ただいま世の中はゴールデンウィーク中。で、新聞にはいつものように、人出の写真。
今朝の朝日新聞1面にそういう写真があるのだが、見てなんだか情けなくなった。
なんでも東京湾の橋の向こうの千葉県側の海辺に、巨大なショッピングモールができて、そこにわんさかと人が集まってるんだなそうな。
情けなさその1:貴重な休みをショッピングセンターで過ごすのかい、なんてもったいないことを。
情けなさその2:わざわざ郊外にできた新しい買い物に行くということは、それだけ街なかが寂れているってことなんだろうなあ。
情けなさその3:こんなにたくさんの自動車が遠くからやってきて動き回り、なんというエネルギーの無駄遣いか、節電なんて口だけのことかよ。
情けなさその4:見たところ樹木が一本もないようだ。よくまあ、こんな殺風景なところを作ったもんだ。そしてよくまたこんなところに行きたがるもんだ。駐車場所と店舗の間をテクテクと炎天下を歩くんのかあ、ご苦労さん。
仕事しない休日が1週間続くことをそういうのなら、自慢じゃないが、わたしなど毎週ゴールデンウィークである。
自慢じゃないというのは、日常が忙しいと異日常のゴールデンウィークが嬉しいのに、毎週じゃあ面白くも可笑しくもない。
しかし、こんな情けない、薄ら寒くなる風景に出会うために出かけたくはない。
2012/04/29
2012/04/28
613横浜戦後復興の痕跡がまた消えた
鎌倉から横浜に引っ越してきた10年前の2002年、ご近所探検を始めてうろうろ、裏通りでものすごい蔦の葉の緑に包まれた街並みを発見して興奮した。
どうやらもう住んでいない公的な賃貸住宅らしい。
どうやらもう住んでいない公的な賃貸住宅らしい。
その緑の家のと背中あわせの大通り沿いに、これも汚れがものすごい5階建ての共同住宅が2棟建っている。これも公的な賃貸住宅らしいが、こちらは一階が店舗群となっていて営業している。住宅も空き家が多いが一部に住んでいるらしい。


これらはどうやら戦後の公的な住宅開発として建てられたものらしい。戦後復興遺産としてどう位置づけられているのか興味がわいた。
発見の次の2003年に、その緑の家は壊されて、倉庫が建った。5階建て共同住宅はまだそのまま。
残りの棟もすぐにたて変わるかと思ったら、どうも入居者ともめているらしく、永らく秋や状態であったが、ついに2012年の春、こちらも民間事業者の分譲型共同住宅がたった。
元の建物は、普通の人が見たらただの汚い古ビルだろうが、わたしには横浜の戦後復興の努力の記念碑のように見えていた。
ここにあった住宅のことを記録したものはもうないのであろう。誰か戦後復興の研究で、これも記録されているのだろうか。
戦後復興の時代の痕跡は、東京駅の復原に見るごとく、その評価をされることなく、どんどん消えていく。
●参照→347横浜ご近所再開発
http://datey.blogspot.jp/2010/11/347.html
http://datey.blogspot.jp/2010/11/347.html
2012/04/25
612空中陋屋からの風景
ここ7階にある空中陋屋に2002年9月から住んでいる。
バルコニーからの風景が、すこしづつ変わっていく。
いちばんの邪魔だったのが、日産自動車のビルの屋上広告塔であった。
真っ赤で、夜はライトアップする。ニッサンの車は買わない乗らないと決めた。
2012年の今、今度はその広告塔があったビルが撤去された。
バルコニーからの風景が、すこしづつ変わっていく。
いちばんの邪魔だったのが、日産自動車のビルの屋上広告塔であった。
真っ赤で、夜はライトアップする。ニッサンの車は買わない乗らないと決めた。
2012年の今、今度はその広告塔があったビルが撤去された。
●参照「まちもり通信」関連ページ「横浜・わが家からの眺め」
2012/04/24
611震災ガレキによる森づくりで思い出す
津波の防波堤として、森の長城を「宮脇方式」で海岸沿いに造れという、宮脇昭さんの提言が実現しそうだ。
震災ガレキを使って防波堤となる20~30m高さの連続盛り土を海岸沿いに築く。
それで思い出したことがある。1974年にドイツでこれと似たようなことをしてしている現場に行ったのだ。
宮脇さんと共に行った「ヨーロッパ自然保護・環境創造調査団」の旅で、ハンブルグでの北方郊外でのことである。
広い原野の中を市が買い取り、大きな穴を掘る。この穴掘りは、出てくる砂利販売をセットで民間業者にやらせるので、収益になるそうだ。 聞けば、ゴミを積んだら次は土を積むというように、ゴミと土で何層も重ねるのだそうだ。こうすれば腐敗は起きないので、現場は臭わなかった。
最下層のゴミは、水質に影響を及ぼさないものとする。
そうして30m程度に積みあがった最後は、この土地にもともとあった表土を20~30cmの厚みでかぶせる。この表土はここでの作業のはじめに、あらかじめ剥ぎ取って保存しておいたものである。
この表土に、この土地の潜在自然植生種の苗木を植える。5年もすれば立派な森になるそうだ。ここではこれから植えるのだが、別のところで、このようにして作った森の小山をいくつも見せられた。レクリエーションの場となっている。
その調査団の報告書をかねた出版物「緑のヨーロッパ・環境創造への道」(1976年 神奈川新聞社)を引っ張り出してみた。そこにこのような図が載っている。
この調査旅行の頃は、宮脇さんのいる横浜国大は建設中で、そこに実験として後に宮脇方式といわれる植栽方式が始まったころであった。それは今は見事な森になっている。
震災ガレキを使って防波堤となる20~30m高さの連続盛り土を海岸沿いに築く。
その上に潜在自然植生の各種郷土種樹木の苗木を、1平米に4、5本も密に植える。
その苗木は、毎年1mづつほども成長して、やがて森の長城つまり緑の山脈をつくりあげる。これが津波に対抗するというのである。
どうやらこれが復興政策として実施されるらしいが、これには震災ガレキを埋め、積み上げてよいものかという、廃棄物処理の問題が背後に横たわっているらしい。
化学的な毒物もあれば、降り注いだ核毒に汚染されているかもしれない。それを選別して一切除けることが可能だろうか、あるいは、ある程度に選別すれば埋め立て利用可能だろうか、というのである。法的な問題もあるらしい。
現実にはどのようになるのか、わたしには分らないが、ある程度選別すればよいというのが、宮脇さんの考えらしい。
これが復興政策になったのは、野田首相の一声というかなり政治的な局面かららしく、政府や自治体の施策現場では戸惑いもあるようだが、どうかがんばってもらいたい。
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宮脇さんと共に行った「ヨーロッパ自然保護・環境創造調査団」の旅で、ハンブルグでの北方郊外でのことである。
訪ねたそこは、ゴミ処理場のゴミの山であった。案内して説明してくれたのが、市役所の自然保護局の人であった。
ゴミの焼却は一切しないそうで、ここに埋め立てるのだ。広い原野の中を市が買い取り、大きな穴を掘る。この穴掘りは、出てくる砂利販売をセットで民間業者にやらせるので、収益になるそうだ。
最下層のゴミは、水質に影響を及ぼさないものとする。
そうして30m程度に積みあがった最後は、この土地にもともとあった表土を20~30cmの厚みでかぶせる。この表土はここでの作業のはじめに、あらかじめ剥ぎ取って保存しておいたものである。
この表土に、この土地の潜在自然植生種の苗木を植える。5年もすれば立派な森になるそうだ。ここではこれから植えるのだが、別のところで、このようにして作った森の小山をいくつも見せられた。レクリエーションの場となっている。
その調査団の報告書をかねた出版物「緑のヨーロッパ・環境創造への道」(1976年 神奈川新聞社)を引っ張り出してみた。そこにこのような図が載っている。
この「ゴミ+土+現地の表土+その土地本来の植生」という組み合わせを見て、その後もアウトバーンの緑化でも同じようなこと見たりして、宮脇さんの言うことが現地でよく理解できた旅であった。
ただし、それがドイツでは一般的になっているかというと、そうでもないことも分ったのは、ドルトムントで同様にして作ったレクリエーション施設で現地側の説明を受けているときに、市民団体の人からからゴミの埋め立てに反対という言葉に出会ったのだった。
写真はそのときの模様である。右の坊主頭が宮脇さん、その右に白髭のチュクセンさんが見える。チュクセンは宮脇さんの師匠で、潜在自然植生という概念の確立とその応用による国土緑化を進めた人である。
ドイツとは気候や植生が大きく異なる日本で、その日本流の理論と実践を研究して成果を挙げたのが宮脇さんであった。
この調査旅行の頃は、宮脇さんのいる横浜国大は建設中で、そこに実験として後に宮脇方式といわれる植栽方式が始まったころであった。それは今は見事な森になっている。
70年代は日本の公害問題で緑の復権を唱える宮脇さんは引っ張りだこになり、今は東日本大震災で自ら現地へ足を運び提言をして実施へと、傘寿を超えた身で忙しいようだ。
宮脇さんが活躍しなくてもよい時代が来ることを期待するばかりである。
●参照「まちもり通信」サイト関連ページ
道路緑化の文化史的考「高速道路 成熟へ向かう現代の意志の道」
http://homepage2.nifty.com/datey/dororyokka3.htm
●「伊達の眼鏡」サイト内関連ページ
609森の長城が津波災害を防ぐ
http://datey.blogspot.jp/2012/04/609.html
583イオンの森と津波
http://datey.blogspot.jp/2012/02/583.html
560核毒の森づくりが始まる
http://datey.blogspot.com/2011/12/560.html
479●21世紀の「谷中村」は「核毒の森」
http://datey.blogspot.jp/2011/08/47921.html
001ふるさとの森の大学キャンパス
http://datey.blogspot.com/2008/05/httpwww.html
●参照「まちもり通信」サイト関連ページ
道路緑化の文化史的考「高速道路 成熟へ向かう現代の意志の道」
http://homepage2.nifty.com/datey/dororyokka3.htm
●「伊達の眼鏡」サイト内関連ページ
609森の長城が津波災害を防ぐ
http://datey.blogspot.jp/2012/04/609.html
583イオンの森と津波
http://datey.blogspot.jp/2012/02/583.html
560核毒の森づくりが始まる
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479●21世紀の「谷中村」は「核毒の森」
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001ふるさとの森の大学キャンパス
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2012/04/23
610「森の長城」は「みどりのきずな」か
今朝、「609森の長城が津波災害を防ぐ」という記事を掲載したら、こんな今日のニュースがでてきた。
●被災地の防潮林整備を年度内着手 がれき活用策で首相
民放のテレビ番組に出演した野田首相=23日午後、東京都港区(代表撮影)
野田佳彦首相は23日のTBS番組収録で、東日本大震災で発生したがれきを盛り土形式で使う防潮林整備について、対象となる青森県から千葉県までの沿岸部約140キロのうち約50キロ分を本年度中に着手すると表明した。
事業名は「『みどりのきずな』再生プロジェクト」で、細川護煕元首相が3月の首相との会談で提言していた。
(2012.4.23 18:48 msn産経ニュース)http://goo.gl/LdLoj
なんで宮脇さんじゃなくて細川さんなんだろうか。そこが政治の世界なのかしら。
事業名も「森の長城」じゃなくて「みどりのきずな」だってさ。
もしかして、宮脇方式じゃない植栽かもしれないなあ、造園業界や林学派への政治的配慮とかで、、、まさか。
ここまで書いて、さらにネット検索したら、3月20日野田・細川会談があり、そこには宮脇さんも同席していて、この提案であったとのニュースが見つかった。
http://www.asahi.com/politics/update/0320/TKY201203200350.html
そうか、それならよかった。
●「伊達の眼鏡」サイト内関連ページ
609森の長城が津波災害を防ぐ
http://datey.blogspot.jp/2012/04/609.html
583イオンの森と津波
http://datey.blogspot.jp/2012/02/583.html
560核毒の森づくりが始まる
http://datey.blogspot.com/2011/12/560.html
479●21世紀の「谷中村」は「核毒の森」
http://datey.blogspot.jp/2011/08/47921.html
001ふるさとの森の大学キャンパス
http://datey.blogspot.com/2008/05/httpwww.html
●被災地の防潮林整備を年度内着手 がれき活用策で首相
民放のテレビ番組に出演した野田首相=23日午後、東京都港区(代表撮影)
野田佳彦首相は23日のTBS番組収録で、東日本大震災で発生したがれきを盛り土形式で使う防潮林整備について、対象となる青森県から千葉県までの沿岸部約140キロのうち約50キロ分を本年度中に着手すると表明した。
事業名は「『みどりのきずな』再生プロジェクト」で、細川護煕元首相が3月の首相との会談で提言していた。
(2012.4.23 18:48 msn産経ニュース)http://goo.gl/LdLoj
なんで宮脇さんじゃなくて細川さんなんだろうか。そこが政治の世界なのかしら。
事業名も「森の長城」じゃなくて「みどりのきずな」だってさ。
もしかして、宮脇方式じゃない植栽かもしれないなあ、造園業界や林学派への政治的配慮とかで、、、まさか。
ここまで書いて、さらにネット検索したら、3月20日野田・細川会談があり、そこには宮脇さんも同席していて、この提案であったとのニュースが見つかった。
http://www.asahi.com/politics/update/0320/TKY201203200350.html
そうか、それならよかった。
●「伊達の眼鏡」サイト内関連ページ
609森の長城が津波災害を防ぐ
http://datey.blogspot.jp/2012/04/609.html
583イオンの森と津波
http://datey.blogspot.jp/2012/02/583.html
560核毒の森づくりが始まる
http://datey.blogspot.com/2011/12/560.html
479●21世紀の「谷中村」は「核毒の森」
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001ふるさとの森の大学キャンパス
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609森の長城が津波災害を防ぐ
東日本大震災復興への提言として、植物社会学者の宮脇昭さんが、「森の長城」づくりを提言している。津波が襲った三陸から東北地方の太平洋側海岸に、300kmの森による防波堤を築こうというのである。
しかもこの万里の長城は、震災ガレキを使って土を混ぜて高く盛り上げ、その上には潜在自然植生種の苗木を、市民参加で植えていくのだ。
これはもう40年以上も前から、宮脇さんが提唱して実施している通称「宮脇方式」といわれている森づくり手法で、全国の学校の環境林、道路の騒音防止、工場緑化、ダム緑化などに実現している。
今回の提言はそれらの延長上にあるのだが、これまでと大きな違いは、宮脇さんが特定のプロジェクトとして提言していることだ。これまで宮脇方式は、どちらかというと開発計画が先にあって、これに対応して宮脇さんに指導を受けて森を造るのであった。
推測だが、宮脇さんが自らのプロジェクトとして実現した森は、横浜国大のキャンパスだけのように思う。これは宮脇さんが最初に手がけた、ご自身の研究拠点であり、これが成功したことが、次へのステップとなったのである。
そして潜在自然植生という宮脇理論と、それによる宮脇方式「ふるさとの森づくり」を、宮脇さんは繰り返し唱え続けてきている。
だが、それが緑化のメインストリームとはならない。
宮脇方式を導入する森づくりは、いつも彼にたまたま共鳴した奇特な人々による特殊な事例であり続けるのだった。
宮脇さんは浜岡原子力発電所の防災林作りのための調査も行っていて、海側に津波よけの森づくりを提案したが、海側は津波対策は大丈夫だからと断られ、裏山を切り崩してできた崖地に宮脇方式の森をつくったそうだ。
宮脇方式が普及しないのは何故だろうか。
そこには日本の森に関する研究と実践において、宮脇さんの理学部系の生態学派と、農学部系の林学及び造園学派の対立があるらしい。宮脇さんの提唱する常緑広葉樹林に対して、造園学派からの強烈な反駁の文章を読んだことがある。
今回の宮脇さんの提言には、根こそぎ津波にやられた松林の海岸林は、その植生が間違っていたと痛烈に述べる。
宮脇さんに言わせると、津波で何万本も根こそぎ倒れたのに一本だけ残って有名になった陸前高田の奇跡の一本松は、健気どころか失敗の象徴であることになる。
海岸に松を植えることは、全国的に当たり前に行われている。この松林の海岸林を作ったのは林学派だろうから、そちらの反発が多分ありそうな気がする。
わたしから見れば、生態学派は森へ人間も含む生物の生命からアプローチし、林学造園学派は森へ人間の生活・生産からアプローチしていている。盾の両面だ。
その両者の間には、自然林、二次林、生産林、里山、庭園、田畑などの、いくつかの森や緑の様相がある。それが環境というものである。対立する意味がない。
ただし、造園業界からの反発は分る。だって、1本が百円かそこらの苗木では儲からない。お庭に立派な成木を持っていくと1本百万円だってとれるのになあ。
さて、ここに来てようやく宮脇さんからナショナルプロジェクトの提案である。一部の自治体や学校などで実行に移しているらしい。
この構想がこれまでどおりに、一部の奇特な人々による一部のプロジェクトで終わるのだろうか、それともナショナルプロジェクトに位置づけて、300kmの「森の長城」が実現するのだろうか。
宮脇さんの今回の提言を述べる最近の著書、『「森の長城」が日本を救う』(河出書房2012.3)を読んだ。「列島の海岸線を「いのちの森」でつなごう!」と副題がついている。
宮脇さんの著書は、1972年の「植物と人間」をはじめとして何冊もあって、わたしは宮脇研究室に出入りしていた頃、名著「日本の植生」(学研1977)の制作を手伝ったこともある。
一般書の内容は、ほぼ変わらない主張(キーワードは、潜在自然植生、鎮守の森、ポット苗、本物の森、混ぜる)が繰り返されており、今年の新著にもそれが述べられる。
昔と変わったところといえば、よく言えば思想的、はっきり言うとお説教的な言説が多くなってきたこと、そして同じことの繰り返しが多くなったことだ。
この繰り返しは、初めは気になるが、何回もいろいろな話の局面で登場すると、それはもう歌のリフレインのごとく、こころよく聞こえるのである。宮脇教の教祖様の唱える宮脇経である。
植物社会の秩序概念を人間社会にアナロジーとする言説は、分りやすいが人間はそうは行かないものだろうと気になることもある。
提言は三陸から福島にかけての300kmの森の長城プロジェクトだが、これは実は東海道ベルト地帯の海岸線にこそ緊急プロジェクトのはずである。
東北被災地がガレキをどこかに引き取ってもらいたいなら、こちらに持ってきて森の長城の基盤となるマウンド作りに使ってはいかがですか。
宮脇さんの提案そしてその理論と実際を知るには、下記のサイトが最も適切である。
●IGES 地球環境セミナー基調講演 (2012.3.23)
「効果的がれき処理と自然の再生:緑の防波堤構想」
横浜国立大学名誉教授 (財)IGES 国際生態学センター長 宮脇 昭
http://www.iges.or.jp/jp/news/event/20120323earthquake/pdf/1_miyawaki.pdf
宮脇さんの書いた本はどれも読みやすいが、その理論と実践を一番よくわかるのは、皮肉なことに宮脇さんの自著よりもノンフィクションライターが書いたものである。
「魂の森を行け―3000万本の木を植えた男」(新潮文庫 一志治夫 2006)
●「伊達の眼鏡」サイト内関連ページ
583イオンの森と津波
http://datey.blogspot.jp/2012/02/583.html
560核毒の森づくりが始まる
http://datey.blogspot.com/2011/12/560.html
479●21世紀の「谷中村」は「核毒の森」
http://datey.blogspot.jp/2011/08/47921.html
001ふるさとの森の大学キャンパス
http://datey.blogspot.com/2008/05/httpwww.html
しかもこの万里の長城は、震災ガレキを使って土を混ぜて高く盛り上げ、その上には潜在自然植生種の苗木を、市民参加で植えていくのだ。
これはもう40年以上も前から、宮脇さんが提唱して実施している通称「宮脇方式」といわれている森づくり手法で、全国の学校の環境林、道路の騒音防止、工場緑化、ダム緑化などに実現している。
今回の提言はそれらの延長上にあるのだが、これまでと大きな違いは、宮脇さんが特定のプロジェクトとして提言していることだ。これまで宮脇方式は、どちらかというと開発計画が先にあって、これに対応して宮脇さんに指導を受けて森を造るのであった。
推測だが、宮脇さんが自らのプロジェクトとして実現した森は、横浜国大のキャンパスだけのように思う。これは宮脇さんが最初に手がけた、ご自身の研究拠点であり、これが成功したことが、次へのステップとなったのである。
そして潜在自然植生という宮脇理論と、それによる宮脇方式「ふるさとの森づくり」を、宮脇さんは繰り返し唱え続けてきている。
だが、それが緑化のメインストリームとはならない。
宮脇方式を導入する森づくりは、いつも彼にたまたま共鳴した奇特な人々による特殊な事例であり続けるのだった。
宮脇さんは浜岡原子力発電所の防災林作りのための調査も行っていて、海側に津波よけの森づくりを提案したが、海側は津波対策は大丈夫だからと断られ、裏山を切り崩してできた崖地に宮脇方式の森をつくったそうだ。
宮脇方式が普及しないのは何故だろうか。
そこには日本の森に関する研究と実践において、宮脇さんの理学部系の生態学派と、農学部系の林学及び造園学派の対立があるらしい。宮脇さんの提唱する常緑広葉樹林に対して、造園学派からの強烈な反駁の文章を読んだことがある。
今回の宮脇さんの提言には、根こそぎ津波にやられた松林の海岸林は、その植生が間違っていたと痛烈に述べる。
宮脇さんに言わせると、津波で何万本も根こそぎ倒れたのに一本だけ残って有名になった陸前高田の奇跡の一本松は、健気どころか失敗の象徴であることになる。
海岸に松を植えることは、全国的に当たり前に行われている。この松林の海岸林を作ったのは林学派だろうから、そちらの反発が多分ありそうな気がする。
わたしから見れば、生態学派は森へ人間も含む生物の生命からアプローチし、林学造園学派は森へ人間の生活・生産からアプローチしていている。盾の両面だ。
その両者の間には、自然林、二次林、生産林、里山、庭園、田畑などの、いくつかの森や緑の様相がある。それが環境というものである。対立する意味がない。
ただし、造園業界からの反発は分る。だって、1本が百円かそこらの苗木では儲からない。お庭に立派な成木を持っていくと1本百万円だってとれるのになあ。
さて、ここに来てようやく宮脇さんからナショナルプロジェクトの提案である。一部の自治体や学校などで実行に移しているらしい。
この構想がこれまでどおりに、一部の奇特な人々による一部のプロジェクトで終わるのだろうか、それともナショナルプロジェクトに位置づけて、300kmの「森の長城」が実現するのだろうか。
宮脇さんの今回の提言を述べる最近の著書、『「森の長城」が日本を救う』(河出書房2012.3)を読んだ。「列島の海岸線を「いのちの森」でつなごう!」と副題がついている。
宮脇さんの著書は、1972年の「植物と人間」をはじめとして何冊もあって、わたしは宮脇研究室に出入りしていた頃、名著「日本の植生」(学研1977)の制作を手伝ったこともある。
一般書の内容は、ほぼ変わらない主張(キーワードは、潜在自然植生、鎮守の森、ポット苗、本物の森、混ぜる)が繰り返されており、今年の新著にもそれが述べられる。
昔と変わったところといえば、よく言えば思想的、はっきり言うとお説教的な言説が多くなってきたこと、そして同じことの繰り返しが多くなったことだ。
この繰り返しは、初めは気になるが、何回もいろいろな話の局面で登場すると、それはもう歌のリフレインのごとく、こころよく聞こえるのである。宮脇教の教祖様の唱える宮脇経である。
植物社会の秩序概念を人間社会にアナロジーとする言説は、分りやすいが人間はそうは行かないものだろうと気になることもある。
提言は三陸から福島にかけての300kmの森の長城プロジェクトだが、これは実は東海道ベルト地帯の海岸線にこそ緊急プロジェクトのはずである。
東北被災地がガレキをどこかに引き取ってもらいたいなら、こちらに持ってきて森の長城の基盤となるマウンド作りに使ってはいかがですか。
宮脇さんの提案そしてその理論と実際を知るには、下記のサイトが最も適切である。
●IGES 地球環境セミナー基調講演 (2012.3.23)
「効果的がれき処理と自然の再生:緑の防波堤構想」
横浜国立大学名誉教授 (財)IGES 国際生態学センター長 宮脇 昭
http://www.iges.or.jp/jp/news/event/20120323earthquake/pdf/1_miyawaki.pdf
宮脇さんの書いた本はどれも読みやすいが、その理論と実践を一番よくわかるのは、皮肉なことに宮脇さんの自著よりもノンフィクションライターが書いたものである。
「魂の森を行け―3000万本の木を植えた男」(新潮文庫 一志治夫 2006)
●「伊達の眼鏡」サイト内関連ページ
583イオンの森と津波
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560核毒の森づくりが始まる
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479●21世紀の「谷中村」は「核毒の森」
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001ふるさとの森の大学キャンパス
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2012/04/22
608伊勢佐木モールの新顔店舗
伊勢佐木町の商店街に中型の店舗「カトレアプラザ」が開店した。そこは208年10月に閉店した百貨店の松坂屋があった跡地である。
伊勢佐木町の松坂屋は、横浜の関内・関外という昔からの横浜都心にある最後の百貨店であった。
その松坂屋の建物は、石に細工をした装飾をまとった5階建てで、デザイン的にはそれほどのものでもなかったが、かつてのデパート繁栄時代を偲ばせる堂々たるファサードだった。
わたしはこの松坂屋には買い物の用事はほとんどなかったが、4階にあった郵便局が自宅から一番近かったのでちょくちょくよったものだ。なんだかガランとしている印象がいつもあった。
それが閉店してから3年半、取り壊してまた何か建築していて、伊勢佐木町モールの重要な一角に長い板囲いで店が途切れていた。
ようやく再開した店舗は、3階建てで、一階には量販店、2階には安売り衣料や百円均一安売り店など、3階には美容院やマッサージなどがある。
これらの新たな店舗構成を見ていると、百貨店時代は確実になくなった、伊勢佐木町モールのどこか低落する様子を思わせる。
それは、この新ストアーの前に最近出店した安売り靴屋が、店頭路上に乱雑に商品を張り出し、客引き男が大声を上げていることに象徴される。
チェーン店やゲーム屋がだんだんと侵食してきている。老舗はどうなるのだろうか。わたしが用事がある唯一の老舗は有隣堂書店である。がんばってくれい。
さてこの新ビルは、表の3分の1ほどのエレベーションに、旧松坂屋ビルのファサードの一部をコピー再現している。その努力には敬意を表するが、あまり上手ではない。ファサード全部を再現する必要はないとしても、新旧の取り合わせが安易である。
内部にもちょこちょこと旧松坂屋デザインを継承している。以前のそれらを知っていると面白い。せっかくだから、その案内を掲示してはどうか。
伊勢佐木町の松坂屋は、横浜の関内・関外という昔からの横浜都心にある最後の百貨店であった。
その松坂屋の建物は、石に細工をした装飾をまとった5階建てで、デザイン的にはそれほどのものでもなかったが、かつてのデパート繁栄時代を偲ばせる堂々たるファサードだった。
わたしはこの松坂屋には買い物の用事はほとんどなかったが、4階にあった郵便局が自宅から一番近かったのでちょくちょくよったものだ。なんだかガランとしている印象がいつもあった。
それが閉店してから3年半、取り壊してまた何か建築していて、伊勢佐木町モールの重要な一角に長い板囲いで店が途切れていた。
ようやく再開した店舗は、3階建てで、一階には量販店、2階には安売り衣料や百円均一安売り店など、3階には美容院やマッサージなどがある。
これらの新たな店舗構成を見ていると、百貨店時代は確実になくなった、伊勢佐木町モールのどこか低落する様子を思わせる。
それは、この新ストアーの前に最近出店した安売り靴屋が、店頭路上に乱雑に商品を張り出し、客引き男が大声を上げていることに象徴される。
チェーン店やゲーム屋がだんだんと侵食してきている。老舗はどうなるのだろうか。わたしが用事がある唯一の老舗は有隣堂書店である。がんばってくれい。
さてこの新ビルは、表の3分の1ほどのエレベーションに、旧松坂屋ビルのファサードの一部をコピー再現している。その努力には敬意を表するが、あまり上手ではない。ファサード全部を再現する必要はないとしても、新旧の取り合わせが安易である。
内部にもちょこちょこと旧松坂屋デザインを継承している。以前のそれらを知っていると面白い。せっかくだから、その案内を掲示してはどうか。
2012/04/16
607原発再稼動時期は些細なこと?
政府の公式発言は、わたしのような高齢者にも分るように言ってもらいたい。
原発の「再稼動の時期に必ずしもこだわる必要はない」(細野原発担当相)
この人が発言している意味は、次のうちのどれなんだろうか?
どれにしても意味不明とか、おかしいような気がする。
①「再稼動の時期については、必ずしもさまたげになる必要はない」
②「再稼動の時期については、必ずしも気にしなくてもよいような些細なことなのでとらわれる必要はない」
③「再稼動の時期については、必ずしもなんくせをつける必要はない」
参考までに広辞苑にある「こだわる」の意味
①さわる。さしさわる。さまたげとなる。
②気にしなくてもよいような些細なことにとらわれる。拘泥する。
③故障を言い立てる。なんくせをつける。
原発の「再稼動の時期に必ずしもこだわる必要はない」(細野原発担当相)
この人が発言している意味は、次のうちのどれなんだろうか?
どれにしても意味不明とか、おかしいような気がする。
①「再稼動の時期については、必ずしもさまたげになる必要はない」
②「再稼動の時期については、必ずしも気にしなくてもよいような些細なことなのでとらわれる必要はない」
③「再稼動の時期については、必ずしもなんくせをつける必要はない」
参考までに広辞苑にある「こだわる」の意味
①さわる。さしさわる。さまたげとなる。
②気にしなくてもよいような些細なことにとらわれる。拘泥する。
③故障を言い立てる。なんくせをつける。
2012/04/15
606おバカネットSNS=Silly Network System
自慢じゃないが、わたしに英語でメールをくれる人はいない。いや、なくもないが、たとえば「Penis Enlargement Pills - $59.95 」とか「Discount 70% OFF, overthrow apples」とか「Viagra」とか、何のことかトンと分らない。
こういうやつは、そのまま屑メール篭に入るようになっているが、それをすり抜けてきたのが、「Invitation to connect on LinkedIn」とあって、なにやらクリックせよとURLが書いてある。
ご存知のごとく、運動部の先輩後輩関係は厳しいノダ。ハテ、どうしようかと悩み考えた。
思いついて、まずはカリフォルニア在住の山岳部同期生にメールを出して、こんなの来たけどどうするのかと聞いてみた。NASAでロケットを飛ばしていた電気屋だから分るだろう。
そいつにもそのメールは来ていて、さっそく先輩ご当人に問い合わせてくれて分った。
なんでもそれは科学技術者の間でのSNSであって、そのシステムが先輩のストックしているメールアドレスを勝手に引き出して、当人が知らぬ間に入会お誘いメールを世界中に発信したのだそうだ。
結論は「ホットケ」ということになった。お騒がせメールであった。それにしても、スマートフォン(スマホたあなんだよ)の普及で、どいつもこいつも歩きながら書き込んでいるらしく、いま頭が痒いとか、屁がでた、滑った転んだ、エエカゲンにせえ!
こちとら自慢じゃないが、スマフォなんてもなあ持ってねえんだ、PCでシコシコ書いてんだぞ。いや、べつにうらやましがってんじゃないよ、どうぞ歩きつつでも寝床の中でも便所の中でもおカキください。
あまりしょうもないことばかり書くヤツのは、「○○さんのフィード購読をやめる」の操作で、いっさい読まないようにしているのだ。ハハ、ざまあミロ。
で、その「フィード購読」が気に入らない。
フィードたあ何のことだよ、辞書を引いても分らない。状況判断して、それらしょうもない書き込み(あ、しょうもあるもののほうが多いデス)のことらしい。だったら「書き込み」って翻訳したらどうだ。
購読たあ、なんだよ。購読ってのは金だして買って読むってことだぜ、このフィードってくだらない書き込みを読んだら金をとるのかい、えかげんにせえッ。
どこからいくらの請求書がいつ来るのか、ビクビクしている毎日である。
ほかにもそういうのがいっぱいある。「いいね!」も珍妙であるが、これをあげつらうと日が暮れそう(夜が明けそう)だから、ここではやめる。
元は英語なんだろうが、訳語が分らないと安易にカタカナのままだし、分ったふりして翻訳すれば間違い言葉にするから、ますます分らなくなるSNS:Silly Network Systemである。
だったら、ヤメリャイイジャン、、う~ん。
2012/04/11
605日本橋上空高速道路撤去反対論
東京駅復原反対論がついに失敗したから、次はこれだっ。
今朝の朝日新聞に、東京・日本橋の上にかかる高速道路を、地下道路を掘って付け替えようというという検討を再開したしたというニュースがある。
「日本橋付近の地下化検討を 首都高改修で国交省検討会議」 2012-04-11
東京・日本橋の上を横切る首都高速道路を地下に埋めることができないか――。こうした課題を含め、首都高の今後のあり方を議論する国土交通省の検討会議が10日始まった。夏までに提言をまとめる。国の重要文化財でもある日本橋付近の地下化は、小泉政権時代にも議論されたが、財源が問題となっている。
首都高は主要路線の都心環状線などで1964年の東京五輪にあわせ整備を急いだため、川の上や堀を埋め立てて道路を造り、歴史的景観を損ねているとの指摘が強かった。国交省が10日に始めた「首都高速の再生に関する有識者会議」(座長=政治評論家の三宅久之氏)は、景観への配慮など今後のあり方を議論する。
(朝日新聞http://www.asahi.com/politics/update/0410/TKY201204100586.html)
日本橋だけのことではないらしいが、日本橋上空高速道路地下化は「またぞろ検討」の典型である。
ずいぶん前からこの話はあったが、2001年から小泉政権のときに伊藤滋委員長で構想を具体的に検討していたことがあったが、立ち消えた。
これについては、わたしのサイトに批評を書いたことがある。
また、わたしがたった一人で勝手に高架撤去をした成果がこれ↓である。やってみたが、たいして美しい風景が現れるのでもなかったのであるが・・・。
さて、近頃わたしはこう考えるようになった。
あの空中日本橋(橋の上の高速道路のこと)を、歴史的建造物として保全することに決めてはいかがでしょうか。
だって、あれは1964年の東京オリンピックに向けて、戦後復興の総仕上げとして東京大改造、そのシンボルプロジェクトですからね。
特に20世紀初期の日本近代へのテイクオフの象徴であった石造で優美な西欧的様式表現の“本家”日本橋と、戦後産業社会へのテイクオフの象徴であった鉄造の力強い即物的構造表現の“分家”日本橋とが対峙する風景は、二つの時代を重ね餅(二重橋か)にして見せてくれる貴重なる景観ですからね。
東京駅の赤レンガ駅舎が、20世紀初期の日本近代化期の姿と、戦後復興期の姿を重ね餅にして見せてくれていたのが、ついに消え去ったので、せめて日本橋の重ね餅風景を保全してほしいものです。
保全するならば、今のようにヘンな厚化粧している姿じゃなくて、オリンピック当時の鉄の箱桁が丸見えのダイナミックな姿に復原してくださいませ。
今朝の朝日新聞に、東京・日本橋の上にかかる高速道路を、地下道路を掘って付け替えようというという検討を再開したしたというニュースがある。
「日本橋付近の地下化検討を 首都高改修で国交省検討会議」 2012-04-11
東京・日本橋の上を横切る首都高速道路を地下に埋めることができないか――。こうした課題を含め、首都高の今後のあり方を議論する国土交通省の検討会議が10日始まった。夏までに提言をまとめる。国の重要文化財でもある日本橋付近の地下化は、小泉政権時代にも議論されたが、財源が問題となっている。
首都高は主要路線の都心環状線などで1964年の東京五輪にあわせ整備を急いだため、川の上や堀を埋め立てて道路を造り、歴史的景観を損ねているとの指摘が強かった。国交省が10日に始めた「首都高速の再生に関する有識者会議」(座長=政治評論家の三宅久之氏)は、景観への配慮など今後のあり方を議論する。
(朝日新聞http://www.asahi.com/politics/update/0410/TKY201204100586.html)
日本橋だけのことではないらしいが、日本橋上空高速道路地下化は「またぞろ検討」の典型である。
ずいぶん前からこの話はあったが、2001年から小泉政権のときに伊藤滋委員長で構想を具体的に検討していたことがあったが、立ち消えた。
これについては、わたしのサイトに批評を書いたことがある。
また、わたしがたった一人で勝手に高架撤去をした成果がこれ↓である。やってみたが、たいして美しい風景が現れるのでもなかったのであるが・・・。
あの空中日本橋(橋の上の高速道路のこと)を、歴史的建造物として保全することに決めてはいかがでしょうか。
だって、あれは1964年の東京オリンピックに向けて、戦後復興の総仕上げとして東京大改造、そのシンボルプロジェクトですからね。
特に20世紀初期の日本近代へのテイクオフの象徴であった石造で優美な西欧的様式表現の“本家”日本橋と、戦後産業社会へのテイクオフの象徴であった鉄造の力強い即物的構造表現の“分家”日本橋とが対峙する風景は、二つの時代を重ね餅(二重橋か)にして見せてくれる貴重なる景観ですからね。
東京駅の赤レンガ駅舎が、20世紀初期の日本近代化期の姿と、戦後復興期の姿を重ね餅にして見せてくれていたのが、ついに消え去ったので、せめて日本橋の重ね餅風景を保全してほしいものです。
保全するならば、今のようにヘンな厚化粧している姿じゃなくて、オリンピック当時の鉄の箱桁が丸見えのダイナミックな姿に復原してくださいませ。
2012/04/09
604渋谷の山手教会の建築が消滅(実はわたしの誤認だった)
渋谷の公園通りの坂道を、NHKに向かって登っていた。
と、左に大きな空き地ができている。はて、ここに何があったっけ?
建物がなくなると、そこに何があったか思い出せないことが多くなったのは、わたしの忘却力の向上のせいだろうか。
しばらく歩きながら考えていて、思い出した、ここに東京山手教会と共同住宅ビルがあり、地下に「ジャンジャン」という小劇場があったのだった。
引き返して写真を撮った。
手元の資料(RIA1953~1983 30年記念誌)を調べたら、後ろに共同住宅ビルとセットで建てたキリスト教会ができたのは1963年、50年前であった。設計はRIAと毛利武信の共同である。
見事に取り壊されて、次の建物の工事をやっている。たぶん耐震問題で建物の物理的寿命が切れたのだろうし、半世紀前と比べるとこの立地はほかの採算の良い不動産事業の適地になっているからだろう。
公園通りはパルコの進出で大きく変わったのは、1970年代だったろうか。いま、パルコのひとつは閉鎖されていて、公園通りに次への転機がきているらしい。
渋谷駅前にあった東急文化会館は1950年代半ばに建った記憶があるが、これも取り壊されてヒカリエ(妙な名前)の複合ビルになった。次は渋谷駅の大改造だろう。
わたしが学生の頃の渋谷は、駅の周りだけが繁華で、公園通りはもちろん、ハンズのあるあたりは怖い感じがしたものだ。
その後、どういうわけかガキどもが集まるゴチャゴチャしてきて、大人は敬遠する街になってしまったが、その一方で東急文化村ができた90年代から、大人もまた行く街になった。
わたしは松濤の観世能楽堂によく行ったから、渋谷の盛衰は興味を持ってみてきた。
東横線が地下鉄に直結して埼玉まで行くようになると、この街や東急沿線がどう変わるのか楽しみである。
身近では、東横線が横浜からMM地下線に直結して、横浜関内あたりが大きく変わりつつある現象を楽しく徘徊して見ている。
(追記2013/08/20)コメント欄に匿名の方から「当教会、未だ消滅しておりません。現存しております。アップルストアの前、GAPと西武 opening ceremonyにございます」と書き込みをいただきました。匿名の方には対応しないのですが、特別に。1963年に建てた教会建築はなくなっていることは確かです。おっしゃる意味は、教会は別のところに存続しているということでしょうか。まさかあんな大きな建物を曳家したのではないでしょう。表題を一部変えておきます。
(追記20141203)このブログに、また「消滅していない」とコメントをいただきましたので、現地確認したところ、わたくしの間違いでした。現にまだ存在しています。勘違いをお詫びいたします。
山手教会はいまも建っております。お詫びして訂正いたします。
と、左に大きな空き地ができている。はて、ここに何があったっけ?
建物がなくなると、そこに何があったか思い出せないことが多くなったのは、わたしの忘却力の向上のせいだろうか。
しばらく歩きながら考えていて、思い出した、ここに東京山手教会と共同住宅ビルがあり、地下に「ジャンジャン」という小劇場があったのだった。
引き返して写真を撮った。
手元の資料(RIA1953~1983 30年記念誌)を調べたら、後ろに共同住宅ビルとセットで建てたキリスト教会ができたのは1963年、50年前であった。設計はRIAと毛利武信の共同である。

見事に取り壊されて、次の建物の工事をやっている。たぶん耐震問題で建物の物理的寿命が切れたのだろうし、半世紀前と比べるとこの立地はほかの採算の良い不動産事業の適地になっているからだろう。
公園通りはパルコの進出で大きく変わったのは、1970年代だったろうか。いま、パルコのひとつは閉鎖されていて、公園通りに次への転機がきているらしい。
渋谷駅前にあった東急文化会館は1950年代半ばに建った記憶があるが、これも取り壊されてヒカリエ(妙な名前)の複合ビルになった。次は渋谷駅の大改造だろう。
わたしが学生の頃の渋谷は、駅の周りだけが繁華で、公園通りはもちろん、ハンズのあるあたりは怖い感じがしたものだ。
その後、どういうわけかガキどもが集まるゴチャゴチャしてきて、大人は敬遠する街になってしまったが、その一方で東急文化村ができた90年代から、大人もまた行く街になった。
わたしは松濤の観世能楽堂によく行ったから、渋谷の盛衰は興味を持ってみてきた。
東横線が地下鉄に直結して埼玉まで行くようになると、この街や東急沿線がどう変わるのか楽しみである。
身近では、東横線が横浜からMM地下線に直結して、横浜関内あたりが大きく変わりつつある現象を楽しく徘徊して見ている。
(追記2013/08/20)コメント欄に匿名の方から「当教会、未だ消滅しておりません。現存しております。アップルストアの前、GAPと西武 opening ceremonyにございます」と書き込みをいただきました。匿名の方には対応しないのですが、特別に。1963年に建てた教会建築はなくなっていることは確かです。おっしゃる意味は、教会は別のところに存続しているということでしょうか。まさかあんな大きな建物を曳家したのではないでしょう。表題を一部変えておきます。
(追記20141203)このブログに、また「消滅していない」とコメントをいただきましたので、現地確認したところ、わたくしの間違いでした。現にまだ存在しています。勘違いをお詫びいたします。
山手教会はいまも建っております。お詫びして訂正いたします。
2012/04/08
603花見は花街で(横浜ご近所探検隊)
今はなんといっても花の話。昨日今日と天気が良くて、ふらふらとご近所探検隊も花見に出かけた。
花を見るには、やっぱり花街でなくっちゃと、元がつく花町だけど黄金町界隈へ。今日は家族連れも大勢出てきて、大岡川沿いの満開桜の下で、道でのフリーマーケットやら飲み屋の屋台やらや川の上での音楽イベントやらを楽しんでいる。
だが10年前には家族連れが来るところではなかった。
黄金町あたりはいわゆる青線街だったところで、戦争直後の混乱時代は麻薬の魔窟といわれた街だったし、安定した時代が来ても非合法下半身商売地帯だった。
遊びに来ている家族連れたちほとんどが知らないだろうが(知る必要もないが)、間口1間程度の店に間仕切られた2階建てアパート風の建物があちこちにあるが、これらが売春店舗だった。
10年ほど前に夕方に通るとそれぞれの店の前に、モモもあらわな茶髪ミニスカラテン顔ネエチャンが立ち並んで客引きをしていたものだ。
道を歩くのはわたしのような野次馬はともかくとして、横須賀基地からやってきたと思しい若い男どもが多かった。
ある日の朝10時頃に通ったら、もう立ち並んでいて驚いた。
そのアダ花の咲きようがものすごいので、街歩き仲間を誘ってわざわざ散歩に来たものだった。
ものの本(「黄金町マリア」八木澤高明2006)によれば、一時はこのあたりに250軒の「チョンの間」があり、約500人の娼婦がいたそうだ。
その国籍は、中国、タイ、中南米、東欧そして日本と多様であった。でも歩いていて目に付くのはラテン系、つまり中南米系だった。10年ほど前に夕方に通るとそれぞれの店の前に、モモもあらわな茶髪ミニスカラテン顔ネエチャンが立ち並んで客引きをしていたものだ。
道を歩くのはわたしのような野次馬はともかくとして、横須賀基地からやってきたと思しい若い男どもが多かった。
ある日の朝10時頃に通ったら、もう立ち並んでいて驚いた。
そのアダ花の咲きようがものすごいので、街歩き仲間を誘ってわざわざ散歩に来たものだった。
ものの本(「黄金町マリア」八木澤高明2006)によれば、一時はこのあたりに250軒の「チョンの間」があり、約500人の娼婦がいたそうだ。
チョンの間利用料金は20分で1万5千円が相場、そのチョンの間営業のために借りている娼婦は月家賃20万円とか。
さて、今はソメイヨシノの花が咲き誇り、家族連れが花の街を行き逢っているが、いろいろな言葉が聞こえてきて、やはりここは多国籍の街である。
こうしてこの街が昔のことを忘れていけば、新たな都心生活の場として再生するに違いない。さて、今はソメイヨシノの花が咲き誇り、家族連れが花の街を行き逢っているが、いろいろな言葉が聞こえてきて、やはりここは多国籍の街である。
◆
もう6年ほども前に都市計画決定しながら、一向に動きが見えなかった駅前の市街地再開発事業が動き出したらしい。事業地区内の営業店舗のほとんどが閉店していて、そろそろ撤去作業が始まるようだ。
その一角を占めるのが、1950年代の防火建築帯の共同建築である。戦後復興の象徴のような事業であったが、今、ようやくにして次の復興の時代を迎える。
日之出町あたりも黄金町の続きで、その戦後史的な土地利用の名残が、ストリップ劇場とかエロ映画館とかが健在である。
その一方ではそばに野毛山公園があり、市立中央図書館があり、古書店がいくつかあるという雰囲気も持っている。
日ノ出町再開発が都心再生にどう機能するか、注目である。
◆
さて、横浜の花町といえば永真遊郭である(であった)。
黄金町から南へ300mほどのところに真金町・永楽町という、こちらは赤線地帯があった。つまり公認の遊び場であった。
その中のメインストリートの中央に分離帯があって、今桜の花の並木が咲き乱れている。でも、だれもこちらには花で騒ぐものはいない。
まわりは高層の共同住宅が立ち並んでいて、黄金町とは違ってすっかり様変わりの元花街である。
もうだれも昔は赤線地帯だったとは知らないみたいに過ごしているようだ。
さて、横浜の花町といえば永真遊郭である(であった)。
黄金町から南へ300mほどのところに真金町・永楽町という、こちらは赤線地帯があった。つまり公認の遊び場であった。
その中のメインストリートの中央に分離帯があって、今桜の花の並木が咲き乱れている。でも、だれもこちらには花で騒ぐものはいない。
まわりは高層の共同住宅が立ち並んでいて、黄金町とは違ってすっかり様変わりの元花街である。
もうだれも昔は赤線地帯だったとは知らないみたいに過ごしているようだ。
だが、なんとなく何かがありそうだ。それは高層共同住宅のネーミングに、真金町とか永楽町とつけているものがないので、どうやらイメージ上では避けているらしい。
ネーミングで地名をつけるときは、「大通り公園」(公園は元が川だからかなり長いのでこれでは場所特定はできないだろうに)、「関内」(ここは関外だから明らかに地名詐称、それとも1kmも遠くのJR線駅名か)、「長者町」(隣の隣の町の名前)等としている例ばかりだ。「阪東橋」と言うのがあったが、これはもう川がなくて橋もなくなったから地下鉄駅名である。
そのなかで「永楽」とつけたものをひとつ発見、どうやら遊郭イメージも忘却のかなたにきつつあるようだ。
ネーミングで地名をつけるときは、「大通り公園」(公園は元が川だからかなり長いのでこれでは場所特定はできないだろうに)、「関内」(ここは関外だから明らかに地名詐称、それとも1kmも遠くのJR線駅名か)、「長者町」(隣の隣の町の名前)等としている例ばかりだ。「阪東橋」と言うのがあったが、これはもう川がなくて橋もなくなったから地下鉄駅名である。
そのなかで「永楽」とつけたものをひとつ発見、どうやら遊郭イメージも忘却のかなたにきつつあるようだ。
数ヶ月前まで、遊郭建築らしい建物が一軒だけあったのだが、今日見たら駐車場になってしまっていた。
公衆浴場も消えて共同住宅になったし、残る遊郭街の延長の土地利用は、永楽町にある5~6軒のラブホテル街だけになったようだ。
ラブホには夜桜がよく似合う。
2012/04/06
602建築家2代の風景
特に背景に超高層ビルが見えると、その対比がなんともいえない良さがある。
ここにある交差点から、建築家丹下2代のなせる新宿風景を鑑賞することができる。かたや父・健三設計の東京都庁舎、かたや息・憲孝設計のデザイン学校である。 どちらがうまいとはいえないが、どちらかというと息子の、ひとつ目小僧包帯ぐるぐる巻きミイラビルのほうが、新宿によく似合う。
2012/04/01
601絆を解いて民族大移住時代へ
古希になったばかりの友人が、半世紀住んだ東京の住まいをたたんで、特に縁がある土地でもないのに、神戸に移住するという。聞けば、これまでとは違う環境で、これまでとは異なる生活をしてみたいのだそうだ。
わたしは高齢者に数えられる年齢になったときに、4半世紀過ごした鎌倉から、横浜都心に移った。でも、鎌倉に移る前には横浜郊外に住んでいたから、友人のように東京から縁もない神戸への差には及びもつかない。
ご当人の動機はともかくとして、これはなかなか素晴らしい移転先選択であると思う。そう、神戸は、日本では今もっとも地震に安全な大都市であるのだ。
まず、1995年の阪神淡路大地震から考えて、確率的には当分の間は(少なくとも生きている間には)大地震は来ないだろう。
そしてまた、いま話題沸騰の近未来に起きる本州南の太平洋側の大地震と大津波の被災予想地域から外れている。
●続きの全文はこちら「絆を解いて民族大移住時代へ」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/jinko-ido
わたしは高齢者に数えられる年齢になったときに、4半世紀過ごした鎌倉から、横浜都心に移った。でも、鎌倉に移る前には横浜郊外に住んでいたから、友人のように東京から縁もない神戸への差には及びもつかない。
ご当人の動機はともかくとして、これはなかなか素晴らしい移転先選択であると思う。そう、神戸は、日本では今もっとも地震に安全な大都市であるのだ。
まず、1995年の阪神淡路大地震から考えて、確率的には当分の間は(少なくとも生きている間には)大地震は来ないだろう。
そしてまた、いま話題沸騰の近未来に起きる本州南の太平洋側の大地震と大津波の被災予想地域から外れている。
●続きの全文はこちら「絆を解いて民族大移住時代へ」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/jinko-ido
2012/03/26
600山口文象設計戦前モダン木造住宅現存発見
建築家・山口文象の設計した建物探しは、いまだに新発見があって面白い。
先日(2012年3月)、世田谷文学館で、「都市から郊外へ―1930年代の東京」展覧会を見てきた。
その展示に彫刻家の菊池一雄のアトリエ建築の写真と、菊池の手書きのアトリエ案内地図があった。
おお、「菊池一雄アトリエ」は山口文象作品だ、思いがけない出会いに感激。これは1931年に建っているから、山口文象にとっては渡欧直前であり、建築家としてはまだ世に名が出ていないころの設計である。
石本喜久治の事務所で経験をつんではいるが、個人作品として現実に建った建築はまだ2、3作目のはずだ。
RIA所蔵の山口文象コレクションにもその写真はあるのだが、手書き案内図を見てこんなところに建っているのかと知ったのであった。
学芸員の方に聞くと、建築家・池辺陽による増改築の手が入っているが、現存しているとのこと。
早速に行ってみた。
元の山口文象デザインが変わっているとしても、池辺デザインならすぐわかるに違いないと、見当つけて歩いていたら、おお、やっぱり池辺デザインだ、これは。
例の池辺が一時期よくつかったことのあるスレート波板である。鉄骨と波板という工業製品を自在に組み合わせる池辺デザインが、鉄骨は見えないがここにも生きている。
もっとも、普通眼にはどう見ても工場にしか見えないので、そのデザインの意義は玄人にしかわからないだろうが。
道路は北側にしかないから見ているのは北面である。アトリエが建った頃はこの道路はなくて畑が広がっていた。
こちら側にあのアトリエのガラス面とガラス屋根そして急勾配瓦屋根の組み合わせによるモダンスタイルの立面があり、その峰から南に向かって大きな勾配屋根が下がっていっていた筈だ。
その北立面は全面にスレート波板の壁が立ち上がり、そのままスレート屋根になって登り、峰から南に南に向かって大きな勾配屋根が下がっている。
ふむ、これは南への大屋根は元のままで、北の壁を壁を壊してここに池辺デザイン増築をしたらしい。北側からみると昔の面影を伝えているものは、大屋根勾配とシャープな下屋庇であるようだ。スレート壁に瓦屋根の下屋が取り付いているのは、もとの瓦屋根のイメージ継承のつもりだろうか。
南側の庭の方を見ることはできなかったが、グーグルアースの衛星写真で見ると、大屋根のままだから、もしかしたらそちらは元のデザインがあるかも知れない。
山口文象とはかなり親しかった池辺陽だから、必ずやイメージとしては継承しているだろうと思う。
グーグルアースで見ると、周辺の家がどれも道路に直角に建てているのに、この菊池アトリエだけが南北軸にあわせていて、微妙にずれているのがわかるのだが、これはアトリエが当初の建物であることの証明である。
普通に見れば池辺デザインは異様であるが、それは芸術家の家であることのサインである。
山口文象作品でモダンデザイン木造住宅はひとつも現存しないと思っていたが、かなり変わってはいるがこれは現存している唯一のものだろう。
竣工時の写真では、まるで畑の中の一軒家のごとくであるが、いまはそれなり密度の高い住宅地のなかにある。
展覧会のテーマである「都市から郊外へ」については、1930年代から東京周辺の緑地帯は、こうやって住宅地化されていったのである。
そのなかで芸術家が果たした役割のようなことが、この菊池アトリエもそうだが、展覧会のひとつの柱らしい。
そこのところは、展覧会を見ても実はわたしにはまだよく飲み込めていないのだが、面白いテーマであるとおもう。
1930年代の東京の大きな変化は、1923年の関東大震災に起因するのである。
このところそのあたりの資料がありそうな展覧会で、この世田谷と、葉山の神奈川県立美術館での「村山知義展」、そして新橋パナソニックミュージアムでの「今和次郎展」をハシゴしたのであった。
そこで村山も今も、関東大震災を契機に新展開したことを確認したのであった。
建築家・山口文象を産み落としたのも同じく関東大震災であるから、20世紀末と21世紀はじめの東西の大震災は何を産み落とすのか、あるいは産み落とさないのか、興味があることだ。
参照→山口文象アーカイブス
先日(2012年3月)、世田谷文学館で、「都市から郊外へ―1930年代の東京」展覧会を見てきた。
その展示に彫刻家の菊池一雄のアトリエ建築の写真と、菊池の手書きのアトリエ案内地図があった。
おお、「菊池一雄アトリエ」は山口文象作品だ、思いがけない出会いに感激。これは1931年に建っているから、山口文象にとっては渡欧直前であり、建築家としてはまだ世に名が出ていないころの設計である。
石本喜久治の事務所で経験をつんではいるが、個人作品として現実に建った建築はまだ2、3作目のはずだ。
RIA所蔵の山口文象コレクションにもその写真はあるのだが、手書き案内図を見てこんなところに建っているのかと知ったのであった。
学芸員の方に聞くと、建築家・池辺陽による増改築の手が入っているが、現存しているとのこと。
早速に行ってみた。
元の山口文象デザインが変わっているとしても、池辺デザインならすぐわかるに違いないと、見当つけて歩いていたら、おお、やっぱり池辺デザインだ、これは。
例の池辺が一時期よくつかったことのあるスレート波板である。鉄骨と波板という工業製品を自在に組み合わせる池辺デザインが、鉄骨は見えないがここにも生きている。
もっとも、普通眼にはどう見ても工場にしか見えないので、そのデザインの意義は玄人にしかわからないだろうが。
道路は北側にしかないから見ているのは北面である。アトリエが建った頃はこの道路はなくて畑が広がっていた。
こちら側にあのアトリエのガラス面とガラス屋根そして急勾配瓦屋根の組み合わせによるモダンスタイルの立面があり、その峰から南に向かって大きな勾配屋根が下がっていっていた筈だ。
その北立面は全面にスレート波板の壁が立ち上がり、そのままスレート屋根になって登り、峰から南に南に向かって大きな勾配屋根が下がっている。
ふむ、これは南への大屋根は元のままで、北の壁を壁を壊してここに池辺デザイン増築をしたらしい。北側からみると昔の面影を伝えているものは、大屋根勾配とシャープな下屋庇であるようだ。スレート壁に瓦屋根の下屋が取り付いているのは、もとの瓦屋根のイメージ継承のつもりだろうか。
南側の庭の方を見ることはできなかったが、グーグルアースの衛星写真で見ると、大屋根のままだから、もしかしたらそちらは元のデザインがあるかも知れない。
山口文象とはかなり親しかった池辺陽だから、必ずやイメージとしては継承しているだろうと思う。
グーグルアースで見ると、周辺の家がどれも道路に直角に建てているのに、この菊池アトリエだけが南北軸にあわせていて、微妙にずれているのがわかるのだが、これはアトリエが当初の建物であることの証明である。
普通に見れば池辺デザインは異様であるが、それは芸術家の家であることのサインである。
山口文象作品でモダンデザイン木造住宅はひとつも現存しないと思っていたが、かなり変わってはいるがこれは現存している唯一のものだろう。
竣工時の写真では、まるで畑の中の一軒家のごとくであるが、いまはそれなり密度の高い住宅地のなかにある。
展覧会のテーマである「都市から郊外へ」については、1930年代から東京周辺の緑地帯は、こうやって住宅地化されていったのである。
そのなかで芸術家が果たした役割のようなことが、この菊池アトリエもそうだが、展覧会のひとつの柱らしい。
そこのところは、展覧会を見ても実はわたしにはまだよく飲み込めていないのだが、面白いテーマであるとおもう。
1930年代の東京の大きな変化は、1923年の関東大震災に起因するのである。
このところそのあたりの資料がありそうな展覧会で、この世田谷と、葉山の神奈川県立美術館での「村山知義展」、そして新橋パナソニックミュージアムでの「今和次郎展」をハシゴしたのであった。
そこで村山も今も、関東大震災を契機に新展開したことを確認したのであった。
建築家・山口文象を産み落としたのも同じく関東大震災であるから、20世紀末と21世紀はじめの東西の大震災は何を産み落とすのか、あるいは産み落とさないのか、興味があることだ。
参照→山口文象アーカイブス
2012/03/24
599非日常・異日常そして日常の風景
横浜新港地区の結婚式場建築の計画が、横浜市の都市美審議会でNO、だが、そのままGOになるらしい。
この件は以前に「592市場における都市美とは?」で書いた。
http://datey.blogspot.jp/2012/03/592.html
まだ、審議会議事録も変更デザインもウェブ検索では出てこないので、ここでは景観瓢論の域をでないが、興味をかきたてられる。
1月の審議会の部会につづいて3月23日に開催、「テーマパークのようで抵抗がある」、「これを通すなら都市美審議会はを解散したほうがいい」などと委員からの過激な発言があったことを新聞(朝日新聞2012年3月24日横浜版)が伝えている。
高さと色の一部変更があったらしいが、審議会の委員たちが最も問題とした(らしい)あのゴチャマゼ様式建築デザインに関しては変わることはなかった模様である。
たしかにこれはテーマパークそのものである。
(計画図http://goo.gl/w00Cg)
だが、まさにそれが事業者の狙いなのだから、根本のスタンスが異なるのはどうしようもない。
皮肉にも、委員がそれを指摘すればするほど、事業者はそのデザインの意図を保証をされたように思い、事業の成功を確信するだろう。
結婚式場という非日常の場は、まさにテーマパークそのものである。その日だけは王子様王女様になってまわりから祝福され、明日から待ち受ける厳しい日常もテーマパークの日々が続くような幻想を抱かせる場、それが結婚式場である。
昔は婚礼(結婚式とは言わない)は、その夫婦が暮らす家でとり行うものだった。
それはあくまで日常世界の連続の位置にある行事だから、住家でなければならなかった。
親戚や町内の人々が寄り集まって、その日だけは非日常の花嫁と花婿を、明日からの日常へと円滑にとり込むための行事だった。
それがだんだんと家の外にでていくようになってきたのは、家が狭いとか核家族とかの時代になってきたからだろう。
しかし、かつてのように公民館でやっていた頃は、まだ異日常レベルだったが、ブライダル産業の登場からは非日常行事へと進み、婚礼は結婚式という儀式になっていく。
そして儀式のための仕掛けも非日常化たテーマパークとなり、ディズニーランドのように入場者一人当たり1万円以上を消費させる産業に成長する。
若者が少なくなってくると、ブライダル市場も狭まるから、ここで生き残りをかけた寡占を狙って産業界は必死になっているに違いない。
そのためには、その立地選定、施設内容そしてサービス内容の競争になる。
そこで話が元に戻って、横浜新港地区のこの施設立地は申し分のないテーマパーク性を備えている。
運河に面した見晴らしよい場所、テーマパーク性をいやがうえにも演出してくれる背後の遊園地、そして憧れのヨーロッパ古典?建築のキリスト教会、、、おお、これほど非日常性の演出は、ここでなければ外国に行くしかないよなあ。
でも外国まで行くには金がかかるけど、ここなら日本のどこからでもやってくることができる非日常世界になりうる。
そう、この婚礼の場は、ある日だけ外からやってきて、いつもと違う風景の中でいつもと違うことを体験するのである。つまりテーマパークだ。
そこに審議会との深い溝ができる。
審議会の委員たちはがテーマパークを否定するのは、ここが非日常の世界ではないと心得ているからだろう。せいぜい異日常世界であろう。
それは、外からの目ではなくて、いつも見ている内からの目、つまり日常からの視線で風景を見るからだろう。
そこに異物としかみえない何かが登場することに、耐えられない心情が働くのはよくわかる。
ところで、ここにある遊園地コスモワールドの風景には、委員の方々は耐えられるのだろうか。
遊園地の散らかった風景とこの新婚礼施設とは好一対で、たがいに引き立て役になるだろう。
では、審議会の良しとする建築風景はどのようなものだろうか。
新港埠頭側から眺める新開発地区の建築の立ち並ぶ風景は、どうやら近代的赤レンガ倉庫街のイメージらしい。
近代的とつけたのは、本物の赤レンガ倉庫があるのに、今の倉庫?は屋根がなくて壁はレンガ色である。
http://www.cupnoodles-museum.jp/about/index.html
あらかじめ知らないと、そばに寄るまであの世界に普及した「インスタントカルチャー」を作り上げた記念碑とは気がつかない。
まあ、それもミュージアムとしてのひとつの見識であるが、隣の温泉施設も反対側の研修施設も、同じような赤い四角な箱で、ここではっきりいうと、その連続する風景はまことにつまらないのである。
このあたりを日常の散歩の場とするわたしでも、ここはせめて異日常の風景であっても良いと思うのだが、ほぼ新開地駅前風景(たとえば新横浜)とたいしてかわりがない。
そこに殴り込みをかけてきたのが、この厚化粧花魁頭の非日常結婚式場である。さて非日常と日常あるいは異日常との戦いは、どちらに軍配が上がるか。今は非日常が寄りきり勝ちしようとしているようだ。
この厚化粧デザインを支えるのは、まさにブライダル市場である。市場が景観をつくるのは、今の日本の都市と郊外を見ればよくわかる。
ついでながら、かつて木造土蔵の横浜の街並みに、赤レンガの開港記念館ができたとき、その厚化粧花魁頭の建物は、人々の目にどう映ったのだろうか。
(参考)神奈川新聞2012年3月24日
MM21地区「国内最大」式場計画、景観協議が不調「再考を」/横浜
横浜・みなとみらい21(MM21)新港地区に計画されている国内最大規模の結婚式場をめぐり、横浜市長の諮問機関「都市美対策審議会」の部会は23日、横浜市と事業者が進めてきた都市景観協議が「不調に終わった」との意見をまとめ、建設計画の再考を求めた。市は週明けに事業者に結果を伝える方針。
協議の方針について、1月の部会で「さまざまな時代背景の建築デザインを模倣し混在させるのは避けること」など30項目の意見が委員から出されていた。
市は23日、「協議を進めたが、すべての意見に対応できなかった」と報告。これに対し、委員らは「もっと時間をかけて審議を重ね、いい計画にしていきたい」などと指摘した。
事業者は紳士服量販大手AOKIホールディングスの子会社で、予定地は同市中区新港2丁目の市有地と民有地の計約1万8千平方メートル。欧風スタイルの結婚式場やカフェなどを設ける計画で、2013年秋の開業を予定している。
この件は以前に「592市場における都市美とは?」で書いた。
http://datey.blogspot.jp/2012/03/592.html
まだ、審議会議事録も変更デザインもウェブ検索では出てこないので、ここでは景観瓢論の域をでないが、興味をかきたてられる。
1月の審議会の部会につづいて3月23日に開催、「テーマパークのようで抵抗がある」、「これを通すなら都市美審議会はを解散したほうがいい」などと委員からの過激な発言があったことを新聞(朝日新聞2012年3月24日横浜版)が伝えている。
高さと色の一部変更があったらしいが、審議会の委員たちが最も問題とした(らしい)あのゴチャマゼ様式建築デザインに関しては変わることはなかった模様である。
たしかにこれはテーマパークそのものである。
(計画図http://goo.gl/w00Cg)
だが、まさにそれが事業者の狙いなのだから、根本のスタンスが異なるのはどうしようもない。
皮肉にも、委員がそれを指摘すればするほど、事業者はそのデザインの意図を保証をされたように思い、事業の成功を確信するだろう。
結婚式場という非日常の場は、まさにテーマパークそのものである。その日だけは王子様王女様になってまわりから祝福され、明日から待ち受ける厳しい日常もテーマパークの日々が続くような幻想を抱かせる場、それが結婚式場である。
昔は婚礼(結婚式とは言わない)は、その夫婦が暮らす家でとり行うものだった。
それはあくまで日常世界の連続の位置にある行事だから、住家でなければならなかった。
親戚や町内の人々が寄り集まって、その日だけは非日常の花嫁と花婿を、明日からの日常へと円滑にとり込むための行事だった。
それがだんだんと家の外にでていくようになってきたのは、家が狭いとか核家族とかの時代になってきたからだろう。
しかし、かつてのように公民館でやっていた頃は、まだ異日常レベルだったが、ブライダル産業の登場からは非日常行事へと進み、婚礼は結婚式という儀式になっていく。
そして儀式のための仕掛けも非日常化たテーマパークとなり、ディズニーランドのように入場者一人当たり1万円以上を消費させる産業に成長する。
若者が少なくなってくると、ブライダル市場も狭まるから、ここで生き残りをかけた寡占を狙って産業界は必死になっているに違いない。
そのためには、その立地選定、施設内容そしてサービス内容の競争になる。
そこで話が元に戻って、横浜新港地区のこの施設立地は申し分のないテーマパーク性を備えている。
運河に面した見晴らしよい場所、テーマパーク性をいやがうえにも演出してくれる背後の遊園地、そして憧れのヨーロッパ古典?建築のキリスト教会、、、おお、これほど非日常性の演出は、ここでなければ外国に行くしかないよなあ。
でも外国まで行くには金がかかるけど、ここなら日本のどこからでもやってくることができる非日常世界になりうる。
そう、この婚礼の場は、ある日だけ外からやってきて、いつもと違う風景の中でいつもと違うことを体験するのである。つまりテーマパークだ。
そこに審議会との深い溝ができる。
審議会の委員たちはがテーマパークを否定するのは、ここが非日常の世界ではないと心得ているからだろう。せいぜい異日常世界であろう。
それは、外からの目ではなくて、いつも見ている内からの目、つまり日常からの視線で風景を見るからだろう。
そこに異物としかみえない何かが登場することに、耐えられない心情が働くのはよくわかる。
ところで、ここにある遊園地コスモワールドの風景には、委員の方々は耐えられるのだろうか。
遊園地の散らかった風景とこの新婚礼施設とは好一対で、たがいに引き立て役になるだろう。
では、審議会の良しとする建築風景はどのようなものだろうか。
新港埠頭側から眺める新開発地区の建築の立ち並ぶ風景は、どうやら近代的赤レンガ倉庫街のイメージらしい。
近代的とつけたのは、本物の赤レンガ倉庫があるのに、今の倉庫?は屋根がなくて壁はレンガ色である。
つい最近できたカップヌードルミュージアムという、まさにテーマパークの建物が、どう見てもテーマパークに見えないことで、それがよくわかるのだ。
じつは、わたしはこのインスタントラーメンの博物館ができると聞いたとき、あのラーメンのカップそのものの形の建物をイメージしたのである。そしてそれが提案されたとき、横浜都市美審議会がどうそれを審議するだろうかと思ったものだ。
審議過程は知らないが、できたものを見ると、ただの赤い箱であった。http://www.cupnoodles-museum.jp/about/index.html
あらかじめ知らないと、そばに寄るまであの世界に普及した「インスタントカルチャー」を作り上げた記念碑とは気がつかない。
まあ、それもミュージアムとしてのひとつの見識であるが、隣の温泉施設も反対側の研修施設も、同じような赤い四角な箱で、ここではっきりいうと、その連続する風景はまことにつまらないのである。
このあたりを日常の散歩の場とするわたしでも、ここはせめて異日常の風景であっても良いと思うのだが、ほぼ新開地駅前風景(たとえば新横浜)とたいしてかわりがない。
そこに殴り込みをかけてきたのが、この厚化粧花魁頭の非日常結婚式場である。さて非日常と日常あるいは異日常との戦いは、どちらに軍配が上がるか。今は非日常が寄りきり勝ちしようとしているようだ。
この厚化粧デザインを支えるのは、まさにブライダル市場である。市場が景観をつくるのは、今の日本の都市と郊外を見ればよくわかる。
ついでながら、かつて木造土蔵の横浜の街並みに、赤レンガの開港記念館ができたとき、その厚化粧花魁頭の建物は、人々の目にどう映ったのだろうか。
(参考)神奈川新聞2012年3月24日
MM21地区「国内最大」式場計画、景観協議が不調「再考を」/横浜
横浜・みなとみらい21(MM21)新港地区に計画されている国内最大規模の結婚式場をめぐり、横浜市長の諮問機関「都市美対策審議会」の部会は23日、横浜市と事業者が進めてきた都市景観協議が「不調に終わった」との意見をまとめ、建設計画の再考を求めた。市は週明けに事業者に結果を伝える方針。
協議の方針について、1月の部会で「さまざまな時代背景の建築デザインを模倣し混在させるのは避けること」など30項目の意見が委員から出されていた。
市は23日、「協議を進めたが、すべての意見に対応できなかった」と報告。これに対し、委員らは「もっと時間をかけて審議を重ね、いい計画にしていきたい」などと指摘した。
事業者は紳士服量販大手AOKIホールディングスの子会社で、予定地は同市中区新港2丁目の市有地と民有地の計約1万8千平方メートル。欧風スタイルの結婚式場やカフェなどを設ける計画で、2013年秋の開業を予定している。
2012/03/23
598震災と地価
地価公示が新聞に出ている。
津波被災地の高台移転先の土地が高騰しているとのこと。
そんなことになるのは、とうにわかっていながら、地価凍結をできない日本の土地政策がある。いや、土地政策がないのか。
とにかく住宅(建物)政策はあっても、居住政策ってものがない。
一方、津波をかぶった所は地価下落とのこと。
ところで、次に地価高騰するところは、原発被災の著しい双葉郡のエリアであろう。
えっ、津波被災よりもひどいのに、なぜ高騰するかって、そう思うでしょ?
それが高騰するのは、このエリアが核毒貯蔵の場所として、必ず国有化されるからだ。
それを狙って国か東電に高く売りつけようって、高台の次はここだって、もう不動産屋さんたちが蠢いているだろうなあ、多分、。
●参照→21世紀の「谷中村」は「核毒の森」
http://datey.blogspot.jp/2011/08/47921.html
津波被災地の高台移転先の土地が高騰しているとのこと。
そんなことになるのは、とうにわかっていながら、地価凍結をできない日本の土地政策がある。いや、土地政策がないのか。
とにかく住宅(建物)政策はあっても、居住政策ってものがない。
一方、津波をかぶった所は地価下落とのこと。
ところで、次に地価高騰するところは、原発被災の著しい双葉郡のエリアであろう。
えっ、津波被災よりもひどいのに、なぜ高騰するかって、そう思うでしょ?
それが高騰するのは、このエリアが核毒貯蔵の場所として、必ず国有化されるからだ。
それを狙って国か東電に高く売りつけようって、高台の次はここだって、もう不動産屋さんたちが蠢いているだろうなあ、多分、。
●参照→21世紀の「谷中村」は「核毒の森」
http://datey.blogspot.jp/2011/08/47921.html
2012/03/17
597今風望郷歌
東武電車の「業平橋駅」が「スカイツリー駅」と、名前を変えたそうだ。
かのイケメン男の在原業平は、嘆いているかもしれない。
むかし、男ありけり。
その男、身をえうなきものに思ひなして、「京にはあらじ。あづまの方に住むべき国もとめに」とて往きけり。
なほゆきゆきて武蔵の国と下総の国との中に、いとおほきなる河あり。それを角田河といふ。
その河のほとりにむれゐて、思ひやれば、かぎりなく、遠くも来にけるかな、とわびあへるに、渡守、「はや舟に乗れ。日も暮れぬ」といふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。
さる折りしも、白き鳥の嘴と脚とあかき、鴫のおほきさなる、水のうへに遊びつゝ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。
渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふを聞きて、
名にしおはゞいざこと問はむ都鳥
わが思ふ人はありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。
(「伊勢物語」より)
ある男、京都から東京に移ってきたが、身の上がうまくゆかない。
流れ流れてとうとう隅田川のほとりに至り、ダンボール小屋を建てて住む。
思えば、こんなところで、こうなったものだと、ホームレス仲間と嘆きあう。
そうこうするうちに、近くに高いタワーが立ち上がってきた。聞けばこれこそスカイツリーだという。
男は展望台から故郷を眺めたいが、入場料が高くて登れない。嘆いて一首を詠んだ。
名にしに負わばいざこと問はむスカイツリー
わが想う人はありやなしやと
ホームレス仲間はみな泣いたのであった。
(「伊達物語」より)
●参照→503押上の斜塔
http://datey.blogspot.jp/2011/10/503.html
かのイケメン男の在原業平は、嘆いているかもしれない。
むかし、男ありけり。
その男、身をえうなきものに思ひなして、「京にはあらじ。あづまの方に住むべき国もとめに」とて往きけり。
なほゆきゆきて武蔵の国と下総の国との中に、いとおほきなる河あり。それを角田河といふ。
その河のほとりにむれゐて、思ひやれば、かぎりなく、遠くも来にけるかな、とわびあへるに、渡守、「はや舟に乗れ。日も暮れぬ」といふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。
さる折りしも、白き鳥の嘴と脚とあかき、鴫のおほきさなる、水のうへに遊びつゝ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。
渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふを聞きて、
名にしおはゞいざこと問はむ都鳥
わが思ふ人はありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。
(「伊勢物語」より)
ある男、京都から東京に移ってきたが、身の上がうまくゆかない。
流れ流れてとうとう隅田川のほとりに至り、ダンボール小屋を建てて住む。
思えば、こんなところで、こうなったものだと、ホームレス仲間と嘆きあう。
そうこうするうちに、近くに高いタワーが立ち上がってきた。聞けばこれこそスカイツリーだという。
男は展望台から故郷を眺めたいが、入場料が高くて登れない。嘆いて一首を詠んだ。
名にしに負わばいざこと問はむスカイツリー
わが想う人はありやなしやと
ホームレス仲間はみな泣いたのであった。
(「伊達物語」より)
●参照→503押上の斜塔
http://datey.blogspot.jp/2011/10/503.html
2012/03/14
596狼地震に無効核毒
地震がほとんどないところで生まれて少年時代を過ごした。19歳で関東に住むようになって驚いたのは、地震が多いことである。
今から考えるとおかしいが、どんな小さな地震でも心臓がドキッとしたものである。
なんと関東は危ないところだと思いつつ暮らすうちに、ドキッとはしなくなった。
それでも、そうなるまでには数年を要した。
だから、外国人ならば、まさに昔のわたしのように、揺れるたびにビクッ、ドキッとしているに違いない。
その上、原発からの核の毒が降ってくるとなれば、地理不案内の外国人は、なおさら不安に駆られるに違いない。
わたしが、どこか言葉が不自由な状態の外国で大地震と核毒の雨に出くわしたとしたら、新聞や放送でどこそこの地域では安全とか、どこそこ危ないとか言われても、それが自分のいるところとの関係がよくわからないから、その国とか広い地域全部が危ないと思うに違いない。そして逃げ出すに限ると思うだろう。
今、外国人のほとんどは、日本は地震と核毒でどこもかしこも全部が危ないところだと思っているにちがいない。
でも、そのことをだれも否定できない。
これほど毎日毎日地震に見舞われると、だんだんと不感症になるのはやむをえない。
毎度の地震を、ふん、また狼少年、いや狼地震かよ、、、。
そしてまた、核毒まじりの食品を食っているかも知れないが、どうせ年寄りだから、10年や20年後に発病しても、その頃は死んでるから、核毒なんてオレには効かないと同じだよ、もう、どうでもいいや。
あ、そうだ、与太話ついでに新提案を、、、核毒汚染食品を、70歳を超えたら年齢と同じパーセントで値引きして売ったらどうですかね、70歳に人には7割引きで、100歳の人には無料でね。
今から考えるとおかしいが、どんな小さな地震でも心臓がドキッとしたものである。
なんと関東は危ないところだと思いつつ暮らすうちに、ドキッとはしなくなった。
それでも、そうなるまでには数年を要した。
だから、外国人ならば、まさに昔のわたしのように、揺れるたびにビクッ、ドキッとしているに違いない。
その上、原発からの核の毒が降ってくるとなれば、地理不案内の外国人は、なおさら不安に駆られるに違いない。
わたしが、どこか言葉が不自由な状態の外国で大地震と核毒の雨に出くわしたとしたら、新聞や放送でどこそこの地域では安全とか、どこそこ危ないとか言われても、それが自分のいるところとの関係がよくわからないから、その国とか広い地域全部が危ないと思うに違いない。そして逃げ出すに限ると思うだろう。
今、外国人のほとんどは、日本は地震と核毒でどこもかしこも全部が危ないところだと思っているにちがいない。
でも、そのことをだれも否定できない。
これほど毎日毎日地震に見舞われると、だんだんと不感症になるのはやむをえない。
毎度の地震を、ふん、また狼少年、いや狼地震かよ、、、。
そしてまた、核毒まじりの食品を食っているかも知れないが、どうせ年寄りだから、10年や20年後に発病しても、その頃は死んでるから、核毒なんてオレには効かないと同じだよ、もう、どうでもいいや。
あ、そうだ、与太話ついでに新提案を、、、核毒汚染食品を、70歳を超えたら年齢と同じパーセントで値引きして売ったらどうですかね、70歳に人には7割引きで、100歳の人には無料でね。
2012/03/11
595震災ビル新装お目見え
横浜公園そばに、昨年3月の震災で傷んでいたビルがあった。
●参照→横浜都心地震探検
今日、前を通ったら、綺麗に修復された姿でたっている。2週間目はまだ囲いがあったような気がするから、震災1周年までに仕上げたのだろう。
594忘れてはいませんか3月10日を
●記念日とは
天然現象から1年という日月が流れたことに物理的には何の意味もない。しかし、人間は時間という文化を発明して、人生を区切る癖がある。身近に事件が起きると地球が太陽を一回りしたときをもって意味づけをしようとする。
もっとも身近な例が誕生日である。誕生日は誕生した日の1日しかないはずが、それから毎年同じ月日を誕生日記念日として、これを誕生日という。
同じように死んだ日を命日という。命が尽きた日のことを省略して命日というようになったのだろうか。
その命日が1万9千も重なった日が、2011年3月11日。東日本大震災から今日で1年が過ぎた。
毎日どこかでだれかの命日がたくさんあるのだが、同じ日にこれだけの数が、ほぼ同じようなところで、ほぼ同じ原因で命日が発生するのは珍しいから、それを思い出す行事を共同でやりたいと人間は思うらしい。
1923年9月1日、1945年3月10日、1995年1月17日、2001年9月11日、そして2011年3月11日、これらがわたしが記憶(体験ではない)している大量命日である。
昨3月10日の命日を共同で思い出す行事を誰かしたのだろうか。
10万人以上がいわば虐殺の人災で死んだ日なのだが、人間は忘却する能力もある。2万人の1年、10万人の67年、この差は何を物語るのだろうか。
●犠牲者とは
震災で死んだ人たちを「犠牲者」というのが気にかかる。
犠牲とは何かのために何かを捧げることである。野球に犠牲バントというがある。塁に出ている走者を進めるために、打者が自分がアウトになるのにバントをするのである。これは打者が走者のために犠牲になったと言える。
では津波で死んだ人は、だれのために犠牲になったのか。中には誰かを助けて命が尽きた人もいるだろう。それはそれぞれ個別の犠牲者である。
しかし、どことかの町は何千人の犠牲者とか、震災の犠牲者は全部で19000人とか言うのと、生き残ったもの全部が死んだ人に助けられたことになる。
これでは生き残ったものはだれもが負い目を持って生きなければならない。たまったものではなかろう。
軽々しく犠牲者といっては、生き残った人たちには気の毒だし、本当の犠牲者には失礼になると思う。
●中間貯蔵とは
中間とは、出発点と終点との間のどこかを言う。
出発点では、福1原発が発射した放射性物質が福島県内外に降ってその地域のあらゆるものを汚染させた。
しょうがないから、その核毒汚染したもろもろを集めて廃棄せざるを得ない。
で、中間点として、その汚染廃棄瓦礫塵芥類を、福島県双葉郡内に設ける中間貯蔵施設に集めるそうだ。大量凝縮核毒捨て場である。
その土地が降り積もった核毒で使えなくなっているのだから、これはやむをえないだろう
そして問題は、終点である。30年以内にそれらを県外のどこかの最終処理施設に移動するのだそうだ。
はたして県外にその大量核毒を引き受けるところがあるだろうか。だれでも沖縄の普天間基地移転騒動のことを思い出すだろう。毒に汚染されていない地域を、あらためて毒で汚染するのである。
中間貯蔵とは言いながら、多分、最終捨て場にならざるを得ないだろう。そう、「核毒の森」となって。
●ふるさと放棄の政策も
震災は社会のトレンドを10年くらい後押しするものだと痛感したのは、2004年の中越震災復興支援で、中越の山村に行くようになってからだ。
昨年の大震災もまさにそうである。被災した各地で人口が激減しているが、10年後に起こる予定が早まっただけである。
問題は、突然の進行だから、対応できないということだ。いや、突然の進行でもない日本各地での人口減少に対応できていないから、なおさら問題である。
問題となる根本は、自然現象とでも言うべき人口減少に対抗しようとすることである。
だから、ある人口減少地域から、都市へと移住すると後に残るものから冷たく見られる。
地域に残らせるための政策はいろいろ振興策としてあるけど、地域から出て行くための政策はない。出て行くものは、やむをえなくても自力でがんばるしかない。
なんだかおかしい。いまや出て行くことが主流になりつつあるのに。
人口減少してもハッピーな社会、出て行った先でもハッピーな暮らしをできる政策のほうが今は求められているはずと、わたしは思うのだ。
積極的に「ふるさと放棄」の政策はないのか。そう、遠い別の地につぎなるハッピーな「それぞれのふるさと再建」をするのである。
災害にあったその地でふるさと再建こそが第1だとする政策では、他に移ったものにはやりきれないだろう。
これは去年の大震災で背中を押された日本社会で大きな課題として、あぶりだされなければならない
参照→地震津波火事原発
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#jisin
天然現象から1年という日月が流れたことに物理的には何の意味もない。しかし、人間は時間という文化を発明して、人生を区切る癖がある。身近に事件が起きると地球が太陽を一回りしたときをもって意味づけをしようとする。
もっとも身近な例が誕生日である。誕生日は誕生した日の1日しかないはずが、それから毎年同じ月日を誕生日記念日として、これを誕生日という。
同じように死んだ日を命日という。命が尽きた日のことを省略して命日というようになったのだろうか。
その命日が1万9千も重なった日が、2011年3月11日。東日本大震災から今日で1年が過ぎた。
毎日どこかでだれかの命日がたくさんあるのだが、同じ日にこれだけの数が、ほぼ同じようなところで、ほぼ同じ原因で命日が発生するのは珍しいから、それを思い出す行事を共同でやりたいと人間は思うらしい。
1923年9月1日、1945年3月10日、1995年1月17日、2001年9月11日、そして2011年3月11日、これらがわたしが記憶(体験ではない)している大量命日である。
昨3月10日の命日を共同で思い出す行事を誰かしたのだろうか。
10万人以上がいわば虐殺の人災で死んだ日なのだが、人間は忘却する能力もある。2万人の1年、10万人の67年、この差は何を物語るのだろうか。
●犠牲者とは
震災で死んだ人たちを「犠牲者」というのが気にかかる。
犠牲とは何かのために何かを捧げることである。野球に犠牲バントというがある。塁に出ている走者を進めるために、打者が自分がアウトになるのにバントをするのである。これは打者が走者のために犠牲になったと言える。
では津波で死んだ人は、だれのために犠牲になったのか。中には誰かを助けて命が尽きた人もいるだろう。それはそれぞれ個別の犠牲者である。
しかし、どことかの町は何千人の犠牲者とか、震災の犠牲者は全部で19000人とか言うのと、生き残ったもの全部が死んだ人に助けられたことになる。
これでは生き残ったものはだれもが負い目を持って生きなければならない。たまったものではなかろう。
軽々しく犠牲者といっては、生き残った人たちには気の毒だし、本当の犠牲者には失礼になると思う。
●中間貯蔵とは
中間とは、出発点と終点との間のどこかを言う。
出発点では、福1原発が発射した放射性物質が福島県内外に降ってその地域のあらゆるものを汚染させた。
しょうがないから、その核毒汚染したもろもろを集めて廃棄せざるを得ない。
で、中間点として、その汚染廃棄瓦礫塵芥類を、福島県双葉郡内に設ける中間貯蔵施設に集めるそうだ。大量凝縮核毒捨て場である。
その土地が降り積もった核毒で使えなくなっているのだから、これはやむをえないだろう
そして問題は、終点である。30年以内にそれらを県外のどこかの最終処理施設に移動するのだそうだ。
はたして県外にその大量核毒を引き受けるところがあるだろうか。だれでも沖縄の普天間基地移転騒動のことを思い出すだろう。毒に汚染されていない地域を、あらためて毒で汚染するのである。
中間貯蔵とは言いながら、多分、最終捨て場にならざるを得ないだろう。そう、「核毒の森」となって。
●ふるさと放棄の政策も
震災は社会のトレンドを10年くらい後押しするものだと痛感したのは、2004年の中越震災復興支援で、中越の山村に行くようになってからだ。
昨年の大震災もまさにそうである。被災した各地で人口が激減しているが、10年後に起こる予定が早まっただけである。
問題は、突然の進行だから、対応できないということだ。いや、突然の進行でもない日本各地での人口減少に対応できていないから、なおさら問題である。
問題となる根本は、自然現象とでも言うべき人口減少に対抗しようとすることである。
だから、ある人口減少地域から、都市へと移住すると後に残るものから冷たく見られる。
地域に残らせるための政策はいろいろ振興策としてあるけど、地域から出て行くための政策はない。出て行くものは、やむをえなくても自力でがんばるしかない。
なんだかおかしい。いまや出て行くことが主流になりつつあるのに。
人口減少してもハッピーな社会、出て行った先でもハッピーな暮らしをできる政策のほうが今は求められているはずと、わたしは思うのだ。
積極的に「ふるさと放棄」の政策はないのか。そう、遠い別の地につぎなるハッピーな「それぞれのふるさと再建」をするのである。
災害にあったその地でふるさと再建こそが第1だとする政策では、他に移ったものにはやりきれないだろう。
これは去年の大震災で背中を押された日本社会で大きな課題として、あぶりだされなければならない
参照→地震津波火事原発
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#jisin
2012/03/07
593何十年ぶりかで動物園へ
神奈川県立図書館からの歩いての帰り道、どんどん横道にそれたら、たまたま通りかかったのが野毛山動物園、ふらふらと入った。
昔々、子どもをつれて上野に行ったかなあ、あれは何十年前だろうか。
昔々、子どもをつれて上野に行ったかなあ、あれは何十年前だろうか。
動物園も懐かしいところであった。
2012/03/06
592市場における都市美とは?
横浜都心の魅力のひとつは、海辺の風景が身近にあることだ。
だからそこに建つ建物について、景観面からの行政からの規制がうるさいのだ。
建設しようとする建物デザインを、横浜市都市美対策審議会でOKを取る必要がある。
ここに面白い、といっては語弊があるが、それでも面白いといわざるを得ない事件がおきている。
「5人の委員は、このままではこの場所には認められないのではないか、横浜市のガイドライン、景観計画、地区計画、いろいろと進めてきた中ではこれは認められない」
こうまではっきりと否定されたデザインというのも、ちょっと珍しいような気がする。
桜木町駅から赤レンガ倉庫へと導く汽車道は、横浜近代化の産業遺産をうまいこと生かして、横浜名所となった新港地区への美しい景観をもつ玄関アプローチである。
そこから最もよい眺めの位置にある空き地に、結婚産業屋さんが結婚式場を建てる計画で、そのデザインを都市美審議会に持ち込んだ。
そのデザインは、なんというか、南イタリア風のようなギリシャ風のような、宮殿のようなラブホテルのような、あれこれとヨーロッパ建築様式のようなそうでもないような部品で構成する「欧風様式のモチーフを展開した外観を創出」(事業者の計画説明書)している。
●そのデザインは事業者の都市計画協議申し出書参照
http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/design/shingikai/tosibi/ks014/pdf/ks014-3-1.pdf
これを審議した都市美審議会の議事録がある。
読むと実に面白い。委員と事業者とがぜんぜんかみ合っていないのだ。おかしいくらい噛み合わない。どちらも戸惑っているようだ。
委員は真正面からデザインがヘタクソだといっているが、事業者側はこれまでこれであちこちでやってきてるのに、ここではなんでいけないんだよって、。
http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/design/shingikai/tosibi/ks014/
出席した事業者側に、清水建設設計本部の人がいるから、これはその設計施工であるらしい。
それにしても、今の市場の要請はこうなのだとがんばる事業者の立場と、普遍的な都市美と地域景観の創造的な整合を求める委員の立場とは、こういうときはどこに落としどころがあるのだろうか。
委員にがんばってもらって、このラブホテル風結婚式場(ラブホとブライダルは親戚関係だなあ)が、どう変わるのか、外野としては実に楽しみである。
だからそこに建つ建物について、景観面からの行政からの規制がうるさいのだ。
建設しようとする建物デザインを、横浜市都市美対策審議会でOKを取る必要がある。
ここに面白い、といっては語弊があるが、それでも面白いといわざるを得ない事件がおきている。
「5人の委員は、このままではこの場所には認められないのではないか、横浜市のガイドライン、景観計画、地区計画、いろいろと進めてきた中ではこれは認められない」
こうまではっきりと否定されたデザインというのも、ちょっと珍しいような気がする。
桜木町駅から赤レンガ倉庫へと導く汽車道は、横浜近代化の産業遺産をうまいこと生かして、横浜名所となった新港地区への美しい景観をもつ玄関アプローチである。
そこから最もよい眺めの位置にある空き地に、結婚産業屋さんが結婚式場を建てる計画で、そのデザインを都市美審議会に持ち込んだ。
そのデザインは、なんというか、南イタリア風のようなギリシャ風のような、宮殿のようなラブホテルのような、あれこれとヨーロッパ建築様式のようなそうでもないような部品で構成する「欧風様式のモチーフを展開した外観を創出」(事業者の計画説明書)している。
●そのデザインは事業者の都市計画協議申し出書参照
http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/design/shingikai/tosibi/ks014/pdf/ks014-3-1.pdf
これを審議した都市美審議会の議事録がある。
読むと実に面白い。委員と事業者とがぜんぜんかみ合っていないのだ。おかしいくらい噛み合わない。どちらも戸惑っているようだ。
委員は真正面からデザインがヘタクソだといっているが、事業者側はこれまでこれであちこちでやってきてるのに、ここではなんでいけないんだよって、。
http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/design/shingikai/tosibi/ks014/
出席した事業者側に、清水建設設計本部の人がいるから、これはその設計施工であるらしい。
それにしても、今の市場の要請はこうなのだとがんばる事業者の立場と、普遍的な都市美と地域景観の創造的な整合を求める委員の立場とは、こういうときはどこに落としどころがあるのだろうか。
委員にがんばってもらって、このラブホテル風結婚式場(ラブホとブライダルは親戚関係だなあ)が、どう変わるのか、外野としては実に楽しみである。
2012/03/03
591千年の津波
東北の震災復興計画に関する報告の会合が大学であり、現地の様子を聞きたくて出てみた。
わたしは地震津波原発被災にも復興計画にも、これまでなんの関わりないので、復興計画の中身と問題を新鮮に聞いた。
ある都市計画家の報告で、自治体ごとに立案している復興計画を並べてみると、それらの行政区域の境界あたりで、津波防御の計画が不自然につながらないところがあるという。
復興計画には防潮堤や高く盛り土した道路などが、海岸線に平行して2重にも3重にも線を描いているが、それらが行政境界に来るとつながらなかったり、不自然に曲がったり、あいまいに消えたりしている。
津波を防御する対策が行政境界で食い違うと、そこから津波が内陸に入ってくることになる。
これらの計画の相互調整はどうなっているのだろうか。
計画立案はどこも委員会によっていて、学者、専門家、行政マンたちが委員である。
各自治体の復興計画の委員名簿を見ると、かなり重複している学者たちがいる。その人たちは、担当する復興計画相互の調整を考えなかったのだろうか。
コンサルタントが作業をやっているはずだが、それらも相互調整することはないのだろうか。
今後あるいは現在、それらの調整が行われることを期待しよう。
被災の現地から参加した市民の話も聞いた。
ある被災市での復興計画委員会(上のそれとは違って地域のものらしいが)に、公募市民委員として入った人は、その委員会の役割について行政から、こう言われたという。
この委員会は、上級官庁が策定して降りてくる計画に、賛成か反対かを言うだけで、提案は一切受け付けない。
そんなことが現地ではあるらしい。
現実はそうは行かなくて、議論百出だったそうだ。当たりまえであるが、決定権はどうなるのだろうか。
また別の市民の話。
津波が押し寄せるのを防ぐ道路などは、かなりがっちりしたそれこそ水ももらさないものになるのだろう。
逆にそれを現状から見ると、地盤沈下して海水が引かないところにそのようなものができると、なおさら海水が引かないことになる。そこでは膨大な地域の嵩上げが必要になるが、現実的なのか。
ところで、津波防御の考え方には、数十年から数百年に1回おきる津波(レベル1)への対応と、5百年から千年に1回おきる津波(レベル2)への対応が、あるそうだ。
わたしにはそれらの違いがよくわからないが、去年の津波は「レベル2」だったそうだ。
ということは、これから先、5百~千年はあのような津波はやってこないということなんだろうか。素人はそう思ってしまうが、違うのだろうか。
1995年に阪神淡路大震災が起きたときに、わたしは思ったものだ、これから数百年は地震に日本一安全な都市は神戸だ、と。
人間は5年先さえも見通せないのに、数百年、千年先となると、どうでもよいと思うものだろう。
「津波と村」(山口弥一郎著)を読めば、それが人間には当たり前のように思う。
http://datey.blogspot.com/2012/02/588.html
千年の超未来へのまなざしが必要なことなのか、今日・明日の命こそが重要なことか、そもそもそのような比較は成り立たないことなのか、復興計画はまったくもって難しいことのようだ。
わたしは地震津波原発被災にも復興計画にも、これまでなんの関わりないので、復興計画の中身と問題を新鮮に聞いた。
ある都市計画家の報告で、自治体ごとに立案している復興計画を並べてみると、それらの行政区域の境界あたりで、津波防御の計画が不自然につながらないところがあるという。
復興計画には防潮堤や高く盛り土した道路などが、海岸線に平行して2重にも3重にも線を描いているが、それらが行政境界に来るとつながらなかったり、不自然に曲がったり、あいまいに消えたりしている。
津波を防御する対策が行政境界で食い違うと、そこから津波が内陸に入ってくることになる。
これらの計画の相互調整はどうなっているのだろうか。
計画立案はどこも委員会によっていて、学者、専門家、行政マンたちが委員である。
各自治体の復興計画の委員名簿を見ると、かなり重複している学者たちがいる。その人たちは、担当する復興計画相互の調整を考えなかったのだろうか。
コンサルタントが作業をやっているはずだが、それらも相互調整することはないのだろうか。
今後あるいは現在、それらの調整が行われることを期待しよう。
被災の現地から参加した市民の話も聞いた。
ある被災市での復興計画委員会(上のそれとは違って地域のものらしいが)に、公募市民委員として入った人は、その委員会の役割について行政から、こう言われたという。
この委員会は、上級官庁が策定して降りてくる計画に、賛成か反対かを言うだけで、提案は一切受け付けない。
そんなことが現地ではあるらしい。
現実はそうは行かなくて、議論百出だったそうだ。当たりまえであるが、決定権はどうなるのだろうか。
また別の市民の話。
津波が押し寄せるのを防ぐ道路などは、かなりがっちりしたそれこそ水ももらさないものになるのだろう。
逆にそれを現状から見ると、地盤沈下して海水が引かないところにそのようなものができると、なおさら海水が引かないことになる。そこでは膨大な地域の嵩上げが必要になるが、現実的なのか。
ところで、津波防御の考え方には、数十年から数百年に1回おきる津波(レベル1)への対応と、5百年から千年に1回おきる津波(レベル2)への対応が、あるそうだ。
わたしにはそれらの違いがよくわからないが、去年の津波は「レベル2」だったそうだ。
ということは、これから先、5百~千年はあのような津波はやってこないということなんだろうか。素人はそう思ってしまうが、違うのだろうか。
1995年に阪神淡路大震災が起きたときに、わたしは思ったものだ、これから数百年は地震に日本一安全な都市は神戸だ、と。
人間は5年先さえも見通せないのに、数百年、千年先となると、どうでもよいと思うものだろう。
「津波と村」(山口弥一郎著)を読めば、それが人間には当たり前のように思う。
http://datey.blogspot.com/2012/02/588.html
千年の超未来へのまなざしが必要なことなのか、今日・明日の命こそが重要なことか、そもそもそのような比較は成り立たないことなのか、復興計画はまったくもって難しいことのようだ。
2012/03/02
590老人は都市を目指す
世界の国々の都市人口の変化が面白い。
2050年の日本の人口は約1億人、そのうちで都市に暮らすものが8割を占めるという予測が出されている。
http://periscopic.com/unicef/urbanmap/
日本の1950年の都市人口割合は35パーセント、それが今では67パーセントになり、2050年には80パーセントになる。
その頃の日本はどうなってるんだろうか。
老齢人口は、2050年には33~39パーセントと予測されている。
なんらかの社会的支援を必要とする老人は、やっぱり都市にすむようになるだろうから、日本の都市人口の8割のうちの老齢人口割合はかなり高くなるだろう。
そのような都市は、今とどう違っているのだろうか。
都市に集中する人口への政策は、抑制策か促進策か、どちちらなんだろうか。
老人が都市に向かうのは、社会に支えられて生きるために必要な行動だから、これは抑制することはできないだろう。
中国の都市人口を見ると、1950年が12パーセント、2010年が47パーセント、2050年は73パーセントとある。
中国の2050年は今の日本に近い割合だが、その数は日本の10倍以上で8億7千5百万人と、大変なものである。
こんなに急激に変化して都市時代に突入する中国では、どのような政治になっているのだろうか。
ヨーロッパで見ると、イギリスの1950年の都市人口が79パーセントと、2010年が80パーセント、2050年はなんと88パーセントだそうである。
西欧の他の国々に比べてかなり高く、都市化への歴史が長いのが分る。
一国の人口の9割が都市に住むとは、どういうことなのだろうか。
なんにしても、昔は青年が都市を目指していたが、今は老人が都市を目指す時代になったのだ。わたしもそのひとりである。
2050年の日本の人口は約1億人、そのうちで都市に暮らすものが8割を占めるという予測が出されている。
http://periscopic.com/unicef/urbanmap/
日本の1950年の都市人口割合は35パーセント、それが今では67パーセントになり、2050年には80パーセントになる。
その頃の日本はどうなってるんだろうか。
老齢人口は、2050年には33~39パーセントと予測されている。
なんらかの社会的支援を必要とする老人は、やっぱり都市にすむようになるだろうから、日本の都市人口の8割のうちの老齢人口割合はかなり高くなるだろう。
そのような都市は、今とどう違っているのだろうか。
都市に集中する人口への政策は、抑制策か促進策か、どちちらなんだろうか。
老人が都市に向かうのは、社会に支えられて生きるために必要な行動だから、これは抑制することはできないだろう。
中国の都市人口を見ると、1950年が12パーセント、2010年が47パーセント、2050年は73パーセントとある。
中国の2050年は今の日本に近い割合だが、その数は日本の10倍以上で8億7千5百万人と、大変なものである。
こんなに急激に変化して都市時代に突入する中国では、どのような政治になっているのだろうか。
ヨーロッパで見ると、イギリスの1950年の都市人口が79パーセントと、2010年が80パーセント、2050年はなんと88パーセントだそうである。
西欧の他の国々に比べてかなり高く、都市化への歴史が長いのが分る。
一国の人口の9割が都市に住むとは、どういうことなのだろうか。
なんにしても、昔は青年が都市を目指していたが、今は老人が都市を目指す時代になったのだ。わたしもそのひとりである。
2012/02/29
589ふたつのキャンドルナイト
大震災1年目の3月11日が来ようとしており、各地でキャンドルナイトとかローソクナイトと称して、あのときの停電を再現して、ローソクの灯でしばらく過ごす体験の催しがあるらしい。
それはそれで記憶を風化させないために良いことだが、なんだか違和感もある。
イベントという一過性でよいのか、ローソクを使うから節約にはならないし、あまりたくさん燃やすとけっこう煤が出るしなあ、。
どこかに集まってやると、けっこうなエネルギー消費になりそうだよなあ。
どうせやるなら、全国一斉、各家庭もホテルも事業所も、そのまま真っ暗闇の夜を一晩過ごすってのはいかが?
日本真っ暗ナイトである。
むかし、ニューヨーク大停電てのがあった。
その夜に仕込まれた子がたくさんできたというから、真っ暗ナイトは少子日本にまことに有効なるイベントになるかもね。
わたしには、1945年からの数年間は、毎日停電していた体験がある。
まだ幼年だったからよく知らなかったが、あれは計画停電だったのだろうか。
いや、どうも、突然だったような気がする。でも大人たちは特に困った様子もなかったなあ。
もしかして、戦後ベビーブームの原因のひとつだったかもなあ。
じつはいまでも、毎日毎晩キャンドルナイトの国や地域があるのだ。一時のイベントではなくて、それが日常である。
わたしが昨年春に訪ねたネパールがそうであった。
今、ネパールの日本大使館のサイトを見たら、ネパール全土の地域をグループに分けて、曜日ごとに何時から何時まで停電の一覧表がある。
http://www.np.emb-japan.go.jp/jp/pdf/powercut27feb12.pdf
なんだか懐かしくなったなあ、去年の計画停電といいながら、どうも計画的でない日本の騒ぎのときも、TVにこんな表が映っていたもんだ。
なになに、カトマンズ盆地のパタンでは、月曜日は4時から9時と13時から18時とあるから、なんとまあ10時間停電だよ~。
水曜日は9時から13時と17時から23時だよ、夕飯食べるときから夜中まで真っ暗。
でも、わたしは現地に行ったから知っていますが、停電だとて誰もドタバタしていませんでしたね。
日本が計画停電のちょうどそのときに、わたしは停電の国・ネパールに遊びに行っていたのだ。
レストランで夕飯を食おうとすると、パッと停電、アレ~っというのは外国人ばかり。
店の人は、おもむろにその辺にあるローソクに灯をつけて、しばらくすると必要な範囲の電灯がつく。どこの店でも自家発電気があるのだ。
あちこちからブンブン発電機が回る音がして、あたりが排気ガスくさくなる。
停電の原因は単純で、発電力が不足しているからである。
ヒマラヤの氷河や雪の水源が豊富だから、水力発電をいくらでもできそうなものだが、それに投資する金がない貧乏国だし、その水がすべて流れていくインドとの水利権関係も複雑らしい。もちろん原子力発電はできっこない。
だから工業は育たないから、工業製品はインドから陸路のトラックでやってくる。タタのトラックがブンブン走っていた。
今、日本のキャンドルナイトイベントには、あの不安の思い出とそれをひきずりつつも平和な現在がない交ぜとなっている微妙な心地がこめられているだろう。
一方、政情と経済の不安の中にあるネパールの毎夜のローソクナイト、、う~む、日本とネパールの二つのキャンドルは、ひとつの灯になることはなさそうだ。
関連→ネパール逍遥・異文化への旅
http://homepage2.nifty.com/datey/nepal/index.htm
それはそれで記憶を風化させないために良いことだが、なんだか違和感もある。
イベントという一過性でよいのか、ローソクを使うから節約にはならないし、あまりたくさん燃やすとけっこう煤が出るしなあ、。
どこかに集まってやると、けっこうなエネルギー消費になりそうだよなあ。
どうせやるなら、全国一斉、各家庭もホテルも事業所も、そのまま真っ暗闇の夜を一晩過ごすってのはいかが?
日本真っ暗ナイトである。
むかし、ニューヨーク大停電てのがあった。
その夜に仕込まれた子がたくさんできたというから、真っ暗ナイトは少子日本にまことに有効なるイベントになるかもね。
わたしには、1945年からの数年間は、毎日停電していた体験がある。
まだ幼年だったからよく知らなかったが、あれは計画停電だったのだろうか。
いや、どうも、突然だったような気がする。でも大人たちは特に困った様子もなかったなあ。
もしかして、戦後ベビーブームの原因のひとつだったかもなあ。
じつはいまでも、毎日毎晩キャンドルナイトの国や地域があるのだ。一時のイベントではなくて、それが日常である。
わたしが昨年春に訪ねたネパールがそうであった。
今、ネパールの日本大使館のサイトを見たら、ネパール全土の地域をグループに分けて、曜日ごとに何時から何時まで停電の一覧表がある。
http://www.np.emb-japan.go.jp/jp/pdf/powercut27feb12.pdf
なんだか懐かしくなったなあ、去年の計画停電といいながら、どうも計画的でない日本の騒ぎのときも、TVにこんな表が映っていたもんだ。
なになに、カトマンズ盆地のパタンでは、月曜日は4時から9時と13時から18時とあるから、なんとまあ10時間停電だよ~。
水曜日は9時から13時と17時から23時だよ、夕飯食べるときから夜中まで真っ暗。
でも、わたしは現地に行ったから知っていますが、停電だとて誰もドタバタしていませんでしたね。
日本が計画停電のちょうどそのときに、わたしは停電の国・ネパールに遊びに行っていたのだ。
レストランで夕飯を食おうとすると、パッと停電、アレ~っというのは外国人ばかり。
店の人は、おもむろにその辺にあるローソクに灯をつけて、しばらくすると必要な範囲の電灯がつく。どこの店でも自家発電気があるのだ。
あちこちからブンブン発電機が回る音がして、あたりが排気ガスくさくなる。
停電の原因は単純で、発電力が不足しているからである。
ヒマラヤの氷河や雪の水源が豊富だから、水力発電をいくらでもできそうなものだが、それに投資する金がない貧乏国だし、その水がすべて流れていくインドとの水利権関係も複雑らしい。もちろん原子力発電はできっこない。
だから工業は育たないから、工業製品はインドから陸路のトラックでやってくる。タタのトラックがブンブン走っていた。
今、日本のキャンドルナイトイベントには、あの不安の思い出とそれをひきずりつつも平和な現在がない交ぜとなっている微妙な心地がこめられているだろう。
一方、政情と経済の不安の中にあるネパールの毎夜のローソクナイト、、う~む、日本とネパールの二つのキャンドルは、ひとつの灯になることはなさそうだ。
関連→ネパール逍遥・異文化への旅
http://homepage2.nifty.com/datey/nepal/index.htm
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