大災害が起きた時に、新聞がたたびたび使う用語で、ずっと前から気になっている単語がいくつかある。ここで「避難」と「犠牲」を取り上げたい。
●避難と言うな疎開と言え(昔)
能登地震に遭難した中学生高校生たちが、加賀にある大きな施設に集団避難して、戻れるようになるまで短期時滞在して、もろるまで集団生活をするそうである。はたしている戻れるのか、この機会に故郷を離れるものが多いような気がする。
これを読んで思い出したのは、太平洋戦争末期に行った学童集団疎開である。そのことについては、すでに1月16日の本ブログに書いたが、ここで別に言いたことは、ほぼ同じ行為であるのに戦中は疎開と言い、現代は避難というはどうしてだろうかということである。
ウィキペディアの「避難」に下記のような記述がある。本当かどうか出典がわからないが、ありそうなことなのでここに引用する。
当時の政権が「避難」や「退避」という言葉を正直に使用しなかった理由は、当時の軍部が撤退・退却を誤魔化して「転進」と表現したのと同様、「軍事作戦の1つであり、決して逃げるのではない」と糊塗する(ごまかす、取り繕う)意図があったとされ、それゆえ当時の新聞紙上等においては外国で行われた(外国政府による、外国人の)疎開について、「避難」「撤去」「疎散」などと表現している。
つまり人災である空爆の焼夷弾を避けて難を逃れる意味の「避難」は、戦火から逃げ出す意味となり、戦意高揚に差し支えるというのである。実際にもバケツリレーと火たたきで消し止めろと指導し、実際にも空襲下に屋根に上って火消しに努めて多くの死者を出した。まことにもってバカな用語遣いであった。
それもそうだが、疎開と言う言葉をまさに戦中疎開があった頃から当事者として知っていたが、長じてその言葉にどうも違和感を持っていた。使い方を間違っているようなのだ。
そもそも疎開とはその字のごとく疎らに開くことであり、人を集団で移転させるのとは全く違うだろう。そうだとしてもあまりにも派生の派生すぎる。避難ではなくて疎開を使われたのは、軍部による横やりであったと知ると、なるほど違和感があるはずだ。
コロナから避難するときはようやく去ったようだが、疎らに開くならコロナ三密制限こそがそれにふさわしい言葉であったのだ。そのことはすでにコロナ疎開という言葉が出てきた2020年にこのブログに書いた。
今は素直に避難と言ってよい世の中になったこを素直に喜ぼう。もっとも避難なんて言葉を使うことがない方がよいのだが、もしかしたら戦中よりも使うチャンスが増えているかもしれない。
●誤用された疎開という言葉
ここまで書いてはじめて気が付いたが、そもそも戦時中の児童疎開における疎開の使い方は言葉として全くの誤用であると思う。疎らに開いて空間を設けるのが本来の意味だから、建物疎開のように空襲の延焼を止めるための空地を、鉄道などの重要施設のまわりの建物を壊して空地にすることには、言葉として疎開は正しい。
しかし、元の学校には児童がいなくなって疎らに開いた施設になったからこちらは疎開だが、避難先はむしろ密になったのだから疎開とは言えない。田舎に避難させた児童を疎開児童と言い、避難先を疎開先と言うというのは明らかに誤用である。
たぶん、建物疎開が先にあり、その後に児童避難が始まる時に、軍部が避難を使わせないために行政側がしかたなく疎開を転用してしまったのであろう。避難元を疎開地と言うのは正しいが、避難先や避難児童に疎開を使うのは、まったくの誤用である。このあたりのことはどこかに研究者による調査があるかもしれない。
(追記20240220)こんな報道があった。ウクライナでは「疎開」といっているだろうか。
●死者を犠牲者と言うな
災害による死者を一律に犠牲者と新聞は書くのだが、本当に犠牲者と言うべきだろうか。この疑問もすでにこのブログに書いているので繰り替えさなない。要するに天災なのだから、誰かが何かために犠牲になったと言うべきではないのだ。
2013/02/17・722戦死者も津波被災死者も犯罪被害死者もどれも犠牲者と呼ぶ風潮に引っかかる。https://datey.blogspot.com/2013/02/722.html
2015/04/18・1081【言葉の酔時記】津波被災者は誰の何の「犠牲」になったのか?https://datey.blogspot.com/2015/04/1081.html
1995年の阪神淡路震災追悼記事でも今回の能登地震でも、死者のことを犠牲者とマスコミ報道に書いてある。もしかして行政関係者もそうかもしれない。今や辞書にも大災害での死者のことを犠牲者と言うと書いてあるが、違和感を拭えない。それならば地震は人為によるものとなり、死者たちは生き残った者たち全員の犠牲になったことになる。そんなはずがない。
どうやらそこには忌み言葉として死を避ける世間の風潮(他界、成仏、逝去、、)が、言葉について厳密であるべきジャーナリストにも影響をもたらしているような気がする。そうした言葉遣いが、生き残りの者たちに無用の心理的負担をさせていると気が付かないのだろうか。もしもわたしが生き残りになったならそう思うに違いない。なぜそこまで考えないのだろうか。いや、もしかして私の考え過ぎなのか?
もちろんだが、例えば3・11における福島原発の不作為による核毒拡散事故とか、手抜き工事で地震倒壊した建物による被害のような場合は、被害者は犠牲者である。この時に死者だけをそういうのではなく、人為による被災者は誰もが犠牲者である。大災害が来るたびにこの言葉で考え込んでいる。言葉の意味が時代とともに変わるとはわかっているが、これでよいのか。
(20240121記)
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伊達美徳=まちもり散人
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