2019/02/12

1386【インポ建築展】建たない建てない建てる気がない建つこと拒否された建築の展覧会はザハ・ハディドへのオマージュか

 
「インポッシブル建築展」を観てきた(2019年2月11日)。
 埼玉県立近代美術館「インポッシブル・アーキテクチャー もうひとつの建築史」展覧会(~3月24日)である。
展示はタトリンの傾き屹立廃墟「第三インターナショナル記念塔」から始まり、ザハ・ハディドの背割れ瀕死亀「新国立競技場案」を終わりに据える。
 このインポ性を強烈に放つ口と尻こそ、企画立案者の建畠晢館長の考えたインポ建築展の基本的なフレームだそうである。面白い。

 観たわたしの基本的な印象は、これはザハ・ハディド「新国立競技場案」への厳粛なるオマージュ展であるな、ってことだ。
 累々たるインポ建築のミイラの最後に登場したなのが、この一昨年に死んだばかりの生な死骸の「新国立競技場案」だった。
 これがあることで、この展覧会がインポを越えてポシブルへと橋が架かった。そこまで観てきた累々たる死骸が、ここで生き生きとした死骸になった。フィクションをリアルへとつないで見せたと言ってもよいだろう。

 あのもう見慣れた巨大な背割れ亀模型もすごいが、なんといっても圧巻は膨大な実施設計図書の展示である。折り込み縮刷A4版製本して何十冊ものあの量だから、実物の図面や書類ならば展示してある小間にいれたら、部屋に一杯で天井までも積みあがるくらいはあるのだろう。さすがに大規模建築にふさわしいすごい量だ。
  それが実は既にできていたのに、土壇場でインポになったのだから驚くばかりだ。現実はインポでもフィクションでもないのだった。
 この最後の小間に至る前までの模型や図はすべて、まるきり建とうともせず建ちもしなかったものだが、これだけは実は建つ寸前クライマックスまで行って突然に脳溢血で(じゃなくて時の首相に寝首を掻かれて)腹上(下)死インポ化であった。
 その無念さが、あの膨大な何千枚もの実施設計図書の展示に込められている。
 
 昨日は建畠館長と五十嵐太郎さんの話を聞いたのだが、建畠さんの美術家らしいいくつかの牽強付会を面白く聴いたので、わたしも牽強付会をするのだ。
 この最後の部屋は能「道成寺」の能舞台であった。あの2年前の新国立競技場騒ぎを思い出せば、今ここにある設計図書類は、道成寺の鐘供養にやってきた白拍子である。
 かつて愛する男に拒否されて鬼女となって殺し、逃亡していた女が、2年後に再登場して怨念を再現するのだ。
 模型や図面を観ていて思ったが、このデザインの持つ怪しい雰囲気が、鬼女さながらに世間から拒否されたのだ。これが女性原理の表現(あからさまに言えば壮大なる女陰)であるのが、それが建たなかった理由かもしれない。
 たしかにその美しさが一転して鬼女になる恐ろしさを秘めているように見える。

 わたしはこのザハ・ハディド案で建ってほしかったと考えていたことは、あの騒ぎが始まった頃にこのブログに書いているが、それはその異教徒的な怪しさが、あの明治神宮外苑の持つ19世紀的帝国主義王権の原理的景観を、21世紀の今ぶち壊してくれることを期待したからだった。
 それがこうなった今では、どこかにこれを建ててインポからポシブル建築にしてやって、この建築インポ騒動のせいで死んだ(のかもしれない)ザハ・ハディドを供養しなければなるまい。
 隈・大成による実現新国立競技場の竣工の日に、ザハ・ハディドの白拍子姿の幽霊が登場して、釣鐘に見立てた新競技場に舞い込んだとたん、9.11のごとくに崩落する幻想を抱く。
 
 今回の展覧会に出す予定だったが、土壇場でキャンセルになったインポ建築に白井晟一の「原爆堂」があったそうだ。
 その出展しない理由が、これを実際に建てようとするポシブル化運動が起きているので、インポ建築展に出すわけにはいかない、とのこと。
 そう、インポもいつかはカネとクスリと技術革新と社会状況でポシブルになるのだ。

 インポシブルにはポシブルも含むのだ、だからパンフのIMPOに抹消線がかかっているのだと、建畠はトークで言っていたが、もともとそう思っていたのだろうか。
 展示資料収集過程で、原爆堂と新国立競技場の状況を知って、インポの領域を思案したのではあるまいか。ポシブルまで含むとしたら、これは単なる建築展の一部展示になってしまうだろう。
 単なる空想建築展でないとして、インポシブルからポシブルへと迫る編集があるべきだ。展示作品のインポ度合いを、観た人たちに投票してもらったら面白い。

 あ、そうだ、ザハ・ハディドの「新国立競技場案」を、築地市場跡地にそのまま建ててはいかがですか、小池都知事さんよ。
 こんなにも図面準備万端ととのっているのだから、もうあとは金さえ用意すればそのまま建つようだ。跡地利用をどうしようかとグダグダいうよりも早いですよ。
 冗談半分本気半分で言っているのだが、ありえないことではなかろう。

 いくつかの「建てばよかった」と思うものがあった。京都国際会議場の菊竹清訓案は、まさにそのひとつである。応募してかすりもしなかったひとりとして、同時代的にすごい案だと眺めたものだが、模型を観てもやはりすごい。惜しい。
 もっともさすがに菊竹は、後に「江戸東京博物館」でこれをポシブル建築にした。でも京都で大谷案ではなくて、こちらを造ってほしかったと思った。
 そう言えば思い出したが、あのコンペ審査で菊竹案をして、「異教徒的」と評した言葉があった記憶があるが、ザハ・ハディド「新国立競技場案」こそ異教徒的姿への反発が、これをインポ建築にしたのだ。

 落選承知のインポ建築案で有名なのは、前川國男の「帝室博物館」コンペ案だが、はじめてその模型を観て思ったのは、意外にヘタクソというか、真面目な案だったことである。これに瓦屋根を付けたら当選したかも、いや、それほどうまくもないか。
 影付きの立面パースのうまさと、模型のつまらなさのギャップがおかしかった。

 川喜多煉七郎の図面がたくさんでていて、あらためて思ったのは、このひとはこんなに才能があったのに、その後は店舗設計の世界でしか生きなかったのは、どうしてなのだろうか、ということである。
 川喜多と同時代の山口文象の「丘上の記念塔」もでていたが、山口と比べても出自も才能も似ていたと思うのだ。
 山口も川喜多も、もっとも働き盛りに戦争時代になって仕事がなくなり、才能の発揮をできなくて、インポ建築さえもできかった不幸がある。惜しい。

 美術家の荒川修作、相田誠、山口晃の作品が、なんと言っても面白いインポ建築である。
 メタボリ派アーキグラムの劇画みたいなインポを前提しながらも、じつは実現可能かもしれない姿を描くのに対して、美術家の作品はできるかもしれないと思わせながらも、実はインポであることを誇っている感がある。
 もっとも、荒川修作はその更に逆をいって、インポと思わせて実はポシブル(建つ、勃つ)ものがあるのだから、建築家は負ける。
 山口晃と会田誠の日本橋提案戯画もあった。日本橋については、わたしは日本橋の上だけ高速道路高架を保存せよと言っているだが、さすがに美術家はもっと突き抜けるのだった。負けた。
つづく

(追記 2019/03/25)
 図録の中の山口文象の項をチェックしていたら、年表に誤りを発見した。
 082ページ1950年の欄に記載してある『岡村蚊象(山口文象)「中央航空機停車場」』は、正しくは、1927年に三科新興形成芸術展覧会に出展作品であり、作品名は『1950年計画 中央航空機停車場』である。なお、1930年に岡村家との養子縁組を解消して、以後は山口姓を名乗っている。
 山口文象についてはこちらを参照のこと

(追記 2019/11/07)
 インポ建築展はその後は新潟、広島へと巡回して、昨日、最後となる大阪の国立国際美術館での展覧会の案内が届いた。
 タイトルが「インポッシブル・アーキテクチャー 建築家たちの夢」となっている。
 アレッ、なんだか違うみたいとこのページで確かめたら、埼玉での展覧会でのタイトルは、「インポッシブル・アーキテクチャー もうひとつの建築史」であるから、サブタイトルに変更があった。ということは、美術館によって展覧会の意味づけが異なるらしい。国際国立美術館での企画者の考えだろうか、もしかして展示の内容も変わっているのだろうか、なかなか面白い。


2 件のコメント:

YAGI MICXIO さんのコメント...

おじゃまします。いつも「伊達の眼鏡」を楽しみにしてます。インポ建築展のこと知らなかったので、さっそく見に行きたいと思います。
東工大で同期のO君が、日建設計で「新国立競技場」の担当となり、死にそうな顔をしていたことを思い出しました。「敷地からはみ出てんだけど、どうしよう」と言ってました。
インポシブルでヒヤシンスハウスのことも思い出しました。

まちもり散人=伊達美徳 さんのコメント...

八木さま
お読みいただき、コメントも賜り、感謝。
「インポッシブル アーキテクチャー」というべきなんですが、長いので「インポ建築」としましたが、他意はありません。(まちもり散人より)