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2023/10/24

1718【言葉の酔時期:マンション】日本でマンション住まいの人は英米語圏の人にそれを言うにはご注意を

  ウクライナやガザで、戦火によって人々が死ぬ報道に日々接しているが、ちょっと不思議なことがある。あちらには日本で言うところのマンションという共同住宅ビルが存在しないらしいのである。

 大きな共同住宅ビルがロケットやミサイルで破壊されても、新聞にもネットにも集合住宅が被災したと書いてあるのだ。だがその写真を見れば、日本ではマンションと言うであろうような共同住宅ビルである。ネット検索をしてもマンションと書かれたあちらの戦火記事は見あたらない。あちらにはマンションはないのか。

 

 日本の共同住宅ビルの被災記事には、ほぼ例外なくマンションと書いてある。

 中には同一記事内でマンションと集合住宅の両方を使っているものもある。

 いったいマンションとは何者か?、そう考えて日本文のマンションがある記事を、ネットにある翻訳サービスページで英文にしてみた。
 ①例1・原文:集合住宅にロシア軍がミサイル攻撃、5人死亡…ゼレンスキー大統領「邪悪な国家が民間人を攻撃」(10/19(木) NHK)
 同上英文翻訳:Russian missile attack on a housing complex kills five people... President Zelensky: 'Evil state attacks civilians'.

 ②例2・原文:ミサイル着弾で集合住宅倒壊、18人負傷 ガザ(2014年8月24日 AFP BBnews)
 同上英文翻訳:Missile impact collapses apartment block, injuring 18 people, Gaza.

 なるほど、集合住宅は英文ではhousing complex、あるいはapartment blockと言うらしい。apartmentと言われると、日本の木造2階建て賃貸借アパートを連想するが、あちらの被災写真では堂々たる共同住宅ビルだから、日本とは根本的にアパートの意味が違うようだ。

 そこで、日本語のマンションがあるニューズを英文に翻訳させてみた。
③例3・原文:9階建てマンションで火災 1人心肺停止 名古屋市(2023/10/18朝日新聞DICITAL)
 同上英文翻訳:Fire in a nine-storey apartment building, one person cardiopulmonary arrest, Nagoya, Japan.

④例4・原文:「すごい煙だった」集合住宅の7階で火事 火元の部屋で高齢男性を心肺停止の状態で発見(2023年10月18日CBCニュース)
 同上英文翻訳:'It was a huge smoke' Fire on the seventh floor of an apartment block Elderly man found in the room where the fire started with cardiopulmonary arrest.

 ということで、マンションはapartment buildingあるはapartment blockと言うのである。つまりアパートなのであるが、これで良いのかしら?
 そこで、「私はマンションに住んでいます」を英文に翻訳させてみたら、「I live in a flat.」あるいは「I live in a condominium」または「I live in an apartment building」と出てきた。おやおや、アパートだけじゃないのか、これらはどれも同じ意味らしいな。

 だが不思議なのはmansionがなぜ登場しないのか?、これこそマンションの英文であるはずだろうに、どうしたことだ。
 そこで今度は英文の「I live in a mansion」を和文に翻訳させてみたら、出てきたのは「私は豪邸に住んでいる」あるいは「わたしは大邸宅に住んでいる」とある。とあるから、空中にあるのではなくて地に着いた低く平らな屋敷であるし、広い庭園があるのだろう。

 ということは、mansionとは豪邸であり大邸宅であるらしい。日本のウサギ小屋が積み重なってもマンションと言うのは、大誤訳であるようだ。
 そういえば、わたしがUSA人から直接に聞いたことがあるが、USAでマンションmansionと言えば、大統領一家が住むホワイトハウスのような邸宅と教えてくれた。日本なら首相公邸であろうか。
これが本物のマンションmansionだ! USA White House

 ということで、日本の中でマンションに住む人たちは、英米語圏の人たちにむかって「私はマンションに住んでいます」と言うときには、本当に豪邸・邸宅住まいの人はよいが、日本流マンション住まいの人は、うっかり自宅に招かない方がよろしい、見栄の張り過ぎで恥をかくだろうから。そういうわたしは共同住宅ビルの地上20m空中陋屋暮らしである。

 話は最初に戻るが、ウクライナにもガザにもmansionがないことはないだろうが、それが爆弾で燃えても被害者が少ないからニュースにならないのかなあ、どうなんだろうか。
(2023/10/24記)

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2023/10/21

1715【横浜随一の商店街の変化】コロナ後の伊勢佐木モールはどんどん貧乏人向きの街へ

 横浜一番の繁華街とされてきた伊勢佐木モールの商業的変化が著しい。これは多分衰退と言うべきだろうか。
 わたしが鎌倉からこの近所に越してきてからはや21年、横浜都心部日常徘徊コースのひとつであるから、買い物はめったにしないけれども、かつて都市計画家であった名残でその都市的消長を眺め続けてきた。といってももう分析などしないのだ。変転を見て楽しむだけ。

 コロナ後の現在は、かつての買い回り商店街から飲食店街への転換が、日に日に目に見える。それは街歩き趣味徘徊老人には、その変転を日々楽しむことができるから嬉しい。
 あれ、ここは前にはなんの店だっったっけ?、ということがしょっちゅう起きる。こちらがボケてきたから以前を思い出さないのもあるが、頻度が高いから覚えきれないのだ。おお、ここも空き店舗か、次はどんな店かなあと思っていると、たいていは安い飲み屋になる。

 今の伊勢佐木モールには、安売り屋と安飲み屋がどんどん増えている。コロナ後に著しい。貧乏年金暮らし老人には、これは歓迎すべきことである。そういう街ならば安物衣服でふらふらと安酒のみでかけられる。と言いつつも一方では、こんな安っぽい街に住んできたのだったかなあとも、この21年を思い返すのだ。

 近ごろは古着屋やら家電雑貨のリサイクルショップやらが目立つ。ところが、伊勢佐木モールではかなり好立地のリサイクルショップが先日に閉店して、テナント募集看板が出ている。この店は2年くらい前にできたばかりだったのに、店舗自身がリサイクルになってしまったのか。南へ(正確には南西へ)下るほどに安売りが増える。

 そして安売り王者のドンキホーテが、今や伊勢佐木モールで唯一の大型物販店になってしまった。この20年で大型店の百貨店松坂屋や量販店ユニーが消えた後がこうなのだ。

松坂屋があたころの伊勢佐木モール 2007年
 近ごろの安売り王の衣料屋のユニクロと、なんでも百円屋のダイソーがひとつビルに入ってダイクロとでもいうビルがあった。それがこの春に空きビルになった。はてどこに行ったのか、これは貧乏人は困る。ところがなんとダイクロ揃って、同じ伊勢佐木モールの昔松坂屋後の4階建てビルに移っている。まあよしとしよう。

 さてその跡の大きなビルに、つぎはどんな安売り屋が入るかと期待していたが、秋が来ても空きビルのまま。それが昨日の徘徊で近づき見れば、一階の壁に小さな張り紙には「解体工事のお知らせ」とのこと。
 えっ、この大きなビルを壊すのかあ、そう古いビルでもなさそうだが、もったいない、例えばホテルのような業態にリニューアルできないのだろうか、跡に入るテナントがみつからないのだろうなあ、伊勢佐木モールの商業的落ちぶれぶりを象徴する。

ユニクロダイソービルは取り壊しへ、もったいない

 このダイクロビルの斜め前のあたりには、あのレイモンド設計の戦前モダン建築の不二家ビルが、店を閉じて解体を待っている。その跡には不二家が戻ってくるのだろうが、さてどんなビルが建つのか、もはや元のような高いビルではないような気がする。

 松坂屋跡が4階建てビルだから、もう伊勢佐木モールには高層店舗が成り立つ能力を失ったのかもしれない。

この夏から閉店して今や取り壊しに取り掛かる不二家ビル

 今や伊勢佐木モールの中のビルで、3階以上を物販店舗にしているものは、北から順にパチンコ屋、元松坂屋のカトレヤ、書店の有隣堂、元松坂屋の場外馬券売り場(これは物販ではないか)、中古本雑貨のブックオ、なんでも安売りドンキホーテ、これだけである。 

 百貨店はもちろん、大型量販店も閉店して、これらの中で有隣堂だけが老舗であるのが、なんともはや伊勢佐木モールの今を象徴する。今わたしが危惧するのは、有隣堂さえも閉店するときが来るかもしれぬことだ。だって、別館が消えてアパートビルになったのだから、本店だっていつのことやら。

 でもわたしは伊勢佐木モールが買い回り型の商店街から、最寄り型で慰楽型の商店街になることを嘆いているのではない。
 ドンキホーテ、ユニクロ、ダイソー、ブックオフそしてリサイクルショップに安居酒屋ときては、貧乏年寄りには過ごしやすい街になってきたものだ。いいことだよ。
 そのような中でも、せめて有隣堂だけは、この街のかつての格式を維持して生き延びてほしいものだ。(20231021記)

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伊達美徳=まちもり散人
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2023/09/25

1705【神宮外苑再開発は不採算事業】意外にもこの再開発に超多額の国民負担が必要と知った

●外苑再開発は不採算事業

 いま反対運動であれこれ取りざたされる東京の明治神宮外苑再開発事業について、事業採算の基本となる資料の一部を知ったので、忘れないうちにコメントを書く。
 2023年9月24日に岩見良太郎氏による公開ZOOMレクチャーがあった。岩見氏をわたしは知らないが、昨今の都市開発事業(たとえば土地区画整理事業や市街地再開発事業)について批判的な立場にあるらしい。神宮再開発について初めて登場した市街地再開発事業に関する専門家と言ってよいだろう。そのレクチャー内容についてわたしは論評しない。

 そのレクチャー資料の一部に事業資金計画等があり、この事業は市街地再開発事業一般としては権利者にとって大赤字の採算割れ事業であることを知った。ここで言う赤字とは、市街地再開発事業の中で権利者の収支が完結しないで、権利者たちが土地のほかに資金投入をして長期回収する必要があるという意味である。零細な権利者にはできない事業である。

 ここですこしだけ基本を解説する。都市再開発法の適用による市街地再開発事業の一般的な方法は、地権者たちが土地建物を持ち寄って、共同して新たなビルを建てる。そのうちの権利者たちの再開発前の資産に相当する床(権利床)部分を受け取り、その他の床(保留床)を第3者に売却する。この保留床売却金を建設事業費に充てることで、権利者は権利床を無償で取得することができる。(後日補足:なお、ここで無償と書いたが、実は事業の中で金銭支出しないで取得する意味であり、実際には保留床に対応する土地の売却金を権利床取得に充てる)

 これが市街地再開発事業の仕組みの基本であり、その建築規模が巨大になればなるほど保留床売却収入が大きくなり、事業採算性がよくなる。これが市街地再開発事業で建設する建築物がが巨大になる原因である。逆に言えば、だから事業に取り掛かる前に、事業区域の都市計画を変更して事業用地の容積率を上昇させておくのである。外苑再開発では再開発等促進区の地区計画がそれである。

 もちろん事業はそれぞれ事情が異なるから、この基本に忠実である必要はない。低層建築でも、赤字でも、権利者や事業関係者それぞれの判断である。金持ち権利者ならば保留床を他人に売らないで自分が買い取る投資をするだろうし、零細権利者ならば保留床を他へ売却できないならば事業を見合わせるだろう。

●事業費の7割は権利者たちの持ち出し

 では神宮外苑地区第1種個人施行市街地再開発事業(以後、「外苑再開発事業」という)の事業採算はどうか。
 結論から言えば、権利者たちにとっては採算割れが著しい大赤字事業である。何しろ権利者たちの持ち出しがものすごい。普通ならば事業をしないだろうが、金持ちばかりのメンバーだからできるのだろう。

この記事は岩見レク資料の内のここに引用した3件の表をもとに書いた

 全事業費は約3千5百億円(349,053,566千円)である。その全部を保留床処分金で賄うのだが、実はそのうちの7割近くは権利者たちが自己負担しており、非地権者で参加してきた三井不動産が負担するのは3割余である。つまり権利者たち(JSC、明治神宮、伊藤忠等)が、事業費の7割を持ち出しで行うのである。

 金持ちの民間事業者がどのような採算割れをする事業をやってもわたしには関係ないから、それらについては金銭的にはどうぞご勝手にというばかりである。
 せめて思うのは、通常の市街地再開発事業では国と都から多額の補助金が入ってくるものだが、この金持ち事業ではそれが一切ないのが、タックスペイヤーとしては幸いである。それは非都市計画の市街地再開発事業だからだが、それを選んだ権利者たちの金持ちぶりを表している。

ラグビー場建設にも新規巨額国費投入

 しかしJSCは文科省所管の特殊法人である。つまり国家機関であり、税金で運営している。わたしも納税者の端くれとしてひとこと言う権利があるので、その事業採算性についてコメントする。

 そのラグビー場の建設費用であるが、市街地再開発事業だから権利床として取得するので新たな支出はないものと思っていた。つまり第3者等床(多分、三井不動産と伊藤忠)に売却する保留処分金収入でラグビー場は建ち、新たな税金からの支出はないものと思っていた。最初に解説したように、それが市街地再開発事業の常識である。

 ところが岩見さんのレクチャーで見た資料によれば、ラグビー場の建設のためにJSCは、約540億円の支出をするのである。え、なんだこれは?、そもそもこのラグビー場建設を面倒な市街地再開発事業に仕立てるのは、保留床処分金を充てることで新たな支出を回避するためであると思っていたが、違ったか?、しないどころか540億円も支出するのである。

 ついでに書けば、明治神宮は新たに約240億円の支出(投資か)、伊藤忠は約1670億円の支出(投資)である。第3者の保留床取得者として登場する三井不動産の投資支出は約1070億円である。これら民間権利者がいくら投資支出しようとどうぞご自由にである。明治神宮は意外に金持ちなんだなあ、事業後の運営や三井からの地代で回収するのであろう。

 だが国有財産であるラグビー場については、約540億円も支出するのは合点がいかない。タックスペイヤーとしては、それだけの金を出すなら、現ラグビー場の改修費用の方が安いだろうに、とも思う。なんにしてもこの建て替えで約540億円の国民負担を必要とする。

●ラグビー場と野球場の土地交換について

 更に問題があることを見つけた。JSCはラグビー場を再開発前の位置から神宮第2球場の位置に移転して建てる。つまり外苑と土地の交換をすることになる。事業の仕組みとしては交換と言わないで権利変換というが、実は交換と同じである。当然のことに等価交換である。

 そしてこのレクチャーで新たに知った資料の中に、再開発前と後のそれぞれの土地面積があった。現ラグビー場の土地面積は41100㎡であるが、神宮第2球場がある位置に移ると43480㎡となり、事業後は2380㎡増加している。

 ところで事業前つまり現在のラグビー場の土地価格と、事業後の土地つまり現野球場の土地の価格を比べてみよう。正確には専門家による鑑定が必要だが、ここでは相続税路線価を比べてみる(ネットで知ることができる)。

 路線価を見ると、ラグビー場の前の道(外苑西通り)は2010千円/㎡である。一方、野球場の前は1490千円/㎡(国立競技場との間の道では960千円/㎡)である。これだけで土地総額は分からないが、両方の土地の単価の比は想像できる。現ラグビー場の土地は現野球場の土地よりも6割ほど高いのである。(当初3割と書いたが6割に修正した20231002、下図参照)


 ということは、現ラグビー場の土地が野球場の場所に移れば、いまよりも倍以上の広さになるはずである。だがこのレクチャーでの資料を見るとわずかに6パーセント弱の面積増加に過ぎない。とすればその差分の土地価額は建物建設費に変換(権利床)されるのであろうが、それでも建設費には届かないので約540億円の支出をすることになる(のであろう)。

 一方でに入れ替わって建つ神宮球場の移転先の土地(現ラグビー場の位置)は3割ほど面積が減るはずだが、そうはなっていない。減らすと野球場が入らないからそうはいかないのだろう。土地全体の広さは変わりようはないのだから、結果的には野球場(明治神宮)がラグビー場の土地(国有地)を買ったことになり、そのカネはラグビー場の建設費の一部になるのだろう。このような権利変換だろうが、要するに結果的にJSCは土地の一部を売ってラグビー場の建設費の一部に充てるのだ。

 この概略推測計算がどれほど正しいか自信ないが、どうもすっきりしない。権利変換計画書を見れば明確にわかるが、国有地処分にかかることだからいずれ公表するのだろう。

 高額な土地と安価な土地を交換するのだから、広すぎる土地の一部を売却すれば(一部転出補償金)、国民負担はないどころかうまくすればもうかるかもしれないとの、タックスぺーやーとしての考えは甘いのか
 市街地再開発事業だから権利者負担はないものと思いこんでいたのが間違い、ということになる。なぜ国民負担が必要な再開発なのか、もっと国民にとって採算をよくしてはどうか。

●JSCはもっとがんばれ

 JSCは権利交渉でもっと頑張ってもらい。自分が使う建築を自分で買い取り、つまり保留床買取をしなくてもよい方法にしなさいよ。せっかく市街地再開発事業に乗ったのだから常識的に行きましょうよ。
 全員同意型事業なのだから、権利変換で権利証として全取得できるように、三井不動産や明治神宮と談判交渉してほしい。このラグビー場建設事業を委託されているらしいUR都市機構には、再開発プロとしてもっとガンバレと言いたい。

 この再開発ができるようにした、つまり公園廃止をした原因者(元凶)であるJSCは、事業者の中で一番の貢献者であるのだから、もっと強い立場で権利交渉してはどうか。下世話に言えばゴネルのである、町場の再開発によくあるようにね、勿論冗談。
 JSCはこんな赤字再開発事業に乗った(乗せられた)のが間違いだったかもなあ、今のところで建て替えるか修復する方がよいのかもなあ。

 以上は、初めて見た基本資料だけで、年取った今も多少は覚えているプロ的な知識で考えたことであり、詳細なことを知らないヒマな老人のピンボケヒマツブシたわごとである。
 まだしばらくボケ進行遅延策に外苑再開発を利用することができそうで、うれしい。

(20230925記)

●最近の外苑再開発瓢論4部作(伊達の眼鏡ブログ)

2023/10/05・ラグビー場はPFI入札ダンピングで国費新規投入抑制か

2023/10/02・国立ラグビー場だけ大損の再開発にJSCは参加するな

2023/09/30・見世物スポーツのためにラグビー場に多額税金投入やめよ

2023/09/25・意外にもこの再開発に超多額の国民負担が必要と知った

●関連するわたしのブログ記事

【五輪外苑騒動】国立競技場改築騒動と神宮外苑再開発騒動瓢論集

2023/08/08

1700 【横浜ご近所探検が行く】横浜中華街の向こうをはる「横浜大韓街」誕生か

 暑い日が続くが、カネのかからない年寄りの健康法でとにかく歩くのだ。横浜の都心住いだから、買い物と徘徊が一致するのがありがたい。趣味の街並み景観見物が毎日できて、この街の変化をもう20年以上にわたり続けている。

 徘徊とは目的の無い彷徨行為と定義されるが、それが日常買い物と景観見物と健康に資することになっている。これは徘徊から言えば本意ではない。目的の無い外出と、その他を厳密に分けて、それぞれあらためて出直すべきである、というご叱責もあろうが、まあ、先が短い年寄りのやることに、いちいち目くじらたてなくてもよいだろう。

 さて、今日も今日とて横浜ご近所徘徊していて発見、おや、横浜チャイナタウン「中華街」の向こうを張って、福富町はコリアタウンの「大韓街」になったのか、と。
 福富町の中央部に西通り・仲通り・東通りを串刺しにする南北の通りがある。この通りには沿道の両側に1950年代に防火建築帯として建てた共同建築群が立ち並ぶので、その変化に興味を持ってちょくちょく観察に通るのである。

 その通りの南入口ともいうべきあたりに道路をまたぐゲート状の工作物が建っていて、そこに大きな字で「KOREATOWN 福富町国際通り」と書いてあるのだ。あれ、こんなのが前からあったかなあ、こんなに大きな文字だから気がつくはすだよなあ、いつの間にできたのだろうか。この通りは国際通りというのか、初めて知った。

KOREATOWNの大文字のゲート

 福富町については、以前からコリア系とチャイナ系の店舗が多くなってきたなあ、でも風俗系の店も多いなあと思っていた。この大看板を見て通りの店の看板を見まわしていたら、たしかにコリア系店舗がさらに増えている、一方で風俗系が減った感がある。
 家に帰ってからGoogleストリートを見たら、去年11月撮影の同じ通りの風景があり、そこには同じ道路をまたぐゲート風のアーチがあるが、KOREATOWNの文字はないから、今年になってできたのだろう。

2022年11月撮影の同じゲートには文字がない google street

 チャイナタウンが中華人民共和国街つまり「中華街」ならば、コリアタウンは大韓民国街つまり「大韓街」というのだろうか。
 それにしても横浜中華街のような横浜発祥の歴史を背負うチャイナタウンはともかく、福富町が中国系も日本系もある商店街でコリアタウンを名乗るには、それ相当の何かがあるような気がする。商店街組合がこのように名付けるのだろうか。
 風俗の街にイメージがある福富町全体が、中華街のような大規模な横浜大韓街KOREATOWNに変身するのは、なかなか面白いと思う。期待している。

KOREA系店舗の看板が目立つ

福富町KOREATOWN 北から見る全景

 横浜橋商店街もコリア系の店がかなりあり、KOREATOWNのイメージがある。実は単なる遊びであるが、数年前にKOREA系と中華系の店の数をカウントして、この商店街の全店舗の中でどれくらいの割合を占めるか計算したことがある。12パーセントほどで、意外に少ないと思ったことがある。それらの日常性から離れた店舗風景に気をひかれてしまてて、イメージ先行するのだろうか。

 さて、横浜都心部の関外に特に多い戦後復興の防火建築帯は、次々と建て替えられている。商店街としては関内側の馬車道の防火建築帯はかなり建て替えが進んだ。だが関外側の伊勢佐木町や福富町あるいは吉田町のような古い商店街では、建て替えが進まずに、いまも戦後復興期の姿であり、横浜の特徴ある街の風景として生きている。

 生き残っている理由は、建築物の所有権が複雑化していることもあるだろうが、テナントの身代わりの早さがあるのかもしれない。福富町がかつては伊勢佐木町のような普通の商店街だったのが、風俗街へ、そしてエスニック街へと時代に対応して生き残り作戦で変遷しているのが興味深い。普通の商店街が地域でも有名は風俗街に変身して生き残っている例として、群馬県太田市南口商店街がある。

 伊勢佐木町でも防火建築体に入る店舗が、コロナ以後その変遷が著しい。次々とテナントは変わっても意外に空き店舗は少ない。ただしわたしの観察によれば、物販店も飲食店もどうも安売り店舗へと変化する傾向がある。あまり変わらぬ商売を続けている元町商店街との落差が著しくなっている。
 その変遷が一段落したころに、建て替えによる変化が始まるだろうと、それがいつ来るのかと、それも興味を持って待っている。(20230808記)

2023/07/28

1697【醜い風景コレクション】日本の郊外風景を形成する自動車屋「枯葉作戦」という景観感覚


 この暑いのに、わたしの住まいの近所の立派に繁っていた街路樹が20本も100mの区間にわたって切り倒されて、暑いこと暑いこと。
 横浜市の道路管理者が、今年の冬は寒そうだからと、沿道や近所の歩行者に陽射しを十分になるようにと、親切心から切り倒したに違いない。そう思わないと市民としては救われない。まだ冬が来ない夏の今から陽射しを浴びて通り、熱中症になろうとしている。

 ところが企業としてもそのような考えを実行しているという新聞記事やネット書き込みを見て、暑苦しいことである。
 ビッグモーターなる中古車販売やら修理やら検査やらしている全国的展開の企業が、長期にわたって大規模な保険金詐取をしていることがバレて大騒ぎ、そのビッグモーターは、店舗前の街路植栽を積極的に枯らせることも全国的に展開したらしいというのである。

 店に日照りをよくしたいのだろうか。郊外の大きな通りに面して自動車をずらーっと並べている殺風景極まる景観を自慢したいのか。


 実はビッグモーターときたら、その殺風景さを目立たせるために、店の前の道路の植栽を、薬剤を使って枯れさせ、道路管理者に切り倒させているらしいのである。
 何しろビッグモーターの店の前だけ、道路植栽が枯れている風景が、全国各地のその店舗前に起きている現象だそうだ。薬剤を撒いていることを店員が証言しているのだから、確信犯としての「枯葉作戦」(ベトナム戦争でUSA軍による大量薬剤散布ジャングル植生枯死作戦)である。社長の言ではそれは「環境整備」なのだそうだ。確かに販売促進環境の整備ではあるが、公のものを無断で滅失させる罪の意識がない。

Googleストリートに撮影されてしまった枯葉作戦

 風景も醜いが、心も酷いもんだ。
 「ビッグモーター 街路樹」で画像をネットで検索すると、あるはあるは日本全国のビッグモ-ター店舗前だけ植樹が枯れた風景が無限のごとく登場する。
 でも思うに、ビッグモーターばかりか、その他の郊外沿道店舗はどこもかしこも枯葉作戦をやっているに違いない。そうでなければ日本の郊外沿道風景が、どこもかしこもあんなにも醜いわけがない。

 わたしの仕事は都市計画家であったから、全国各地に行きあちこちを見てまわることが多かったが、郊外道路沿いの風景のあまりの醜さに気が付いたのは、1995年に静岡県の掛川市でのことだった。
 掛川の中心部は城下町として、そのころからなかなかに良い景観づくりを目指して整備していた先進地である。それを見たあとで郊外の国道1号の沿道風景を見て愕然とした。立ち並ぶ店舗のあまりの乱雑さに驚いたのだ。

 それからは地方都市に行くごとに,郊外の主要道路沿いを探訪して、醜い風景のレクションをやっていた。とくに掛川のような歴史的な都市の都心部と郊外部の風景の大きな落差を探したものであった。その思いつく地方都市を挙げると、掛川、松江、倉敷、熊本、七尾、松本、新発田、半田などなど。

 とくに自動車関係の店舗と郊外型ショッピングセンターが、百鬼夜行のデザイン店舗を競い、樹木のない広大な野外駐車場の車の洪水、その周りに色とりどりにはためくバナーの類、全くどこに美的感覚があるのだろうと呆れるしかない。

 20年も前に集めたそれらを見ていて、どれにも自動車関係らしい巨大看板が派手な色で立っている。その醜さを和らげてくれるのが、街路植栽であるから道路関係者の道路植栽への力を入れることを望んでいたのだ。
 ところがなんとまあ、沿道店舗群はそれを積極的に枯れさせて、わざわざ醜い風景を露出させようとしていたのであったか。自動車産業は世も末である。

 以下に昔に(といってもこの30年ほど)撮影した日本醜い風景コレクションの一部を載せておく。とくとご覧あれ、なにが起きているか、誰がやっているか、。



この八ヶ岳が見える醜い風景について、もしも広告がなかったらどう見えるか
景観戯造遊びをしてみたのでこちらクリックをどうぞ

松江

松本

熊本






 もう長らく地方都市の郊外に足を延ばしていないから、今では美しい風景に代わっているに違いない、ビッグモーターは例外と思おう。(20230727記)

参照景観戯造





2023/06/10

1690【横浜寿町の変化・1】横浜都心部の関外にある貧困ビジネス街はどう変わりつつあるか

【横浜寿町・地域活動の社会史2】からつづく

横浜都心部の変化を楽しむ

 今日(2023年6月8日)の朝刊新聞記事に、厚労省の統計で2022年度の生活保護申請が約24万5千件で、2021年度から7%も像か、そして今年3月の生活保護受給申請は24500件、去年同月と比べて24%も増えて、今の受給全数は約165万世帯とある。

 防衛費とか少子化対策費とか巨額国費投入とか、コロナ対策費削減で余裕ある国費予算とか、あるいは好景気らしく納税が空前になりそうとか、なんだか景気がよさそうな雰囲気があるようだ。ところがどっこい、この列島には実際はこれほども多くの貧困世帯がいて、しかも増えているのだから、一体どうなってるのだろうか、どうにもわからない世の中だ。

 日本全体でこれほども生活保護世帯が増えれば、その世帯が集中して住む横浜寿町とか東京の山谷とか大阪の釜ヶ崎などの、いわゆるドヤ街はどんな様子だろうかと考えてしまう。そこでは簡易宿泊所という安宿が増えてきているだろうか。
 ということで、その生活保護受給者約6000人も住む横浜寿町地区(横浜市中区寿町・松陰町・扇町あたり約6haの地区の代表として寿町地区と称する)に徘徊に出かけて、街を見てこようと思いついた。(参照→寿町地区俯瞰概念図


 人口が5000人以上6000人以下の自治体は日本に141もあるから、これは立派すぎる規模の街だ。そしてまた人口密度が1000人/haという極端さでありながら、超高層ビルは一つもないし戸建て住宅も無くて、超狭い住戸(1戸がネット5㎡が珍しくない)が中高層ビルに押し込まれている現実である。

 わたしはこの20年ほどの間、横浜の関内と関外あたりの古くからの都心部を日常的に徘徊をして、街の変化を眺めるのを趣味としている。
 その対象とする主な街としては、商業街として伊勢佐木町・馬車道・元町など、観光街として新港地区・中華街など、住宅街は山手や野毛山あたりの斜面住宅地寿町地区がある。

 商業や観光街の世の景気、特にコロナ禍に左右される激変が面白く、特に横浜一番の繁華街「伊勢佐木モール」の質的低落がものすごい。
 住宅街の世代交代に対応して徐々に変わりゆく姿の継続的観察も面白いものだ。都心部の住宅街は一般に中高層共同住宅街で特に面白くもないのだが、斜面地や崖地住宅街と寿町地区は都心部住宅街の特殊な事例として実に興味深いものがある。
 この20年分の変化を、この辺でまとめて書いておきたいと考えている(ボケると書けなくなるから)。今日からまず寿町地区を書くことにする。

寿町地区でゼントリフィケイションは起きているか

 寿町地区へのわたしの興味の中心は、その変化の動向である。この20年ほどその動きを好奇心で観てきた。この横浜都心の開発ポテンシャルが非常の高い地区が、低所得者層が集中しながらも、その景観は大都市のありふれた姿である。

 だがその居住者層は時代とともに変化も著しい。その内部的な変化に対して、都市の開発ポテンシャルの顕在化がどう影響を及ぼすのか、興味はそこにある。いわば寿町的ゼントリフィケイションはどのようにして起きるか、いや起きないのか、そこに興味がある。

 実のところ、この街の変化は普通に見る分にはほとんど見えない。それどころか知らない人がこの街を通り過ぎても、よくある都市の共同住宅街(いわゆるマンション街)にしか見えない。
 だがこの街は戦争被災地から1950年代半ばに復活して以来、じわじわと変化し続けているのだ。それは目に見えるハードな面もあるが、その住民たちの時代による変化がこの街の中身に及ぼす変化である。特に初期の若くて働く者たちの街から、今は高齢化率が5割を大きくこえる超高齢者の街に変化している。それが街の姿にどう表れてきたか興味深いのである。


 では今日の徘徊は、寿町地区に向かうとして、その西角の長者町1丁目交差点から入る。

寿町地区の西角の長者町1丁目交差点から寿町方面
角地に建っていた1950年代に建った防火建築帯が事務所ビルに建て替わった

 この地区を取りまく幹線道路つまり寿町地区の外殻にあたる道沿いには、原則として簡易宿泊所は建っていない。ドヤ街としての外向きの顔は、地区の外殻にはオフィスビルや共同住宅ビルが建っていて、本物の顔は顔は地区の内部にある。

 ドヤ街入り口の左右にパチンコ屋が構え、上層に駐車場を載せる9階建てのビル、高い広告塔を立てている、近づいてみると1回の壁に張り紙があり、「6月18日をもちまして閉店することになりました」とある。「1998年5月から約20年の営業、、」とも書いてある。おやおや、こんな貧乏人向のギャンブル場でさえも成り立たなくなったのか。

 このビルと道を挟んで向かいにもうひとつパチンコビルがあり、同経営のようだから、これらはドヤ住人相手の商売として、四半世紀前に営業開始したのだろう。だが今やドヤ住人たちはパチンコもできないほどに貧困になったか、それとも超高齢化でドヤから出て遊ばなくなったのか。何しろ高齢化率が6割を越えようとする地区である。

 寿地区でのギャンブル場といえばこれらパチンコ2店のほかに、ボートレース場外舟券売り場があり、2軒の違法「ノミや」がある。これらが同列の商売かどうか全く知らないが、約6000人の地区内居住者がいて、しかもこのような交通便利な都心部でも成り立たないものなのか。

 この近くにあるパチンコ屋は、伊勢佐木町と横浜橋の商店街にもあるが、それらと比べるとここは繁華街でもなく郊外でもない、むしろ住宅街であるから、狙いはドヤ街住人だったのだろうが、貧困介護老人が増えては成り立たなくなったのだろう。
 さてこの跡には何が建つのか、最も考えられるのは高層共同住宅ビル(いわゆるマンション=名ばかりマンション)である。実は現在このパチンコ屋の前後左右のあたりは、共同住宅の建設ラッシュの感もあるのだ。

 このパチンコやビルの斜め向いの街区にいま建設工事中のビルがある。そこの工事看板には「賃貸住宅」と書いてある。以前ここには、1階に店舗の入る3階建て共同住宅ビルが建っていて、これは1950年代後半に戦後復興事業として建った防火建築帯であった。次いでの書けば、、この長者町通りの両側には戦後復興期に多くの防火建築帯が軒を連ねて建設されたが、いまやほとんどが建て替えられて共同住宅ビルになり、残るは数棟である。

寿町地区南西入り口左のパチンコ店は閉店お知らせ中
右手前の工事囲いは1950年代の防火建築帯を賃貸住宅に建て替え中

 この工事中の賃貸共同住宅の立地は、幹線道路を挟んで寿町地区に隣接する街区で、ここのまわりには寿町地区からはみ出したドヤビルが5棟が軒を並べて建っている。
 この敷地南東側に面して首都高速道路の高架があり騒音と排ガスを24時間振り撒いているから生活環境が良くない。一般住宅よりは簡易宿泊所の立地に適する感もある。
 立地環境から販売リスクがあると考えて、分譲ではなくて賃貸共同住宅としたのであろうか。その隣には大きな平地の駐車場があるので、次はここに何が建つか楽しみである。 

寿町地区南西入り口から振り返ってみる。右に閉店予定のパチンコ店、
その道路向かいの高層ビルは今年4月竣工の分譲共同住宅、
正面に見える5階建ては簡易宿泊所(寿町外)、左の工事中は賃貸共同住宅

現在工事中の賃貸共同住宅敷地に建っていた1950年代戦後復興期の防火建築帯

 さきほどのパチンコ屋から長者町通り沿いに南東に歩けば高層ビルが建つが、これは寿町地区の外殻に建つ例外的な簡易宿泊所で5年ほど前に建て替えた(下図中央)。

長者町通りから寿町地区に入るメインゲイト両脇にパチンコ店、その右に高層ドヤ

 この高層ドヤビルの南東隣が長らく空き地(下図中央部)であったが、いま見ると工事用の塀ができて建築工事看板がある。その用途は共同住宅79戸11階建て高層ビルである。パチンコ屋跡とここに新ビルが建つと、この寿町地区の南西側幹線道路沿い、つまり南西側の外殻には一応高層ビルが立ち並ぶことになる。それは3~4年後のことだろう。
長者町1丁目の幹線道路に面して左に高層簡易宿泊所、右は共同住宅
その間にあった空地に共同住宅建設の看板が登場

 ではこれから寿町地区の中に入っていって街の変化を探ろう。(20230610記 つづく)

参  照

1687【横浜寿町・地域活動の社会史】(2)横浜市の都市政策における寿町の位置づけは?  https://datey.blogspot.com/2023/05/1687.html

1686【横浜寿町・地域活動の社会史】都市下層集住社会の課題解決に活動する人々に敬服するばかり https://datey.blogspot.com/2023/05/1686.html

2023/05/21

1687【横浜寿町・地域活動の社会史】(2)横浜市の都市政策における寿町の位置づけは?

承前)横浜名所についての新刊書籍『横浜寿町・地域活動の社会史』を読んでの話の続きである。

●田村明と緒形昭義

 この本にはわたしが面識ある人はほとんど登場しないが、それでも3人を見つけて前回の話に書いた。更に2人の名を見つけたので書いておく。それは田村明さん緒形昭義さんである。どちらも飛鳥田市政時代になって横浜に登場するひとだ。

 飛鳥田革新市政が始まったのは1964年4月、田村はその飛鳥田のもとで市の幹部になって、都市政策に辣腕を振るった。わたしは自分の専門であった興味から、田村の横浜市における都市政策が、寿地区にはどのように及ぼされたのか興味があった。
 だが、この本に田村の名前が登場したのは一回のみであった。この本の内容がいわば福祉系に偏っているから、それも当たりまえか。

 その田村が横浜市が建てる建築の設計に起用した建築家のひとりが、彼と大学同期生の緒形昭義であった。横浜市内で設計事務所を主宰する緒形の設計で有名なものは、寿町総合労働福祉センター(1974)と藤沢市労働会館(1975)とネット情報で知った。
 まさに寿町のプロジェクトで緒形は田村に起用されたが、今はもう別の建築家の設計の建築に建て替っている。
 わたしはもう40年以上も前で具体的なことは忘れたが、田村と話をしたことが2度あった。またこれも何の用だったか忘れたが、緒形をオフィスに訪ねて長く話し込んだ記憶がある。

 さて横浜市の都市政策がどのように寿町に影響を及ぼしたかを、この本の中で興味深く読んだのは、寿町の分散と縮小を意図したことがあったとの記述である(上巻第1章第6節)。
 飛鳥田市政になった頃、「寿町ドヤ街を分散して縮小・解体の方向へ誘導しようとする分散論」なるものがあったそうだ。まさに寿町都市政策である。

 そして実際に1968年には、横浜市は「寿町周辺地域の建設指導要綱」をつくり、簡易宿泊所の建設規制を始めた。その内容は簡宿の新改築の原則禁止であり、許可するには建築構造や設備等の適切な整備を条件とした。これに限らないが、田村は幾つもの指導要綱を作って、都市政策を進めたことで知られるから、これもその一つであろう。

 しかし分散論そのものは立ち消えになり、むしろ寿町総合労働福祉会館という地域のセンターをつくる方向となり、寿ドヤ街の機能強化になった。つまりドヤ街分散論ではなくて容認論へと進み、現在に見るように新改築されて高層ドヤビル化が進み、ドヤ街は分散することなく現地で繁盛している。

 わたしはその60年代半ば過ぎの当時の横浜を知らないが、ドヤ街を政策的に忌避する空気と、必要悪として容認する現実とのあいだで、現実が勝ったということか。
 と言うよりも分散も消滅も無理で、建てるならばできるだけ良い設備とする指導するしかなかった、それが飛鳥田革新市政の福祉政策の方向であったのだろう。

 この本に登場する田村は、そのような時に要綱を作っていること、そして寿のセンター施設の設計に緒形を起用したとの記述にある。田村時代には横浜市では力量ある建築家たちの起用がなされてきたが、緒方もそのひとりであったのだ。

寿町総合労働福祉会館(1974年竣工、現存しない)

寿町総合労働福祉会館

 たしかに緒形の設計した「寿町総合労働福祉会館」は、寿地区の平凡なドヤ建築群の中に、異彩を放つ大きさとデザインであり、地区のセンターとなる景観と機能を発揮していた。
 そのブルータルな表現はダイナミックであり、開放的な広場や大階段やピロティに、仕事を求める人々、ドヤ住民たち、野宿ホームレスなどなどが日夜群れていて、焚火の煙と相まって独特の活気があった。いかにも民衆的エネルギーを生み出すデザインであった。

 この会館の計画は1971年から具体化して、72年から設計にかかったとある。先ごろ横浜市都市デザイン室が開設50年記念展覧会を開催したが、この会館に都市デザイン室が関わったかどうか分からないが、横浜市の都市デザイン政策の出発プロジェクトとは言えそうだ。 

 いまはもうその会館は無くなり、後継として「寿町健康福祉交流センター」に建て替わり、その名のごとく労働から健康へと時代の変化を映している。デザインは全体配置を継承しつつも、どこかスマートな風貌になっている(小泉雅生設計)。

寿町健康福祉交流センター(2019年開館)

 ここまでが『横浜寿町』の記述にかかわることであり、これからはそれと関連しつつも別にして、わたしが日ごろ感じている横浜市の都市政策と寿町の環境との軋轢を書きたい。

●寿町と首都高速道路

 今の寿町の都市環境の大きな影響をもたらしたのが、飛鳥田市政時代の重要都市政策のひとつである首都高速道路の建設である。寿町地区の南側を流れる中村川の上空に建設した、その高架道路がもたらす日照阻害、騒音、排ガス等の公害を、この街は一手に引き受けさせられている。もちろんその騒音が横浜都心の関外地区に一日中鳴り響いている。

寿町一帯は、街の南側を高速道路の高架で囲まれ、中村川の水面は覆われた

 横浜市内のその建設計画は飛鳥田市政になる前に都市計画決定されていたが、実はs野々市は今の中むらぐぁ上空ではなかったのを、飛鳥田市政で変更してここに移しのだ。飛鳥田市政前の都市計画では、今の大通公園野市に流れていた吉田川・新吉田川の上空に通す決定であったのだた。

 それを中村川の位置に変更した理由は、横浜都心の街の真ん中を通すとは「眉間の傷」になるから変えよと、飛鳥田市長の言葉だったという。中心市街の商業者の声でもあったという。田村はそれを受けて中村川上空高架に都市計画変更したのであった。

横浜都心を抜ける首都高速道路の当初計画(左)と変更後の現実(右)

 具体的には、桜木町方面から関内関外境界の派大岡川の上空を通り、関内駅前でジャンクションを作って堀川方向と吉田川方向に分岐する計画であった。
 これを派大岡川を埋めてその地下に高速道路を埋め、石川町駅前の上空にジャンクションを設けて、堀川上空とと中村川上空に分岐することにしたのだ。
 この計画変更に関して建設省と横浜市の熾烈な論争と駆け引きの経過と結果に関しては、田村の筆で書物になり有名な話となっている。

 そして寿町はもちろんだが中村川両岸地区はもろに公害の街になった。要するに派大岡川部分は地下にして景観上は見えなくなり騒音も防ぐことができたが、中村川と堀川の部分は上空の高架のままであったということだ。
 これを田村は「中村川の上を通るのは景観的には問題だが、他の案よりはましだ(『都市プランナー田村明の闘い』田村明著2006年 学芸出版社 84ページ)としている。

 他の案よりはまし、とはどういう意味か。原案との比較か、あるいは大岡川の上空案もあったのか。それらと比べてよりましとは、この実現計画は景観のほかには欠点が少ないという意味か。だが堀川も中村川も両岸には密度高い街があり、特に中村川のあたりは住宅街である。

 そのころの中村川に沿う街には、寿町と同様に中村町あたりにも簡易宿所が多く建っていたから、住宅街とはいえ他と比べると地元住民とは言えない出稼ぎの労働者が多かったようだ。だから地元からの反対の声が出なかったのかもしれない。

 だからと言って密度高く人々が住んでいたことに変わりはないから、道路公害があってよいわけはない。それでも「まし」とは、そこには都市下層住宅地域とする差別感を感じさせる。関外にあるわたしの住まいからも遠いが高速道路騒音が聞こえるので、「まし」の範囲に入れて貰いたくない。

 寿町の高速道路に面する簡易宿泊所に入ったことがあるが、その騒音はかなりヒドイものである。しかもそれは排ガスとともに夜間も絶えないのである。
 簡易宿泊所は住宅でもないしホテル旅館でもない。建築空間として住宅のような日照や通風について法的保証は無い地位にあるが、事実上は住居として利用されている。
 その利用者の特殊性によって、この立地でも成り立っている不動産であるのだろう。他の機能はこの環境を忌避して入ってこないのが現実かもしれない。この20年の観察で新たな機能として入ってきたのは、数多くの介護関係施設だけであることが、この地区の劇的な変化を表している、

ドヤの南側窓を開けると目の前に轟音の高速道路

 もっとも、数は多くないが、中村川に沿う街でも寿町を離れると、騒音公害の中に高層共同住宅ビル(いわゆるマンションー原義とは大いに異なるが)は建ってきており、売買や賃貸借されている。生活の質的環境よりも、立地の便利さが優先するという現実社会がある。

 更に問題を言えば、堀川から中村川そして大岡川と連続して横浜都心の関外関外をぐるりと三方を囲む水面だが、大岡川と多とは大いに異なる環境になっている。
 大岡川が明るくて市民のレクリエーション利用水面にもなっているのに対して、中村川と堀川は上空を覆われて日の当たらない暗い水面で、市民の利用はほとんどない。

 飛鳥田と田村が決めた高速道路は、一方でこのような都市環境を生み出してるのだ。ちょっと解せないのは、この高速道路が土木学会に表彰されていることだ。しかもその理由が「地域環境に調和し景観に優れた・・」とあり、え?、土木学会は何を考えているのか。

高架道路に覆われて暗い水面

中村川下流の堀川堤防際の高速道路柱にある土木学会田中賞銘盤

 東京の日本橋の上空の首都高速道路を地下に通して、日本橋川の上空の高架道路を撤去する事業が現在進んでいる(その首都高公報サイト)。それができるのだから、こちら横浜の中村川と堀川の上空を覆う首都高速道路も、日本橋川と同じように地下に付け替える事業をぜひともやってもらいたい。山手の丘の下に埋めればよいだろう。

 この高速道路のことはこのブログに既に書いているので、これ以上は述べない。
 ・参照その1:都市プランナー田村明の呪い(2019/09/27)
 ・参照その2:【不思議街発見5】(2018/07/10)

 実はこの本を読んでいてふと気がついたのは、簡易宿泊所の経営者たちはどのような社会史あるいは経済史をもっているのだろうかということであった。だが全く登場しない。
 その多くが朝鮮半島出身者であるらしいが、それはどのような歴史をもつのだろうか。簡易宿泊所の経営とはどのような経済史を持っているのだろうか、それは釜ヶ崎や山谷にも共通するのだろうか。

 この続きは、近ごろの寿町のドヤビル建設の動きから、何かが起きようとしているらしいので、それを書く。  (2023年5月21日記) (つづく


2023/02/23

1673【未来へのバトン】熊本の歴史的都市生活空間を次世代へ継承するNPO活動がすごい

1993年撮影 旧第一銀校熊本支店

 上の写真は、わたしが1993年に熊本市内で撮った赤煉瓦ビルである。1919年に旧第一銀行熊本支店(設計者は西村好時)として建てられた。この時は「熊本中央信用金庫」の看板がかかっている。

2022年 PSオランジェリ (「未来へのバトン」よりコピー)

●NPO熊本まちなみトラストの活動記録が来た

 そして先日送られてきた熊本市のまちづくり活動団体のNPO「熊本まちなみトラスト」(KMT)による冊子「未来へのバトン」(2023年)に、上の写真のような現在の姿が載っている。「PSオランジェリ」の名で民間企業の施設として、立派に生きて使われている。

 その冊子には、この建物の二つの写真の間におきた社会変動や地震災害(2016年)による取り壊しの危機をくぐりぬけて、継承に成功した市民活動の歴史が語られる。
 そしてその保全と活用の活動は、ひとつの建物から複数へ、そして地域まちづくり活動へと、熊本市中心街全体にわたる歴史的な生活空間の保全と活用に展開する。これは日常生活空間の記憶を未来への継承である。

KMT活動年表の一部
 
 その多様な歩みの報告を見ることができるが、それらはこの建物の様に成功したものもあれば、あえなく消えたものもある。熊本市の中心部の歴史的な生い立ちと経緯を踏まえつつ、次の世代に街を継承していこうという、市民の自発的な活動である。

 NPO設立からちょうど四半世紀、そのまえの任意活動団体時代も入れると、37年も続いてきている。その25周年記念誌が、事務局長の冨士川一裕さんから送られてきた。A4判でカラー刷り、100ページ近い立派な書籍である。
 記念誌のタイトルは「未来へのバトン」とある。まさに記憶の継承」を基本コンセプトにする、このNPOの人たちが愛する歴史ある熊本の街を、豊かな形で次世代市民へ手渡していこうという、活動の心根がこもる言葉である。

 その活動について大勢の活動参加者たちが文を寄せている。城下町の生活と生業を支えてきた歴史ある都市空間を、時代に対応させつつ生かして、次の世代も使っていくことができるように伝えていこうと、その当事者として動いた市民たちの寄稿である。
 特に熊本市は2016年に巨大地震で、次世代に伝えるべき都市の歴史や生活資産の多くが被災したために、その継承に多大多様な活動をして困難を乗り越えた貴重な体験を持っているのが、大きな特徴である。そこにはそれまでの20年にわたる活動の蓄積があったからできたのであろう。

 都市の歴史的資産の継承に、いわゆる伝統文化保存の面からだけではなく、都市生活の継続という面からも評価して取り組む活動がすばらしい。都心市街地における保全と再開発の軋轢は、古くて新しい問題であり、このNPO熊本まちなみトラストの活動の動きが、全国各地の先導となるものであろう。

冨士川さんからの送り状と25年記念活動振り返り講演記録のページ

 この記録集が上梓された裏には、活動の資料をきちんと整理保全していた冨士川事務局長の努力とその能力がある。それこそが記憶の継承の基本である。

●冨士川一裕さんとわたし

 さてこの冊子を送って下さったのは、KMT事務局長の冨士川さんである。ここからはわたしと冨士川さんと熊本をめぐっての回顧譚である。わたしの覚書として記しておく。なお、わたしは富士川さんよりも一回り年上である。

 冨士川さんは都市計画家である。実質的にはこのNPOをとりしきって来られた大番頭さんらしい。修業時代の後は生まれ故郷の熊本に腰を据えて活動して来られている。わたしはその地域密着主義に大いに敬服している。
 同じ都市計画家として私は根無し草で、冨士川さんのように生まれ故郷の地域に足を付けて活動しては来なかったので、彼を畏敬し、引け目を感じている。

 実は冨士川さんとわたしとは、時期は違うが若い時の数年間を、藤田邦昭さんという同じ師匠のもとにいたことがある。日本の都市再開発の草分けであった藤田さんは、まさに地域に入りこみ、地域の人々とひざを交え語りこむ地域第一主義の人であった。弟子の端くれのわたしもそれを心がけたが、冨士川さんには及びもつかない。

 わたしは冨士川さんとはいつから知己となったか、覚えていないほど老いてしまった。そこでPCの中の写真ファイルを探したら、1993年6月が熊本で最初の撮影で、冒頭はその1枚である。それが初めて熊本訪問であったようだ。
 その後にも96年と98年に訪ねているので、3回とも冨士川さんに世話になっているはずだ。どんな用事だったか当時のメモ手帳を繰ってみた。

 93年は熊本には九州の他の地から(臼杵、久木野など)の寄り道であって半日いただけだから、冨士川さんには会っていないかもしれない。会っていれば初対面である。
 だがこの時に、この冒頭に載せた赤煉瓦建物の写真を撮っている。記念誌の冊子によれば、この保存問題に取り組み始めたのは97年からとあるが、それは冨士川さんの案内であったからだろうか。当時は単に美しい赤煉瓦建築だから撮ったのだろうか。

 メモ手帳によると1996年5月と6月に熊本訪問しており、どちらも1泊して冨士川さんと会っている。
 6月には熊本ファッションタウン協議会の講演会に、冨士川さんと一緒に参加している。「ファッションタウン」とは、そのころ経産省と国土庁の政策の中に、産業振興計画(ものづくり)と都市計画(まちづくり)を融合して地域振興を行おうとするもので、「ものまちづくり」とも言った。全国のいろいろな都市を対象に調査計画を策定していた。熊本市もその一つであり、冨士川さんもわたしも関係する委員だった。

1996年5月23日撮影 住友銀行 現在は民間企業施設として保全再生

 この時は打ち刃物職人の街・川尻にも案内してもらった。伝統的な職人町は伝統的な町家の連なる景観で、これは熊本ファッションタウンそのものだと思った。今も川尻はその伝統が続いているのだろうか。
 ファッションタウン計画を策定して進めようとした都市は、熊本、今治、倉敷(児島)鯖江桐生、墨田区など多くあったが、多くは目に見える成果は少なかった。むしろ各界の市民参加の計画策定の過程そのものが地域振興活動であった。産業政策と都市政策の融合はむつかしい。熊本はどうなったのだろうか。

 98年1月の熊本訪問は、「まちなみ・建築フォーラム」という雑誌の編集者として、冨士川さんに取材したのだった。古町の街づくりについて記事を書いてもらった記憶があるが、手元にその雑誌が見つからない。
 その雑誌は、創刊から5号まで発行して休刊した。建築とまちづくりを融合した専門誌と一般誌の中間雑誌にしたかったのだが、失敗した。その原因は、専門家船頭が多すぎたことで内容が専門的な方向になりがちで、一般読者を得られなったことだと私は思う。

1998年1月17日撮影 清永産業 地震被災後に修復保全再生

1998年1月17日撮影 富重寫眞所 現在もあるのか

 その後はわたしは熊本に一度も行っていないが、冨士川さんとは日本都市計画家協会の共に理事としての付き合いは続いた。その2021年の協会主催の全国まちづくり会議を、冨士川さんは熊本に誘致して開催したが、その手腕と意気込みに驚嘆した。

 冨士川さんは最近はカフェ「雁木坂」のマスターになり、ますます地域との密接な関係を築くべく空間を創出して、日常としてのまちづくりへの歩みを進めているようだ。
 実は、私と彼とはもう10年以上も会っていないが、フェイスブックを通じて氏の日常をなんだか知っている感がある。同様に氏もわたしを知るに違いない。
 私は横浜都心隠居して約10年、足腰維持のために街を徘徊して眺めるだけの日々である。冨士川さんの活動を自分のものとして勝手に置き換えてみる楽しみがあり、フェイスブックを今日も開く。

 ところで、ここまで書いて気がついたのだが、冨士川さんは霞を食ってNPO活動に身を捧げてこられたのではあるまい。あ、もしかしたら大富豪だろうか。
 冨士川さんは熊本に根差す都市計画家として建築家として、人間都市研究所主宰者としては、どんな仕事をなさってきているのだろうか。それをほとんど知らないし、ネットにも情報がない。それを知りたい、そうだ、熊本に生きる都市計画家として本を書いてもらいたいものだ。

(20230223記)
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