量4GB/日を息子名義で共用する契約で、わたしは息子の通信扶養家族になったのである。なんとも親孝行ものであると息子に感謝している(多分、初めて)。
LANケーブルを抜いてもインタネットにつながっているウチのPCとクレ-ドルに乗るモバイルルータ
さてこれからわたしがやるべきことは、30数年つきあったNIFTYとの解約、NTTとの光通信の解約、そしてひかり電話を一般電話に戻すことである。
 これらが面倒なような気がするなあ。ボケ防止にやってみるか。

 ニフティで書いてきた「まちもり通信」サイトのページは全部をgoogleサイトにコピーしたし、ニフティのメールアドレスがなくなっても、いまやgmailにしているので、もう問題は起こらないだろう。
 起きても、もう仕事してないから、気にしないのだ。


2015/03/12

1066ただいま渋谷駅は巨大な立体迷路遊園地かつ健康ウォーキングランドでバリアフリーくそくらえ

 東京の渋谷駅は、ただいま、大改造中である。駅を降りると出るルートがしょっちゅう変わって、なにがなんだかわからない。
 でも、高齢社会に生きる私のような高齢者にとって、これは実に素晴らしいことである。
 なにがしばらしいかって?、それをこれから書く。
東横デパートが消えた
東横線が東にぐんと移動して、しかも地上2階から地下5階に深ーく深ーくもぐりこんで、今では地下鉄になってしまった。
 地上の2階や3階の上空にあるJR線、京王線、銀座線の渋谷駅とは、水平距離も増えたし、垂直距離も長くなって、とてもじゃないが同じ名前の駅とは思えない。
 地下鉄大手町の各路線の駅があまりにばらばらで、ひどいと思っていたが、あれよりもすごくて渋谷駅が勝ったな。

 それに加えて、駅と周辺の大再開発工事中とて、あっちでもこっちでもトンカチだから、乗り換え相互連絡通路が工事の場所をよけるためらしく、何度も曲がりくねり、上り下りするので、複雑極まる上に、その通路の位置が行くたびに変わっている。
このような工事計画を考える人は天才だと思う。
 渋谷駅で乗り換える度に思うのだが、ここでは立体迷路を通ってクイズを解いている楽しみで、頭のボケ防止になるし、ウォーキング運動にもなって健康によろしい

 その上、どういうわけか、地下深い東横線から、地上への出入りルートで、下りエスカレーターはあるのに上りのそれがないところがあり、うっかりそのルートにはいりこんだら、横目でエスカレータで下る人を見ながら、長ーい長ーい上り階段をいつまでもいつまでも登って行く羽目になる。実は昨日、それをやらされたのだ。
 そういう時は、これはありがたいことだ、足腰の衰え防止に役立つなあと、ヨロヨロしながら、ハアハアしながら、感謝をするのである。

 更にまた、地下に潜る前の東横線は、渋谷駅が終点だったから、横浜から乗るわたしは、うっかり寝過ごしても大したことはなかった。
 ところが今やメトロ地下鉄に乗り入れて、そこから西武線にもつながって、ハッと目覚めると埼玉の山奥深くにいて、はて、秩父の狐に化かされているのか、ってことになりかねない(らしい)。
 だから、うかうかと居眠りもできずに緊張して電車に乗るから、これまたボケ防止になる。ありがたいことだ。

 こういう高齢者の頭と足腰を鍛える場が、便利な都心部の交通拠点に用意されるのは、大都会だからだろうなあ、田舎ではどこに行くのも車だもんなあ。健康な高齢者は、田舎よりも大都会に多いに違いない。バリアーフリーなんてクソクラエである。

 思えば利用者にとっては、ただ今の渋谷駅は被災地であるよなあ、我慢して復興の日を待つしかあるまいが、大きな問題は、いくらボケなくて健康になっても、その日まで生きていないだろうってことだ。

 昨夜遅く、吉祥寺からの帰りに、井の頭線から東横線へと渋谷駅で、乗り換え通路をヨロヨロしながら、ハモニカ横丁の安酒酔っ払い頭でこう思ったのであった。
こんな風になるらしいが、わたしが生きているうちは無理だな
思い出したが、横浜駅も近いうちに駅ビル工事が始まるらしいから、こちらも立体迷路出現に違いない。う~む、こりゃもうボケようったって、ボケさせてくれないな。

◆渋谷ならこちらも参照  渋谷駅20世紀開発の再開発時代



2015/03/07

1065【言葉の酔時記】ちかごろの朝日新聞はあの事件からは誤報しても安易に訂正お詫びするような気がする

 例の慰安婦強制連行吉田証言と福島原発事故吉田調書の両誤報(どっちも吉田でこんがらかる)のお詫び事件以来、朝日新聞には誤報訂正がけっこう頻繁に載るようになった感じである。それも、文末に「訂正してお詫びします」と書いてある。
 あの事件の前までは、「訂正します」だけで、「お詫びします」が付くことはめったになかった。明らかにお詫びするべき訂正でも、それがなくて変だなあと思っていた。

 また、どうして間違ったかも書くことはなかったのが、最近は確認しなかったからとか、なんだかテキトーな理由がつくようになった。
 ちゃんとお詫びと書くようになって、それはそれでよくなったと思うが、一方で、「訂正してお詫びします」と書けば、なんでも許されると思うようでは困る。

 さて、では最近の朝日新聞訂正お詫び記事の例を二つあげる。
 ひとつめは、今日(2015年3月7日)朝刊に、ダムのことを「建築構造物」と書いた記事(1月31日)の件の訂正である。
 正しくは「土木構造物」と書くべきを、建築物は建築基準法で「土地に定着する工作物のうち、屋根及び柱若しくは壁を有するもの」なのに、「確認が不十分でした」ので「訂正してお詫びします」とある。

 ふ~む、お詫びするほどの誤報というのだから、ダムのことを建築構造物というと、建築基準法違反で検挙されるのだろうか。
 いや、建築基準法には「建築物」とはあるが、「建築構造物」とは書いてないよ。
 誰か厳重に訂正申し入れした、マニアックな人でもいるのかしら。
 それじゃあ、え~と、ダムって壁だから、もしもダムの上に屋根をつけたら建築物になるんだな。

 そもそもそんな法律表現を持ち込んで訂正するほどの誤報記事なのだろうか。庶民から見れば、ダムが建築だろうが土木だろうが、どっちでもよいことだ。
 法律用語と新聞記事の関係で用語訂正をしだすと、きりがないような気がする。例えば「容疑者」と「被疑者」とかね。

 では、ダムのことを「土木構造物」と言わなければならないと、例えば「土木基準法」なる法律があって、そこに書いてあるのだろうか。そんなこと聴いたこともないけどなあ。
 そもそも「構造物」とはなんだろうか。「構築物」とは違うのか、「建造物」とは違うのか、「建築物」とは違うのか。
 あのね、ここは「建造物」と言えば、建築だろうが土木だろうが、物置だろうがタワーだろうが、穴ぼこだろうが(これは無理かな)、どれでも含みますからね、新聞屋さんよ、これを使うと誤報率が減少しますよ。
 
 二つめの訂正お詫び記事は、昨日の夕刊にある。
 谷崎純一郎の細雪に登場する4姉妹の和服姿を描いたイラストレーション(丸山敬太画)が2月27日の夕刊に載ったのだが、それが着付けの作法にあっていなかったというのだ。
 画き替えしたイラストレーションを載せて、「紙面編集の際に確認が不十分でした」とて、訂正お詫びである。
訂正お詫び記事2015/03/06

元のイラストレーション2015/02/27
 こういう寄稿の記事でも、やっぱり新聞屋が謝ることなんだろうか。
描いた人の肩書がファッションデザイナーとなっているから、衣服関係のプロである。プロが描いたのなら、それなりに意図があるはずだ。だって、この絵に添えてある描き手の話の内容が、着物の着付けのことなんだからなあ。どうなんだろうか。
 もしも本当に間違ったとすれば、それは編集部じゃなくて、丸山敬太氏がお詫びするべきのように思うし、せめて連名でしょ。
 それとも、寄稿でもいったん新聞記事にすると筆者の手を離れるのだろうか。

 これって、たぶん、読者の中の着付けマニアのオバサマ方が、まあ、朝日新聞ともあろうものが、ファッションデザイナーともあろうものが、なんて、厳重に訂正せよって投書や電話が、わんさと押し寄せたのかもなあ。
 と思って、電網検索したら、こんなのがあった。
  うん、映画スチル写真と比べても、なんだか着付けが違うよなあ。


【言葉の酔時記】

2015/03/05

1064【横浜ご近所探検】半年前の台風による横浜成田山の崖崩れ死者発生事故現場は工事再開

去年の秋、台風がやってきて、横浜の市立図書館近くにある、横浜成田山なる寺院の工事現場で、がけ崩れが起きた。
 崖上の工事現場の足元から崩壊して、崖下で潰された寺院の建物に居た修行僧が死んだ。
 その事故の直後に現場の様子を見に行ってここに書いている。今日はその続きである。
横浜成田山のがけ崩れ現場の事故発生当時の様子2014/10/07
半年ぶりにそこを通りかかったら、崩れた崖面はコンクリートで固めてあり、崖の直下にはまた崩れたら受け止めるような、高いごつい塀を建ててあった。
 崖下のつぶれた寺院は、キレイにかたずけられて空き地になっている。立て看板に「現在参拝ができない状況であります」とあるから、ご本尊はどこかに避難しているのだろう。
横浜成田山の崖崩れ事故現場の半年後の様子2015/03/04

たぶん、崖上の寺院の工事中は、崖下の寺院にご本尊を移して、営業を(?)続けていたのだろう。今となっては後の祭りである。
 後から言ってもしょうがないけど、初めからこうやって工事していれば、死人は出なかったろうに。

 わたしは宗教心は皆無だから素朴に不思議に思うのだが、この寺院では参詣者や自動車の無病息災・身体健全・息災延命・安全祈願をするらしい(寺院のサイトに書いてある)が、自らの工事の安全祈願は役立たなかったのだろうか。事故で死者を出しても、ご利益はあるものだろうか。
急崖の上と下を急階段でつないで建っていた崖地崩落前の横浜成田山満福寺と周辺の様子
参照⇒横浜ご近所探検隊が行く

2015/03/02

1063戦後復興期の横浜都心まちづくりの主役は防火建築帯か防火帯建築か:JIAシンポのこと

 わがボケ進行がいささかでも遅れるかもしれぬと、ときどき勉強会に出かける。
 2月末日、日本建築家協会(JIA神奈川)主催の二つのシンポジウムに顔を出してきた。会場がどちらも近くなので歩いて往復、午前の部のあと昼飯にうちに戻り、午後また出かけた。

 午前中のシンポは、『横濱らしい「横浜」戦災復興』と題して、横浜都心部の関内、関外にある防火建築帯をとりあげての話しだった。
 出演者は、その防火建築帯で博士号をとった研究者の藤岡泰寛さん、横浜を舞台に書き続ける小説家の山崎洋子さん、横浜の街を撮り続ける写真家の森日出夫さん。

 会場の参加者は100人もいただろうか、たぶん建築関係者ばかりだろう。テーマが地味というかプロ過ぎる。
 でもまあ、建築家たちがこの地味なデザインの戦後復興時代の建築群に目を向けるようになったのは、ようやくにして建築史にも戦後が登場し、大衆の建築と都市の時代が来たということだろう。
 でも、建築界は有名建築有名建築家主義の桎梏から、抜け出ることができるのだろうか。
横浜戦後復興期の防火建築帯造成事業の模範例:福富町

 藤岡さんの、横浜の近代史から説き起こして、戦後復興の防火建築帯までつながる話は、なかなかに面白かった。
 だが、面白いと思うのは、わたしが興味を持っているからである。それは、わたしが若いころ防火建築帯づくりに大阪で携わった経験があり、現在わたしが暮らす横浜都心の徘徊コースの日常風景のなかにあり、これまで若干は自主研究したこともあるからだ。
 専門研究者の研究対象となることも、建築家の興味の対象となることも、いろいろな意味で嬉しい。

 横浜の街で、その戦後復興建築が建ち並ぶ街を行き交う普通のひとびとには、開港記念館や赤レンガ倉庫のようには、見れども目には止まらないものだろう。
 それが証拠には、山崎さんも森さんも、このシンポに出演を依頼されて、初めて防火建築帯なるものを聞いて、歩いて眺めて、いつも見ている風景が、実は横浜の戦後復興に重要な役割を果たしたと知ったという。
 
 横浜の都心部では「歴史を活かしたまちづくり」と称する行政施策が行って、歴史的建築の姿を保全することで、地域のアイデンティティを目に見える街の姿にしようとしている。
 だが、戦前の近代日本開港の歴史を強調するスタンスにあり、戦後史はまだ評価されていない。戦後復興期をどう位置付けるのか、まだ見えていないらしい。

 戦後史のはじまりの、戦災からと占領からの復興まちづくりが、いま、ようやく評価の舞台に登ろうとしている。さて、その評価は、プラス側にでるのか、マイナス側にでるのか、なかなかに難しい局面にあると思う。
 戦前の様式建築とは違って、眼に見えて珍しくもないし、特別に美しくもないから、世間からは受けがイマイチだろうことは、赤レンガ東京駅と東京中央郵便局の保全への世間の態度にみるがごとしである。
 だが、これこそが普通の大衆の暮らす街の風景であり、横浜都心のベースとなっている景観なのである。
 
 防火建築帯へのわたしの評価は、既に書いているので改めてここには書かない。あの時代に復興建築に関わった者として、保全すべきだなんて感傷は持っていない。
 横浜都心ではこれらの建築群が、戦後から現在までの街のアイデンティティとなる風景を形成してきたことは確実なので、その風景の継承と新たな展開に、建築家たちが、あるいは横浜市の「歴史を生かしたまちづくり」行政で、今後どう取り組むのだろうかと、大いに興味を抱いている。
研究会が制作したパネル:防火帯建築の2015年分布状況

研究会が制作したパネル:防火帯建築の1970年代分布状況

 なお、気になったことを一つ。
 「防火建築」と「防火建築」という、似たようなふたつの言葉が横浜の研究者や建築家あるいは行政では使われているらしい。
 現に「防火建築群の再生スタディブック」なる本が出されているし、JIAには「防火建築研究会」があるようだ。 
 法定用語としては、耐火建築促進法に「防火建築」とある。

 だからといって、「防火帯建築」が誤用というのではないだろう。
 都市内の防火帯として耐火建築を並べる手法は一般的なことだから、その意味では防火帯建築と言ってもよいだろう。
 つまり、沢山ある防火建築の中の分類のひとつとして防火建築があるという概念であろう。

 どうでもよいのだが、言葉があまりに近すぎる並び方なので、知らない人が聞くと同じことを言ってるんだろうと、混同してしまうおそれがある。何とかしたほうがよいと思う。
 あの時代の建築と都市づくりの歴史と、現代へのその資産の継承に目を向けるものならば、防火帯だけではなくもっと広げて、例えば「横浜戦後復興都市建築」の研究と言ってはどうか。

参照
横浜都心戦災復興まちづくりをどう評価するか
横浜都心の戦後復興期残影と高度長期残滓(2013/07)
横浜関内地区戦後まちづくり史(2007)
横浜B級観光ガイドブック
戦後復興期の都市建築をつくった建築家 小町治男氏にその時代を聴く


2015/02/27

1062【言葉の酔時記】男と女の境目 、トリクルダウンとトリクルアップ、懐かしや日教組、申し訳ない首相、LINEとは電線のこと

<男と女>
 近ごろは男と女の区別は、いったいなんぞやと問われるように、二つの性の境界がなくなりつつある。男女同権というこぶしを振り上げる論理ではなくて、肉体的生態的に男女の境界がぼやけてきているようだ。

 今日(2015/02/27)の新聞には、外国の例だが、男性から女性に性転換した人と、女性から男性に性転換した人とが結婚して、子が生れたという記事がある。この子を産んだのは後者、つまり男性であるという。なにやら法的に揉めたそうだが、まあ、このように現実に男が出産する時代になったのである。
 もうすぐ、男とか女とか区別してはいけない時代が来るかもしれないなあ。風呂屋も便所も脱衣所も産婦人科も、男女を分けてはいけないことになる(だろう)。

 日本の憲法24条には「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、」とあるが、両性とはなんぞやて問われる時代が来ている。自民党の憲法改定論者のなかには、これを「二人の合意のみに基づいて」とせよと唱えている人もいるのだろうか?

<トリクルダウン>
 横浜の寿町は、東京の山谷と大阪の釜ヶ崎に肩を並べる貧困ドヤ街である。そのドヤ街の寿町を久しぶりに徘徊してきた。
 この貧困ビジネス街はますます繁盛しており、建て直された新築高層ドヤ建築が林立し、更に周辺地区へもドヤ街は拡大中である。

 つまり、ドヤ居住の貧困階層は増えるばかりで、それを吸収するドヤ事業は大繁盛であるらしい。ということはアホノミクスは、一方でドヤ住まい者を増加させつつあり、一方でドヤ事業者には良い影響をもたらしているらしい。
 アホのミックス政策では、大企業や金持ちを優遇して儲かれば、そちらから貧乏人にもおこぼれのしずくが垂れ落ちてきて恩恵が及ぶという「トリクルダウン」理論によるのだそうだ。

 でも、寿町の繁栄ぶりを見るとその逆で、貧乏人が増えてきているものだから、貧困ビジネス事業者が儲かっている。こういうのは「トリクルアップ」と言うのだろうか。
 まあ、アホノミクスによるのかどうかは知らないが、眼に見える格差拡大社会の景観がひろがる横浜都心である。 http://datey.blogspot.jp/2015/01/1046.html

<日教組>
 国会の委員会で、安倍総理大臣が野次を飛ばして問題になっている。その野次がなんと「日教組!、日教組はどうなんだ!」というものだそうだ。
 あれまあ、懐かしや日教組、今でも目の敵なのかい、あんたは、古いねえ、若いくせして。

 なんでも、ネットウヨクのあいだでは、「日教組」というのが典型的な罵詈雑言のひとつなのだそうだ。へえ、日本では首相がネトウヨなのかあ、、うん、そう言えばそうだよなあ、これまでの言動から見ると、。
 農林大臣への企業寄付金問題について、首相がかばっているやり取りの最中だったそうだが、日教組が民主党に寄付しているんだから、民主党が農林大臣を責めることはできないぞとの意味のヤジらしい。でも、調べたら日教組と民主党にそういう事実が出てこなかった。

 昔々、吉田茂という総理大臣が「バカヤロウ」とヤジを飛ばして大揉めになって、吉田はついに国会を解散した。世に「バカヤロウ解散」として有名である。
 今回もそうなるのか、首相が辞めるのかと思ったら、なんとまあ、首相がかばっていた農林大臣が辞めちまった、総理大臣じゃなくて、、、へえ~、そういうもんなんですね、今の国会って。

<申し訳ない>
 なんだか変なことをやっているんだなあ、国会って。国会の委員会の動画をネットで初めて見た。https://www.youtube.com/watch?v=jYehyBn1Akc
 面白いというか、アホラシイというか、笑ってしまったが、よく考えたら、この茶番劇にわたしも払う税金が投入されているのだった。
 だから言ったでしょ、去年暮に体制翼賛選挙するもんから、投票した人たちはバカにされてるんだよ。

 それにしても、安倍さんて人は、間違ったことを言っても絶対に謝らないんだね。日教組野次もんだいが、完全に首相の勘違い野次だったと判明しても、「間違ってたから訂正します」といって、ついでに「申し訳ない」と言って済ませている。
 「申し訳ない」と言いながら、「間違ってたから」と「申し訳け」をしているんですよね。「お詫びします」とか「謝罪します」とかって、決して言わないのね。ヘンな人だなあ。
 最近は、安倍さんが大嫌いな朝日新聞は、「訂正してお詫びします」って、訂正記事を書くようになったから、真似したくないんだろうな。

 その安部さんを真似して、東京電力社長が絶対に謝らないのだ。福島原発から汚染水が海に漏れ出していたのを、知っていながら頬被りしていたことがばれて、「申し訳ございませんでした」でお終いである。「お詫びします」なんてひとことも言わない。
 しかも、「でした」と過去形だから、現在ではもう「申し訳け」できる状況にあるらしい、ほんとかよ。
 それなのに、TV画面では「初めて謝罪」と書いてある。テレビ屋も言葉を知らないのだ。
 詫びの仕方、謝り方さえも知らない大人が、こんなにも増えては、ほんとに困ったもんである。

<LINE>
 TVを見ないからカタカナ語を新聞やネットで読むだけなので、そのイントネーションを分らない。たまたまラジオのニュースで、LINEという通信システムのことをしゃべっている。
 わたしはこの発音は「イン」(平かなが強調発音)とばかりに思っていたら、なんと「ラいン↑」と尻上がり発音らしい。

 そういえばコンピューターやインタネット用語の多くは、「ネッ↑」「ワー↑」「エクセ↑」「ツイッたー↑」「ゲー↑」「サーばー↑」「メー↑」などなど、どうして元の英語風とは逆に、東北弁風尻上りイントネーションになるのだろうか? 関東東北方言に引きずられるのだろうか?
 では、そうやって育った若者は、英語でline,net,word,excel,twitter,game,server,mailなどを、どう発音してるんだろうか?

 以上を、face bakaに書きこんだら、知人から「イントネーションが変わると若干、意味が変わるみたいですね」とコメントをいただいた。
 ということは、「イン↓」とは電話で通話することで、「ラいん↑」とはLINEのことなんでしょうかね。

 わたしはわたし流のイントネーションで、よそのお方と会話をしていますが、イントネーションで意味が変るとしたら、実は通じない会話になっているのですね。ボケジジイとおもわれてるだろうなあ、、でも、まあ、もう、いいんだ~、。

そのほかの【言葉の酔時記】
https://sites.google.com/site/machimorig0/datemegane-index#kotoba

2015/02/24

1061東電福島原発事故は浪江町請戸の住民たちを直接に殺していたのだった

福島県飯館村の長谷川さんの話を聴いたときに、同時に上映された映画が「日本と原発」であった。
 この映画は、福島原発被災住民を支援している弁護士たち(河合弘之、海渡雄一)が制作した。福島原発事故の悲惨さと原発なるものの非情さを、論理的かつ平明に伝える。
 
 そのなかで、わたしが昨年の秋に訪ねた福島県浪江町請戸地区が登場して、その被災者や救難活動の話がある。請戸のことは、わたしはここに書いている
 請戸は福島原発の有る双葉町の北に隣接する街で、地震、津波のうえに重ねて、核毒がやってきて3重苦をこうむった。
 その今や核毒の荒野が広がるむこうに、原発の排気塔が3本立っているのが見えていた。
 わたしがそこで余所者として見ただけでは、想像もできず実感もできなかった衝撃的な話が、映画の中で語られた。
福島県浪江町請戸 荒野の向こうに3本の原発排気塔が見える 2014年9月

3月11日、請戸地区の街は地震と津波で、完全に瓦礫の地に変わり果てた。その瓦礫の下には、生きたままに閉じ込められた人たちもおおぜいいた。すぐに救助活動が始まり、夜まで続いた。ある消防団員は、瓦礫の下から助けを呼ぶ合図を聞いいた。
 夜が更け、機材のない、大浪警報も出たので、明日来るから頑張れといって、去った。ほかにも生き埋めの人たちが居たに違いない。
 
 ところが、12日早朝に、原発から10キロ圏内からは避難せよとの指示が出た。救助活動よりも、住民避難誘導を優先せざるをえないので、救助に行けなかった。
 それでも13日までは何とかは入れたが、原発が爆発した14日からは、避難指示地域に指定されて入れなくなった。救助を待っていた人が居ただろうに。


 ようやく入れるようになったのは1か月後の4月14日のこと、それも規制をくぐってひそかに入った人が、意外にも低線量であることを発見したからだったという。
 原発はすぐ隣を超えて核毒を遠くに広くばらまいていたのだった。なにしろ絶対に起きないとされた事故だから、なにが起きるかだれもその対応を考えていなかったのだ。
 腐乱した遺体を搬出する作業になった。それは餓死かもしれないが、助かる命はあきらかに原発のために殺されてしまった。

 地震と津波の2重苦であれば、次の日に救助に行くことができたのに、3重苦めのせいで死が積み重なった。
 あの3重苦の核毒の荒野には、そのような恨みつらみがこもっているのであったか。
 被災地の実情は、眼でみなければわからないが、見ただけでもわからないことだらけである。

2015/02/23

1060東電福島原発核毒バラマキ事件の最悪トバッチリ被災地・飯館村の酪農家の話を聴いた

 東京の青山で、飯館村のこと、福島原発のことなど、見聞きしてきた。
 あの東電核毒バラマキ事件の最大のトバッチリ被災地である飯館村から、酪農家・長谷川健一さんがやってきて、彼が3・11から記録してきたドキュメンタリー映画を見て、話を聴いたのだ。

 わたしは昨年の秋、飯館村を訪れてその実情を見学してきた。そのことはここに書いているhttp://datey.blogspot.jp/2014/09/1002.html
 そのときは余所者として、表面的なことしかわからかったが、地元住民の立場からの映像と実情と意見を聞くことができて有意義だった。わたしが現地を見てきたからこそ、彼の話がよく分った。
飯館村の酪農家・長谷川健一さん
東京青山の東京ウイミンズプラザにて 20150222
村の長谷川さん(左端)
酪農家仲間の板書きの遺書


村長(右)ともとことん話して方針違いで決別
牛舎で餓死した牛のミイラが累々

山林を除染しないから集落にも農地にも核毒は流れ下ってくる

福島県民の初期被曝線量5ミリシーベルト以上の被爆者のうち8割が飯館村民

それでも原発は地震多発地帯にぞくぞくとできるし輸出さえもしている現実は、、

 長谷川さんが描いてくれた映像で、仕事も生活も家族もコミュニティも、そして大地さえもが原発核毒によってどんどん崩壊していく様は、まるで地球が溶解していくようだ。よって立つ大地が核毒汚染で、人間のものでなくなっていく。しかも人災で。
 その加害者は東電と国家という巨大組織であり、被害者は個々人であるという図式の中で、そのあまりの理不尽な仕打ちが続く。
 長谷川さんは、悩んだ末に村長とも決別して、ひとりの人間として、酪農家として、集落の長として、巨大組織に対抗して立ちあがっていくのである。

 なにしろ、よるべき土地が消滅したのだから、未来はもちろん明日さえも見えない先行きである。
 たとえ核毒が去って、よるべき土地がよみがえるころは、もう長谷川さんたちはこの世にいない。もしかしたらその次の世代もいないかもしれない。
 それでどうやって未来を描きうるのだろうかと考えても、暗澹たるものだ。
 未来が見えない被害者には、自死を選ぶ人たちもいるそうだ。長谷川さんの酪農仲間が「原発さえなければ」と壁の板に遺書を書いて自死した。超高齢老人が家族の避難の手足まといにならないようにと、自死を選んだ。

 加害者たちが絶対に起きないと言っていた原発事故が起きて、大量に広範囲に核毒をばらまいたのだから、再び起きない保証は何もない。
 とりあえず未来をみるには、再びこのようなことが起きないように、今の時代に原発を禁止するしかない。長谷川さんが未来のためにできることは、それだけだ。
 長谷川さんだけではなく、それは3・11経験世代がやらねばならないことである。

参照→地震津波核毒おろろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2015/02/18

1059【京の名刹重文襖絵の謎】(5)法然院方丈の狩野光信作と伝える襖絵は実は狩野時信である可能性が高いが、

【京の名刹重文襖絵の謎(4)からつづき

 こうやって見て、法然院方丈の襖絵には、柱の移動のために仕立て直したことが明瞭に分かった。では襖に移動した跡があれば、建物にもそれらしい跡があるはずだ。
 上之間のD柱が、横に4分の1間(約50センチ)ずれる前のEの位置、つまり桐の図の継ぎ目あたりの敷居、鴨居、内法長押、天井長押などを、上から下までしげしげと観察する。

 あった、見つけた。一番上の天井長押のEの位置に、かつて柱がついていた痕跡があるのだ。天井長押はもとの材を使っているのだ。
 こうして襖と長押に同じ位置(E)に痕跡があるということは、建物と襖絵とは同時に移築してきて、どちらも仕立て直したと考えて間違いない。

 では、方丈の次の間につづく、食い違いになった田の字型の4室はどうなのか(その図はこれ)。上の間、次の間とくらべて、作り方のレベルが低く、襖絵は墨絵である。御殿の絵図にはこれにぴったりとある場所は見つからない。
 この部分の実測もしたのだが、柱の太さ寸法とその面取寸法が、襖絵のある中心部と同じであった。柱の寸法は、当時の御所建築の基本的となる尺度であり、同じ建物なら同じ寸法であるから、こちらも姫宮御殿の材を使って建てたと考えてよいだろう。
 
 これで建物と襖絵の出自は、明確になった。
 延宝度の造営時に、指図から設計変更して柱の位置をずらしたのではなくて、法然院に移築時にずらしたのであった。移築時にずらせてくれたおかげで、建物と襖絵が同時に移築されたと分かり、襖絵の描かれた時点もわかった。
 整理すると、1675年に後西院御所に建てた姫宮御殿を、1685年に後西院が没し、1686年に八百姫が没した後に、法然院の方丈として移築したのである。
 移築の年は、法然院では1687年としている。襖絵もその時に一緒の移築された。

 さて、ここからがいよいよ「襖絵の謎」の核心部分である。
 この建物と襖とは、1675年に後西院御所を再建したときに建てた姫宮御所であるあるから、襖絵もその時に描かれた。ではその画家は誰なのか。
 法然院に移築された姫宮御殿が建った1675年の仙洞御所の延宝度造営に関する資料に、その造営の助役にあたった岡山池田藩に伝わる文書(「延宝度新院御所造作事諸色入用勘定帳」岡山大学図書館池田文庫蔵)がある。池田家はこの造営の深くかかわっていたのだ。
 その文書の中の「絵筆功代」に、これに携わった絵師として永真、洞雲、右京、内匠という4人の名が記されている。これ以上詳しい記述はない。
 
 ひとりめの永真とは狩野安信(1613-1685)で、光信(1565-1608)の甥である。光信は徳川家御用絵師狩野派の家系で狩野宗家の5代目にあたる。永真は光信の子の定信の養子になって、狩野宗家を継いだから、光信から言えば義理の孫にもあたる。
 ふたりめの洞雲とは狩野益信(1625-1694)で、光信の弟の孝信の孫にあたり、駿河台狩野家を起した人である。
 3人目の右京とは、狩野時信(1642-1678)のことで、狩野安信の子である。
 そして4人目の内匠とは、狩野家の門人筋のひとつである築地小田原町狩野家の狩野秀信で柳雪と称した。
  これらのうちの誰かが姫宮御殿の襖絵を描いたことになる。
狩野派系図

 ところが21世紀の現在、この襖絵は狩野光信の作とされている。
 だが光信は1608年に没したから、この姫宮御殿が最初に建った、つまり襖絵が最初に描かれた1675年には、この世にいない。
 では光信がこの襖絵の作者でないとすれば、だれか。
 上にあげた4人のうちに、右京と称した狩野時信がいる。実は時信より2代前の狩野光信が右京と称していた。後生になって混同を避けるために、光信を古右京というようになる。
 ということは、この襖絵の作者右京時信を単に右京と伝えているうちに、右京光信と混同してしまったのかもしれない。
 もちろん推測の域を出ないが、この世にいなかった光信よりも、そのとき62歳であった時信の方が、矛盾がない。

 ここから先は、障壁画の鑑定のできる専門家に見てもらわないと、わたしにはまったく分らない。これまでこの襖絵が狩野光信作とされてきているのは、専門家が鑑定して、他の光信の作品と同じような筆致があるからそうしたのであろう。建築史と美術史は別ものらしい。
 ということで、わたしの1960年の卒業研究論文の一部をもとにした古建築探偵エッセイの連載はおしまいである。大学時代の昔へ、更に17世紀の京都へとタイムマシーンにのって旅してきたが、また21世紀に戻った。

 謎は完全に解明されはしなかった。
 襖絵がつぎはぎになった原因は、移築の時に柱位置を移動したからである。それに合わせて仕立て直した襖は、どうも無様になったことは否めない。
 では、なぜ柱を移動したのか、これも推測の域を出ないが、次の間とそろえたかったのかもしれない。しかし次の間を変えずに、格が上位にある上の間のほうを、襖絵が無様になっても変えたのは、何故だろうか。
 建築技術的にはどうにでもなるから、なにか家相とか呪術的なことがあったのだろうか、それは謎のままである。

 ふたたび法然院公式サイトhttp://www.honen-in.jp/の歴史のページ覗く。
『1687年(貞亨4)に、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)を移建したものである。狩野光信筆の襖絵(重文・桃山時代)と堂本印象筆の襖絵(1971年作)が納められている』
  「伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)」とは、後西天皇も皇女もどちらも生まれる前に建った御殿があったことになる。
 1961年以後の研究による知見であろうが、実に興味深く、ぜひとも詳しく知りたいものである。
21世紀法然院方丈上の間と17世紀仙洞御所姫宮御殿を2秒間で旅する
(この写真はインタネットから拾った複数の画像を加工合成して作成した)

 なお、この襖絵が光信の作であろうと時信の作であろうと、重要文化財指定になるほどの重要な美術品であることを、わたしは否定するものではない。
 また、当初の襖絵を移築の際にきりばりつぎはぎしたので、今の襖絵は不自然であることをもって、復元するべきと思っているのでもない。つぎはぎから330年近くになることもまた重要な文化史である。
 東京駅の赤レンガ駅舎のように、当初形態への復元こそが正しい歴史文化の継承であるとする現今の文化財感には、わたしは大いに疑問を持っている。(完)


(追記2015/03/08)
 2015年3月7日にTVのBSフジで「法然院と知恩院」なる番組をやっていたので、法然院方丈のことがどう出てくるか見た。
 そのナレーションで、この方丈は伏見城の御殿を移築してきたという。
   (参照「法然院と知恩院」の一部学術コピー動画http://youtu.be/dylj3hOXNSs

 法然院の公式サイトには「1687年(貞亨4)に、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)を移建したものである」と書いてある、
 「もと伏見にあった」とは、そういう意味なのか。電網検索したら、そんなことを書いてあるサイトも見つかった。 伏見城のことをwikipediaで読んでみた。

 法然院のサイトに書いてあるように1595年の伏見城の建物とすれば、秀吉が造った指月伏見城の御殿のことになる。
 しかし、その伏見城は御殿門も天守も慶長伏見地震で壊れてしまった。でも焼けなかったそうだ。そのあとは伏見城は木幡山に移転した。
 もしかしてその地震で御殿は壊れなかったか、壊れても部材を再利用して、木幡山伏見城に移築したのかもしれない。

 その伏見城が1619年に廃城となり、その建物があちこちに移築された記録があり遺構もある。
 ということは、それを1675年に後西院御所造営時に皇女の御殿として移築し、さらにそれを1687年に法然院の方丈に移築したということになるのだろうか。
 う~む、後西天皇のお姫様は、地震で倒れた80年も前のを移築した建物を、また御所に2度目の移築をしてきたボロ家、いや、エコハウスに住んでいたのか。ほんとかしら。

◆資料
「法然院方丈について」(平井聖、伊達美徳 1961年建築学会関東支部研究発表梗概集)
「遺構による近世公家住宅の研究」(伊達美徳 1960年度東京工業大学理工学部卒業研究論文)
◆参考資料
法然院公式サイト」http://www.honen-in.jp/
「狩野派絵画史」(武田恒夫 吉川弘文館 1995年)
「別冊太陽 狩野派決定版」(山下祐二ほか 平凡社 2004年)
「国宝・重要文化財大全2 絵画下巻)」(毎日新聞社 1999年)
「延宝三年京都大火―日記史料に見るその状況―」(細谷理恵・浜中邦弘 同志社大学歴史資料館館報第13号
BSフジTV「法然院と知恩院