2012/10/31

683東京築地市場はいまや観光名所で超高層建築群も迫るから移転したら跡はどうなる

20年ぶりくらいだろうか、築地市場を訪ねた。
市場が目的ではなく、そばの朝日新聞社が経営する浜離宮ホールでの音楽公演に行ったのだが、早く着きすぎたので昼飯を食おうかと行ってみた。
 それにしても、立地からいうと「浜離宮」ホールというよりも「築地市場」ホールのほうが正しいだろうが、それじゃあ文化イメージが違うのか。

  
 以前に来た時と違ったイメージは、場外に観光客がおおぜいいるということである。
 外国人もおおぜい、若い男女や家族連れおおぜいいて、すし屋の前に行列を作って待っている。表に書いてある値段を見ると、安くても1200円で2000円以上が普通、これじゃあ懐具合とともに行列嫌いのわたしは飯を食うところがない。
 いや、なくもないが、蕎麦、ラーメン、丼ではしょうがない。結局は握り飯を買って公園で食った。


 観光客相手のお土産店もあり、はんてんや長靴などにキャラクターの絵を描いた市場グッズを売っているし、グルメ関係の本ばかりの書店もある。
 有名な寿司店らしいところは大混雑であるが、観光客が用のない路地はひっそり。そんなところには、市場に必要な梱包材や刃物、雑貨類の店が並んでいる。
それはそれで面白い新ものがありそうだが、そこまでわたしはマニアではない。
 場外はにぎやかだが、本場のほうは真昼だからすでに閉店していて、ひっそり。朝はどんなにか騒がしいところだろうかと想像しながら、魚臭い路地をあるく。
 
 敷地の外か内かわからないが、二つの神社がある。ひとつは「水神社」、もう一つは「波除稲荷」で、どちらも魚河岸らしい水にまつわる神社である。


 築地市場は豊洲に移転するしないでなんだかごちゃごちゃやってきたが、結局はどうなったのだろうか。もしも移転したら、神社も一緒に行くのだろうか。
 それとも神社は往々にして土地に居ついているものだから、やはりここに残るのだろうか。
 でも、市場関係者が氏子だろうから、ここに残ると氏子がいなくなって維持できなくなるだろうから、一緒に移るのかもしれない。

 市場が移転したら跡地はどうなるのだろうか。浜離宮ホールから市場のほうを眺めると、向こうから超高層建築群が迫ってきている。もちろん、こちらからも迫ってきている。
 さすが東京は開発ポテンシャルがあるから、ここにも似たような超高層建築が立ち並ぶ街になるのだろう。

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伊達美徳=まちもり散人
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2012/10/30

682越後の棚田天日干し新米と地元産野菜のお得なセットはいかがですか?

今年も棚田の新米ができた。今が一番うまい。
 2004年に中越震災復興支援で入って、2006年から耕作放棄田で毎年の米つくり、山村の棚田の米がうまいのは、深い雪が融けて土にしみ込んだ水のせいらしい。
 特に冷めたごはんがうまいので、握り飯が楽しみとなる。
 うまいはず、この棚田のあるところは、魚沼産コシヒカリとブランド名をつけることができる地域の境界から50mほどである。
 その棚田の新米と集落産の野菜を、わたしも出資する現地法人「株式会社 法末天神囃子」が販売中です。
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 越後の天日干し棚田米と地元産野菜のお得なセットです
 小国町の山間地にある法末集落は棚田に囲まれた村です。
 雪解けの湧き水と標高300mの高地が美味しいお米を育てます。
 そのコシヒカリを自然の太陽の恵みの天日で干して、香りと甘味のあるお米に仕上げました。
 黒姫山と米山を望む棚田で育てられたコシヒカリを、暮れのご挨拶にいかがですか。

[セット1] 5,000円(送料込)
 プレミアム棚田米(天日干し)5kg+地元産野菜(1,000円相当) 
[セット2] 3,000円(送料込)
 プレミアム棚田米(天日干し)3kg+地元産野菜(500円相当) 
[セット3] 3,000円(送料込)
 美味棚田米(機械乾燥)5kg+地元産野菜(500円相当) 

●お問合せ・ご注文は下記まで
株式会社 法末天神囃子  販売担当 宮田裕介
電話:0258-95-3125 メールアドレス:miyata@h-tenjin.com
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●参照
法末集落へようこそ
https://sites.google.com/site/hossuey/
株式会社法末天神囃子
http://blog.h-tenjin.com/
https://sites.google.com/site/tenjinbayashi/
法末の四季
http://homepage2.nifty.com/datey/hosse/hosse-index.htm

2012/10/29

681東電売春女性殺害事件から東電福島原発事故核毒拡散人身傷害財産侵犯事件へ

 このところ新聞に騒がしいのは(TVは見ないから知らないが同じだろう)、ネパール人が無実の罪で15年も検察に拘束されたって事件ですね。
 お気の毒でありましたが、わたしの興味はそこじゃあない。

 記事の見出しが「東京電力女性社員殺害事件」と書いてあって、どうやら、東京電力会社の務めていた女性が、渋谷で売春中に殺されたらしいのですな。
 へえ~、「売春婦殺人事件」じゃなくて、被害者の仕事先の東京電力を事件の名称としてわざわざ書いてあるということは、被害者は東京電力会社の仕事として売春をしていたって、そういうことなんでしょうな。
 そうに違いない。
 そうでなければ、いちいち東電、東電と書く理由がわからない。

 毎日毎日、殺人事件が起きてますが、その被害者の勤め先を書いていることは、あんまり見ませんな。
 このところ、尼崎でおおぜいが殺されている事件があるけど、これを書くにあたって死人の勤め先を書いてあるかと見たら、全然ないのは偶然みんな無職だったのかしら。
 もしも、わたしが仕事してた頃に殺されたら、「伊達計画文化研究所男性社長殺害事件」と新聞は書いてくれたのでしょうね、きっと。

 さてあの事件から14年後に、東電は大事件を引き起こしましたな。
 言わずと知れた福島原発事故ですよ。
 だのに新聞は、なぜ「東電核毒事件」、つまり「東電福島原発事故核毒拡散人身傷害財産侵犯事件」と書かないのだろうか。

 渋谷での売春は東電が会社としてやったのだが、福島での原発事故は東電が会社としてやったではないと、日本のジャーナリズムは言っているのでしょうね。
「東電売春殺害事件」なんてアホラシくて新聞見出しだけしか読まないし、TVも見ないからよくわからない。

 だけど、庶民はそう思いますが、どうなんでしょうか?

2012/10/24

680中越山村の美しい風景には柏崎刈羽原発からの死の灰の脅威が潜んでいた

熊五郎 やあ、ご隠居、元気かい。
ご隠居 ああ、熊さん、おまえはいつもうるさいね。
 え、珍しくご機嫌ななめですね。
 熊さんにあたってもしょうがないけど、ちょっと、聞いとくれ。まずこの写真をご覧よ。
 おお、いい景色だなあ、これ見て不機嫌なんて、ご隠居もモウロクしたね。
 そうじゃないよ、これは私がもう7年も通っている新潟県の山村だよ。
 ああ、いつもご自慢の法末集落でしょ。棚田の米がうまい、人情が厚い、四季の風景が美しいってね。
 そうだよ、いまはちょうど新米ができたてて、毎日3食とも美味い飯を食ってて、生きててよかったと思ってるんだよ。
 いいねえ、それなのに何で不機嫌なんです?
 じゃあね、これをご覧よ。

 地図ですかい、なになに、「柏崎刈羽原発事故で放射性物質が拡散した場合に避難すべき量が落下する方位別の原発からの距離」って、なんです、こりゃ?
 今日(2012年10月24日)、原子力規制委員会が日本の各地の原発事故によるシミュレーションを発表したんだけどね、その法末集落が避難するべき位置にあるんだよ。
 この赤い印のところが法末ですか、で、なんで避難するんです?
 それがだな、緑の線があるだろ、風向きのせいで、その線から原発に近い側は「国際的な避難基準である1週間の積算の被ばく量が100ミリシーベルトに達する地点」なんだそうだよ。
 それがどうしたんです?
 早く言えば、そこには核毒の死の灰が死ぬほど降り積もるってんだな。
 ウワッ、ブルブルッ、そうなりゃ美味い米も篤い人情も美しい景色もあったもんじゃない、なにもかも放り出して逃げるに限るってことになっちゃうんだ。
 そうだよ、わたしが通ってる自慢の村がそうなるなんて、不機嫌なわけがわかるだろ。まあ、この写真をご覧よ。
 ウワッ、冬の雪ですね。
 そう、4メートルも積もるんだ、今見えてるのは2階だよ、こうやって出入りするんだ。
 ってことは、もしも冬に原発事故あると、こんなふうに死の灰が積もったのが目に見えるんですね。
 これが毎日降ってくるから毎日雪堀りしなきゃ、閉じ込められて出られなくなるし、家がつぶれるんだな。でも、雪堀りすると死の灰を浴びてしまう、どっちにしても死ぬんだな。
 でも、まあ、明日や明後日にあるわけじゃなし。
 いや、いつ起きるかだれもわからないよ、福島の人たちだってそうだったんだから。
 そうですねえ、こわいこわい、ご隠居、こうなりゃ法末に通うよりも、国会議事堂や首相官邸周辺に通って、原発反対デモするんですね。
 国会デモには7月に一度行ったきりだが、またいかなきゃならないね。
 今度はあたしも連れてってくださいよ。 デモにも法末にも。
 こうやって自分の身近なことになって初めて目が覚めるんもんだね、なさけないけど。

(訂正:2012年10月29日に原子力規制員会が、24日発表の資料の訂正を発表したので、地図を差し替えた。どちらにしても法末は危ない地域である)
参照⇒原子力規制委員会の発表
http://www.nsr.go.jp/committee/kisei/20121024.html

2012/10/21

679東京駅復原出戻り譚(その4)戦災復興東京駅は世の噂のように本当に仮の仕事だったのか

 東京駅の赤レンガ駅舎は、1945年5月に空爆によって炎上して、残ったのはレンガ壁とコンクリートの床だけになった。
 その壁と床を再利用して再建したのが1947年の「復興」東京駅で、2007年まで62年間を姿を見せていたであった。
 1914年の「創建」東京駅が姿を見せていた1945年までは32年間だから、「復興」東京駅のほうが寿命は長かった。
 そして2012年10月、こんどは「復旧」東京駅が姿を現した。創建時の旧の姿に戻ったのだから「復旧」なのである。また新たな東京駅の歴史が始まった。

 ところで、今回の復原というか復元というか復旧というか、その姿を現した東京駅赤レンガ駅舎を、なぜ戦災前の姿にしたかという理由について、世にこんな噂が流れている。
 それは、戦災後の復興東京駅は、金がなくて元の姿に復旧することができなかったので、とりあえず使えるように応急措置として作り、そのあと本格的に建てる予定で、2、3年も保てばよいような全くの仮の仕事の建物であったからだ、というのである。

 まったくの仮のものという人は、敗戦後の焼け野原の東京に累々として出現した、そこらあたりのありあわせの材料を使って造ったバラック建築と同じだと言いたいのだろう。
 ではそのバラック建築であったと言われる「復興東京駅」を、いま姿を現した「復旧東京駅」と、ちょっと比べてみよう。

 一般に良く見えるもっとも大きな違いは、南北二つのドームの外観と内観、そして外壁である。
  南と北のドームについて、復興と復旧両東京駅の風景を比較する。
 まずは外観、これらを見てどれほどの違いがあるか、わかるだろうか。

これは戦後復興東京駅(2004年撮影)

これは今回の復旧東京駅(2012年撮影)

 そう、復旧東京駅は丸頭、復興東京駅は台形頭である。復興東京駅が仮の仕事なら、切妻の3寸勾配のトタン屋根でもよかったろうに、なぜこんなに巨大な台形ドームを造る必要があったのか。

 当時の東京駅復興の工事現場で設計と工事管理のトップとして采配を振るっていた、鉄道省の建築家である松本延太郎(1910~2002)が書いた「東京駅戦災復興工事の思い出」(1991年自費出版)という本がある。
 そこに松本の上司であった建築課長の伊藤滋(1898~1971)が、ドームの根元は8角形、上に行くと4角形になるドームをつくることを指示したことが記されている。高さは戦前のドームと同じである。
 これは決して仮の姿ではない。

 ドームの中の天井デザインを比較してみる。
 これは戦後復興東京駅のドーム天井(2003年撮影)

これは今回復旧東京駅のドーム天井(2012年撮影)

 今あらわれた復旧東京駅のドームは、華やかな西洋宮殿風に見えるが、よく見ると上部では和風建築の折り上げ格天井をモチーフとしていることも分かって、その折衷ぶりが面白い。
 これに対して戦後の復興東京駅の天井は、まるでローマのパンテオンをベースにして、モダンデザインを展開したように見える。
 これは戦争終結で生産が止まった飛行機工場に残った、戦闘機の材料のジュラルミンを成形したのだそうである。

 このデザインは、上記の松本の本によれば、工事現場で設計監理を担当していた鉄道省の建築家たち12人がデザインコンペをして、今村三郎の案が採用されたとある。
 仮の仕事なら真っ平らに天井を張ってもよさそうなものだったのに、この頑張りはいったい何なのだろうか。

 外壁をみよう。戦後の復興東京駅は2階建て、今回の復旧東京駅は3階建てである。
これは戦後復興東京駅(2006年撮影)
 
これは今回の復旧東京駅

 戦後復興の工事のときに、3階の屋根と壁を取り壊して2階建てにしたので、レンガ外壁についている装飾付け柱(ピラスター)も上部をちょん切られて、柱頭部には何も飾りはないはずだが、上の写真をよく見ると、柱頭飾りがある。
 仮の仕事ならちょん切られたままでもよさそうなものを、わざわざ3階にあったと同じ柱頭を付けて、柱には短くなってもバランス良いように膨らみ(エンタシス)もつけ直したそうである。丁寧な左官仕事であった。まったくもってご苦労なことである。

 だが、さすがに裏側(東側)までは手が回らなかったと見えて、こちらはのっぺらぽうの赤ペンキ塗りであった。これならまさに仮の仕事といえる。西側外壁にいかに力を入れたかよくわかる。
         
戦後復興東京駅の東側の風景(1987年撮影)

 ほかにもいろいろとデザインと工事の苦労を書いている。
 日本が疲弊しきっていた当時、鉄道省の仕事だからこそできたのだろうが、鉄道を使って資材を全国から集め、戦争から本来の仕事に戻った鉄道省建築家たちの努力に頭が下がる。
 この本をどう読んでも、そしてできあがった戦災復興東京駅をどう見ても、それは仮の仕事ではなかったと、断言できる。

 JR東日本や建築界の方々は、辰野金吾にばかり目を向けず、鉄道省の伊藤滋(復旧東京駅づくりの音頭をとった同姓同名の都市計画家と混同しないように)や松本延太郎たちにも、しっかりと目を向けてはいかがですか。
 特にJR東日本の建築家の方たちは、ご自分の先輩たちに、もっと敬意を表してはいかがですか。

 わたしは復旧東京駅の出現を怪しからんとか残念に思っているのではなく、新たな歴史が始まったことに興味津々なのである。
 だが、あの復興東京駅への評価が、あれは進駐軍に命令されてやった仮の仕事だ、としてさげすむのが、わたしは気に食わないのである。
 まるで日本国憲法への右のほうからの言い分みたいである。

 さて、復旧東京駅を、これから建築や都市関係専門家たちがどう評価し、社会人文系の専門家たちがどう評価するか、楽しみである。        

●参照
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2012/10/17

678東京駅復原出戻り譚(その3)お供に引き連れて戻ったノッポビルに取りま巻かれて日陰者になったなあ

 わたしが1987~88年に撮った東京駅とその周辺の写真がある。これは国が行った東京駅周辺再開発調査(これで保存が決定)のときの資料だが、今の風景と見比べると実に面白い。
 髷を結い直し、簪を取り揃え、真っ赤に紅の厚化粧で出戻ってきた赤レンガ東京駅は、たくさんのお供を引き連れてのご帰還である。そのお供のどれもが大男(大女?)であるのが、ご自分の背が低いだけに目立つのである。

 まずは東京駅の真正面からの、出戻り前の姿である。

 出戻り前の姿の左端に見える2棟の超高層ビルは、大手町の東海朝日ビルと新日鉄ビルである。中央の屋根の左右に少しだけ黒く見えるのが、八重洲口の大丸百貨店(鉄道会館ビル)である。
 
 それが出戻りしてきた今は、5棟も超高層ビルを従えている。

 これらの中よりの2棟が、赤レンガ駅舎の不利用容積率を移転した八重洲側にあるビルで、まさに連れ戻ったお供である。

 連れ戻ったお供のっぽビルは、丸の内側にもたくさんいるのだ。
 東京駅のホームを越えて丸の内側を眺めよう。
 肝心の赤レンガ東京駅舎は、中央線ホームが高いので屋根しか見えない。

 この写真は、八重洲側の北にあるのっぽビルの下層部に移転した大丸百貨店の12階の便所から撮ったものである。この便所の窓は巨大な一枚ガラスで、小便しながらの眺めが実に宜しい。たいていの便所は裏のほうにあるのに、この便所の設計は素晴らしい。

 で、ご覧のようにこちらにはぞろぞろとノッポお供がいる。このうち赤レンガ東京駅が容積を移転した先は、左端の新東京ビル、その右隣のJPタワー、中央の丸ビルを飛ばしてその右の新丸ビル、このほかにJPタワーの陰にあるパークビル、これらの4棟である。
 だから八重洲側の2棟と合わせて6棟が、赤レンガ東京駅のお供である。

 では、4半世紀前の丸の内側を眺めよう。
 これは1987年10月に、八重洲口にあった大丸百貨店の屋上(10階か11階か忘れた)から撮った。

 東京駅の三角ドームと赤レンガ壁(赤ペンキ)がよく見えるのは、中央線ホームが今のように高くなっていないからである。
 周りはスカイラインが31mでそろっていることがよくわかるが、赤いタワーの東京海上ビルをはしりとして、スカイラインが崩れつつあることもよくわかる。

 これから25年、先の写真のようになったのである。わが身のお化粧代を稼ぐために、わが身を切り売りした結果が、ノッポお供に取り巻かれて、なんだかいつも日陰になってしまった。
  ♪ あれ、なにをいわんすか、あたしゃ日陰者じゃないわいなあ~

 では上空からの眺めを、1997年と2011年の比較をしてみる(google earthより)。
 まず1997年である。

次は2011年である。黄色い矢印が、敷地を超えての容積移転である。特定街区、特例容積率による移転例だが、ほかにもあるかもしれないが、全部は知らない。

八重洲側も大きく変化中である。さてどうなるのだろうか。

●参照→
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2012/10/15

677能「定家」を初めて見て主人公が救われない夢玄能もあるのだと知った

 あれ、シテの式子内親王が蔦に絡まれた墓に戻ろうとしているぞ、あの救いのない墓の中にまた戻るのかい、どうしてだよ~。
 能によくある、なにがなんでも主人公を成仏させてしまう救済が、この能にはないのか、珍しい。

 能楽を観はじめて20年くらいになる。わたしの観能記録によれば、はこれまで115曲を観ている。ただし、同じ曲を何回も見ているから延観能回数はこの3倍にはなるだろう。
 能の演目は650年も伝えて今も演じている古典は226曲、そのほかにまれに演じられる復曲や新曲もある。
 何度も観ている曲ももあれば(「清経」は9回、「葵上」と「隅田川」は8回)、有名な曲なのにまだ見ていないものも、けっこう多い。
 禅竹作の「定家」もまだ見ていない演目であった。作者の金春禅竹(1405~1471年)は、能楽のスーパースター世阿弥(1363?~1443年)の娘婿にあたる人である。

 2012年10月7日に、観世能楽堂で「定家 袖神楽 露之紐解 甲之掛」を、シテ:観世清和、ワキ:宝生欣也、地頭:梅若玄祥で観てきた。
 今回の演出はかなり特殊なものであるらしく、小書に関する解説の紙が一枚添えられていて、11件もの特別の演技や演奏が記されている。
 でも能の演出や作者のことは、よく知らないのでここであれこれ言わない。観てきた感想のみを書く。

 実は初めての「定家」なのだが、予備知識はなんでも定家蔓というツタの草があって、恋人の墓にまとわりついて悩ましている、そんな程度のままで特に予習して行かなかった。
 能楽鑑賞は予習したほうが断然よくわかるのだが、長いあいだ見ていると予備知識なしでどこまでわかるか、ときには実験をするのだ。予習した知識に引きずられながら見るのもよいが、自分で発見したいこともある。

 そして、今回は最後のどんでん返しに出会って、能の常識とは違うぞと驚いたのである。
 たいていの能は、主人公が死んでも成仏できない人が幽霊になって出てきて、旅の僧に救済を求め、僧が祈って成仏するのである。ほとんどこじつけで成仏させるものも結構ある(砧、通小町)。これが違ったのだ。

  「定家」の話は、式子内親王(1149~1201年)と藤原定家(1162~1241年)という、皇女と貴族の稀代の歌人同士の苦しい恋の因縁物語である。
 史実は真偽は怪しいらしいが、それらしい話は昔から伝えられていたらしく、その200年ほどのちに演劇としての能に仕立てたのである。

 身分の違いにありながら身を焼くほどの恋は、二人とも死んでからもつづいているごとくに、定家はツタ蔓になって式子(しょくし)の墓にまとわりついて離れずにいるのである。
 前場では、作り物の墓が灰色の引き回しにつつまれて草に覆われて舞台の中央に立つ。そこに雨が降っている設定だから、舞台は暗いのである。もちろん照明を落としているのではないが、後場となってそれがよくわかる。

 旅の僧の前に、里女の姿で式子の幽霊があらわれる。死んでからも定家が蔦蔓となって墓にまとわりついて苦しくてたまらないので仏の救済を求めて、墓の中に消える。
 僧は経文を唱え、墓の蔦蔓を切り開いてやると、後見が作り物の墓の引き回しを取り払う。なかから式子が華やかなときの姿であらわれると、にわかに舞台が明るくなった。もちろん照明が上がったのではない。時雨の墓場の暗い雰囲気が一転し華やかになる。

 式子はツタ蔓の墓から解放されて出てきて喜び、昔を思い出して賀茂の斎院であったころに舞った神楽を舞い、そして笛の異常に高い調子(甲之掛)での序の舞いとなり、前場の暗さと対照的な華やかさである。
 ところが舞を途中で止めて、涙をおとし、恥ずかしいと顔を隠して、墓の中に戻ってしまう。それもツタ蔓に再びまといつかれながら、沈み込むのである。

 え、どうしてなの、、せっかく解放されたのだから、僧の読経で成仏して消えてゆくのが、能の常道だろうに、またあの苦しみの恋のなれの果ての世界に戻るのは、なぜだろうか。仏による救済よりも永遠の恋の苦悩をとったのであるか、う~む。
 わたしは意表をつかれたのであった。悲劇のままで終わらせる有名な能は「隅田川」である。「道成寺」とその原型の「鐘巻」もそうである。
 これらは現在能だからそれもありとしても、夢玄能にも悲劇とする作り方もあるのか。パイオニア期の世阿弥と成熟期の禅竹との違いかしら、などと思った。

 世阿弥の「砧」とか「通小町」のように、なんだかわけがわからないうちに主人公を成仏させてしまうよりは、この禅竹の「定家」のほうがよほど正常だし、また近代的思考で考えさせられることがおおくて、観る楽しみがあると思う。
 また観たい能である。

定家 袖神楽 露之紐解 甲之掛
シテ  観世清和  ワキ 宝生欣哉  アイ 野村萬
大鼓 亀井広忠  小鼓 観世新九郎  笛 杉 市和
地謡 梅若玄祥 岡 久広 梅若紀彰 浅見重好 
    藤波重孝 清水義也 坂井音雅 木月宣行
後見 片山幽雪 木月孚行 山階彌右衛門
(二十五世観世左近二十三回忌秋の追善能 2012年10月7日 観世能楽堂) 

●能楽関連ページ
577能「船弁慶」を見た
http://datey.blogspot.com/2012/01/577.html
459義経千本桜を能の目で見る
http://datey.blogspot.com/2011/07/459.html
050能「摂待」と「安宅」
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217野村四郎の能「鵺」を観る
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http://datey.blogspot.com/2009/05/134.html
070高千穂夜神楽
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501杉本博司演出の三番叟
http://datey.blogspot.com/2011/09/501.html
◆能楽師・野村四郎師サイト
http://homepage2.nifty.com/datey/nomura-siro/
◆能を観に行く
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2012/10/13

676東京駅復原出戻り譚(その2)今や人気者東京駅の隣で誰も見てくれない気の毒中央郵便局JPタワー


 ようやく腰を上げて、昔の姿で出戻りした東京駅を見てきた。
 実はわたしは見なくても、20年以上の研究知識と近頃のネット情報で、どうなっているか分かっているのだが、一応は見ておかなばなるまい。

 で、現実にはわかっている通りであった。
 だが、ちょっと驚いたのは、なんだか見物客がやたらに多いことであった。南北ホールでは、顔やカメラを上に向けている人がやたらに多い。
 外にもカメラはもちろんだが、東京駅外観を絵を描いている人があちこちにいるのであった。

 たしかに見物に値する異様な景観が出現した。
 ディズニーランドが出張してきたようだというと、けなしていると思う人もいるかもしれないが、わたしは褒めているつもりである。よくぞまあ、コピーをここまで成し遂げたものだという意味である。
でも、わたしはあのホールのデザインは、なんだか好きになれない。前のパンテオンデザインのほうがはるかに良かった。(下図)
南北二つのドームがあるのだから、どちらかひとつは戦後復興の姿で「保存」してほしかったと思うのである。これを戦争直後に作り上げた人たちの努力は、すさまじいものがあったのに、それには敬意を表しないのだろうかと、わたしは不満である。
 参考までに、その人たちの努力を書いたわたしの記事東京駅復興(その1)を読んでください。

 ただ、わたしは思うのだが、わたしのような東京駅に特別の関心のマニア、あるいは建築史に精通した専門家は別として、ごく普通の人々の眼には、この復元した姿がどのように映っているのだろうか。
 こうやって再現した戦前の東京駅を見た人は今やごく少数であるが、戦災から戦後復興した東京駅を見た人は、ごく普通にわんさといる。

 だがさて、その戦後の姿を見てきた人々に、今の姿はそのどこが変わったのか、わかるのだろうか。
 なんだかキレイになったなあ、屋根を葺き替えて壁のレンガもきれいに洗ったなあ、なんてその程度であろうとおもうのだが、いかがか。現にわたしの息子は、そんなことを言っていた。

 これは世の庶民をバカにしているのではなくて、一般に建築への関心はそんなものである。これを読んでいる、専門でないお方たちに聞いてみたい。
 念のために、今回の復原前の姿を載せておく。冒頭の写真と比べてください。

 東京駅に人気に比べて、お隣の中央郵便局の改築(JPタワー)に目を向けている人は、皆無といってよい。誰も写真を撮らないし、誰も写生していないのである。
 こっちだって、あちこちから保存せよとなんやかや言われて、東京駅に負けない苦労して一部保存して、つい先日やっと復元したのに、この人気の落差はどういうことだ、こんなことならぶっ壊して立て直せば苦労しなかったのに、なんて、JPタワーは嘆いているに違いない。
 やっぱり芸者厚化粧姿の東京駅に、モダンすっぴん姿の中央郵便局が対抗しても、庶民の人気はとてもかないっこない、らしい。

 民営化した郵政会社がこれを壊して建て直すと発表したとき、ひと騒ぎあったことを、庶民のだれが覚えているのだろうか。
 建築の専門家たちが、中央郵便局は吉田鉄郎の設計で、日本モダニズム建築のお手本だ、だから保存すべきだと叫んだのだが、東京駅の時ほどの保存の声は庶民からは上がらず、しょせん専門家のコップの中の騒ぎであった。
               (2012年、東京駅と中央郵便局のどちらも復元工事後)

 と、そこに鳩山邦夫さんという切手マニア?が登場、中央郵便局は新発売切手を買いに通った親しい建築であった(?らしい)。
 彼がたまたま時の郵政所管大臣だったので、地位を利用してかどうか知らないが政治介入して、この郵政建築への愛着と保存を言い立てたのだった。
 これに、一般ジャーナリズムが飛びついて、郵政民営化騒動にからめて面白おかしく記事にした結果が、今の形での部分保存復元である。
      (2008年、東京駅と中央郵便局のどちらも復元工事前)

 でも、隣に派手な東京駅ができたら、一般ジャーナリズムはそっちに気をとられてしまった。東京駅はニュースにとりあげても、JPタワーをとりあげないのである。
 庶民はあの時の騒ぎは忘れて、なんだか超高層がもう一本立ったなあと思うくらいなものである。  

 復元した東京駅が好きな庶民は、このJPタワーにはほんとは感謝するべきなのである。
 だって、東京駅の余剰容積率の一部をこのタワーが買ってあげたから、そのお金であっちは復元できたのだからね、その功績者の写真を撮って、写生もしてあげたら、どうですか。
 復原した中央郵便局の内部もご覧ください。あの8角柱がちゃんと立ってますよ。
 
●関連ページ
101東京中央郵便局と保存原理主義
 105中央郵便局再開発と都市計画
522紙ヒコーキ超高層ビル
022文明批評としての建築
093歌舞伎座の改築
585出戻りお目見え近い東京駅姐さんと紙ヒコーキビル

東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2012/10/10

675のどかな法末集落の初秋風景はいつもの秋と同じようだが実は変化してきている

2012年、初秋の10月初め、法末集落を訪れた。
 5月の田植えのあと、草刈りにも、9月末の稲刈りに来ることができなかったので、4か月ぶりである。
 その間で何かが変わるほどのこともあるまいと思うのだが、やはり変わっていることがある。もちろん自然や農業の風景は変わるのは当たり前だが、人間の営み風景が変わっているのだ。


 では、久しぶりに集落を一巡してこよう。
 わたしたちが現地活動拠点の家(通称「へんなかフェ」)がある地区名は「おじゃんち」と呼ばれる。小千谷道のことである。


              (おじゃんち地区の全景)

 
「おじゃんち」地区には6軒の住家がある。今年はそのうちの2軒の家で土蔵が消えた。豪雪で傾いたので取り壊したのだ。
 そして今年は住む人の一部も変わった。一軒の家では家長がなくなり、年老いた女性の一人暮らしが始まった。これはこの集落では珍しいことではない。互いに助け合って暮らしているし、近くの街に暮らす子や親せきがちょくちょくやってくるのだ。

 この家長が耕作していた棚田を、集落の他の農家やわたしたちの仲間で引き継いだのである。そうやって集落の人々で農耕地を維持していくのである。だが、いつまで続けることができるだろうか。

 おじゃんち地区の中の空き家に、都会から新たな住人が入ってきた。その家からピアノの音が聞こえるのは、法末の新しい息吹である。
 こうして、おじゃんちの6軒の家のうち、3軒は余所からやってきた人が住んでいる。こうやって集落は存続していくのかもしれない。

この続きと全文は「棚田の稲刈りが終わった初秋の法末風景
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hosse201210




2012/10/01

674東京駅復原出戻り譚(その1)これは「記憶を守る」仕業の「保存」なのだろうか

 東京駅の丸の内駅舎、いわゆる赤レンガの東京駅が戦災前の姿になって、今日から正式に出戻りのお目見えだそうである。
 これからしばらくこの「事件」について、世の人々があれこれ言うだろうから、わたしはそれらの世間のウワサをとりあげて、あれこれと戯瓢を連載することにした。

 わたしのこの事件についてのスタンスは簡単である。要するに「もったいないことをしたもんだよなあ」ってことである。
 その理由は「東京駅復原反対論」に書いているので、そちらを参照されたい。

 さて、今朝(2012年10月1日)の朝日新聞東京版には、2面見開きで東京駅の出戻り姿の広告が載っている。
 曰く「東京駅丸の内駅舎保存復原 誕生からまもなく百年。赤レンガ駅舎として親しまれてきた東京駅が百年の時を越え、創建時の姿に。これまでの百年を、これからの百年へ。」  

 あのねえ、これって「保存」って言ってよいのかしら。何を保存したのかしら。
 だって「創建時の姿」って言っても、1945年月20日に丸焼けになっって、残ったのはレンガ壁と鉄骨だけだったのだから、それを「保存」したのだとしたら、まあ、その通りではあるが…。
 だから「創建時」の「保存」はその程度であり、実はそのほとんどは「復原」と称するコピーレプリカである。

 わたしはコピーレプリカが悪いと言っているのではない。
 保全、保存、保護、復原、復元、コピー、レプリカなどなど、いろいろの言い方があるが、「保存復原」とはどういう意味だろうかと聞いているのである。
 ま、現物を見てくださいよ、これがそうなんだよ、ってことなんだろうが。

 でも、1947年にそのレンガ壁を再利用して修復した「復興東京駅」は、戦後復興にシンボルともいうべき存在だった。
 わたしはそれを「保存」してほしかったのだが、残念ながら「消滅」させてしまった。

 同じく今朝の朝日新聞の1面「天声人語」は、東京駅をテーマとしているのだが、このような一文があって、ちょっと引っかかる。
建造物の復元は、そこにまつわる無数の、そして無名の記憶を守ることである

 これは文脈からいって、東京駅の復元を賛美しているらしいが、ちょっと待ってくれよ。
 JRがいうところの「保存復原」という「復元」(ややこしい)によって、あの戦災の悲劇とそこからの復興という「そこにまつわる無数の、そして無名の記憶を」継承してきた記念的な姿を「守ること」なく、消し去ってしまった、わたしはこう思うのである。
 うっかりすると美名に聞こえる「復元」という言葉に、うっかりひきずられてはならない。

 とはいいつつも、今こうやって東京駅は創建時の厚化粧姿で出戻りして、歴代4つ目の姿で次の歴史を歩みだしたのである。
 それなりの歴史の記憶をひきずりながら。 おめでたいことである。

参照→東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2012/09/30

673赤レンガ東京駅が戦災前の姿に厚化粧して出戻りしてきたのはどうして?


 明日(2012年10月1日)から、東京駅丸の内駅舎が新しくて古い姿で正式登場だそうです。その東京駅については1988年に、建て替えて当然という時代の中にありながら、国の方針として保全継続使用方針を決めたのでした。

 それからず~っと、わたしが提唱してきたことは、保全継続使用にあたっては1947年からの姿を本旨とすべし、戦災前の姿に復元するな、ということでした。
 なぜなら、復元すれば、悲惨な戦火による焼失とそこからの復興という、日本のもっとも重要な時代の記念碑が失われる、わたしたちが生きてきた戦後の歴史の証人が消えるからです。

 それが今、継続保全せずに、なぜ戦前の姿のほうを選んで復原(復元)したのか、問題提起したいのです。
 1947年からの姿の歴史的意義を、きちんと評価したうえでの復古再現コピーの選択だったのでしょうか。

 あれは一時しのぎの仮の姿としてつくったから、ようやく本来の形に戻したのだという世間のウワサがあります。
 本当に一時しのぎの工事ならば、それがどうして60年も保ったのか不思議に思い、これを修復した人たちの苦労話を読んでみました。

 それは、あの戦争直後のまったく物資のない時代に、もう頭の下がる実に頑張りすぎるほどの大変な仕事ぶりでした。
 ご参考までにそのことを書いた東京駅復興(その1)(伊達美徳)をぜひ読んでください。  

参照
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2012/09/27

672男も女も電車でお化粧大道芸の時代が来たか

 地下鉄で座っていたら、前に立つ人が窓を見つめてしきりに、手を振っている様子である。
 外は暗闇なのになにしてるんだろうと見上げたら、若い男が手を振ってるのじゃなくて、窓ガラスを鏡にして、しきりに前髪をかきあげかきおろしして、いつまでも恰好を整えているのであった。

 おやおや、男も電車の中で化粧する時代が来たか。
 そういえば、そういう男を何回も見ている。カバンからやおら櫛と鏡を持ち出して、何やら遣り出した男の高校生らしいやつも見たことがある。

 それにしても、女が電車の中で化粧しているのを見るのは、楽しい。
 すっぴんのオカチメンコが、なんだかいろいろな道具や器械をカバンから取り出して、自分の顔に仕上げ工事をほどこしていくうちに、みるみるそれなりに見られる別の顔に変わっていく。
 これって、大道芸そのものである。
 
 こうなると男も電車の中で、オシロイをなでつけたり、つけまつげをいじったり(ペンチをつかっている)、口紅を塗りたくる日が来るのは近いな。
 毎朝、男女で競ってやっていただいて、電車の中を楽しませてほしい。芸の内容によっては、投げ銭をしてもよろしいですよ。
 そう、世は男女均等化粧時代なのである。

 実は白状すると、白内障の手術をして、視覚が明瞭になったら、鏡の中の自分の顔の老醜がはっきりと見えて、これは化粧するしかないかなあと、思ったのがつい最近のこと。
 そうだ、化粧品屋は男の老人を市場として開拓するといいですよ。
 そう、老醜の男も電車の中で化粧をするのである、、キモチワルイカ、。

2012/09/25

671やっぱり名ばかりマンションは地震被災の根源のような気がする

被災マンション解体滞る」との見出しが、2012年9月24日の朝日新聞東京版社会面にでている。
 東日本大震災で被災した区分所有型共同住宅ビル(いわゆるマンション)を、建て替えるために取り壊さなければなない(解体という言葉はおかしい)のだが、所有者の全員同意ができなくて、多くのその類の建物が立ち往生しているというのである。

東北6県の分譲マンションの6割が集中する仙台市では約210棟が全壊・大規模半壊となったが、解体が決まったのは5棟」とある。
 そんなことが起きるのは、とっくに阪神大震災でも姉歯事件でも経験して、だれもがわかりきっていたことである。
 所得、年齢、資産、加速構成、生活感など千差万別の、もともと知らないどうしの大勢の人間が、ひとつの運命共同体に無理やりに乗っているのだから、こういうことになれば一致するほうがおかしい。

 それなのにいまだに「分譲マンション」(正確には区分所有型共同住宅ビル)なるものをつくって売るやつ、ほいほい買うやつ、どちらもいけない。
 そんな「名ばかりマンション」(マンションとはもともと大邸宅のこと)を容認するどころか、容積緩和とか優遇税制などで支援する政策があるのが間違っている。

 日本の住宅政策はまったくなっとらん。即刻、「名ばかりマンション禁止法」をつくるべきである。
 だって、今度やってくる南海トラフとかいうやつの大揺れでは、これまでとは比べ物にならないほどの区分所有型共同住宅が被災するに違いないからだ。
 大量の「マンション難民」が発生する前に、即刻、禁止の手を打て!。

 で、解体できないのは全員同意の法律のせいだから、これを全員でなくても取り壊せるように法整備しようという動きがあるそうだ。
 でもねえ、全員同意しなくても取り壊すことができる様に法律的にはなったとしても、実際の現場はやっぱり調整は大変だし、それなりの買い取り補償金が必要だろうから、法を替えたって容易ではないはずですよ。そんな小手先技で解決する問題ではないだよ。

 そもそも、広い敷地をわざわざ猫に額ほどの持ち分に分割して所有する制度にするから、こういうことが起きる。
 そしてまた、賃貸借住宅に対して政策が冷たいからこういうことになるのだ。

 区分所有型共同住宅ビルは、区分所有を解除して組合による一体所有に転換して、管理所有一体型の賃貸借住宅に転換するする政策を推進するべきであると思う。それまでの区分所有者は組合員として持ち分相当の債権を持つのである。
 ここから先は私にはわからないから、これの実務的なことは専門家に考えてもらいたい。
 

 とにかく区分所有型共同住宅ビルは地震被災の社会的諸悪の根源である。
 言いすぎかな、だんだんと過激になってくるなあ、ほんとはね、ほれ見ろ、だから俺が言ってきたとおりじゃんかよ、っていいたいのだ。
 ●参照「くたばれマンションhttp://homepage2.nifty.com/datey/kyodojutaku-kiken.htm

 
(写真は本文とは直接には関係ありません、いや、あるかもなあ)  

2012/09/24

670半世紀ぶりの名古屋大学でキレイすぎる豊田講堂に再会

 先日(2012年9月13日)のこと、ほぼ半世紀ぶりに名古屋大学を訪れた。1963年の1年あまり、この近くのアパート暮らしをしたことがあり、散歩にちょくちょく訪れた。
 1960年に日本の建築界で話題となった名古屋大学豊田講堂ができて、建築家・槇文彦の日本での出世作となった。

 建築学生だったわたしも、そののびやかなスケールと、どこかル・コルビュジェを思わせるボキャブラリーにイカレタのであった。
 その現物が住まいの近くにあったのだから、訪れて感銘を受けたような気がするのだが、忘れていた。

 半世紀ぶりに訪れて思い出しつつ見る豊田講堂は、この間の歳月を忘れているような、あまりにキレイな建築であった。つい最近建てたかのように新しく、まるで原寸模型のようにシャキッと建っているのである。
 聞けば、最近のことだが大修繕したのだそうだ。荒れていた打ちはなしコンクリートの肌を、新技術で打ち直したのだそうだ。それが最も目につくのであった。

 そしてその再生打ちはなしのコンクリートの肌が、どうみても木目模様をプリントした壁紙を貼りつけたとしか見えないのだ。あまりにキレイすぎる。
 そもそもコンクリートの打ちはなし表現というものは、コンクリートという力強い素材をもって力学を視覚として表現するための手法だろうと思うのだが、こうもキレイでよいのだろうか。
 これを設計した槇文彦はどう思っているのだろうか。わたしは違和感をもって見たのであった。

 そのコンクリート肌の修復の技術そのものは評価するとしても、歴史的建築を修復するときの適用は、どう考えればよいのだろうか。豊田講堂ができたばかりの当時の姿を私は見ていることになるのだが、こんなにキレイであったかどうか記憶にない。
 だが、キモチが悪いほどのキレイすぎる修復はどんなもんだろうかと、見ながら思ったのであった。

 全体ののびやかな姿は、立地条件に恵まれて今も美しい。
 その遠目の構成はよいのだが、近くのよってみると、大仰な柱梁架構の表現が、大時代的な記念物の表現に見えて、わたしは好きになれない。
 柱と梁のナマな取り合いが、どうもこなれていない感がある。今の槇文彦なら、もっとうまく処理するだろう。
 機能的に新たなものが必要になったのか、裏側にガラスの建築がくっついている。講堂とはまったく異なる表現で、講堂への敬意をもっていることが宜しい。

 昔にわたしが散歩したころは、こんなに建物はたっていなかった。周りは雑草地に灌木がたくさん生えていて、野山の風景だったような気がする。
 いまはいかにも新しい建物もたち、大学らしいキャンパスになっている。でもわたしが参加したパネルディスカッションの教室は、かなり古そうであったから、半世紀昔に散歩したころにもあったのかもしれない。

 思い出せば、半世紀前に住んだその木造アパートは、東山動物園が近かったから、なにやら吠える声が時々聞こえる静かな住宅地だった。 2階の6畳間と3畳間のつつましい二人だけの生活は、やがて男の子が生まれて3人となった。
 申し込んでいた公団住宅の抽選に当たって郊外の新しい団地の2DKに移ったのは、アパート住まいが1年ほどたった後であった。
そのアパートあたりの半世紀後を見ようかと思ったが、時間がなかった。あのアパートが今もあるはずはないが、そばにあった千代保稲荷神社は健在であろう。    

2012/09/23

669東京のビルの谷間の由緒ある神社の夏祭りは再開発でどう引き継ぐのだろうか

 東京は文京区、後楽園ちかくの街の中、道端でピーヒャラドンドンとにぎやか、神輿が出ていて、獅子舞が踊る。江戸の伝統の太神楽もやっている。
 
超高層住宅ビルもあれば、木造の店や中小のビルが混在する街、大勢の大人は缶ビールと焼き鳥を握り、母親と子供はアイスやたこ焼きを抱えて、細い道やまちかど広場をうろうろしている。わたしもその一人となった


 聞けば白山神社という伝統ある神社の祭りだそうである。氏子中は広いのでどこにその神社があるかわからないが、あちこちの氏子町内で祭をやっているらしい。
 ここにも神輿は大小幾つも出ているし、各町内にそれぞれあるのだろうから、神様は身をいくつかに分けてお出ましとあって、忙しいことである。
 この街も実は市街地再開発事業が計画中とて、いずれ超高層ビルの街になるらしい。その時にこの祭りを空間としても新コミュニティとしても、どう引き継いでいくのか、興味深い。

668横濱地下鐡の驛名は旧字體表示だが駅長さんは嫌いらしい

 横浜市営地下鉄の戸塚駅でぼんやりと駅名表示を見ていて、あれ、一本多いぞと気が付いた。  ではなくてなのである。

 それではと、別の掲示を探したら、駅長さんは戸駅長なのであった。  どうでもよろしいが、面白い。


 辞書を引いてみたら、旧字体であるらしい。
 横浜市営地下鉄の他の駅名まで調べるほどの気力はないが、旧字で統一しているのだろうか。
 記憶にある市営地下鉄の横浜駅は「横濱駅」とはなっていないような気がする。

 それとも戸塚の地名は旧字であるべきとの、横浜市の方針なのかしら。
 それではと、戸塚区役所の公式ウエブサイトを開いてみたら、そのホームページには「戸区」と書いてある。
 JR東海道線戸塚駅はどうなっているか知らない。

 戸塚駅ついでに、その地下鉄の便所で小便をしようとして気がついた。律儀にも道路と民地の境界線をタイルの壁に表示してある。

 この線の左だと道路で立小便、右でやるとどこかのお宅の庭で立小便。なぜここだけ表示してあるのだろうか。別々に管理しているのかしら。まあ、どうでもよろしいですが、書いてあるとどちらでしようかと気になる。

2012/09/19

667白内障手術決行譚(その5)病院に手術入院するって面白くも奇妙な体験であった

●入院治療は契約書は結ばないらしい
 白内障治療で、右目と左目を間に5日おいて、2泊3日の入院を2度やった。
 これまでの入院経験は1度だけ、鎌倉で30年ほども前(1週間ほど足を引っ張ってただ寝ているだけ)だった。だからこれで3度の入院経験となる。

 このたびの入院にあたって、「入院誓約書」なるものを出させられた。
 入院するに当たっては病院の規則を守り、身元引受人はきちんと責任を果たしますので、入院治療をお願いします、てなものである。30年前の入院では、こんなものを出した覚えがない。
 この誓約書は、なんだか一方的な感じがするのである。

 病院だろうと商店だろうと、民法上の契約行為だから、これほど高額でありしかも身体にメスを入れる重要な取引なのだから、患者と病院の双方がハンコを押した契約書を作るのが当たり前のような気がする。
 それが、患者側だけが誓約書をだすというのは、片務契約である。それなら病院側も、患者に対して、責任もって治療いたしますという誓約書を出してもらいたいものである。
 これっておかしい考えなのだろうか。

 もう一つの書類は「手術または検査説明書・同意書」である。一枚の紙の上半分に治療方法等の説明書と医師と看護師のサイン、下半分がその説明を受けて納得したので手術をしてほしいという同意書で患者と家族のサインである。
 まあ、これは医師と患者の両方がサインしているから、それなりに納得できる。

●アメニティセットなるタオル等リース
 もう一つサインして出した書類は「アメニティセット申込書兼同意書」である。これは病院宛ではなくて、入院中につかうパジャマ・タオル・歯磨きセットなどのリース会社に出すのである。
 これらを患者が各自持ち込んではいけない、リース会社から借りなければならないというのである。外部からの黴菌の入ってくるのを防ぐためらしい。でもねえ、かばんも靴も肌着も上着、ノート、デジタル録音機など持ち込んでるんですがねえ。

 同意書と書いてあるが、何も同意するべき文章は書いてなくて、要するにリースの申込書である。
 こちらから申し込んでいるのに、リース会社側の請書がないのである。この書類は不備である。
 病室にはこのリースらしいタオルが2本、バスタオル2本、歯磨きセットがおいてあった。2回とも使ったのはタオル1本と歯磨きセットだけだった。これは別請求なので保険対象ではないらしい。

 手術の日は750円、そのほかの日は480円、6日間の合計で3420円。リース料としてはけっこう高い。
 手術の日が高いのは、手術用のパジャマと紙パンツを使ったからだろうが、請求書には明細がない。
 同意書といい請求書といい、病院並みの一方的な感じである。

 どうも解せないのは、パジャマや手術着は入院の必需品なのに、保険がきかないことである。だったら布団は枕はどうなってるんだろうか、ベッドはどうなんだよ。
 食事だって保険がきかないってのもわからない。不味いから要らないといったのに、無理に食べさせられたのだぞ、どうしてくれる。

●実はマニュアル的でない看護
 左右の目が違うだけでまったく同じ治療の入院を、2週連続して行ったが、入院した部屋は別の階であった。
 ひとつビルの中だから棟はわかれていないのだが、右目が2階病棟、左目が4階病棟と名付けられているのは、昔の病院の習慣がそのままなのであろう。

 ところが、どうやらその病棟ごとに看護の仕方が違うらしいのである。
 2回目の左目入院の最初には看護師からいろいろと聞かれて、4ページものアンケート記入をさせられたが、最初の右目のときはそんなものはなかった。
 手術室に入る前に、右目の時はパジャマもパンツも病院のものに着替えさせられたが、左目の時は上だけ着替えて下半身はそのままままでよいとのことだった。

 手術室前の氏名と手術場所の点呼も、右目では2回、左目では1回だった。
 ほかにも血圧を測りに来る回数とか、薬の服用や点眼の指導とか、いろいろ異なることがあって、困るほどのことではないが、それが面白かった。
 病院というところは完全にマニュアル化しているのかと思ったら、意外にそうではなくて、病棟ごとに看護方法に差があるのだった。同じ病院で書類まで違いがあるのが面白い。

●相部屋の病室はプライバシーゼロ
 入院の部屋は部屋代がいらない6人部屋に入った。カーテン一枚で仕切る2m角ほどのの仕切りである。
 当然のことながら音は筒抜け、看護師がいるときはカーテン半分あけているから視覚的にも見え見えであるが、それを承知で入ったから仕方がない。
 ここに1か月もいるとなると我慢できにくいが、たかが2泊3日だからかまわない。実は30年ほど前の入院も6人部屋であった。このときの経験が面白かったので、値段のこともあるが、積極的に今回も相部屋を選んだ。

 面白かったとは、プライバシーゼロの状態で1週間いたら、他の入院患者のプライバシーがほとんど全部見えて、このような人たちがいるのだなあと、ずいぶん人生経験をしたことであった。
 看護師はもちろん、家族や見舞い人が来てあれこれ話していることが、筒抜けで聞こえてしまうのだから仕方がないのだが、その人の病気も生活もわかってしまう。
 小説家に入院経験がある人が多いのは、こういうところでネタを仕入れていたのだろうと思ったのであった。

 今回は2晩づつだったが、糖尿病らしい若者、尿が出なくて苦しむらしい中年男、血圧測定マニアらしい老人が、耳に入った。
 こちらの目の手術のことや、飯が不味いとクレームつけているのも聞こえていたに違いない。

 そんなことは面白がっていればよいのだが、ある真夜中に急患が隣に入ってきて、明かりを煌々とつけて、どたどたがやがや、すっかり目を覚まされてしまったのには、さすがに面白がってはいられなかった。
 でも、いくら部屋代が安いといっても、本当にこんなにもプライバシーがなくてよいのだろうか。

参照→白内障手術一部始終日記201209
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hakunaisyo?pli=1

666白内障手術決行譚(その4)当て外れやっぱり眼鏡が要る
http://datey.blogspot.com/2012/09/666.html

665白内障手術決行譚(その3)ボケたら脳みそも取り替える時代が
http://datey.blogspot.com/2012/09/665.html

663白内障手術決行譚(その2)若返った右目で見る風景の軽薄さ
http://datey.blogspot.jp/2012/09/663.html

662白内障手術決行譚(その1)明日から左右両目のレンズ埋設工事
http://datey.blogspot.jp/2012/09/662.html

2012/09/18

666白内障手術決行譚(その4)当て外れやっぱり伊達の眼鏡が要るとはなあ

 両目が白内障と診断されて、エイヤッと両目ともプラスチックに取り替えたら、よく見えるけど、なんだか世の中がしらけているように見えるのが、ヘンだ。
 これまでも遠近乱眼鏡をかけて、それなりにちゃんと世の中が見えてたのだが、目玉ののレンズにいろいろと75年分の垢がたまって見えにくかったらしい。

 日常生活で見えにくいとは特に思っていなかったが、その一方で、夏場の強烈なまぶしさには困っていた。その目玉の垢に光が乱反射するからだと医師に言われたのが、手術踏ん切り動機であった。  
 さて目玉の垢がなくなった分だけ、以前と比べて世の中が明るく見えるのだが、これって以前のちょっと暗いほうが現実であるように思えるのが、癪な今の世である。

 当て外れは、これまで取り揃えていた遠視、近視、乱視が、手術で全部消滅すると思っていたら、やっぱり乱視は若干あるし、本を読むには眼鏡がいるし、当てが外れた。
 ちょっと前から、寝ころんで本を読むとどうもうまく焦点が合わない、眼鏡を取り替えるかなあと思っている矢先に白内障診断である。
 それなら眼鏡代金を手術代金にすれば、死ぬまで裸眼で本を読める、うん、これは名案と思ったのがバカであった。

 でもまあ、まぶしくなくなったことと、裸眼でも視力は1.2で、1mほどからむこうははっきり見えるので、ヨカッタヨカッタと思うことにする。
 その昔々のこと、視力は2.0、駅の隣のホームに掲げてある列車時刻表が読めたものである。
 医師が言うには、まだ目の中が落ち着いていないので、これから見え方が変わるらしい。さてどうなるか、楽しみである。

 めったに病院にいくことがなくて、保険料を支払うばかりの赤字だったが、これで少しは取り戻せただろうか。約5万円支払ったから、50万円の治療費であった。
 白内障手術は日帰りでもできるらしいが、わたしのかかった病院では2泊3日の入院制であった。30年も前だったかに、右足故障で1週間入院して以来の入院であった。

 入院でいちばん困ったのは、食事の不味さだった。以前の入院ではうまいうまいと食ったのだが、今回の病院は文字通り閉口した。特に米飯がまずい。
 初めの右目の2泊3日は我慢して食ったが、2回目の左目の時は、素泊まり入院にしてくれと頼んだが、ダメだという。やってきた料理担当栄養士の話では、保険医療費の都合で、これ以上高い米を買えないのだそうだ。実は私はこのころ、新潟中越のコメ産地に震災復興ボランティアで通っていたので、日本で一番うまい飯を食っていたのだ。
 それではこちらも対抗するぞと、売店から握り飯やサンドイッチを買って食った。途中で思いついて、米飯をパンに替えてもらったら、これは食えた。
 目玉が3つあったら、次の手術は別の病院でやったところだぞ。

 裸眼でよく見えるのも不幸である。鏡に映る自分の顔のシワシミソバカスホクロ無精ヒゲ、老け具合がよく見えすぎる、これまでは気にしていなかったのに……、お化粧でもするか……とほほ。

参照→白内障手術一部始終日記201209
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hakunaisyo?pli=1

665白内障手術決行譚(その3)ボケたら脳みそも取り替える時代が来るかも
http://datey.blogspot.com/2012/09/665.html

663白内障手術決行譚(その2)若返った右目で見る風景の軽薄なことよ
http://datey.blogspot.jp/2012/09/663.html

662白内障手術決行譚(その1)明日から左右両目のレンズ埋設工事月間が始まる
http://datey.blogspot.jp/2012/09/662.html

2012/09/16

665白内障手術決行譚(その3)そのうちボケたら脳味噌取り換えもできるようになるだろうなあ

熊五郎 ちわー、ご隠居、お見舞いにきました~、なんでも噂では、お顔のあたりの大手術とかで入院したとききましたが、ぶったたいても死にそうにないご隠居が、いったいどうしました。

隠居 おや熊さんかい、よくおいでだね、ぶったたいても死なないは余計だが、心配してくれてありがとうよ。実はな、白内障の治療で、両目にプラスチックレンズを入れたんだよ。

 てーと何ですかい、ご隠居の大手術ってのはメン玉の取替えってことでしたか。あっしゃーまたてっきり顔の成形手術でもやって若い娘にモテようなんて気でも起こしたのかと思っておりやした。 そんでもって整形手術に失敗して…なんて。

 いやいや手術は大成功、よく見えるようになったよ。

 そういえば、白内障てーと、あっしの母親もその昔に同じ手術をやって、てーそーよく見えるようになったって喚いていたような…。

 喚くほどのことでもないが、眼鏡無しで見る世の中の色が明るくなった上に、妙にはっきり見えるんだよ。医者は、白内障になる前の若いころはそう見えていたというのだね。で、よく見える目で見たら熊さん、お前はやっぱりイケメンじゃなかったんだなあ。

 大きなお世話ですよ、ご隠居こそ自分の顔を鏡で見てビックリでしょ、、。

 アッ、そうなんだよ、わたしはこんなに年寄り顔であったかと、がっくりしてるんだよ。熊さんの言うように整形手術もしてもらおうかな。それともお化粧でもしようか。

 けっ、気持ち悪い。でも手術代が高いんでしょ。

 ああ、わたしは後期高齢者保険で一割負担だがね、それでも片目2泊3日入院で23350円だったね。ところが後期高齢者の保健だと、暦の1か月の医療費が44000円を超えると、越えた分を保険で払ってくれるんだな、だから両目で47000円のところが44000円だな。同じ月内ならほかの病院でのほかの病気の治療費と合わせて44000円までなんだそうだ。

 そりゃいいや、だったら、今月中にほかの医者にもどんどんかかって、あれもこれも治したらどうですかい。ご隠居はほかにどこか悪いところありやせんか。

 悪いところ治すって急に言われてもねえ、歯を直すかなあ、。

、ありますよ、口が悪い、人相が悪い。

 そりゃお前のことだろ。ま、なんにしても若いころの目に生まれ変わったのだから、これからは頭も若く切り替えようと思うのだよ。

 こうやって目ン球取り替えできる様に、そのうちに脳みその取り換えもできる様になりますよ。ご隠居は間にあわないだろうけど、あっしはそのうちにやりましょう。

 そうだよねえ、人体も部品取替え可能になるかもねえ、ぼけたら頭の交換、骨折したら足や腕を一本そっくり取替えってことになるもねえ。

 あ、そうだ、ほれ、アソコもできますね。

 何を考えてるんだか、、。ほれ、この写真、入院して点滴しているわたしの雄姿をご覧よ、昔から他人を見舞いに行くと、こうやって歩いてる人がいるのをみて、この姿にあこがれていたんだよ、ついにかなったね。

 こんなもんにあこがれてどうするんです、しょうがないねえ。

 ところで目の手術の様子を聞きたいだろ、一部始終を教えてあげるからこちらにおあがり。メスがね、眼の球にだね、グサーッと入って来たと思ったら……。

 サイナラーッ

参照→白内障手術一部始終日記201209
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hakunaisyo?pli=1

663白内障手術決行譚(その2)若返った右目で見る風景の軽薄なことよ
 http://datey.blogspot.jp/2012/09/663.html

662白内障手術決行譚(その1)明日から左右両目のレンズ埋設工事月間が始まる
http://datey.blogspot.jp/2012/09/662.html

2012/09/07

664くたばれ名ばかりマンション屋!大ウソつきがばれたぞ

 今日(2012年9月7日)の朝日新聞東京版の朝刊に、「長谷工社長らを処分」のみだしで、こんな記事がある。

 07年発覚の耐震偽装 国土交通省は6日、1級建築士20人の懲戒処分を公表した。横浜市で建設中だったマンションで2007年に耐震偽装が発覚した藤建事務所(埼玉県八潮市、09年に廃業)の遠藤孝1級建築士のほか、遠藤建築士に構造計算を依頼したマンション建設最大手、長谷工コーポレーションの大栗育夫社長らが処分を受けた。(以下略)

 で、遠藤建築士は2000~07年、8件は長谷工からの発注だった、とある。つまり外注していたのである。
 これを読んで思い出したことがある。
 2005年に姉歯という名前の一級建築士が建物の構造計算をごまかして設計し、そのまま強度のない共同住宅やホテルを建てたという、いわゆる「耐震偽装事件」があった。
 社会的には大事件であった。 この時以来、建築士性善説は消滅、性悪者となった。 
 そのときにわたしは長谷工が自社サイトに変なことを書いているのを見つけて、わたしのサイト「まちもり通信」で、こうイチャモンをつけたのだった。

 あわててデベロッパーたちは、うちの建物は姉歯に関係ないと発表しているところもあるが、中でおかしいのは長谷工コーポレーションで、わが社の建築はわが社の「設計施工一貫体制」だから構造設計は姉歯ではないと言うのである。
 だから安全だって言ってるつもりなんだろうけど、これって姉歯よりもっと危ないかもしれないぞ。
 だって開発から設計、監理、工事、販売まで全て自分の社内やっているなんて、みんな内々だから設計ミス、偽造、工事手抜きなどなどあっても、第三者チェックがどこにも働かないおそれが十分にある。
 要するにみんなグルってこと、かもしれないのだ。 (2005.12.04)
●この全文は⇒姉歯大震災の喚起するもの
https://sites.google.com/site/machimorig0/anehajiken
 
 さてところが今、長谷工は自社内で全部やってるから安心だと、誇らしげに(私から言わせると奇妙な)宣伝をしながら、実は自社内でやってなかったことが暴露されてしまったのである。
 しかも耐震偽装そのものをやっていたのだから、あきれるほどの大ウソつきである。
 こういうのって、ホンとにカッコウ悪いなあ。

 「名ばかりマンション」(マンションとは本来はアメリカ大統領のホワイトハウスのような豪邸を言うのだよ)を耐震偽装付きで供給するバカがいて、それをまたホイホイ買うバカがいる。困ったもんだ。
 偽装してなくても、そろそろやってくる大地震で大方は使いものにならなくなるか、大修繕が必要になる。
 その時に、所有者が貧乏人も金持ちも呉越同舟の分譲「名ばかりマンション」は、利害対立で建て直しも大修理も立ち往生するだろう。
 そして膨大な不良資産となった廃墟建築が発生し、膨大な住宅難民が発生する。

 そんなことは阪神淡路大震災でも姉歯大震災でもよ~くわかったのに、それでも「名ばかりマンション」の売り買いは止まらない。法制度で止めようともしない。恐ろしい世の中である。
 俺はもう知らんわい、勝手にせえ。

●参照→たった一人のキャンペーン:くたばれマンション
https://sites.google.com/site/machimorig0/#tosikyoju

2012/09/06

663白内障手術決行譚(その2)若返った右目で見る風景の軽薄なことよ


八五郎 こんちわー、ご隠居、お帰りなさい、目ン玉取り換え手術は成功ですかい、あ、なんです、そのゴーグルは、まさかこれから海にでも潜りに行こうってんじゃあないでしょうね、いけませんよ手術したばかりなんだから。

ご隠居 お、八っつぁんかい、海に行くんじゃないよ、白内障の手術の後はしばらくこうやって、何かぶつけないように、ゴミが目に入らないように保護眼鏡をかけるんだな。ああ、手術はもちろん順調にいってね、わたしの右目にはプラスチックレンズが入ったよ。

 プラ目人間ですね。よく見えますか。

 新しい右目だけで見るとね、なんだか色が鮮やかなんだよ。まだ治してない左目で見る風景と比べると、なんだか軽薄だね、若いころはこの色で見てたんだと医者は言うのだがねえ。その点、75年使い込んだ左目で見るとだねえ、色に深みがあっていいねえ、さすがに人生の深みがある、うん。

 なにいってるんです、若い頃の目に戻ったんでしょ、よかったねえ。視力はどうです。

 右の視力は1.2だよ、十分に良く見えるけど、問題は焦点がまだ定まらない。入れるレンズによって遠視か近視かその中間かとあるらしいが、受け入れる目の状態と相まって、どのへんに焦点が定まるのか、やってみないとわからないそうだよ。わたしは資料読んだりPCで書くことが多いので近視にしてもらいたいといったのだが、いまのところ遠視気味だね。さてどう落ち着いて行くのかね。

 あれ、なんだ、手術するともう眼鏡いらないと思ったら、そうじゃないのですね。で、次は左もやるんでしょ。

 ああ、左右アンバランスのこのままだと、右目と左目で色が違うから、それなりに面白いけど、どうも不都合だね。

 ご隠居は目玉が二つだけでよかったですね、三つ目小僧だったらあと2回もやんなきゃならない。

 ああ、ヤツメウナギが白内障になったら大変だね。

 ハハ、なにバカなこと言ってんです。ところで入院てあっしはやったことないんですが、ホテルみたいなもんですか。

 ホテルとは大違いだね、相部屋だから宿屋かな、でもね、サ-ビスがいいよ、しょっちゅうきれいなお姐さんがやってきて、触ってくれるんだよ。

 えっ、なんです、そりゃ。

 いやね、体温やら血圧を測ってくれるってことだよ。3食部屋食なんだけどねえ、この食事のまずいこと、どうやったらあの味になるのかねえ。

 しょっぱいとか、薄味すぎるとか、、。

 いやそれが丁度良いんだよ、なのにまずい、ありゃ調理がヘタとしか言いようがないね。米飯がまずい、安いコメだろうな。酒もつかない。左目の時はカップ酒持ち込みするかなあ。

 あのね、宴会旅行じゃないんですよ、しょうがないご隠居だね。でも、肝心の手術がうまくいってよかったですね。

 おお、そうそう、それを忘れるところだった、手術の一部始終を聞いてもらいたいから、こちらにおいでよ。スイカをおあがり、あ、ビールのほうがいいかね。

 あ、いや、スイカもビールもほしいけど手術の話は遠慮しますよ、あっしは痛いのとか血がでるのは大の苦手なんですよ。

 なんだ、見かけによらないね。でもいいからお聞きよ、涼しくなるから、、あのね、メスがグサーッと目玉の中に入って来るんだよ、、、、。

 サイナラーッ

 はは、八のやつ、逃げてしまったな、しょうがない、左目も終わった来週に、ここに一部始終を実況中継風に書くことにするか。

参照→白内障手術一部始終日記201209
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hakunaisyo?pli=1

665白内障手術決行譚(その3)そのうちボケたら脳味噌取り換えもできるようになるだろうなあ
http://datey.blogspot.jp/2012/09/665.html
662白内障手術決行譚(その1)明日から左右両目のレンズ埋設工事月間が始まる
http://datey.blogspot.jp/2012/09/662.html

2012/09/02

662白内障手術決行譚(その1)明日から左右両目のレンズ埋設工事月間が始まる

八五郎 おや、ご隠居、なんだかウキウキしてますね。
ご隠居 おお、八っぁん、そうなんだよ、明日から2泊3日おでかけなんだよ。
 旅行ですかい、どちらへ。
 病院に入院するんだよ、大手術するんだねえ、おまえのその顔も今日で見納めだね。
 えっ、なんです、その言い方は尋常じゃないけど、どこが悪いんです、なんでウキウキしているんです、ヘンですよ。
 いやね、白内障の治療だよ。
 なんだ、それなら知ってますよ、目が悪いと言ってた叔母がやったから。 今じゃあ珍しくない治療だそうですよ、脅かしっこなしですよ。目ン球を取り替えるんでしょ。
 乱暴だね、そうじゃなくて眼球の中の水晶体にプラスチックのレンズを入れるんだな。わたしは初めての手術体験だから、わくわくしていて海外旅行の前の晩の気分だな。

 大げさな。あ、そうそう、その叔母が言うには、それで景色がそれまでとは全く違ってきれいに見えるようになったそうですよ。ご隠居もそうなると思ってウキウキしてるんですね。
 そうなんだよ、だからおまえのその顔も見納めなんだな。わたしは眼鏡で今も普通に見えることは見えるんだが、この数年は明るいところではまぶしくてね、夏は黒メガネなしではいられないんだよ。
 そうそう、ご隠居は夏は風体が悪いですよ。
 ほっといてくれ。先だって同年の友人がその手術をしたというので、聞いてみると同じようにまぶしかったそうだよ。で、わたしも病院に行って診断してもらったら、両目ともに水晶体レンズが濁っている、濁りが光を乱反射してまぶしいのだそうだよ。 これはもう立派な白内障だとご宣託をいただいた、えへん。

 威張ることじゃないでしょ。で、ほっといたらどうなるんです。
 歳とると誰でも起こることらしいが、ほっとくと進んでいくばかり、歳とりすぎると水晶体の中の水が固まって取り換えが面倒になるとか、手術も難しいことがあるかもしれないそうだよ。
 そうそう、知り合いの母親が90歳で手術したら、水晶体を支える機能が衰えていて失明したそうですよ。
 だから今、後期高齢者になったばかりのわたしは思い切って、そのレンズ埋設工事を決行することにしたんだね。
 えらいもんだね、好奇心をもつ年寄りの好例で好奇好例者ですね。

 おお、座布団一枚。面白いことにね、友人は左目だけ手術したそうだよ。だから右目つぶってみる風景と、左つぶって見る風景とは色が違うんだそうだよ。
 それじゃあ同じ絵をひとりで2度鑑賞できるってことですか。同じものなのにこちらの目の都合で違うものに見えるってことは、、、へえ~、実はこの世は誰もが同じ景色みてるんじゃないんですねえ、う~ん。
 考え込んだね、そうなんだな、お前の見てる景色とわたしの見ている景色は、実は全然違う色かもしれないね。
 ちょっと怖いような気もしますね。
 わたしは両目手術するから、もう別の景色を見る人間に生まれ変わるんだよ、この歳で生まれ変わるなんて、ウキウキするのも当たり前だろ。

 どこかピントがはずれてる気もするけど、まあいいや。ご隠居が今日見ている景色を、手術後にはもう見ることができないんでしょ、今のうちに写真とっておいたらどうです。
 そうしようかね、あ、なに言ってんだい、違うよ、カメラはわたしの目とは関係なく写すよ。お前こそピントはずれだな。
 あ、そういやそうですね。で、いつお帰りですか。
 明日は右目で2泊3日、一時帰宅して5日後に再入院、今度は左目だな。
 なんにしても、お大事に。手術成功、景色が大変化というお土産を待ってます。
 ああ、そうなるといいねえ、でも心配なのはね、お前の汚い顔がますますはっきり汚く見えるようになることだよ。
 ほっといてくださいよ。
(図は手術する西横浜国際総合病院がくれたパンフレットの一部)

白内障手術決行譚(その2)へ

●白内障手術一部始終日記201209
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hakunaisyo?pli=1

2012/09/01

661戦後復興期の都市建築の遺産価値について当時の自分の仕事から考えてみた

 9月13日に名古屋大学で、戦後復興期の都市・建築に関するパネルディスカッション(PD)があり、参加することはすでに書いた。
●全現代都市・建築遺産パネルディスカッション案内
http://datey.blogspot.jp/2012/08/657.html
 ここに載せたのは、そのPDでにわたしの話のレジュメである。


●前現代期都市建築の遺産価値について
   ―その設計者として―

       伊達 美徳(フリーランス 都市計画家) 

はじめに
 若くもなく研究者でもなく建築家でもない、ひとりの建築史ディレンタントである筆者が、このPDでのスタンスは、筆者自身の前現代期(1961以後だが)の都市建築らしきものの「設計者として」の体験と、後に1970年代中頃から都市計画家として生きた経験をもとに、若い研究者・建築家に問題提起をしたいと考えている。
 「前現代」とは聞きなれないが、簡単には1945年8月15日から1970年頃までらしい。出だしは戦機の空爆による都市炎上から都市復興への時期で分りやすい。筆者の体験から言えば、不燃建築による都市づくりから都市再開発が本格化する直前頃までとしておこう。
 その頃、筆者は当時20人ほどのRIA建築綜合研究所(現・アール・アイ・エー、以下「RIA」という)に所属していたので、その組織で筆者が担当した「都市建築」を中心に記すことにする。
 「都市建築遺産」がテーマであるが、建築界での建築遺産と言えば、「名」のつく建築や建築家による「作品」をもってするらしい。ここで筆者がとりあげるのは、前現代期に日本各地の都市で同時多発的に起きた市井の人々の活動でつくられた、「名」がつかないが、時代を象徴する都市建築遺産である。

1.失われた前現代黎明期建築遺産
 最近、前現代記の都市建築遺産が消えたふたつの身近な事件があった。ひとつは東京駅丸の内駅舎、通称赤レンガ駅である。復原したのだから消えていないと反論があるだろうが、筆者は消えたといわざるを得ない。
 1914年に創建、1945年に空襲焼夷弾で炎上、1947年に修復再登場したが、その姿はまさに前現代の始まりを象徴する姿であり、 1914年から31年間の創建時の姿よりもはるかに長く丸の内のシンボル景観であった。
 そしてまた第一第二次両大戦と戦後復興という西の原爆ドームにも匹敵する貴重な前現代の都市建築遺であったが、前現代の建築遺産としての価値を評価した様子はないまま、現代の人々は復原と称して消してしまった。
 これほど名のある戦後都市建築遺産でも消えるのである。

●これ以降と全文は
https://sites.google.com/site/dandysworldg/zengendai-tosikentiku