世の中でいま評判の生成AIなるもののカシコさに驚いている。ときどき暇つぶしの遊びに、どうでもよいことを聞いてみると、それなりの答えを真面目な文章で返してくるのが、奇妙におかしい。文章が一応はそれらしい言葉なので、つい信用したくなる。
これに関連して以前にこんなブログ記事を書いたことがある。
ある時、わたしの専門的なこと(都市計画関係)を聞いたことがあるのだが、その答えが明らかに間違いであることに気が付いて、それを指摘しつつ何度か追加質問をしても、いつも同じ間違いをするのだった。もっとも、可笑しくも奇妙なことに、”不正確な答えをすることもある”というような言いわけが付いてくるのだった。。
そうか、既存ネット情報の中を検索して質問に対応する答えを出しているのだから、検索先が同じなら同じ間違いを繰り返すだろうと気がついた。この場合はわたしの専門分野だったから、その間違いを指摘できるのであるが、あまりに普通に読める文章なので、専門外の人が読めば信用するに違いないと思ったことだった。
これはどうも、まだまだあまり近づくものでもないなと思って、しばらく敬遠していたが先日ふと思いついて、面白半分にわたし自身の名前を書いて経歴を教えてほしいと、グーグルの生成AIに訊いてみた。
どんな答えが出てもその正誤については、当然のことにわたしが最もよく分かるので、生成AIの信用度合いを測ることができると考えたのだ。
その回答が出てきた。いかにもちゃんとしたお答えの文章形式は整っている。
簡単な年代形式の履歴の記述は正しい。その出典はわたしのブログの中の経歴ページから抜き取っていると分る。
ところがわたしの著書の一覧は、どれも書いた覚えのない書名である。それが、いかにもわたしが書きそうなタイトルであるが、その一方では書名としては当たり前すぎるネーミングでもある。これはどなたのネット情報が元だろうか。それにしても私の本当の著書名が、ひとつもないのが不思議だ。
さらに驚いてニヤニヤ笑えて来たのは、受賞歴である。自慢ではないがわたしは無冠である。いや小学校で皆勤賞があったな。いかにもそれらしい賞の名が並んでいるのだが、これはどなたの経歴を持ってきたのだろうか。
さらに数行の人物紹介の文章があるのだが、これはまあ、なんというか、いかにも有能で素晴らしい働きをしてきたと、要領よく簡潔な文章になっている。ほほう、こう言われたいものだと思わせるが、内容は全然が違うのである。一体どなただろうか、いくぶんわたしも覚えのある記述もあるが、これではいかにも提灯持ち文章である。
というわけで、はじめニヤニヤして読んでいたが、もしかして同姓同名のお方がいるのかと不審な気分が湧いてきた。
どうやら、生成AIは質問者に取り入る技術を持っているらしい、とも思えてきた。利用者に嫌われることを避けて、へつらうようにプログラムされているのだろうか。なんだか生成AIって、ある意味ではもの凄く賢いのかもしれない。バカにされているのかもしれない。
これをお読みのお方も、お試しあれ、自分が何だか偉くなったような、いや、生成AIにからかわれているような気分になる。
これを書くためにグーグル検索で生成AI作の画像を検索してみたら、若い女性の顔ばかり登場するのだ。え?、生成AIは女であるのかとしげしげ見れば、これらの顔は生成AIが制作したものらしい。そうか、商業広告に実在の有名女性を使うよりは、生成AIに作らせるとタダで済むってことなのだろうか。それにしても不思議なのは、どの画像も女性の顔ばかりであることだ。どうしてだろうか。
(20231022記)
0 件のコメント:
コメントを投稿