2013/05/02

760【東北被災地徘徊譚5名取2】津波被災跡地はあまりにもきれいすぎて喪失感よりも空漠感がただよう

 仙台平野は見事といってよいほどに3.11津波に洗われた。
 特に名取市の北部の閖上地区の消失を、わたしはその当時にメディアでいろいろと見て、息をのんだ。閖上なる地名もユリアゲなる読み方も、初めて知った。
 今日やってきたこのあたりは、名取市の南端部の太平洋沿岸で、地名を下増田地区の北釜集落という。
  空港の東に海岸に並行して貞山堀という運河がある。伊達正宗が掘らせて17世紀初頭にできたという。背後に空港のエンジンが轟々となる音を聞きながら運河にかかる橋を渡れば、前にはただただ草が地面をおおう巨大な広場である。

名取市沿岸部の被災前と被災後(google erth) 

 
 仙台空港の東の名取市北釜地区、ここに2011年3月11日まで、古い農村集落があった。ずっと向こうに見えるまばらな林は、海岸砂丘にあった松林の名残だろう。
  集落は大津波で完全に破壊された。波は空港をも浸して機能を停止させた。

いまは集落跡地は瓦礫もゴミもきれいに片づけられている。見渡すかぎり空き地というよりも野原は、ここにちゃんとした集落があったとは、とても思えない。空港用地の一部かと思ってしまう。

  眼に見える人工物は、工事の仮設物や駐車場の車を別にすれば、橋を渡った運河脇にあるコンクリート3階建ての建物(後で調べたら東北大学ボート部の合宿所)、右向こうにポツンと一軒の木造家屋、左向こうに数本の松の間に祠のようなもの、これら3つだけである。
 それにしても、このあまりにきれい過ぎる片づけようはどうだろう。
 津波直後は壊れた家屋や塵埃でむちゃくちゃであったろうに、まるで掃除機をかけたようだ。被災直後の空中写真をみれば、何軒かの家は壊れながらも残っていたのだが、あまりにきれいだ。
 ここに来る前の2日間は、三陸海岸地域の津波被災地を視察して巡っていたのだが、そこでもそうだった。これって、外国でもそうなのだろうか。それとも日本人はきれい好きなのか。
 たいていの津波被災地は、もう住宅を再建することを放棄しているから(個人的にも法的にも)、片づけるのはずっと後回しでもよさそうなものだ。
 しかし行方不明者とか貴重品とかの捜索のために片づけたのだろう。あるいは公衆衛生上のためだろう。それはまるで大津波の破壊への怒りが、復讐戦のごとくその跡を消し去らせたようにも見える。被災当事者でないわたしには分りようがない何かがあるのだろう。
 


参照⇒758【東北被災地徘徊譚4名取1】あの大津波にこの平地でも社叢林の中にあった神社が耐えたとは! http://datey.blogspot.com/2013/04/758.html

●全文は「東北に大津波被災地を訪ねて【名取市北釜地区】」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/natori-kitakama

2013/05/01

759冨士鎌倉世界遺産登録騒動の三保の松原除外条件で高田の松原の消滅を連想した

 鎌倉落選、富士山条件付き当選だそうである。
 昨夜、日本の17番目と18番目の世界遺産登録にしたいと、ユネスコに申請していた鎌倉と富士山について、勧告団体のイコモスが出した内容である。
 これを受けてユネスコが6月に登録可否を決めるらしいが、大方の見方は富士合格、鎌倉落選のようだが、さて、どうなるだろうか。
 けっこう政治力が物いう世界らしいから、これから富士山は三保の松原を入れろ、鎌倉はそりゃないよって、ロビー活動で巻き返しするのかしら。
 それとも、まあ、しょうがないやって、どちらもあきらめるのか。もっとも、同じあきらめでも、冨士は登録、鎌倉不登録で全く逆の結果である。

 鎌倉についてイコモスの判定は、真正面から不合格だそうで、鎌倉にとっては暫定登録から20年も待ってたのに、泣き!!!
 暫定登録は20年も前の日本が条約批准して間もなくのことだから、登録条件などあまり深く考えずに、古都法に対応する奈良、京都、鎌倉をあげておかなくっちゃあ、なんてことだったのだろうが、その後に登録条件が厳しくなったのが今になって逆目にでたってことか。

 鎌倉のことは何度か書いているので、ここではこれ以上は書かない。
参照→◆裏長屋の世界遺産談義(2009)
http://homepage2.nifty.com/datey/kama-sekaiisan.htm
◆102世界遺産よりも宇宙遺産
http://datey.blogspot.com/2009/03/102.html
◆世界遺産とはなんだろうか(2008) 
http://homepage2.nifty.com/datey/sekaiisan0803.htm
◆山並み眺望をついに守りとおした鎌倉(2008)
https://sites.google.com/site/machimorig0/home/kamasyun0803.pdf?attredirects=0&d=1
 鎌倉について一つだけ書くとすれば、西欧文化帝国主義のイコモスの外国人どもにはわからなくても、日本人には十分に鎌倉の歴史文化の価値は分かりすぎるほどわかっている。
 鎌倉市民がこれにへこたれずに、これからもたゆまぬ登録運動を続けていくことが、まちづくりにおおきく役立つはずだ、ということである。

 富士山の世界遺産登録については、三保の松原を除外すれば合格というのがイコモスの条件だそうである。
 その除外する理由が、富士山から遠すぎることと、三保の松原から見る富士山の風景を防波堤が壊している、というのだ。
 これは文化論としても風景論としても、実に面白い。

 遠すぎるとは、いかにも外国人らしい判断である。日本人には冨士には三保の松原はつきもので、遠かろうが近かろうが切り離せないものである。
 それは冨士には月見草がよく似合う(これもガイジンに分るかな)というよりも、もう大昔から伝説的にも文化的にも民俗的にも、日本人には身にも心にも沁みこんでいるのだ。

 え、今の若いもんはどっちも知らないの?、え、そお~?
 あのね、では、教えましょうか、能「羽衣」ってのがあるんだけどね、それと太宰治って、、、、あ、また年寄りの教え癖が出るって嫌がられるよな、うん、やめておこう。

 では、防波堤風景論である。これはどうもしょうがないよなあ。
 安全と風景、あるいは経済と風景となると、風景が必ずと言ってよいほど負けるのが、日本である。ガイジンにそこをつかれてしまった。
 三保の松原から眺める富士山の風景を大切にするならば、たとえば、この防波堤をコンクリ剥き出しではなくて、新たに防波堤となる砂丘を築いて松原をつくっておけばよかったのだ。
 そこは風景のほうが譲ってしまう日本であったのだ。
 ところで、イコモスが言う防波堤って、このことかい。
http://kura2.photozou.jp/pub/23/147023/photo/170879535_624.jpg

 防波堤と言えば、津波である。津波と言えば、高田の松原である。
 三保の松原の5万本、こちらは7万本と妍を競っていたが、先般の大津波で一本もなくなった。
 もうすぐ東海大地震がくるかもしれない時代だそうである。それが来たら三保の松原も高田の二の舞であることは確実である。と、わたしでさえ断言できる。
 羽衣の天女は富士の高嶺に飛翔して「♪天つみ空の霞にまぎれて失せにけり」だったが、松原は「♪泡立つ白浪津波にまぎれて失せにけり」となるのか。
 グーグルアースで、二つの松原を同じ高度から見る。



 ここにネットに載っている二つの松原の写真を見る。
三保の松原
http://blog-imgs-53.fc2.com/n/a/n/nanapapamodelcars/20121208020945a95.jpg
高田の松原(津波で消滅する前)
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/ed/02c8886a3aac641ea1caf27aa11bd2c0.jpg 
 ご覧のように、どちらも同じように、松は上のほうで葉を茂らせているが、胸から下というか下半身は丸出しスッポンポンである。
 自然な植生であれば、松の下には多様な中木や低木が生えているのが日本の気候風土なのだが、それが全くないのは、人間が伐り取っているからだろう。日本人は白砂青松が好きなのである。
 これなら津波は通り抜けやすい。通り抜けついでに松林をどんどん倒して、持っていくのだ。時にはこの倒木群が凶器となって陸の家々を襲う。

 思い出せば、伊勢湾台風が名古屋を襲った時、海の貯木場に浮かべていた大量の丸太類が高潮とともに街に押し寄せてきて、あらゆるものを破壊して、浸水による被害を更に増大した事件があった。1959年のことである。
 2013年三陸津波の被災地でも、松倒木による被害も語られていることがネットで読むことがができる。
 神奈川県の湘南海岸にある防災林は、松とともに常緑広葉樹が繁って、非常に密な植生状況である。ここでは松の下に生えてくる常緑樹を伐らないのである。これなら津波も通り抜けにくいだろう。

三保の松原も、そう遠くないうちに大津波で消えることは、高田の松原の先例でよくわかったはずだ。さあ、どうする?
 幸か不幸かイコモスがNOと言ってくれたから、世界遺産なんてどうでもいいことにこだわらないで、人命保護優先にしてここに大津波防潮堤を築こう、てなことになるだろうか。

 それとも、それじゃああんまりだ、せめて湘南海岸のようにでもしよう、なんてことになるだろうか。
 さて、世の人々はどういうだろうか。どっちにしても日本文化を理解しない奴らだと、白砂青松信仰組が反対するだろうなあ。

追記20130623
 本日のニュースでは、三保の松原もあいれて富士山は世界文化遺産になったそうである。
 そこでこんなことを書いた。
 富士山が文化遺産とはどういうわけ?http://datey.blogspot.com/2013/06/799.html





2013/04/30

758東北被災地徘徊譚4【名取1】あの大津波にこの平地でも社叢林の中にあった神社が耐えたとは!

 
 仙台空港から東へ貞山堀の橋を渡って、津波被災で何もかもなくなった名取市北釜集落跡の野原に踏み出した。
 まずは神社らしい疎林に行ってみよう。
 むき出しの土の上にコンクリート舗装の長い参道があるから、鳥居や灯篭が立ち並んでいただろうが、消え去っている。

 参道の先のまばらな木立のなかに10段ほどの石段があり、両側に狛犬1対と灯篭2対(うち1対は新品)があり、ほんの少しだけ高いところに二つの社殿が並んで建っている。どちらも小さくて祠というほうがふさわしい。
 下増田神社と紙に書いてベニヤ板に張り付けた。急ごしらえの案内がある。

 あたりに建物らしいものが何も見えないのに、この祠二つは、まさか津波前のままであったわけではあるまい。しかし流されてしまったのでもなく、壊れた様子も見せずに建っているのは、修復したのであろう。
 あとで調べてみたら、WEBサイトに震災前の写真があり、ここに拝殿などもあったらしい。震災後の夏に撮った本殿と脇社の二つだけがある写真(2011.07.31下増田神社)もあったから、被災した住民たちがいち早く復旧したらしい。
 住宅は破壊されたらいち早く片付けてしまうが、寺社の社殿はいち早く復旧するところが、いかにも日本的というか、興味深い。

 それにしても下増田神社は、この真っ平らな野原のなかで、わずかに高くなったところに(それとて周りのとの差は2mもあるかどうか)、小さな社叢林に囲まれて建っていたのだ。
 その微高地は、神社をここに勘定したときに盛り上げたのだろうか。
 その故に本殿だけでもいち早く復旧できたのだとすれば、3.11津波から被災をのがれた神社が各地に多いという事象のひとつなのであろう。
 

 山裾ならわかるが、ここのような4mもの津波に襲われた平地の真っただ中というのは珍しいだろう。社叢林が効果があったのだろうか。神社の隣に観音寺という寺院があったが、こちらは破壊され流された。そこは周りを囲む森はなかった。新しい本堂らしい建物を建築中であった。

 寺の裏には墓地があったらしく、今は野の中に石塔が立ち並ぶので近づいてみる。新しい墓石も多いのだが、傷があちこちについてる墓石も立ち並ぶ。津波の傷跡だろう。
 津波は墓石群をも倒して、もしかしたら骨壺も流したのかもしれない。被災直後の墓地の空中写真では、墓石群は見えない。
 今この形になっているのはいち早く修復した結果だろう。墓碑銘に新しく刻んだ戒名に、あの惨事の日付をいくつか読んだ。


 神社本殿といい墓地といい、人間は肉体の棲む家はきれいさっぱり片づけてもも、心の世界の棲家は消えることを許さない。神社で生まれ育ちながら無神論者のわたしには、なかなかできないことだが、、。

●全文は「東北に大津波被災地を訪ねて【名取市北釜地区】」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/natori-kitakama

693【東北被災地徘徊譚3東松島野蒜】自然と人間はどう折り合うのか
691【東北被災地徘徊譚2仙台塩竈】森の長城で津波に備える市民プロジェクト
689【東北被災地徘徊譚1石巻】マンガッタンで映画「猿の惑星」の主人公の眩惑

2013/04/29

757東北に大津波被災地を訪ねて【名取市北釜地区】

復興で仙台・名取都市圏はどう変わるのだろうか

1.仙台空港に何もない風景を見に行く

 仙台空港に行ってきた。仙台と名付けながら仙台市内にはなくて、その南の名取市と岩沼市にまたがってある。
 ならば、なぜ宮城空港と言わないのか。たぶん、仙台平野にあるからだろう。千葉県浦安市にありながら東京ディズニーランドというがごとしで、あれは東京湾に面しているからだそうだ。
 さて、仙台空港駅についたが、べつに飛行機に乗る用事はないのだ。空港を背にしてすたすたと外に出て東に向かう。
 外に出てもなにもない、まったくと言ってよいほど、な~んにもないのである。
 今日はその何もない風景を見学にやってきたのだ。そう、津波被災地である。仙台平野は見事といってよいほどに3.11津波に洗われた。
 特に名取市の北部の閖上地区の消失を、わたしはその当時にメディアでいろいろと見て、息をのんだ。閖上なる地名もユリアゲなる読み方も、初めて知った。
 今日やってきたこのあたりは、名取市の南端部の太平洋沿岸で、地名を下増田地区の北釜集落という。
 空港の東に海岸に並行して貞山堀という運河がある。伊達正宗が掘らせて17世紀初頭にできたという。背後に空港のエンジンが轟々となる音を聞きながら運河にかかる橋を渡れば、前にはただただ草が地面をおおう巨大な広場である。



以下、続きの項目は

2.あまりにもきれいすぎる被災跡地
3.この平地でも社叢林のあった神社が津波に耐えた
4.もしかしたらこの大通りが津波の侵攻を招いたか
5.海岸砂丘の松林と屋敷林(いぐね)は津波を止めなかったのか
6.新たな海岸森林に津波減災機能を期待する
7.集団移転は名取市の都市構造をどう変えるか


全文は「東北に大津波被災地を訪ねて【名取市北釜地区】」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/natori-kitakama

関連ページ
・東北に大津波被災地を訪ねて【東松島・野蒜】
https://sites.google.com/site/dandysworldg/natori-kitakama
・地震津波原発コラム集
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#jisin

2013/04/24

756・半世紀の憧れ期間を超えて奥州の名建築にようやく出会ったが津波被災地との落差に泣いた

 ついにその姿にお目にかかった。半世紀余のあこがれた想いが叶った。
 あのはじめて写真で見た日の姿そのままに、いや、白い綿帽子をかぶって薄化粧までして、迎えてくれたのであった。

 今から半世紀余も前のこと、学生だったわたしは、発行されたばかりの写真集にある、その美しい姿に、一目ぼれしてしまった。
 それがたたずむのは東北の奥地、西から関東にやってきたわたしは、そこがどこかさえもわからぬままに美しさに惚れこみ、建築学生を卒業するディプロマ(卒業設計)に、その姿をデザインモチーフとして織り込んだほどであった。

 それから半世紀たっても、いまだに憧れのままに、その実物の姿に接しないままだったが、でも決して忘れていない。ときどき、もう古書となって表紙の糊が取れそうな、その写真集をとりだして眺める。
 かの奥州の奥地を訪ねていつかは会いに行かなければならぬと思いつつも、いや、あこがれのままに行かぬほうが良いかもしれない、などとも思う。
 だが、そろそろ行っておかないと、遂に行けぬままに人生を終わるかもしれぬ、そんな年齢となってしまった。

 そしてこの春ついに、その名も遠野という地に、はるばると訪ねたのである。
 4月も下旬となったというのに、その日は朝から雪であった。そう、白く化粧をして待ってくれているに違いない。
 タクシーで行くのはもったいない。いや、お金もそうだが、いきなり乗り付けては、半世紀の楽しみが瞬間に壊れるかもしれない。ここは歩いて行こう。


ローカル線の小さな無人駅で降りた客は、わたしひとりだけ。目的の地は、広い谷間の2キロほど上流の右向こうで、山際に隠れている。
 小降りになった氷雨交じりの春の雪のなかを、田んぼの中の道から山沿いへと、わずかな登りをゆるゆると歩く。森は半分霞みがかかり、木々は雪の帽子をかぶっている。
 緩やかな傾斜地に広がる田畑、そして点在する農家の墨絵の風景のなかに、自分もその点景となって歩く。

 さすがにいまでは、あたりに見える家に茅葺屋はない。
 道脇に大屋根の家を二つ見たが、ひとつは茅葺にトタンをかぶせており、もうひとつは放棄されたらしく、サスも垂木も小屋組みが露出して立ち腐れ進行中の茅葺の家であった。
 それでもこれから出会うはずの半世紀の憧れを、予知させるのに十分であった。

 
 やがて道の右に迫っていた山際が広くなったと思うと、それが姿を見せた。
 おお、これがあの千葉家住宅!、あの二川幸夫の写真の通り、美しい姿である。しかも、折からの時ならぬ春の雪で、綿帽子をかぶっているのであった。歓迎のお化粧か。

 このプロポーションの良さ、ダイナミックな石垣、バランス良い棟の並び方、山を背景に真っ白な三角形の屋根が浮き出ている。これはもう、たまらない。
 石垣から飛び出す石の数々のカンチレバーにもあこがれたのだった。今、目の前に惜しげもなく見えている。


 
 
 
   というわけで、遂に半世紀を超えての名建築探訪が叶ったのであった。
 建築を見て感動することはほとんどなかった。これまで唯一の感動した建築というか、建築をめぐる風景と言った方がよいが、シドニーのオペラハウスであった。
 今回の千葉家住宅も同じく、建築もそうだが周りの環境と合わせての風景に、久しぶりに感動したのである。

 二川幸夫と伊藤ていじによる「日本の民家 陸羽・岩代」(1958年)という名写真と解説に出会い、ちょうどそのときに卒業研究の丹波民家調査で伊藤ていじ先生にも出会ったのだった。
 伊藤先生も二川さんも亡くなったが、千葉家住宅はいまも健在であった。

 実は、ここに来る前の2日間は、3・11大震災の三陸津波被災地を巡っていたのだ。
 そこでは、なにもかも失われ消滅した風景ばかり見てきたので、ここにきてわたしの半世紀余前からの憧れを、2世紀余の前からの姿で迎えてくれたことが、ひとしお眼と心に沁みこんだのでもある。
(消えた南三陸町志津川地区)
 
遠野ではほかに何も見ずに、またローカル線と新幹線を乗り継いで、名取市の浜のあたりの、何もなくなって草原となった住宅地と傷だらけの石塔が並ぶ墓地を訪ねて、またもやその喪失感に打ちのめされたのであった。(2013.04.24)

●関連ページ:728二川幸夫・伊藤ていじ「日本の民家」に53年ぶりに出会って年寄りになったと自覚して懐古譚
http://datey.blogspot.jp/2013/03/728.html

2013/04/14

755開園30周年祝賀の東京ディズニーランドを計画した頃の思い出とこれからの津波の心配と

 下から地震、横から津波、上からミサイルとPMナントカとサーズ鳥、これに加えて懐に値上げときては、もう日本中に安心して住むところはない。
 どこか安心できる国を探して、移民として引っ越すしかない。
 よく知らないけど、あの世は安心して住めるのだろうと、わたしはそう遠くないうちに行くことになっているから、いま、じたばたしないことにした。

 あの世にもよその国へも避難できない日本人は、とりあえず今の不安を忘れようと、いろいろとやりだす。
 てっとりばやいのは酒での憂さ晴らしだが、それは家族には通じない。そこでナントカランドにいって、とりあえずその日だけは現実の不安を忘れようってことになる。

 東京ディズ二ーランドが開園30周年だそうである。とりあえず今の不安を忘れるための、有名な装置である。
 いまじゃあ東京ディズニーリゾート(TDL)っていって、ディズニーランドはその一部で、ディズニーシーってのもあるらしい。
 実は、わたしはまだ行ったことがないのである。もうこれだけ有名な遊び場で、行ったことのないものは少数だろうから、こうなったら一生行かない人って希少価値を狙うしかない。ついでにスカイツリーにものぼらないぞ。

 でも、白状すると、一回だけディズニーランドに入ったことがある。しかも裏口から。ある会議が浦安市であり、その後の懇親会で特別招待客としてディズニーランドに入れてもらったのである。
 一般客とは別のルートで招待客用のルートがあった。一部施設とエレクトリカルパレードを楽しませてもらった。その裏口入門の一回だけがわたしのTDL経験である。
 正門から金を払って入ったことはないから、まだTDL童貞としておこう。
 なお、カリフォルニア・アナハイムのディズニーランドには、正面から金を払って入ったことがある。

 実はとまたいうが、40年も前のこと、わたしはディズニーランドの計画に携わっていたのである。まだ何もない野っぱらの浦安埋立地の頃のことである。
 だから1983年の開園の前から、舞浜(まだ鉄道はなかった)にあったオリエンタルランド会社(浦安の埋め立て会社でありTDLの経営会社)には、打ち合わせにはしょっちゅう行っていた。
 開園してからも拡張計画などでたびたび行った。その事務所はディズニーランドの裏手にあった。そこの会議室の窓からスタッフたちの部屋が見えていた。ミッキーマウスがぬいぐるみを脱ぐのが見えた、ってことはなかった。

 手もとにあるわたしの仕事の記録を見ると、1970年から広大な浦安埋立地の利用計画をオリエンタルランドの委託でやっているから、その頃からディズニーの話もあったような気がする。
 ディズニーランドそのものは、アメリカのそれを忠実に作るものだったから、中身については日本の法律に合わせる仕事が日本側の専門家の仕事であった。
 わたしは建築的なことにはタッチしなかったが、都市計画的な土地利用などに携わった覚えがある。たとえばTDLも含む埋立地全体の人口や施設配置計画とか、TDLのホテル配置計画があった。

 思い出したが、ディズニーランドが開園してしばらくたって、まだ土地を半分くらしか使っていないので、残り半分に何をつくるかという指名提案コンペを、オリエンタルランドが募集したことがあった。
 わたしは日本的な遊園地を新しいコンセプトで提案したが、落選した。もっとも、他のコンペチターも全員落選、当選者なしであった。
 そして今、その場所にできているがディズニーシーである。これができた経緯は知らない。

 浦安ではオリエンタルランドの広大な埋め立て地計画での仕事は、TDLばかりではなく、舞浜駅前の商業地や住宅地の都市計画も面白かったし、昔の漁村からつづく旧市街地の街づくり計画も興味深いものであった。
 1970年頃からほぼ30年にわたってTDL会社や浦安市役所の仕事をして、全く新しい土地の都市計画から、既成市街地の改善計画まで、いろいろと勉強もさせてもらった街である。

 あの何もない茫漠たる千葉の埋め立て地に、東京と詐称した遊園地(もっともTDLの東京とは東京湾のことだそうだが)ができたときは、わたしはその仕事はしていたが、どこかうさん臭さを免れなかったものだ。
 それがこれほどにも時代に受け入れられて、浦安は東京都内と思わせてしまったのだが、ディズニーなる天才の仕業に脱帽するばかりである。そしてTDL経営者の力量にも。

 浦安はTDLによって、かつての山本周五郎が書いた「青べか」の漁師町から、東京のリゾート的居住地として大きく地域イメージが変わっって、20世紀型開発の都市の理想像のようになった。
 関西方面から関東に転勤する人たちは、浦安に居を求める傾向が強いと聞く。住み始めて初めて、ここは東京ではないのか、と気が付くらしい。

 さて、はじめの地震の話にもどると、3・11地震の時に浦安埋立地は、みごとにその元漁師町の正体を現したのであった。埋め立て地下からの昔の海が顔を出そうとしてきたのだ。これを液状化現象という。大地は海に戻ろうとしたのだろうか。
 もしも大津波が来たら、東北被災地のどこかの海岸平地のように、海の底になったまま、陸に戻らなかったかもしれない。
 いや、それはこれから起きるかもしれないことだ。

 TDLで遊んでとりあえず今の不安を忘れているところに、不安の種のほうから追いかけてくるかもしれないのである。
 時あたかも淡路島で95年再来の大地震、考え込んでしまう海辺軟弱地盤リゾート30周年である。


2013/04/12

754これでまた村上春樹を読むチャンスが遠のいてしまった

 村上春樹なる小説家が長編小説を上梓したとて、なにやら本屋が騒がしいと、新聞のニュースにある。
 その題名が長たらしくも『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』なんだそうである。
 今日、近くの本屋に「本の雑誌」を買いに行ったら、沢山の『色彩……』が積んであった。

 えーと、この村上春樹ってずっと前に、『ノルウェイの森』って小説で評判になってたことあったよなあ、あ、そうだ「IQナント」かって、知能検査?の本もあったような。
 なんにしても、村上春樹が書いた本を読んだことは一度もない。
 読んでやってもよいのだが、これだけ世間が騒ぐと、偏屈の虫が起きてしまう。これでまた村上春樹を読む機会が遠のいてしまった。まあ、遠ざけているのはわたし自身だが、、。

 なんでも、出版社がインタネットによるチラチラお漏らし宣伝をしたのが効いたとかって、新聞に書いてあるけど、インタネット好きのおれは知らなかったぞ。
 どうもわたしのインタネット世界は、世の中の一般的傾向とは違うところを覗き込んでいるらしい。

 それにしても、本ってのは世間の評判(インタネット)とか、出版社の宣伝(直木賞、芥川賞)とか、本屋の推薦(本屋大賞)とかに頼って読むものかい。
 本くらいは自分で選べよ。

 小説家で村上と言えば、わたしには村上龍である。
 この人の小説は、『限りなく透明に近いブルー』はもちろん読んでない。だって、世間が騒いだから偏屈虫が鳴いたのだ。
 で、『トパーズ』、『希望の国のエクソダス』、『半島を出よ』、それから他にも何か読んだような気がする。

 あ、昔々のこと、村上元三という時代小説家がいたなあ、。

 でも、村上と言えば、なんといっても村上隆である。
 なんだよ、このヘンなアーティストは、こんなのが何億円もするなんて、、??、、。

●参照→伊達の眼鏡「世相戯評いちゃもん

2013/04/07

753「震災核災3年目」の連続記事を再編集して掲載

 2013年3月11日の東日本大震災から3年目の2013年3月11日から、連続して書いてきた「震災核災3年目」の記事を再編集して、「まちもり瓢論」として「まちもり通信サイトに掲載しました。
 これをお読みいただく方のために、はじめにお断りしておくが、わたしは何も東北の復興に役立つ行動をしていない。
あれから3年目になっても、ただ心配しているだけの「復興心配書斎派」にすぎない。
 それでも、昨年の秋に小さなボランティア活動ついでに宮城県の被災地(東松島、石巻)を見てきた。
 見れば、ますます心配が募るばかりである。聞いても募る。


震災核災3年目

目次

核災3年目(その1)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme
復興計画の向こうにある次の災害への対策は

震災核災3年目(その2)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme2
大被災地区を海や森の自然に還す考えはないのか

震災核災3年目(その3)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme3
まちづくりとして公営住宅建設を進め、これを機に居住政策を転換せよ

震災核災3年目(その4)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme4
南三陸町の復興を遠くから眺めて

 

2013/04/06

752【言葉の酔時記】返還可能な時期は明日またはその後って借金返済のがれに使いたい

 そうか、そういう表現が政府間で公式に使えるんだな。ならば、庶民も使おう。
 今度、だれかから金を借りるとき、「返還可能な時期は、明日またはその後」と言おう。
 これは、いつまでたっても返さなくても、約束違反にならない便利な言葉であるよなあ。
 あ、でも、これで金を貸してくれる人がいるはずがないよなあ。
 やっぱり借りてしまったやつは強いなあ、「返還可能な時期は、明日またはその後」なんて言って、いつまでも返さなければいいのだからね。

 日本とアメリカ両政府が、沖縄県にある6件の米軍基地について、その返還可能な時期を発表した。
 その中で、普天間飛行場(宜野湾市)は、「2022年度またはその後に返還が可能」になるのだそうである。
 これって、要するに「2022年までに返すことは絶対に不可能だし、返すとしてもそれよりも後になれば可能かもしれない」ということである。
 これは「返還可能な時期」じゃなくて、「返還不可能な時期は無期限」という発表である。
 英語ではどう書いてあるのか知らないが、日本語では、そうとしか読めない。

コラム「言葉の酔時記」一覧
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#kotoba

2013/04/05

751近頃の若者はPMナントカにも黄砂にも花粉にも負けぬように体を鍛えているようだ

 ようやく春めいた天候に誘われて、老爺5人がふらふらと東京近郊の街に、博物館、弥生期遺跡など訪ね歩いた。
 4時過ぎにもう疲れたからとて、駅前繁華街に戻り、昔の記憶にある裏町で喉を潤そうと、その裏街に懐かしい店を探せども、はて、どこもかしこも表通りの明るい街に変ってしまっている。
 あのどこか湿った、軒の低い商店街と、超安売りの汚い昔々の店々はどこに行ったのだろうか。

 浦島太郎老爺たちは、ただ、うろうろ、足が疲れた、もうどこでもいいや、なになに、シシリー料理かい、まあいいや、早くビール飲もうよと店にはいった。
 まだ5時、客は誰もいない、ゆったりと席について、ビール、ワイン、ピザ、カルパッチョなどなど、結構うまいうまいとやっていた。

 次第に客席が埋まってきた。若者男女ばかりである。
 いつものようにわたしたちはその場の最高齢者というか、不良老人隊。
 そのうちにどうも煙たくなってきた。あたりに煙が漂っている。
 あ、いや、火事じゃなくて、見回せば、若者男女のどいつもこいつもが、タバコを吸っているのだ。
 ふーむ、近頃は喫煙の店で飲み食いしたことがないなあ、珍しいことだ。

 あ、そうだ、たしか、神奈川県条例で、レストランでの喫煙は原則禁止、喫煙させるには分離することになっていたはずだぞ、え、、。
あ、そうか、ここは、東京都内であった。町田市は、神奈川県の地形に奇妙に張りだしている東京都である。地形的には神奈川県だけど、県条例適用外である。

 
 それにしても、最近は喫煙族を見る機会がすくない。
 騎兵隊に虐待されて少数民族になったスウ族どもは、どこに行ったのかとおもったら、こんな東京郊外都市の一角に隠れ家をもっていたのか。
 なんだねえ、若者喫煙者が多いのが、なんともはや頼もしい限りである

 何が頼もしいって、大陸方面から黄砂とかPMナントカとかって、あるいは山からはスギ花粉とか、喉や鼻に悪い代物がやってくる時代に、こうやって自ら煙を吸い込み吐き出して、おのれを鍛えているらしい。
 これからの高齢社会を支えていくためには、若者は悪い空気にも耐える肉体を持つべきと考えているらしい。
 エライものである。まあ、頑張ってくれたまえ。

 そう思いつつ家に戻って床に入ったが、夜中にどうも喉が痛くて、タンが溜まってくる。風邪をひいたかなあ、いや、タバコの煙にやられたのだな。
 もう、老人はいまさら鍛えようもないから、もうあの店に行くのは止そう。
 あ、東京都内の店は危ないから、できるだけ神奈川県内の店にしようっと、ゲホゲホ、、。

●参照→神奈川県受動喫煙防止条例
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f6955/p23022.html

2013/04/02

750建て直し五代目歌舞伎座の姿に斬新さは全く無いのは歌舞伎はもう傾奇時代じゃないってことか

建て替え前の歌舞伎座
(吉田五十八設計、1950年改修竣工、2009/03/03撮影)

熊五郎 こんちわー、ご隠居、花見に行きましょうよ。
ご隠居 おお、熊さん、花見もいいけど芝居に行こうよ。
熊 え、そりゃまたなんで。
隠 ほら、東京の歌舞伎座が新しくなったって聞いたからね、行ってみたいなと。
熊 そうそう、なんでも元のまんまの形で建て直して、上に超高層ビルを乗っけたとか。どうせ建て直すのなら元のまんまより、なんか新しい形にすりゃよさそうなもんですがねえ。
隠 おや、そうかい、わたしは違うね、やっぱり伝統芸能の場は伝統を踏まえて、もとの形を伝えるもんだよ。

熊 おお、面白いことになってきましたね。あのですね、歌舞伎ってのはもともとは、傾奇(かぶき)といって斬新で派手な格好をすることで、傾奇モンてえと時代から飛んでるへんちくりんな格好した奴らのことでしょ。
隠 ああそうだね、出雲阿国が大人気者になったのも、そういうことだったようだな。あのころはアンダーグラウンド劇団だったからね。変ったことや斬新さが売り物だった。
熊 なのに、なんです、こんどの歌舞伎座の格好は、なんの斬新さもないですよね、どこに時代の最先端の風俗を採りいれてるんですかねえ、どこが歌舞伎なんです?

隠 おお、きついことを言うねえ。いまや歌舞伎はアンダーグラウンドじゃなくて、陽の目を見過ぎてる大御所芝居だからなあ。う~む、なんだな、こんどの時代の最先端の形ってのは、まあ、その、上に建ってる超高層建築のことなんだろうなあ。
熊 あ、なるほど、伝統衣装の上に山高帽子をかぶってるって、それが傾奇モンなんですかねえ。まあ、大学の卒業式で、袴はいた女性が革靴を履いてるみたいなもんですね。なんだかさえない傾奇モンですね。劇場が元のまんまなら、せめて超高層部分ででも傾奇デザインにしてくれればよかったのになあ、ほら、新宿の包帯ミイラみたいなデザイン学校のように。
隠 そういえば、今度は5代目の建物だけど、初代は洋風だったからこれは当時としては傾奇デザインだったな。 
熊 なるほど、洋館に瓦屋根の玄関がついてる。

初代の歌舞伎座建築は洋風デザイン
(高原弘造設計、1889年竣工、1907年改修、 wikipedia)

隠 元のまんまのデザインにしたのは、興業元の松竹の営業方針もあったのかもしれないね。これまでの歌舞伎を見る主要な客層の保守派ばあさんたちから、あらガラス張り建物なんていやよ、なんて嫌われないように、とかね。
熊 じゃあ、この格好は誰が考えたんですか。やっぱり松竹の舞台装置をつくってる人でしょうかね、和風はお得意でしょ。それとも建設会社ですかね。
隠 歌舞伎座のウェブサイトを見ると、設計監理は三菱地所設計、意匠・デザインは隈研吾建築都市設計事務所、劇場監修は杉山隆建築設計事務所の今里隆と書いてあるね。

熊 え~とね、設計監理とか意匠デザインとか劇場監修ってなんのことですか。建物ってのはゼネコンというか建設会社が設計して建てるんでしょ。あ、そうか、建設会社にその三菱とか隈とかが雇われているんだ。
隠 そうじゃないよ。建物ってのは設計事務所とか建築家が設計して、その図面をもとに建設会社が建てるんだよ。
熊 あ、そうなんですか。その建築家って、なんです。家を建て築くって書くんですから、やっぱり家を建てる工事屋さんでしょ。
隠 いや設計だけをする人だよ。
熊 設計だけするなら建築設計士っていうんでしょ。
隠 まあ、めんどくさいから、もういいや、とにかく設計する会社や人がいて、建てる会社があるってことなんだよっ。

熊 はいはい、で、あの元のまんまの格好にしたのは、その中のだれなんです?
隠 うん、それは意匠・デザイン担当の隈研吾ってことになるな。この人は東大教授の建築家なんだよ。
熊 あら、東大教授なんて偉い人なんですね。じゃあ、ボランティアでタダでデザインしたんでしょうね。だって国家公務員だから、よそから報酬もらっちゃいけないんでしょ。
隠 おまえね、偉い先生にそんな下世話なこと言っちゃいけないよ。

熊 えへへ、庶民はついつい。で、ちょっと伺いますが、できあがったのは元あったのと同じ格好、つまり意匠・デザインなんでしょ。それがどうしてわざわざエレエセンセに頼む必要があるんですか。元と同じならだれでも設計できるでしょ、まあ、いっちゃなんだけど、あっしだってできますよ。
隠 アッ、そりゃそうだ、でもね、エスカレーターがついたり、舞台機構が新しくなったそうだよ。
熊 そりゃあデザインじゃなくて技術でしょでしょ。技術的なことはわざわざトーデー教授でなくても、もう一人の三菱のほうが丸の内であれだけやってるんだから、よっぽどうまいような。

隠 う~む。マイッタね、あのね、これはわたしの勝手な推測なんだがね、初めに隈研吾を意匠デザイン担当で入れたときの松竹の考えは、隈の傾奇デザイン、つまりだな、変わったデザインを期待していたのだろうよ。なにしろ隈が世に有名になった建築のデザインは、実にへんちくりんなものだったからなあ。あれこそホントの傾奇デザインだったよ。ところがだんだんと設計を煮詰めていくうちに、世間の要望やら松竹の営業方針がカブくのをやめて、もとのままがよろしいって保守的回帰した、で、せっかくの隈傾奇デザインは封印されてしまった。たぶん、こうなんだろうよ。もちろん実際はどうなのか知らないよ。これなら熊さん、じゃなくて隈さんがいるわけがわかる。

熊 あたしと同じクマさんだけど、腕が振るえなくてさぞがっかりしたでしょうねえ。でもね、報酬もらえないんだからからしょうがないやって、あきらめたかもね。
隠 いや、報酬はもらっているだろうよ、だって東大教授個人じゃなくて、隈研吾建築都市研究所が仕事してるって建前だからね。
熊 あ、なるほど、そうなんだ。でもね、もとのコピーなら技術だけの仕事で、意匠とかデザインとかの仕事じゃないでしょ。そこが建築家の仕事ってよくわかりませんね。
隠 ああ、三菱一号館美術館、東京駅、歌舞伎座とコピーデザインが続くと、建築家の創造性ってなんだろうねえ。あ、そうだ、今思い出したけど、大阪に村野藤吾が1950年代に設計した新歌舞伎座ってのがあってね、これはあの時代のいかにも傾奇ってな感じのデザインだったねえ。

熊 あっしもご隠居に負けずに勝手な想像ですが、建設中に東日本大震災があったから、このご時世じゃあ、やっぱり歌舞伎→傾奇→傾き建築はまずい、ってことかも。
隠 そりゃまあともかく、下司がかんぐってもしょうがないから、こりゃやっぱり芝居見物に行って、どこが傾奇デザインか確かめなきゃしょうがないね。天井桟敷の一幕見なら安いよ。

●関連ページ「歌舞伎座の改築」
http://datey.blogspot.jp/2009/02/blog-post_04.html

2013/04/01

749震災核災3年目(16) 南三陸町の復興計画は森と人と海の小宇宙が語る大叙事詩のひとつのページであった

「748震災核災3年目(15)」からのつづき
   (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 南三陸町の復興計画の図面を観て、その拡散型の理由を知りたいと、face bookに書いたら、知人がこんなことを教えてくれた。
 それは南三陸町の各地にある「契約講」が、地域社会を結ぶ強い絆があることによるのだろうというのである。

 そこでまた貧者の百科事典のウェブサイト情報をひっくり返して調べたら、芋づる式にいろいろとわかった。契約講は江戸時代から東北地方にはあるらしい。

 南三陸町の復興計画の土地利用計画図にある黄色い円の数だけ、津々浦々の大小の入り江の奥には、漁業を生業とする集落があり、それぞれに昔からの「契約講」あるいは「契約会」と称する、いまでいえば自治会組織があるそうだ。(黄色の円と一致するのでもないようだが)
 時代による変遷もあるが、今もれっきとした力をもっている。

 契約講は集落を運営する組織であり、前浜ではかつては漁業権も持っており、裏山には大きな共有林をもっている。横つながりになって地域を育てている。
 なるほど、そうであるか、そのような生業を支える地域社会が強力ならば、これほども分散するのは当然のことかもしれない。

 その小さな漁業集落の一種漁港は19カ所あり、その背後地の集落戸数は平均57戸、高齢化率は28.9%である(南三陸町復興計画委員会議事録より)。
 意外といってはおかしいが、それなりの戸数があり、高齢化率も高くない。地域社会が成り立つはずである。

 それが成り立つのは、前にある豊かな海と背後の豊かな森がそれを維持しているからであろう。生業をもっている生活圏は持続するということである。しかも漁業は農業よりも協同する作業も多いから共同体が成り立つのであろう。
 都市を見る目だけでは、わからないことを教えられたのであった。

 問題があるとすれば、海に近い暮らしから、裏山の台地に登っても、海に出て漁をするという生業はうまくいくのだろうか、ということである。
 これまで明治三陸、昭和三陸、チリ地震と各津波で被災して、高台に居を移しても、いつの間にかまた平地に下りて被災する繰り返しであった。被災した土地の範囲を利用禁止にしてもそうなった。

 それは経験者も忘れるということと共に、知らない新入り住民が浜近くに暮らしだして漁で先駆けするのをみて、高台移転者も我慢できなくなる、ということだったらしい。
 これからも、それはありうることだろう。どうすればよいか、わたしにはわからない。いっそのこと被災地を海に戻して港を広げると、だれも住まないだろうから名案に思うが、どうかしら。

 そしてまた心配することは、これから工事をして戻るまでには2、3年はかかるだろうが、その間に海を離れる人たちもあるだろう。
 戻ってこないかもしれない。台地の上の街は空き家だらけになるかもしれない。

 だが、長い長い目で観ると、豊かな森と海がこれまで人をはぐくんできたように、人間が災害をも受け入れつつ自然の一員として暮らしてきたこの理想的な風土を、これからも末永く継承していくような気がしてきた。
 地球史的な時間間隔で起こる大津波で、人間が築いた海と山の小宇宙とでもいうべき生活文化圏がご破算になる、そしてまた人間は営々と小宇宙を築き上げる、そしてまた、、、、これは超長編一大叙事詩である。

 小さな入り江、中くらいな入り江、大きな志津川湾、それらにはそれぞれに川がそそぎ人々の暮らしがあり、背後に森を持つ。それらはまるで入れ子である。
 南三陸町という人間が自然とともに生きてきた小宇宙に、悠久の時間と空間の輪廻を観るのである。
 復興計画は大叙事詩のなかのひとつのページにすぎないのであった。その表からも裏からも、それを読み取る必要があると教えられたのであった。

 
 3月になって、「震災核災3年目」と題するシリーズをだらだらと書いてきたが、3月も終わったので、ここらで区切りをつけることにする。
 ここまでの16回分のコラムを再編して「まちもり通信」に「震災核災3年目」として載せた。
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme

●参照⇒地震津波原発コラム一覧

2013/03/30

748震災核災3年目(15) これほどの分散型復興でコンパクトシティ時代に逆行する理由を知りたい

「747震災核災3年目(14)」からのつづき
   (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 ここに南三陸町の地図がある。「南三陸町土地利用構想図」(2013年2月13日公表)とあり、これは南三陸町のウェブサイトに掲載されている震災復興計画図のひとつである。
 志津川湾の周りにいくつもの黄色の丸があり、矢印がつないでいる。これは実線黄色丸は被災した集落や街で、点線黄色丸は新しくつくる集落や街であり、矢印は移転する元と先を結んでいるらしい。

●南三陸町土地利用計画図

 移転先の点線黄色丸の数を数えたら30か所ある。ということは、これから30か所に大小のニュータウンを造成して、三陸町の被災移住民たちが集団で大移動するのである。
 いや、すごいことである。移動住民が何人になるのかわからないが、町の作った復興計画書を見ると被災者総数は町民の55%、9800人弱だから、その全部ではないにしても、大変な人数である。それが30か所で起きるのである。
 町民にとって津波、避難につづく巨大イベントである。

 人口が1万8千人もいない小さな町で、どうしてこれほどたくさんのニュータウンをつくる分散型復興計画にする必要があるのだろうか。
 図面を見ると、リアス式海岸の小さな入り江ごとにある集落それぞれにニュータウンをつくるからだと読むことができる。
 つまり津波で壊滅した集落を社会をそのまま近くに再現するという、復旧優先であるようだ。このあたりの人たちは、それほどにも、いわゆる「絆」につながれた暮らしをしてきていて、これからもそれを求めているのだろうか。それは世代に関係なくそうなのだろうか。

 おおぜいが集まるニュータウンならまだしも、少人数のニューヴィレッジならば、人口減少の波をかぶって、早晩消えざるを得ないようにも思う。
 そう、人間自身が起こす人口減少という津波が、いま日本列島を襲っている最中なのである。
 南三陸町の人口はこれまで減少に減少を重ねてきていて、被災直前は17666人、その55.2%も被災してしまった。被災後もこの町に、その集落に住み続ける人たちは、どれくらいの数だろうか。
 災害が人口減少のスピードを早めるのは、わたしは中越震災復興の現地で見聞きした。

 南三陸町だけが人口が減らない、ということはありえない。復興計画にはこれからも減少していくが、2021年の町人口総数を14555人に見込んでいる。そこには政策的な意図も入っている。
 しかし、国立社会保障・人口問題研究所が2013年3月に発表した日本の各市町村の将来推計人口のうち、南三陸町の2020年の値は14448人で高齢化率35.3%、そして2030年には12385人で41.3%になる。

 これから超高齢化して減少する町の人口が、ばらばらと散らばって暮らすのは、どういうことになるだろうか。
 自然の豊かさを享受する生活と言えば聞こえはよいが、20年後に高齢人口が35.9%(町復興計画)になると、そうはいかないことが起きてくることは目に見えている。
 これほどに分散型となる生活圏を復興という名目で作り上げても、南三陸町は大丈夫なのだろうか。

 どうせ移動して新しい街、集落、家にすむのだから、これほど分散しなくて、ある程度に集まる方が、これからの生活のためにはよいだろうとおもう。
 そう思うのは、現地事情を全く知らないものの言い分であることは承知している。地域共同体の緊密さ、三陸漁業のありかたなど、まったく知らない。
 なにかそれらの地元固有の文化や産業のありようが、この分散型復興計画が出てくる所以なのだろう。それを知りたいのである。

 海岸近くの多くの場所で、しかも短期間に同時に、これほどの大土木工事を進めても、海には影響がないものだろうか。
 先般、三陸町の人から聞いたのだが、南三陸町の母なる志津川湾は、養殖漁業が発達していて、一年中なにかが水揚げされていたが、近年はそれゆえにかなり汚れていた。
 ところが先般の津波が、海底にたまっていたヘドロを沖に持ち去ってくれて、この海は若返って生産力が復活したそうだ。

 これだけ一度にニュータウン工事をすると、その湾のまわりの土木造成による土砂が流れ込むように思うが、大丈夫なのだろうか。
 せっかく復活した海が汚れるかもしれないと、わたしは遠くから机上でよけいな心配をするのである。
 どこか3、4か所くらいに、まとまることはできないのだろうか。そのほうが土砂流出対策もしやすいだろう。

 そしてまた、分散型よりもまとまりのある生活圏を構成するほうが、なにかと便利なはずである。コンパクトシティ、コンパクトタウンがこれからはあるべきまちづくりの方向だとされている時代に、せっかくそれを実行することができるチャンスなのに、これほども逆行するには何か特別の理由があるに違いない。
 もちろん、各小さな入り江ごとに分散する生活を否定するものではないが、それには覚悟が要るし、お金も要りそうだ。(つづく

●地震津波原発日誌コラム一覧

747震災核災3年目(14)大被災した南三陸町の応急仮設住宅地を衛星写真で見て心配になった

「745震災核災3年目(13)」からのつづき
   (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 三陸津波被災地の南三陸町の一枚の地図がある。
 応急仮設住宅地の位置が記してあるのだが、その箇所数の多さに驚いた。人口がさぞ多いからだろうと思ったら、被災直前は1万8千人弱の町である。
 なぜこれほどの分散しているのだろうかと、google earthの衛星写真と照合してしげしげと見ていった。

●南三陸町応急仮設住宅位置図(南三陸町ウェブサイトより)

 
 リアス式海岸特有の大小の入り江ごとの狭い平地に街や集落があって、それらがほとんどすべて被災して壊滅したようだ。
 そこでその街や集落がチリジリになりながらも、できるだけ元の位置に近いところで、仮設住宅を建てるために、津波に襲われなかった近くの台地の空き地を応急的に探したので、これほどたくさんの場所になったらしい。

 そのとき、壊滅した元の平地さえも狭いのに、台地の上はさらに狭いから、まとまることもできずに、これほどたくさんの位置に配置せざるを得なかったということなのだろう。
 もちろんあくまで、わたしの勝手な推測である。 

 
 衛星写真でそれらひとつひとつの場所を見ていくと、心配なことが出てくる。
 生活の拠点であった集落が一切なくなったのだから、もちろん生業の場もなくなり、日常の買い物の場もなくなったのだろう。山の中に10数戸で孤立しているような仮設住宅もある。
 日常生活はうまく成り立つのだろうか。病院通いはどうするのだろうか。

●南三陸町波伝谷地区の仮設住宅(2012年2月22日撮影google earth)
 
 衛星写真で仮設住宅を探すのは難しいだろうなあと思いながら見はじめたら、すぐに仮設住宅とわかる特徴を見つけた。
仮設住宅地は、真っ白な(茶色もあるが)な屋根の細長い建物が、平行してびっしりと建ち並ぶから、まわりの山林や戸建て住宅地とは際立って異なるのである。一か所だけ例外があったが、いずれも狭い隣棟間隔で同じ向きに平行して並ぶのである。
 土地がどこもかしこも四角というわけでもないし、学校の校庭とか公共施設のような広い敷地でも、大昔の公営住宅団地を彷彿させる並び方である。

●南三陸町 志津川小中学校あたりの仮設住宅(2012年2月22日撮影google earth)
左の仮設住宅地だけが例外的に平行配置ではない。
 
●上と同じ位置の震災直後(2011年3月30日撮影google earth)
 これで見ると左の仮設住宅地は津波被災地であるようだ。
 
これは応急仮設住宅設置の補助要綱とかにそうせよと書いてあるに違いない。でなければこれほどまでに右へ倣えということはあるまい。
 でも、一か所だけ例外的な平行でない配置もあったから、必ずしも制度上の縛りではないのかもしれない。
 同じ敷地でも、もう少しは暮らしやすそうなプラニング技術が、この時代にはありそうなものである。
 あるいは実例があるので言うが、被災した土地でもよいならもっと楽に建てられるところがありそうなものである。
 南三陸の人たちは、いくら狭い入り江の奥の谷戸であっても、これほど狭い路地に好んで暮らしていたので仮設住宅もそうしたいとの希望であったとは考えにくい。
 どうも、土地がここにある、とにかく機械的に配置して行こう、そうしたとしか思えないのだ、どうなのだろうか。

 南三陸町では事実上は初めての応急仮設住宅ではあるだろうが、日本で初めてではあるまい。
 日本ではやむを得ない大災害がかなりの頻度であり、災害時の応急仮設住宅に経験のある専門家とか建設業者がいるだろうと思うのだが、同じ戸数を入れるにしても、こういう時の配置のあり方のノウハウ蓄積はありそうなものだ。
 わたしはその暮らしの実態は何も知らないのだが、これで快適なのだろうか。応急だからこれでいいのだと、そういう慣習というか制度かもしれないと思うと、心配である。

●南三陸町 歌津地区平成の森仮設住宅地(2012年2月22日撮影google earth)
町内最大規模の246戸を詰め込んでいる
 
●同じく津波から1か月後の平成の森(2011年4月6日撮影google earth)
 
実はわたしは南三陸町に行ったことはない。たまたま先日、南三陸町の住民の方を東京に招いて話を聞く会があり、そこに参加して若干の現地情報を得たので、いろいろ考えることがあった。
 そこで、これまでは一般論的に心配ごとを書き連ねたが、これからはケーススタディ的に考えることにしたのだ。

 わたしは生れは岡山県で、東北には縁者も知り合いもなし、引っ越しは多かったが住んだことはなし、仕事では秋田県内のいくつかの都市にかかわったが、そのほかは全く縁がなかった。
 三陸というからには、リアス式海岸だから岩手県と思ったら、ここは宮城県であったというお粗末なレベルである。
 しかし、今度の震災で被災直後の壮絶なる風景を新聞やネットで沢山観た中で、南三陸町のボロボロの姿は最も強烈に脳内に残っている。それで町の名前だけは覚えた。

 google earthで被災地を南から北まで見るのが日常になっていたが、地理不案内のわたしにはどこも同じように見えて、地上のその場の惨事と結びつけるのが難しい。要するに岡目八目で、本当の悲惨さはちっともわからないのである。
 それを承知の上で、岡目八目のもつ意義もなにほどかはあるだろうと勝手に思い、よそ者の心配事を書き連ねる日々である。(次は復興計画を考える。つづく

2013/03/28

746玉久三角ビルから東横デパートへと渋谷の変わりゆく姿を追う

 駒場から渋谷まで、なんの用もないけどふらふらと歩いた。
 駒場公園の旧前田侯爵邸をちょっと見た。デザインは悪いが昔のお殿さまってのは金持ちだったんだと思った。
 40年ぶりくらいで日本民芸館に入った。大昔に入った時のほうが感動があったが、今回は柳宗悦というひとも金持ちだったんだなあ、なんて思い、わたしは年寄りになってひがみが出たらしい。

●三角ビルのある町
 住宅街をふらふらと行くと、おっ、三角の家だ。横尾忠則が好きそうなY字路の角に、鋭角そのままに見せて建つ家である。

  ▼三角住宅とその空中写真


せまい土地に建つこんな家は大都市では珍しいわけではない。思いついて渋谷までの間に三角ビルを探して歩いた。
 元は四角な土地だったのが、都市計画道路で斜めに切り取られて残ったのが三角土地になり、やむを得ず三角ビルを建てる。そういうのは探せばいっぱいある。
 好きで三角の建物をつくる人は、まあ、いない。変形土地では建物の設計に苦労すると思うが、建築家の中にはそういうのに意欲を燃やす人もいる。
 この写真の家を設計した建築家もそうだろうと思う。

 三角ビルで有名なのは、新宿駅西にある住友三角ビルである。
 土地は三角でもないのにわざわざ三角の平面の超高層ビルである。オフィスビルとしては使いにくいだろうと思う。
 最近は超高層ビルだって平気で壊すから、これもあまり長くない運命かもしれない。

 ▼空中写真による渋谷三角地帯の三角ビルふたつ
「クロサワ楽器店」(左上の円の中)と「玉久」(右下)

 ▼クロサワ楽器店

●玉久三角ビル
 わたしが渋谷で昔から知っている三角建物は、「玉久」ビルである。三角ビルになる前の三角木造平屋時代から知っている。
 むかしむかし、このあたりは恋文横丁とよばれる三角地帯で、戦後バラックそのままの店が連なる狭い路地が錯綜していた。学生時代にウロウロしたことがある。
 その頃のことについては、「50年代の渋谷三角地帯」というページに、よく調べて細かく書いてある。
http://tokyo.txt-nifty.com/tokyo/2003/04/50_39c7.html

  
 玉久(たまきゅう)は、その一角で表通りにあった。外も中も汚い木造の平屋の店だったが、三角地帯の中でこの建物そのものが三角であった。
 汚いながらも実に美味い魚を食わせていて、お値段もけっこう高かった。渋谷の放送局関係者のふところ暖かい連中が、粋がって常連だったようだ。

 この玉久もある三角地帯を地上げして、東急が109ビルを建てたのは1979年だった(ウィキペディア)。竹山実設計の銀色にかかがやく建物は、戦後バラックイメージをさっぱりと払しょくした。
 工事が終わったら玉久もなくなるのか、109ビルに入るのだろうと思っていたら、周りはそうなったが玉久だけは残った。

 109のアルミ板壁にペタッとくっつく真っ黒な木造建物には緑の葉が茂る1本の木が立っていて、それらの取り合わせが奇妙に面白い風景であった。
 格好よく言えば、変わりゆく渋谷の象徴的な点景であった。そのころ気になる風景として、わたしが撮った写真がどこかにあるのだが、みつからない。
 ネットに昔の玉久の絵と写真があるから紹介する。
http://www.makoart.com/Report/reportImages111027/Report1110-5.jpg
http://www.hachiyamayumi.mydns.jp/~hachiya/19930320tokyo45091.jpg

 ずっとこのままでいてくれるといいなあ、なんとなくそう思っていたが、あれは何年ごろだったか、玉久ビルになってしまった。
 今見ると109ビルと合体したかのように見えるが、実は隙間があって、三角木造店は独立した三角ビルになっているのであった。三角鉛筆ビルである
 ビルになって8階あたりの高みに登ったらしい玉久には、いまだ入ったことがない。値段も高みに登っていそうだから。

 ▼玉久(ガラス張りビル)と109(アルミ板張りビル)

 ▼上のと反対から見上げると二つのビル間に隙間が見える

●渋谷東横デパート
  渋谷東横百貨店を見上げたら、「さようなら東館」と壁に大きくかいてある。そうか、これを壊すのか。東横線が地下に入って地上も大改造計画のはじまりか。
 このあたりの風景の変化は、わたしが生きているうちに間に合うだろうか。無理だな。
 ▼東横デパート東館 

 ついでながら東横線が地下鉄に乗りいれして、これまでは横浜から座って寝ていれば渋谷に到着していたのが、今やうっかりすると秩父の山奥まで連れて行かれるらしい。
 渋谷で井の頭線に乗り換えるのに15分も歩いたぞ。横浜でも中華街まで連れて行かれてしまうし、まったく不便になったものだ。バリヤーだらけになった。
 偶然だが、新聞博物館で「東横百貨店開店披露大売出し」の広告を見つけた。日付は1934年10月31日らしい。ということは79年前である。

 ▼東横百貨店開店時の新聞広告
 後に西館と南館を増築(設計は坂倉順三)したが、そちらはまだ解体しないらしい。
 この東館と西館をつないで山手線の上をまたぐのが中央館である。4(5?)階建ての橋のような建物で、東西二つのビルを足場にして架かっている。東館が無くなれば片方の足場が消えるから、ここもとり壊すのだろう。
 1950年代としてはかなり珍しい建築構造方式で、その構造設計はわたしが大学時代に教わった(が単位は落した)二見秀雄教授であったと、なにかで読んだ記憶がある。

2024年4月13日追記)今や東横デパートはすっかり消滅、まったく違う風景の渋谷となった。わたしはもう4年も訪ねていないが、もうすっかり浦島太郎である。

2013/03/27

745震災核災3年目(13)まちづくりの一環として中心街に復興公営住宅を建設することに期待する

「744震災核災3年目(12)」からのつづき
   (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 実は発災直後の2011年3月20日に、わたしは自分のブログに「内陸母都市に疎開定住公共賃貸住宅を」と題して、次のようなことを書いた。

「これから、ぜひとも公共賃貸借住宅を災害疎開者のために建設してほしい。新たな住宅建設のための負担を、持家優遇政策で被災者に借金させてはならない。
 それも被災した地域の内陸にある母都市の中心部に、疎開者の元のコミュニティ集団に対する単位として建設するのだ。
 こうすることで、災害疎開者のコミュニティの継続と、空洞化する地方都市の再生とをセットにする震災復興都市計画、いや震災再生国土計画とするのである。
 繰り返すが、災害復興政策として持家建設やマンション購入ばかりを優遇する金融や税制を優先するのではなく」


 2013年3月6日の報道(NHK NEWS WEB)にはこう書いている。 
「政府がまとめた住宅再建の工程表によりますと、集中復興期間に当たる平成27年度までに、被災した住宅を自力で再建できない人のための災害公営住宅を、岩手県では計画の9割に当たる5100戸、宮城県では計画の7割に当たる1万1200戸を建設するとしています。
 一方、津波に加えて原発事故による影響を受けている福島県では2900戸を建設するなど、3県合わせて2万戸近くを建設するとしています。
 さらに、住宅の高台への集団移転事業などについて、ことし9月までに、岩手県では計画の6割の、宮城県では計画の7割の宅地の整備を進捗させるとしています。」


 つまり、2016年3月までとしても、これから3年間である。3年で3県に計2万戸も公営住宅を建てるというと、これは忙しい。
 もちろん必要なことは分かるし、わたしは賃貸借居住主義者だから、大賛成なのだが、どうも気になる。
 あまりに建設の速度が早すぎてしかも大量だから、わたしが期待するような公営住宅ができるのだろうか。

 公営住宅政策は長らく日陰者だったから、自治体に計画、建設、管理のノウハウはあるのだろうか。
 よい交通立地、よい生活環境、よい買い物や地域施設が整うのか、よいプラニングになるのか、よい景観になるのか、そしてよい管理体制が整うのだろうか。土地の手当てができるのだろうか。
 大急ぎでつくるから、とりあえず取得できた土地にとりあえず造る、なんてことになっているかもしれないと危惧する。
 あるいは公営住宅は公営住宅だけ、民間住宅は民間住宅だけ、商店街や公共施設はまたそれ独自に、それぞれの別個のゾーニングの範囲でのみ計画して建設するかもしれないと危惧する。これではまちづくりにならない。

 日本のこれまでのような経済政策としての「住宅政策」ではなく、これからは社会政策としての「居住政策」として、今後の模範となるような、公営住宅ができることを期待しているのだが、現場はどうなのだろうか。
 新たな都市づくりのひとつとして公営住宅建設をしてほしい。特に内陸部の被災しなかった中心市街の空洞化対策と連携して、その既成市街地の中に埋め込むように建設してほしいものだ。
 その方がインフラ整備の必要がないし、居住者の生活も便利で、高齢化時代に対応するとともに、コンパクトタウン形成になるからだ。
 あるいは被災地から集団移転する台地上の新市街地につくるとしても、ミックスコミュニティとすることや、戦後ニュータウンのような寝るだけの街にしないようにしたい。生業が成り立つ新たな街を作ってほしい。
 公営住宅はその街づくりのリーダーとなってほしい。

 賃貸の公営住宅の良いところは、計画的に良い環境住宅をつくり、一体的に管理してよい環境を維持できること、次世代へ円滑に継続することなどがあるのだから、それらに力を注ぎ込んでほしい。
 わたしは今、都心の公的賃借住宅に住んでいる。ここを積極的に選んだのは、上のようなことを期待しているからである。賃料を除けば、ほぼ満足している。

 とにかく、戸数消化主義が今は求められているようだが、場当たりの土地、場当たりの計画、場当たりの入居制度、場当たりの管理になって、結局は住みにくくて元の津波被災地に戻るってことにならぬように、頑張ってほしいものだ。

 関東大震災のあとで同潤会によって建設した共同住宅は、のちのちまでも都市住宅の模範であり続けた。
 東北地方の復興公営住宅も、地域における模範となる共同住宅となってほしい。(次につづく)

2013/03/26

744震災核災3年目(12)震災復興シンポでの専門家論についてはデジャビュ感があった

741震災核災3年目(11)」からのつづき
   (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 大地震で大被災した南三陸町の復興状況の話を聞いた。
 日本都市計画家協会と東京大学が、町民4人をまねいて、シンポジウムを開催したので、聞きに行った(2013年3月24日、於:東京大学生産技術研究所)。
 会場には100人あまり、ほぼ全員がいわゆる専門家とよばれる人たちだったろう。わたしも元がつく専門家ということにしておこう。
 
 来ていただいた4人の人たちから聞く復興の諸課題は、当然のことだろうが、どれも深刻なることばかりである。
 興味深く聞きつつも、これまでここに書いてきたように書斎で机上心配するだけのわたしなのに、意外なことと思うことは少なくて、これまでの心配が深まることばかりであった。

 会場からの専門家たちの発言には、どうももうひとつピンとこなかったものがおおい。
 これは、まあ、専門家たちが悪いのではなくて、予期せぬ発言者を指名していったコーディネーターのせいだろう。

 被災者の方の話に、復興計画について行政と地元住民との間の意思疎通に齟齬があり、地元住民の中に入ってきて住民の立場で行政に対抗することができる知恵を授けてくれる専門家をほしいとの訴えがあった。
 既成市街地での都市再開発・まちづくりの世界では、もう昔からこういうことがあって、それなりにアドボケイトプランナーが育ち、それに対応する支援制度が動いていたはずだ。
 そのノウハウ蓄積が被災地では生かされていないのだろうか。それとも被災地があまりに広くて、人材が足りない、制度が追い付かない、ということだろうか。

 いろいろな情報によると数多くのプランナーが各地に入っているらしい。
 そのなかにはアドボケイトのベテランもいるはずなのに、いまだにこのようなことを言われているのかと、不思議というかデジャビュ感があった。

 専門家に対する住民のいらだちに対応して、専門家のあり方について、個別の専門家を束ねてコーディネートする能力のある専門家が要ることの発言が、大学研究者からあった。
 むかしむかし、わたしはコンサル・コンサルタントとひそかに自称していたので、これもデジャビュ感が強かった。そのような人材はいっぱいいたと思うのだが、どうなっているのか。
 会場から、専門家は地元にボランティアで行けとの発言があり、これもまちづくりの世界では昔から聞かされ、専門家はカスミを食って生きるのかとの反発も、デジャビュ感があった。

 それにしても、日曜日の朝早くから、こんな不便な会場に、専門家たちがおおぜい集まったこと、そして若い人たちが多いことを見て、まちづくり人材が育っていることに明るい希望を持ったのであった。
 もっとも、会場で久しぶりに出会ったある知人に聞けば、相変わらず食っていけない世界のようだが。

 さて、復興計画そのものについてだが、会場でいただいた復興計画図を見ると、数々の心配が湧いてきた。これで南三陸町の将来はどう展望できるのだろうか? (次回につづく

(追記0328)
 もう8年くらい前のことだったか、国交省の都市計画課で、まちづくり人材リストをつくったことがあった。かなり大掛かりにやったから、その後も活用しているはずだが、どうなっているのだろうか。

●参照→「地震津波火事原発コラム一覧」

2013/03/25

743能「隅田川」の眼でオペラ「カーリューリバー」を見る

●オペラ「カーリューリバー」
ベンジャミン・ブリテンの作によるオペラ「カーリューリバー」を、神奈川芸術劇場で見た。演出が日本舞踊家の花柳寿輔というのが意外である。だが、オペラの演出はかなり自由が許される世界であるらしいから、不思議はないだろう。
 その自由な演出のオペラの元になっているのが、かなり不自由な演出しか許されない日本の伝統芸能の能「隅田川」であることが面白い。
 B・ブリテンは1956年に日本に来た時に、この能を見て感動し、翻案してオペラをつくったそうだ。初演は1964年。
 カーリューとは鳥のシギの一種らしい。隅田川の都鳥をこう置き換えたのだ。
 カーリューリバーの基本的な話の筋は、能「隅田川」にほぼ忠実であるといってよい。もちろん隅田川に出てくる念仏を唱える仏教から、かの地のキリスト教に翻案していて、教会堂で演じる宗教奇跡譚の仮面劇になっている。
 舞台の構造も能とは違って、螺旋のような形であるらしい。ユーチューブにいくつかのこの公演実写映像が登場するが、なかにひとつだけこの形のものがある。
http://www.youtube.com/watch?v=zDrcgTKmGbc&list=PLA393D79883D4C185
 今回見た花柳寿輔演出での舞台は、真四角な白木の床の能舞台であった。もっとも、4本の柱はなく、橋掛かりは下手奥からではなくて客席を縦に貫通する花道状に渡した。

●続きの全文は「能「隅田川」の眼でオペラ「カーリューリバー」を見る」
https://sites.google.com/site/matimorig2x/opera-curlew-river


2013/03/23

742近年は季節がドカンドカンと突然に変わるので四季遷移の情緒がない

 今日、わたしの空中陋屋のある共同住宅ビルの外に出てビックリ、ピンク色に明るい、おお、道が桜の花で満開だあ。
 ヘンだなあ、昨日だって外に出たのに、気が付かなかったぞ。わたしがボケていたわけではなくいて、これは昨晩中に突然に咲いたにちがいない。

わたしの空中陋屋のある共同住宅ビルも花で飾られている。
 
 この数年は、冬からいきなり春にドカンとなってしまう。徐々に春めいてくるってことがなくて、なんとも情緒にかける。
そしてちょっとしたらドカンと夏がやってきて、また、ドカン、、、の繰り返しであるようだ。
 なんだか四季というよりも、2季か3季のような感じがしてならない。

 空中陋屋から見下ろす中学校の入り口に、黒い服の男たちがたまっているので、何事かと近づいて見れば、校門の門柱に「閉校式」とかいた立て看板が立っている。
 え、閉校するのか、式参列でいらしたお偉いさんたちらしい。
 この中学校では、去年になにかおおきな工事していると思ったら、仮設のプレファブリケーション校舎が建った。校庭グラウンドは半分くらいになった。

 どうもそれまでの校舎が耐震性で問題があったらしい。そちらを建て直すので、狭い校庭と安物仮校舎で、しばらく不便をしのぐのだろうと思っていた。
 それが閉校ということは、1年後に要らなくなるけど、東日本大震災の余震の大地震がもしも去年中に来たら危ないという判断であったのか。
 それはまあ慎重でよろしいが、結果としては無駄遣いであったことになる。

 空中陋屋からまた別方向を見ると、こちらには新しい共同住宅ビルの建設が始まって、高い工事用クレーンが建っている。
ふーむ、あのクレーンほどの高いビルができるのか、日陰にはならないが、視界の邪魔だなあ。
 むこうの山手の丘に咲く桜も、あのビルで見えなくなるのか、残念。
 でも、こういうのが建つと、小中学生が増えて、廃校中学校をまた再開校することになるかもしれない。
●参照→「ニッサンバカ広告が消えたと思ったらまたビルが建つらしい」

2013/03/22

741震災核災3年目(11)被災者が移転する先が高地価になってアベインフレ政策成功かしら

  昨日の「738地震津波火事原発3年目(10)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)
 
 先般、今や日本民族は津波を恐れて内陸に大移動だと書いたら、今日の新聞に地価公示(2013年1月1日現在)が載っていて、すでにその傾向が地価に表れたそうだ。
 東日本大震災被災地では、特に内陸部や台地上の土地の価格が上昇しているらしい。あたりまえながら、そちらに移転する需要がたくさんあるから、地価が高くなる。

 仙台都心部では共同住宅(いわゆる分譲マンション)が売れて、高額になりつつあるという。石巻では高台の住宅地が飛びぬけて高額になった。
 困ったことである。これでは被災者は2重に苦を蒙ることになるのだが、それへの地価抑制政策はどうなってるのか。
 アベノミクスではそのへんはどうなっているのだろうか。あ、インフレ政策だから高地価は政策どおりなのか。困ったもんだ。

 関東では今、超高層共同住宅ビルがにょきにょき林立中の川崎・武蔵小杉の地価上昇がものすごい。困ったものである。そもそも高層の共同住宅ビルは地震に根本的に弱いのであることがわかっているのだろうか。
 このことの問題は別にくどくど書いているからそちらに譲る。
http://homepage2.nifty.com/datey/kyodojutaku-kiken.htm

 地価抑制策がないどころか、地価が上昇して景気がよくなったと喜んでいる向きが多いらしい。不動産屋とか土地を担保に金の貸し借りする企業や金融業はよかろう。
 だが、地価が高騰して金のない庶民は、ますます津波危険地域に住まざるを得ないことになる。
 家ってものは借金して買わなければ日本では暮らしが成り立たないって、ヘンなことになっている。もっと公的な賃貸借住宅を教習するべきである。

 そして高地価に関係なく庶民が民族移動して、津波や災害から逃れる都市づくりをするべきと思うのだが、被災地ではどうなっているのか。
 被災地では大量の災害公営住宅の供給画があるようだ。これなら地価には関係なく移住できるからよろしい。わたしは賃貸借居住主義者だから喜ばしいことであると思う。
 公営住宅に入居者するひとびとが、家が買えないからやむを得ずそれを選ぶのではなく、積極的に選んで住む時代になってほしい。
 どうか負け組意識になってほしくない。賃貸借住宅のほうがよいのだと、自治体はそのような公営住宅の供給をしてほしいものだ。

 70年代から持ち家政策が進んで、賃貸借住宅政策がおろそかになり、公営住宅供給もどんどん細ってきている。
 それが賃貸借住宅の質的低下をもたらすと同時に、持ち家も価格を下げるためにミニ開発と郊外地立地で、こちらも質的低下である。価格を下げるために戸数を稼ぐ高層巨大共同住宅ビルも同様である。

 
 いまようやくにして社会政策として、公営住宅が再登場してきたことを喜ぶのだが、巨大災害がその機縁であること悲しいし、一般政策には広がる気配がないのも悲しい。
 とりあえずは、その災害公営住宅に移り住む人たちが、防災集団移転事業による自力建設の住宅と同じがそれ以上に良い居住環境になって、賃貸住宅として続いていくことを期待している。(明日の記事につづく

●参照「地震津波火事原発コラム」一覧
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm