2023/08/15

1701【78年目敗戦記念日愚痴】戦争へ準備をしろと敗戦の日に叫ぶ政治状況に閉口するばかり

●戦後生まれの喜寿

 今日2023年8月15日は日本の敗戦記念日、いつ敗戦したかといえば1945年のことだった。アレ、もう78年も前のことであったか、ということは今年に喜寿を迎えた老人さえも「戦後生まれ」なのか、う~ん。
 戦後生まれという言葉が、若いという意味を含んでいたのは、はるか昔のことであったか。自分の老いは当然と自覚を促すだけ。
 そこで本歌取り狂歌をひとつ。

喜寿なれや目にはさやかに見えねども戦後生まれとぞ驚かれぬる

 じつはわたしはほぼ毎年のこの日には、東京九段にある靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑に出かけていたのだ。といっても戦没者を慰霊しようなんて殊勝にして敬虔な気持ちではなくて、そこでその日だけ見られる戦争の残照諸相を見物するのであった。右や左や上や下や大人や子供が登場してそれぞれ戦争観を表現するのを、野次馬として楽しむのである。

 これまでこの日の九段でどんなことが起きてきたかは、下記のこれまでのわたしの靖国神社見物記をご覧ください。今年も同じようなものかしらね。
2005年と2013年・靖国神社815定点観測風景2005、2013
2014年・終戦記念日の靖国神社の喧騒と千鳥ヶ淵戦没者墓苑の静寂
2017年金モール軍服長靴の若者がスマホをいじる靖国の夏
2018年・夏まつり森の社のにぎわいは今日も戦をたたえる見世物
2019年敗戦記念日は東京九段の靖国神社に戦争の残影を見物に
2020年・コロナ禍敗戦記念日の変わらぬ靖国神社風景が怖い
2021年・この前はアメリカに敗れこの度はコロナに破れかぶれ
2022年あの敗戦から77年の歳月に次々と戦争の日々が重なる 

 その個人的年中行事を2020年以降はとりやめたのは、ひとつはコロナ禍のゆえだが、もうひとつはわたしの歳のせいである。コロナ禍は今年から開けたようだから、行事復活してもよいだろうが、寄る年波でどうも真夏の遠出に無理の感があるのと、家族に老々介護の兆しもあってこれも長時間外出を許さなくなっているのだ。戦後生れが喜寿になるくらいの年月だから仕方ない。今年も行かないから、この年中行事は終わりだ。

●アジア太平洋戦2000万人死者の追悼こそ

 今年も政府による戦没者慰霊の式典が九段で行われたようだ。おりから台風七号による悪天でかなり規模縮小らしい。いつだったかこの日の靖国神社の一隅に腰を下ろしていた時に、ちょうど正午になり全員起立黙祷の指示がNHK放送で境内に流れた。そういう一斉に何かやらされる儀式を大嫌いのわたしは、まわりの人々がみんな立ちあがり頭を下げるのを、一人座り込んで奇異な眼で見回していたことがある。居心地が悪かった。

 今朝の新聞一面片隅に政府の広報記事があり、政府主催「全国戦没者追悼式」をやるから、正午から1分黙祷せよとある。こういうのは政府に言われてやるものかしら、わたしはこの一律右向け右を大嫌いである。

 そしてまた、追悼する戦没者とは誰のことか調べると、日本人310万人ほどが対象だそうである。それはおかしいだろうと思う。戦争だから戦った国はそれぞれ大量の戦没者が発生したはずだ。それら両方の戦没者を追悼するのではないらしい。政府は不戦を誓っての儀式ならば、殺し殺された戦没者全部をこそ追悼するべきである。

 ではアジア太平洋戦争で、どれくらいの人が死んだのかネットで調べたら、日本310万人、フィリピン100万人、ベトナム200万人、中国1000万人以上で、全体では2000万人以上とある。
 2000万人死んだのに310万人しか追悼しないのは、どのような理由があるのだろうか。これは靖国神社が政府に反逆した戊辰戦争の敵方を祀っていないことに倣っているのだろうか。


 (追記20230816)15日の戦没者追悼式で総理大臣式辞が、去年のそれとほとんど同じという批判が16日の東京新聞に載った。わたしは昔々に植木等が歌ったドンと節を思い出したので、こう書いてFBとXに載せた。
 アッそうか、解説ないと分からん時代かもなあ、アノネ、元歌はサラリーマンが”タイムレコーダがちゃんと押せば”というのだよ。
政府主催戦没者追悼式での総理大臣マンネリ式辞批判記事(東京新聞20230816)

●戦争準備への足音が

 「今年の終戦の日 各党談話」なる記事が東京新聞にある。興味ないがヒマなので読んでみて驚いた。総じて防衛力という戦争能力を整備強化せよというのである。
 これってプーチン戦争が終わらずに、似たようなことが台湾有事として東アジアでも起きるかもしれないから備えろという状況判断なのだろうか。戦争で死んだものを追悼するのに、軍備を備えよとは、そんな時代が来てしまったのか。
 これでは憲法9条のもつ理想は、もう雲散霧消らしい。「戦後民主主義すくすく派」としてはまことに悲しい。


 どうしてこういう世の中が来たのだろうかと、戦後社会で起きた体験的あれこれをを思い出しつつ、思想史として「<民主>と<愛国>戦後日本のナショナリズムと公共性」(小熊英二)を、積ン読本棚の中から20年ぶりに引っ張り出して読み返している。少年期青年期に概略的に知っていたことを,今しっかりと資料を並べて解説してくれるこの本はすごい。それにしても1000ページには疲れる。


 なんにしても、わたしはまた戦争に出くわすのはまっぴらゴメンこうむるので、この辺でこの世からおさらばしたいと、またもや思うのである。戦争がおきないうちに間に合うだろうか、それが心配である。やっぱりコロナで死ねばよかった。

 それにしてもだらしないコロナだった。最も期待したのにクレムリンを襲わなかった。バカヤロウ。
 そしてわたしのもう一つの期待であった「願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のコロナ」という私の毎春の願いも外れたのだ。バカヤロウ。
 いや待てよ、この年の暮れに第九波が来るという説もあるとかないとか、まだあきらめないでおこうか。

●毎年思い出すあの日々

 毎年8月15日には思い出さずにいられない。森の中のラジオ、聞いた大人たちの沈黙、疎開児童たち、そして続いては教科書の黒塗り作業、教師の変節、なにより辛かった空腹の日々、、ろくなことがなかったあの頃。
 唯一の嬉しかった記憶は、父が8月末に帰郷してきたことだけだ。43年末に送り出した日に母が号泣した戦中の嫌な記憶が、帳消しになった。

 このブログに戦争記憶を何回も書いてきたが、こんなことを思い出さなくてもよくなる身になる日が、そう遠くなく来るのを待っている。(20230815記)

参照:戦争の記憶(まちもり通信:伊達美徳)




2023/08/08

1700 【横浜ご近所探検が行く】横浜中華街の向こうをはる「横浜大韓街」誕生か

 暑い日が続くが、カネのかからない年寄りの健康法でとにかく歩くのだ。横浜の都心住いだから、買い物と徘徊が一致するのがありがたい。趣味の街並み景観見物が毎日できて、この街の変化をもう20年以上にわたり続けている。

 徘徊とは目的の無い彷徨行為と定義されるが、それが日常買い物と景観見物と健康に資することになっている。これは徘徊から言えば本意ではない。目的の無い外出と、その他を厳密に分けて、それぞれあらためて出直すべきである、というご叱責もあろうが、まあ、先が短い年寄りのやることに、いちいち目くじらたてなくてもよいだろう。

 さて、今日も今日とて横浜ご近所徘徊していて発見、おや、横浜チャイナタウン「中華街」の向こうを張って、福富町はコリアタウンの「大韓街」になったのか、と。
 福富町の中央部に西通り・仲通り・東通りを串刺しにする南北の通りがある。この通りには沿道の両側に1950年代に防火建築帯として建てた共同建築群が立ち並ぶので、その変化に興味を持ってちょくちょく観察に通るのである。

 その通りの南入口ともいうべきあたりに道路をまたぐゲート状の工作物が建っていて、そこに大きな字で「KOREATOWN 福富町国際通り」と書いてあるのだ。あれ、こんなのが前からあったかなあ、こんなに大きな文字だから気がつくはすだよなあ、いつの間にできたのだろうか。この通りは国際通りというのか、初めて知った。

KOREATOWNの大文字のゲート

 福富町については、以前からコリア系とチャイナ系の店舗が多くなってきたなあ、でも風俗系の店も多いなあと思っていた。この大看板を見て通りの店の看板を見まわしていたら、たしかにコリア系店舗がさらに増えている、一方で風俗系が減った感がある。
 家に帰ってからGoogleストリートを見たら、去年11月撮影の同じ通りの風景があり、そこには同じ道路をまたぐゲート風のアーチがあるが、KOREATOWNの文字はないから、今年になってできたのだろう。

2022年11月撮影の同じゲートには文字がない google street

 チャイナタウンが中華人民共和国街つまり「中華街」ならば、コリアタウンは大韓民国街つまり「大韓街」というのだろうか。
 それにしても横浜中華街のような横浜発祥の歴史を背負うチャイナタウンはともかく、福富町が中国系も日本系もある商店街でコリアタウンを名乗るには、それ相当の何かがあるような気がする。商店街組合がこのように名付けるのだろうか。
 風俗の街にイメージがある福富町全体が、中華街のような大規模な横浜大韓街KOREATOWNに変身するのは、なかなか面白いと思う。期待している。

KOREA系店舗の看板が目立つ

福富町KOREATOWN 北から見る全景

 横浜橋商店街もコリア系の店がかなりあり、KOREATOWNのイメージがある。実は単なる遊びであるが、数年前にKOREA系と中華系の店の数をカウントして、この商店街の全店舗の中でどれくらいの割合を占めるか計算したことがある。12パーセントほどで、意外に少ないと思ったことがある。それらの日常性から離れた店舗風景に気をひかれてしまてて、イメージ先行するのだろうか。

 さて、横浜都心部の関外に特に多い戦後復興の防火建築帯は、次々と建て替えられている。商店街としては関内側の馬車道の防火建築帯はかなり建て替えが進んだ。だが関外側の伊勢佐木町や福富町あるいは吉田町のような古い商店街では、建て替えが進まずに、いまも戦後復興期の姿であり、横浜の特徴ある街の風景として生きている。

 生き残っている理由は、建築物の所有権が複雑化していることもあるだろうが、テナントの身代わりの早さがあるのかもしれない。福富町がかつては伊勢佐木町のような普通の商店街だったのが、風俗街へ、そしてエスニック街へと時代に対応して生き残り作戦で変遷しているのが興味深い。普通の商店街が地域でも有名は風俗街に変身して生き残っている例として、群馬県太田市南口商店街がある。

 伊勢佐木町でも防火建築体に入る店舗が、コロナ以後その変遷が著しい。次々とテナントは変わっても意外に空き店舗は少ない。ただしわたしの観察によれば、物販店も飲食店もどうも安売り店舗へと変化する傾向がある。あまり変わらぬ商売を続けている元町商店街との落差が著しくなっている。
 その変遷が一段落したころに、建て替えによる変化が始まるだろうと、それがいつ来るのかと、それも興味を持って待っている。(20230808記)

2023/08/06

1699 【広島原爆の日】ヒロシマ核爆弾被爆者だった親友がこの世を去った今年の夏

 今日は8月6日、1945年にUSAが広島に世界初の核爆弾殺人目的投下の日である。毎年この日が来るのは当たり前だが、今年は来てみて初めて特別な日であると気が付いた。それは、今年の春に亡くなったわたしの親友のひとり(とよぶ)が被爆者であったからだ。

 あの8月6日、Fは広島市内の自宅の庭で遊んでいて、何かを取りに家の中に入ったとたんに、閃光が走り被曝、家は半壊したが奇跡的に生きていた。爆心から約1.7kmだった。
 そこから凄惨なる被風景の中を、被した身の母子4人で苦難きわまる避難行、逃れた郊外で治療とも言えない治療の日々、それを彼は歩きながら一日中話してくれた。
 話してくれた場所は、5日で100キロ歩くという趣旨のウォーキング旅行の旅先のことだった。ほかにもあちこちに一緒に旅した。よく飲み会やった。

 そのFの死因が原爆病であるかどうか知らない。元気な遊び仲間だったFが、入退院を繰り返すようになったのは2年前だった。それは被曝による病かと聞いたが、化学者の彼の答えは「それがわからんのだよ」という。それには核被曝治療の諸問題もあるらしい。
 Fの直接の死因は血液の病だった。私は素人だから勝手に決めつけているのだが、これこそ核爆弾の故に違いない。
 Fが病床からくれたLINEメッセージの最期は4月1日のこと、「来年も花を見られるかな」であった。その月末からもうFは居ない。

Fは行ってしまった

 わたしにはこの日は普通の日だったから、広島原爆の日であるほかにとくに考えもしなかったし、とくにこの日にFと何かをしたこともない。
 そうか、Fにはこの日が特別に日であったのだ、そして今日はその日なのだ、Fがいない今年のこの日は、わたしにも特別な日としてやってきた。

 ヒロシマ核爆弾投下の故の今年までの死者数は、総数339,227人で毎年増えてゆく。この1年で5320人が新たに加わったそうだ。
 爆心から500mほどの兵営にいたFの父は、核爆弾で消滅させられたとて、確実にそのひとりである。その名簿のなかにFは加わったのだろうか。

Fの実妹によるその母の被曝物語

 あれから78年もたったが、核の恐怖は地球上から消えないままに、いや、それどころか、またもや核爆弾を投下する奴が出現の気配の中で、被爆者たちはもちろん、わたしもこの世を去ることになる。



 そして世界3番目の殺人用核爆弾投下する為政者がいつ出現するのだろうか。せめて私が死んだ後にしてほしい。エゴに聞こえるがそれでよいのだ、だって地球上の人間全部がこう考えると核兵器廃絶に進むだろう。(20230806記)

参照亡き親友Fへのオマージュ 2023


2023/07/31

1698【コロナと戦争と酷暑と】歳たけてまた越ゆるかと思ひつつ命からがら戦世の夏

●七月尽

 うかうかと過ごしているうちに、7月が終わろうとしている。今月のこのブログ「伊達の眼鏡」に新規掲載記事は2件だけである。
 さすがに歳闌けると億劫になるものだと、わが身の順調なる老いぶりに感心してばかりもいられないので、7月末日にすべり込みで今月2件目記事を書いて、老いに抵抗する。

 さて盛夏そのものの日々だが、春にはこんな歌を書いていた。

 ねがはくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月の頃
西行法師(山家集)

 願わくば花の下にて春死なん その如月の望月のコロナ
街杜散人(伊達の眼鏡)

 毎春になると西行法師の歌をもじって、今年の春こそと思っている。それなのに、今やコロナ禍が明けたらしいのに、いまだに永らえているのは、どうしたことかと、うろたえるばかりの盛夏である。
 では、夏はどう詠もうかと考え、またもや西行さんにお願いすることにした。

年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山
西行法師 (新古今和歌集)

歳たけてまた越ゆるかと思ひつつ命からがら戦世の夏
街杜散人 (伊達の眼鏡)

 花の歌のようにうまくはないが、まあまあ本歌取りとしよう。

●老いという災禍

 コロナ世のさなかに願いが叶わなかったばかりか、いっこうに終りそうもない戦世(いくさよ)の最中(さなか)に永らえる身を嘆くばかりである。何しろ西行さんがこの歌を詠んだのは69歳のとき、今のわたしはそれより二回り以上も永らえていると知って、当惑するのである。

 老いは容赦なく身に迫る。わが身だけでなく連れ合いにも及ぶから、老老相和してばかりいられず老老相頼るようになり、更に老老介護に至る道程に入る。
 わたしは今、その老老介護という荒海か深山かわからぬ入り口あたりで戸惑っているが、幸いにして信頼のおける案内役というかリーダー格の息子がいる。世代交代するときの長い長い儀式に入ろうとしているのだと思う。

 世は暑い暑い最中である。今年はエルニーニョの影響とかで毎日が最高気温とかなんとからしい。地球温暖化による災害多発は、どうやら本当らしいと身体で感じることができる。
 この人間ひとりひとりその肉体で感じる異変が、環境問題への日常的取り組みにつながるのだろう。そう考えると、このあたりでドカンとコロナのような地球規模で同時に起こる気象災害があれば、それが塞翁が馬になるかもしれない。もっとも、自分がそれに出くわすのは嫌だだから、そのまえにおさらばしたいものだ。間に合うか。

 わたしは地上20m高さの空中陋屋住まいで、風がよく吹くので自室を冷房にすることはあまりないままに過ごす。老化進行とともに気温感度も老化進行しているようだから、自室にいて自覚せぬままに熱中症という季節流行病でポックリ逝けば、それはそれで花の下に春死ぬと同じようなものだ。

 生まれたのは15年戦争の最中、物心つけば敗戦の最中、少年時代は世界大戦で地球規模の混乱の世だった。
 さてそれが死ぬときはどのような世になっているのだろうか、平和の裡に死にたいものっだと思っていたら、なんとまあ今やコロナパンデミックとプーチン戦争そして温暖化という3大災禍で気球規模の混乱の世なのである。これにトランプという災禍が加われば、この世も末である。

●コロナという災禍

 つくづく嫌になるこの世の巡り合わせである。取り戻しようがない混乱人生である。そこでせめて好奇心を満足させてから死のうと、コロナと戦争が終わったのちにやってくるであろう変わり果てたこの世を見てから死ぬことにした。

 コロナと戦争がこの世にどのような変化をもたらし、どんな世界が来るのか、単に新しものへの興味だけではなくて、恐怖世界が来るかもしれない怖いもの見たさもある。現に地球上のあちこちで起きている強権政治とか超ポピュリズム政治とかの国が増えてくると、どうなるのかと思う。ただし、自分はもうすぐ死ぬから関係ないと、単なる好奇心のみであることも確かである。

 コロナが遂に消えたのかと思えば、そうでもないらしい。コロナ感染グラフも新聞にあるるので見れば、かつての全数把握と違うから参考値とあるが、感染者数はうなぎ上りの傾向と分る。そういえば昨日は土用の日だったからではあるまい。それにしてもウナギは高い。 

 去年夏の第8波のトップの半数近くに上昇中、しかも波の形が似てきた。だらだらと上昇中ではないのだ。これは大波というべきではないのかしら?
 これでも政府からコロナだからああせいこうせいと去年みたいに言われないのはどういうわけだろうか。

 実は、わたしの幼馴染の同年女性は、つい先日コロナにとうとう感染したというのだ。しかもその住むところは山間部の人口1万人ほどの小さな盆地である。
 それなら横浜都心に住むわたしは彼女の100倍くらいは感染確率が高い筈だが、今のところ感染していない。今できることはせいぜいマスクを忘れないようにするしかない。最近油断してすっぴん外出が多い。なんだかよく分からないけどね。

 近所の横浜観光名所の中華街や港あたりは、わんさと人間が集まってきている。夏花火イベントの日はもの凄い人出だったらしい。本当にコロナはどこかにいってしまったのか?、コロナは今頃大喜びで感染してまわっているに違いない。
 夏が終わる頃は、上のグラフの右の方はググーンと上昇しているんだろう。冗談じゃなくて年末には第九番の波の上にいることになるのかもしれない。怖くも楽しみなことである。

●戦争という災禍

 楽しみはコロナだけではない。ウクライナでのプーチン戦争の行方はもっと気になる。
 プーチンの当初侵略区域からウクライナ側の奪還への動きを見ると、去年の3月の最大侵略からは、ウクライナが今年4月末にはかなり奪還したようにみえる。
 だが6月末も7月末も地理的範囲に大差はない。ウクライナ軍が苦戦しているのだろう。

 地理的な戦況よりも気になるのは、地球規模の戦争陣営が次第に見えてくることだ。つまり、西軍にはUSA、UKなど西欧諸国のNATOの国々+日本で、東軍にはロシア、チャイナ、ベラルシ等の国々という基本構成である。これで関ケ原合戦が始まる頃、わたしはもうこの世から退散していることだろう。そうありたいものだ。

 ウクライナ危機で世界が最も憂慮しているのは、食糧問題である。地球の穀倉地帯が戦場になり、その収穫物が戦略物資になって世界をおののかせている。黒海封鎖したロシアは、ウクライナの穀物輸出船舶航行を妨害しているとんこと、戦争で腹ペコ体験者には、何ともやりきれない思いである。

 戦争期間が長くなり、拡大の敬拝が濃厚になると、そのうちに国々での食料歌稿込みが始まるだろう。そうすると、自給率が4割を切る日本、つまり食料の6割を外国からの輸入に頼る日本は餓死するしかないのか。またもや腹ペコ日本の到来である。

 そんな時に政府の考えることは、ウクライナへの武器援助であるらしい。とにかく早く戦争に勝つためには、憲法無視らしい。なんだか欲しがりません勝つまではって、聞いたことがある標語が待っているような気がする。
 そんなころになる前に私は死んでいるだろう。そうありたいものだ。

 ウクライナで戦争、中央アジアやアフリカ中部で不安定政権、東南アジアでも不安定政権、東アジアで強権チャイナと北コリア、USAでのトランプの出現による国民の大分断状況などなど、好奇心の及ぶにはあまりに多すぎる地球の騒乱に、頭がとても追いつかない。こうもあちこちで騒乱ある地球に居ると、ボケている暇がない。

 さてそろそろ台風シーズンである、今年はどうなのだろうか、暑い暑いと言っているから、大型台風がいくつもやってくるのだろうなあ。大水害が起きるだろうなあ、加えて大地震が起きるかもしれない。

 こうも外憂内観もあまりに数が多すぎると、あきらめの境地である。ちょっと安心なのはわたしには絶好の避難先があることだ。避難先をあの世にすればよいのだ。もうこれ以上逃げようがない究極の安全なところ、避難するのが楽しみでもある。
 だからこう詠うのだと、話は初めに戻る。

歳たけてまた越ゆるかと思ひつつ命からがら戦世の夏

(20230731記)

参照:コロナ大戦おろおろ日録


2023/07/28

1697【醜い風景コレクション】日本の郊外風景を形成する自動車屋「枯葉作戦」という景観感覚


 この暑いのに、わたしの住まいの近所の立派に繁っていた街路樹が20本も100mの区間にわたって切り倒されて、暑いこと暑いこと。
 横浜市の道路管理者が、今年の冬は寒そうだからと、沿道や近所の歩行者に陽射しを十分になるようにと、親切心から切り倒したに違いない。そう思わないと市民としては救われない。まだ冬が来ない夏の今から陽射しを浴びて通り、熱中症になろうとしている。

 ところが企業としてもそのような考えを実行しているという新聞記事やネット書き込みを見て、暑苦しいことである。
 ビッグモーターなる中古車販売やら修理やら検査やらしている全国的展開の企業が、長期にわたって大規模な保険金詐取をしていることがバレて大騒ぎ、そのビッグモーターは、店舗前の街路植栽を積極的に枯らせることも全国的に展開したらしいというのである。

 店に日照りをよくしたいのだろうか。郊外の大きな通りに面して自動車をずらーっと並べている殺風景極まる景観を自慢したいのか。


 実はビッグモーターときたら、その殺風景さを目立たせるために、店の前の道路の植栽を、薬剤を使って枯れさせ、道路管理者に切り倒させているらしいのである。
 何しろビッグモーターの店の前だけ、道路植栽が枯れている風景が、全国各地のその店舗前に起きている現象だそうだ。薬剤を撒いていることを店員が証言しているのだから、確信犯としての「枯葉作戦」(ベトナム戦争でUSA軍による大量薬剤散布ジャングル植生枯死作戦)である。社長の言ではそれは「環境整備」なのだそうだ。確かに販売促進環境の整備ではあるが、公のものを無断で滅失させる罪の意識がない。

Googleストリートに撮影されてしまった枯葉作戦

 風景も醜いが、心も酷いもんだ。
 「ビッグモーター 街路樹」で画像をネットで検索すると、あるはあるは日本全国のビッグモ-ター店舗前だけ植樹が枯れた風景が無限のごとく登場する。
 でも思うに、ビッグモーターばかりか、その他の郊外沿道店舗はどこもかしこも枯葉作戦をやっているに違いない。そうでなければ日本の郊外沿道風景が、どこもかしこもあんなにも醜いわけがない。

 わたしの仕事は都市計画家であったから、全国各地に行きあちこちを見てまわることが多かったが、郊外道路沿いの風景のあまりの醜さに気が付いたのは、1995年に静岡県の掛川市でのことだった。
 掛川の中心部は城下町として、そのころからなかなかに良い景観づくりを目指して整備していた先進地である。それを見たあとで郊外の国道1号の沿道風景を見て愕然とした。立ち並ぶ店舗のあまりの乱雑さに驚いたのだ。

 それからは地方都市に行くごとに,郊外の主要道路沿いを探訪して、醜い風景のレクションをやっていた。とくに掛川のような歴史的な都市の都心部と郊外部の風景の大きな落差を探したものであった。その思いつく地方都市を挙げると、掛川、松江、倉敷、熊本、七尾、松本、新発田、半田などなど。

 とくに自動車関係の店舗と郊外型ショッピングセンターが、百鬼夜行のデザイン店舗を競い、樹木のない広大な野外駐車場の車の洪水、その周りに色とりどりにはためくバナーの類、全くどこに美的感覚があるのだろうと呆れるしかない。

 20年も前に集めたそれらを見ていて、どれにも自動車関係らしい巨大看板が派手な色で立っている。その醜さを和らげてくれるのが、街路植栽であるから道路関係者の道路植栽への力を入れることを望んでいたのだ。
 ところがなんとまあ、沿道店舗群はそれを積極的に枯れさせて、わざわざ醜い風景を露出させようとしていたのであったか。自動車産業は世も末である。

 以下に昔に(といってもこの30年ほど)撮影した日本醜い風景コレクションの一部を載せておく。とくとご覧あれ、なにが起きているか、誰がやっているか、。



この八ヶ岳が見える醜い風景について、もしも広告がなかったらどう見えるか
景観戯造遊びをしてみたのでこちらクリックをどうぞ

松江

松本

熊本






 もう長らく地方都市の郊外に足を延ばしていないから、今では美しい風景に代わっているに違いない、ビッグモーターは例外と思おう。(20230727記)

参照景観戯造





2023/06/30

1696【コロナ×プーチン二重禍】あの腹ペコ時代の嫌な記憶が脳裏に浮かぶ嫌な危ない世になりつつある

 今日は6月30日、今年も半分になってしまった。今年もコロナとウクライナで明け暮れしてきた。

 それがちょっと様子が変わってきたのは、コロナの影が薄れてきた感があることだ。このブログに毎月初めと中間にコロナにいちゃもん付けてきていたが、5月8日に書いて以来、もう50日も書いていないのは、なんだかよく分からないからだ。

●コロナウィルスはこれでいいのかい

 分からなさの一番は、コロナの法律上のレベルを2級から5級に格下げしたことだ。コロナというものは人間の階級ではなくて、ウィルスという別世界の階級だと思っていたら、やはり人間の階級でいいのか、そこがよく分からない。コロナの方がキョトンとしているような気がする。

 ついこの間までは「マスクしろ、つい立てを立てろ」だったのが、ある日を境に「もう勝手にせい」と決まるのも不可解である。その日からパタッとコロナが消えるのかしら。
 でもまあ、コロナ禍の最中もコロナにかからないで、勝手に生きてきたからよかったと思おう。もう自由に集まってよし、あちこち旅行にでかけてよし、とのことで、けっこうなことである。

 でも、わたしのような超高齢者にはけっこうでもないのである。さあ、これからは仲間と飲み会しようと張り切ったら、コロナ中に飲み仲間の同輩たちがあの世に行ったり、もう飲めなくなったとて、元に戻らないのである。

 わたしも酒飲む気がしなくなったし、遠方に出かける気力を失ったのは、この3年間の強制的な逼塞がもたらしたものである。
 若者には取り戻せても、年寄りはそうはいかない。明確にこの3年という、人生の最晩年におけるまだ多少は飲みかつ旅に出る能力を、コロナに奪われてしまったのだ。
 そのむかし、日本が戦争していたころに、若者が戦場で命を失って人生を取り戻せなかったのと同じで、今、年寄りに貴重な元気な晩年を奪われたのである。しっかりと愚痴を言っておくのだ。

 それにしてもわたしの年代は、生まれたのが日中戦争たけなわ時で、物心ついたら太平洋戦争に入ったらすぐ敗北という、最悪の世の中に少年期を送ったのだ。腹ペコほど人間をあさましくするものはないことを見てきた。

 考えようによっては、最低の社会にいたのだから、その後の人生は良くなるしかなかったのだ。何をやってもとりあえずはそれまでよりは良くなった、と言えるような社会であった。別の言い方をすれば、最低の社会ばかりを追いかけていたと言える不幸だった。

 そして今のわが人生は、コロナウィルス禍とプーチン戦争禍のダブル禍の社会に回帰してきたのだから、大いに愚痴をこう言いたいのだ。

ああ、2019年中に死んでおけばよかった

 コロナが第9波になってて戻って来つつあるらしく、年末にはベートーベンとダブル第九で大いに波が盛り上がるかもしれない。プーチン戦争は核爆弾が登場するかも知れない。
 その2重禍がおきれば、またまたどん底の時が来るだろう。またあの時代かよう、、父を取られ、空爆、腹ペコ、大人たちの豹変、ああ思い出してもいやだいやだ

ネット空間を捜索してもこんないい加減なグラフしか見つからない。これでいいのか。


●ウクプー戦争は裏切りもある佳境の先は

 さて、今年半ばのウクライナプーチン戦争はどうなっているのか。遠くの戦況はよく分からぬが、先般はドニアプルという対岸にある人口のダムが破壊されて、ダム湖から流れ出る水で大水害が起きたとのこと。この犯行元がロシアかウクライナか押し付けあっているようだ。
 これが戦況にどう反映しているのか知らないが、広大なる被害が生じているらしく、それは核発電所事故を想起させる。

ウクライナ領土争奪模様1年半 20220224~20230629

 つい先日は、例の民間戦争屋ワグネルが、プーチンに対してクーデターを起こそうとした
事件があった。「敵はクレムリン本能寺にあり」とて明智プリゴジンがワグネルを率いてモスクワに攻め上ろうとしたのである。
 もっともベラルーシのルカセンコがプリゴジン説得に成功し、2日で腰砕けになったプリ親分はベラルーシに亡命したそうだ。光秀とは異なり、幕間のピエロだったか。

 だが、プーチンの統治能力の衰えを示すことになったようで、ウクライナを奮い立たせたことだろう。これが戦況にどう影響sるのだろうか。

 日本の政治にいま影響がでてきたのは、日本産の武器輸出の制限を緩和しようとの動きが与党にあることだ。殺生能力のある武器も輸出可能にするとて、それの元はアメリカに追随してウクライナへの武器支援のためであり、実は台湾有事という中国の軍事台頭により起こるであろうアジア戦争への対応であるようだ。もちろん日本も兵器産業の大きな要望でもあるに違いない。きな臭いことになってきた。

 そして戦争に慣れてくるのが怖い。ツイッターに塹壕のロシア兵を攻撃するドローンによる動画がいくつも登場する。去年中ころまでは嫌な気分で観ないようにしていたが、今は見慣れて長く見ていてハッとして、そんな自分を嫌になる。

 ああ、いやだいやだ、またあの腹ペコ時代がやってくる、早く逃げ出すしかない、その方が幸福だろうなあ。

(20230630記)


2023/06/27

1695【超高齢人生仕舞どたばた】金融機関の口座を解約するのも人生仕舞の面倒事でボケ遅延になる

 超高齢者になって先が短いので、その前にいろいろやることがある。いつかやるときが来ると思っていたが、本当にやってきた。そのドタバタがボケ防止にもなる。
 ネットのこととカネのことが面倒そうだ。とりあえずカネのことで、金融機関との取引を絞り込む、つまり預金通帳の整理である。

 最初に勤務した小さな設計事務所から、曲りなりにも給与が入るようになって(遅延もあった)、初めて口座を持った。それからいろいろとあるたびに預金口座をつくることがあり、なんだかんだと20件くらいの金融機と関係したような気がする。

 今に手元にあるカードと通帳を見ると、Y、M、J.Sの4件だが、ほかのそれをどう始末したか解約の記憶がない。多分それぞれに僅かに預金が残っていただろうが、今はそれらの金融機関あるいは国庫に帰属したのだろう。
 その手元に残る4件のうちでも、預金があって使っているのはYの一件だけ、理由は一番近所だからである。
 実はY以外の口座については、もう3年以上も利用していない。整理してYだけにしようと他の解約手続きに取りかかった。そのドタバタと書いておく。

 まずJを解約に行った。通帳とカードと身分証明書を持って行けば済むと持ったら、印鑑を持ってこいと言われて、第1回は敗退した。
 ながらく使わないからどこに置いたか忘れた印鑑をようやく探しだして、次の日に持って行ったら、待つことなく20分ほどで解約手続きは終了した。意外に早いと思い、その足でMに向かった。

 メガバンクは面倒なようで、信金のJのようには簡単に取り掛かってくれない。あれこれロビーの係員と長々と話し込むこむことになった。よく分からないが、手帳は一つなのに口座が普通預金と貯蓄預金と二つあるらしい。どう違うのか説明を受けて知ったような気がしたが実はよく分からない。もうどうでもよい。とにかく二つの解約手続きが要るらしい。

 そしてここまで来るのにもう30分もかかっている。超久しぶりの銀行のわたしが好奇心もあり、応対に気になることもあり、いかにも年寄りらしいいちゃもん付けたりしたからである。例えば言葉遣い(人間と機械のどちらも)とか。

 そして手続きにはさらに1時間半かかるというのである。いい加減にせい、と腹が立ってきた。
 「先ほどJで解約手続きしたけど20分ほどでできたぞ」「こちらは信金より大きくて大勢に利用者がおられますので、、」「う~む、今日は用事があるから出直してくるよ、ところで解約しないならこのまま使えるのですね、それなら待たなくても済むからそうしますよ」「いえ、それができないのです」「え、なぜ?」
 何年か利用しないと口座をストップするとて、わたしのそれは今は使えないのだと言う。見れば680円の預金があるのに、、。

 ヤレヤレ、もうどうでもいいやとは思えども、このままでは癪なのでどうしようと考えていると、次に来るなら予約すれば早くできると教えてくれた。
 それならそうしよう、今日はここまで進んだのだから、次は残り時間で済むんだなと納得して、次の週に予約をして帰宅した。

 さて次の週の約束に時間に再びMを訪問、今回はすぐにできると思った期待はすぐに外れて、予約で早くなるのは受付だけで、手続きが早くなるのではないという。
 「そりゃ約束が違うでしょ」「いえ、そう申し上げました、こちらの控え手様にもそう書いております」「そりゃ書き間違いでしょ」「いえ、、、」
 大人のはしたない論争は時間の無駄なのですぐに切り上げ、さっそく仕事にかかる。普通預金はそのままで復活するが、貯蓄予期口座の解約手続きが必要とて、また1時間半待ってくれ、その辺に出て外で時間つぶししてくれもよいという。

 「おいおい、ここで待ってても面白いこともないし、家には病人がいるからいったん帰宅して出直して来るよ、何時にくれば良いのか」「1時間半くらい後で、午後3時までにおいでください」「ハイ、もしも明日になってもよいですね」「いえ、明日になるとまたやり直しになります」「エ~ッ、今日なら代理に息子でもよいか」「ハイよろしいです」

 結局15時少し前にまたMを訪問、これで先週から3回目であるが、ようやく手続きは終わった。係の人に手伝ってもらってネットバンキングができるように設定した。遠くになったが、これからはパソコンでやることにするのだ。初めは解約するつもりが結局はこうなったのである。3回も通って面倒だったが、ボケ進行遅延策になったことは確かである。

 Mの店で待つ間に見回していていたら、壁や柱や天井に見えるだけで13個ものカメラのレンズがこちらを監視している。こうやって見回しているわたしを不審な奴だと記録したに違いない。それにしても殺風景極まるインテリアである。

 さて、もう一つのSの口座解約はいまだにできていない。Y駅前にあったと記憶しているSの店を訪ねたら、なんとまあ郵便局に変身していた。
 経営に問題あると噂のS銀行は、日本郵政に吸収されたのか、それならニュースになるはずだが知らない。どこかに移転したのだろうと、駅前を徘徊して探したが見つけられない。あとから思いついてネット検索したら、最近できた駅ビルの17階に移ったとて、これでは街に見つからないはず、出直していこう。

(20230627記)

2023/06/26

1694【能楽鑑賞】三十年ぶりに能「二人静」を観てきた

 横浜能楽堂で能「二人静」(ふたりしずか)を観てきた。この能を観るのは3回目である。最初は1993年2月4日青山の銕仙会舞台での公演で、シテ野村四郎、ツレ清水寛二だった。これが実に強く印象に残っていて、かなり細部まで覚えている。
 実はその時に密かに録音したテープもあり、もう100回くらいは繰り返して聞いている。もう一回はどこで観たか記憶がない。

 今日の「二人静」は、喜多流であった。初めに歌人の馬場あき子さんと古典芸能解説者との肩書の葛西聖司さんの対談があった。というよりも、葛西さんは馬場さんの話の引き出し役だった。葛西さんはむかしNHKTVの古典芸能担当の司会アナウンサーだった記憶がある。

 馬場さんの解説は、これまで何回かこの能楽堂で聞いていて、なかなかに含蓄があり、興味深いものがある。今日も面白かったが、馬場さんの解説の解説が入る葛西さんが邪魔な感もあった。
 ひとつどうも気に入らない彼の言動があった。何かの話の途中で、「ハイ、こちら95歳で~す」と、いかにも歳にしては若いだろうと言外の動作に込めて、笑いを取るのである。
 馬場さんはちょっと見には謙遜している様子にみえたが、あれは明らかに迷惑がっていると、こちらが超高齢者だからよく分かる。年寄りの癖に若くて何がいけないんだよ、大きなお世話だよ、文句のひとつもを言いたいのだ。

 ところで、馬場さんもこれまで「二人静」を観たのは2回だけとのこと、10歳も年上の馬場さんがわたし同じ回数とは、どうでもよいことだが、なんだか近しいと感じる。ということは、あまり演じられない曲であるのか。
 それにしても馬場さんは今95歳だそうだが、その博識や論評はもちろんだが、切戸口からの舞台登場と退場の所作も舞台上の椅子で語る姿勢もキリリとしていて、口調も滑舌であることにただただ見とれる。こうありたいと思わされる数少ない超高齢者である。

 今日のシテの佐々木多門(1972~)もツレの大島輝久(1942~)も初めて観る能役者である。横浜能楽堂の企画で、馬場さんが推した「この人この一曲」であるとのこと。わたしから言えば、能役者よりもこの曲と馬場あき子と組合せを気にいって観に来たのだ。

横浜能楽堂サイトより引用

 能役者の上手下手は、よほどの下手でないとわたしには見分ける能力がない。二人静の見せどころの相舞は、それなりに合致していたのだろうが、良し悪しを言えない。
 このたびの座席の位置が、脇正面の橋掛かりから3列目後方から2列目で、これほど隅っこで観たのは初めてだった。鏡の間の気配を感じるし、登場する役者やその装束をごく近くで見ることができて、それなりに面白かった。

 この席からは舞台を真横で見ることになり、能の見巧者には能役者の所作の良しあしがよく分かるのだそうだ。観られる役者にはいやなものであるらしい。今日はその席で観たのだが、舞台正面に向かった並んで舞うシテとツレのふたりの動きを、真横から観るとほとんど重なっている。ふたりの相舞がぴったりと合致するとほぼ一人に見える。逆に一致しないと、ばらばらに見えることになるが、それをいかに面白がるか。

 多分、基本はぴったりと重なるように舞うべきなのだろうが、実際に見ていると重ならない方が面白い。二人が同じ動きをするのだが、それが微妙に時間差があって位置がずれると、舞台に奥行きが生じてくる。その時、その動きの違いを計測するが如くに観ていると、舞台に深みが生じるようだ。 

 能開演前の馬場さんの、二人静について大昔こんなことがあったとの話のひとつ。
 不仲の師弟の役者がシテとツレを演じた相舞で全く反対の舞をしたという昔人の書き残した話題を述べて、それも小書きになると面白いのに、と笑うのだった。
 やはり正面からあの華やかな装束が二つも舞台に左右に広がって、同じ様にきらめきながら二つ蝶のごとくに舞い続ける姿を観る方が良いと思った。あるいは見巧者になると、脇正面から観てその相舞のずれ具合の美しさを楽しむようになるのかもしれない。

 30年も前に見たシテ野村四郎の「二人静」では、舞台上にいるツレが、橋掛かり途中に腰掛けるシテの動きに操られているように動く、いや、動かされる印象的な場面があった記憶がある。でも今回それはなかったが、そのような演出もあることを、事前の馬場さんの話にあったから、わたしの記憶は確かなものと確認した。

 そういえば思い出した。その野村四郎シテの「二人静」を見てから10年以上たっていたころだが、その謡を習うことになり、ようやく謡本の1級に到達したのだ。
 その稽古の初めにわたしはこの曲の師の舞台を観たことを得意げに話したら、すぐにわたしの一部記憶間違いを指摘された。そうか、観た方よりも舞った方がよく覚えているのは当然だろうが、プロは自分の全部の舞台を細部まで覚えているものなのかと、ちょっと驚いたことがあった。その師もコロナ中に去ってもういない。

能「二人静」(喜多流)   主催:横浜能楽堂主催

私が選んだ訳」 馬場あき子(歌人)、聞き手:葛西聖司

シテ(静の霊)佐々木多門
ツレ(菜摘女)大島輝久
ワキ(勝手神社の神職)大日方寛
アイ(従者)野村拳之介
笛: 一噌隆之
小鼓: 飯田清一
大鼓: 佃良太郎
後見: 塩津哲生  狩野了一
地謡: 出雲康雅、長島茂、内田成信、金子敬一郎
    友枝真也、塩津圭介、佐藤寛泰、谷友矩

 横浜能楽堂は、自宅から近くて都心隠居の身には願ったり叶ったりの所だったが、改装のために1年ばかり休場するとのこと。
 コロナでながらく休場状態だったのにまた休場とて、年寄りにはまことに困る。休場が明けたころには、こちらの足腰が立たなくなっている可能性があるからだ。
 コロナで逼塞させられている間に、年寄りは再起不能になってしまい、まだ動けるし好奇心もある晩年の貴重な時間を奪われてしまう不幸に出くわした。もう取り戻せないのだ。

(20230625記)

筆者の能楽鑑賞記録一覧「趣味の能楽鑑賞瓢論集


1693【外苑再開発騒動】イチョウ並木に導かれる視線の向こうにあるもの

 ●外苑イチョウ並木は不自然だ

 ここに二つの並木道の写真がある。これら両側に並ぶ街路樹はどちらもイチョウである。同じ樹種なのに、こうも姿が異なる。

東京の神宮外苑イチョウ並木 先端が鋭く立ち上がる人工的円錐形
視線の先の記念館に向けて一つに集中する消失点の一点透視図法の配置設計

横浜の日本大通りイチョウ並木 こんもりと繁る自然な姿
これと比べると外苑イチョウ並木の人工性がよく分かる

 街路樹はもちろん植物だから、その生態的に定まっている姿で育つ。枝葉の張り方による外形が最もそれをよく表現するものであり、そのままならばそれぞれ本来の葉張りの形態に育つものである。
 ところが人間はえてして自分の好みの形の葉張りを要求する。そのためには枝葉を切りそこれを剪定して人間が望む姿にする。上のふたつの写真のイチョウの木の姿は、どちらが本来の姿でどちらが人間がつくった姿であろうか。もちろん上が人口の姿、下が自然(に近い)の姿である。

 わたしの生家は神社の森の中にあった。森の一部を切り開いた広場にイチョウの巨樹があった。大人3人が手をつないで抱えるほどの太さで、高さは30mもあったろうか、大きく広く枝葉が繁っていた。秋には金色の実と葉が境内地に舞い散り落ちていた。少年のころのある日、地面を打つ大音響とともに切り倒された(参照:大銀杏が死んだ日:伊達美徳)。
 そのイチョウの大木の姿を思い出せば、あまりの巨樹で剪定しようもなかったから、というよりも広い境内で剪定の必要がなかったろうが、枝葉は自由に左右に空に向かって広がっていた。上の写真の日本大通りのイチョウの姿に近く、外苑のそれではなかった。

 今、神宮外苑再開発事業に伴ってイチョウ並木が枯れるかもしれないと、「あの美しい緑の自然環境を傷つける再開発」のような言説が、世間(といっても東京あたりだけだが)でやかましい状況にある。
 あのイチョウ並木は自然環境であろうか。あの円錐形の姿で行儀よく並び、しかも絵画館に近いほど背が低くなるように先手して、パースペクティブを効かせた姿は、自然とは到底言えない。そうなるには4年ごとに人間が手を入れて枝葉を切り刻んであの形に仕立てる剪定を行うるからである(明治神宮のネット記事)。自然環境には直線は存在しない。

 ちょっと大げさに言えば、あの姿は不自然そのものの表現である。この街路樹群は最初から傷つけられて育つ運命にあるのだ。だからあのイチョウ並木が枯れてもよいのだと、わたしは言っているのではない。街路樹はもともと自然環境ではない。人工で作り出す疑似自然であり、むしろ文化の所産というべきものだ。つまり生態学的な自然とは峻別して、造園学的な人工自然として対応すべきというのだ。

 それに対して内苑の森は、当初の疑似自然から植生遷移を経て、本来の生態的な自然に限りなく近づいているので、外苑の緑とは当然に対応が異なるものである。(参照【神宮外苑あたり徘徊②】2015伊達美徳)

 余談になるが、自然な樹形として円錐形の並木にしたかったのならば、メタセコイヤ並木にすればよかったのである。横浜の大通公園にはその並木道がある。だが、折下吉延がこのデザインをしたころは、造園界にはメタセコイヤが未発見だったから仕方がない。

横浜大通公園のメタセコイヤ並木 自然な姿の円錐形

●外苑イチョウ並木景観を嫌い

 明治神宮外苑といえば、そのイチョウ並木が名所とされてまるで主役の様に言われることが多いようだ。だがそれは寺社で言えば参道であり、その到達目的が本堂や本殿であるように、ここでも明治天皇事績を描く絵画館が主役であり、参道はそこに至る経路に過ぎない。

 その両側並木の形態と配列に導かれる視線の先には絵画館の坊主頭、これはもっとも簡単な一点透視図法の設計であり、誰にも分かりやすい景観が登場して、人々に印象を深く与えるのであろう。この消失点に向かってわき目も振らずに人々を向かわせようとする基盤には、明治国家とその天皇制があることに留意しなければならない。

 わたしはこの一点に集中させる景観の仕掛けが、実は国家と天皇の権威付けのために作られた仕組みであることに嫌悪を持つのである。権威そのものの景観に嫌気がさしてくるのだ。正に国家の掌に乗せられている空間演出である。

 京都から拉致してきた天皇を中心に据えてカリスマ性を与えて王権国家の樹立に成功した明治政府は、明治天皇の死に次いで登場した後継者が全くカリスマ性を持ちえないことに愕然としたに違いない。
 そこであらためて王権の確認を国民にさせるために、王権から神権の樹立へと格上げをしようと明治神宮造営に政府は動き出した。そして内苑と外苑の神権景観が登場した。

 やがて明治神宮や伊勢神宮を頂点とする国家神道は、戦争駆動装置として日本列島の津々浦々まで、そして植民地にも働くことになる。頂点の明治神宮での著名な戦争駆動イベントに1943年の外苑競技場の学徒出陣壮行会があった。
 わたしは小さな町の神社で生まれ少年期までを過ごした体験からも、こういう手に載せられるのをどうにも好きになれない。だが、東京には王権景観を賛美する場所があちこちにあり、それを行政として維持する仕掛けもある(参照【東京は権威主義景観が好き】2014伊達美徳)。

  わたしは国家や戦争に結びついている外苑の景観を嫌いなことを、2013年からたびたびここに書いてきた(参照:【五輪騒動】神社の境内だから・・2013伊達美徳)。ちかごろ似たようなことを言う人をようやくネットで見つけた(参照:「戦前の勤労奉仕がSDGs」という問題発言を考える 2022古市憲寿)

 もうひとつ気になっていることは、「神宮外苑を国民の自主的な任意の献金と勤労奉仕でつくった」との賛美の言説である。国営の神社建設事業が本当にそうであったのか、調べてみたいと思っている。

(20230626記)

この件に関連する筆者のブログ記事一覧
国立競技場改築・オリンピック開催・外苑再開発騒動瓢論集


2023/06/21

1692【言葉の酔時期:紐づける】既に一般普及用語「リンク」linkがあるのにマイナーカードではなぜ「紐づけ」と言うのか?

 近ごろマイナーカード騒動で、しきりに「ひもづけ」なる言葉が、普通に世の中の人々が知っているがごとくに出現するのが不思議だ。わたしはこれほども長くこの世に生きてきていても、つい3年前までは知らなかった言葉であるだ。

 もちろん「ヒモつき補助金」とか「ヤ―サンのヒモつき娼婦」とかの「ヒモ」は知っていたが、いずれも悪い意味である。それが政府の言う重要政策として堂々とヒモが登場するとは意外である。そこからしてマイナーカードのイメージが悪いけどいいのかしら。

これだけたくさん紐をつけときゃいいね

 そのことは2020年の6月に書いている(参照:ブログ記事)から、詳しくはそちらに譲るが、あらためてネット辞書をあちこち見たら、わたしの知る意味のほかに「IT用語」と書いてある。え?、IT用語のヘンなことは重々承知しているが(参照:IT用語オチョクリ辞典)、これもそうとは初めて知った。
 でも奇妙なのは、ヘンなIT用語はたいていは原文のままにカタカナ用語にしてしまうものだ。ところがこれは「紐付ける」なんて、いかにも和語の語感溢れる日本語に翻訳とはねえ、カタカナ語ではよほど不都合なので「紐づける」なんてのを探し出したのだろう。

 そこで「紐付け」と翻訳前の原語のIT用語はなんというのかと、これもネット辞書をあちこち調べたら、なんとなあ「LINK」とあるのだ。
 え、リンクかよ、それならとっくにカタカナ語のままでで、パソコン用語として使っているポピュラー極まる言葉だよ。
 それなのにどうしてこのマイナ―カードだけは、リンクすると言わないで「紐づける」と言うのだろうか、リンクでどんな不都合があるのだろうか、不思議だ。
 まさかパソコンやスマフォ知らない年寄りに配慮したというのではあるまいな。むしろ年寄りのわたしがこんな「紐づけ」を知らないのだから、配慮の意味がない。

 マイナーカードという行政の重要な事業に関わる用語だから日本語にして、カタカナ用語にしないのだと言うのか。「紐づけ」は法律条文にはないが、こんな事例がある。
 最近できた「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」にはもの凄いカタカナ語が出現したぞ。よほどの人でないと知らない言葉だろうに、これが法律名でよいのか。
 ずいぶん前にできた「マンションの建替え等の円滑化に関する法律」では、不動産屋の誇大広告用語がそのまま登場なんて、これが法律名で良いのか。なんだかへんだなあ。
 なお、内閣法制局のサイトには、次のように書いてある。「法文における外来語の使用基準は、その言葉が日本語として定着していると言えるか否かという点にあります。」(→こちら参照) 

 だから「紐づけ」なんてイメージ良くない日本語よりも、既にパソコンで普通に使っている「リンクの方がよほど日本語として定着しているから、今からでも遅くないので政府もメディアも「リンク」と言い直しなさいよ。
 ついでに「マイナーカード」(正しくはマイナンバーカード、略してマイナカード、わたしはわざとマイナーカードという)とは、共同住宅をマンションというほどに珍妙だから、これも岸田内閣のメジャー政策に対応して「メジャーカード」に改名はいかが?

狂歌<カード騒動>

トラブルは次第にメジャーになろうともどれもこれもマイナーなこと

マイナーなゼンダーとカード取り纏めアイデンティティ理解増進法を

(20220621記)