2013/03/07

727津波の日からいまだに海水が引かない被災陸地もある

 
 昨年秋に東北被災地に、小さなボランティア活動に行った。仙石線にのって被災地を訪ね、東松島の惨状を見てこのようなことを書いた。
「地震津波被災地を見て思う」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru

 その記事の初めにこの写真を載せた。2012年11月11日に、仙石線東名駅近くの陸橋から南東方向に向いて、東松島市野蒜洲崎方面を撮っている。
 向こうに海のように見えるのは、実は2011年3月11日の津波から、いまだに居座っている海水である。
 ここから惨状をくみとって調べていろいろと書い たのだった。
ところが最近、ウェブサーフィンをしていたら、なんと、この写真の景色の真ん中の向こうのほうから、こちらにカメラを向けて写真を撮ったY.Oharaという人がいた。
 その写真ページには「許諾不要で自由に複製/再配布/二次利用/改変 OKの自由なライセンスです」と書いてあるので、コピーして拝借する。

 これはY.Oharaさんが2013年1月19日に撮ったパノラマ写真の一部を拡大した。中央あたりに陸橋が見えるが、そこからこちらを向いて撮ったのが、上のわたしの写真である。
 
 Y.Oharaさんのパノラマ写真の全景は下図である。上の拡大写真の陸橋があるあたりは、赤い矢印に下である。
わたしが撮った写真の中央上あたりの水上に建物がみえるが、それがY.Oharaさんの写真の中央にある黒い建物である。

 次の画像に、google earthの空中写真(2012/4/12)で撮影位置を示す。
 この赤色矢印の位置から撮ったのがわたしの写真、黄色○印がY.Oharaさんが撮った位置(推測)である。
 これを見ると、この区域は2011年3月11日の津波来襲から今に至るまで、ほとんど海水が引いていないことがわかる。

 
 そして下図は、津波前の2004年の空中写真である。
 一面に田畑があり、それに連なる集落がある。
 もしも津波前にY.Oharaさんがパノラマ写真を撮っていたなら、今は海面となっているところは田畑がひろがり、そのの向こうに家屋が立ち並ぶ街並みが写っていたはずである。
 
 そして、わたしも震災前に陸橋の上から撮っていたなら、海水ではなくて田畑の風景であったはずである。

 さらに詳しくは、Y.Oharaさんのパノラマ写真ページでどうぞ。
http://gigapan.com/gigapans/121827/
 このページは「助けあいジャパン|情報レンジャー」サイトにある。
http://tasukeairanger.heteml.jp/wp/

(追記)
今日のニュースで、今度はピロティ建築礼賛だそうである。
1995年の阪神淡路震災で、ピロティ建築が軒並みに崩壊、以後ピロティ建築はご法度。
ところが津波ではピロティ建築が効果的とか。津波が股下を抜けて行く。
あちら建てればこちらが建たず、なかなか世の中うまくいかないもんです。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130307/t10013027211000.html

2013/03/03

726震災津波による「災害危険区域」って人柱が建たないと指定しないのかしら

 また3月11日がやってくる。あれから2年、復興はどうなのだろうか。
 わたしが行っていた中越震災復興の長岡市小国町の法末集落の2年目、2006年を思い出せば、全戸避難した住民は7割くらいは戻って暮らし始めたが、まだ道や家の修理をしていた。
 それと津波被災地とを比べても意味はないが、それでもあれを思い出すと津波被災地は簡単ではないだろう。

 昨日と今日の朝日新聞朝刊から2枚の図を引用する。昨日は東北沿岸部の復興状況を示す図、今日は関東各県沿岸部の津波リスク図である。


 

 復興状況図をみていて「災害危険区域」指定の広大さに驚いた。広さを足してみたら1250ヘクタールにも及び、これから指定するところもあるから、もっと増える。
 早く言えば、これだけ広いところが津波で壊滅したということ、津波被害壊滅区域である。
 
 そして今日の関東各県の津波リスク図を見て、考え込んだのだが、要するに今後の津波による津波被害壊滅区域がこのあたりにしっかりとあるという図である。

 東北沿岸部の「災害危険区域」の指定は、大被害が出た後で指定したのである。
 関東沿岸部では、これから大被害が出るのである。そこは「災害危険区域」に指定するのだろうか。被害が出てからでは遅いから、その前に指定して対策をとるのが防災というものだろう。

 たとえば、わたしが住んでいた鎌倉とか、今住んでいる横浜都心とかは、いったん大津波が来たら「災害危険区域」となる資格は立派過ぎるほど備えているように見える。
 だとしたら、津波がやってくる前に指定してはどうか。指定するとどうなるかは、よく知らないが、なんでもそこに住んではいけないってことになるらしい。

 事務所、店舗や工場などは立地できるらしいが、でも、そこにも人間はおおぜいいるんだけど、それはどうしていいのだろうか。学校はどうなんだろうか。
 今の段階で指定したら、不動産業界は大恐慌だろうなあ、あ、そうじゃないか、高台や内陸に移転する人が増えて、災害前特需が生まれるかもなあ。
 災害危険区域には産業施設の立地はできるらしいが、それでもそんな危ないところから企業だって逃げるかもなあ。

 まあ、日本では昔から、なにか政策が大きく変わるのは、外圧と人柱によるものと決まっているから、実際に津波で人柱が建って初めて「災害危険区域」指定ができるのだろう。

●参照
瓢論◆絆を解いて民族大移住時代が来る
https://sites.google.com/site/dandysworldg/jinko-ido
弧乱夢◆地震津波火事原発
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm

2013/02/27

725福島第1原発の現地調査段階の記録映画を今見ると実に興味深い

 おもしろい無料配信サイトにある記録映画を見つけた。
「黎明 福島原子力発電所建設記録 調査編」(1967年 企画:東京電力、製作:日映科学映画製作所)で、「科学映画館」サイトにある。
http://www.kagakueizo.org/movie/industrial/350/

 製作されたそのころは日本が高度成長期にさしかかり、まさに発展途上国に足を突っ込んだ時代である。
 映画の雰囲気が、いかにもそれらしくて、なんだか懐かしくなる。今の若い人が見たら、これは中国の映画だ、と思うだろう。そういえば1950年代のソ連の宣伝映画がこんな感じだったな。

 映画は福島原子力発電所の工事にあたって、現地の地上、地中、海上、海中、空中、上空において、その綿密なる事前調査を行う様子を描く。地震、地盤、大気、水質、波浪などなど、こんなに入念に調査してるんだから安全だよと。

 さて、その中で「津波」がどう出てくるか、注意して聞いていたら、なんと、まあ、たったの一回のみであった。
 冒頭でこの用地の地域をこう紹介する。
数百年にわたって地震や津波などによる大きな被害を受けたことはない
 これだけ、あとは波浪は出るが津波はない。感無量になってくるよなあ。

 それにしても、あの原発用地の元の地形は、海岸からいきなり30m以上もの高さのある絶壁の上にある台地だったのですね。
 それを削って削って削って海岸に平地をつくり、そこに原子炉を置いたのだったとはねえ、、。
  
1966年当時の福島原発用地のあたりは絶壁海岸

映画に出てくる海から見た原発用地あたりの崖

 映画は、このようなナレーションで締めくくる。
かぎりない創造の夢はひろがり、人間のはかり知れない叡智は、輝かしい次なる文明段階へとつながり、今ここにひとつの偉大なる建設が成し遂げられようとしている

 ああ、あの頃、わたしの上に輝いていた未来、あの懐かしい未来は、いま、どこに行ったんでしょうねえ。

 今日の視点でこの映画を見ると、たまらなく面白いですよ(不謹慎ながら)。
 ついでにこれとセットで、開沼博著『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたか』を読むと、おもしろさが倍増しますよ。

●参照⇒地震津波火事原発オロオロ日
 http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2013/02/25

724再び唱える「福島第1原発を世界遺産に登録しよう」

―その登録運動自体が愚昧なる人類の悲劇を後世に伝える            

●福島原発跡の観光地化だって?
 若手の論客やアーティストたちのグループが、「福島第一原発観光地化計画」なる提案をしているそうだ。新聞でその紹介記事をざっと読んで、さっそくそのサイトを覗いてみた。
 サイトを見る前は、たぶん、原発反対運動のメタファーとして「観光化」なんて俗な言葉を使ってるのだろうと思っていた。


 ところが違った。真面目に観光化を考えるらしい。こう書いてある。
「福島第一原発観光地化計画、それは読んで字のごとく、福島第一原発の事故跡地を「観光地化」する計画のことです。…2036年の福島第一原発跡地に、どのようにひとを集め、どのような施設を作り、なにを展示しなにを伝えるべきなのか、それをいまから検討しよう、そしてそのビジョンを中心に被災地の復興を考えようというのが、計画の主旨…」
 そしていかにも建築家というか不動産屋が考えそうな観光計画らしい、俗な絵による提案もある。あら、若い人ってマジメなんだね。


 そこで年寄りも悪乗りして考えることにした。
 なにしろ2036年というと、わたしはそれを体験することは確実にありえないのだから、無責任になるはやむを得ない、という勝手な前提である。
 「フクシマ」がらみで観光というと思いつくのはなんといっても「常磐ハワイアンセンター」である。こう書いて、はてな、今もあるのかなと、さっそく貧者の百科事典ウェブサイトで検索したら、今では「スパリゾートハワイアンズ」と改名していて健在であると分かった。
 ここも石炭→石油へと燃料転換から生まれた跡地の観光化だから、福島第一原発事故による跡地の観光化は核燃料→自然燃料というこれまた似たような歴史をたどるかもしれないという点では、メタファー(暗喩)どころか、実に分りやすい直喩でさえある。


●福島観光ヌックリランド
 さてそれでは、“福島第一原発ハワイアンセンター”はどんなものになるのだろうか。常磐ハワイアンセンターができたころは、リゾートといえばハワイ、いや、リゾートという言葉もまだなかったな、“夢のハワイ”だったからハワイアンセンターだったのだろう。
 今は東京ディズニーランドもある時代だから、ここは「福島原発ランド」なんだろう。いや、もっと直截に「福島原発事故ランド」か、いや「核毒ランド」か、あ、「福島ヌックリランド」がいいか。

この続きと全文は
再び唱える「福島第1原発を世界遺産に登録しよう」
http://goo.gl/kEtO9
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hukusimagenpatu-worldheritage

2013/02/23

723横浜港景観事件(13)サーカス小屋のキリンが見ている横浜新港の観覧車と結婚式場工事

 いま、横浜都心で「木下サーカス」が公演中である。
 その隣のビルの窓から見下ろすと、真っ赤な丸いテントがあり、そのわきに出演動物たちの小屋も建っている。
おや、キリンが野外でウロウロしつつ、首を伸ばして海のほうの景色を見ている。

 木下サーカスねえ、懐かしい、としか言いようがない。少年時代を想い出させる。
 あれは生まれ故郷の町の稲荷神社のお祭りの日だったろうと思う。広い河原にたくさんの露天商の屋台群とともに見世物小屋もいくつか建っている。
 怪しげな蛇女とか首だけ人間とかの小屋もあるが、なんといっても素晴らしいのは大きなテントで堂々たる木下サーカスである。

 テント小屋の裏にまわると動物の檻がたくさんあって、ライオンやら象やらがいる。あたりに立ち込めるその糞尿のにおいも思い出す。
 金網で作った地球儀のような球体の中をオートバイがぐるぐると天地の境目なく走り回る、空中で男女が飛びながら手をつないでのブランコ、あまりに昔のことで、実はこれくらいしか記憶がない。 

 その横浜都心のサーカステントから、頭を港のほうにめぐらす。
 目の下の北仲通りの再開発はとん挫しているらしく、いまだにビルは建たないで、一面の駐車場になったまままである。
 2棟だけ残存している帝蚕倉庫の建物はどうなるのだろうか。

 その向こうの新港地区を見ると、サーカステントにお似合いの観覧車が回っている。
 お、あれはなんだ、おお、そうか、やってるやってる、これが例の景観騒動(世間では騒動でもないが、業界ではね)があった結婚式場の建物工事が進行中であるか。
 鉄骨骨組みが黒々と観覧車のふもとに建っている。これから白い外装がついてくると、これは結構大きい建物であるようだ。

 さてどんな景観が実物として現れるか、そして景観業界がなんというか、世間がなんと噂するか、ちょっと春が楽しみである。

●参照⇒横浜風景、横浜港景観事件

2013/02/17

722戦死者も津波被災死者も犯罪被害死者もひっくるめて犠牲者と呼ぶ風潮に引っかかる

 東日本大震災以来、妙に気になる言葉がある。「犠牲者」である。
 津波に襲われた死者も、テロで人質にされて殺害された死者も、通り魔に刺された死者も、いずれも犠牲者とマスメディアは書く。
 あるいは、これはずっと昔からのことだが、戦争の犠牲者とよくいう。
 ずっとなんだか引っかかっている。死んだ者は誰でも「犠牲」者なのか。

 そもそも「犠牲」とは、なにかとなにかがバーター関係であることがまず前提にあるはずだ。
 Aが有利になるためにBが不利になるのだが、このときBはAの立場を肯定して、やむを得ず、あるいは積極的に自分の立場を選んだ場合に、BはAのために「犠牲」になったというはずだ。

 スポーツの野球に「犠牲打」というプレイがある。
 あちこちの解説を簡単にまとめると「打者はその打撃でアウト(犠牲)となるが、それによって塁上にいる他の走者が進塁し得る打撃を指す」とある。自分はアウトになるのに味方チームの得点へのアクセスを容易になるように導く行為である。

 古典的には、牛などの生き物を神にささげて(生贄)、神の恩寵を得ようとする行為である。
 このとき牛は犠牲になる。もっとも、このとき牛は肯定していないだろうが、それを提供した飼い主が肯定していることになる。

 さて、津波に襲われた「犠牲者」は、何とバーター関係にあるのだろうか。
 津波は天然事象だから、それ自体は何かの目的をもっていはいないから、バーターは成立しない。
 ただし、こういう例では犠牲である。たとえば消防団の人で他人の避難を助けるための活動で、自分が避難に間に合わずにやむを得ずに落命した人である。他の人の命とバーター関係になっている。
 だれもかれも津波の犠牲者として言うのは、どうも引っかかる。

 同様に犯罪による死者は、何とバーターなのか。テロリストのいう目的とのバーターとか、アホバカ通り魔の言う理由とのバーターは成立しないことは明らかだろう。
 戦争の犠牲者という言葉も、どうも抵抗がある。戦争という行為を肯定しているからこそ戦死者を犠牲者というのだろうと、わたしには思えてくるのである。
 フィリピンの山中で非業の戦死をしたわたしの叔父は、あの悲惨な戦いを肯定してはいないだろう。ましてや遺族においておや。

 考えてみるに、近頃はどうも、いわゆる「非業の死者」はすべて「犠牲者」というようになったらしい。
 非業を非難しているつもりかもしれない。しかし、非業と死とはバーターにならないのだ。
 死者を悼むつもりでこの言葉を使うとすれば、使い方を間違っている。
 言葉は世につれて変ることは承知しているが、それにしても、「死者」と「犠牲者」はもっと慎重に使われるべき言葉であると、わたしは思う。

2013/02/13

721朝鮮半島地下核爆発と日本列島地上核毒バラマキはどっちが罪が重いか

 核実験と原発とは関係ないのかしら。
 どちらも原子核の分裂によるエネルギー発生を、装置として使ってるような気がするけど、違うの? 
 核実験はエネルギーを集中させて一気に使う、原発はエネルギーを徐々に出させて使う、こういう違いのような気がするけど、違うの?

 同じものを使いながら、核実験は「核」という言葉を使うのに、原発はどうして「核発電」と言わないのかしら、違うものなの?
 「核実験」はなぜ「原子力実験」といわないのかしら?
 あるいは「原子力発電所」は「核発電所」といったらどうなの?
 核実験で出てくる放射性物質は、福島原発から出てきたそれとは違うものなの?

 いま、世界でどれくらい原発があるんだろうとネットで探したら、こんなサイトを見つけた。
【地図】世界の原子力発電所からの【距離】
http://arch.inc-pc.jp/004/index_12.html


 あるわあるわ、いやまったくすごいもんだねえ、こんなにあるのかあ。お隣の韓、朝、中の各国にもたっぷりとそろっていて、かなりおそろしい。北東アジアは原発の巣かよ~。
 これらがエネルギーも作り出しているけど、同時に核毒ウンコもどんどん排泄していて、今のところその浄化槽はどこにもないから、多分、野積みなんだろうなあ。
 さらにかの発展途上大国では、もっともっと増設計画があるらしい。日本の原発密度を見たら、かの人口大国ではもっともっと必要でしょうね。

 あちらでは今、大気汚染の公害が著しいとのニュースが出回っている。日本が高度成長時代の事件と同じである。
 70年代には日本では誰もかれもがマスクをして暮らしていると、国際ニュースになったくらいである。
 それだけじゃなくて、偽物ブランド、無断コピー商品、安物衣料、安物電器などなど輸出して軽蔑されるって、昔日本がまさにそうだったよなあって、なんだか懐かしいニュースに思えてくる。

 
 で、原発であるが、アメリカとソ連という核爆弾と原発の先進国で原発事故が起きたように、日本もその後を追って原発事故を起こしたのである。
 アメリカの良いことも悪いことも倣って発展途上を抜けだしたと思った日本、やっぱり発展途上の大事故を起こした。

 さあ、次の原発事故はどこで起きるでしょうか。
 日本海や東シナ海の日本の向こう岸あたりで起きそうだなって、だれでも思うよなあ。
 近いうちに核毒まみれのPM2.ってえやつが降ってくるぞ。
 覚悟決めるしかないかもなあ、日本は、え、原爆を持つってことじゃないよ、原爆だろうと原発だろうと原子力だろうと、核抜き3原則でしょうよ。

 でもなあ、これだけたくさん作ったうえにもっと作り続けているのだから、もう引き返せないかもなあ。
 今に人類は自分がつくりだした核毒ウンコに埋もれて野垂れ死にするしかない、そう思えてきた。
 そのまえにこちとらは人間おさらばしているんだから、知ったことか、って言っていいのか、これって違うか?

(追記130219)
 先般、核発電装置(原発)の地図を発見してのせましたが、もっと探していたら、なんと核爆発の世界地図が見つかりました。
 地球上での核爆発の実績は、1945年から1998年まで、実に2054回、この後もまだやってるから、核発電装置とあわせて、いやはや、核の毒にすっかり侵されてしまった地球です。
 アーチストのさくひんだけあってメッセージ性のあるデザインです。
「"1945-1998" by Isao Hashimoto」
http://www.ctbto.org/specials/1945-1998-by-isao-hashimoto/

 

2013/02/12

720それにしても安倍さんにどうしてこれほど支持があるのだろう

 マスメディ屋さんたちがそろって安倍内閣支持率の世論調査。
 高い順に書くとこんな具合。
76.1%:TBS系(JNN) 2月11日(月)
71.0%:読売新聞 2月10日(日)
・64・5%:産経新聞社とFNN 1月26、27日
64・0%:NHK 2月12日
 なんかよくわからないが、いつも出だしのあたりは期待もあって支持率が高くなる傾向がある。調査方法にもよるのだろうが、ずいぶん差があるものだ。
 
 それにしてもどうしてこれほど支持があるのだろうか、安倍さんに。
 安倍さんになって起きたこと、株高・円安になっている数字だけはわかる。
 これをどういうわけか、アベノミックスと言うらしいが、株と円がミックスしてサンドイッチになってるのか。そういや昔、レーガノミクスってのがあったな。

 まあ、ミックスサンドでもミックスジュースでもよいが、景気がいいのは株屋と輸出屋だけで、株もなければ売るものもないこちとらには、な~んの関係もない。
 円安で海外旅行にも行けない。そのうちに円高になって旅行代金が安くなったころは、こちとらはヨイヨイになっていて、行きたくとも行けない。

 このところ大陸や半島あたりの国との関係で変なことが起きるたびに、それみろ、だから軍備拡大だ、軍隊派遣だ、憲法改定だとかって、政界も世論も安倍流に下司に盛り上がるのも支持率アップになってるんだろうが、それってかなり気味が悪い。
 

2013/02/11

719TV嫌いネット好きなわたしは浮世離れしすぎた年寄りだろうか

 NHKの研究所が毎年やっている調査らしいが、TVの見方について結果を発表している。
 世の年寄りはどう回答したのか興味あって、その中の一部をここに引用する。
 「あなたが欠かせないメディアは何か」という問いへの回答である。
まず、わたしの属する階層の「男70歳以上」では、どんな回答かしら?
 あれまあ、70パーセントもがTVを見なくちゃいられないよって、そんな回答をしている、驚いたなあ、ほんとかよ~?
 そしてまた、ウェブサイトはゼロであるらしいのには、もっと驚いたのである、まさか~?

 こうなるとTV嫌いでほとんど見ないし、ウェブサイトにかなりハマッているわたしは、つまり要するに、あまりに浮世離れしているってことになるのか。驚くこっちがおかしいのであったか。

 そういえば、FACEBAKAに書き込むのは、どいつもこいつも年下のやつらばかりかりだなあ、こちとらイイトシして恥ずかしいなあ、、。
 こりゃ、どうすればヒトナミの老後を過ごせるのかしらと、考え込んでしまうよなあ。
 せめて紙の新聞でも読んで、年寄仲間に入れてもらうしかないのか。
 でもなあ、ウェブサイトいじりは、庭いじりよりもボケ防止になると思うよ。
 そのうち老人ホームに入ったら、ウェブサイトいじりしようにも、そんな設備ありませんて言われそうだな、う~む、もっとボケが進むぞ。

 では若い奴ら「男16~29歳」の回答を見ようか。
 ウェブサイトが31パーセントで年代別ではいちばん多いが、意外に少ない感もある。
 驚くのは、たった2パーセントしか新聞に関心を示さないことである。これからは新聞は生き残れないのだろうなあ、だからせっせと電子新聞に切り替えろって宣伝してるんだな。でもそれって自分で自分の首絞めてるような。

 全体を俯瞰すると、活字メディアの新聞が、年齢とともに関心度が上がるのに対して、意外なのは本・雑誌・マンガが年代による大差がなくて、しかも少ないことである。
 男も女も50歳代になるとTV大好きになるようだ。これって、TVが普及進行する時代の世代であるような気がする。そこから下は普及しつくして、あるのが当たり前時代の世代だろう。

 ウェブサイトは、ただいま普及進行時代だから、このあとTVと同じような足跡をたどるのだろうか。
 今とは違うメディアが登場して、ウェブサイトを駆逐するとしたら、それはなにだろうか見当もつかない。
 まあ、かつてのTVもインタネットも今日ほどになるとは見当つかなかったのだから、わたしごときでは考え付かないのは当たり前だ。
 それに、そんなものが出てきたころは、こちとらはとっくにこの世に関係ないんだな、、、知ったことか、、。
 

2013/02/09

718茅ヶ崎美術館で村越襄+鈴木薫展を見て64年五輪ポスターは村越作品と知った

 茅ヶ崎美術館で開催中の二つの展覧会『村越襄 祈りのデザイン:蓮華幻相』と、『鈴木薫 作品展「蓮の肖像」』にいってきた。この二つの展覧会は密接な関係がある。

 村越襄(1925~96)は、1964年東京オリンピックのポスターのデザインをした人である。あの有名なポスターである。
 このポスターについては一般には亀倉雄策ばかりが有名だが、村越等と協同制作であると、わたしは初めて知った。
 村越は広告業界で写真を使ったデザイナーとして先駆者的な存在であり、有名写真家の早崎治、篠山紀信、吉田忠雄などと仕事をしていた。
 鈴木薫はデザイナーであるが、村越のもとで写真も撮っていた。

 村越は晩年、自分自身の作品を作るにあたり、蓮の写真をモチーフに選んだ。 
 その『蓮華幻相』として発表された作品の根源テーマは仏教思想にあって、般若心経と往生要集を元にする文章と、お釈迦様につきものの蓮の花や葉の画像との組み合わせである。
 いわば鈴木の画と村越の賛による構成であるが、実は両者は渾然一体となったアートである。

 こう聞くと、いかにも抹香臭くて敬遠したいが、実際に現物を見るとその密度の高いデザインの迫力に圧倒される。
 そのあまりにも迫りくる力を、経文と蓮の花が和らげてくれるとさえ思うのだが、その蓮さえも枯死しつつあるものさえあるのだ。
 『蓮華幻相』シリーズは、鈴木の撮影した蓮の写真の上に金や銀の箔を置き、経典の文字をレイアウトしてゆき、5年もの歳月をかけて完成したと、協同制作者の鈴木はいう。

 美術館で求めてきた図録も鈴木のデザインだが、ここにあらためて鈴木による構成、レイアウトされた作品を見ると、特に『蓮華幻相』の見開き絶ち落しは、また別の迫力があって目が離せない。
 実は図録にある解説をまだ読んでいない。読むとなにか影響されそうなので、読むまえに感想を書いた。

 『蓮華幻相』のために鈴木が撮りだした蓮の写真が、鈴木のデザイナーの延長上にある写真家としてのライフワークになっている。能の舞台写真もライフワークである。
 その蓮の写真だけを展示したのが「蓮の肖像」展である。平面が8角形の展示場の出入り口を除く7面に、各三枚の巨大な写真を天井からつりさげた和紙にプリントしてある。

 8角形の会場の中央に立ってぐるりと八つの花弁のごとき展示を見回すと、蓮は蕾、花、枯花、緑葉、枯葉など様々な姿を見せてくれていて、これはまさに輪廻転生である。

 村越・鈴木の『蓮華幻相』は一枚一枚が迫力をもちしかも連作として問いかけてくるのに対して、鈴木の「蓮の肖像」は展示空間を文字通りに「蓮の台(うてな)」に仕立て上げ、そこに輪廻転生の時間を見せようとしているのである。

 この二つの展覧会が同時であればこそ、このような興味深い見方を思ったのであった。
 この展覧会は2013年2月24日まで、茅ヶ崎美術館で開催中。ぜひお出かけあれ。

http://www.chigasaki-arts.jp/museum/exhi/2012-1209-224-murakoshi.html

2013/02/06

717あまり浮世離れしすぎてもいけないので代官山に行ってきた

 
 わたしは浮世離れしていると、天野祐吉さんに決めつけられてしまった。
白戸さんちが引っ越すという。こう聞いただけで分かる人はテレビの見過ぎ、わからない人はかなり浮世離れした人だが、ま、どうでもよろしい。(以下略)」(「CM天気図・白戸家の引っ越し」天野祐吉 2013年2月6日朝日新聞朝刊)

 TVのコマーシャルのことらしいが、TVを観ないし、たまに見てもコマーシャルになるとすぐに他の局に替えるから、知りっこない。
 これでおまえは浮世離れといわれては、へえ、そうでございますか、まさかそれほどでもないよ。
 天野祐吉のこのコラムは愛読者だし、辛口をうまくおっしゃる口ぶりをいつも学ぼうとしているが、まさかわたしがその辛口の相手になるとは思わなかった。

 浮世離れしすぎてもいけないので、昨日、東京目黒の代官山に行ってきた。今はなにやら先端的な街になっているらしいのである。
 行かなくても差しつかえないけど、無理に用事をつくって見に行ってきた。

 わたしは昔の代官山もちょっと知っている。
 大地主の朝倉家がヒルサイドテラスなる開発をする前の、この旧山手通りの緑が豊かな街並みの記憶がある。その写真も撮ったのだが、今探したけれども見つからない。
 そのかわり、開発初期の1975年の写真が見つかったので、ここに載せた。昨日とった写真と比べると、ほとんど変わっていない。
   1975年 ヒルサイドテラスの風景

   2013年 上とほぼ同じところの風景

 1975年にヒルサイドテラスを訪ねたときのわたしの感想は、なんとまあ、あの豊かな緑が無くなって真っ白な箱建物ばかりになったもんだ、いくら有名建築家の設計だといっても、こんなにハゲハゲになるのがよいのかしら、というものだった。
 いま、その昔の緑の豊かさの名残は、開発された旧山手通りから裏に入った南の斜面に見ることができる。ここも朝倉家の土地だろう。
 空中写真でこのあたりの移り変わり状況を見よう。

   戦前の1936年(国土地理院)

 戦後初期の1947年(国土地理院)

ヒルサイドテラス開発初期の1975年(国土地理院)

   1997年(google earth) 
   右上に同潤会代官山アパート再開発事業の敷地整備中

    2009年(google earth) 
   蔦屋書店はこの後に左上の空き地にできた

 そして今、旧山手通り沿いは、緑豊かなお屋敷の風景は消え去って、白い箱の建物が次々と並んでいる。
 それらの建物群が、ある一定の枠の中にあるデザインであり大きさなので、それが街並みの気持ち良さの原因であろう。それは開発オーナーの考えであるだろうし、地区計画がそれを支えている。
 そして開発オーナーが独自の考えをもっての用途構成も、代官山というブランドを作り上げているようだ。若い女性が多いのは、そういうターゲットなのだろうか。

 最近の開発の評判は、「代官山 蔦屋書店」であるらしいので、昨夜はそこで3時間ばかり過ごした。そのうち2時間はレストランでの打ち合わせだから、正味は1時間である。
 だが、面白いことにレストランやら書店やら分からない場所での打ち合わせであったことだ。図書館の中にレストランがあるような雰囲気なのだ。

 ジャンルごとに囲われたフロアの売り場があり、そのジャンルごとに店員のテーブルがあって、まるで図書館のレファレンス係(蔦屋ではホテル並みにコンシェルジェと言っている)のようである。蔦屋だからもちろんディスクもある。

 おやっと思ったのは、古本も置いてあることだ。
 新書と古書の両方が混じる本屋か、なかなかやるもんだ。
 あっ、まてよ、もしかしたら全部古本かもしれないなあ、、う~む、やるなあ。

 この書店は、全体に本屋というよりも開架式図書館の雰囲気である。本を売っている図書館といってもよい。テーブルや椅子もたくさんある。CDの試聴も自由である。
 これはなかなかよろしい。なにしろ、立ち読みならぬ座り読みしながら、コーヒーでもサンドイッチでも食ってよいのであるらしい。

 わたしが近くに住んでいたら、毎日ここにやってきて、そのへんの適当な本を抱えて座り込んで一日中すごすことができる。本は買わないのだ。
 もっとも毎日やってると気が弱いから買わざるを得なくなるかもなあ。

 レストラン、喫茶店、コンビニエンスストアも一体的に併設されているから、昼飯も食うことができる。どこの書店でも飲食お断りが普通の世の中で、これは意外であった。
 わたしがそうしたいと思うように、おおぜいの若者があちこちの椅子テーブルの座り込んで、本を読み、モバイル機器を操り、飲食をしているのであった。

 かなり実験的である。おいてある本も、わたしは好感を持ったが、かなり偏っている。どこかマニアックでさえある。売れるのだろうか。
 余計な心配だが、そのような書店が経営的に成り立つものだろうか。
 このあたりのことに詳しい知人に聞いたら、非上場会社オーナーの趣味に近いらしい。蔦屋というブランドの実験店なのだろう。
 昔々の京橋丸善の、洋書+バーバリー+ハヤシライスという古典的スノッブ取り合わせの、現代的翻訳が代官山蔦谷書店かもしれない。
 代官山は先進的、実験的な事業をしやすいところなのだろうか。

 先進的で思い出したが、この地には戦前の実験的・先進的な住居群があった。
 代官山同潤会アパートである。いまは再開発事業で超高層ビルと店舗群に建て替わったが、そのプラニングやデザインの先進性は有名であった。
 1975年に写したその風景を載せておこう。


2013/02/05

716こないだ勘三郎が逝ったと思ったら團十郎までも死んでしまった

 あれあれ、團十郎までも死んでしまった。こないだ勘三郎が死んだばかりなのに。

 で、ちょうど歌舞伎座建て直し中だから、もしかしたらこの建て直しが祟ってるのかも。
 なんて冗談を書こうとしたら、なんと筒井康隆が「偽文士日録」2月4日版に、「歌舞伎座を改築するときにちゃんとお祓いしなかったからいけないのではないか」なんて書いている。
http://shokenro.jp/00000882

 それにしても團十郎家は、薄命の家柄らしい。父親の11代目も役者にしては早逝だったといってよいだろう。美人薄命才子多病のたぐいか。気を付けようっと、あたしも、、、  ?。

 で、歌舞伎座である。4月のコケラ落し興業のサイトを見ると、團十郎の名が第1部と第2部に上がっている。
 差し替えてだれになるのだろうか。主役が突然いなくなって、松竹も困ってるのだろう。

 その建物の外観はどうやらでき上がったらしい。さて、5代目歌舞伎座はどんな姿になったか?
 え、なんだ、結局のところは、建て替え前4代目と同じ格好かよ~。石原慎太郎に風呂屋みたいってさげすまれたあの形である。風呂屋が怒ってるだろうが。

 建築家隈研吾も大資本が支配する伝統芸能の世界には、個性を持ったデザインで切り込めなかったのか。なら、なんで隈さんが必要だったのだろうか。
 超高層ビル(丸の内ビル群を見よ)と古典コピー(三菱一号館美術館を見よ)なら、三菱地所で十分どころか隈さんより得意だったろうになあ、なにかあったんだろうなあ。

 もっとも、隈さんてひとはどんなデザインもできますって器用な人らしいから(昔々、エーロ・サーリネンがプレイボーイアーキテクトと言われたみたいに)、別にモダンデザインじゃなくてこれでもやりたかったのかもしれない。

関連→093歌舞伎座の改築
http://datey.blogspot.jp/2009/02/blog-post_04.html
 

2013/02/02

715うちの本棚にある未読数とわたしの余命数とが釣り合ってきたようだ

 暮れと正月の閑な日々(実は毎日ヒマだけど世間なみに格好つけて)に読む本を、伊勢佐木町有隣堂の地下売り場で探していて、Jeffrey Archerの新作らしいペーパーバック2冊を見つけた。アーチャーの小説はこれまでほぼ読んだ。
 どっちか一冊でいいやと、安い方「Only Time Will Tell」を買ってきた。あまり面白い出だしではなかったが、途中から面白くなって最後の450ページまで一気に読んだ。

 ところがなんと話は終わらなくて、「The story continues in THE SIN OF THE FATHER」と書いてあるのだ。
 ここで主人公はイギリスからアメリカにわたり、ちょうど窮地に陥っている。どうなるか気にかかるところである。続巻が図書館にあるかと探したが、ない。

 しょうがない、正月が終わってまた有隣堂に、このまえ高くて買わなかった「THE SIN OF THE FATHER」を買いに行った。
 さて、主人公は窮地を脱してイギリスに戻り、またもや難題に直面、さてどうなるかと最後429ページ、ああ、またもや「 The story continues in REST KEPT SECRET」ときたもんだ。今年3月出版だってよ。
 もうういいや、これまでのアーチャーの作品と比べて、大して面白くもなかった。
 その間にジェフリー・ディーバーの新作を図書館で借りて読んだが、アーチャーのほうがだんぜん読みやすい。わたしの英語力ははまだちょっとたりないが、三文小説だから何とかなる。
 ケン・フォレットも読みやすい。フォーサイスはちょっと面倒だがまあまあ。イギリス作家の英語のほうが読みやすいのはどうしてだろうか。

 この数年前から、本は買うものではなくて、図書館で借りるものとしたのである。
 もうどうしても今すぐ読まなければならないような本があるわけもなし、金ももったいない、本棚の余裕もないし、というのが理由。

 その上、うちも本棚にはまだ読んでいない本がいっぱいあるし、読んでいたとしても忘れている本が山ほどある。これを片端から読めば死ぬまで続くと、ようやく気が付いた。つまり未読本の多さと、余命の短さとが釣り合ってきたということである。
 いっぽうで、もう読む気のない本がいっぱいあるのだが、これをどう処分するか。処分も金がかかる時代になったからなあ。

 ただいま図書館納入待ちのペーパーバックは、ケンフォレッの20世紀三部作の『Fall of Giants』 (2010)の第2巻『Winter of the World』である。まだかなあ。

●関連
182 Japanese knotweed
http://datey.blogspot.jp/2009/09/182japaniese-knotweed.html
535 千ページ英語小説一気読み
http://datey.blogspot.jp/2011/11/535.html

2013/02/01

714新聞がそのデジタル版広告を載せて購読料を取るのはけしからん

 今日の朝日新聞夕刊に2ページ見開きで、デジタル版新聞の広告を載せている。
あのなあ、それっておかしいよ、新聞に新聞自身の広告を載せるのなら、その分の新聞購読料を負けなさいよ。
 それもたまになら許せるが、最近しょっちゅう朝夕刊ともにその広告が載る。

 ほかにいっぱい広告があるのを我慢しているのは、その広告の掲載料収入でで新聞社の経営をしてるのだからと思っているからだよ。
 それがあんたのところの広告が2面も占めてるは、その分、広告料が入らなくても経営できるんだってことでしょ。
 ならば購読料をその分だけ引きなさいよ。

 さらに気に入らないのは、どう見ても広告そのものであるのに、「全面広告」って記載をどこにもしないで、一般記事を偽装していることだ。
 一般記事だから購読料の対象だって言いたいんだろうが、そりゃおかしいよ。

 さて、新聞がデジタル化して、紙でなくなるって時代はすぐ来るだろう。新聞が紙であったことが忘れられるだろうから、今のうちにそのことを書いておこう。

 昔々、新聞がまだ紙だった頃のことだとさ。
 新聞は、弁当の包装紙だった。うん、結構保温能力があるので便利だったし、弁当を食べるときに読んだものだ。
 新聞は、畳の下に敷く湿気防止用紙だった。大掃除の時に畳をあげてそとに干すのだが、つい古新聞を読んでて怒られるのであった。
 新聞は、八百屋の包装紙だった。野菜の大きさに対応して、いろいろに包んで売ってくれたもんだ。
 新聞は、便所の尻拭き紙(トイレットペーパーの正式名称)だった。家庭の大便所の中には、きれいに切りそろえた新聞紙が重ねてあったもんだ。あのころ日本人は肌が丈夫だったんだなあ。
 
 新聞は、保温材だった。大学山岳部のころ、雪山でのテントの中で寒さに対抗するには、ヤッケの下に新聞を着ると暖かいのだ。動くとガサガサやかましかった。
 新聞は、蠅たたきだった。丸めてバシンと打つ。あ、いまでもゴキブリにそうやってるな。
 新聞は、飛行機だった。大きな折り紙飛行機を、2階の窓から外にふわふわと飛ばしたものだった。そういえば、折り紙の兜も新聞の大きさだからできた。
 新聞は、薪を燃す焚きつけだった。風呂も焚火でも野営場の炊事でも、薪に火をつけるには新聞紙を軽く丸めて下のほうにおいて火をつけるのである。これは今もそうだろう。

 デジタル化するとこれらの使い方は出来なくなるのが寂しいが、でも、もうどれも過去のことばかりになっている。
 今じゃあ新聞紙を毎月のゴミにして出している有様だ。
 デジタル化すると、寝ころんで読むのは、まあ、携帯型あれやこれや電子機器でできるから紙新聞と大差はないだろう。
 寝ころんで天井に投影して読むと、手がつかれないだろうなあ、そういうのあるかしら。
 今にわたしもそうするときがくるだろうが、まだしばらくは紙で過ごそう。

2013/01/31

713スポーツ競技はもとが暴力行為だから指導者が暴力ふるって当たり前かも

 このところ運動競技に関して、その指導者が暴力をもって運動方法を教えているとて、その暴力でいじけた教え子が、自殺したり、上部団体に集団で哀訴したりして、事件になっているらしい。

 報道屋は面白がってケシカラン、政治家も尻馬に乗ってケシカランと合唱、運動団体の役員さんはお決まりのお詫びお辞儀記者会見。
 
 まあその通りだけど、どだい体力勝負の運動競技ってのは、もともと暴力沙汰である行為を、運動競技っていう一見きれいごとに仕立てたものである。

 柔道、相撲、拳闘、レスリングなんて格闘技の試合は、その典型的なもので、つまり喧嘩ですな。
 ラグビー、サッカー、ホッケーなどの試合は集団暴力行為、つまりデイリですな。
 これらが暴力でないなんて、チャンチャラおかしい。

 その競技の指導者とか監督なんてのは、つまり暴力方法にたけた人であるだから、教え方も暴力になるのが当たり前だろう。
 暴力の使い方を教える人に、暴力を使うなって言っても、そりゃ無理というもんでしょう。

 運動競技の世界には、もっとひどいこともある。
 銃による殺人事件が起きて社会問題になっているのに、ピストルやライフル等の銃砲を使った運動競技が平然と存在するのだ。
 平和の祭典なんてキレイごとを言っているオリンピックにさえあるのを、誰もおかしいと思わないのかしら。

 ところで最近はシゴキって言葉はないのかしら。わたしが高校や大学で運動部にいたころは、そういったものだ。
 例えば、山岳部では体重ほどの荷物を背負って歩いて疲れ果て、アア、今日はシゴカレタ。
関連:156昔山岳部
http://datey.blogspot.jp/2009/07/156_18.html

2013/01/30

712日暮里富士見坂から半身不随の富士山と満身創痍の都市風景が見える

 東京日暮里に富士見坂なる名前の場所がある。
 その名の通りここから、まだ富士山が見える。でも、そのうちに見えなくなる予定であるらしい。富士見坂と富士山との間にビルが建つからである。

 その富士見坂に、今日、大勢の見物人がやってきたそうだ。
 ここから見る最後になるかもしれない富士山頂上に沈む太陽を見るためである。まったく暇な物好きな人が多いものだ。
 なにもわざわざ日暮里まで行かなくても、太陽は毎日沈んでいるのだから、毎日どこかで富士山頂上に沈む太陽を見ることができる。今日に限らなくってもよさそうなものを。

 なんていうと怒る人がいるだろう、何をバカなことを言っておるか、富士見坂から見るから価値があるのだと、。
 でもね、「山あて」の道や坂はどこにでもあるよ、ここだけじゃないと思う、富士見坂ってのは、。
 で、ウェブサイトを見たら「東京の富士見坂」というのがあった。
http://www.t3.rim.or.jp/~kuri/fujimi/
 ここにも物好きな人がいて、都区内18か所の富士見坂を訪ねて、富士が見えるかどうかを確かめている。
 なんと富士山が少しでも見えるのは、たったの3か所だそうである。

 つまり日暮里の富士見坂におおぜいのヤジウマがやってきたのは、坂の名前に由来する風景が見えなくなるという噂に、ちょうど今日が太陽がてっぺんに沈むという現象とが重なった貴重なチャンスということだろう。
 で、その富士見坂から富士山をみえなくするビルが建つことに関しては、その眺望の消滅を惜しむ人たちにが建設反対運動を粘り強く続けているらしい。
 今日、ダイヤモンド富士を見に来た人たちは、もちろん、ビル建設反対運動をしているのであろう。

 ただし、そのビル建設を法的規制することは不可能だろう。今すぐできることは、だれか奇特な金持ちがそのビル用地を買い取ることしかなさそうだ。
 そのような奇特な人がいたとしても、富士見坂から富士山まで視線上にある土地あるいは視線を妨げる範囲の空中権を全部買い占めなければ、今後も同じことが起きるに決まっている。
 では、法的制限方法はあるか。都市計画でそれを決めることは法的には可能である。
 ただし、その制限受ける範囲の地権者や関係市町村の市民の意見も聞かねば決められない。さてそれは、どれだけのおおぜいになるのだろうか。

 ほかの富士見坂でも、こんな富士山夕陽見物とか眺望消滅反対運動が起きたのだろうか。それとも、誰もなにも言わなかったのだろうか。その違いはなんだろうか。
 かつての高度成長バンザイの貧乏な時代を抜け出て、景観にも目を向けるよう豊かな時代になったということだろうか。

 だが、それもなにかおかしい。日暮里の富士見坂から富士山の方向を見る風景写真は、ウェブサイトにたくさん登場する。
 それらを見てわたしが奇妙に思うのは、もはや富士山は左肩(右肩か)を失って半身不随、そしてその富士山を取り巻く都市風景は満身創痍であることだ。都市風景についてはだれも何も言わず,富士山が見えないことだけを言うのは奇妙である。
http://www1.ttcn.ne.jp/fujimizaka-hozen/shinnookubo/20111007-1.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/07/96d0fae037f5d656083f8876db406c03.jpg

 いやはや、この日暮里富士の頂に夕陽の光背が輝けば、これは片翼を失った鶴が掃き溜めで昇天するの図である。

2013/01/23

711インフラ整備インフレ政策インフルエンザ流行で残るはインフリとインフロか

 ただ今の安倍政権は、日本にインフレを招く経済政策を採用するのだそうである。
 インフレね~、インフレというとまず思い出すのは、1940年代後半の太平洋戦争直後のころである。44年から49年までの消費者物価はなんと100倍になったそうだ。 今持っている1万円が10年後には100円になるのか、。
 わたしが大学生の1950年代の後半、山手線の1駅は10円、今は120円かしら、半世紀ほどで12倍である。10年で100倍はすごいものである。

 戦争直後インフレ時代に小学生だったわたしは、家計のことはわからないが、義務教育費は無料ではなかったから、父母がわたしにもたせる教科書代や給食代などに悩んでいた。
 なにしろ毎日物価がどんどん上がるのである。持って来いという教師も悩んでいただろう。
 対策として新円切り替えというのもあった。新札を出して旧札を使えなくするのである。その効果は知らない。

 戦後すぐの大改革に農地解放があった。大地主が小作人に耕作させている農地を、政府が強制買い上げして小作人に売り渡したのである。わたしの生家の神社の農地がまさにその対象になった。
 いくらで買い取られたか知らないが、年賦で支払われる債券(というのだろうか、切り取り式切符のようなもので、毎年の支払い額が書いてあって、銀行に持って行って現金に替えた)は、大インフレでたちまちにして紙くず同然となった。

 戦後は小作米が入らなくなって、その日の食うのにも困った。神社境内は芋畑になった。育ちざかりの息子3人を抱えて、親は大変だったろうと思う。
 この農地改革とインフレが、腹ペコ少年だったわたしの戦争への恨みになっている。食い物の恨みは怖いよ。今、その農地は住宅地になっている。
 長じてのインフレ記憶は、オイルショック後1974年の狂乱物価である。あまり実感がないのは、食い物の恨みになっていないからだろう。

 ブラジルは今は安定した経済の国になっているが、1980年代半ばからの10年ほどはものすごいインフレ国であったそうだ。
 わたしが訪ねたのは1990年で、インフレ時代の低額の紙幣は、1枚では紙くず同然で使いものにならない。そこで20枚とか50枚とかまとめて丸めてゴムひもでくくり、まるで硬貨のように通用していた。中身枚数が足りているかどうか誰も気にしないのが、おかしかった。
 ドイツでは第1次世界大戦後に猛烈なインフレで、日常の買い物もベビーカーに札束を載せていったとかいう話がある。

 さて、今日ただいま日本はインフレ政策だそうである。庶民にはインフレは生活の恐怖としての記憶しかないから、え~、なんでインフレ~なの~?、ってなもんである。
 物価上昇に収入が比例すればよいけど、そうじゃないとどうすればいいのか。

 さしあたりの心配は年金額である。2か月ごとの年金の受取り時点の物価上昇に合わせて上昇してくれるんでしょうね。でもねえ、どうせ役所仕事の常として手続きは1年遅れになるんでしょ。このギャップをどうしてくれる。

 インフストラクチャ強靭化とて金をかけるし、インフエンザは流行するし、インフーション進行に力を入れるし、あと残るはインフとインフ、ってか?

2013/01/22

710今年も年賀状ではなくて寒中見舞いを110枚に絞って書き送った

 今年の年賀はがきのくじ引きで当たったのはたった3枚、しかも最下等であった。
数年前から年賀状に替えて寒中見舞いにしている。年賀状は昔から出していたが、一番多い時は500枚くらいになった。それでも、もらう方が多かった。
 仕事を辞めてしまってから出す先を減らしていった。出す先をやめる基準が難しい。
 寒中見舞いに替えた次の年からかなり減った。向こう様もやめるタイミングを計っているのだろう。
 なかには宛先チェックしないで、機械的にプリントして出すらしい会社名義のものもあり、こちらがずっと出さないのに、いつまでも続いてやってくる。

 ちかごろ、いただく年賀状のなかに、これでおしまいにします、とかいてあるものが混じるようになった。年末にはたくさんの喪中欠礼状がくる。そういう年頃である。

 100枚以内にする方針であるが、今年は110枚になった。
 で、今年の年賀状の標準がこれで、相手によってそれぞれバリエーションになっていく。こんな物騒なことは賀状には不似合いだから、寒中見舞いでちょうどよい。

寒中お見舞い啓上
 この冬も北国は大雪、大地震と大雪は連動するようです。今年も豪雪の法末集落の小正月行事「賽の神・初釜茶会」に行きました。震災復興支援からもう8年目になります。
 昨秋、宮城県沿岸部を震災復興支援の小さな活動で訪ねました。荒涼たる津波被災の各地で、海辺の平地を居住禁止にして、台地上に移住する復興事業が進んでいます。
 重大なことに気がつきました。わたしの住む関東から西の太平洋沿岸部でも、確実に起こりうることです。今から事前津波被災復興事業をやるべきと思います。
 それをやっても太平洋岸の住人たちは不安で、内陸に移住して行き、海辺の街はしだいに空洞化するでしょう。だがいったいどこに移住すればよいのでしょうか。 
 どうせ移住するなら、海辺・火山・原発・軍事基地から遠くて地震も水害も少ない街にしたいものです。でも、そんな受け皿地域が、日本にあるのでしょうか。
 わが横浜都心はもろに津波が来ます。でももう歳が歳だからどうでもよいのです。遊べる体力あるうちに遊んでおくことにします。●●さんのお住まいは大丈夫ですか。
 当方は身体は元気ですが、言われて気づけば今年は喜寿とて仰天、会合や飲み会に出かけると年下ばかり、FACEBAKAをやると書き込みは年下ばかり、さすがに観念しました。
 今年もお元気でご活躍されますように期待しています。

2013年 1月の寒さの最中

●●様 

2013/01/20

709巨人大鵬卵焼き、阪神柏戸カレライス、江川ピーマン北の湖、東電橋下ノロウィルス

 大学の学生食堂のTVが、大相撲中継を映している。
 相撲取りにしてはスマートでしかもイケメンの若い男が立ち上がった。ほ~、こんなのもいるんだ。
 その若者は相手を押して押して土俵際、相手も徳俵で頑張る、その瞬間、相手の両脇にさしていた両腕をすっと抜いてその両手でどんと相手の胸を押した。途端に勝負あり。
 へえ~、あんなきわどい瞬間にそんな芸当ができるんだ、すごい。

 これがわたしがはじめて見た大鵬であった。
 1958か9年あたり、大学食堂で遅い昼飯を食っていたのだから、大相撲もまだ番付が下位の取り組みである。
 だから後の大横綱大鵬が、幕内に登場したての頃だろう。わたしは相撲好きでも何でもないのだが、その勝負のTV映像は奇妙に印象に残っている。

 TV受像機の普及は、1964年の東京オリンピックまで待たなければならない。そのころは駅前に「街頭テレビ」なるものがあった。
 東横線自由が丘駅の軒先にTVがぶら下がっていて、大鵬と柏戸が登場する時刻には、駅前広場に人があふれたものだった。

 そのTV電波は1958年に建った東京タワーから発していた。
 大鵬と東京タワーは日本がようやく戦後から脱しようとしていた時代の象徴であった。
 そうだ、建設途中の東京タワーを見た記憶がある。

 1956年、経済企画庁の経済白書は「もはや戦後ではない」と書いたが、大鵬をはじめて見たころの学生食堂での飯は、「外食券」(コメは政府による配給制だった)を出すと2円だったか安くなったものだ。定食が20~30円の頃である。
 庶民はまだまだ戦後を引きずっていた。

「巨人・大鵬・卵焼き」とは、その頃に流行ったフレーズだが、だれが最初に言ったのだろうか。庶民の一番人気者を皮肉を込めて並べているから、大宅壮一あたりか。(追記、違っていた、言いだしっぺは堺屋太一だったとネット情報あり)
 わたしはもっとひねくれていて、「阪神・柏戸・カレライス」と、自分で発明して言ってたものだった。要するに1番手に対する反感と、2番手に対するシンパシーである。

 後に「江川・ピーマン・北の湖」とのフレーズがあったらしいが、それは知らなかった。ただ、この並べ方には見え見えの意地悪さがあって、上手ではない。
 今の世ではなんというのか。TVを見ない都心隠居老人にはさっぱりわからない。
 見え見えの底意地悪さを承知で言えば、ただ今のわがNOTORIOUS御三家は、「東電、橋下、ノロウィルス」

 大鵬が逝き、2代目東京タワー(スカイツリーとかいうらしい)が建ち、軍隊を持とうという首相が出てきて、戦後復興東京駅は姿を消して戦前の姿に戻った。
 もはや戦後ではないどころか、今や戦前である、かもしれない。戦前の次は、いうまでもなく戦中である。

 

2013/01/17

708核毒の地で懸命に生きる脱走豚と野良猪の愛の賜物イノブタも駆除されるのか

 福島県富岡町でイノブタ発見とか。

 東京電力福島第1原発事故で立ち入り禁止となった地域で豚舎から逃げたブタと、野生のイノシシが交配して生まれたとみられるイノブタの目撃情報が、原発周辺地域で相次ぎ、福島県が今月下旬から実態調査を行うことが16日、県への取材で分かった。(産経ニュース 2013.1.16 08:44)

 おやおや、がんばって生きてますねえ、ブタとイノシシが協力して子孫を残そうって、涙ぐましいなあ。
 東電原発から降り注いだ核毒にまみれながら、ちゃんとやることやってるんだ。どっちが雄でどっちが雌なんだろうか、どちらの組み合わせも再生産可能なんだろうか。

 でもこのニュースの続きには、増えすぎると農地を荒らすので、駆除するのだそうだ。可哀そうだなあ、その努力は虚しいんだ。
 でも、農地ったって、何も植えてるはずはないなあ、あ、そうか、核毒境界領域での農地かもなあ。そこは東電に柵を造らせましょうよ。
 鉄砲で撃っても、核毒にまみれているから、福島名物イノブタ鍋ってわけにもいかないしなあ。

 ウシもヤギもイヌも核毒の地をさまよっているから、ヤギウシとかウシイヌとかできるって、それはないか。ウナギイヌはどうか。

そういえば、昔々どこかの動物園でレオポンが生まれたってニュースがあったなあ、え、ご存じない?、ライオンと豹の子。
 これって人間が生命をもてあそんでるよなあ。その点、核毒イノブタは、飼育から逃れて自然に還ってるんだもんなあ、おおらかなもんだ。
 そのおおらかさと核毒のギャップに、こちらが考え込んでしまう。

 まあ、まだまだ消えることのない核毒に負けずに、イノシシもブタもウシもヤギもイヌもウナギも頑張っていてください。
 そのうちに東電が「核毒の森」自然動物園を作ってくれて、安楽に余生を過ごさせてくれるでしょうから、それまでの我慢です。
 「核毒の森」についてはこちら
 

地震津波火事原発コラム集
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2013/01/16

707豪雪3mの中の年中行事「賽の神」から戻れば東京横浜も豪雪10cm

 青空の東京を出発して、上越国境トンネルを抜けると越後は雪降りだった。
 ことしも法末集落の小正月行事「賽の神」と「初釜茶会」に行ってきた(2013年1月14日)。
 「賽の神」はこのあたりの昔から伝わる年中行事のひとつで、日本各地で「ドンド焼き」とか「左義長」あるいは「三九郎」と言われる小正月行事である。

●真っ白な法末集落



●私たちの拠点「へんなかフェ」は雪の中

 集落の中心部にあるキャンプ場の雪の中に、笹の葉がついたままの青竹を2本立てて、その周りに稲藁やマメガラを巻きつけて、藁でぐるぐると巻いて高さ6mほどの塔にする。
 藁やマメガラは、この日に備えて各家に保管してあり、各自が背負って持ってくる。わたしたちも稲刈りの時にとっておいた藁束を納屋から出して運んだ。
 塔の正面と決めたほうに、正月飾りやしめ縄類を塔にぶら下げ、その手前に雪で祭壇をつくって、お神酒や肴を供える。
 雪の降る中、ここまでを午前中に集落の男衆10数人があつまってやるのだ。毎年のことで、その協力の仕方も要領がよい。

 ●できあがった「賽の神」の前でわたしの喜寿記念撮影

 雪は降りやまないが、午後1時から行事開催、60人くらい集まってきた。
 このうち集落住民は4分の1くらいだろうか、それぞれの子や孫がこの日のためにやってきたのだ。めずらしく子どもの声が聞こえる。
 わたしたちは、毎年バスを仕立てて関東からやってくる。今年は15人がやってきた。中越大震災の翌年の2005年以来、毎年やってきている。

 今年は巳年なのでその年男や年女が、その塔の根元に火をつけることから行事が始まる。でも神事はない。昔はあったのだろうか。
 お神酒を祭壇から下げて、紙コップで参加者に配り、最長老94歳の正平さんが音頭をとって、祝唄「法末天神囃子」をみんなで歌うのも恒例である。
 正平さんはあい変わらぬ元気ぶりである。この人は太平洋戦争の悪名高い負け戦インパール作戦に参加した、数少ない生き残りである。

 燃え上がる藁から黒い灰が落ちてくる。これをコップ酒に受けて、藁の火であぶったするめや餅を肴にして飲めば、今年は無病息災。
 久しぶりの出会いの挨拶などしながら、降りしきる雪の中で、突っ立ったままの宴会は続く。
 子どもはみんな宴会に飽きて、そばの雪の斜面を登り滑りを繰り返して歓声を上げている。この集落で子どもの歓声を聞くことはめったにないから、大人たちも嬉しくなる。

 ●「賽の神」は燃え上がる。


 1時間ほどで、藁の塔はくずおれて燃え尽き、今年の賽の神もお開きである。まだ雪は降りやまない。
 さて次は、会場を屋内に替えて「初釜茶会」である。ぞろぞろと会場のやまびこ食堂に集まる。本式のお手前で立てた抹茶をいただくのである。
 集落の人々が神妙なお手付きでお茶いただく様子は、賽の神の陽気な気分と対になって、なかなかに法末らしい小正月の雰囲気を醸し出している。

 茶会は法末の新しい年中行事である。中越大震災の翌年に「復興見守り隊」として入った国際女性建築家会議日本支部(UIFA)のメンバーが始めたのである。
 初釜茶会は、いまではもう法末の年中行事に定着した感がある。
 わたしが乗ってきた貸し切りバスは、じつはUIFAのお茶会担当が法末に行くために出したので、それに便乗したのだ。

 おわって17時ころにバスは出発して帰途についた。
 ところがこの日、関東地方も北部から南部まで思わぬ積雪だそうで、交通路線は大混乱、かなりの渋滞が予想されるので覚悟せよとのこと。
 高速道路は閉鎖で、雪の一般道を南下するが、2時間近くたっても新潟県を抜けられない。このままだと東京着は、夜中の2時か3時ころとの予想である。

 そうなると東京からまだ南下するわたしは、電車が無くなってしまう。タクシー料金と新幹線代を比べ、さらに体力も考慮して即座に決断、越後湯沢駅で新幹線に乗り換えることにした。
 意外にもこの判断をしたものは15人中の3人だけ。なんだか仲間を置き去りにして逃亡する気分であったが、残る方もそれなりの判断であろう。

 わたしたち逃亡組は21時30分には東京駅に着いたのだが、後で聞いたらバス組は、やはり練馬ICを降りたのは午前2時ころであったという。
 そこから先もタクシー探し騒動やら、都心仕事場泊り込み始発電車帰宅やらと、大変だったらしい。
 それはそれで貴重な体験であるが、年寄りにはつらいから、われらが判断はよかった。

 それにしても豪雪3mで平然としている法末から戻ってみると、こちらは10cmで豪雪騒ぎであった。

関連サイト
法末集落の四季
中越山村の暮らし

2013/01/08

706地球に雑巾がけするような原発核毒掃除なんてできっこないことをなぜやるのだろう

 このところ「手抜き除染」なる記事がマスメディアに出ている。
 福島原発事故でまき散らされた核毒を浴びた地域の、家や庭や道や山などをきれいにする「除染」なる工事が進められているが、これがいい加減であることがばれたそうだ。
 その降り注いだ核毒まみれの土・草・枝葉・枯葉・ゴミ・ホコリなどなどを、人力でかき集めている。
 そんな、地球をせっせと雑巾がけしてどうするんだよ~。

 雑巾がけなら、汚れ水はその辺にまけばよいが、核毒水はそうはいかない。ゴミも汚れ水も汚れ作業着も集めて、それをまたどこか別のところに集めるそうだ。
 要するに核毒が移動して、移動先でさらに核毒の濃度が高まるという、危険物移動毒力強化工事である。

 さてそれで、除染作業を終えましたよ、元の住民の皆様、安心してお戻りください、と言えば、みなさま喜んで戻ってくるのだろうか。
 まあ、よほどの愛着がある年寄りだけが戻ってくるだけで、特に若いものが戻ることは皆無のように思う。
 だって、そうやって核毒を除去したとしても、その周りの掃除しない山や野原にある核毒が風や雨で移動してくるから、また汚染する恐れが十分にあるからだ。
 子どもを育てる環境では断じて、ない。

 福島は除染産業で雇用回復だといっても、いくら仕事して金にはなるとしても、人間はこんな虚しい作業をやるのはバカバカしくなるのが当たり前だろう。
 もちろん手抜きがよいことではないが、賽の河原の石積みを仕事にして出すほうがおかしい。
 そんなことに金を使うよりも、被災者の生活再建を積極的に支援するべきである。

 ところで、これまで核毒事故関連で、なんだかんだとかかっている費用は、もちろん核毒汚染犯人の東電が支払っているんでしょうね
 まさか税金で出しっぱなしってことじゃないでしょうね。
 東電は、いくらでも金がある会社なので、核毒除染にも被災者補償にも、じゃぶじゃぶと金を使うことができるのでしょうね。
 そうか、株主が反省してお金を出してるのだな、そうに違いないぞ、うん。

 もしも、東電がその費用を電気料金で取り返そうとするのなら、わたしは東電の電気を使わないことにする。
 そのためには東電じゃない電気屋と契約したいけど、どうやればよいのだろうか。それとも沖縄に移住するかなあ。でも軍事基地が怖いもんなあ、、。
 まあ、歳が歳だから、近いうちにあの世に逃げてしまうから、東電の電気も使わないし、福島問題で毎日悩むこともないし、はやくそうしたいもんだ。
 あ、そうか、悩みから逃れるにはボケりゃいいんだ

 
 核毒で汚れた地域は、汚した犯人の東電に高く売りつけて、核毒汚染した何でもかんでもを集めて、核毒処分の「核毒の森」をつくるのである。
 その管理はもちろん東電が行う。それしかないであろう。

 ついでに言えば、わたしが福島核毒事故直後から唱えている
福島原発世界文化遺産」登録も推し進めてほしい。
 原発事故に関するあらゆる情報も
福島原発世界記録遺産」として登録してほしい。 

 これほどの「人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」をもつ物件」は、ちょっと見当たらない。
 その有名さ(notoriety)をホコリとすべき日本の大文化遺産である。

●参照 福島原発を世界遺産に
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hukusimagenpatu-worldheritage
●参照 地震津波火事原発コラム
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2013/01/07

705カリフォルニア歌人の朝日歌壇賞の受賞歌は原発と原爆の両悲劇を結ぶ

 今朝(2013年1月7日)の朝日新聞の朝日歌壇に第29回朝日歌壇賞が発表されている。2012年入選歌から各選者が選らんだ。
 永田和宏選者が選んだ歌

 
あれしきの被曝で何を騒ぐかと言ってはならぬ我は被爆者
                  (アメリカ 大竹幾久子)
 

 この歌のことは、それが昨夏に掲載されたときにここですでに紹介した。
日本人は5度目の大被爆体験をしても原発を動かす
http://datey.blogspot.jp/2012/07/648.html

 大竹さん、おめでとうございます。
 このカリフォルニア歌人の夫なる男も兄なる男も、半世紀以上にわたる畏友であるから、わがことのようにうれしく思ってしまう。
 
●関連 「カリフォルニア歌人」
 http://datey.blogspot.jp/2011/09/500.html

2013/01/06

704日産自動車のバカ赤広告が消えてホッとしていたら跡地に高層住宅ビルが建つらしい

 横浜都心の関外にある空中陋屋にわたしは住んでいる。
 南東方向に見える景色の真んなかに、屋上に真っ赤な広告塔が立つビルがある。
 周りはそんなものがないのにここにだけ広告塔がある。夜はライトアップするので目立つ。周りはほとんどが住宅ビルであるから無神経さが目立つ。
 その広告主は日産自動車である。自動車屋はどこでも風景を乱す元凶だ。特に郊外の道路沿いで、その醜いことがおびただしい。
    (その広告塔がある2010年の風景)

 去年2012年の4月に、その広告塔のあるビルが消えた。ほっとしたのであった。
 無くなってみるといかにあれがひどかったかよくわかる。
    (ビルが無くなった2012年の風景)

 でも後に何が立つか心配で、前よりももっとひどいものが建つかもしれない。例えばこんなものが。
   (もしもこんなのが建ったらどうしようと描いてみた風景)

 さて、2013年の正月、そのビル跡地に重機が入って仕事が始まっている。
 囲いの塀に建つ予定のビルの絵が描いてある。分譲共同住宅(いわゆる名ばかりマンション)らしい。
 「開放感抜群の希少立地」の意味が、周辺を見てもよくわからない。少なくとも目の前にうるさい高速自動車道路がとおっていることは確かである。
      (塀に書いてある完成予想図らしい絵。)

 そこで、その絵をもとにして、今度はどんな風景が見えることになるのかやってみた。邪魔だけどまあしょうがないか。
     (こんなになるらしいと描いてみた予想風景)

 問題は、さらにこの上にまたもや真っ赤な広告が乗るかもしれないことである。それだけは勘弁してちょうだいよ。
   (まさかこんなになるのじゃあるまいなと描いてみた風景)

 今戦々恐々は、目の前の低層ビルと駐車場が共同開発して、高層ビルになることである。そんな予想図は描いてみたくもない。

参照→「景観戯造世の中の変な景観にちょっと画面で手を加えて
http://homepage2.nifty.com/datey/keikangizo/index.htm

2013/01/02

703ヨボヨボ旧PCが息子の腕であっという間に元に戻った、さすがに餅は餅屋

 去年7月にわたしが8年ほどかわいがってきたPC(MSXP)が、その飼い主に似てヨボヨボになっってしまった。
 あれこれいじっても元に戻らない。イライラして血圧によくないので、新PC(MS7)を買った。さすがに新PCはなんでも早くなって、よいものである。

  だがしかし、唯一困ったのは、使い慣れたHP制作ソフト(MSFRONTPAGE)がないことである。いまさら買って入れるのもアホらしい。HP制作フリーソフトを探してKompoZerを入れたが、機能的にはイマイチであるのは無料だから仕方ない。

 わたしのHPサイト「まちもり通信」の基本レイアウトは、もうほとんど完成の領域に達していて、新記事も文字が多いので、その無料版でも、まあ、ほとんど問題ない。
 でも、もしもなにかちょっと凝ったことをするには、ヨボヨボ旧PCを使うしかないので、捨てないで机の隅で埃だらけになりながら佇んでいる。

 昨日の元日、息子夫婦が年賀挨拶にやってきた。息子はどうもIT関係の仕事で飯を食っているらしいのだ。
 このPCを治せるかいとけしかけたら、チョロッといじって、あっという間にヨボヨボPCはしゃんと腰が立った。すらすら動くのである。
 さすがに餅は餅屋で、あのバカ息子を見直した。

 プロ仕事に報酬よこせというので、長岡・法末集落棚田産の超うまいコシヒカリを持たせた。江戸時代は米が通貨だったんだぞ、オレの小学校修学旅行は米を出して旅館に泊まったのだぞ。

●参照http://datey.blogspot.jp/2012/07/642pc.html
http://datey.blogspot.jp/2012/07/637.html

2013/01/01

702 賀春

賀春
日本海側の日本は大雪らしい。
地球の太陽ひとまわり分の出発点と決める日を元日というらしい。
どうしてこんな寒い盛りにしたのだろうか。
6か月ずらして真夏だってよさそうなものを。
3か月ずらせば学校だって役所だって企業だって便利だろうに。
どうしてその日を祝うのだろうか。
地球が太陽を無事に回ったのがそんなに嬉しいのか。
もしかして今年は太陽を回りきれないと毎年思うのだろうか。
とにかく去年も地球は無事に太陽を回りきれたらしく元日の新聞が来た。