2015/02/15

1058【京の名刹重文襖絵の謎】(4)今見る狩野光信作「桐に竹図」は330年前には違う姿でお姫様の部屋にあったのだ

【京の名刹重文襖絵の謎】(3)からつづき

 謎解きは佳境に入ろうとしている。
 法然院方丈は、17世紀の後西上皇のお姫様の御殿だったものを移築したものらしい。どちらの平面図も中心部分は酷似しているが、2本だけ柱の位置が、横にずれている。
 そのずれた柱の1本の左右には襖があり、重要文化財となっている「竹ニ桐図」が描いてある。右は桐の図で幅1間半、左は竹の図で巾1間である。
現在の法然院方丈 上之間「桐ニ竹図」襖絵(ネットから拾った複数の画像を修正合成)

次のモノクロ画像は、卒業研究の現地実測調査の時に撮った写真とそのほかの文献をもとにして、上之間の「竹ニ桐図」の全部を合成、修正、切り貼りして、わたしが作った。現在の「桐ニ竹図」の襖はこのように入っているのだ。
 ローマ字の記号は、平面図と同じ位置にふってある。つまり、は現在の方丈の柱の位置であり、は院御所の姫宮御殿のときの柱の位置である

 右(D-F間)の2枚の襖の桐の図の内、左の襖のの位置に縦に明瞭に見える絵の継ぎ目がある。継ぎ目の位置は、左の柱からから0.25間(約50センチ)であり、移築の前の柱の位置にあたる。
 その継ぎ目から左D-E間の絵は、色が濃いし、右とつながりが不自然であることは、素人でもわかる。切り張りとか、描き足したした感じである。

 では、上之間の柱を、移築前のようにの位置に戻したら、襖絵はどうなるか復元してみることにした。コンピューターの画像の上で、あれこれやっていると結構楽しい。襖絵の偽造画家になっている気分だ。
 D-F間の桐の図の襖は、柱が0.25間右に寄っての位置にきて、その幅は1.25間となり、襖はこれを真半分にした2枚に、画像の上で仕立て直す。
 D-E間の絵を切りとり、残りの幅の襖絵をツギハギして1枚にして、これを縦に真半分に切って、2枚の同幅の襖に分けて貼りつける。
 このときに右の襖の左の方の縦線が、真半分の線と一致することが分かった。つまり移築前の襖はここから左右に2枚だったのだ。
 
 次は柱の左の一間巾の竹の図の襖である。現在はC-D間2枚の襖として入っている。の柱をEに移すと1.25間巾に広がる。これを真半分にした竹の図にしなければならない。
D柱をEに寄せて、左右共に1.25間の襖にしたら、左の竹の図の中央が空白になった
桐の図では、いまある図を切り取ればよかったが、こちらでは今は存在しない絵を復元しなければならない。
 現在の竹の図を観ると、襖の合わせ目の中央に竹がより過ぎて、いかにもせせこましい構図になっている。これは移築の際に、2枚の襖の合わせ目の側をそれぞれ切り取って、狭くなった襖に仕立て直したに違いない。

 では、竹の図で切りとれたほうは、どんな絵だったのか。それは、現在の図からおおよその想像はつく。岩の根元あたりに群生する竹の根元あたりを描けばよいだろう。しかし存在しない絵を復元するのは不可能だ。
 そこをわたしはいつもの「戯造」の手練手管で誤魔化して、一応それらしく偽造したのである。
 こうして「桐ニ竹図」を復元したのだが、まあまあ贔屓目に見れば、現在の方丈の絵柄よりも、この復元贋作襖絵のほうがよろしいようですが、いかがですか。
E柱から左の竹の図の空白部分を適当に描いて、オリジナル襖絵を「戯造」してみた
もうひとつ「戯造」画像をお見せしましょう。
 こんどは復元とは逆に、かつての後西院御所の姫御殿にあった「桐ニ竹図」襖を、法然院方丈に移築する際に、どのように襖絵を仕立て直したか、その過程をgif animationで見てください。330年前の絵師の仕事を、たったの10秒で再現。
法然院方丈「桐ニ竹図」襖を、330年前のオリジナルから、現状へと仕立て直す過程

 まあ、そういうことで、とりあえず、後西天皇の皇女の八百姫が、21歳から36歳で没するまで、眺め暮らしていた襖絵はこうだったのだろうと、オリジナル襖絵を復元してみたのである。このページ最上段の現況の襖絵と比較して見てほしい。
法然院方丈上之間襖絵「桐ニ竹図」を330年前の姫宮御殿時代の姿に復元
さすがにカラーではごまかすのが難しくて、竹の図の偽造部分のできが悪い)
そしてまた、この襖のあたりで次の謎解きのヒントを発見したのだ。(つづく)

2015/02/13

1057【京の名刹重文襖絵の謎】(3)八百姫御殿の古絵図面と今の法然院方丈の平面図はそっくりなのだが、

【京の名刹重文襖絵の謎】(2)からつづき

 この1674年の姫宮御殿の設計図(指図)平面図と、現存の法然院方丈の平面図(1960年にわたしが実測して作った)とを比較してみよう。
 はたして似てるところがあるだろうか、どのように移築して現在のようになったのか。全く似ていなければ前提条件から崩れてしまう。

 現代の法然院方丈(以下「方丈」という)の中心部は上の間であり、10畳の広さに床の間と違い棚があって、襖や床棚の壁には絵が描かれている。実に立派な作りである。
 襖を隔ててその隣りには10畳の次の間があり、ここにも襖絵がある。
法然院方丈上の間 (ネットで拾った複数画像を合成修正)
延宝度の姫宮御殿(以下「御殿」という)の指図に、「姫御殿 四間 六間」と記入のあるあたりが、10畳の間であり、床の間と違い棚があるから、ここが八百姫の部屋であろう。
 現代の方丈の上の間と同じである。隣には、現代の次の間に相当する10畳の部屋もある。
 その両側には広縁があって、これも現代の方丈と同じである。このあたりにちがいない。近づいてきたぞ。

 方丈の中心部と御殿の中心部を白抜きにして示し、柱位置に記号を付けた。


この白抜きの部分は、方丈と御殿とはほとんどぴったりと符合する。つまり、方丈は御殿の南北についていた差出と西側(床の間裏)の広縁を取り払ったものである。
 実測の時に発見して確かめたことだが、現在の方丈の畳縁外側の落縁の柱には、かつて指出の木材が差し込んであったことを示す穴に埋木をしてある跡がたくさんある。つまり移築前は縁よりも外に建物がくっついていたことを示している。
 
 上の間と次の間の柱位置は、御殿のそれとほとんど一致するのだが、実は2本だけ異なる位置にある柱がある。普通に考えると同じ位置にあるはずの、方丈のD柱と御殿のE柱、そして方丈のS柱と御殿のT柱である。
 方丈では、D柱はC柱から1間、F柱から1.5間の位置に立っている。ところが、御殿ではこれに相当するE柱が、C柱から1.25間、F柱からも1.25間の位置にある。すなわちCとFのちょうど中間にある。
 御殿のT柱についても、方丈ではR柱方向に御殿よりも0.25間(約50センチ)ずれて、Sの位置に立っている。
 つまり方丈のDとSの2本の柱は、御殿の設計図のそれぞれEとTの位置から次の間の方向へ0.25間ずれて立っているのだ。

 ええい、めんどうだ、ゴチャゴチャ言うより、インタネットの強みでgif animationにしてお見せする。一目瞭然、赤矢印の2本の柱が、移築で左にずれたことがお分かる。

 これはどういうことだろうか。移築のあたって、なにかの理由で0.25間だけC柱側、R柱側に寄せたのか。どんな理由だろうか。
 あるいは、御殿が設計変更してこうなったのか。
 例えば、この御殿の主となる八百姫は当時20歳、その前に居た寛文度造営の姫宮御殿が焼けて、新しく建てなおすのだから、当事者としてなにか注文つけたかもしれない。
 『前の御殿は畳の線と柱の位置がずれていて、なんだか気持ちわるかったのよ、今度はちゃんとしてたもれ、のお主水よ』。主水とは、作事奉行の中井主水である。

 いやいや、移築してきたのは実は御殿じゃなくて別の建物だったかもしれないとの、疑惑も湧き出るだろうなあ。
 では現地で見ればなにか分るかもしれない。そこで現地実測調査(1960年)の時の観察や写真が役に立ってくる。
 思い出せばあの夏、研究チームは京都の旅館に泊まって、毎日あちこちのお寺に出かけて、御所から移築されたという建物を実測したものだった。祇園祭の山鉾行列もその時初めて見たなあ、見物客の中に美少女がいたなあ、寺で昼寝したなあ、ああ青春の夏のこと、なんて感傷に浸っていては謎解きが進まない。閑話休題。

 部屋の中の写真をみよう。
法然院方丈上之間襖絵 (撮影:平井聖氏 1960年)
これは実測調査したときに撮った方丈の上の間で、右が床と違い棚があり、左の方には次の間がある。
 正面に見えるのは狩野光信作とされる「桐の図」の襖絵である。
 写真の上下に記入したローマ字は、平面図の柱記号であり、各柱はこの位置にあたる。つまり、御殿ではEの位置にあった柱が、方丈ではDの位置にあるのだ。

 ここで襖絵にご注意を!、襖絵のEにあたる位置に、縦に線が入っており、その右と左とでは、なんだか絵の濃さも調子も違うことに気が付くのだ。右の襖にも何本かの縦線が見えるが、なかでも一番左の線が目立つ。
 襖絵は最初に描いたときからこうだったのか。これは何かを物語っているぞ、謎解きの楽しみが始まったぞ。(つづく)


2015/02/12

1056【京の名刹重文襖絵の謎】(2)天皇のお姫様の御殿を探して江戸初期の御所に分け入る

 【京の名刹重文襖絵の謎】(1)から続き 

 さて、法然院の方丈について登場する人物、建物、襖絵についての謎を、どうかんがえようか。
 ここからは建築史を勉強している(正確には、いた)わたしの研究論文によって話を進める。と偉そうにいっても、実は研究室の教授、助手、先輩たちの手とり足とり指導の結果であるし、ここに書くための素人にわか勉強もあることも白状しておく。
       法然院方丈 (平井聖氏撮影1960年
天皇家のお姫様なんて、江戸時代はどこに住んでたのかなあ。公家住宅の歴史を研究しているのだから、皇女の御殿のありかを探ることから始める。
 後西天皇(1638~85年、在位1654~63年)には、わかっているだけで第16皇女、第10皇子までもいたそうだ。女御との間には1男1女、その女御から1654年に生まれた第一皇女は八百姫と言い、誠子内親王とも清浄観院宮ともよばれた。1686年に没した。この八百姫というお姫様に狙いをつけよう。
 法然院方丈の前身が、後西天皇の皇女八百姫の御殿なら、どんなに早くても、彼女が生れた1654年以後に建ったはずで、法然院サイトにある1595年は無理である。

 そしてその御殿が法然院に移築されたとすれば、当然のことながら、それが不要になったからだろう。つまり、いつか分からないが八百姫が御所から出ていったか、あるいは1686年に没した以後のことだろう。
 後西天皇が退位した1653年に八百姫はまだ9歳だから、その御殿は天皇の住む内裏のなかではなくて、退位後に上皇となって住む仙洞御所にあっただろう。その後西院御所の中を探そう。

 後西院御所は、退位の1663年に内裏の南側に建てられた(寛永度造営)。しかし10年後の1673年に焼失した。またすぐに1675年に再建され(延宝度造営)たが、その10年後の1685年に後西院が没した。
 そしてこの延宝度の後西院御所は取り壊され、各所寺院に移築されたことが各寺伝や学者によって既に分かっている。例えば京都山科の勧修寺とか、さらにそこから移築された伏見の大善寺などである。
 このときに八百姫の御殿も法然院に移築したと推測して、その延宝度後西院御所の中に、八百姫の御殿があるかどうか探すことにする。

 宮内庁書陵部には、当時の何回も建て替えられた御所の設計図を数多く所蔵している。そのなかに後西院御所の延宝度の図面(指図、1674年)もある。
 皇女の御殿は「姫宮御殿」と指図には記されるので、それをこの図の中に探すと、あった。
 姫宮の名は書いてないが、女御御殿に接しているので、内親王のうちで女御の唯一の娘である八百姫の御殿と考えてよいだろう。

 その平面図をコピーしたものがこれである。元の図は1間を4分に縮尺(1/150)して書いている。木造建築だから基本は1間(6尺5寸、約2m)をベースにしているから規模は分かる。

 実は八百姫はこの御殿で没していたことが分かった。古図の中に「女御御殿方取抜」と註をつけたもの(「新院御所 院女御御指図)があり、薨去の後に女御御殿が姫宮御殿も含めて取り壊されたことを示している。
 その時期は分からないが、薨去の1686年からそう遠くない時期であるだろうし、それが法然院へ移築されたなら、法然院の公式サイトにある1687年が符合する。

 頭がこんがらかってきたので、年代順に整理する。
1595年 後西天皇の皇女の御殿が建った(法然院サイト)
1608年 狩野光信没
1638年 後西天皇誕生
1654年 後西天皇即位、第1皇女の八百姫誕生
1663年 後西天皇退位して後西院上皇、後西院御所を造営して姫宮御所も建設
1673年 後西院御所が焼失
1675年 後西院御所を再建して姫宮御所も建設
1685年 後西院上皇没
1686年 八百姫没
1687年 後西天皇の皇女の御殿を法然院に移築して方丈にした(法然院サイト)

 この姫宮御殿が法然院の方丈に移築されたのなら、平面的に類似しているに違いない。法然院方丈の現況平面図はこれである。これは1960年夏の実測調査をもとに、わたしがトレーシングペーパーに鉛筆で描いた懐かしい図面である。
 部屋にはすべて畳が敷いてあるから、広さの見当がつくだろう。周りはぐるりと縁側が巡っている。上の間には床の間と違い棚があり、ここと次の間には狩野光信の襖絵と障壁画がある。

 さてこの二つの図のどこが類似しているか。
 ねらいはどちらの図面でも、最も中心的な部屋のあたりの間取りである。中心的とは床の間があり違い棚があり、襖や壁に絵が描かれているあたりだ。移築の時に必要な間取りに変えることは多いが、格式を重んずる部屋のあたりは移築の時もあまり変えないで建てるものである。
 よーく睨んで、それを読み解く作業をこれからやるのだ。(つづく)




2015/02/11

1055【京の名刹重文襖絵の謎】(1)名刹「法然院」公式サイトの方丈に関する紹介文がなんだか不自然だ

 京都の鹿ケ谷に「法然院」という由緒あるお寺がある。美しい風景の寺だ。
その方丈は、江戸時代の初め頃、天皇の姫君の御殿を移築したものと伝えられる。
 そこには狩野光信が描いた襖絵があることで有名である。その絵は今では国指定の重要文化財になっている。
 
 昔は、いまのように家を建て替える時には壊してゴミにするのではなくて、どこかに移築して再利用するのが当たり前であった。木造建築はそうすることが普通にできるのである。
 特に京都では天皇や貴族の御殿のような格式のある建物は、寺院や神社などが下賜してもらって、そんじょそこらの建物じゃないよ、御所の建物だったんだよって、権威の箔をつけたのだった。
 あちこちにそのような言い伝えや文書がある建物がある。中には偽物もある。

 法然院の方丈のことは、法然院の公式サイト歴史のページにこう書いてある。

「1687年(貞亨4)に、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)を移建したものである。狩野光信筆の襖絵(重文・桃山時代)と堂本印象筆の襖絵(1971年作)が納められている」

 つまり法然院では、16世紀末に建てた後西天皇のお姫様の御殿を、17世紀の終わり近くに貰い受けて、この方丈にしたというのである。
 この記述は不自然なところがある。後西天皇1638年生まれだから、皇女の御殿ができたとする1595年にはこの世にまだいない。もちろん、皇女もいないはずだ。居ない皇女の御殿とは?
 ではこの古屋敷を、後に皇女の御殿に転用したのだろうか。まさか天皇の娘が古家に住むなんて、そんなことはありえない。

 では、もう一人の登場人物の狩野光信はどうか、光信は1608年に没しているから、その建物が建ったという16世紀末には活躍していた。その建物の襖絵を描いたとすれば、そこはタイミングとしては筋が通る。
 しかし、御殿の建物(法然院方丈)を天皇と皇女の年代17世紀半ばに合わせると、狩野光信が既にこの世に存在しないことになる。襖絵は生れないことになるなあ。
 この方丈には重要文化財となっている狩野光信の襖絵があるのだから、彼が居なくては困る。しかし一方、皇女の御殿を下賜してもらったという格式も大切である。これは困った。あちら立てればこちらが立たずである。
 京の名刹に大きな謎が生れた。

 これが「京の名刹重文襖絵の謎」物語の始まりである。わたしはこの謎解きに挑もうとしているのだ。
 と言っても、わたしは襖絵の専門家ではない。だが、実をいえば半世紀あまりも昔に、わたしはこの方丈の建築の調査をして、それを大学卒業研究論文(の一部)にして、なんとか卒業できたのだ。

 ただいま終活身辺整理中で、その卒論「遺構による近世公家住宅の研究」(なんとまあ、ごたいそうな題名だこと!)を引っ張り出して、ホコリを払いつつ処分を思案しているところだ。
 でもせっかくだから、その論文で試みた謎解きを、ここで紹介しておきたくなった。未練があるのだなあ。
 もちろん論文のままでは無味乾燥なので、多少は面白おかしく脚色を加えるのである。

 この続きは、明日のお楽しみ。(つづく)

2015/02/04

1054中学生の時に作ったクラス文集が出てきて読んで不思議な気分の私がいる

 昔々に自分が書いた文章のある冊子を、ふたつ発掘した。これも終活の一環である。
 ひとつは、55年ぶりにみる大学卒業研究論文であり、もうひとつは64年ぶりにみる中学校クラス文集である。
 懐かしいと思わなくもないが、中身を読むとなんとも不思議な感じで、その中にある文章の書き手のわたしは、いまここにいるわたしと同じ人間とは思えないのである。とくに大学の卒研のほうにその傾向が強い。

 まずは中学校のクラス文集のことである。こちらの方を、大学論文よりもむしろよく覚えているのが、おかしい。
 昭和27年(1952年)12月24日発行、編集人は高梁中学校3年5組新聞部とあり、66ページのホッチキス止め、手書きガリ版刷りの冊子である。
 冊子の名前は『鳩舎』である。
 記憶にはあるのだが、あれからなんども引っ越しをしたのに、まさか自分の家の本棚から出てくるとは思わなかった。

 ひょっこりと本棚の奥から出てきたのは、たぶん、家を出たときから持っていたのではなく、10数年前に亡くなった母の遺品の中にあったのを見つけて、そのときから持っていたのだろう。
 卒業写真アルバム、卒業証書、学業成績表も一緒にあるから、母が保管していたいたにちがいない。
 
 アルバムを見るとそのクラスの人数は51人、担任教師の小野八重子先生は、たぶん新卒で初めての赴任だったような気がする。一学年が5クラスあったから、それなりに大勢の中学校だったことになる。
 その頃は「新制中学」といっていたものだ。戦後の学制改革で、それまであった中学校は新制の高等学校になり、新制度の中学校が生れたばかりの頃の中学生だった。
 街にはこの新制中学校と旧中学校から変わった新制高校の両方があったから、その頃の大人は用事で中学校へ行くとて旧制中学校だった高校へ行って、そこで初めて間違いに気が付くことをよくやっていたものだった。

 旧制中学が移行した新制の高校と違って新制中学は新設だったから、1年生の時は校舎の建設が間に合わなくて、小学校に間借りをしていた。
 新校舎ができても教室数が足りなくて、大学の様に教科ごとに教室を生徒が移動したのだった。まだ戦後のドサクサ時代だった。今では、この場所に中学校はなくて、他に引っ越したようだ。
 この3年5組の小野先生は、生徒たちからおおいに慕われた人だった。まだご健在なので、いまでも訪ねて行く当時の生徒がいるほどである。わたしもこの先生には憧れたものだ。

 文集『鳩舎』は、小野先生の情操教育の賜物のひとつだろう。そういえば「山びこ学校」は、あのころのことだったから、先生もそれを意識していたのだろうか。
 15歳の少年少女たちの、文章が盛りだくさん載っている。小説もあれば詩もあり論文もあり、日記もある。幼い物言いもあれば、ヘンに気負っているやつもある。
 わたしは、この冊子を作る時の担当の一人だったので、よく覚えている。男女仲間7人で、ガリ切りから印刷製本までやった。最後の時は徹夜もやったと、あとがきに書いてある。そうだったような覚えもあるような気がする。
 
 わたしが書いた2編の「随想」が載っているので、ここに転載する。

「あまのじゃく」
 僕は普通よりも違ったことを考えるのが好きだ。また逆の事を考えることも。右と言えば左と、左と言えば右、たてといえば横、上といえば下と全く逆に考えてみることも楽しいものだ。又、普通のことを肯定して今度はその一歩上のことを考えるのも楽しい。この考えることは大きな価値があると思う。異なる事を考えるということは進歩をもたらすことになろう。このことにより何んらかの新らしい道を発見できることもあると思う。しかし、いたずらに考えるだけではならない。

「瞬間」
 僕はある一瞬をたっとぶ。時計の振り子の止まる時、一枚残った柿の葉が落ちる瞬間、勿論、自然にである。めったにその瞬間は見つけだせない。又それだからこそ尊ぶ。知っていてもとらえにくい時だ。化学実験など瞬間をみなければならない時がある。そのような時はなおさら瞬間に価値がある。
 ・生はこの永遠の間に於ける一瞬時なり――――カーライル

 常識的なことを、いかにも気取って書いているのがおかしい。最後の警句なんぞ、どこから取ってきたのだろうか。
 ところでこの文集は第1号とあるので、その後に第2号をつくったのだろうか。記憶がない。
 なんにしても、遠い遠い日となってしまった。こうやって、昔々を懐かしむようになっては、おれもおしまいだよなあ。

追記20150205)これを読んだ当時の仲間のひとりから連絡をもらった。『鳩舎第2号』は出されているとのことであった。次の年の4月4日発行で、中学校卒業記念文集になっているとのこと。

追記 20250512) 2018年に同期卒業生たちが語らって、65年後の宿題提出として「鳩舎第三号2018卒寿傘寿記念号を発行した。


2015/01/30

1053泉岳寺あたりは300年の眠りを覚ます赤穂浪士たちの怨念が地上に出現かも

 武林唯七、大高源吾、赤垣源蔵、堀部安兵衛、神崎与五郎、、、なんだか懐かしい名前である。虚実とりまぜて伝わる史実の人たちである。
 そう、今、わたしは、300年前の元禄赤穂浪士事件、今風に言えば集団テロ事件の確信犯人たちの墓所の泉岳寺にきている。あ、そうだ、もっと今風に言えば、「AKG47」か、、。
18世紀初頭のテロ事件犯人・赤穂浪士たちの墓所
中学生の頃、生家にあった分厚い講談全集(全12巻。大日本雄弁会講談社発行。1928~29年)を読みふけった。そのなかの赤穂義士銘々伝と赤穂義士外伝に登場する人物たちの墓が建ち並んでいる。
 そそっかしい武林が主君の頭をカミソリでたたくとか、吉良邸討ち入り前日に両国橋の上で俳人其角と出会う大高、兄の羽織を前に酒を飲む赤垣、敵討ちで大活躍の堀部、箱根山で馬方にバカにされる神崎等、しょうもないことを覚えているものだ。
 
 泉岳寺駅近くで会合があり、ひょいと思いついて赤穂浪士の墓があることで有名な泉岳寺に立ち寄ってみた。ここに来るのは初めてではないはずだが、すっかり忘れていた。
 駅から行く途中でなんだか妙なビルが眼についたので、さっそくパチリ、どっちも西洋クラシック様式の真似事デザインが、なんとも違和感がある。どちらも新興宗教関係だろうか。
企業のビルらしいが、、

瓦屋根の伝統的な仏教寺院のとなりは白亜の新興宗教ビル
 さて目当ての泉岳寺の正面近くから眺めると、寺の背後には2本の超高層ビルが建っている。
ふむ、さすがに東京である。先ほどの異形のふたつのビルと言い、この風景と言い、なんでもありの東京である。
 おや、泉岳寺の門(ネットで調べたら「中門」というらしい)の前には、「建設反対」と大書した幟や立て看板が立ち並んでいる。寺にしてはなんとも生臭い違和感を漂わせている。そうか、あの超高層建築に反対をしているだろう。
 まさか、泉岳寺の敷地の容積率を使って、あの超高層が建っているのではあるまいなあ。
泉岳寺中門の向こうの境内の上にそびえるタワービル
中門をくぐると境内だろうが、そこに立ち並ぶ土産物屋の店先にも幟旗が建ち並び、「景観破壊反対」と大書してある。
 そうだよなあ、あの向こうにある山門の上に乗っかって立つ超高層建築と、その横の高層建築(大学らしい)も、寺の風景としては邪魔なことはよく分るよなあ。
中門を入って山門までの間の境内に立ち並ぶ土産物屋の街並み風景
でもねえ、中門のなかで山門までの境内地風景としては、この街並みの姿は違和感があるなあ、土産物屋さんの建物の景観も何とかしたらどうですか。
 などと思いながら山門の手前で振り返る。
 山門から中門方面を見れば、先ほどの土産物屋の街並みも、向こうのビル群も、まあ、よくある猥雑な町場の門前町の風景である。もう少し賑わいがあってもよさそうにも思う。
山門から中門の方を振り返ってみる土産物屋の街並み風景
さて、山門をくぐる、のではなくて、くぐることは禁止なので横をすり抜けて入る。
 ふむ、本堂の背後のビルが邪魔である。景観破壊である。
 でも、このあたりは市街化が著しいのに、けっこう空が広いのは、さすがに泉岳寺は広大な境内地をもっているらしい。
山門から本堂を見ると背後の超高層ビルがスカイラインを乱す

 赤穂浪士たちの墓所に寄ってみることした。途中に「首洗い井戸」とて、テロ事件に由緒あるらしい物騒な立札がある。案の定、本所から持ってきた吉良上野介の首を洗ったのだと書いてある。
 わたしの興味をひいたのは、その井戸を囲む石の玉垣に「川上音二郎建之」と刻んであることだ。あのオッペケペー節の川上も、忠臣蔵の出し物が当ったことがあるのだろうか。

 墓所にやってきての感慨は、最初に書いた通り、わたしの少年時を思い出したことである。その思い出を通じて歴史上の人との交感のようなものはあるが、墓石には興味がまったくないから、手をあわせもしない。
 18世紀初頭の集団テロ事件の犯人たちも、いまでは時代劇の中のヒーロー群となって、こうやって明るい高台から街を眺めている。

 「赤穂義士記念館」なる建物の前の掲示板に、「8階建てマンション建設反対」と合成写真がある。
 あれ、いま建っているあの超高層ビルのことではないのかと見れば、入口門の横にこれから建つ高層ビルのことらしい。そういえば、工事をしていたなあ、あれのことか。
 皮肉なことに、現在の景観を壊している背後の超高層ビルのひとつの目隠しに役だっているが、これはこれでうっとおしいことである。
 この場所には、以前には4階建てのビルが建っていたらしい(注:読者より指摘あり、正しくは3階建てとのこと)

 泉岳寺はいまや後門の狼風景と前門の虎景観に攻められているらしい。そればかりか、門内においてさえも、あの土産物屋の街並み景観をナントかしなければなるまいなあ。
 そして門外のおどろおどろしいあの宗教?建築の風景も、もう、なんともならないことだろうなあ。
 泉岳寺あたりは、いま300年を経て、あの墓所に埋められた切腹テロ男たちの怨念が、今やビルの形になって地上に湧きだして来つつあるのか、怖いよなあ、、なんて。


2015/01/26

1052【横浜都計審傍聴③】この住宅過剰時代に公有地を使って大規模開発をする意義はどこに?

横浜都計審傍聴②】からの続き

・花月園競輪場跡地の住宅計画地に入る
 横浜都計審で原案通りに承認になった花月園等の地区計画の中身を、ほとんど理解できないので、現地を見ればわかるだろうとやって来ている。
 線路際の社宅跡地を観たので、次は右からまわりこんで、花月園競輪場跡地を見ることにする。
 
都計審に出てきた地区計画の都市計画の全体像を示す資料は、これだけ
住宅街区ごとの建築髙さ制限 
C地区は戸建て住宅、そのほかは共同住宅ビルらしい
現況空中写真 google earth

昔からのアプローチであった道路をダラダラと登ると、道は西向きに曲がり、スリバチ状の地形の中に入っていく。
 右のスリバチ南斜面地には、びっしりと住宅が立ち並んでいる。一戸建ても共同住宅の入り混じっていて、冬日に照らされて明るい。
 地形はこんな様子。
地形高低差状況(都計審資料)
元花月園競輪場のアプローチ道路から入口方向
駐車場と尾根上の競技場跡

・ここは歴史的に遊山の地だったがついに途絶える
 一方、スリバチ左手の北斜面地は暗い。アプローチ道路沿いには斜面緑地が石垣の上にあり、sそこに花月園の由緒を書いたパネルがあった。
 ここには戦前はかなり有名な遊園地であり、その名を花月園と言った。戦後に閉園してその跡地に開設した競輪場も、その名を受け継いだのだそうである。
 まあ、遊園地も競輪も遊びの場には違いないが、戦前は子供や家族向け、戦後は大人向けとなるところが面白い。

 その遊園地になる更に前には、ここは東福寺の境内地だったそうだから、信仰の場であった。
 昔から寺社参詣はまた物見遊山でもあるのだから、伝統は引き続いていたといえるが、ついに現代のここにきてその伝統は途絶えることになったと言えよう。
 いや、半分が新たに公園になるらしいから、遊山の場の伝統は継続すると言えるか。もっとも防災公園とか広域避難場所という目的がつくと、遊山もせちがらい現代になったと思う。

・現況の道路や地形は活用しないで大造成するらしい
 さて、競輪場跡地に入ると、まず広い駐車場跡地の平地がある。この駐車場の平地部分は戦前の花月園遊園地時代から広場だったようだが、尾根の裾を大きくえぐりこんで造成したらしい。
 駐車場の周りの斜面地には桜の木が立ち並び、向うの木立の上に尾根上の平地にある競輪場だった巨大な建物が姿を見せている。

 競技場の尾根上から続く左には、JFE社宅の裏山の裏側が見えていて、その斜面に沿って尾根上部に登る道がついている。
 こちら側の斜面地は、ほとんど人工的な緑地であるという特徴がある。これは多分、遊園地時代も競輪場時代も来客を楽しませる風景を見せる場であった名残ということだろう。

駐車場入り口から競輪場跡のパノラマ 地区計画の道路の引き方を見ると、
見えている尾根は切り崩されて、こちらと同じ平地になるのかもしれない
 地区計画では、このあたりが新たな住宅地になるゾーニングをされている。共同住宅ビルが立ち並ぶらしい。
 地区計画の図面を見ると、この駐車場入り口あたりから、緩やかなカーブながらも、ほとんどまっすぐに尾根の上に登る新設道路をつけている。駐車場面よりも道路が高く上がっていくから、たぶんそれに合わせて盛り土をして宅地造成をするのだろう。

いや、そうではなくて、尾根上には登らないで、ほぼ水平に突き抜けるのかもしれない。そうなると尾根を15mほども切り崩すことになる。つまり、今見えるおねはなくなって、その向こうの線路のほとり、あるいは山向うの住宅地まで、ず~っと平らな土地ができるのかもしれない。それはすごいことだ。
 どちらにせよ、イメージが湧かなくて、どうもよくわからない。
 新設道路は現在の地形の高低差や土地利用には無関係に引いてあるので、地形を見るだけでは頭が混乱するばかりである。
現況写真の上に地区計画による道路と緑地などを書きいれてみた
左右の端っこの「樹林地・草地等」指定地のほかは切り崩して造成するらしい

どうやら、現在ある尾根上に登る現道を活かして使うとか、現在の土地の造成レベルを活かすとか、そういうことはしないらしい。現在の地形や現在の植生に大幅に手を加え、大規模に土を動かす宅地造成をして、新たな平地をつくりだすようだ。
 それがいいとか悪いとか言っているのではなくて、ようするに地区計画を決めたのに、それが分らないのが気持ちが悪いのである。でも、都計審の委員の方々は分ったのだろう。

・結局現地を見ても具体的な市街地像は分からない
 地区計画の緑地指定の図を見ると、現存の緑地がこれだけ多いのに、林地・草地等(都市計画法第12条の5第7項3号)という保全緑地指定の区域はごく狭い。
 現存緑地とは関係ない新緑地の指定、あるいは現存斜面緑地を保全緑地ではなくて単なる緑地指定するなどしているのは、現存緑地の土地の造成を行うからであろうか。造成後にその指定位置に芝生緑地をつくるのでも、緑地には違いない。

 こうなると現在の標高20m近辺の下段の平地と、標高35m近辺の上段の平地という現在とは無関係な造成地が出現し、そこに共同住宅がたち並ぶのだろう。
 住宅戸数は、全部で約700戸だそうだから、JFE社宅跡地にその半分が建つとしても、こちらの谷間にも沢山の棟がたち並ぶだろう。

 そもそも地区計画は、「街区単位でのきめ細かかな市街地像の実現していく制度」(都市計画運用指針)であるが、ここではそれがどのような市街地像なのか、わたしの頭では想像できないのが、ちょっと情けなかった。
 わたしもボケたものである。現地を見ないでも、この資料だけでも判断できる、都計審の委員の方々の能力に敬服するばかりである。

・この住宅過剰時代にどのような新住宅地をつくろとするのか
 ところで、今は空き家の激増が問題になっている人口減少y時代に突入しているのに、ここにこのような大規模造成工事をしてまで、新たに住宅供給をする意義はどこにあるのだろうか。
 民有地のところにまたまた大規模マンション開発も、おかしいと思う。区分所有型の大規模共同住宅に持つ根本的な問題もあるのだ。わたしは「名ばかりマンション」と言っている。
 そして公有地である県有地への住宅建設である。県有地を半分は災害時にも備える地区公園にするのは分かるとして、新たに住宅地開発をするのがよく分らない。

 県有地が結局は民間住宅デベロッパーにわたって、ここにも(名ばかり)マンションが建つとしたら、政策的に明らかにおかしいと思う。
 URが開発事業者になるのだから、作るなら賃貸住宅にするべきである。それは災害時に避難する住宅にもなりうる。
 周辺はミニ開発の斜面地住宅が多いから、大規模地震時は問題が大きい。それらの住み替え対応の住宅も必要だろうが、そのようなことを考えているのだろうか。

 ここは神奈川県の公有地なのだから、その跡地開発を民間デベロッパーに売り渡して、名ばかりマンションを建てればよいのではない。
 住宅過剰時代に住宅を建てるとしてら、これからの社会を考えた政策的な住宅供給をするべきだが、事業者も公的機関の都市再生機構なのに、それがどうも見えてこないのが、気になる。
 都市計画審議会では、そのようなことも質疑してほしかったが、委員はご存じらしく、何も出なかった。

 尾根上の競輪場跡には立ち入り禁止なので、下から眺めるだけで退散。
 次は花月園敷地の周りをぐるりとまわってみよう。なんだかすごい斜面地にミニ開発住宅地が連なっているようで、それはそれで面白そうだ。  (つづく)
 
参照
1051【横浜都計審傍聴②】JFE社宅跡地には超幅広超高層のものすごい壁状建築が出現するのだろうか
http://datey.blogspot.jp/2015/01/1051.html
1050【横浜都計審傍聴①】地区計画議案の公的大規模開発の内容がさっぱり分らない
http://datey.blogspot.com/2015/01/1050.html

●都市計画審議会を改革せよ
https://sites.google.com/site/machimorig0/#tokeisin

2015/01/23

1051【横浜都計審傍聴②】JFE社宅跡地には超幅広超高層のものすごい壁状建築が出現するのだろうか

横浜都計審傍聴①からのつづき)

・今では残り少ない海岸段丘斜面緑地がある
 花月園競輪場とJFE社宅跡開発に関する地区計画議案が出された現場を見に来ている。委員さえも見ないのに、委員でもないのに、われながら物好きでご苦労なことであるが、専門知識を生かした趣味だと思えば安上がりだし、歩き回って健康にもよろしい。

京急の花月園前駅から跨線橋を西にわたると、目の前が対象地区であり、幅広く高い緑地が広がっている。海岸段丘の斜面緑地である。その緑地の左右は斜面住宅地に開発されて、ここだけが緑が豊かである。
 近寄ればこの緑の崖地と線路の間には、横に長い駐車場がある。ここがかつてJFEの社宅が建っていた土地であるようだ。後ろの山の上にも社宅が建っていたのだが、どちらも今はなくて、大きく横に長い緑の丘が建っている。
京急花月園前駅から見る計画地の斜面緑地
駐車場になっているJFE社宅跡地と背後の斜面緑地
・斜面緑地を覆い隠す共同住宅ビルの壁が建つらしい
 当然にここには共同住宅、いわゆる(名ばかり)マンションが建つ予定なのだろう。まさに南東に開けた日当たりのよい住宅開発に格好の土地である。崖地の上にも跡地はある。
 後からネット調べると、この跡地をJFEから大和ハウス工業、三信住建、京浜急行電鉄の3社が買い取ったそうである。ということは、この3社が共同してこの緑の斜面の前に、壁の様な共同住宅ビルを建てて分譲するつもりにちがいない。崖の上にも建てるだろう。

 でも、都計審では建築の姿が分る絵らしいものは一切出て来なかったから、どんな姿になるのかわからない。
 横浜市の都市計画サイトに、この件の地元説明会資料が掲載されており、その中にまさにここに建つ建築の立面図があった。
 う~む、予想通りとはいえ、まさに緑の前に立ちはだかる壁である。まあ、かつては社宅のビルが壁だったのだから、その復元であるとは言える。
地元説明会資料にあるJFE社宅跡地の共同住宅計画図:背後の緑はすっかり隠れる
下の図は地区計画説明図;濃い緑部分が斜面緑地の地区施設「緑地」指定範囲
かつてこのようにJFE社宅が建っていた(20041231google eaeth)
人情としては、社宅ビルがなくなって、せっかく見えるようになった斜面緑地だから、これからも見せてほしいが、事業者としてはそうもいかないのだろう。
 でも、せっかく新たに建てるんだったら、こんな壁建築よりも、むしろ細身の超高層建築にしてくれると、緑の斜面がそれなりに見えるのに、惜しいと思う。もっとも、わたしは超高層共同住宅ビル(いわゆる超高層マンション)を、大嫌いである。

・JFE社宅跡地の建築意匠の規制は細かいけれどやっぱり巨大な壁らしい
 そこで地区計画の中身に戻って、この社宅跡地にどのような建築を建てることを地区整備計画で規定し、斜面緑地をどう扱うとしているのか読んでみる。
 この斜面緑地前の土地の現在の高さ制限は、高度地区として20m以下になっているが、今度の地区計画の「建築物等の意匠の制限」で、北東から3つに分けて、それぞれ20m、45m、31mに過半部を緩和している。
地区整備計画の建築の高さ規制説明図
地区整備計画の建築物の意匠の制限説明図
 それに加えて、建物幅を70m以下ごとに、また壁面900㎡ごとに分節して前後にずらせるとか、細かいことも記述してある。
ようするに馬鹿でかい一枚の壁にするなということらしい。それはよいのだが、それを踏まえた姿が上の絵であるのがどうにも解せない。
 これって、どう見ても壁ですよね。斜面緑地の高さは30m位だからこれなら全部隠れる。まあ、2棟の隙間から見えると言えば、まあ、見えるけどね、壁に違いないでしょ。

 壁と言われたくないなら、そうは見えないという透視図でも見せてほしい。
 もともと壁の社宅があったのを壊して復元するんだから文句言うな、と言われるとそれまでだが、それなら、もとの高さ規制の20m以下にすることですな。

 更にもっと気になる、わからないことがある。この斜面緑地の上にも広い社宅跡地があるから、そこにも多分共同住宅ビルが建つに違いない。
 ということは、この下の敷地の壁の上に、更に重ねて壁が重なって見えることになるのだろう。その崖上の土地も高さ制限を20mから31mに緩和したから、なんだかすごい2段構えの壁ができるのか。
 そういうことの結果の姿を示す絵は、どこにも見当たらないが、どうもすごい景観になりそうな気がするが、どうなんだろう。
崖上JFE社宅跡地にも共同住宅ビルが建つなら、
崖下の敷地のビルと合わせてこんな立面になるのかもしれない
・斜面緑地の現存植生保全はしなくても良いらしい 
 もうひとつ気になるのは、斜面緑地の扱いである。地区計画にはこの部分を地区施設の「緑地」として指定している。
 「緑地」ということは、この斜面の植生を保全するのかと思ったら、保全する緑地は「樹林地、草地等」という地区施設に指定して、緑地とは別にしているのである。緑地には現存植生の保全義務を書いてない。
 ということは、緑地は現存植生の保全をしなくてもよいから、全部を伐り倒し、あるいは土地を切り崩して、あらためてその指定範囲に芝生を植えても、「緑地」であるのだろう。
JFE社宅跡地の斜面緑地は、植生保全する「樹林地、草地等」ではなくて
保全を前提としない「緑地」指定
 なぜこの既存斜面緑地を「樹林地、草地等」にしなかったのか意図がわからないが、もしかして崖崩れ防止のために、大々的な工事をするのかもしれない。いまどきの土木工事ならこのくらいの崖は簡単に切り崩せるだろう。
そうするのかどうかわからないし、それが良いの悪いのかも分からないが、なにしろ開発後のイメージ図がないから、地区計画図書だけではどうなるのか見当がつかないので、このような妄想を楽しんでいるのだ。
 なお、この緑地は公共施設ではなくて敷地の一部だろうから、容積率の対象になるはずだ。

 とにかく、なにがどうなるかわからないままに都市計画決定するのが、なんとも怖いことである。
 計画地の入り口あたりでとどまったままで、肝心の花月園競輪場跡地にはまだ入っていない。次はそちらに回り込んで、現地を観ながら妄想を続けたい。(つづく

参照:1050【横浜都計審傍聴①】地区計画議案の公的大規模開発の内容がさっぱり分らない
http://datey.blogspot.jp/2015/01/1050.html

●都市計画審議会を改革せよ
https://sites.google.com/site/machimorig0/#tokeisin

1050【横浜都計審傍聴①】地区計画議案の公的大規模開発の内容がさっぱり分らない

 
 どんな街ができるのか、ほとんど分らない地区計画である。説明がナットラン。資料が足りない。
 元プロだったわたしでさえわからないのに、素人委員に分って審議できるのが不思議だった。内容を具体的に理解できない自分を、気持ち悪いとも思う。
 横浜市の都市計画審議会に、いつものように傍聴に行ってきた。今回も、いつものようにイチャモンである。言わなくてもすむ時が来るのかなあ、あ、わたしがボケるときか。

都計審を傍聴してもなんだか分らない地区計画
 鶴見にある花月園競輪場跡地と企業社宅跡地の、広大な共同再開発計画に対応する地区計画案件が議題に出た。10.7haの大規模なのだが、この計画の中身がさっぱりわからない。都市計画の図書の説明ばかりで、肝心の開発事業の中身がほとんど分らないのである。
 このような事業に対応する地区計画は、かなり詳細計画があってこそ議案にできるのに、その中身をほとんど見せないのである。
 しかも、地形が複雑なので、実施計画内容を抽象化して記述する都市計画図書を見るだけでは、ほとんど判断できないことが多々ある。地権者も複数である。

 こういう計画の説明は、模型やCGを使って、整備開発のできあがりイメージを見せ、事業の仕組みの説明がなければ、簡単には判断ができない。ところがそれがほとんどないのであったし、委員からの質疑もなかった。
 わたしは分からないのが癪なので、審議会が終わった足で現地に行ってみてきた。

・現地を見てもなんだよく分らない複雑な地形
 現地を見て頭をひねった。高低差が30m以上もあるようだし、崖地はあるし、谷戸に造成地が入り込んでいるし、周辺にはいくつものミニ開発をつなげたような崖地住宅がびっしりと張り付いている。見て分るのは線路際の長い空き地くらいなものである。
 実のところ、現地を都計審資料と照らし合わせてみても、ここにどのような街ができるのか、さっぱりイメージが湧かなかった。わたしも現場から離れて長年経つと、ボケたのかなあ。
 こういう複雑なところこそ、完成イメージ図とか模型で内容を教えてほしいものだ。
 
グーグルアース画像をもとに地区計画区域を書き入れて作成した
審議会資料のひとつの土地高低を示す図に、標高を数字を書き入れた
審議会資料だけではわからないので、ネットでいろいろと情報を集めた。その点は近ごろは便利なものである。
 この計画に関する住民説明会の資料やら業界情報などを見つけて、おぼろげに分った来た。
 直接的ではないが、もっと面白いのは『大人の自由研究』というサイトにあった花月園の歴史をたどった『花月園-遊園地と競輪場』と題した調査とルポ記事である。この地区の近現代史を知ることができる。開発にあたって地区の歴史に留意するとすれば、事業者はおおいに参考になるだろう。
http://hokarida.web.fc2.com/07_research/033-00.html

・この開発事業の仕組み
 調べて分かったこの開発事業の仕組みを、まず書いておく。審議会ではわからなかったことだ。
 約10.7haの土地を対象とする。その土地所有者は、神奈川県が7.1ha、花月園観光が0.9ha、民間デベロッパー3社共有2.4haとであり、これらをひとつの事業として、地区公園と住宅団地をつくる。
区域図:横浜市都市整備局企画課花月園競輪場跡地等の利活用検討
「住宅市街地整備計画書」より

この開発事業者は、独立行政法人都市再生機構(UR)である。県有地をURがいったん買い取って、ほかの民有地とあわせて造成し、道路や宅地、公園などを整備するらしい。
 できあがった地区公園を横浜市が買い取る。住宅地は、民間会社分の土地はそれぞれが土地を売るのか、住宅を建てて売るのだろう。県有地だったところで住宅地にした土地は、URが住宅を建てる事業者か個人かに売るのだろう。
 つまり、県有地は横浜市の公園となる部分は公共施設となるが、そのほかは民間の住宅地として処分するのある。

・URを使って官民共同の計画にするらしい
 なぜここにURが登場するのか。多分、県有地を売却処分するにあたって、公的機関をトンネルにする方が世間の摩擦が少ないと考えたのだろう。
 公園として買う横浜市としても、土地で買って市の直轄事業で工事するよりも、URにやらせて長期割賦で買い取る方が、財政負担が少しでも楽になると考えたのだろう。
 民間事業者はそこをどう考えたのだろうか。公的事業にからめることで地区計画による規制緩和ねらい、ついでに補助事業(住宅市街地総合整備事業)による若干のメリットなどと、役所仕事に付き合う面倒くささとをはかりにかけて、共同事業を選んだのだろう。
 URとしては、都心部での仕事がなくなりつつある状況下で、この防災公園づくりという仕事の実績がほしかったのだろう。
 と、まあ、これらはわたしの推測である。

・税金をしっかり使う事業だからもっとわかりやすく説明せよ
 なんにしても、遊休公有地の一部を公園にし、残りを民間に売るのである。更に隣の企業の民有地も一緒に国庫補助金も入れて公的事業として整えてやり、規制緩和をしてやるのである。
 公有地の処分に係るし、税金を使う事業なんだから、もっと丁寧に説明をするべきであるし、もっと慎重に審議するべきであると思う。

 これからイチャモンをいくつか連載して、この開発の分らなさを書いていくことにする。
 念のためにいっておくが、わたしはこの開発に反対するものではない。ただ、あまりに分りにくい資料説明で事足れりとした横浜市当局と、それなのにロクに審議もせずに原案承認した審議会の態度が不審なのである。そこでひとことふたこと言いたいのである。

              (横浜都計審傍聴②につづく

●都市計画審議会を改革せよ
https://sites.google.com/site/machimorig0/#tokeisin

2015/01/19

1049琉球の古典芸能の組踊をみて現代の沖縄問題をつい考えてしまった

 琉球王朝の式楽(儀式用の芸能)である組踊(くみおどり、クミゥドゥイ)を観た。
 まだ耳の中に、あの琉球王朝の音楽が、ゆる~く流れており、あでやかな舞台衣装、優雅な動きが眼に残る。

 組踊の創始者の玉城朝薫作の「女物狂」の公演が、横浜能楽堂であった。300年前に創始した朝薫は、日本の江戸幕府の式楽であった能の影響も受けているとされている。
 だが、海を通じての交流拠点の海洋王国の琉球のことだから、大陸やそのほかの民俗芸能の影響も受けていることだろう。

 この公演は、テーマが似ている組踊りと能の組み合わせという企画であった。組踊「女物狂」に対するは、能「桜川」であった。どちらも 思わぬことで子に別れて狂気となって探しにさまよった末に、偶然に出会ってハッピーエンドの物語である。
 もちろん能の桜川の方が先にあったので、女物狂がその影響を受けたのであろうが、似たような話は能にも「隅田川」「三井寺」などがあるし、世界どの地域の民話にもありそうな話である。

 「女物狂」のあらすじは、首里や那覇の町には、子どもを誘拐して山原(やんばる)や国頭(くにがみ)、中頭(なかがみ)の地域に売る人盗人がいた。舞台にはまずその人盗人が登場する。
 そこへ「亀松」が、風車で遊びながら登場、人盗人は人形を見せ歌って気をひきつつ、鎌でおどしてさらっていく。
 途中、共に寺に泊めてもらうが、人盗人が寝入ったすきにに、亀松は住職に助けを求める。住職と小僧たちは工夫して人盗人を追い払って、亀松を救う。
 一方、亀松の母は狂気となって子を探す旅に出る。狂気の母に僧たちが出合い、事情を聴いて亀松の母と分り、引き合わせて親子は感激の対面をして二人で戻っていく。

 それだけのことなのだが、芸能としての見せどころ聴きどころはそれなりにある。
 組踊りと能の比較は面白いが、それは好事家や専門家に任せることにして、この「女物狂」を観て、わたしが妙に気を回したのは、琉球、つまり今の沖縄だが、この「女物狂」を米軍基地問題になぞらえてしまったことだ。

 人さらいにさらわれた亀松こそ、沖縄のアメリカ軍基地である。
 まずは人盗人はU.S.A.だったが、次の寺の僧侶がJAPANに対応するのだろう。亀松基地は僧侶の元にあって、いまだに母の元には戻そうとしていない。
 沖縄は狂気の母となって、先だっての知事選挙でも衆議院選挙でも、亀松を求める心一筋の放浪芸を、見事に演じたのであった。
 だが、現代の母と亀松を隔てるJAPANは、なかなかに手ごわいらしい。組踊の母と子のようなハッピーエンドがあるのだろうか。

 舞台に戻るが、ちょっと困ったのは、琉球語がさっぱりわからないことだ。「女物狂」のストーリーは簡単なものだから、言葉はわからなくても劇の展開は分かるのだが、つい、分らないことにいらいらする心が邪魔であった。
 琉球語もそうだが、能狂言の言葉も、今ではよく分らない。国立能楽堂は、各席にモニター画面があって現代語訳が出てくるし、以前に国立劇場で「執心鐘入」を観たときは、舞台左右に電光掲示板の文字が出ていた。横浜能楽堂も今にそのようなものがつくときがくるだろう。
 沖縄でも、多分、もうこれが分る人はほとんどいないだろう。この次からは、配布資料に配役や解説とともに、現代日本語訳の台本を付けてほしい。

 能「桜川」をはじめて観た。母の苦境を救うために、自ら身を売った子を探し求めて狂いさまよう母親と、その子の偶然の出会いというハッピーエンドの物語は、女物狂いと大差はない。
 見せどころ聴きどころは、桜川のほとりの満開の桜のもとでの、美しい詞章の謡と優雅な舞である。
 「桜川」のシテ大槻文蔵、地謡の梅若玄祥の組み合わせといい、「女物狂」の宮城能鳳と歌三線の西江喜春の組み合わせといい、まことに心豊かな午後であった。

2015年1月17日 横浜能楽堂・伝統組踊保存会提携公演
能の五番 朝薫の五番 第1回「桜川」と「女物狂」

能「桜川」(観世流)
シテ(桜子の母):大槻 文藏
子方(桜子):松山 絢美
ワキ(磯部寺住僧):福王 茂十郎
ワキツレ(茶屋):福王 知登
ワキツレ(人商人):中村 宜成
ワキツレ(従僧):村瀨 慧
ワキツレ(従僧):矢野 昌平
笛:一噌 仙幸
小鼓:曽和 正博
大鼓:柿原 崇志
後見:赤松 禎友  武富 康之
地謡:梅若 玄祥  梅若 紀彰  山崎 正道  小田切 康陽  
    角当 直隆  松山 隆之  川口 晃平    土田 英貴


組踊「女物狂」
人盗人:嘉手苅 林一
亀松:古堅 聖尚
母:宮城 能鳳
座主:眞境名 正憲
小僧1:石川 直也
小僧2:新垣 悟
童子1:古堅 聖也
童子2:宮城 隆海
童子3:大城 千那
歌三線:西江 喜春  照喜名 進  仲嶺 伸吾
箏:宮城 秀子
笛:大湾 清之
胡弓:銘苅 春政
太鼓:宇座 嘉憲

●関連ページ
434横浜で琉球のゆったりとした時間
http://datey.blogspot.jp/2011/06/434.html

860国立能楽堂で能「盛久」(シテ野村四郎)の英語字幕を見てお経の意味がわかった
http://datey.blogspot.jp/2013/11/860.html