2018/03/03

1321【FACEBAKA与太記事2018年2月後半】アルマーニ、厚労省に金メダル、土木屋が言論規制、少女虐待、淫売民泊、

2月16日
世間「おお、義務教育で公立小学校に入るのに、通学服だけで9万円もかかるのかあ、入学から卒業までに、最低3着は要るだろうなあ、ふ~む30万円かあ」
校長「フン、こちとら銀座の泰明だよッ、貧乏人にごちゃごちゃ言われてタイメイワク、たいしたカネでもアルマーニ・・・」

2月20日
【おお、厚労省役人に金メダルを!】
毎朝夕にオリンピック記事に占領されてウンザリしてたけど、今朝は久しぶりに面白ニュース、厚労省さんありがとう、財務省も文部省も負けずにやっとくれ。
 政府に「働き方改革法」が必要なわけがわかったぞ、「政策資料の作り方改革法」って、法案名称の変更をしていかがですかあ?
 それにしても、3年間も使ってて誰も気が付かなかったとはねえ、今回だれが気が付いたんだろうか?、追求した野党の政治家だろうか?、野党にチェック能力がようやくついたのかなあ?
 これまでもこうやって、妙な統計を振り回して、妙な法を作ってきたのかもしれないなあ。

2月21日
こんなビラが共同住宅の郵便受けに入っている。ピザって好きだし、庶民の食い物だと思っていたけど、クォーター(4分の1)でこの値段とはねえ、1枚だと1万円以上になるものもあるのか、これじゃあもう食えないな、うちの共同住宅にはこんなモノ食う金持ちが住んでいるのかあ、へえ~!?

2月21日
ネットサーフィンしてたら、懐かしいサイトにぶつかった。
週刊まちづくり

2月23日
ドジ踏んでる厚労省、こんな時の逃げ切り方について、財務省の理財局にコンサルタントしてもらいましょう。あ、国税庁の長官を顧問に雇うのもいいですね。
 それにしても、この調査を厚労省から受託したコンサルタントはどこのどいつだ、税金を返せ。

2月23日
土木屋が言論規制する寒さかな


2月24日
ほほ~、オリンピックってのは、女ばかり、それも少女ばかりのようだ。男はやらないものらしい、女尊男卑だな。
 いやそうじゃない、男尊女卑だな、だってさ、あんな寒いところで、しかも氷の上で、しかもあんな薄着で重労働させるんだもの、少女虐待か。

2月25日
こんなにも世界から嫌われている!、核毒汚染日本列島産の食品
もちろん生産者にはこの補償を東京電力はやっているんだろうなあ、
ということは、それはわたしが払う電力使用代金が原資だろうなあ、
ということは、わたしが補償金を払っているんだなあ、
ということは、わたしも東電福島核毒バラマキ事件の被害者だな、
ということでも、わたしはその補償をしてもらえないだろう、
ということは、わたしは被害者かつ電気を使った加害者なんだな。
ということで、わたしたちみんな加害者かつ被害者なのかあ、
この奇妙な社会構造って、なになんだろう?

2月28日
名ばかりマンションの空き家が、ネット紹介システムを使って、事実上の淫売宿になってる噂を、だいぶ前から聞いてたが、これがそうなんだな。
 それにしても新聞屋が「マンション」と記事に書く住宅が、8畳部屋ひとつとは、どこがマンションだよ、その「名ばかり」度合いが嗤わせるよ。
 「民泊」ってのも奇妙な言葉だよなあ、民宿とどこが違うんだろうか。
 1泊1500円とは、こりゃもう「ドヤ」だよなあ、そうか、釜ヶ崎のドヤ業者が、民泊業に進出したのだろうなあ。

2018/02/24

1320・新聞はオリンピック記事ばかりで超ウンザリなので逆療法で読もうとしたけど、

  今日も朝日スポーツ新聞がやってきた。スポーツ記事の占める割合は、第1面60%、17~23面100%、38面20%、39面90%。
 もう、いいかげんにせいよ、超うんざりだ。

 読みもしない、見もしない紙面がこうもたくさん占められては、購読料を払う身としてはまことに癪に障る。
 興味はまったくないけど、ヒマでもあるし、カネももったいない、せめて眺めるだけでもしてみるかと思いついた。まあ、逆療法みたいなものだな。

 記事を読む気に全くならないので詳しいことはわからないが、ざっと写真だけ眺めて気が付いたのは、ほほ~、オリンピックってのは、女ばかり、それも少女ばかりのようだ。男はやらないものらしい、女尊男卑だな。
 いやそうじゃない、男尊女卑だな、だってさ、あんな寒いところで、しかも氷の上で、しかもあんな薄着で重労働させるんだもの、少女虐待か。

 見出しだけ眺めていたら、池上彰の署名記事がある。ほお、池上はスポーツ記事も書くのかと、これを読む気になった。
 さすがにスポーツ記事じゃなくて、朝鮮半島の非武装地帯の話で、オリンピック開催地はその近くだそうだ。

 こういう記事なら、朝日スポーツ新聞でも、まあ、いいけど、スポーツ欄にあると、スポーツ好きは読まないだろうし、わたしのようなスポーツ嫌いは、読もうにも記事に出くわさないよなあ。

 池上の記事を読んで、第2次大戦が終った時に、もしも東北地方以北がソ連の管轄下におかれていたら、日本列島も今ごろは朝鮮半島と同じような、北日本国と南日本国のあいだで、深い深い悩みの中にあったかもしれないなあ、と思った。

2018/02/23

1319久しぶりに大学山岳部同期生たちと都心部で昼飯会をやって周りから妙に浮き上がったわたしたち

 平日の昼飯を外で食うなんて久しぶりである。大学山岳部の同期生5人が、横浜でランチミーティングをやろうとなった。年寄りの集まりに特別の目的はない。ヒマだからちょっと集って駄弁ろうかと、メールやり取りする。
 夜はもう面倒だよな、昼飯がいいな、よし12時集合、いや、平日だから堅気の勤め人たちの昼飯の邪魔だよ、そうか、それなら11時集合だな、てなことで、さてどこがよかろう、徘徊コースの中で見つけろと、昔のサブリーダーからわたしに命令がくだって、はい、では明日のアタックルートの偵察に行ってまいりますと、前日の昼に行ったのは、横浜駅の東北にある「BAYQUARTER」なるウォーターフロント、朝から居酒屋でもあるまい、老人ならシーフードがいいだろうと見当つけてきた。

2018/02/21

1318【FACEBAKA与太記事2018年2月前半】結婚延期騒動、Y字路、空き家だらけ日本、朝日スポーツ新聞、謝罪させていただく失礼大臣、、

2月1日
 この数年は、家から遠くでの夜呑みをしないことにしたのだが、今日は超久しぶりに田町の同窓会関係施設で、大学卒業研究の指導教官を囲んで、計8人の夜飲み会をやって、酔っ払いも久しぶりにやって、家の近くに戻って地下鉄駅をでれば、おやおや、みぞれが降り始めているぞ、明日は積もるのかなと思いつつも、ウン、積ったってわたしは行くとこもないから平気、ドンドン積れ~。
 降る雪や昭和も遠くなりにけり平成さえも断末魔の宵 

2月7日
 おお、それなら、ジイちゃんが引退を延期するから、早く結婚しなさいよ、って、普通のウチなら言うだろうな、、。

2月7日
横尾忠則を真似して、Y字路風景 


2018/02/12

1317・不良共同住宅ビル→不良民泊共同ビル→空き家ビル→ドヤビル:不良住宅再生産ドミノ現象の街

熊五郎:チワーッス、ご隠居、元気に生きてるかい。
ご隠居:おお、熊さん、いらっしゃい、何とか生きてるよ、今年は寒いねえ。
:寒いっても、うちに籠ってちゃ身体によくないですよ、徘徊に行かなきゃ。
:うん、ありがとね、ちょっと徘徊してきたよ、昨日の証拠写真だ。

:よしよし、昨日の日付があるね、でも、ただのマンションでしょ。
:あのなあ、マンションてのはもともとは環境の良い超豪華邸宅のことだよ、それが日本じゃあ不動産屋が誇大広告宣伝文句に使いおって、それに世のバカが乗せられてるんだよ、これは単なる共同住宅ビルだよ。しかも目の前が高速道路の劣悪環境だよ。
:そうそう、ご隠居に言わせりゃ「名ばかりマンション」、で、これがどうしたんです。

2018/02/02

1316【FACEBAKA与太記事2018年1月】ロシアバカメール、カリフォルニア俳人、茶席宝庵、明治大好き、終活コンサル、ドーピング解禁、昔美男などなど

1月29日
【モテてる気分!?】ロシアから連続バカメール攻撃だあ、 数日前から、いろいろな名前の外人女性(らしい)から、バカメールがやってくる。 その名は、Katya、Julia、Natasha、Polina、Anastasia、Irina、Helen、Yulia、Victoria、Valeria、Ksusha、Kseniya、Natalia、Sveta、Ekaterina、Alexandra、Kate、Darya、Sasha、Masha、、なんだかロシア名が多いような気がする。
 そして、1部を開いて読んだが、たぶん、文章はどれも同じで、最後の名前だけが違う、つまらないなあ、いろいろ変えて書いて欲しいなあ、せっかくくれるんだからね。
You seem like my type and I would like to know you more! Write me if you are interested, here is my email e●●●a@rambler.ru and, if you want, I will send some of my photos. Hugs, Yulia、

2018/01/14

1315【言葉の酔時記:アメリカ俗語研究】トランプはshit-hole countriesと言ったと非難されてるが実はshit-hot countriesと褒めたかったのをうっかり言い間違えたのかもなあ

 “Why are we having all these people from shit-hole countries come here?”  中米とかアフリカとかの国々を、トランプがこう罵ったらしくて、「野外便所」の国と朝日新聞は訳している。ネットでも話題で、世界各地でそれぞれ勝手な訳語をあてているらしい。  スラングの辞書をみたら、shit-holeのあたりは罵り言葉ばかり並んでいて、面白いけどねえ、そんな汚い言葉を大統領が話すって、アメリカって庶民の国なんだなあ。
 わたしが一番に思い付いた訳語は「野壺」あるいは「肥溜め」なんだけど、思えばこれはいまでは死語なんだね。  昔は人糞を作物の肥料にしていた。田畑の畦道際に大きな丸い桶を埋めて、人糞をこれにしばらく溜めて腐敗させてから作物の根にまいていた。ときどき子どもがこれにハマって糞だらけとか溺死する事件が起きたものだ。いたずらで石を投げ込んでいたら、農家のひとに「こらっ、拾い出せッ」って叱られて、なんともはや困りきったこともある。  うーむ、「肥溜め国」ねえ、よく言うよなあ、すごいなあ、正直だよなあ、政治家には向かない人だなあ、。  もしかしてトランプは、アメリカの肥やしになる国々って言いたかったのかなあ。それも正直な発言の様な気もする。  いや、もしかして、実は「shit-hot countries」と、おおいに褒めるつもりを、「shit-hole countries」って言い間違ったのかもしれないなあ、、あるいは聞いた方が聞き間違えたかもなあ。

2018/01/03

1314【FACEBAKA与太記事2017年12月】退位、原発、ミサイル、なんだかんだ、、、

2017年12月にフェイスバカに掲載した与太記事のまとめ

12月2日
天皇が退位したら、当然のことに、内閣総理大臣も退位するんだろうなあ、むかしから天皇を敬愛する偉い人って、ホラ、追い腹切るでしょ、乃木さんみたいにね、

12月4日
あっちじゃ造ったものが壊れて撤去作業中、
こっちじゃ作ることやめて会社切り売り中、
どうなるんですかねえ、TOSHIBAさん

2018/01/01

1313【更に・山口文象設計茶席常安軒】北鎌倉浄智寺谷戸に関口邸茶席を創った人守ってきた人未来に伝える人

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その6
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、
その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)
その5】のつづき

●関口邸茶席を創った関口泰

 この茶席をつくった関口泰(せきぐち たい 1889~1956)は、朝日新聞論説委員だったジャーナリストであり、評論家として政治や教育論の著作を多く世に問い、加えて旅と山歩きを趣味として随筆や短歌俳句もよくした。
 著作の公刊書も36冊と多く、『民衆の立場より見たる憲法論(1921年)から始まり、『軍備なき誇り(1955年)が最後であった。没後に関口を惜しむ人々や近親者が編集刊行した『関口泰文集(1958年)と『関口泰遺歌文集 空のなごり(1960年)に、主な著作が収録されてその足跡がよく分る。
 この浄智寺谷戸を愛した関口は、『金寶山浄智禅寺(1941年)なる深い歴史考証の著作を出版した。その「後書」に、関口が浄智寺谷戸に居を構えた1930年頃の風景や人物の状況を細かに記している。それらを瞥見して関口のことを記す。 
浄智寺の庭の関口泰 引用元:『空のなごり』1960年

2017/12/29

1312【又々・山口文象設計茶席常安軒】鎌倉に居ながら京都の大徳寺忘筌の庭に高台寺遺芳庵吉野窓を眺めようと欲張り技の茶室写し

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その5
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)


その4】のつづき
さて、ようやく関口邸茶席の本館とも言うべき
数寄屋会席について述べる。

どこか別のところで見たことあるような


 
●関口邸茶席の数寄屋会席今と昔

 浄智寺谷戸の道から草屋根の門をくぐり路地を歩めば、最初に出会うのがこの数寄屋建築の会席である。吉野窓茶席はその裏に隠れて、やがてやってくる客を待ち受ける。

 吉野窓茶室が小面積なのに大きな髙い屋根を載せて、ボリュームを大きく見せているの対して、数寄屋会席の方はその大面積をできるだけ小さく低く見せようとしている。屋根を小瓦一文字葺きと杮(こけら)葺き(いまは金属板葺き)の奴(やっこ)葺きで薄く軽く見せる。
左に数寄屋会席、右に吉野窓茶室

2017/12/25

1311 【又・山口文象設計茶席常安軒】北鎌倉には三角茅葺屋根とまんまる吉野窓が浄智寺谷戸にも明月院谷戸にも古雅な姿を見せる

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その4
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

【その3】のつづき

●大工棟梁山下元靖の回顧譚

 この茶席常安軒の工事をしたのは、大工棟梁の山下元靖であり、『工匠談(1969年 相模書房刊)という本を出して、自分のいろいろの仕事を語っているが、その中でこの茶席の想い出も35年も前のこととして語っている。
 この本には、山口文象による「山下さん」という序文があり、関口から設計を依頼され、山下と「毎日浄智寺の現場で……けんかをしながら楽しんで仕事に没頭した」と記している。どちらも30歳そこそこの若者だった。


 山下はその本の「北鎌倉の関口邸の茶室」という章で、数寄屋会席については何も述べず、吉野窓茶室と離れの工事についての自慢話をしているのが興味深い。
 その吉野窓茶室について、草ぶき屋根の小屋組み仕口の仕事を茅葺屋根専門の職人から褒められたこと、吉野窓を貴人口にも使うように工夫したこと、土庇柱の沓石に寺院の向拜の沓石を転用したように古びて見せる工夫をして関口を感心させたことなど、職人肌が面白い。
窓は吉野窓にし、直径を京間の六尺の大丸窓にしました。
それは貴人口にも使用する関係で、丸窓の下部を半紙幅の半幅、
つまり下から約四寸の高さのところを図のように水平に切り、
掃き出しも兼用できるようにしました
」(『工匠談』)

2017/12/21

1310【続々・山口文象設計茶席常安軒】ベルリンでの関口と山口の話で始まった浄智寺谷戸への京都高台寺遺芳庵の写し茶室「吉野窓由来」

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その3
伊達 美徳
北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

【その2】のつづき 

●京都高台寺遺芳庵の鏡写しの茶室

 この茶席をつくるにあたっては、関口泰があの茅葺の茶室をつくりたいことからはじまったらしい。京都で見たある茶室の姿に惚れて、浄智寺谷戸の持ってきたい、そして山口文象も関口よりも前にそれを見て、素晴らしいデザインだと知っていたというのだ。
 だから、この茶室は既存の茶室のコピーである。ただし、コピーするときに左右逆転の設計をしている。
 なお、昔から茶室の建物は、「写し」といってコピーをつくることが普通に行われていたから、特に不思議でもない。

 さてそのコピーされたほうの京都の茶室は、高台寺ある「遺芳庵」である。
 この茶室については、なんだか俗受けする由来があるようだが、ここではそれはおいといて、関口茶席としての由来を書いておく。
 だがわたしは茶室建築には暗いから、興味だけで書くから間違っているかもしれない。

 まずは本家(本歌か)の京都高台寺の遺芳庵と、こちらの鎌倉の浄智寺谷戸の茶室の写真である。左は1922年頃の山口文象撮影の遺芳庵、右は2017年にわたしが撮った旧関口邸の吉野窓茶室である。なんだか屋根のプロポーションが違うようだ。


 平面は左右(下図では上下)をひっくり返したから、茶道のお手前から言うと本家の遺芳庵は逆勝手(左勝手)だったのが、こちらでは本勝手(右勝手)になっている。

では、もしもそのままコピーして建てたらどんな姿であるか、遊びでやってみよう。左が現物の遺芳庵、右が左右逆転した旧関口邸の吉野窓茶室、当然ながらそっくりである。

山口の談には「敷地の条件に合わせて(『住宅建築』1977年8月号)左右反転したという。茶道に暗いわたしにはそれがなぜなのか分らないが、茶庭の構成上でそうなったのだろうか。茶道に通じていた関口あるいは夫人が本勝手を望んだのかもしれない。
 その山口の談には、「丸窓の位置がなかなか決まらないので、会席のほうもずっと後れまして」ともあるから、茅葺茶室の位置決めが最初であり、ここでは茶室を要としてその他の配置を決めたのだろう。実はこの時は、母屋の南に渡り廊下で結ぶ「離れ」も建てたが、それは今はない。
 
●関口泰の遺芳庵への想い

 関口泰の著作のひとつに『吉野窓由来(1940年)があり、「遺芳庵」と同じものを建てた由来を書いている。吉野窓とは遺芳庵の丸窓で、これを好んだ吉野太という女性に因むという。
 関口は浄智寺谷戸に居を構えてから、日夜まわりを眺めているうちに、この谷戸の風景の中に塔を欲しくなった。
夏に家が建ち上っての秋である。道を隔てて刈り残した薄原には、赤穂を吹いた尾花がなびき、上の段へ上る所に檜の小さな森がある辺が、一つの絵をなしてゐる。どうしてもあの辺に塔がほしい所だ。室生寺の五重塔をもって来ようと空想した程、室生寺の塔は小さく愛すべきものだ

 だが費用的に無理と分って、次に思いついたのが遺芳庵だった。
義弟の旭谷左右に案内されて京都の茶席を見物してまはってゐる時に、高台寺の中の佐野画伯の家にある「遺芳」の席を見て、これはいいと思った。無論茶道の方からではなくて、私の庭における絵画的効果からの話であるが、二坪か三坪の小さい家に比較してトテッもなく大きい三角形の屋根と、伽藍石を踏まへた大きな丸窓は、それだけで絵だ

 そしてこれを建てたいと山口文象に言う。
分離派の新建築家ではあるが、早く茶室建築に目をつけて、ベルリンで修業してゐる間に私と茶室建築の約束をした山口君であるから、変に型にはまった茶の宗匠や、高い金をとりつけた茶室建築家と相談するよりは、余程話がつきやすいわけである

 なんとベルリンで山口と話したのだそうが、山口文象がベルリンのグロピウスの下に居たのは1931年春~32年の6月、関口が朝日新聞のベルリン特派員だったのは1932年4月~11月である。
 山口の滞欧時に記入していた手帳があるので見ると、1932年2月14日と3月3日に関口の名がある。関口の滞在時期より少し前だが、手紙とか電話連絡のメモだろうか。

●山口文象の遺芳庵への出会い

 そうやって関口は山口をつかって浄智寺谷戸に、丸い吉野窓の茶室を設ける相談をしたのだ。
 関口の文中に、山口が「早くに茶室建築に目をつけて」いたとあるが、逓信省の製図工であった頃に、大阪市内の局舎工事現場監理の仕事で1921年から22年にかけて大阪に住んだのだが、休日には京都、奈良、堺などの茶室建築を訪ねたことを指している。

 山口はこの時に写真を撮り実測もしたが、その多数の写真プリントがRIAにある。その中には高台寺の遺芳庵もある。だから関口に遺芳庵を持ってきたいと言われたときに、既にそれを知っていた。
 「これがすばらしいデザインなんです。屋根のヴォリュームの大きさ、それら全体のプロポーションが実にすばらしい、その話を関口先生にしたら「じゃあ見に行こう」というわけで見に行きました。そこで決まったわけです(『住宅建築』1977年8月号)

 そのような二人が好きになった遺芳庵だが、その頃それはどうであったかというと、関口が書いている。
 「それに何よりも、一畳大目の茶室と二畳の水屋は、建築費からいっても、宝生寺の五重塔の如く空想に終らずに実現の可能性をもつし、長く茶室につかはれずに暴風雨に壊されたまま蜘蛛の巣だらけの物置のやうに、庭の隅に抛り放しになってゐる此の可憐なる茶席は、柱や床板の一つひとつに高価な正札のつけてあるやうな富豪の茶室とは事変り、私に消極的自信をつけてくれるに十分なものがあったからだ(『吉野窓由来』)
 山口が撮った写真は、「蜘蛛の巣だらけの物置」状態だったのだろう。
山口文象の茶室写真帳とその中の高台寺遺芳庵と傘亭

 それにしても、ナチスの暗雲漂う1932年のベルリンで、吉野太夫の遺芳庵の話とは、粋な二人である。
 その年に山口文象は帰国したが、翌年にブルノ・タウトがナチスを逃れてアメリカ亡命を目指して日本にやってくるし、翌々年には師匠のグロピウスがイギリスに逃れてアメリカに亡命する。
 そのブルノ・タウトは山口文象と何度か出会っていて、この関口邸茶席を褒めているのである。

 1934年6月に山口文象はその建築作品個展を銀座資生堂ギャラリーで開いたが、観に来たタウトが6月15日の日記に書いている。
建築家山口蚊象氏の作品展覧会を観る(同氏はドイツでグロピウスの許にいたことがある)。作品のうちでは茶室がいちばんすぐれている、――山口氏はここでまさに純粋の日本人に復ったと言ってよい。その他のものは機能を強調しているにも拘らずいかにも硬い、まるでコルセットをはめている印象だ。とにかくコルビユジエ模倣は、日本では到底永続きするものでない(『日本ータウト日記 1935-1936』篠原英雄訳 岩波書店刊)

 タウトが書く「茶室」とは、関口邸茶席のことである。ほかにも出世作の日本歯科医学専門学校など8件のモダンデザイン建築を展示したのに、タウトがほめたのはこれだけであった。
 タウトの評価をどうとるか難しいが、桂離宮を称賛し日光東照宮を貶した鑑識眼でみた関口邸茶席であった。彼が日本で褒めたモダンデザイン建築は、東京駅前にある中央郵便局舎(吉田鉄郎設計)だけだったようだ。
 つづく

・たからの庭


2017/12/20

1309【終活余談】あきひとさんの終活でちょうどよい機会だから日ごろ面倒な「元号」をもうやめてちょうだいな

 「終活談義」なるお題を、「現代まちづくり塾」の塾報編集委員からいただいたので、わたしだって終活年齢だが、それを書くにはまだ早い!?、ここではある有名なお方の「終活問題」を書こう。
 そのお方とは、あきひとさん(この人には姓が無いのでこう呼ぶしかない)である。なんでも、歳とって疲れたのでもう辞めるって、つまり終活に入るとTVで宣言したとのこと。

 どうぞどうぞ、ご勝手に終活をおやんなさいよと、庶民のわたしは思うのだが、どうも、その終活のトバッチリが庶民にも及ぶらしいのだ。ほんとに困るのである。
 それは改元とて新「元号」の登場である。まったくもって元号は高齢社会の邪魔ものである。だって、ほら、元号と西暦と換算するでしょ、明治には1867、大正には1911、昭和には1925、平成には1988を、それぞれ加えると西暦になるんだけど、歳とるとその暗算が無理なんだよなあ。それらにまたひとつ計算が加わるともうどうしていいもんか。いちいち計算機を叩くってのもなあ。
 あ、これってもしかして、おカミの国民ボケ防止対策かもしれないなあ、う~む。

2017/12/17

1308【続・山口文象設計茶席常安軒】リベラリスト関口泰が愛でて後半生を過ごした浄智寺谷戸の自然と茶席と庭と

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その2
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

その1】のつづき
大き巌うしろになしてこの梅はことしれうらんと咲きにけるかも  関口 泰

●関口泰が愛でた浄智寺谷戸の風景

 鎌倉は谷戸(やと)と呼ばれる地形に特徴がある。三浦半島特有のデコボコ丘陵ばかりで、海辺の外には広い平地が少ないので、12世紀ごろの昔から丘に切りこむ狭い谷間に宅地をつくってきた。
 谷戸は谷の向きや深さによっては、日中のほんの少ししか日が当たらない。奥になれば坂道は急になり階段になる。歳とると住みにくい。

 浄智寺谷戸は南上りであり、旧関口邸茶席はその奥にある。まわりを緑の丘陵に囲まれていて、豊かな自然風景に恵まれているが、その一方で陽光が照る時間は少ない。
 この茶席をつくった関口泰も谷戸を愛し、短歌「浄智寺谷風景」や随筆「小鳥と花」に自然を描いている。
 そこには、鶯の声で目を覚まし、彼岸桜、紅梅、山桜、染井吉野、大島桜、蝋梅、雪柳、緋桃、芍薬、牡丹、山躑躅、山吹、山藤などの花々を愛でる日常を、優雅な筆にしている。

2017/12/16

1307【山口文象設計茶席常安軒】紅葉の浄智寺谷戸に傘寿越す茶席建築を卒寿の建築家と訪ねる

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その1
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

●北鎌倉に山口文象設計の茶席建築を訪ねる

 秋も深まり初冬になり、北鎌倉に紅葉狩りに行ってきた。いや、実は行ってみたら紅葉が美しかった結果なので、真の目的は山口文象和風建築狩りであった。
 わたしがそれを訪ねるのは2度目だが、1976年以来の40年ぶり、その時の同行者には、設計者の山口文象がいた。そして今回は山口の一番弟子ともいうべき和風建築の名手である小町和義さんが一緒だった。

 40年前に来た目的は、山口文象(1902~78)の作品集をつくるために、評伝を執筆する佐々木宏、長谷川堯、河東義之の各氏たちも一緒だったが、山口はその2年後に急逝した。その本は1983年に刊行になった『建築家山口文象・人と作品』(RIA編)である。わたしはRIAに在籍していて、この本の編集執筆担当だった。
 山口文象がこの茶席を訪ねたのは、その時が40年ぶりと話していた。気が付けば、その時の山口文象よりも、わたしも小町さんも年寄りになっていた。そうか、二人とも山口文象よりも長生きしているのであったか。

2017/12/08

2017/12/03

1305【余談:安藤忠雄展雑感談議】直島プロジェクトの模型や映像を観ていて昔々この島に消えた大量の釣鐘を思い出した

安藤忠雄展雑感長屋談議】【】【続々】のつづき
直島は昔から金属工場の島 観光リゾート安藤建築は島の南

●少年のころに直島を訪ねた大昔記憶
 国立新美術館に建築家の安藤忠雄展を観に行ったのだが、大勢の入場者に驚いた。建築家ってこんなにもてるものなのかい?、いいなあ、都市計画家もそうなりたいものだ。
会場の中央に安藤流の卵があって、それは瀬戸内海の小島の直島で長期にわたるプロジェクトを、ジオラマとパノラマ映像で見せる見世物小屋だった。ベネッセという企業と組んでいて、安藤さんの営業力を見る感じだ。
直島プロジェクト見世物小屋
その安藤の建築のことは別に書いているから、ここではわたしが昔々に直島を訪ねた想い出を書くのだ。ほう、いま計算したら、それはもう70年も前のことである、すごいなあ、そんな大昔がこのわたしにあるなんて、どうにも信じられない気持ちだ。

 太平洋戦争が終わった次の年の1946年の夏、わたしは直島を訪ねた記憶がある。草木のひとつも見えない荒れ果てた岩や赤土が剥き出しの島だった。港から坂を登って行き、丘の中腹を切り拓いたらしい広い空き地にでる。
 そこには無数の釣鐘の群れが、土の上に延々と並んでいた。これがこの島訪問の目的である。光景を思い出せば、たぶん2~300個はあったろうだったろう。
 少年のわたしの背よりも高いものがほとんどだったが、中には小さなものもある。夏の太陽に照らされた坊主頭の大群衆が、緑青や茶褐や漆黒の肌を光らせて、黙々と立ち尽くしているのだった。
 想えば、シュールリアリズムの絵画のようであり、子ども心にも異様であり、これだけがわたしの記憶にある直島風景である。

 直島を訪れたのは、その6年前に戦争のために金属供出した釣鐘を探す旅だった。父が連れて行ってくれた。ほかに父方の伯父と1歳上の従兄もいた。
 わたしの生家は神社であり、父は神社の宮司であった。その高梁盆地の御前(おんざき)神社には、17世紀半ばから城下町に時刻を知らせるために、時の鐘として鳴らされていた釣鐘があった。

 それが1940年に政府に召し上げられ、兵器となるために溶かして鋳直す工場がある直島に渡ったのだ。金属鉱山の無い日本が戦うための武器をつくるには、街や家庭にある既製品の金属製品を回収して原料にするほかなかった。
 直島の三菱精錬所には、各地から釣鐘類が集められていたが、戦中に兵器にするべく鋳潰されるはずが、運よく残っていたのがわたしたちが見た釣鐘の群れだったのだ。
 たぶん父は供出した釣鐘の行方を調べて、ウチの鐘も残ってるかもしれないと思って直島に出かけたのだろう。

●少年のころの釣鐘の記憶
 鐘にはこのような銘が鋳てあった。

吾移住当城之後為教城下之士庶十二時候課干冶工鋳鳧金以奉納槨内御前大明神之賽前蓋知時即寺社不忘其勸矣時則四民不勤其業近境順法遠境効焉所冀天長地久国家安全除災與楽将来千億
       慶安四歳次辛卯九月吉祥日
        城主水谷伊勢守勝隆 敬白
          冶工當国小田郡高草
           惣領 彦之丞藤原守重

 慶安4年とは1651年であり、その9年前に転封してきた城主水谷勝隆が奉納したとある。この鐘は供出するまで290年もの長い時を刻んできて、高梁盆地の城下町に時刻を教える鐘の音が響いていたのだった。
 兵器となるべく直島に蝟集した無数の釣鐘群の中には、もっと昔のものもあったに違いない。

 探しているその釣鐘は、岡山県の高梁盆地の丘の中腹にある御前神社の鐘撞堂(かねつきどう)に吊るされ、朝な夕なの時刻を知らせる時の鐘だった。昔は鐘撞き専門の職がそばに住んでいたらしい。
 鐘撞き堂は、木造の高楼建築で高さが3階建てほどだった。撞くべき時刻が来ると宮司の父が撞き、父が不在の時は母が撞いていた。その時刻が何時であったのか記憶にないが、父の不在中の夜中に母が出かけるとき、3歳幼児だったわたしはひとりでの留守番を怖かった記憶がある。夜中の鐘撞堂の梯子のような急階段を、幼児をおぶって登るのは不可能だったのだろう。

 もうひとつのおぼろげな幼児期の記憶だが、家に騒がしく出入りするひとたちがいて、鐘の音が連続して聞こえていたような気がする。しらべてみて、これは1940年紀元2600年記念に、その元日に2600回連続して鐘を撞くイベントの時であったようだ。今に残るわたしの人生最初の記憶である。
 城下町に響く時鐘は町民に愛されていたらしく、1940年の金属供出で鐘が出ていくとき、それを送り出す盛大なイベントがあったことが、当時の写真で分る。このとき父は中国戦線で兵役についていた。金属供出例は1941年に出されているから、これは自主的供出だったのだろうか。
1940年12月 時鐘供出祭
左に地上に降ろされた釣鐘と祭壇
 
 直島の鐘の話にもどる。父は1943年から3度目の兵役についていたが、このときは国内勤務だったので、戦争が終わった1945年8月の末日に帰宅してきた。
 4人で釣鐘群の迷路の中を、夏の日に照らされながら捜し歩いたが、そんなにたくさんありながら目的の鐘を見つけられなかった。父も伯父もガッカリしたことだろう。

 荒涼とした島の風景の中にたたずむ死を免れた釣鐘群は、それまでにもっと大群が兵器となって戦争の泥沼に沈む旅に出ていくのを見送ったことだろう。
 生き残った釣鐘は、その後にそれぞれの故郷に戻って行ったのだろうか。戻るべきところも戦争でなくなっていたかもしれない。故郷を失った鐘は鍋や釜になったのだろうか。

●リゾート観光地の直島に戦争の記憶は
 わたしたちの探していた釣鐘はそのまま帰ってこないが、鐘の故郷の高梁盆地にある御前神社には、いまも鐘撞堂がすっくと立っていて、戻ってくる鐘を待っている。
 だが木造高楼建築は、寄る年波には勝てないらしく、倒壊の恐れありとて、登ることはもちろん近づくことも禁止の注意書き札が立っている。
 鐘が戻ってきても、もう吊るすこともできない。もっとも、いっときのことだが寄付する人がいて、プラスチック製の釣鐘がぶら下がり、テープ録音の鐘の音が響いたこともあるらしい。
1940年末から今日まで鐘の帰りを待つ鐘撞き堂も老いてしまった

 わたしの直島の記憶は上に書いた場面だけなのだが、その帰りにどこかの海辺で海水浴をした記憶が鮮明にある。従兄と2人で泳いだのだが、白砂青松の浜辺がひろがり、泳ぐ向こうの遠くない海上に、可愛らしいお椀を伏せたような松の繁る小島が見えていた(確証はないが、たぶん牛窓の海岸のようだ)。
 この海にそそぐ高梁川の中流部の高梁盆地で育ち、その川で泳ぎを覚えたわたしには、初めての海水浴だった。海の水は辛く苦いものだと、まず舐めて確かめた記憶がある。

 海水浴を楽しむにはまだ貧しすぎた時代だからか、わたしたちの外に誰もいなかった。父と伯父は、たぶん船か列車の待ち時間に、その子たちを遊ばせたかったのだろう。
 それがどこだったのか、直島航路の宇野港に近いあたりの海水浴場を、ネットで探しても見つからない。いまでは小島もろともに埋め立てられて産業地になり、砂浜はなくなったのだろうか。
 もう、父も伯父も従兄もこの世にいない。

 金属産業の直島はいま、企業のベネッセによる事業として、建築家安藤忠雄の建築で有名な観光リゾートの地に大変身して、煤煙で島を丸禿にしていた三菱の工場はエコアイランドの核となっているという。
 かつてこの地が各地から社寺の釣鐘を集めて、兵器をつくるための島だったことは、忘れ去られているだろうか。釣鐘ばかりか、そのほかの多様な金属も来ていただろう。あの頃、各地の金属製の文化財も失われた。
 直島にもあった戦争の記憶を、今の島のどこかに残しているだろうか。直島町史あるいは三菱マテリアル社史に載っているだろうか、あの光景の写真があるだろうか。
 思えば、あの荒野の白日の下の釣鐘群の姿は、戦争直後に幻のように出現して消えた現代美術インスタレーションだったような気がしてきた。
 


2017/11/29

1304【続々・安藤忠雄展雑感長屋談議】歴史建築段ボール模型迫力に吃驚讃嘆、大仏生き埋めラベンダー山景観に感歎爆笑


●模型の段ボールがよかった

長屋の大工の熊五郎:安藤忠雄展を観てきて、ご隠居は褒める作品は無いんですか。
長屋の隠居徘徊老人:うん、模型という作品なら、パリの「ブルス・ドゥ・コメルス」とヴェネチアの「プンタ・デラ・ドガーナ」の古建築活用計画模型がいいね、特にその模型の段ボールがよかったねえ。
:建築じゃなくて模型を褒めてんですか、それも学生たちの涙の結晶ですね。
:だって模型の作品展なんだもの、これがダンボールで作ってあって、その質感と言い量感と言い、なかなかいいんだねえ。

2017/11/27

1303【続:安藤忠雄展雑感長屋談議】独学神話修業伝説など山口文象に似てるけど戦争の有無が大きな違いだな


●“安藤ランド”でもつくるのかしら?

長屋の大工の熊五郎:ありゃ、ネットにこんなこと載ってますよ。安藤さんが「住吉の長屋」のコピー建築をつくろうとしてるんだって。(『ニセ「住吉の長屋」が問うもの』)
長屋の隠居徘徊老人:ほお、面白いねえ、あ、そうか、あの展覧会に出した見世物教会も、展覧会が終ったらその隣に持ってきて移築するのかもなあ。
:そのほかにも昔のものをたくさん再現して建てて、“安藤建築ランド”をつくるとか、やればいいですね。
:そりゃ面白い、明治村ならぬ安藤村か、ヤレ、ヤレ~。
:設計したけど実現できなかった建築とかね、そうだ、安藤委員長が選んだのに安倍首相にボツにされた、ザハ・ハディド設計の新国立競技場もつくるとか。
一等当選でもボツになったお騒がせザハハディド新国立競技場案
:ワハハ、そりゃすごい。でもねえ、住吉の長屋再現で、あのコンクリ箱だけ独立して建てるってのなら、実につまらないね。既存木造長屋の中の一軒を壊して建てるなら面白いけどね。
:新しい三軒長屋を先ず建てて、次にその中央の家を壊す、そしてあのコンクリ箱を建てるとかね。建築イベントだ。
:それも面白いねえ、あの箱の居住機能ばかりアレコレ言われるけど、その本質的なすごさは、密集市街の中の木造長屋の中間に、あれを無理矢理はめ込んだところにあるんだな。
:その無理矢理具合が景観的にも社会的にも実に興味深いですよね。そうだ、今どきの長屋は中高層共同住宅ビルでしょ、ご隠居が言うところの“名ばかりマンション”ですよ、その古いヤツのなかの一戸を壊して、そこにに住吉の長屋を突っ込むと面白いですねえ。
:うん、いいね、あちこちの既存共同住宅ビルの空き家に、ゲリラ的に安藤流の箱やら卵やらが突っ込んである風景を想像すると楽しいね、空き家対策にもなるし。
:そういえば安藤の初期の仕事は、密集木造住宅地の中のあちこちの狭い裏宅地に、小さな住宅をたくさん設計していて、それを「都市ゲリラ」と称していますね。
引用 https://www.pen-online.jp/feature/art/ANDO2017/3/
:おお、ゲリラってかい、そういえば展覧会にそんなゲリラ模型があったな。裏宅地の接道してない違反建築ばかりだねえと、見物仲間と話したもんだよ。
:いまや安藤はゲリラどころか、正規軍の将軍になってしまいましたね、なんせ天皇が呉れる勲章をもらったし、こうやって国立施設で個展やるんですもんねえ。ゲリラ時代が懐かしくて、あんな小箱をまた自分で建てるのでしょうかね。
:あ、そうだ、こんどの展覧会で建てた「光の教会」の原寸模型って、ありゃ都市ゲリラだな。会場の中じゃなくて外の屋上に増築ってところがゲリラっぽいね。
:そうか、生まれながらの正規軍だった黒川記章が設計した国立新美術館に、ゲリラとして殴りこんだ、ハハ、いまに都市伝説というか安藤神話になるかもしれませんね。

●修業伝説独学神話建築家2人のこと

:神話と言えば、建築は独学というのも、まさにそうだね。工業高校出てるし、大阪で都市や建築に幅広く活動していた水谷穎介さんの下で働いたことあるらしいから、完全なる独学かどうか怪しい感もあるけど、なかなか面白いね。
:そういや、ご隠居が追っかけやってた山口文象って建築家も、その出自とか独学とか、彗星のごとく世の出たとか、似たところあるような。
山口文象
:おっ、来たね、うん、そうそう、安藤と山口は40年の差があるけど、なんだか似てるね。山口は職工徒弟学校までの学歴、あとは逓信省のいちばん末席の製図工からオンザジョブで自分の才能を磨いて、時代の潮目をよく見て30歳代であっというまに頭角を現したのだよ。
:安藤はまだ健在だけど、どこか伝説的な感もありますね。
:安藤さんの出自や修業のことをよくは知らないが、山口が語った独学神話とか修業伝説とか似てるらしいね。安藤にはないようだが山口には左翼伝説がある。安藤と比べて山口文象が不利な人生だったのは、40歳代の最も働き盛りに戦争にぶつかったことだよ。学閥も門閥もないから仕事も来ない、その10年余りを逼塞せざるを得なかった。その点では平和が続く時代の安藤は幸せだな。
:山口文象は戦争が終わってからどうしたのですか。
:戦前は個人名事務所だったのを、戦後再起を個人名を排したRIAという協同設計集団に賭けたんだな。小住宅のまさに都市ゲリラとして、50歳代になって再出発したよ。でも戦後に山口文象としての見るべき建築作品は無いね、その集団が都市計画と建築設計の立派な組織となったから、これが山口の戦後最高の作品だね。
:安藤さんは1941年生れの76歳、今も盛りの仕事ぶりですが、作風は個人アトリエそのものですね。大勢のスタッフがいるようだけど、先々どうなさるのかなあ、おおきなお世話だけど気になりますね。
:そうだねえ、おお、76歳と言えば山口文象が他界した歳だよ。そういえば、新国立競技場でひどい目にあって死んだザハ・ハディドも個性的な建築家だったけど、あの事務所はどうしてるんだろね。
:天才の個性的な建築家の場合は、後継者というか組織というか難問でしょうね。
:う~む、丹下健三とか前川国男とか菊竹清訓の事務所は、どうしてるのかなあ。組織事務所として大変身をするのかなあ。

●六甲の集合住宅は環境破壊だな

:ところで肝心の安藤建築については、原寸模型教会の話ばかりだけど、ほかの感想はいかがですか。SNSによると会場でのイアフォン解説が安藤さん自身の録音で評判ですけど、どうでしたか。
:エッ、そんなものあったのかい、そうか、あの行列見物人たちは、みんなその解説を聴きつつ順路を進んでたんだね、あんな大勢なのに静かに整然と歩くのが不思議だったよ。
:え、ご隠居たちだれもイアフォン借りないのか、ケチ、どうしてたんですか。
:仲間5人とね、混んでない面白そうなところを見つけて、あっちへこっちへフラフラと勝手に動いて、勝手に批評しつつ楽しんだよ。
:なんだつまみ食いかよ、年寄りばかりで声も大きいから、喧しいと怒られたでしょ。
:いや、怒られないよ、他の人は耳がふさがってて、わたしたちの声が聞えないんだろ。余計な解説無しだから、仲間それぞれ勝手な解釈を言いあって面白かったよ。あらかじめなにか知ってたら面白くなかったね。
:ふ~ん、まあ、ご隠居にはお祭りの屋台や見世物巡りだから、順序なんていらないですね、面白いのありましたか。
:「六甲の集合住宅」って共同住宅ビル群が、大きな模型で出てたよ。
引用元 http://www.tokai-build.com/blog/archives/7158
上の模型と同じ角度の空中写真 google earth
:ああ、神戸の斜面地に開発した最初の棟から、隣りへ隣りへと増殖して行った共同住宅群ですね。
:そうだ、これの最初のものが建築の雑誌に発表されたのをみて、これはひどい、神戸の自然環境として重要な斜面緑地をこうやって切り取り、背中が崖の風通しの悪い住宅なんてどこがいいのだ、と思ったけど、それにもかかわらずこうも増殖して腹立ったね。
:模型を観つつ大声でそんな悪口を言ってたんじゃないでしょうね。
:もちろん仲間と大声でしゃべっていたよ。でも、最近の安藤さんは緑の回復なんてプロジェクトにも精出してるから、六甲の反省をしてるのかねえ。

2017/11/23

1302【安藤忠雄展雑感長屋談議】安藤神社の秋祭で縮尺模型の屋台が大量出店、原寸模型の見世物小屋もあった

●ミーハーに好かれるようになったか建築家も

長屋の住人・大工の熊五郎:こんちわ、ご隠居、なんだか疲れてるみたいですね。
長屋の住人・隠居徘徊老人:おお、熊さん、いらっしゃい、まあ、おあがりよ。うん、昨日、東京の乃木坂の国立新美術館に徘徊に行ってね、それで脚が痛いんだよ。
:美術館なら徘徊じゃないでしょうに、なにを見て来たんですか。
:安藤忠雄という建築家の展覧会だよ。会場が広くてたくさんの展示があり、2時間余りも歩きまわって疲れたよ。
:ああ、安藤忠雄ね、よかったでしょうね。
:エッ、熊さんでも安藤忠雄の名を知ってるのかい、おどろいたね、どうりで平日なのに観客が多いのでびっくりしたよ、へえ、今どきは建築家もミーハーに好かれるのかい。
:そうですよ、あっしだって知ってますよ、他に藤森照信って名も知ってますよ。ちかごろはミーハーネエチャンオバサンが、そんな建築見物観光旅行に行ってますよ。
:ホントかなあ、そうかい、日本も建築家って職業を世間が認知する時代にやっとなったか。

●原寸模型で現物体験というけれど環境が違い過ぎる

2017/11/17

1301【FACEBAKA掲載与太話】10月後半~11月前半:衆議院選挙、企業犯罪、トランプなどなど

【FACEBAKA掲載与太話10月後半~11月前半】

11月9日・新語・流行語
わたしの聞いたことある言葉は、このうちの6割だけ、
でも意外に多く知っている感もある。


11月7日・トランプ
ふ~ん、、

2017/11/15

1300【癌かもしれない日々・7】日光角化症クリーム塗布治療の後半戦を開始で面倒だけど暇つぶしにはなる

癌かもしれない日々・6】のつづき
 わたしは日光角化症のことをぜんぜん知らなくて、
ある日偶然のきっかけから治療することになったのです。
この報告が、まだ日光角化症を知らない人たちに
役立つことを期待しています。

 顔面の一部が前癌症状の日光角化症となり、ベルセルナクリームを塗る治療を始めて2か月、クリーム塗布休止4週間の後の2017年11が15日、横浜市大センター病院皮膚科(伊藤亜希子医師)の診察を受けた。
 ベルセルナクリームによる治療は、4週間塗布、4週間休止、その後また同じことを繰り返すのだが、うまく行けば前半だけでおしまいになるとて、そうなればいいなと期待しながら診断を受けに行ったのだった。

2017/11/13

1299【黄金町バザール・4】アート制作のために地域に入っていくアーチストたちって街づくりコンサルタントに似て非なるもの

黄金町バザール・3】のつづき

 それにしても、これらわけのわからない作品を、手間と時間をかけて制作し、展示しているアーチストたちは、いったいどうやって日々のおまんまを食っているのだろうか。
 制作費をどうやってひねり出してるんだろうか、みんな富豪の人たちか、それともなにか別に本業を持って稼いでいるのか?

2017/11/01

1298【黄金町バザール・3】みなさ~ん黄金町でも戦争はようやく終りましたよ~

黄金町バザール・2】のつづき

●『みなさ~ん、戦争はもう終りましたよ~』
 おお、そうだ、ここ黄金町でもそう叫んでくれよ。いや、この映像作品が今ここにあるということは、毒山が黄金町でも叫んでるつもりかもしれない。
 毒山凡太郎が、沖縄の各地で『戦争はもう終りました、War is over』と叫んでいる映像をしばらく眺めていて、そう気が付いた。
毒山が「戦争は終わりました」と叫ぶ沖縄各地