2016/11/10

1231【北陸に蟹を食いに】金沢近江町市場の再開発事業の成熟ぶりに驚きつつ漁解禁初物の香箱蟹を買い込んで賞味してきた

 北陸に行ってきた。福井県池田町で友人の所有する国指定名勝の「梅田氏庭園」を鑑賞し、金沢で駅前、武蔵、香林坊あたりの都市軸街づくりを眺め、富山で総曲輪あたりの再開発の様子を眺めて来た。
 金沢と富山では、昔に来てみた街と今の街の変りようを観るという、半分はセンチメンタルジャーニーである。もう旅に出ると言うと、いつも感傷旅行になる。これが人生最後から2番目の長旅かもしれない。

 今月7日からカニ漁解禁、さっそく蟹食い旅行でもあった。蟹を買うならなんといっても、金沢の近江町市場である。
 この市場は、先年に再開発事業で建て直しされたと聞いたので、あの市場の雑踏・雑多・猥雑・多様さが消えたのだろうかか、そばに建つ村野藤吾設計(1932年)の北國銀行は道路拡幅で壊されたか、金沢の街にまたひとつ超高層ビルが建ったか、などと気になっていた。
2003年2月撮影の北國銀行 村野藤吾設計 1932年
だが、見事にその心配は裏切られて、ホントに再開発したのかと疑わしいほどの、昔のままの雑多な賑わいのある市場風景に、ほう、こういう再開発もできるのかと吃驚したのだった。
 再開発となると決まって建つ高層ビルはなくて、地味な形と色の4~5階程度の建築だし、北國銀行はそっくりそのまま曳家して営業しているし、市場の中はあい変わらぬ賑わいと猥雑さで、市場を歩いていてどこを再開発したのか、どこはまだ再開発していなのか、その区別が全く分らない有様である。

  おお、この再開発はスゴイ、再開発事業やったのに、まるでやってないかのごとき変わらなさである。低層低容積の建築だし、記念的建築保全もやってるし、市場の猥雑さの再現までもやってる。
 こんな再開発事業もやれるんだ、そのような時代が来たか、あるいは再開発手法がここまで成熟したのか。
北國銀行は道路拡幅分を曳家移築して保全
近江町市場 左は再開発ビルの市場、右は既存の市場
再開発ビルの中の近江町市場
1998年、再開発前の近江町市場

再開発事業というと、その都市でもっとも高くて格好良い建築を作りたいたいと、どこの市長も言ったものだ。だが、これまで長年にわたっていくつもの都心部再開発をやってきた金沢市では、そのような規模や形の時代を抜け出して、内容と質を追及する時代に至ったらしい。
 近江町市場では、あの市場を元の市場のままとするべく再開発したらしいが、それを見事に事業採算にのせたとは、大いに興味がわいた。

そこには事業関係者たちの大変な努力と工夫があったはずだ。計画、事業、設計まで通してやったコンサルタントのRIA金沢支社の人に、その内容をちょっと聞いてきた。
 制度的には、都市再開発法に基づく第1種市街地再開発事業(都市局採択組合施行)であって特別なことはないのだが、権利者全員が参加し、各種の公的助成制度をとりいれ、事業運営組織を確立して、このような再開発らしくない形にできたらしい。
 詳しくはRIAの「近江町いちば館(武蔵ヶ辻第四再開発)」ページ参照。

金沢市武蔵が辻地区 2015年 
金沢駅からのメインストリートの正面に村野建築がアイストップ
 もちろん忘れずに蟹も食った。再開発でできた市場の2階の海鮮料理屋で、解禁とれたて香箱蟹を賞味した。美味かったので次の朝には市場で蟹を買い込んだが、結局は金沢名所にはどこも行かなかった。
 次は、富山の街見物へ、総曲輪あたりの都心部の変化を見たのだが、金沢のような成熟した街づくりの面白さが富山には無いのだった。はっきり言ってつまらなかった。

 そして次は上市町へ、そこには昔の山岳部仲間が住んでおり、東京方面から同じ山仲間2人もやってきた。もう山に登れない4人で、能登の地物香箱蟹と菜園の野菜とワインで、夜更けるまでしゃべり続ける宴会であった。
 剣岳の麓の町にやってきたからには、センチメンタルジャーニーの仕上げとして、せめて剣岳の姿を麓からでも拝んでから帰りたかったが、あいにくの雨ふりで全く見えなかった、残念。

昨年春の第4腰椎圧迫骨折事故後に初の遠距離旅だったが、その後遺症はカニで治っただろうか。こうして人生最後から2番目の旅を終えた。

2016/11/04

1230【豊洲新市場騒ぎ】盛土の有無騒ぎを眺めていて大規模公共事業の構想計画段階と設計建設段階との間の不連続と総合マネージメント欠落の経験を思い出した

 東京の豊洲新市場騒ぎを岡目八目で見ていると、このような公共事業の大規模建築プロジェクトにおける基本的な問題が、わたしの経験からよく分る。
 要するに全体を調整して始まりから終りまでを一貫するマネージメントがないのである。計画は計画、設計は設計とはそれぞれが別のものととらえて進めるのが常なのだ。最後には設計という工学技術と、経営というお金がものをいうのである。
 だから大局的に計画段階前に定めた基本的な理念を、設計段階では忘れさってしまうか、あるいは知っていても顧慮もしないことなるのだ。

 このような大きな事業は、大きく分けて最初の発案から計画づくりまでの段階と、その後に来る設計段階から工事の段階、そして運営段階へと進んでいく。
 この間での連続的なマネージメントがないままに、各段階で完結させようとする力が働いで、事業の齟齬が起きる。
 この問題は、わたしがプランナーとして仕事をしてきて、いつも悩まされたことである。主にわたしが担当してきた計画段階までに決めたことが、あとから来る設計段階でいつのまにか勝手に変更されて、実施に至ることが多いことである。
 この間をつないて総合的に調整をするマネージメントの役割をする人材が不在で、先に決めたことを後から変更する場合にフィードバックがあることは稀である。

 公共事業では、計画段階までは専門家たちによる委員会制によって進めることが多い。そこに専門分野のコンサルタントが加わって、委員会の承認を取りつつ実務作業をおこなって進める。わたしは時には委員になり、場合によりコンサルタントになったりして、基本構想や基本計画の仕事をしてきた経験がある。
 そうして、基本構想書とか基本計画書とかの名称の報告書ができあがって、発注者の公共団体が受け取って、これを所定の手続きで公的計画に定める。そして次に設計段階へと歩を進める。

 ここで問題になるのは、計画段階までは大局的見地から、その事業に意義や思想、そして具体的に何をつくるのか検討するので、ルーチン化した技術ではなくソフトウェアの性格が強いから、その専門家の選定はかなり難しく、委員会等の識者が定めることがほとんどである。
 その計画の後に設計段階となる。時にはプランナーのわたしも、設計段階までかかわることもあったが、ほとんどの場合は、設計段階から別の専門家が登場する。
 それは、設計段階となるとかなりの範囲をルーチン化した技術が主になるので、そのコンサルタント選定は入札方式となるのが通例である。つまり、金額で勝負して決まるからである。
 この間で役所側の担当者や担当部局が変ることが多い上に、実務仕事をする専門家も替わるのだから、計画と設計は一貫しないものとなるおそれが十分にあるのだ。

 そして設計担当者は、ときには計画とは異なる方針を立てて設計をするが、それが計画段階にフィードバックされることはきわめてまれである。多くの場合は、計画は「報告書」として倉庫に入ったまま忘れ去られる。
 その計画段階とは異なるものとなる理由は、計画段階から状況が変化したので、設計段階でそれに対応するために計画を変更することもある。あるいはまた、設計段階の担当者たち独自の判断で計画よりもこの方がよいとして設計に至ることも多い。
 そしてその新たな更新や設計が、計画段階とは異なるものとなっても、計画にさかのぼって検証されることは、わたしのプランナーとしての多くの仕事経験で、そのようなことは一度だけだった。
 それは、わたし自身が企画構想計画から設計工事まで一貫してプロジェクトマネージャーとして関わったという、稀な経験の場合のみである。
 
 さて、これを豊洲新市場騒ぎにあてはめると、まさにピッタリである。計画段階で決めた全敷地盛土は、設計段階で地下空間部には盛土不要と変更となった。
 そしてその変更が、計画段階にフィードバックされることなく、全敷地盛土方針は忘れ去られたのだった。たぶん、ここに悪意は無く、この設計のほうが計画よりもよいと信じた人々によって、その変更方針が支えられたのであろう。
 いや、変更したとさえ気が付かなかったのが真相だろう。つまり計画なんてものは忘れ去られるのが運命なのである。忘れないとしても、計画は計画であり、設計は設計であると、それぞれ別のものとさえ思っているかもしれない。
  
 もしも計画段階に携わった専門家や行政担当者が、設計段階にもかかわっていたら、計画の変更の持つ重大さに気が付いていたただろう。
 だが、豊洲の場合、東京都の担当者たちも定期異動で変わっていただろうし、計画段階の専門家と設計段階のそれとは、異なるコンサルタントに発注されている。
 そして盛土という行為の必要性は、法的に定めたものではないのだから、変更手続きに法的な制約があったのでもない。仕事をしている現場の判断でよいのだ。
 だから、計画段階の盛土方針が、設計段階において軽々に変更されてしまった。そこには盛土よりの地下空間の方が良いのだという、技術的な優位性のみが前提となり、公共事業が持つ社会的な説明責任を忘れたのである。

 では、なぜそれが今になって問題になっているのか。そこに悪意が働いてだれかの利益誘導になっているとか、法的違反行為であるとかならば、問題になると分るのだが、そうではないらしい。
 どうも都の組織の内部的な手続きの遺漏らしい。たとえば議会答弁と実情が食い違っていたとかである。

 技術的には、敷地の盛土しても建築の地下部分は盛土が物理的に盛土が無くなるのが当然であり、そこに「地下空間」が盛土の代わりにできあがるのである。現場の技術者たちがこれを手続き違反ととられて処罰対処になるとは、とうてい考えもしないことだろう。今でもそう思って、なぜ処罰対象になるか不思議だろう。
 
 つまり、偉い人たちに一部で盛土が無くなりますと言わないでいたのがケシカランということらしい。現場を見れば誰でもわかるのに、偉い人たちは気が付かなかったというドジな話を、こんなにジャーナリズムに上げ足とられて、担当者たちは、特に技術者たちは一体何のことやらと仰天しているだろう。
 大山鳴動させたのは、新知事であり、尻馬に乗ったマスコミである。これは大山鳴動鼠一匹となるのだろうか。
 どうも今回の件は、はんにんさがしをしなけりゃならない空気になったものだから、後付けの手続き違反指摘の感が強い。わたしにはそうとししか思えない。 

 ヒマな年寄りに、こうやってダラダラと駄文を書いてヒマツブシする種をつくってくださった、新知事とマスコミに感謝いたします。

関連参照1129【東京豊洲新市場騒ぎ】ムリヤリ犯人つくって新知事オテガラ幕引きにして次はオリピック騒ぎか
 

 

2016/11/02

1229【東京豊洲新市場騒ぎ】ムリヤリ犯人つくって新知事オテガラ幕引きにして次はオリピック騒ぎに移るらしい東京馬鹿ヤロウィーン

●ムリヤリ犯人さがしで新知事のオテガラ?

熊五郎:寒くなってきましたねえ、ご隠居。
ご隠居:おや熊さん、いらっしゃい、気候も寒いけど、人の心も寒くなってきたね。
:おや、なにかありましたか。
:ほれ、このニュース、東京の豊洲新市場騒ぎで、犯人をムリヤリつくったみたいだよ、こころが寒くなるなあ。
:ああ、マスコミが騒ぐ犯人探しゴッコに乗っかって、新知事の大手柄にしようってんですかね。
:要するに、いったん決めた盛土を地下空間に変更したときに、お役所流の手続きを経ていなかったのがけしからん、その手続き違反をしたやつが犯人だ、ってことらしいね。
:市場整備部という担当部で盛土を地下空間に変更して、それより上のエライ人や議会に変更承認をえていなかったって、いかにもお役所らしい犯人探しですねえ。
:ってことは、その変更した結果が、盛土よりも悪いからなのだろうねえ。だからマスコミやら識者やら移転反対派の人たちが怒ってるんだろうね。

●盛土が地下空間になるって悪いことかしら?

:ところが、それが分らないですね、ニュースを読んできてなんとなくわかるのは、盛土よりも地下空間の方がコストもかからず、盛土と同じ効果があるらしいですよ。
:そうそう、地下空間は配管スペースになり、しかもそこで汚染土壌のその後の影響の環境モニタリングもできるってことらしいから、むしろ良いことのようだね。
:とすると、たぶん、犯人とされた連中は、心の中じゃあ大いに不満でしょうね。
:むしろ良いことしたのに、なんで叩かれるんだよ、新知事の人気取りの犠牲にされたよ、なんてね。
:まあ、地下には盛土してないのに、盛土してるって議会答弁したらしいですから、そこはドジだった罪はありますがね。
:答弁するほうもする方だけど、都議会の方もそれを聞いて、はいそうですかって、何の疑いも持たなかったのが不思議だね。だって、工事現場を見れば小学生でもわかるウソだよ。

●サボった専門家委員と都議も犯人でしょ?

:そうですよね、現場になる前に設計図で一目瞭然で盛土がないってわかりますよ。答弁するほうもされた都議会議員の方も、全然見なかったのですかねえ。無責任都議会だ。
:もうひとつ分らないのは、盛土をせよと決めた専門家の委員会があるよね。その委員連中も設計図もみなけりゃ、現場も見なかったのかねえ。
:そのとおりなら、言いっぱなしの無責任委員会だ。
:だったら、担当当局の役人だけを犯人としないで、手続き違反に気が付かなかった、無作為の都議会議員も専門家会議の委員も、犯人として処罰するべきだな。

●いちばんよく事情を知る設計者の責任は?

:こういうときに設計した建築設計事務所やその担当者はどうなるのでしょうかねえ。たぶん、前後事情をいちばんよく知っていたはずですよ。
:あ、この盛土省略地下空間案を東京都に提案して、設計を受注したのは日建設計だね。でも、その提案採用の決定権は東京都側にあるから、一義的な責任は無いだろうね。
:でもね、前提敷地全部盛土と決まっているのに、建築地下には盛土しないって提案は、そもそも違反提案のような気もしますが、どうですか?
:う~む、違反でもそれを採用した東京都側に責任があるけど、分っていながら違反提案した技術者の倫理は問われるかもしれないね。
:でも、違反提案でも、そのほうが技術的にも社会的にも正しいと信じての提案であり、それが真実ならば、むしろ技術者倫理としては望ましい方向のような気がします。
:う~む、そもそも盛土するってことが正しい技術的解決であったかどうかが問われるってことだな、こりゃたいへんだ。

●結局はできてしまった現実がものをいう?

:こういう時には結局は、現実に即して解決するしかないんでしょうね。
:つまり、できちまった建物が安全であることを検証して、改善するべきところは改善して、早期に供用開始するってことだな。
:そうですよ、とりあえず犯人に仕立てた役人を型式的に罰して、マスコミと新知事の顔を立てて幕を引くんでしょうね。
:あとは技術問題に絞り込めば、マスコミや世間はもう興味が薄れて、次のオリンピック問題のほうが面白いや、ってことでだな。
:この間に、だれか悪意を持ってやったものがいるんですかねえ。
:なんだかもう、心が寒い時代になったね。

2016/10/31

1228【怪しいハイテク】6年間使ったプリンタ・スキャナが危篤だが代替機種がない、スライドマウントのデジタル化を急ごう

 ありゃ、プリンターがエラー表示だ。なになに、「廃インク吸収材が満杯に近づきました云々」って言っているぞ。
 あ、これって、経験があるぞ。まだちょっとは動くらしいが、満杯になると全く動かなくなる危篤状態なのだ。大変だあ~、どうしよう~。

 このプリンターは2010年6月に26800円で買ったので、それなりに高い代物である。本づくり趣味のためによく働いてくれた。
 この機種を買った一番の理由は、フィルムスキャナー機能があることだったのだ。この機能のある機種はこれしかないのだった。
 1960年代から撮りためた約15000枚ある35mmスライドマウントフィルムを、デジタルデータ化するのが、わたしの本づくり趣味の印刷と並ぶ大きな目的だったのだ。

 そして4年目の2014年6月に「廃インク吸収材」を交換せよとのエラー表示が出て、動かなくなった。これに対する修理代が11500円だった。
 それだけだすと立派な新品を買うことができるのだが、癪なので修理に出したのだ。
 その修理がまたオカシくて、1週間でまた故障、それを修理したら20日目にまた故障、まったくもって新品が買えるほどの修理代を取りながら、真面目に修理したのか、CANONは、、。

 それからまた今日まで2年余、また故障で、廃インク吸収体がドートカコートカである。この前は4年目に故障だったのに、こんどは2年かよ、オカシイなあ、印刷枚数でそうなるらしいのになあ。
 また修理するかなあと思いながら、ネット検索でキャノン修理サイトを見て分かったのは、このプリンター機種(MP990)は、「本製品は2015年9月末日をもちまして修理対応期間が終了しており、修理を承ることができません」とあるのだ。
 え~っ、もうおシャカにするしかないのかい、だって危篤というけれど、今も元気に動いてるんだよ、なんでだよ~。もったいない。
 じゃあ、なんとか自分で治そうかと、いろいろネットで調べたけど、どうも無理らしい。

 しょうがないから新品を買うかなあ。
 でも、大問題があるのだ。それはフィルムスキャン機能付き複合機は、いまや絶滅なのだそうである。
 マウントフィルムスキャン専用機をもってはいるのだが、なんとも性能が悪いので、ほこりにまみれたまま。
 外注すればやってくれるところがあるが、一枚が50~60円かかるから、とてもそんなオカネが無い。

 本づくりの印刷には大いに活躍したプリンターだが、もうひとつのフィルムスキャンのほうはめんどくさくて、少しづつ気が向いた時にやっていたので、ちっともはかどっていないのである。
 しょうがないから、廃棄する前にせっせとスキャンやっちまうことにするしかないなあ。
 印刷を続けてその機能がストップするまでは、スキャン機能は大丈夫らしい。では印刷をやめて延命しつつつ、スキャンに専念するしかない。


 この15000枚の文字通りのマウントの山を征服するには、いったいどれくらい時間がかかるものかなあ、まあ、想い出の写真を眺めつつ、手抜きしながらやるしかないか。
 ヒマに任せて自分でやるしかないが、完了したころにはわたしがボケるか死ぬかして、なんのためにデジタル化したか分らないことになりそうだなあ、トホホ、、。
 あ、いやいや、その前にスキャナーがくたばりそうだな、そうなったらキッパリあきらめがついて、かえってよろしいような、。 
 でも、まあ、ヒマツブシにやろうっと。

2016/10/29

1227めったに観ないTVで珍しく映画を観てブチブチコマギレ放映に呆れ果てやっぱりTV観るのをやめた

 めったにTV番組を見ないのに珍しくも、今日はフジTVで映画「ダ・ヴィンチ・コード」を見た。
この小説発売の時にペーパーバックで読んだのだが、どうもキリスト教のことが分らないし、特に最後のあたりはなんだか分らなかったのであった。
 だから映画だと分るだろうと期待して、TVを久しぶりに見た

 ところが、残り少ない人生をなんとまあ2時間50分も無駄にしたぞ、バカヤロー
 だってさ、一生懸命見ていると、突然に広告が挟まってくる、まったく失礼だぞ、しょうがないから他の番組をチョロッと見てまた戻ってくるのを繰り返していたが、こうもたびたびコマギレズタズタに飛ばされると、しまいにゃなにがなんだかわからなくなるんだな。

 あのおわりかたはなんだよ~、尻切れトンボってこのことだぞ。
 ペーパーバックの方がまだわかりやすかったぞ。
 こんなひどい放送のしかたでは、映画を作った人たちが大いに怒るだろうなあ、
 製作意図となんの関係ないものが間にどんどん挟まったら、製作者はたまったもんじゃないでしょ。まさか、こういう放送でいいのだってことじゃあるまいな。
 そして、わたしのようにTVを見てる人たちも、大いに怒るに違いない。いいところがくるとちょん切られて、興がそがれること著しいものがある。え、どうなんですか、みなさん、そう思うでしょ?

 何回も邪魔してきた広告なんて、わたしは全く観もしない聴きもしなかったし、たとえ見たとしてもその宣伝した製品とか企業とかを大嫌いになるだけである。
 TV広告屋って、なんだかバカのような気がする。え、あなたは、TV広告なんて観ますか?

 例えばですよ、コンサートホールでですよ、ピアノ協奏曲を演奏しているときにですよ、突然に演奏ストップ、この演奏会のスポンサーの宣伝広告が挟まる、なんてことをたびたび繰り返すなんて、あるんですかねえ。
 あるいは、長編小説の間に広告ページがどんどん挟まってるようなもんだよ、いいのかい、そんな本だったらだれも買わないでしょ。

 TVって こういうことが普通なんですか、え?、そんなことをやって平気なんですか、やる人もオカシイけれども、それを観る人もなんともヘンな人たちですねえ。
 TVってこれが普通なら、どこかちょっとアタマがオカシイような気がしますね。

 あ、いやいや、TVで宣伝広告入りの映画放送を見るには、どんなにブチブチコマ切れになっても、頭の中で連続させる再編集能力が要るんだな。わたしのようなボケ頭ではTV観る資格が無いのだな。
 やっぱりTV見るのをやめたっと。

2016/10/26

1226【法末集落の四季】大震災から12年目の山里、棚田で採れた美味い新米、美しい紅葉やがて降り積む豪雪、わたしは今や飯を味わいつつ想い出のみ


今年も美味いコシヒカリ新米が、中越の法末集落からやってきた。その日は10月22日、その次の10月23日は、12年前の2004年にその集落が大被災した中越地震だった。
 そしてまた、その前の今年の21日は、鳥取の倉吉あたりで大地震、つい先般の4月には熊本大地震、あれから5年経ってもまだまだ大変な東日本大地震、さて、この日本地震列島はどうなるのか。

 新米のが育った新潟県長岡市の法末集落の復興はおわって、いまやこの小さな集落のこれからの課題はその存続であろう。
 わたしはこの集落に2005年秋から2014年まで、延べ100日くらいは訪ねたことになるだろうか。その豪雪に驚き、その緑の景観を愛で、その人々の情に癒され、わたしが知らなかった風土に親しんだ歳月だった。
 その縁で、ずっとその集落の棚田で採れる美味いコシヒカリを、営農組合から毎年買って隔月に送ってもらっている。米をつくる村人も、それを食べるこちらも老いてきた。わたしはこれをいつまで食べ続けられるだろうか。

そこは都市から遠く離れた谷川を上り詰めた峠のあたりに、ヒョイと出現する別天地の桃源郷のような山村集落である。
 そこに行くルートはいろいろあるが、わたしのお気に入りは、小千谷駅からバスで30分ほどの小さな集落に降りて、そこから更に標高差300mほどを山道を1時間ほどかけて登って、ようやくたどり着くルートである。
 もう消える寸前の集落を通り抜け、棚田のなかの道を曲がりくねって登り、峠の陰の法末集落にようやくたどり着けば、そのたしかな立地を風土の中で明確につかむことができるのだ。好きな道だった。
 そして人間は、こんなにも奥深くにあって、まさに独立した地域でも、集まって生きることができるのだと知った。

 かつて四国の奥祖谷の有名な平家落人集落を、川に沿ってさかのぼり2日がかりで歩いて訪ねたときにそう思ったことがある。あそこも奥深い山村であった。
 この法末集落での四季を通じての長期にわたる体験で、人間が自然を飼い慣らす力量のほどを知って、なるほどそうなのかと身をもって知ったのだった。
 それにしても、雪のないところで育ったわたしには、毎年2mは当たり前、ときには4mも積もる豪雪をも、強引に飼いならそうとするしたたかな生活には、ほとほと感服するばかりである。温暖な奥祖谷とは、そこが大きく違うところだ。

わたしたちの中越復興支援グループは、ハードウェアの復旧には何の力もないから、小さなイベントのようなことを起して、集落の人たちを励ますくらいのソフトウェアでしかできない。
 いったいどれほどこの集落に役立ったのか、実はわたしには分っていない。1年ほど全戸避難していた集落の人々が戻ってきて立ち直る時に、わたしたちのような余所者がほぼ棲みついて、ウロウロすることでなにかの励ましになったのであろうか。
 
 あれから12年、法末集落は見たところは何事もななかったように、大昔からの山里の四季を繰り返しつつ、人々の暮らしが続いている。
 だが、12年という歳月は確実に人を老いさせ、住民は減ってきている。老いは集落の人々とともに、訪れつづけたわたしたちも同じである。
 わたしは熱心な支援者ではなかったが、この11年間に訪れた日数は100日くらいにはなったいるだろう。初めのころは月に3回は訪れていたが、次第に足が遠くなり、2014年に2回訪れてから、ついに昨年は1回も行かなかった。わたしも老いた。
 おもえば、わたしがこの地に眼に見えるものとして残したものは、たったひとつ、それは仲間とともにつくりあげた小さな茅葺の小屋である。これからも豪雪に耐えていつまで棚田のなかに佇んでいるだろうか。

わたしたちが法末を訪れるのを、震災復興が終わっても毎年時機に応じて続けてきたのは、集落復興から集落の継続へと視点が移ってきたからだだろう。
 典型的な限界集落の継続は、大局的には大きな社会的課題だが、暮らしの現場は日々の積み重ねである。なにができるのだろうか。
 そのひとつに支援仲間の女性たちがはじめた新しい年中行事の「お茶会」がある。キチンとお茶をたてて集落の人たちに振る舞うイベントである。
 初めた頃は正月、春、秋にやったが、そのうちに小正月の地元伝統行事「賽の神」にあわせて開くようになり、継続している。絶えようとしていた賽の神行事が復活した。

もうひとつは、仲間のひとりが集落住民となって住みついたことだ。
 復興支援仲間と集落住民の有志が出資して、彼を中心とする地元会社を設立し、高齢等で営農できなくなった住民たちの農地を引き受け、都市に米の販路を開拓し、古民家での民泊営業を目指している。これが集落継続のきめてになるかもしれない。
 他から移住してきた人、住民の次世代で戻ってきた人、古民家を改修して別荘として住む人などの、少ないながらも震災後に新たな住民もある。
 
そろそろ紅葉が美しい時を迎え、やがて雪が来る。今年は地震が多かったから、豪雪だろう。あの204年中越地震の年もそうだった。
 わたしも老いた。あの山道を1時間も登って、法末集落にたどりつく脚力はもうない。豪雪の雪の中を歩いて転ぶのが怖い。現に2014年の小正月の日、雪道で転んで捻挫して仲間に迷惑をかけた。
 わたしがもう訪ねることはないであろう法末集落、あの地震の後もしなやかに生きつづける村人たち、この間の歳月の中に静かに逝った村人たち、いっしょに訪ねた仲間たち(その中には逝った人もいる)、そして美しい四季の風景、いまはそれらの想い出にオマージュをささげよう。
 わたしと法末とのつながりは今や、地元営農組合から毎月来る米と、仲間が興した会社への出資だけとなってしまった。
 
 これまで書き連ねてきた「法末の四季物語」を、このあたりで締めくくることにする。その中の一部を、わたしが法末集落で学んだ成果として、自家製出版DTP「まちもり叢書」のなかの一巻にまとめてオマージュとした。
(まちもり叢書第17号『法末四季賦』
   ‐中越震災復興から次なる課題へ‐
 

・わたしのサイト関連ページ
●伊達の眼鏡ブログ「中越山村・法末集落の四季」
http://datey.blogspot.jp/p/2004-2005-2014623966-httpdatey.html
●まちもり通信サイト「中山間地の今とこれから」
https://matchmori.blogspot.com/p/chusankanchi.html

・外部ウェブサイト
●法末集落へようこそー法末集落の案内、歴史、名物など
https://sites.google.com/site/hossuey/
●法末天神囃子ー復興支援仲間が法末に住みついて続ける活動
http://www.hossue.jp/clubhossue.html
●越後の棚田集落/新潟県長岡市小国町法末(ほうすえ)集落
http://localnippon.muji.com/news/1391/

2016/10/22

1225【鳥取・倉吉地震】高梁盆地で少年時唯一の地震体感の恐怖記憶がよみがえってきた

 熊本のつぎは鳥取県の倉吉あたりで大地震だそうだ。昨日の新聞夕刊に何も出ていなかったのは、発生が14時過ぎだったので記事にするのが間に合わなかったのあろう。
 今朝の新聞のトップ記事だろうと思っていたら、一面にはあるけどトップではないのだった。ここが震源から遠い関東であるせいだろうか、それとも熊本と比べて被災程度が軽いからか。

 鳥取地震と言えば、2000年に大きな被害があったが、また起きた。あの辺りは地殻のひずみがたまりやすいところだそうだ。
 わたしの少年時の地震を怖いと体感した経験は、記憶にあるのはたったの1回である。
 調べてみるとそれが鳥取地震であり、1943年9月の夕刻、震度6、1083人死亡だった。

 そこから南西に100kmあまり、高梁盆地にあるわたしの生家の御前神社では、境内の森はゆさゆさと揺れ騒ぎ、社殿はみしみしと揺れ響いた。
 森の中の社務所の縁側から、恐怖をもって眺めていた大きく揺れるモミの大木の記憶は、もしかしたら社務所の揺れの視覚的な相対現象だったかもしれない。
 この地域に被害はなにもなかった(とおもう)が、少年時の唯一の地震恐怖体験を忘れない。

 他にも地震があったはずだが、高梁盆地あたりは地震が少ない地域であるらしく、地震の記憶はこれしかない。
 たしかに調べてみると、全国的にも有数の地震が少ない地域であることに気が付いて、わたしの故郷は安全なところなんだと思い込んでいた。
 しかし、どうもこのところのあちこちで地震が多く発生するのに加えて、今回は100キロほどの近くに迫ってくると、自信が無くなってきた。

 とりあえず、故郷の友人に見舞いメールを出したのだが、返事には、震度3、揺れにびっくりしたが、被災はなさそうだとの返事にホッとした。

●参照 ブログ内関連記事
大揺れ天災人災列島だけどすこしでも安心して暮らす場所を探してもう逃げだそうと思う

2016/10/20

1224【2年後にまた元号が変る】国も自治体も元号表記に固執するのをやめてくれ、また2年先に変ると混乱ばかり

 天皇が2年後には退位するらしい。となると、また2年後に新しい元号になるのかい、もう、やめてくれよ~。
天皇制には大いに疑問を持っているが、最も身近なそのひとつに役所が元号表記を押し付けることがある。
 書類の生年月日記入欄に、明治・大正・昭和・平成から選んで丸を付けるなんて、バカバカしいことをやる。わたしは無視して西暦を書く。

 役所の資料は、統計さえも元号表記だから、19世紀半ば以降は4つの元号がならぶと、このデータはいったい何年前のことか、頭がこんがらかる。
 そのくせ、19世紀前半以前の表記は西暦になるのはどういうわけか、統一性がないぞ。
 元号で書くなら、西暦併用を一切やめて、大化いらいの各元号で通したらどうかね、ますます混乱するだろうなあ。そんなに天皇制がお好きなら、いっそのこと神武紀元歴にするか。

 元号表記を見ると、しょうがないから西暦換算方法で暗算する。
 明治なら1856を、大正なら1911を、昭和なら1925を、平成なら1988をそれぞれ足すのだ。それではじめて何年前のことかわかる。
 でもなあ、歳とるとその暗算能力の減退が著しいのだが、まあ、暗算はボケ進行遅延効果があるかもしれないから、元号表記も捨てたものではない、というかなあ。

 小中高での教科書の表記はどうなんているのだろうか。日本で育つと国際感覚の乏しくなるのかもなあ、この元号のせいのような気がする。
 東京は、紀元2600年(西暦1940年)の記念行事としてオリンピックを誘致そして返上したが、外国人には記念の意味が通じないことだったろう。
 次の紀元2700年は、西暦では2040年だが、もしかしてまた記念万博とか記念オリピックとかやるって言いだすだろうか。

 ネパールで買ったルンビニシャカ遺跡解説の英語の本を読んでいて、どうも年代表記がオカシイと思ったら、あの国固有のビクラム歴(西暦+57)を使っているのだ。いわば日本の神武紀元歴である。
 わたしは西暦が優れているとはおもわないが、国際的スタンダードデファクトにほぼなっちまったから、これが良いとおもう。コンピュータが非合理的言語の英語に頼っているようなもんだ。

 それにしても、自分の身の進退を自分で決めることを、法的に禁止されている人間の一族が、この今の世の日本にいるとはねえ、そのこと自体が根本的に人倫に悖っているいるぞ。天皇制最大の疑問だな。

(追記2017年1月11日)
 最近の新聞によると、「国民生活に影響を最小限にする」とて、こんな姑息なことをやるらしい。元号使うのをやめればいいのに、まったくもって困った人たちだ。
 元号なんてものは、天皇家だけで勝手に使えばいいので、こちらに押し付けるのをやめてもらいたい。まったくもって癌号である。

2016/10/17

1223【新潟県知事選挙:核発電所慎重派当選】わたしが毎日食べている飯は柏崎核発電所から20km圏内の棚田の米で命がかかってるから新知事さんよろしくね

熊五郎 こんちわあ、ご隠居、なんだか涼しくなってきましたね。
ご隠居 おや、熊さん、いらっしゃい。あ、ちょうど昼のご飯が炊きあがったところだよ、一緒に食べよう。
 ハハ、昼飯時を狙ってきて大成功、ご隠居んちの米の飯はとても美味いんだもの。
 おお、ありがとよ、うちの米は新潟県の山奥の棚田で採れる、特別にうまいコシヒカリだからね。
 そうそう、ご隠居がいっとき米つくりに通っていた長岡の法末って集落ですよね。
 米つくりが目的で10年も通ったんじゃなくて、中越震災復興支援の手伝いに行ってたんだな。その縁でその村から直接に米を買って食べ続けているんだよ、もちろん美味いからだよ。
 新潟県と言えば、県知事選挙で原子力発電所について慎重派の人が当選しましたね。
 そうそう、核発電積極推進派の人になったら、この美味い飯を食い続けるのが難しくなると心配してたんだよ。
 え、だってあそこの発電所は海のそば、この米の村は遠くの山奥でしょ。
 それがねえ、なんと20km圏内にあるんだよ。ほら、東日本大地震で福島核毒ばらまき事件の時に、それに気がついて驚いたね。
参照
http://datey.blogspot.jp/2012/10/680.html
 エ~ッ、それじゃあ福島のようになると、避難しなきゃならないんですね。
 豪雪と共に核毒が降り積もったら、もうどうしようもないね。だからわたしは慎重派の人が当選して良かったって思ったよ。
 へえ~、こちとら関係ないと思ってたけど、この米の飯で大いに関係あるんですね。
 そう、この米に命がかかってるんだな。
 ちょっと前に鹿児島県知事選挙でも、似たようなことがありましたね。
 そうそう、慎重派新人が推進派現職を抑えて当選したね。熊本地震が県民に影響したのだろうかねえ。
 これからの核発電所設置県の知事は、どんどん慎重派になるんでしょうかねえ。
 いや、そうかなあ、今は核発電所設置自治体だけにお土産があるけど、これからは設置県県内自治体全部にお土産を出すようにしたら、コロッと推進派へ変るかもしれないよ。
 まさかねえ、やれやれ、明日の命よりも今日のカネって、やっぱり日本は貧乏なんですね。
隠 ♪米山さんから雲が出た いまに夕立が来るやら
   ピッカラ シャンカラ ドンカラリンと 音がする♪
 なんです、突然歌いだして、ビックリした。
 おや、知らないのかい、新潟民謡の三階節だよ、新知事が米山さんと言うらしいからね。いや、歌の米山は新潟県の名山なんだけどね、事態にピッタリでしょ。

2016/10/16

1222【珍しく病になり薬屋と論争】耄碌した年寄り患者には医薬分業になって負担が大きくなったと思った

 珍しく内臓の病で、排水管が錆びたらしい。医師から処方箋をもらったのが昨日、近くの調剤薬局が土日は休み、昨夜は我慢して過ごした。
 今朝早く起きて日曜日でも開いている調剤薬局をネットで探し、10時開店と同時に駆けこむ。白衣のオバサン(調剤人とでもいうのか)が、薬の説明をしてくれるのだが、これが要領を得ない。こちらは寝不足で機嫌が悪い。

「この薬をのんだら、乳製品を摂るなら2時間くらいあけてください」
「はい、でも、耄碌しているから忘れるので、紙に書いてください」
「この薬の説明の紙に書いてあります、鉄剤などにも注意、とね」
「エッ、あのね~、鉄棒をしゃぶるのと牛乳を飲むのじゃあ、天と地ほど違うでしょ」
「いや、乳製品に鉄分が入っているですよ」、
「エッ、牛乳は鉄からつくるかい?、とにかくそこに乳製品飲むな食うなと、大きく赤い字で書いておいてください、かならず忘れるからね」
「はいはい」
「今後は同じ薬を他に人にも出すなら、同じように書いた方がいいですよ。牛乳が鉄でできてるって知ってる人は、あなたくらいなもんですから」
「呑むのはお昼ごはんの後にしてください」
「あのね、わたしは11時ごろ朝昼兼用ですが、どうしましょ」
「あ、ブランチね。ではそのブランチの後でいいですよ」
「あ、もうひとつ骨の薬を呑んでますが、一緒でいいですか」
「あ、それもまずいですねえ、じゃあ、この薬は夕食の後にしましょう」
「でも、骨の薬は1週間に1回、火曜日だけですけど、」
「では火曜日だけは、この薬を夕方にしましょう」
「う~ん、火曜日に飲むのさえちょくちょく忘れるのに、さらに複雑なこととなんて、耄碌してるから、かならず間違うなあ、困ったなあ」
「じゃあ、この薬は毎日夕食後にしましょう、それなら間違わないでしょ」
「でも体調がよくないから、今すぐに呑みたい」
「ご飯食べてからにしてください」
「じゃあ、今日は例外にしてもらって、すぐにそのあたりでパンと牛乳でも買って、、、あ、いけないのか、ジュース買って公園で食べて、すぐにこれ呑みます」


 診察をうけた医院を出るときに受付で、この処方箋ではどこの薬屋でも買えるのかと聞いたら、どこでもよいと言う。
 では、うちの近くで買おうと戻って来たら、なんと4店もあるのに全部土曜休業である。そうか、近くの病院が休診だからだなと気が付いた。ということは明日の日曜日も休業か。医者と薬屋が結託して、自分の都合で営業してりうんだな。

 それなら、診察うけた医院の近くの薬局は営業していたに違いない。だが体調悪いのに引き返す気力がないし、もう5時近くだから着いたころは閉店してるだろう。
 それで、こうして次の日に、たまたま日曜も開店する店を近くで発見したから、1日遅れの服用開始になったが、これが見つからないと2日遅れになった。

 おいおい、医療業界はそれでいいだろうけど、患者業界としては断固として困るぞ。医薬分業でなければ診療日から服用できるにに分業のために遅れる、そのせいで症状悪化したら、責任をどうとってくれるのか。
 昔は医者が薬をくれたから、医院で一度に全部済んだから、こんな苦労をしなくてよかったのになあ、なんで医薬分業にしたんだよ、薬代金の外にいろいろ請求されるし(普通に営業しているのに休日割り増しもとる)、医者にもう話したのに同じことをまた聞かれてめんどくさいし、患者は負担が増えて困るだけだよ。

2016/10/12

1221【続々・法然院方丈襖絵事件】法念院方丈の建築と襖絵の成立年代の矛盾を、二つの出自が実は別々かもしれないと考え直してみたが、、

(【続・法然院襖絵事件】から続く)

●法然院方丈襖絵が狩野光信筆から孝信筆に変更

 わたしの大昔の卒業研究は、京都御所の遺構と尋ねて、その現状の実測、寺伝による出自、その検証などを行ったのであった。
 その中のひとつに、この秋に特別公開されいる法然院方丈があった。この方丈はいつもは非公開だが、春秋の京都非公開文化財特別公開のひとつとして、公開されることもある。今年の秋は公開らしい。http://www.kobunka.com/tokubetsu/

 特別公開事業の主催者・財団法人京都文化財保存協会のサイトに特別公開の一覧表があり、その法然院方丈にある重要文化財である襖絵について、「狩野孝信筆襖絵」と書いてある。http://www.kobunka.com/topics/pdf/hikoukai_h28aki.pdf

 しかし、この襖絵は、これまでは狩野光信筆とされて来ている。孝信筆も京都の権威ある団体の発表だから、まさか光信を間違って孝信と書いたなんてことはあるまい。
 法然院の公式サイトを観ると、「狩野光信筆の襖絵(重文・桃山時代)」と記載してあって、以前と変わりがない。

 そこで、京都の「財団法人京都文化財保存協会」に問合せをした。ご親切に回答をいただいて、その要旨はこのブログに下記のように記載したとおりである。
 http://datey.blogspot.jp/2016/10/1220.html
 今回の変更は、要するに孝信作の仁和寺にある松の絵と比較して、絵の一部が酷似していたので、光信よりも孝信筆が妥当性が高いとしたらしい。
 さて、そのいただいた回答の内容は、それなりに理解したが、わたしの疑問が根本的に解決するには、かなり遠いものであった。美術史の門外漢素人には、ますます興味が湧いてくるのである。

 わたしの疑問点は要するに、この建物は1675年にできた後西院御所にあった姫宮御殿を、1687年に移築してきたものであり、その襖絵の画家とする狩野光信(1608年没)も孝信(1618年没)も、その建物ができたときはこの世にいなかったので、襖絵を描くことはできない、ということである。
 では誰の筆なのかについては、わたしたち(当時の東京工大藤岡通夫研究室)の研究では、当時の御所造営の資料から狩野時信(1678年没)であったろうと推定したのである。
 ここまでの話の詳細は、こちらを参照。
http://datey.blogspot.jp/2016/10/1218.html
http://datey.blogspot.jp/2016/10/1220.html
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hounen-in
後西上皇姫宮御殿にあった頃の襖絵(推定復元)


●方丈襖絵と方丈建築は出自が別々かもしれない

 上記の推定は、方丈の襖絵が1675年の上皇御所姫宮御殿造営時に描かれており、方丈への移築時にその襖絵も共に法然院にやってきたという前提である。つまり建築と襖絵は同じ出自であるとしたのだ。
 とすると光信も孝信もありえないのだが、これを、仮に光信あるいは孝信筆が正しいとしたら、どう考えるか思考試験をやってみる。

 そうなると上皇御所姫宮御殿にその襖絵はあったはずはないから、遅くとも孝信が没した1618年までには、別のところで、描かれていたことになる。
 別のところとは、どこであろうか。
 法然院がいうように「もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)を移建」の意味を、「もと伏見城にあった御殿(1595年(文禄4)建築)の襖絵を移設」と解釈すればどうだろうか。

 これならば、光信も孝信も年代的には可能性はあるだろう。つまり、方丈の建物の出自は後西院姫宮御殿(1675年)であり、襖絵の出自は伏見城の御殿(1595年)とするのである。
 その1595年の伏見城とは、秀吉が作った指月伏見城のことであろう。だが、完成直後1597年に慶長地震で倒壊してしまい、木幡山伏見城に移転したのであった。
 ということは、この倒壊したときに当該襖絵は無事であって、木幡山に移して再利用され、更に木幡山城の廃城でまたどこかに移設され、1687年に方丈にやってきたのだろうか。

 あるいはまた、1597年伏見城倒壊から1687年方丈移築時まで90年もの間、その襖絵は襖からはがされてた捲り状態で、どこかで誰かに保存されてきていたのかもしれない。
 そして、移築時あるいは移築後に、法然院に寄付され、今の襖絵のように貼り付けて仕立てたのかもしれない。
 それはいつ、だれが、どのような経緯だろうか。

●更なる疑問のかずかず

 このように考えていると、更にいくつもの疑問が出てくる。
 姫宮御殿を法然院方丈に移築してきたときには、それには襖絵があったはずだ。そのオリジナル襖絵は、いったいどこに行ったのだろうか。廃棄したのか。
 御所からの拝領した方丈の襖絵を廃棄することは考えにくいから、どこかに移されたのかもしれない。それはどこなのか。

 狩野派はスクールだから、画家たちは先人たちの絵を真似て画風を伝えていくので、絵に落款とか署名がないと、本当の筆者を特定するのは難しいものらしい。
 今になって光信から孝信へと変わったようだが、それにしても、長い間(もしかして移築の1687年から420年も)の伝承による画家の変更を、法然院はよく認めたものである。いや、実は法然院はその公式サイトの記述の変更がないから、認めていなのかもれない。研究者たちの間だけの変更かもしれない。
 美術骨董品として観るなら、光信も孝信も狩野派では、ほぼ同時代の有力な位置にあるから、絵の価値に大差はないのだろうか。

●狩野派系図

しかし、これがもしも無名の筆者であると分ると、たちまち骨董価値下落になるのだろうか。わたしのいう時信説では、桃山時代の光信や孝信に比べると、時代が江戸時代に下がるから、骨董価値も下がるのだろうか。そうなれば法然院としては認めがたいことだろう。
 ところで、研究者たちは時信の代表作など多くの作品とも比較研究した人がいるのだろうか。孝信説を出すなら、時信説の合理的な否定をしてほしいものである。
 あるいはまた、法然院にあるかもしれない方丈建築の御所からの拝領移築に関する古文書類の研究が進んで、それによって孝信説になったのだろうか。
 
 わたしは研究者でもなし、まったくの門外漢の素人だから、ただただ勝手に面白がっているだけである。

参照・京の名刹 法然院の謎ー建築と襖絵の出自を探る(2015)
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hounen-in

2016/10/07

1220【続・法然院方丈襖絵事件】法然院の襖絵画家は狩野光信からなぜ孝信に変ったか、はたまた時信か謎は深まる

 

 このブログの1218【秋の京都文化財特別公開で、その特別公開案内サイトに、法然院の襖絵の作者が狩野孝信と書いてあるので、光信から孝信に変更になったらしいことを書いた。
 ふと思い付いて、その秋の非公開文化財特別公開事業の主催者である(財)京都文化財保存協会に、メールを出して変更になっている事情を質問してみたら、ご親切に丁寧な返事をいただいた(2016/10/05)。

 わたしから質問はこうである。

 2016年秋の非公開文化財特別公開事業の一覧の中で、法然院方丈の重要文化財襖絵の画家を「狩野孝信」と記してあります。しかし、これはこれまでは狩野光信とされていましたし、法然院のウェブサイトにもそのように載っています。
 孝信の記述は誤記でしょうか、それとも光信から孝信に変更された事情があるのでしょうか、お尋ねいたします。(以上)

 これに対して、いただいた回答の要旨を紹介する。

 法然院方丈の重要文化財の襖絵の作者は、従来は狩野光信筆にとされてきていたが、近年の研究で狩野孝信の作とする学説が出てきた。
 そして2015年に京都国立博物館での「桃山時代の狩野派―永徳の後継者たち―」展覧会に出展した際に、作風から孝信である可能性が高いと判断され、狩野孝信筆として展示された。
 そこで京都文化財保存協会は法然院と協議した上で、従来の光信筆から孝信筆へ変更することにして、今回の特別公開においても、狩野孝信筆と表記した。
 狩野孝信筆となった根拠については、当該展覧会に図録「桃山時代の狩野派―永徳の後継者たち―」の作品解説に記載がある。(以上)

 京都国立博物館での展示を機会に、専門家による鑑定が光信筆から孝信筆に変ったらしく、それは法然院も承知しているようである。
 面白いなあ、絵画専門家による鑑定で、作者が光信から孝信に今になってどうして変わったのか、新事実の出現に興味津々である。その上、わたしの56年前の説では時信である。
方丈襖絵桐図(1960年撮影:平井聖)
法然院方丈として移築前の後西院御所姫宮御殿では
Eの位置に柱が立っており、桐図の襖はEF間の1.25間幅だった

 襖絵ができてから法然院説では421年、わたしの建築考証では341年であるが、この80年の差を、科学的な分析技術で判定できる方法があるといいなあ。
とりあえず、その図録を図書館で探さねばなるまい。これはまたディレッタントヒマ老人のまことに文化的なヒマつぶしになるのである。

図録
唐人物図屏風 狩野孝信筆 2曲1隻 1613 仁和寺

2016/10/06

1219【くたばれ乗用車】そこのけそこのけお車様だぞ、目が悪い奴は気をつけろ~、なんて威張る自動車屋はくたばれ~

 今朝の新聞に、電気自動車に人間に近づいたら、「おい、そこの歩いてるやつ、注意せ~よっ」って警告音を出すように、義務付けするってニュースが乗っている。
 「ドケ、ドケ~、轢かれてもしらねーぞッ」っと怒鳴るのを、義務付けるのだそうである。なんというバカなことをさせるんだよ、根本が間違ってるぞ。

 歩行者のすぐ脇を電気自動車がいきなり脇を通過するとアブナイのだそうだ。
 あのなあ、その責任は、「すぐ脇を通過する」側にある。あんな鉄の箱が「すぐ脇を通過すること」がそもそもいけないのである。
 「すぐ脇を通過される側」が注意するべき義務も責任も無いぞ。
 トラックがバックして来る時、「バックします、注意してください」って、機械女の声がするが、バカヤロ、そっちが注意するべきだろッ。
 
 それをなんだよ、乗用車がすぐそばを通過するときに、警告音を出して注意してやるんだというのである。聴覚障害者を引き合いに出して、いかにも福祉のためぶるなよ。
 おためごかし
 要する、「ドケドケッ」って言うのでしょ、思いあがっちゃいけないよ、自動車業界さんよ。

 自動車の及ぼす公害は数々あるが、その中で大気汚染問題が電気自動車で解決するってのは嘘っぱちだが、騒音が解決するのは本当だから喜んでいたが、なんとまあ、こういうことでやっぱりわざわざ騒音を出すのか。
 騒音公害は続くのか~、ガッカリ。

 やるべき義務付けは、こうでしょ。
①電気自動車に限らず自動車の走行は、歩行者から2m以上離れなければならない。
②歩行者から2m以下の範囲で走行するときの速度は、当該歩行者の速度を超えてはならない。

 それを警告音でドケドケッなんて言わせるって、どこまでバカで威張ってるんだ、自動車屋は、。
 警告音を出していたのに轢いてしまったら免責されようなんて考えるんだろうけど、そりゃ穢いぞ。
 あのなあ、障害者が近づきすぎて危ないと思ったら、運転してるひとが窓を開けて、「恐縮ですが、通して下さい」って、口でお願いするもんでしょ。

 近ごろ、乗用車のデザインが日に日に悪相になって、「オラオラぼやぼや歩くんじゃねえぞ、ドケドケ~ッ」って顔になっていると思ったら、自動車屋の本性もそうであったか、この威張り様は日本帝国軍なみで、困ったもんだ。

 思い出せば、この警告音義務化という歩行者への責任転嫁は、かつての横断歩道橋による交通対策と同じだなあ。昔、「横断歩道橋は素晴らしい」、なんてエッセイを書いたことがある。
https://sites.google.com/site/machimorig0/hodokyo

参照:http://datey.blogspot.jp/2009/08/161.html

2016/10/04

1218【法然院方丈襖絵事件】おや法然院の重文襖絵作者が狩野光信から孝信に変ったらしいがそれでもおかしいなあ

 春と秋の京都では、いつもは非公開の文化財を短期間だけ一斉に公開する行事がある。
 わたしには、観に行きたい懐かしい文化財がある。法然院の重要文化財の襖絵である。
 大学時代の卒業研究材料の一部であり、現地でしっかりと若いこの目で、建築を測り襖絵を鑑賞したのであった。

御西院御所八百姫御殿を法然院方丈へ移築したときに
柱位置を変更して襖絵を一部書き替えているので画像復元してみた

●襖絵の画家の名前が違ってるぞ

  今日の新聞にこの秋の特別公開の広告が載っている。法然院もあるかと見れば、あるにはあったが、気になる記述があるのだ。
 法然院の公開文化財を、「狩野孝信襖絵 重」と書いてあるのだ。「重」とは重要文化財のことであろうが、「狩野孝信」とあるのが引っ掛かる。
 たしかに法然院には重要文化財の襖絵があるが、それは「狩野光信」作として指定されているのだ。それがどうして孝信なのだろうか

 法然院公式サイトに、襖絵のある方丈の解説にこう書いている。
1687年(貞亨4)に、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿[1595年(文禄4)建築]を移建したものである。狩野信筆の襖絵(重文・桃山時代)と堂本印象筆の襖絵(1971年作)が納められている[夏期は収蔵庫に保管]。」http://www.honen-in.jp/HONEN-IN-001.html#B

 法然院には重文襖絵はこれしかないから、新聞広告の「狩野孝信襖絵」とは、誤記だろうか。
 さっそくネット検索をして、今年の公開に関する新聞社の記事を見つけたら、ここには狩野孝信と書いてある。
http://www.asahi.com/and_travel/articles/SDI2016090262661.html
法然院 11/1(火)~11/7(月)の公開
 金地著色「桐に竹図」・「若松図」・「槙に海棠図」、狩野信筆襖絵
 後西天皇の皇女誠子内親王の御座所を下賜され移築した方丈の上之間、次之間に広がって描かれ、この桃山時代の絵があることから「桃山の間」とも呼ばれる。
 
 昨年秋の公開に行った人が書いたブログページがあった。なかなか興味あることが書いてあるので引用する。
http://blog.livedoor.jp/enjoy_kyotokentei/tag/%E6%B3%95%E7%84%B6%E9%99%A2
2015年11月12日00:16【オフ会報告】京都検定で非公開文化財を楽しむ会(法然院編)
 この作者は狩野光信とパンフレットには記載されていましたが、説明員の方の話では狩野信の作と説明されていました。狩野光信は狩野永徳の長男。 狩野孝信は狩野永徳の次男で、狩野探幽の父に当たります。 
 なんでも、一度光信作とされていた法然院の別絵画を国立美術館に貸し出したところ、これは孝信の作品である、と鑑定されたそうで、それであれば同じ作調のこの襖絵も狩野孝信の作であろう、という認識に変わってきた、とのことでした。 そうでしたか~。

●狩野光信も孝信もどっちも怪しいぞ
 
 さて、狩野孝信とは、いつの人だろうかとWIKIをみれば、1571年生れ、1618年没だそうである。ふむ、法然院サイトが書くように、桃山時代に活躍したのであるな。狩野永徳の次男で、光信の弟、探幽の父である。
 ところが、せっかく狩野光信に替わって登場したこの孝信も、わたしの建築歴史考証によると、かなり怪しいのである。

 ここでは要点だけを記すが、わたしの建築史調査研究からの考証では、法然院サイトの(襖絵のある方丈は)「もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿[1595年(文禄4)建築]を移建したものである」の記述は、かなり髙い確率で間違いであり、実は江戸時代の1675年の建築である。
 御西院上皇の御所として1675年に新築した中の皇女八百姫の御殿であったものを、後に法然院に移築して方丈に造り直したのであるから、1595年の建築ではないのである。

 「もと伏見にあった」とは秀吉が築城した伏見城のことだが、そこは地震で倒れて別のところに城を建て直し、江戸時代に入って廃城になり建物をあちこちに移転したうちのひとつがこの方丈という意味らしい。
 とすれば方丈になる建物は、震災、建て直し、廃城、移転の4度の大波を潜り抜けて、京都の上皇御所の姫御殿に移築されて生き残ったことになる。
 しかも、その上皇の御所は一度は火災で丸焼けになり、1675年に新たに建てたのである。とすれば、この火災も潜り抜けて後に法然院に移築して今に至るという、まことにもって何回もの災難を潜り抜けた稀有な奇跡の生き残り建築になるのである。ありうるだろうか。
 法然院の言う1595年建築説には、なんともはや無理がある。

 したがって、この襖絵ができたのも1675年だから、1618年に没した孝信はもうこの世にいないのである。そして狩野光信も1608年に没しているから、光信も孝信もこの襖絵を描くことは不可能だ。
 絵の考証をわたしにはできないが、建築考証からすると襖絵を光信作とするのも孝信作とするのも、なんとも無理過ぎるのである。
 まさか1675年の上皇御所の造営に、法然院のサイトがいうように80年も前の古建物と古襖絵(1595年に秀吉がつくった伏見城の遺構)をもってくるなんて、造営スポンサーの江戸幕府が常識はずれなことをしたはずもない。

 というわけで、法然院の襖絵の謎は、いまだに明快に解けないのである。だからといって、公開日に合わせて現物を観に行っても、わたしの絵を見る眼力では見破れないしなあ。
 まあ、素人の楽しみとしては、謎がず~っとと謎のまま続くといいなあ。
 詳しい考証をお読みになりたいなら、こちらをどうぞ。
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hounen-in

◆続報を参照 1220【秋の京都文化財特別公開:続報】

◆まちもり通信の参照ページ
遺構による近世公家住宅の研究(大学卒業研究論文1960)
   東京工業大学理工学部卒業研究の生まれて初めての論文
   上記研究の一部を日本建築学会に論文発表(1961)
京の名刹 法然院の謎ー建築と襖絵の出自を探る2015)
   上記論文の一部のドキュメンタリー風エッセイ



2016/10/03

1217【豊洲新市場騒ぎ】できあがるまで当事者たちの誰もが建築現場を見なかったらしいお粗末などの疑問と不思議

 東京都の住民ではないからどうでもいいのだけど、ヒマだし面白いから勝手に口を出す。
 そういえば、新国立競技場も関係ないけど(納税者として少しは関係あるが)、勝手に口を出したなあ。

●不思議その1:関係者の誰もが現場を見なかったとは

  例の東京都豊洲新市場で、建築に地下空間があったことを知り、そこには盛土がないと新発見した新知事が騒ぎ、尻馬マスコミの尻馬に乗って、当事者たちも知らなかったと言う「だれも現場を見ていなかった新市場事件」である。
 わたしには、どうしても不思議なのである。今になって建物の地下に盛土がなかったって、だれもかれもが騒いでいるけど、これまで誰ひとり新市場の現場を誰も見てなかったのかしら。
 敷地に盛土したって、それを掘って地下室をつくれば盛土はなくなるって、小学生でもわかる常識である。だから地下空間つくるところは盛土しなかったろうね、盛り土してまた掘りだすなんて、超ばかばかしいから。

 こんなでかい地下空間(配管ピットらしいが)があることを誰も知らなかったということは、建設中にだれも現場を見に行かなかったんですな。
 昨日今日できた地下空間じゃなくて、1年以上も前から土を掘って建設作業してたんでしょ、現場を見りゃ盛土がないって小学生でもわかるでしょ。 
 新市場用地に盛土するって決めたナントカ委員会の先生たちも、そうせよと言っただけで、現場を見て盛土したことを確認してないという、無責任な人たちなんですね。

 都議会議員たちも、この東京都が行うビッグプロジェクトの視察を、一度もしなかったんですね。
 もちろん都知事も見てないだろうし、それどころか市場長さえも現場を見ていないという、摩訶不思議なことなのである。
 そしてまた、新市場に入って仕事する市場の業者たちも、自分たちの移転先の建物を一度も見なかったんでしょうね、見てれば今になって騒ぐのじゃなくてもっと前に騒いだはずだもんねえ。
 まあ、マスコミ連中が現場を見て、こんどのようなことに事前に気が付くほど利口じゃないから、そっちはどうでもよろしい。

●不思議その2:最も事情通のはずの建築家が沈黙とは

 この騒ぎでいろいろ言っている人たちがたくさんいるらしいが、こういう場合にいちばん事情を知っているのは、その計画と設計に関わった人たちである。
 このような公共ビッグプロジェクトの場合は、基本構想、基本計画、実施計画、基本設計、実施設計と、順番を追って詳しい設計内容をつくって行き、どの段階にも各種の専門家が関わる。その専門家たちは、ほとんどが行政の外部にいて、業務として彼らに委託する。

 最後は建築物になるのだから、多くの専門家のなかでも建築設計に関わる技術者、つまり建築家がもっともよく事情を理解しているはずである。
 なかには最初から最後まで関わっていて、ヌシのような専門家がいることもある。このことはわたしは体験的に知っている。
 もちろん行政側の技術者もいるが、それらは2年ほどで定期異動するから、いちばんよく事情が分るものは、担当する民間の専門家である。

 さて、ここでは誰が計画設計をしたのか。新聞によれば設計は日建設計だそうである。日建設計と言えば、例の白紙撤回される直前まで新国立競技場の設計に携わっていた、日本では規模がトップの都市計画や建築設計の組織(住友系)だ。
 計画段階がだれであるかの報道は無いが、ネットを探したら、みずほ総研がソフト的な部門、ハードの土木は日本工営、建築は佐藤総合計画とするページがあった。他にもいるかもしれない。
 
 だからここで問題になっている事情を、日建設計がもっともよく知っているはずである。でも、日建設計に関する報道はないし、日建設計からの説明もわたしは知らない。
 そこで思い出すのは、新国立競技場問題であり、あのときも設計がほぼできたところで、首相から白紙撤回されるなんて、建築家としては超屈辱的なことをされても、日建設計は黙りこくったままであった。

何も悪いことをしているのではあるまいに、黙りこくったままとは、マスコミが取材に行かないのか、取材完全拒否か、それとも発注者との契約に問題には沈黙せよと記されているのだろうか。
 建築家とは、そんな程度の社会的な位置づけにある職能なのだろうか。ここのところが、新国立競技場でもそうだったが、なんとも不思議なのである。

 それにつけても、新国立競技場で日建設計と共に屈辱を味わった梓設計が、やり直しコンペにゼネコンと組んで参加して、平然とまた違う設計で復帰していると言う、はたから見るとなんとも節操のない様子だから、まあ、建築家ってそんなもんだろう。


2016/10/02

1216【平塚初訪問:半端な歴史文化景観軸】八幡宮表参道が鳥居前で突然ブチ切れて門前払いを食らってビックリ


2016年の平塚八幡宮

 あれっ、神社直前で参道が突然に途切れた、こんなことっていいのかい?
 平塚市美術館で旧友が絵画展に出品するとて、鑑賞にでかけた。行ったことのない都市だから、事前にネットでその場所を調べたら、平塚駅から北にまっすぐに平塚八幡宮への参道を登っていくと、八幡宮の裏あたりにあるらしいと分かった。

 ふむ、なかなか歴史的な街の構造を維持しているんだな、駅から神社までの長い参道は、歴史的な門前町の賑やかな商店街なんだろうなあ、大昔は海まで参道がつづいていて神輿が海に入るなんてあったかもなあ、なんて想像しながら出かけた。
 見事に外れた。駅からわずかな区間が商店街だったが、あとは芸もないただの街だった。
突き当りに平塚八幡宮の鳥居と森が見える大門通り(表参道)
それでも昔は賑やかだったのだろうなあと、想像を逞しくしながら歩く。
 参道の突き当りには、朱塗りの鳥居とその背後に緑濃い社叢林が待ち構えていて、見事に街のランドマークを形成している。
 初めて訪ねる美術館は、あの裏あたりだなと、迷わずに進むことができる。街並み景観はともかくとしても、景観構造としてはなかなかよろしい。

 やがて鳥居が近づいてきたが、その手前の道の真ん中に、何やら黄色い看板が立っている。
 「横断 禁止」、エ~ッ、ここまで参道を真直ぐにやってきたのに、鳥居の直前で参道がブチ切れなのかい、そりゃないでしょ、右に50mほど迂回して交差点からまわれというのかい、しかもそこは横断歩道橋しかないのだから、こりゃひどいよ。
ウワッ、横断禁止とは、、、参道が途切れて門前払い
この酷い道は、国道(酷道か)1号である。できたのは戦後だけど、平塚八幡宮よりも偉いらしい。
 わたしは宗教にまったく関心がないが、ここは歴史的に先に存在していた平塚八幡宮に礼を尽くして、参道を優先してせめて横断歩道を設けるべきでしょ。
 歴史的景観とは、みた目だけじゃなくて、その景観構造の中での人間の歴史的行動の継承にもあるのだと気が付いたのであった。
 神社参拝する気はないが、ここまで平塚のランドマークを目指して歩いてきたのに、とつぜん文字通りの門前払いとはねえ。
国道を横断して境内に入り振り返って参道を見る
今、ネット検索していたら、こんなことが書いてある。どうやら元旦の初詣の時は、特別にここに警官が立って手信号で横断できるらしい。http://www.hiratsuka-daimon.net/
×のところで参道ブチ切れ

「表参道が復活します」平成28年元日も平塚警察署からご協力(警察官の手信号)頂き、国道1号線を横断できることとなり平塚八幡宮と大門通りが昔の姿を取り戻します。
 1300有余年の歴史を誇る平塚八幡宮、初詣には毎年およそ2万5000人の参拝者が訪れます。しかし国道1号線の整備により八幡宮と表参道である大門通りを分断されてから、鳥居を仰ぎながらの参拝ができませんでした。
 8年程前から、大門通りの商店会である大門会では参道型商店街としての賑わいを復活させる為に様々なイベント活動などを行っています。また大門会は活動の目的の一つである「八幡宮と参道を繋ぐ横断歩道設置」の要望活動を平塚八幡宮、自治会と協力して行っています。」(12月 23rd, 2015 by hiratsukadaimon) 

 八幡宮の社叢林を抜けて、美術館を目指す道にでた。この道は八幡宮の裏参道にあたる位置にある。平塚美術館は立派な施設だった。その手前には平塚博物館もある。
 だが、それらを結ぶ裏参道は、博物館の裏と工場の脇を抜けるなんだか裏さびれた路地の様子であった。
 駅から八幡宮をへて美術館までは、八幡宮の表と裏の参道上に位置しているので、都市軸としてそれなりの景観形成がされているのかと思ったが、これも期待が外れた。
 これだけの文化資産がありながら、もったいないまちづくりである。
裏参道から美術館への道
八幡宮の隣りにある横浜ゴム記念館の洋風建築を見てきた。20世紀初めの、イギリス人の設計で海軍火薬廠にあったものを、戦後に火薬廠が横浜ゴムの工場となり、2004年に市の施設としてここに移築したのだそうだ。
 風通しの良い日陰を作るベランダコロニアル建築は、ヨーロッパ人が日本を熱帯風土と誤解して設計したのであった。北海道でさえもベランダをつくるありさまだった。それをまねした日本の大工たちが、あちこちでベランダと塔のある擬洋風建築を作った。
横浜ゴム記念館(1912年前後) 設計:カリー及びウィルソン
最初は日本化薬(㈱)の外国人宿舎として建設、後に海軍火薬廠の将校クラブ
1952年の平塚市街

2016/09/27

1215【首相所信表明演説】国会が警察力や軍事力に頼る危ないスタンディングオベイションのなかで「カニボコ」宣伝演説かよ

 昨日(2016年9月26日)、国会で総理大臣所信表明演説があり、中途で議員たちによるスタンディングオベイションがあったそうだ。
 演説の中で首相は、海上保安庁、警察、自衛隊の働きぶりに触れた後に、こういったらしい。「今この場から、心からの敬意を表そうではありませんか」
 こう呼びかけて自分で拍手を始めたので、これを受けた自民党議員らが起立して拍手を約20秒間続けたそうだ。

 ネットではいろいろとスズメが騒いでいて、アベサンへの賛辞ならば、こりゃすごい時代が来たなとかってあるが、それもあったのだろうとも思う。
 でも私が思うには、今、このように国会が警察力や軍事力に頼ることを、議場で称賛して表現しなければならないほどに、政治家たちの「政」を「治」める能力が劣化状況の時代なんだなあと、これはまことに空恐ろしい時勢であることを物語っているのだ。
 
 もうひとつ、所信表明演説に、面白いことがあった。カニボコ宣伝演説である。
 カニボコって、昔は軽蔑と感嘆の対象だったよなあ。これが出始めた40年ほど前の頃は、料理や弁当についてくると、みんな箸でつまみあげて、これって本物の蟹を食えない貧乏人のためのニセモノなんだな、それにしてもうまく作ったなあ、日本人はコピー芸術職人だよなあ、なんて話し合っていたものだ。

 カニカマともいう。蒲鉾の製法で、蟹の身とそっくりに作るのだ。原料は蟹じゃなくてタラらしい。蟹の身の形だから、本物の蒲鉾と違って、板についていない。
 偽物と軽蔑されていても、マーガリンや人造キャビアのように、時間が経つと本物と肩を並べるものがある。このカニボコが典型だろう。

 なにしろこの度の総理大臣所信表明演説で称賛されたのだから、これはもう、れっきとした政府お墨付きのニセモノ、いや、コピー食品となった。
 それにしても、コピー食品を国会で宣伝するとはねえ、どんな基準で首相はこれをとりあげたのだろうか、「100年前に誕生した1軒の蒲鉾店」とは、七尾のスギヨのことだろうか。

 今やコピー食品は、ニセモノじゃなくて堂々たる食材らしい。人造イクラもあるらしいし、お世話になっている発泡酒もそうかな。
 安い肉を薄く切って何枚か貼り付けてビフテキにもする整形肉ってのもあるらしい。まるでべニア板である。
 あ、そうだ、べニア板も昔は本物の板の代用品だったのが、いまやこちらが主流派になってしまった。

 まあ、将棋打ちがAIなんてニセモノにとってかわられる時代だから、なにが本物で、なにがニセモノかわからないよなあ、今じゃあ。
 人間もボケちまっても生きていられる世の中だから、ボケたわたしと今のわたしのどっちが本物かわからない。どっちも本物だというのは、明らかに欺瞞だ、ボケた俺は俺のニセモノだぞ。