2008/12/14

073【怪しいハイテク】カメラの液晶表示がダウン

 デジタルカメラ(キャノンixy900is)の液晶画面が壊れた。
 それでも光学ファインダーがあるので、そこから見定めて撮影すると、画像は写っているので、カメラの機能は死んではいない。

 それでも一応、修理に近くのキャノンの店に行って聞くと、液晶画面だけ取替えは約1万円だと言う。ちょっと悩んだが、頼んだ。
 その日の夕方電話がかかってきて、カメラを開けてみたら、水に浸かったらしくてあれこれおかしいので、直すとなると新しく買うほうが安い、と言われた。

 う~む、以前に便所にボチャンしてから生き返ったのだが、やっぱりプロから見るとダメらしい。
 しょうがないので、そのまま返してもらった。ファインダーから覗けば撮影はできるのだが、問題は設定を変えることができないのである。でもまあいいや、と使うことにした。

 しかし、このままでも困るので、同じ型のカメラの中古品をインターネットで調べると、15000円前後で売っている。
 近くのソフマップに言ってみたら、10000円ほどで、ちょっと液晶に黒点があり、画像にも影響が出ると書いてあるixy900isがおいてある。う~む、どうしようかなあ、、考えているけど、、、。

 それにしても、液晶画面が見にくい明るい屋外の風景撮影がほとんどなので、光学ファインダーがあるこのカメラを買っただが、まさか液晶が壊れるとそれが役に立つとは思わなかった。
 まあ、昔のカメラはみな光学ファインダーだったし、設定を微妙に変えることもないし、しばらくこれで行こう。

 ところで、この型から後の新製品で28ミリのデジタルコンパクトカメラのどれにも、光学ファインダーがついていないのである。どうしてなのか、明るい山や海などで移すと困るのだ、なんとかせい、。

2008/12/09

072【建築家・山口文象】山形梅月堂シンポジウム 

 山形モダン建築の再発見
 建築家・山口文象が1936年に設計した山形市七日町にある梅月堂、いまや彼のモダニズムデザインはこの梅月堂と黒部第2発電所だけが現存。
 地方都市の中で生き続けるモダンデザイン,いわば「マレビト」としての建築の魅力を,山口作品を通して体験する展覧会,シンポジウムを,現地の梅月堂の建物内で開催。
 梅月堂のできたころの山形、梅月堂がその後に山形で果たした役割、梅月堂と神楽坂との思いがけない縁、梅月堂を設計した頃の日本の建築界と山口文象などの話題を提供、当時の建築設計図や写真も公開展示。
(日本建築学会東北支部山形支所事業2008)

●旧梅月堂展覧会・オープンハウス
・日時 2009年1月12日(月・祝)~17日(日)11:00~17:00

●旧梅月堂シンポジウム
・日時 2009年1月11日(日)14:00~16:00
・講演:伊達美徳
・座談会:伊達美徳,相羽康郎 他
・進行:香川浩 
・会場:YT梅月館(山形市七日町1-4-26)
・定員:30名(申込先着順)
・問い合わせ:東北芸術工科大学建築・環境デザイン学科相羽研究室
tel. 023-627-2057e-mail yaaiba@env.tuad.ac.jp

●関連→山口文象サイト

2008/12/05

071【世相戯評】年収100円の社長さんへ

 アメリカの自動車会社の社長さんが、自動車が売れなくて会社がつぶれそうなので、去年までの年間のお給料が10億円以上だったのを、これからは年に100円にすると決めたそうです。
 どうしてそれで生きていくのでしょうか、だってアンパン1個で100円ですから、腹が減ってしまうと思うのです。
 去年までの毎年10億円以上のお給料は、世界一の自動車会社の社長さんが大会社を維持するためには、いろいろとそれだけのお金が必要だから、会社は払ったのだとぼくは思います。
 アメリカはイラクやアフガンで戦争したりしてお金がたくさんいる時代に、まさか自動車屋さんは戦争に乗じて大もうけして、貯金をしているとは、ぼくは思いたくありません。もしもこれまで貯金できたのなら、副社長さんや専務さんたちも、みんなでその貯金を出せるはすです。政府に助けを求める必要はないでしょう。
 だからこそ社長さんは、アメリカ政府にお金を貸してください、税金で助けてくださいと、言っているのだと思います。

 でも、これはこれからの地球を救う大きなチャンスだと、ぼくは思います。
 自動車が多すぎる世の中になって、事故で死んだり怪我する人が多いし、排気ガスで臭いし、騒音でやかましいし、暴走族が怖いし、困っています。
 一家に2台も3台も持っていて電車で行けるのに自家用車で行くし、自動車専用のがらがらの高速道路をつくったり、それだけ余計に石油を使って、エネルギーの無駄つかいだと思います。
 郊外に自動車で行くショッピングや住宅や学校や図書館を作るので、自動車を運転できない子どもや年よりは困るばかりです。
 街の中はだんだんと店や建物がなくなってさびしくなり、たくさんの空き地は駐車場になり、それがみんな木を植えない上に汚い派手な看板を大きく出すので、街は殺風景になるばかりです。
 ですから、自動車が売れなくなって、乗らなくてもよい自動車が世の中から減ってくると、世の中はこれまでとは逆の動きになって、空気もよくなり、静かになり、鉄道やバスの経営もよくなり、今よりも暮らしよくなり、街もにぎやかになると思うのです。
 アメリカの社長さんは、つらいでしょうがしばらくはアンパン1個で1年を暮らして、自動車のために変になってしまった世の中を元に戻して、要りもしない自動車を作らなくてもよい、買わなくてもよい世の中になるように、がんばってください。
 参考→自動車社会を衝く

2008/12/02

070【能楽鑑賞】宮崎県の高千穂夜神楽を観に行ってきた

 宮崎県北の高千穂に、夜神楽見物にはじめていってきた。
 高千穂は天孫降臨神話に出てくる地名であり、昔むかし、だれか地域振興を考えた人が探しだしたのだろうが、高天原、天岩戸、天真名井など、それらしい地形地物にあわせて名づけた名所がある。
 戦中にはそれを教科書に載せて、皇民教育の材料につかわれた。
 天岩戸の場所に同名の神社を建てていて、神社の人が戦中の物語のままに解説してくれるアナクロさが面白かった。
    
 神話を基にした神楽が、町内の各集落ごとに伝わっていて、それらを総称して高千穂夜神楽というようだ。
 集落ごとにその内容に違いがあると聞いたが、標準33番の演目があり、18時間ぐらいぶっ続けに舞う。
 夕方から始めるのだから、当然に徹夜で次の日の昼ごろまでかかる。
 舞う場所は、各集落の中で毎年持ちまわって神楽宿を担当する仕組みである。これは山形県の黒川能で、当屋と言われるもちまわり当番の演能の家の制度と、ほぼ同じであろう。
 住家の中心に神楽の舞台となる2間四角の天井の高い部屋があり、一方は神棚があり、一方は楽屋となる座敷、残り2方は観客席となる座敷が取り囲むプランである。
 それにしても、相当に奥深い山村で、このような伝統芸能が伝えられているのは、驚くばかりである。
    
 秋元という集落の神楽宿を訪れた。
 高千穂の街からして奥深いが、秋元集落はそこからさらに14キロも山奥に谷を分けて入る。
 四国の祖谷も、ものすごく山谷越えて奥深かったが、あちらは妙な観光化していて偽物くさい山村、こちらは本物純粋の山村だった。
 この集落の世帯数は41、住人は約120人と地元の人から聞いた。
 集落の人たちほとんどみんなが神楽舞を習って舞うのである。だから演者は高齢者から中年がいて、一番の若者は中学生であった。
 岡山県に伝わる伝統芸能の備中神楽が、神話をもとにストーリーを持って演劇的かつ見世物的であるのに対して、高千穂神楽は神話に基づくストーリー性はあるが、むしろ舞踊性、音楽性、様式性を重んじ、演者たちが楽しむのであった。
 前者が半プロの社中制度であるのに対して、後者は集落ごとの伝統行事である違いが明確に出ている。
 山形県に伝わる伝統芸能の黒川能は、これら両方の特質をうまく組み合わせた感じである。 
 もうひとつの特徴は、地理的な関係もあるのか、備中神楽では出雲神話が重要な位置を占めるが、高千穂では全くそれがなくて主に岩戸神楽であることだ。
    
 とうとう徹夜で見てしまったのは、その笛と太鼓の単調なメロディーに覚醒作用があるのかもしれない。
 山深い里の 外に出て棚田の上から深い谷間と遠い山並みを見ていて、そこから湧いてくる楽の音を聴くと、それは神秘的でさえあった。
 その舞は、基本となるステップを、小道具や人数によるバリエーションで繰り返し繰り返し踏むのであった。踊りではなく舞の系統である。
 コミック性をもつ2番もあった。備中神楽が語りや演技でコミック性が高いのに、こちらは33番中のわずか2番であった。
 古拙な面が楽しい。能面ではなく狂言面に近く、男面も女面も顔にかぶさるほどに大きいのが特徴的である。
 集落住民たちが自分で楽しむ芸能だから、演技の途中でヒョイと停まって、次はこうしようかって相談しているらしい場面も時々ある。それがまた見ていて楽しい。
 黒川能、備中神楽、福井県の池田水海田楽舞(ミズミデンガクマイ)や若狭風祇能(カザイノウ)など、山村に伝わる芸能を見てきたので、その比較をいずれ書いてみたい。

参照 ◆自然と生活を二つの山村に見る-小国と祖谷
    ◆池田:能楽で地域興し(2001,03)
    ◆若狭:能舞台の宝庫(1997)

2008/11/28

069【世相戯評】蒙古襲来で敗退したモンゴルが雌伏720年余でついに日本征服成功の大相撲

 鎌倉時代のこと、1274年と1281年にモンゴル・高麗連合軍が日本に攻めてきて、2回とも日本軍に負けて逃げていった。
 ただし、戦争で負けたのではなく、たまたま来襲した台風によって軍船が徹底的に被災して負けたのだった。

 その戦いの様子は絵巻物などで有名だが、日本武士団は個人戦、つまり戦場で前にひとり進み出て、「やあやあ、われこそはナニノナニガシ、、」と名乗って、敵との一騎打ちから始まるとか、抜け駆けでひとりで敵に襲いかかるとか、集団戦術がないのであった。
 モンゴル軍は集団戦法でそんな作法にかまっちゃいない、どっとみんなで襲いかかって殺してしまうから、散々である。
 さすがに幕府軍もそのうちに集団戦術に変えたのだが、まあ、戦法と言い武器と言い、国際戦に長けたあちらと、国内戦ばかりのこちらでは、戦争文化?において大いに差があったらしい。

 わざわざ台風シーズンに来ることもあるまいにと、今だから思うのだが、問題は棚ボタ結果として勝った日本側が、あまり反省しなかったらしいところにある。
 神仏への祈りが効いて「神風」が吹いた、日本は神国だ、てなことになっちまって、それから660年後の太平洋戦争でもそれが通じて、連合軍はまたも負けるはずだった。

 さて、あれからモンゴルは雌伏720余年、21世紀となってついに日本軍に勝って見事に復讐を遂げたのである。
 国技大相撲である。少数精鋭を送り込み、あのときは負けた日本流の個人戦で、横綱、大関をはじめ主要な地位を奪取して大勝利をおさめたのである。
 3回目の襲来ともなると、戦術も台風も考えたうえでのことらしい。
 さすが大陸の人たちは、悠久に流れる時代を超えて物事を処理するものであるよなあ、。

 あ、そうだっ、だいぶ昔のこと、「神風」と言う名の力士がいた(引退後、相撲放送の名解説者)。日本人力士の誰か、この名に改名してはどうか、もしかして、2度あることは3度あるかもよ、。

2008/11/26

068【各地の風景】横須賀散歩1-竜本寺界隈

 横須賀に久しぶりに横須賀下町に散歩に行ってきた。GW(ゴールデンウィークじゃなくて原子力空母ジョージワシントン)で景気が良いというので見に行くのだ。
 京急横須賀駅を降りて、そうだ、すぐ坂上の竜本寺(日蓮ゆかりの名刹)に行ってみようと思いたち、ピンク飲食店街を抜けた裏参道に取り付く。
 この参道は濃い緑におおわれて、だらだらと登る気持ちのよい道である、、はずだったのが、えらく明るい。なんとまあ一本の木もない、すっぽんぽんになっている。
 登る参道から市街地が下に丸見え、上はブルドーザーがうなっている。
→写真1(竜本寺裏参道から)


写真2(写真1と反対側の岡田屋9階から)



→参照(クリック拡大):写真3(航空写真今昔比較)

 思い出したが、ここに超高層共同住宅(いわゆるマンション)が建つ計画があるのだった。
 それにしても、ものすごい急斜面地(竜本寺から街まで標高差約50m)であるし、その真下には京急電車のトンネルがあるから、えらく難しい工事だろう。
 それでも超高層建築とは、ほんとに近頃は建設技術が発達したものだ。
 そしてまた、それほど土地造成にお金をかけても回収できるほどに、高い価格で売れる時代なのであろう。驚くばかりである。
 あるいは今の工事は斜面地崩壊防災のための公共事業で、民間住宅開発の造成はこの後また別に行うのだろうか。よく分からない。
 ブルドーザーが怖いので引き返して参道を下り、別の斜面住宅地の中の小道を登って竜本寺の墓場に着く。見下ろすと、墓場の際まで土地造成が迫っていて、樹林地は丸禿げとなってしまって、市街地が海までよく見える。
 ここに超高層が建つと、どのような都市景観になるのだろうか。
 横須賀下町には、JR横須賀駅そばと京急汐入駅そばに、超高層建築がすでに1棟づつ建っているが、今度は京急横須賀駅そば(と言うより駅上空か)である。主要駅ごとにランドマークが建つことになる。
 今度は建つ地盤が平地から20~30mくらい高いから、実質高さ120m前後で一番高いものになる。緑の樹林の中に立つ姿を想像したいのだが、こんなに伐ってしまったらコンクリ擁壁の上に立つ超高層だろうか。

○参照
横須賀市中心市街地形成史ー成立と施策
◆横須賀散歩

2008/11/23

067【怪しいハイテク】鉄道カードを持たないし携帯電話器を持ってるけど電話だけ

 乗り物のナントカカードを持っていない。電車に乗るとき、必ず切符を買うことにしている。
 だって、事前に大金を取っておいて、金利を払わないなんて、悪徳高利貸よりももっと悪い。資本主義社会のテキである。よく皆さんはそんなことが平気なのですね。

 あれは鉄道屋さんの手数が省けるだけで、乗るほうは金利の損だけである。
 それに、大きな声ではいえないが、キセル乗車もできなくなったしなあ。鉄道屋さんは、それまでキセルで損してもやっていけていたのだから、いまやかなり儲かるようになったに違いない。
 金利をつけるようになったら、カントカカードを使うようにするつもりだ。その頃はカードシステムはなくなって、携帯電話に仕込まれるシステムになってしまっているかもなあ。

 ところがわたしの携帯電話機ではそれはできない。ネット接続機能をつけていないから、文字通り携帯電話機である。
 仕事していた頃はもちろんネット接続していたが、今は必要ないからやめた。
 携帯電話機そのものも必要ないかもしれない。母がもしものときのために必要だったが、それも終ったので、いまや、時計が一番の用途、次がカレンダー、3番目が電話、ほかはなんにも使っていない。やたらめったらある機能はみな枕を並べて死んでいる。
 たまに、つまらない会議中に、無音モードにしている携帯電話にかかってきたフリをして、外にしばらく抜け出すのに使っている。これは役に立つ機能である。

 ネット接続もテレビも家のPCで十分である。そもそもテレビをめったに見ないから、ワンセグ(これは珍妙な造語である、ワープロなみだな)なんて必要などころか、電車の中でまでテレビ見たいヤツの気が知れない。

 中越の山村・法末では携帯電話が通じない。仕事の電話から逃げる口実に使っている仲間もいる。それももうだめで、近いうちに集落ど真ん中にアンテナが建つらしい。 
 それにしても公衆電話が激減しましたな。どこにあるか、探す難しさが公衆便所なみである。 そのうちに公衆浴場なみになるだろうなあ。公衆電話保存運動の果てに、公衆電話遺跡指定なんてね、。

2008/11/21

066【老いゆく自分】身内に不幸があっても喪中ごあいさつなるものを出さないのだ 

 年の瀬が近づくと、「喪中につき年末年始のご挨拶をご遠慮申しあげます」と、グレーの葉書がたくさん来る。
 こちらが歳をとるにつれて、その数が毎年毎年増えていくような気がする。枚数が毎年末のわが老化度指数である。
 昔は差出人の祖父母が多かったのに、今頃は父母の死が多い。そのうちに差出人ご当人になる順序である。
 11月半ばというのにもう6通が来た。

 実は、わたしも母を送ったのが今年であるから、普通なら今頃は喪中葉書を出しているはずだが、出す気がない。父が95年に亡くなったときも出さなかった。
 それは、わたしには喪中の意味が分からないからだ。葉書に書いてあるなくなったお方をわたしが知っているならば、それなりに哀悼の気持ちも持つが、ほとんどの場合は差出人を知っていても亡くなったご当人は知らないお方である。なぜわたしにお知らせが来るのか理解できない。

 だからこちらもその必要はあるまいと、父の逝った年も普通に年賀葉書を出したし、今年もそうする。
 なにかで、どうして喪中にしないのだと聞かれたら、変に言い返すのもおかしいので、父は神主だったから、神道では喪はないのですと言っていた。
 母もそうするが、神道でどうなのか、実は知らない。宗教的なことに無関心だからだ。あ、いや、お祭りは大好きだけど、。

 死を穢れとするから喪に服するのだろうと思うが、父は85歳、母は98歳であったから、長寿を全うしたと言ってよい。まさに寿であるなら、祝いこそすれ、穢れではあるまい。
 ただ思うのだが、喪中葉書を出すことで、多くなりすぎた年賀状の送り先を整理する作戦には有効だろうと思う。やってみるなら今年が最後のチャンス(のはず)だが、それもめんどくさい。あ、いけね、ホンネが出てしまった。

2008/11/20

065【くたばれマンション、横浜都計審】ミニ開発の名ばかり邸宅地が農地をつぶして広がる横浜

 ちょっと必要があって、横浜市内の14箇所の「生産緑地地区」を回って見た。生産緑地地区とは、そこは農林業のほかに使ってはいけないと、都市計画で指定した地区のことである。

 行ってみて驚いた。
 ミニ開発住宅地の造成中、数棟の建物建設中、すでに建物が立ち並んで入居しているところなど、農業など影も形もなくなっているところが、ひとつやふたつではなくてたくさんあるのだ。
 え、生産緑地指定してあることは確実なのだから、これは違法建築かと見れば、開発許可済みとか建築確認済みとか看板が掲げてある。合法らしい。どういうことだ?

 実例をひとつ挙げると、港北区内のある住宅地の中、このあたりは田んぼを1枚づつ次々と住宅地に変えていって、次第に住宅地となったスプロール市街地である。
 その密集する狭い道路の住宅地の中に、生産緑地地区となっている畑が一枚ある。

 探し訪ねてみると住宅建設の真っ最中、既存の4mほどの道路からその生産緑地の土地の中央に新しい5m道路が突っ込んで行き止まり、その両側に7軒の住宅が建つ。
 ひとつの敷地は100㎡くらいか、もちろん庭はなくて、道路がオープンスペースであり、周りの住宅地と同じような密集状況である。
 「●●●○○○×××」と格好よい邸宅地名がつけてあり、●と×には庭園と大邸宅をイメージするカタカナ、○には隣の隣の町名で1キロ半ほど先の駅名がはいっている。

 さて、名ばかりマンションを非難しているわたしには、これのほうが良いというべきか。
 まあ、どちらかといえば、名ばかりマンションよりも、まだこちらのほうが安心度は高いと言える。震災で隣が倒れても、こちらが負担することはないから、。 火災はもらいそうだが、。

 それにしても、名前は立派だが、日照通風防災にどうかなあと思うような「名ばかり邸宅地」も、困ったものである。
 でも、住宅政策貧困日本では、庶民はこういうのでないと一戸建て住宅は手に入らない現実だから、しょうがないか、都市計画屋の端くれのわたしも含めて、。

 ところで、初めに書いた生産緑地地区指定のままなのに、現状は生産緑地でないのはどういうことかと調べたら、そこで農業をしていた人が死んで農業継続の後継者がいないと、生産緑地地区が指定してあっても自動的に農業をやらなくてもよくなり、家でもビルでも建ててよいのだそうだ。
 えっ、じゃあ、何のために生産緑地地区指定を都市計画で決めているんだよ~?、意味ないじゃん、都市計画ってのは土地が誰のものであろうが関係なく決まるものなんだぞ~、。

 参照→都計審初出演と生産緑地の不思議

2008/11/17

064【世相戯評】まったくもう、近頃の若いモンは、 

 横浜国大に週2回、各1時間半の講義を聴講に行っている
 この歳になって講義を聴くと、昔に学生だったときとはいろいろな意味で違って聞こえて面白い。
 最も面白いのは、現実に自分の仕事を学者の側から見るとそのようになるか、へえ~理論ってそういうものなのかと、現実と理論を照合して納得やら不思議やら、心の中が忙しいことである。

 嫌なことは、講義中に学生たちが平気で私語することである。そして周りの誰もが注意もしないことである。
 あれはどういうことなんだろうか。横浜国大特有なのだろうか。受講する学生が200人もいる多さだからだろうか。普通の礼儀がなっていない。
 とにかく女も男も同様にやかましいので、おい、そこ、黙れ、とわたしが注意する。一応は黙る。
 そろそろ講義が終る雰囲気となると、また私語が始まる。おい、もう少しだから、もうちょっと我慢しろよ、とまた言う。素直に、はいと言ってくれる。
 なんだか、どこかが抜けている感じがしないでもない。

 わたしが講義していたいくつかの大学では、受講する学生が少なかったからか、私語はなかった。講義中に何時でも質問なり意見を挟んでよし、としていた。
 最近の講義は、映像を使うので、教室を暗くする。そうなるともうそこら中がグッスリ学生である。
 まあ、私語よりはるかに良いけど、寝るならもっと寝やすいところがありそうなものだ。出席の実績だけ上げるために出席しても、意味あるまいになあ。

 さて、では昔のわたしはどうだったっけか?教室で私語や居眠りしたことはないような気がする。それは要するに、興味がない分からない講義には、ハナから出席しなかったのだ。
 そして興味ある講義は、単位は特に取得する必要がなくても出席したものである。
 ある学期、政治学の講義に興味あり受講したが、受講者が少なくてたびわたしひとりになった。
 単位が要らないので試験を受けなかったら、講師から自宅に電話がかかってきて、どうしてだと問われたので、その旨を言うと、せっかくだからレポート一枚でも良いから出しなさい、単位を上げるからと言ってくださった。
 ありがたく頂戴したが、これは衛藤瀋吉先生であった。まあ、そんなものであった。
 大学ってそういうもんだろうに、ほんとに、近頃の若いモンは、、。