2024/10/28

1846【衆院選挙】選挙では大破されたが一方で自民党を大破さすがに石破

●選挙に破れて党内抗争に勝った石破さん

 昨日(2024/10/27)は衆議院議員選挙であった。投票に行った。このところ数年は真面目に投票に行っているが、ひところは全然いかなかった時期もある。

 今朝起きるともう結果が出ている。

 どうやら自民党と公明党の与党議席が、過半数に達しなくて、自民惨敗とのことらしい。でも半分近くあるし、与党系の無所属を加えるから、やはり政権は動くことはないらしい。

 自民大敗の原因は、自民議員たちの多くが裏金とかいう怪しげな金を確保していたことがバレて、庶民お怒りを買ったものらしい。なんだか庶民好みの下下の理由で、バカらしいことだ。もっと政策的なことでの敗因であってほしいものだ。

 つい先日に自民党総裁となり首相になった石破茂さんという方がどんな方が知らないし、知る気もないが、首相になったとたんに衆議院を解散したらしい。そんなことでは、この人がどんな人かさっぱりわからぬままに、選挙で信を問うたことになる。常識から考えてなんだか変である。

 思うに、石破さんは自分の信を問うたのではなくて、それまで自民支配してきた安部晋三なる政治家の信を問うたのだろう。そして大敗したのだとすれば、これは自民党の中の争いに石破さんが勝利したことになる。石破さんはそのつもりで解散・選挙に急遽突入したに違いない。彼は選挙には負けたが、党内争いには勝ったのだ。なんともはや、ヤレヤレ。

 そこで狂歌

選挙では大破された一方で自民党を大破さすがに石破


●大阪って馬鹿の一つ覚え

 全国の当選者の色分けを見ていて、変なことに気が付いた。大阪だけが色が違うのである。まるで外国のようだ。

 大阪だけが黄土色とは、ここは維新党という政党が支配している異界らしい。そういえば、この前の衆院選挙でも同じようなことがあったと思い出して調べたら、そのときは2議席が公明党で、その他は全部が維新だった。今回はその公明をけとばしてしまった。

 どうして大阪はこんな異界になっているのか知らないが、たぶんアンチ東京というかアンチ関東で凝り固まっているのだろう、もしかして豊臣家怨念亡霊400余年支配か。

 そこで狂歌いとつ

大阪は維(こ)れ新(あらた)なること無くて
ヒトツオボエの維新バッカリ


●選挙も居酒屋並みなるかも

 昨日の投票終えて出会たばかりのところに、男が近寄ってきて何やらタブレットを見せつつ、「テレビ局ですが出口調査にご協力願います」という。数年前にも新聞屋だという女が同じようなこと言ってきた。その女はノートを広げていたが、今では飲み屋の注文並みにタッチパッドである。進化したものだ。

 はいはいと、昨日の昼飯のラーメン屋のように適当にタッチして、注文ならぬ回答をしてあげた。それがどう生かされたのか、TVを持たないわたしにはまったくわからない。JNNと書いた名札を首にぶら下げていたその男は、本当にテレビ屋だろうか、そんなテレビ局なんて聞いたことがないし、新聞テレビ欄にもない。

 そして、投票所の中でもこのようなタッチパッド投票方式をやればよいのにと、思いついた。これならばこのテレビ屋がたぶんやっているように、開票と集計とをネットで結べば、ずいぶんと効率的になるだろうにと思う。

 そんなデジタルには慣れていないよ、と年寄りは言うだろうが、なに、もうすぐ居酒屋でもレストランでも飯屋でも、どこもかしこもタッチパッドになる。そうすれば年寄りもタッチパッドを使えないと酒も飲めなくなり、生きていけなくなるから、何とかするだろう。

 (20241028記)


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伊達美徳=まちもり散人
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2024/10/24

1845【渋谷浦島太郎気分・3】懐かしや桜の坂を登り来てここにまたまた超高層とは

 (【渋谷再開発浦島太郎気分・2】から続く

 渋谷に超久しぶりに行ってみて、その変わりように浦島太郎気分を楽しでいる。
 今回は国道246号を挟んで渋谷駅の南西に位置する「桜ケ丘地区」の変貌を見ることにする。これはすごい再開発だ、こここそは再開発というべきで、ここを見るとそのほかの渋谷の再開発は、単なる建て替えに過ぎないと見えてくる。

 実はわたしは桜ケ丘という丘を、19992年2月から毎月二度の昇り降りを、20年余もつづけていたから、渋谷でも一番になじみがある地区なのだ。渋谷駅からは国道246号の横断歩道橋を渡り、桜坂を昇り、更に丘の向こうの谷間に下り、そこにあった舞の稽古場に通っていたのだ。そのことはここに書いているから詳しくは述べない。

桜坂

 あの坂ばかりの街、飲み屋ばかりの街、ペンシルビルばかりの街、それを再開発してまとめて巨大なビルしかも丘の上までビルにするなんて、よくやるものだと思って見に来た。浦島太郎気分が高まる。

 知人の再開発プランナーの横山英生さんが事業推進担当されていて、このFBに時々その現場風景を掲載されていて、興味深く見ていた。さすが横山さんで、とうとう事業完了に至ったもようなのだ。渋谷のほかの再開発よりも一番興味がわく再開発だ。

 渋谷の再開発があちこちにビルができて地下や上空がつながって、大々的だと評判である。しかし私が思うに、この桜ケ丘市街地再開発事業こそは再開発の本命であると思うのだ。そのほかは都市再開発ではなくて、古くなってしまった建築と鉄道の建て直しである。

 桜ケ丘再開発と他の再開発との間には、根本的な違いがある。桜ケ丘地区には、多くの土地の権利者たちがいてたくさんの中小の建物が立ち並び、複雑な権利関係にある。ところがそのほかは東急、JR、地下鉄等の大企業の土地がほとんどで、しかもその自分の土地を再開発するのだ。桜ケ丘と比べると単純であり、どちらが再開発が困難か容易にわかる。

 その難しい条件の中で、広い都市計画道路を新設、多数の地権者が共同して、起伏ある形状の複雑な地形を生かし、安全で使いやすい建物に建て直している。特にこの多くの権利者の共同による街づくりであるところが、渋谷の他の地区の再開発とは大いに異なるところだし、それこそ都市再開発である。 

渋谷駅周辺再開発地区 桜ケ丘地区には多くの地権者がいる
 上の図を見てわかるように、フクラス、スクランブルスクエア、ヒカリエ、ストリームなどの再開発は、東急、JR、地下鉄の土地にほぼ限られているようだ。これら鉄道や河川との関係で土木工事的には難事業であろうが、権利関係は比較的単純であるようだ。
桜ケ丘再開発の前後の土地建物道路等の配置関係

 渋谷のような都心部での都市再開発の難しさは、多くの土地権利者がいること、しかも高地価であることだが、桜ケ丘地区はまさにそのような立地にある。そこを市街地再開発事業を行ったことに意義がある。

 ただし、現実に現地を見てきて、でき上った新たな都市空間が、素晴らしいものであるか否かは、また別である。上の区域図に見るように、この細長い土地の形状で、しかも高低差が著しいから、自由に空間を描くことは至難の技であったろう。意図的にこの形状にしたのではあるまいが、再開発の土地の範囲がいかにもゲリマンダーであることが、事情を物語るようだ。

 この区域形状の出どころのもとは、都市計画道路補助第18号線の新設にある。この狭い土地の中に、この広い道路の整備が可能になる範囲である必要がある。さらにこの補助18号に関係する権利者たちが営業と生活再建できる建築が建つに十分な建築敷地が必要だ。このゲリマンダー形状はその両方の要請から、ぎりぎりに編み出された範囲なのだろう。
 それにしてもこれだけ多くの権利者の地元合意がよくできたものだと、関係者の努力に敬意を表するものである。再開発プランナーの努力も思う。

 この都市計画道路整備に投じた巨額の公共施設管理者負担金、そして都市計画事業としての市街地再開発事業への公共からの巨額補助金があればこそ、この再開発事業な成立したのだろう。これらと合わせて巨大建築を引きうける参加組合員となったデベロッパー(東急不動産)がおればこそ事業は成立したのだろう。ここも実は東急資本の掌の上にあることがよくわかる。

 このゲリマンダー形状で起伏のある敷地群に、よくも公共用地と建築敷地を生み出したものだと思う。全くの第三者の興味半分としても、ネット公表されている各階の図面を眺めて、これを読み解くのにひと苦労して暇つぶしになった。巧みなプラニングというには躊躇するのだが、よくも収めたものである。もうちょっと何とかなる形状に広げられなかったかと、建築家は悩んだことだろう。
桜ケ丘再開発ビルは桜花模様

新設道路補助18号線に沿って超高層街並み誕生

 見たかったことの一つに、あの桜が丘の斜面の活用と高低差の克服方法であった。年取って足が弱くなったわたしはそれに大いに興味があった。はっきり言って特別な仕掛けや感心する工夫は何もなかった。常識的に坂道があり、エスカレータがあり、補助18号線の上空に何本かの空中歩廊がかかっている。

この細いビルはなにかしら ゲリマンダーのしっぽか

 補助18号線上空には、小公園となる広場が設けられていた。これが工夫と言えばいえるが、渋谷駅方面からだともっとも遠くて高い位置にあるので、けっこう歩かされたのが癪だった。いろいろ工夫があるらしいと分かったが、老人はおよびでないと悟った。
補助18号線道路上空の広場からセルリアンタワーを見る

補助18号線上空小公園と同レベルにある緑地 

 桜ケ丘に開発が入ったのはインフォスタワー(1998年)がはじめてで、次いでセルリアンタワー(2001年)だった。どちらも同時進行的にその工事を見つつ、桜ケ丘を昇り降りしていた。桜坂を登ってきてインフォスタワーの緑の広場で一休みしたものだった。
左にに桜ケ丘再開発、右にインフォスタワー

 そして今は桜ケ丘再開発で、丘上に3本目の超高層ビルが建ち、小公園もできた。渋谷のポテンシャルが丘の上にまでようやく及んだ言えるのだろう。 (つづく
(2024/10/25記)
このブログの関連記事
2024/10/18【渋谷浦島太郎気分・1】6年ぶりに地上に出てみた渋谷駅はまるで…https://datey.blogspot.com/2024/10/1841.html
2024/10/20【渋谷浦島太郎気分・2】渋谷ヒカリエから街を俯瞰すれば…https://datey.blogspot.com/2024/10/1842.html
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2024/10/23

1844【本を捨てる】わが遺品らしきは大量の本ばかり負の遺産とて処分に励む

 本気で真面目に「古本終活」に取り組んでいる。年取ったら読もうと書棚に積んでおいた数多くの本を、これまでもちょくちょく処分してきたが、いよいよ本格的に処分に取り掛かった。あまり読みもせずにいて、もったいないとも思うが、このままだと負の遺産になりそうだからだ。わが遺品らしきものは本しかないのだが、困ったものだ。

 これまでの処分方法は、知人に必要な人を見つけて、あるいはこのFBで募集したりして、その方々に差し上げて(もらってもらって)いたから、値段を考えたことがなかった。ここにきて古本屋さんに処分をしだして、古本の市場価値とはこういうものかと寂しく痛感している。

隙間が見えてきた書棚

 箱に詰めてネット連絡すれば運送屋をよこし、買い取り価額を査定して、ネットで入金してくれる古本屋「バリューブックス」である。この古本屋と付き合いの初めは、東日本大震災の時にどこかの市の被災図書館復興支援として始めた(この件はこちら参照)。今も支援やっているのかな。

 ワイフが遺した本の処分から始めて、自分の本に取り掛かりつつある。8月からこれまで4回送り出し、各回箱4つで計16箱、計802冊、このうち値段がついて買取されたのが105冊、その合計査定金額が5959円、一冊平均57円であった。ただし支払い受けた金額は送料差し引きなどで、全部で1000円ほどだ。

 買い取られた本の中で最高額は『絵本 即興詩人』安野光雅616円(定価3300円)であった。わたしの師匠藤岡通夫先生の著書『京都御所(新訂)』は定款25000円もしたのに値段が付かなかったし、ほかにも高額定価本はざらにあったのだが、古本とはそういうものらしい。金額の多少よりも値段が付かないことが寂しい。ついても100円の本が多いのが、本に対して申し訳ない気分だ。いわゆる全集物は全く値が付かないのは何故かしら。

 まだ出していないが、わたしの編著の本『建築家山口文象人と作品』(相模書房定価15000円)をネットで見ると古書値段が3万円ほどだ。3冊所有しているが、さてこれをどうしようか。

 なんにしてもまだまだ出すべき本の方が多いから、古本処理は続いても命が続くかしら、捨てるべき本をついつい読みだすからなあ、。

 記念のために、これまでマックスバリューに売ったの査定金額と、各回で最も高く査定された本の名前を記録しておこう。

●申込日:2024年08月08日  総数:167点、買い取19点、査定金額1,718円  『絵本 即興詩人」616円 ●申込日:2024年08月26日  総数:103点、買い取10点、査定金額527円  「絵本 夢の江戸歌舞伎 (歴史を旅する絵本)」297円 ●申込日:2024年09月20日  総数:220点、買い取56点 、査定金額3,441円、計1,786円  「森茉莉―贅沢貧乏暮らし」554円 ●申込日:2024年10月17日  総数:312点、買い取20点、査定金額1,010円  「文化経済学事始め 文化施設の経済効果と自治体の施設づくり」558円

(20241023記)

これまでこのブログで書いた古本始末記

897【横浜ご近所探検隊】伊勢佐木モールがだんだん落ちぶれて行く2014/02/19 https://datey.blogspot.com/2014/02/897.html 974往生際の悪い世の老人どもはウェブサイト終活をどうやってか2014/07/24  https://datey.blogspot.com/2014/07/974.html 1015【終活ゴッコ】暇つぶしに所蔵書籍資料書類等廃棄に取り組みつつあるけど、、https://datey.blogspot.com/2014/10/1015.html 1068【終活ごっこ】たくさんの蔵書の一部を知人に貰っていただいた2015/03/16  https://datey.blogspot.com/2015/03/1068.html 1135【終活ゴッコ】建築家山口文象と初期RIA資料コレクション2015/10/20  https://datey.blogspot.com/2015/10/1135.html 1152【古書を捨てる前に・1】江戸末期生花入門ハウツー本「生花早満奈飛第二篇」https://datey.blogspot.com/2018/07/1152.html 1162【Edge of Eternitey】もう本を買わないと決めたのについ買った本2016/01/11 https://datey.blogspot.com/2016/01/1162edge-of-eternitey.html 1594【老人とコロナ】ひっそりと次々と知人たちが消えていっている2021/10/31 https://datey.blogspot.com/2021/10/1594.html 1671【小説読後感想】面白い戦争小説『同志少女よ、敵を撃て』2023/02/16 https://datey.blogspot.com/2023/02/1671.html 1830【本棚整理再開】書棚の積ン読本を古本屋に発送する作業を始めたが https://datey.blogspot.com/2024/08/1830.html

1844【本を捨てる】わが遺品らしきは大量の本ばかり負の遺産とて処分に励む
https://datey.blogspot.com/2024/10/1844.html

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2024/10/22

1843【気候変動核毒列島】日本列島は暑すぎて果物もコメも人間も北へ北へと移るのか

●青森名産はいまにリンゴからモモに

 暑い暑いと思っていた夏から急に秋になった。この数年、ある日からガタンと急に季節が変わるような気がする。四季が徐々に移り変わる情緒がなくなってきた。そして全体に暖かくなってきている気がする。
 2024年10月20日の東京新聞日曜版に、温暖化で日本農業が変化してきた話が載っている。

 リンゴと言えば青森県が中心だと思い込んでいたら、なんとまあ、リンゴ栽培に適した地域が次第に北へと押し上げられて行き、そのうちに中心は北海道に移るそうだ。

 青森の南部では、リンゴ「つがる」の果樹園を、桃「川中島白桃」に作り替えているそうだ。そのうちに、青森名産は桃と言われるようになるのだろうか。


 サツマイモは、その名のごとく薩摩の国鹿児島県が日本一産地と思い込んでいたら、なんと今では関東の茨城県が肩を並べている。そして北海道でさえも商業栽培が可能になってきて、生産が伸びているという。

●新潟コシヒカリも退場か

 では主食のコメはどうなんだろうか。もともとは熱帯の植物を、日本の地の環境に合うように有史以来営々と改良してきて、今では北海道でも普通に栽培できるようになっている。そのコメも近年になって温暖化によって水稲栽培に影響が出てきて、一等米の収量が減少しているそうだ。そこで暑さに強い水稲栽培へと品種転換が進む。

 新潟の米といえば「コシヒカリ」と思い込んでいた。わたしが中越震災復興の手伝いで香っていた長岡市の山村でやっていた棚田米つくりも、コシヒカリ一本鎗だった。今年もその新米が現地からやってきたので早速食べたが、実にうまかった。ちょうど今、コメ不足でやむを得ず買った茨城県産コシヒカリがうちにあるのだが、これが実にまずいので、閉口していたところだった。

 ところが東京新聞によれば、2023年も新潟県ではコシヒカリ生産量は一番だが、その一等米比率は生産量のわずか5パーセントしかないそうだ。これに対して同県産の高温耐性品種米の「新之助」では一等米比率94.7パーセント、つまりほとんど一等米である。
 わたしはまだ「新之助」を買って食べたことがないが、次にこれにしてみよう。一等米比率が高いことと味が良いこととは、比例するのだろうか。

 こうして、今に北国のコメやモモは当たり前、そのうちに北海道名産バナナやパイナップルが出てくるに違いない。そのころは沖縄や鹿児島では、何が名産になっているのだろうか。いや、寝体になってしまった列島の南方に人が住んでいるだろうか。そのころは私はこの世にいないからどうでもよいことだが。

●人間が壊してしまう農業

 こうして地球の気候変動に対応して生産物も替えつつ生きていく人間はなかなかにしぶとい生き物である。ところがその反対に、その生きる努力を阻んでしまうのも人間である。
 同じく2024年10月21日の東京新聞の記事である。東京新聞では「3・11後を生きる こちら原発取材班」という記事を定期的にだしている。

「野生の食用キノコ セシウム汚染は今 2024年秋 福島県飯館村」

 これは福島県の核毒被災地「飯館村」の、山中で採集した野生の食用キノコの放射線量分析の結果である。2011年の福島第一原子力発電所の水素爆発で、核の毒を大量に山野にばらまかれた村である。街や田畑は除染という大掃除で、降り積もった核毒を、全部ではないが他に持ち出したが、大掃除をさぼったままの山林にはそのまま核毒が降り積もっている。
 
 当然のことにその山中には、季節に応じて山野草類、キノコ類が生えてくる。そしてもちろんそれらを採集して食べると、核の猛毒で内部被爆して死ぬことになる。東京新聞の記者は、キノコの毒の量を計って定期的に報道している。
 
 2024年秋の飯館村の山中に生え出た食用キノコは、どれもこれも核毒まみれである。食品基準の100ベクレルを大幅にこえて、2万ベクレルに近いものもあった。ハナホウキタケ類ときたら11万6500ベクレルだからすごすぎる。つまり飯館村の山々はこんなに毒まみれのまま放置されているのだ。

 もちろん飯館村だけのことではない。この山々から流れ出す雨水は、いったいどうなっているのだろうか。田畑に街に核毒を流し込んでいるのだろうか。それらの山野草キノコはいつになったら、食べることができるのだろうか。

 米を作り、果樹を実らせ、野菜を育てる農業の場を、一生懸命に作り上げている人間がいる一方で、それをほぼ瞬間的に超広域に超長期間にわたって破壊してしまう核発電所、これが日本列島ほぼ全体に広がる現実を、わたしたちはどう考えればよいのだろうか。

●このブログでの関連瓢論
2014/09/23【福島東電核毒地徘徊2】見えない核毒が創り出した見えるべきものが見えない風景に戦慄する

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2024/10/20

1842【渋谷浦島太郎気分・2】渋谷ヒカリエから街を俯瞰すれば大変化あるようだが基本は変わらぬまま

 (承前) 

 渋谷駅に久しぶりいやってきて、駅の西側のまるで戦災風景再現にビックリ仰天、逃げ出して駅の東側に行こうとしたら、線路跨ぐのに今どき階段を三階分も歩かされて、超高齢者はこれでもう大往生か。

 それでもどうやら駅東のヒカリエにたどり着いた。久しぶりにシアターオーブ展望ロビーに立って外を眺める。ここからは西側の渋谷駅方面を眺めても、もうビルのガラス壁ばかりで、なんともつまらないことになっている。

 それでも、かろうじて地下鉄銀座線の新駅とその引き込み線路を見下ろす。もう東横デパートは影も形もない。浦島気分である。

ヒカリエ展望ロビーから銀座線を見下ろす 2024年10月


 同じアングルでの2016年の風景を見ると、まだ銀座線を飲みこむ東横デパートが建っている。そしていまでは銀座線の高架すれすれにビルが迫って建ったことが分かる。
ヒカリエ展望ロビーから銀座線を見下ろす 2016年11月
 
同上のアングルの2024年10月15日の風景

さらに右へとみる風景 2024年10月15日

 同じく展望ロビーからの、2012年の風景を見よう。ヒカリエはこの年に開業した。その展望ロビーの公開を喜んだ記憶がある。
2012年5月の風景
 こうやって昔と今の東京街並みを比べると、局部的に高層ビルがばらばらと建ち換わるが、基本的には何も変わっていないらしいことが分かる。渋谷駅もその通りで、建物を高くしただけで、道や鉄道や河川は変わらないのだ。

 ついでにその2012年の渋谷駅の俯瞰の写真を載せておこう。いまではヒカリエに登っても、もうこんな駅風景を撮ることができなくなった。
2012年5月の東横線渋谷駅

 これらの写真を撮っているヒカリエの姿を載せておく。
2024年10月のヒカリエとその隣の姿


 ついでにヒカリエが建つ前のに建っていた東急文化会館の姿も載せておく。
東急文化会館 取り壊し寸前

東急文化会館が取り壊されてヒカリエが建つ前の渋谷駅前の東側風景 2009年10月

 こうしてみると、ヒカリエの隣に建つ3本のビルは、広告看板がつけ変わっているが、昔のままであることが分かる。浦島太郎気分だ。
 ついでにヒカリエビルの姿について感想を書くと、あの凸凹積み木細工デザインは、隣の3本のビルに習ったのかもしれない。多様というか異様な姿のビルが並び立つ東京風景、それを上下に重ねて見せてくれているのがヒカリエなのだ。(つづく)
(20241120記)
 本ブログ関連記事

2018/10/09 渋谷アスレチックステーション

2016/11/18 東京・渋谷駅定点観測

2015/03/12 谷駅は巨大な立体迷路遊園地

2013/03/28 玉久三角ビルから東横デパートへ

2012/05/08 渋谷駅20世紀開発の再開発時代

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2024/10/18

1841【渋谷浦島太郎気分・1】6年ぶりに地上に出てみた渋谷駅はまるで爆撃にあったような姿だった

  渋谷の街に6年ぶりに出てみた。

 6年前までは渋谷駅と周りの街の大再開発をやっていて、通路はあちらこちら曲がりくねり、階段だらけで立体迷路になっていた。どこをどう歩いているのか、さっぱり分からない。遊園地の迷路である。アスレチック遊び気分でもないと、当分来るところではないなと思った。
 そのころ書いたブログ記事 2018/10/09【渋谷アスレチックステーション

 東横線が地下を通り抜けて新宿方面にも通じるようになってから、渋谷は駅を通過ることはあっても、降りて外に出るのを敬遠していた。
 コロナも終わりのようだし、5年以上も経てば、さすがの渋谷再開発も完了して、地上はどこもアバリアフリーになっているにちがいない。コロナ中に年取ってしまったわたしでも、今やスイスイ動けるに違いないと思い、地上に出てみた。

 それは大きな見当違いであった。地上はまるで戦争中のような様相を呈していたのだった。それが再開発の現場であるとは思えないほどに、地上は荒廃していた。
 西口広場に顔を出してみると、あの西口の駅ビル(坂倉順三設計の特徴ある姿で東急南館といったか)がまるで爆撃を受けたかの姿であったのだ。

 その爆撃姿を見てもらう前に、元の姿を思い出そうとネットを探したらあった。

右が東急南館の駅ビル、左が東急本館

 それが今見るとまるで爆弾が落ちたみたい似成り果てていた。えっ、再開発したのじゃなかったか?、南館のほんの一部だけがかろうじて残っているだけ、でまるで廃墟、どれもこれも無残に破壊されている。いや、今も破壊が進みつつあるようだ。駅前広場もゴミ捨て場のごとき様子だ。

東横デパートは消滅、駅ビルの一部があるだけ、廃墟か?、浦島太郎気分満喫

駅前広場も消滅か?

よく見ると一部残る駅ビルに「渋谷駅」と緑色の看板

 駅前広場も一部に通路らしきものがあるだけで、無茶苦茶だ。再開発なんてどこに行ったのだろう?

 もうちょっと近寄ってみよう。驚いたことに、この爆撃されたビルの中に山手線が動いていたのだ。そうか、あの辺りが山手線渋谷駅のプラットフォームであるのか。よくまあこんなカオスの中で電車が走るものだ。 

山手線渋谷駅ホーム

 コンクリート構造物のあちこちに青ペンキで「のこし」と書いてあるのが見える。これはこの構造物は壊さずに残すという意味だろうか。
 コンクリートを壊したり残したり、巨大鉄鋼構造物を建てたりしている。JR渋谷駅の上空に、巨大建築を建てるらしいく、この破壊はそのために旧建物の撤去をしているのか。

JR渋谷駅の上空に巨大建築が建つらしい

 さすがに主要鉄道駅だから、その機能を一日も休止できないのだろう。破壊と建設が同じ場所で進行しているのは、かなりすごい光景である。まだまだ完成には年月がかかりそうだ。わたしが生きているうちは完成無理らしい。

 さらに驚くのは、この修羅場の中を通り抜けることができることだった。工事現場を目の前に見ながら、JR渋谷駅上空をまたぐように越えて、駅東に抜ける通路があるのだ。そういえばそのようなJR駅上通路が昔あったことを思い出した。その名残が生きているらしい。

 これってもしかしたら、いまだにアスレチックステーションかしら、いやいや今やバリアフリー当然の時代になっているから、まさか立体迷路はあるまい、そう思って東口へと歩き始めた。ところがそれは甘かった。

 あの昔懐かしい渋谷駅越えの通路らしきものが現れて、昔と同じようにたっぷり3階分の階段を昇る羽目になった。昔と違うのは、わが身が杖を突き、手すりに頼って、一歩づつ昇らねばならぬことだった。バリアフリーなんてくそくらえ、さすがに渋谷駅、バリアは今も健在だ。

渋谷駅越え通路へ上る階段はさらに上へと続く 懐かしい床タイル模様

 まだこれかよ~と、うんざりしつつ歩き昇り切ったら、目の前に新しい地下鉄銀座線渋谷駅ホームが現れた。え、こんなところに銀座線駅かい?、ずいぶんアサッテに移って来たんだなあ、浦島太郎気分満喫である。ここは地上5階くらいだろうか、う~ん、今浦島やるのも楽じゃない。

地下鉄銀座線の新しい渋谷駅ホームは地上5階くらいだろうか、歩いて登らされた

 この駅のデザインって、巨大ゲジゲジの腹の下にいる気分である。そう思うと気分が悪い。構造的なものか、意匠だけの物か、どうなのだろうか。
 あの狭くるしかった旧地下鉄渋谷駅と比べるとずいぶん広くなった。でも移ってきては井の頭線との連絡が悪すぎて、事実上は無関係な位置になったが、これでいいのだろうか。

 とりあえずここまで書いたが、駅の東側からさらに南の桜ケ丘までも行ってきたので、その話は改めて書く。
 それにしても、先般の新宿浦島太郎徘徊で、その駅西口に巨大な廃墟を見たが、今度は渋谷でも廃墟とは、廃墟をいったん作らないと再開発はできないものらしい。(続く

(20241018記)

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2016/11/18 東京・渋谷駅定点観測

2015/03/12 谷駅は巨大な立体迷路遊園地

2013/03/28 玉久三角ビルから東横デパートへ

2012/05/08 渋谷駅20世紀開発の再開発時代

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2024/10/12

1840【ノーベル平和賞】平和とはもはや叶わぬ夢なれや核も戦も地球に溢れて

●ヒバクシャにノーベル平和賞

 今年のノーベル平和賞が、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)に授与された。「核兵器のない世界の実現に向けた努力」を評価したのだそうだ。

 受賞した被団協に祝意を表するとともに、この時期にこの団体に授与したノーベル賞委員会に敬意を表したい。それにしても、その受賞団体名が、その悲惨な出自を物語って、いかにも禍々しいことと思う。


 ノーベル賞委員会による授与理由には、核兵器を登場の過去、現在、未来の現実の恐怖を圧縮して述べている。人間が核兵器をはじめて戦争に使って80年になろうとする。1945年に最初の核兵器による殺人数は約12万人だった。
 そしてその後に核兵器に死んだ者はそれに匹敵する数であるというそして更に今も核兵器で殺すと脅していると言う。

 この間に人間は十分に核兵器の恐怖を知っていて、被団協の人たちが身をもって訴えても、人生ほどにも長い時間が経っても、核を廃絶できないのはなぜだろうか。もしかしたら核という毒は、人間の心に深く入り込んで巣食ってしまった麻薬かもしれない。 

 核が電気エネルギーを作ることを知った人間は、その時から核が兵器であることを忘れて麻薬に化したのだろう。そして麻薬に侵された人間には、もう立ち直るときが失われているような気がする。

 唯一のヒバクシャを出した国であるのに、ここのトップの総理大臣石破茂でさえもが、「核の共有や持ち込み」を具体的に検討するべきだと主張している始末である。そういえば1974年にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作は、非核三原則の表明によるものだった。この国もすっかり核の麻薬中毒になっているのである。

 ヒバクシャ発祥から80年も経っているのに、被団協のノーベル賞受賞を祝い事として受けとることを、むしろ悲しむべきであろう。これほど訴えても麻薬から抜け出せないあんまりである。今や、まだ被爆体験がある生きている被団協の人たちがいるうちに、受賞が間に合ったことだけを、うつろに喜ぶしかないのかもしれない。

平和とはもはや叶わぬ夢なれや 核も戦も地球に溢れて

ヒバクシャ歌人は短歌で核加害を糾弾する

 わたしにはの友人の中に広島核爆弾被害者、つまりヒバクシャの兄妹の二人がいる。わたしと同年の兄の方は昨年逝き、今回のノーベル賞には間に合わなかった。
 その妹なる人は歌人であり、その父も母も奪った加害者の国USAに住みながら、核兵器を三十一文字の韻文で糾弾してやまない。

 その最近作は朝日新聞歌壇の高野公彦選による入選歌(2024年10月6日)

    爆死せし屍の上に建つヒロシマ 屍の土で基地つくる沖縄 
                    (アメリカ 大竹幾久子)

 その大竹幾久子さんにはこのような朝日歌壇入選歌もある。
    被爆者の証言こそが抑止力になるとて今日もズームで証言  
    原爆死の父は机上で笑みており娘が米人となりしを知らずに
    父は死に我は生きたり原子雲の下で二キロを離れただけで 

 そしてその母の被爆体験記を日本語と英語で出版している。

 わたしが生きているうちに、またもや核戦争に出会うなんてことは、もう絶対に嫌である。被団協の活動により、それが今まで避けられたというのがノーベル賞授賞理由だが、もう避けられないような気がする。
 今や数え歳で米寿になったこの身を、その不幸な出会いから避けるには、できることはたった一つしかない、と思っているのだが、さて、この矛盾をどう考えるか。

老いた身に戦に出会わぬ術ありて 戦の前にこの世を去るべし
(2024/10/12記)
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伊達美徳=まちもり散人
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2024/10/10

1839【年金生活】提出必要とも不要とも両方を指示する書類が来て困惑し年金事務所に訊きに行ってきた

 年金生活者である。毎年今頃になると日本年金機構なる役所(?)から「扶養親族等申告書なる書類に書きこんで提出せよと、たくさん紙を送って来る。提出は一枚だけだが書き込み方についての解説書類が多い。年金受給者全部に送っているのだろう。

 最初に読むようにと、大きな字の紙がある。フローチャートが書いてあり、順番に質問にしてがってYES or NOの回答を選んで進むのだ。それで提出の必要不要を判断する。

 先に結論を書いておくが、わたしの場合は本当は書類提出が必要だが、解説フローチャートの間違いで不要となっているだった。 

 フローチャートをたどると、途中で「所得控除の対象となる配偶者または扶養親族がいますか?」の質問があった。わたしはこの夏に配偶者を亡くしたので、去年までとは違って「いない」を選んで進む。ここが重大な間違いのところだ。

 そうやって最後までくると提出が不要にたどりつた。しかも最後の桝には「前年に申告書を提出している場合でも提出は不要です」と念入りに書いてある。
 
 あれっ、毎年提出しているし去年も提出しているのに今年は不要なのか。
 それは今年は配偶者が死んだから、もう提出の必要がなくなったのだろうか。でも、扶養親族がいなくなったことを申告しなくてよいのかしら、この書類はそのためのものだろうに、変だなあ。

 すでに市に死亡届を出しているから、それを日本年金機構はすでに知っいて、この申告しくなてもよいのだろうか。でもそうやっていち早く家族情報を手に入れているのなら、毎年申告させているのは、わかっていることを念入りに申告させているのかしら、なんだか変である。

 でもまあ提出しなくていいのなら、このやってきた書類を見もしないで捨てようと思ったが、待てよ、念のために提出不要という「扶養親族等申告書」用紙を出して眺めた。その作成の手引きも見た。

 そこには、変更があればその人物を記述を訂正・追記・抹消をせよとの指示が書いてある。抹消とは即ち死亡をも意味するのであろう。
 ということは変更があれば提出が必要と考えるのが普通だろう。

 ではフローチャートによれば提出不要とはなぜだろうか、どこかに配偶者死亡の場合は提出すべしと例外規定の注意書きがあるかと克明にさがしたが、見つからない。
 そこで年金事務所が近所にあるから、閑老人として出かけて直接に訊くことにした。それに、ボケ防止活動にもなるし、。

 横濱中年金事務所を訪ねて係にそういうと、しばらくフローチャートを眺めて言った。
 「配偶者死亡の場合は提出が必要ですが、なるほどこれだと提出不要となりますねえ、でも、もしかして提出しないでもよいかもかもしれません、調べますのでお待ちください」
 そして30分くらい待たされた結果は、
フローチャートにはそうなっていますが、申告書を提出してください
 要するにフローチャートの誤りというが不備である。

 このままでは今年配偶者に死なれたものは、みんなこの書類を提出しなくてもよいと判断するだろう。それで年金事務は問題がないのだろうか。
 わたしのようにこの一年で配偶者に死なれた人は、日本全国に何人いるのか知らぬが、特に珍しいこととも思われない。

 その場で書いて提出した。もっとも、これを提出しないと国が税金の取りそびれになる可能性があるのだから、納税する庶民にとっては都合がよいことかもしれれない。でもいまさらフローチャート印刷やり直しはしないだろうから、自己満足にすぎない。

(20241010記)


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2024/10/08

1838【横浜MM21浦島太郎】ぴかぴか整然超高層新都市ビジネス街には浦島太郎気分が湧きにくい

  この5年ほどコロナと介護で出歩けなかったが、8月から独り身になったのっで独り街歩きを少しづつ再開している。ついでに言えば、同時にやめていた酒飲みも少しづつ再開練習中である。
 街歩きはコロナ前にはしょっちゅうやっていて、何時間でも歩いていたものだが、介護で逼塞している間に、老いが進むとともに脚力が衰えた。老いてもまだ歩けるうちに、せっせと都市歩きをやっておきたい、転ばぬように杖を突いて。。

 復活してから訪ね歩く街は、5年もあれば大変化に十分な時間であり、まるで浦島太郎の気分になることもできて、それはそれで楽しいものだ。品川駅東地区新宿駅周辺地区についで、新横浜駅周辺地区に行ってみたが、駅そのものと新幹線には浦島気分だったが、町はそうでもなかったので、ここに書くほどのことはない。
 昨日は、横浜「みなとみらい21」地区(MM21)に浦島太郎気分を味わいに行ってきた。まあまあ太郎気分もなくはなかったが、新宿と比べるともの足りなかった。

 みなとみらい地区に入るのはたぶん5年ぶりだろう。わざわざ紅葉丘から掃部山に登り、山を下っていく昔のルートから、久しぶりのMM21である。
 国道16号を横断し、頭上を走るJR線路の高架をくぐり、すぐまた地上を走るJR貨物線の踏切を渡るという、せせこましいMM地区入口を過ぎると、途端に超高層街が現れるのが面白い。実はこの踏切あたりは、かつて巨大造船所時代には工場の門があったそうだから、伝統的には正し入り方である。

街からMM地区に入るには国道をわたり鉄道高架をくぐりぬける
 
鉄道高架をくぐり貨物線の狭い踏切を渡ってMMへ、昔このあたりが造船所の門だった

 もちろんもっと北や南の広い道から入るのが普通のルートだが、今日は久しぶりにこのルートにしたのは、浦島太郎気分のためである。踏切を過ぎると高速道路の高架をくぐるという、まことに念入りに現代風のゲートが仕組まれている。ここは昔のままの風景である。
 はいってしまうと広い広い道路に高い高いビルが立ち並んでいて、昔はこのあたりが原っぱだったことが不思議な世界になっていた。さすがに海だったころを知らない。

 ここにあった大きな広い平屋のDIY屋は、黒くて高いホテルのビルに変わっていた。ごちゃごちゃした住宅展示場も白いオフィスの超高層になっている。巨大なイベント会場もできている。汚らしい幟りやら小旗がはためいていた野天の自動車屋はどうしたのかしら。子供でにぎわっっていたアンパンマンなんとかってのはどこに行ったのだろうか。


 浦島太郎気分であたりを見まわしつつ歩けば、広い道路に沿って一様に白っぽい壁と黒っぽいガラスの似たような超高層ビルばかりが並び立ち、歩道がにぎわうことはなさそうだ。ちょっと寄ってみようかなと思った建物は、神奈川大学が新キャンパスの白い超高層であった。ここだけは広場に学生たちがいて、3階あたりまで一般開放しているらしいから、人影があるのがよろしい。広い芝生がないキャンパスは寂しい。

 アトランダムに風景を載せる。






 モールの樹木は高くなり緑が繁って、景観がよくなっている。でもビルの姿は空き地に大きなものが建っても基本的には変わりがないというか、別に面白くもないものだ。


  PCの中を探したら上の写真と同じアングルの10年前の写真を見つけた(下図)。遠くの正面にビルが建ち、左の空き地にもビルが建ったところが変化だろうか。
10年前のモールは緑が貧弱で街に潤いがなかった
 
 ふらふらとあてどもなく歩く。用がなくて動くのだから、変化がないと疲れてくる。似たようなオフィス然としたファサード構えばかりではなくて、店舗の賑わいにも出会いたいのだが、それがなんだか難しい。任意に撮ったどの写真を見てもわかるように、全体に広告や看板類の規制が実によく働いていて、それらが一つも見えない。だから歩いていてもビルの前まで来てはじめて、あ、ここは食べ物屋か、食品量販店か(スーパーマーケットともいう)、お茶飲めるな、ここでは酒飲めるかもしれないな、なんてことをようやくわかる。
 
 これは来訪者には不親切だが、ここで暮らし働く人たちだけがが、それらの場所を分かればよいのだろう。観光客を呼びたいとは思わないのだろう。街の賑わいなんてことよく言われるが、一方で街の景観なんてことも言われるようになり、これらは対立概念ではないが、ここのような新しい街を作るときにどちらに親切になるように傾くのか、興味がある。

 でも考えると、今どきは誰もがスマートフォンを持っており、その中にある町案内に頼って歩けば、どこに何があるかわかる。ビルの上やら前やらに看板広告を掲示する必要がないのだろう。なるほどネット時代は街の景観をすっきりさせるのか。今に中華街もすっきりするのだろうか?

デッキレベルの歩行者ネットワークも充実してきた

 かつては横浜駅からアクセスすると、広い空き地だらけで、草ぼうぼうの地を眺めながら歩いたものだが、それが懐かしくなって、PCの中を探してみた。アトランダムにそれらの原風景を載せておくが、今となっては私にはどこであったかわからない。まさに浦島だ。
2011年12月13日

2011年12月13日

2014年3月25日

2009年10月1日

2014年3月25日

でも、まだ空き地はあり、こんな風景がごうごうと音を立てていた。

 総じていかにもニュータウン的ビジネス街になってきたが、どこかで見てきたような新都市風景であって、どこかに計画の鬼が潜んでいるらしい。しばらく見ぬ間に自然に変わったのではないから、浦島太郎的気分がわかなかった。新しいものばかりだと記憶がないからだろう。

 みなとみらいプロジェクトはこのあたりメインの地域だろうが、私の好みとしては新港地区の方がはるかに面白い。もう20年もたてば、MM21のピカピカ地区もいろいろと崩れたところが出てきて、味が出てきて面白くなるかもしれない。その時に私が訪ねてくることはありえないが、もし来たらそのときは浦島太郎になれることであろう。

 最後に2014年と2022年のグーグルアース写真を載せておく。
2014年3月16日MM21空撮 google earth

2024年2月12日MM21空撮 google earth

 (2024/10/08記)

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