2011/10/22

511【ふるさと高梁盆地】小堀遠州作の名園の借景を守る

 高梁には江戸初期の幕府官僚アーキテクト・小堀遠州政一がデザインをした頼久寺庭園がある。
 小堀遠州は15年ほどの間、備中松山藩の代官だったことがあり、頼久寺に居を構えていて作庭をした。
豪快なサツキの大刈り込み、その背景の高い生垣、その向こうに雄大な愛宕山(あたごさん)がゆったりとやさしい三角の山容を見せている。遠近が効いていて大きな庭になっている。
 この愛宕山の借景が、遠州の作庭のポイントであったのだろう。
 
 ところが、地図や航空写真で見ると、実にちっぽけな庭である。それがどうしてあれほど大きく見えるのか、そのポイントは遠くにある愛宕山の借景にある。
 庭と愛宕山頂上とは、水平距離にして1.5kmもはなれている。その距離をこの庭に圧縮してとりこんだのである。  

 同じような借景庭園として有名なものに、京都岩倉の円通寺がある。比叡山をとりこんでいる。
 頼久寺と同じ頃に作られたが、こちらは後水之尾上皇による。頼久寺が武家の作庭なら、こちらは公家のそれである。

わたしは1960年ごろに、この庭を見た記憶があるのだが、そのときは刈り込みの背景の生垣の上に、すぐ外にある養老院のセメント瓦の屋根が見えていたような気がする。
 そう思ってアルバムを探したら、わたしが撮ったそのとおりの写真があった。

今は外の建物が見えないのは、その建物がなくなったのかと思って、向こうの生垣のすぐ外に出てみた。
 下の写真に見るように、それらしい建物が今もあるから、建物の高さを低く建て直し、周りに常緑樹による生垣を高くめぐらしたようだ。



 そう思って庭の中からみると、生垣がちょっと高すぎる感がある。外の建物を見切るためにそうなっているのであろうが、内外の境界を感じさせる。
 当然のことに、小堀遠州が作庭したころは、外は田園であろうし、小さな茅葺きの家はあったかもしれないが、刈り込みの背景をこれほど高い生垣をたてて、外を見切る必要はなかっただろう。
 いまよりは低い生垣で、おおらかに外の風景につながっていたにちがいない。

 それにしても、庭園の中から見る愛宕山と、庭のすぐ外の墓地に出て同じ視線でみる愛宕山とは、あまりにも異なる風景であることに驚く。とても同じ山を眺めているとは思えない作庭テクニックである。
 借景庭園の外に、高い建物が建って借景の山は見えなくなってしまった庭は多くあるだろう。
 あるいは借景の山がなくとも、庭園を取り囲む樹木の連なりが美しい庭園の外に、庭の樹林の上に無粋な四角なビルが顔を出したりすることも多い。
 東京の名園はどこもかしこも、ビルにのぞきこまれていいる。のぞきこむ名園が隣にあることを売り物にしている住宅ビルもあるから、まったく始末におえない。
 そのおかげで東京の浜離宮庭園が、ニューヨークのセントラルパークみたいになって、大名庭園は台無しになった

 頼久寺も円通寺も、その危惧があるので、庭から見える借景の範囲にある街に、高い建物を建てないように、都市計画で規制をしている。
 頼久寺の場合は、吉備国際大学の新設のときに、「地区計画」(都市計画の規制手法のひとつ)を決めたそうだ。
 それまでは特に高い建物が建つようなところでもなかったが、大学ができると高いビルが建つことは十分に考えられる。
 都市計画の用途地域も、それを許す指定であったので、市民から何とかするべきとの声が上がった。

 そこで、庭園の外の借景が見える方向の街の中の、高い建物が建ちそうなところに風船を上げて、頼久寺の庭から眺めてそれが見えない高さに、建物の高さ規制値を定めたそうだ。
 市民の努力は実って、いまも借景の愛宕山は美しい姿を見せている。
 そういえば庭園ではないが、高梁の近くにある倉敷市の有名な倉敷川あたりの美観地区では、その風景の背景に高いビルが建たないように条例を決めて規制している。(2011.11.121960写真追加、関連して文を一部修正)

参照→景観戯造(各地の借景庭園風景)

参照→怨念の景観帝国(京都岩倉円通寺庭園の今)

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伊達美徳=まちもり散人
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2011/10/21

510ふるさとの鎮守の森

 久しぶりの生家の御前神社訪問で、鳥居が新品で白くなってびっくりしたが、参道を登って境内広場に入ってまたびっくり、見えなかったもう一段上の境内にある社殿が見えるのだ。
 参道を登って丘の中腹を、2段に伐って境内地はつくられている。その下の段に広場があり、ここではかつては祭りには神楽が舞われ、戦時中には武道訓練の矢場になったり、戦後食糧難の頃は芋畑になったりしていた。いまは駐車場である。

 ここからまた鳥居をくぐって、石段を登り上の段の境内にでると社殿がある。下の段から上の段の社殿は、森の樹木の葉にさえぎられて見えない、はずなのが、今は丸見えになっているのである。
 その森の何本かの大木が伐られて、見通しがよい、明るいのだ。

 私の住んでいた宮司住宅はとりこわされて空き地に、それにつながる社務所は建て替えられえ、明るい白壁が見える。
 1957年にわたしが出てゆき、弟たちが去り、そして最後に両親がここをあとにしたのは1966年であった。

 少年の日と比べて、なにもかも明るい。広場も建物もきれいに管理されている。
 少年のわたしは、ここを掃除させられるのがいやだった。掃いても掃いても落ち葉はあるし、むしってむしっても草は生える。
 社殿の横で栗の実を一つぶ拾った。ここでは少年の頃にも拾ったと思い出したが、何代目の木だろうか。ジーンズのポケットに、いまもはいったままだ。

 おもいだせば、あれは戦後すぐのころだろうか、下の段の境内広場の南にあった、大人が3人でかかえるくらいの、イチョウの巨木を倒したことがあった。ここにしか倒す方向はないという位置に、樵職人はみごとに切り倒した。(参照→大銀杏の死

 家にかぶさるように枝葉を張っていたモミの大木があった。家の中から窓ガラス越しに枝葉とその間に見える空が描く複雑な模様を見上げて、なにか怪物の影にみたてて怖がった幼年のわたしを思い出す。これを切り倒したのは、いつだったのだろうか。

 周りは暗く真上の空だけはやけに明るい境内の森の中を、社務所で敗戦の放送を聴いたばかりの大人たちが、列になって黙りこくって参道を下っていく風景を思い出す。
 それは1945年8月15日、暑く快晴の昼過ぎのことであった。(参照→66年目の空襲と疎開

 高校生だった1955年の夏、少し遠くに住む同級の友人が遊びにきた。
 持ってきたてメタセコイヤの苗木を、境内の石垣の小段に植えた。すくすくと育って30mくらいの大木になっていた。
 青春の記念樹であったが、これも伐られて大きな切り株だけになっていた。大木が風でゆすられて、石垣が危うくなったのだろう。
 わたしも木も歳をとりすぎた。 わたしの記憶の中にある秋と春の祭礼の日には、境内から参道に幟旗やぼんぼりが立ちならび、綿菓子を売る露店などがでて、街から人々がおおぜいやってきた。
 そして人々の肩にかつがれた重い神輿が、行列をしたがえて街の中をめぐる。神輿の直前には、装束をつけた父が歩いている。

 今も、祭礼はあり、神輿が街を巡るそうだ。
 だが、氏子といわれる旧城下町の北半分の街の人口は減り老齢化が進む。神輿はトラックの荷台に載せて巡るそうだ。あとは推して知るべしである。

2011/10/20

509鳥居が200年ぶりにリセット

 久しぶりに故郷・高梁の生家の御前(おんざき)神社を訪ねた。跡取り息子のはずのわたしが逃げたので、今は近所の別の神社の宮司が兼務である。
 サツマイモのような形の高梁盆地の東の丘の中腹にある社に、街の道路から鳥居をくぐって参道を登る。
 昔は石段だったが、いまは車が登れるように急な坂になっている。

 その鳥居をくぐろうとして、なにやら雰囲気がおかしい。みれば、鳥居が新品の真っ白な総御影石造りになっている。
 おや、ここには江戸時代からの風雨に耐えた風格ある鳥居があったはずだが、これはどうしたことか。江戸時代がリセットされてしまっている。

鳥居の柱に書き込んである。
再建立 平成二十三年八月吉日」、もう一本の柱に「干時文化七庚午年六月吉辰」とあるのは、こちらが元の鳥居に書いてあったのだろう。そうか、1804年に建てたものだったか。
本当かどうか怪しいけれど、この神社の創建は774年とあるから、先代の鳥居も何代目かだったのだろう。
 知人にきいたら、参道を登っていた自動車が、何かの間違いでバックして鳥居にぶつかって、片足がぽっきり折れた。保険で立て直したのがこれだそうだ。
 19世紀はじめに生れた鳥居は、207年を経て21世紀はじめに新たに生まれかわったのであった。

新しくなった鳥居
 
 さて、鳥居のそばには鐘撞堂(かねつきどう)が建っている。4階建てくらいはある搭状木造建築である。次はこれが建て直しになるような気がする。
 いや、取り壊しになるか。

 ここには17世紀はじめの鋳造になる釣鐘があり、時の鐘として定時に神社の宮司が打っていた。そう、父が朝昼晩と登って撞き鳴らしていた。父が戦争に行っていたときは、母が撞いていた。
 その釣鐘は、1941年の暮れに、戦争のために供出されて出て行ったまま、いまだに帰ってこない。

 終戦の次の年、父とわたしは、瀬戸内海の直島にその鐘を探しに行った。まだ鋳潰していないかもしれないという、父のはかない期待は外れた。大砲にでもなったのか。
島の精錬所には、鋳つぶされずに残った全国各地からの無数の釣鐘が、夏の日に照らされて小学生の校庭の朝礼のように行儀よくならんでいた。そのシュールな光景を思い出すと、あれはなんだか夢であったような気がする。
 今はもう多分80歳を超えたであろう鐘撞堂だけが、ひとり黒々と立ち尽くしている。

●参照→ふるさと高梁の風景

2011/10/19

508故郷のoldtown&newtown

 久しぶりに故郷の高梁に行った。
 高梁川をさかのぼる伯備線で、倉敷から30分、典型的な盆地の旧城下町である。
 ここは映画「男はつらいよ」シリーズに登場する、いわゆる懐かしい町である。

 寅さんの義弟がこの町の出身となっている。上流武家屋敷町だった石火屋町にある豪壮な旧家のお屋敷が、その生家である。今回の訪問でその前を通ったら健在であった。
 少年のわたしは親に命じられて、なんどかこの家にお使いに行ったことがある。二つの玄関があって、どちらからはいるべきか悩んだものだ。

 その武家屋敷町は、かなり前から町並み保全と修景をしているから、いかにも城下町らしい風景である。観光拠点にもなっているので、いかにもそれらしい風景である。しかし、空家空き地が目立つようになっているのが気にかかる。
 武家屋敷町は空家空き地になっても、土塀で囲まれているから、一見したところでは町並みが連続している。

 だが、商家町では空き地が目立って、歯抜けになった町並みとなっている。
 かつての繁華街だった本町や下町の商店街は、商店街の体をなしていない。空き店舗と住宅の連続になっているが、その中のあちこちで空き地が目立つのである。駐車場になっているが、がらんとしてガラクタがおいてあり、草が生える。これは寂しい。
 これらの空き地には、元はといえば格子窓や連子窓の瓦屋根の堂々たる旧家が建っていたのだ。跡地に新たな住宅でも建ってくれればよいのだが、歯ヌケのままで寂しい。

 それは今に始まったのではないが、人口減少が止まらないからだ。旧市街地を中心とする合併前の高梁市の区域の人口が、1960年には約35000人いたが、現在は約24000人である。このさきも減少は止まりそうにない。空き地空家が出るのは当たり前である。
●以下続きの全文は「故郷のオールドタウンとニュータウン」
http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/takahasi111013

●関連→ふるさと高梁の風景

2011/10/18

507わたしの本棚

(このエッセイは、雑誌「本の雑誌」に投稿して2011年11月号に掲載された)

 小中学生のころは戦争直後で、本が無かった。あちこちの大人の本棚をあさったので、戦前の漱石とか日本古典の全集もあったが、戦後のカストリ雑誌も読んだ。
 貸し本屋が流行っていて、少ないお小遣いで探偵小説を借りたものだ。わたしには大人用の江戸川乱歩が先だった。

 勤め人になって自分の金で本を買えて嬉しかったが、狭い家ですぐに困って、本棚の空きと相談して買うようになった。
 50歳でフリーランスとなって、東京に仕事場と平日泊りの部屋を借り、鎌倉の自宅は休日用にした。3ヶ所あればもう置き場に困らないと、本買いが止まらなくなった。
 そして20年、仕事をやめて大量の本の処分に窮した。古本屋に売る気にならず、知人たちにあげたり、イベントに無料お持ち帰りをと出したりした。たくさんの「本の雑誌」、「東京人」(坪内さんのころか)、「季刊銀花」なども同じ運命。

 なんとか整理して自宅だけにしたが、ついつい本買いが止まらない。だがいまや本棚も年金家計も限界である。
 そこで去年から、近くの市立と県立図書館の積極活用で、本買い停止と決めた(あ、「本の雑誌」だけは買ってます)。
 近頃の図書館員は若い美女が多くて、「どうぞこちらへ」「ありがとうございました」なんて、町の本屋並みに親切、もっと前から利用すればよかったなあ。

 蔵書量増加は止まったが、机上のPCの中のデータはどんどん増えていく。これは置き場に限度は無いが、難点は整理しにくいことだ。
 本は版型や色を視覚で記憶しているから、たとえ名前がわからなくても、ほぼ間違いなく見つけられる。PCデータは名前でしか記憶できないので、歳とともに名前を忘れるから行方不明が増加する。もっとも、棚の蔵書と同じく、保存してから一回も見ないデータがけっこう多いのだが。

 さて、自分の蔵書が増えなくなったので、他人の蔵書を増やしてやる趣味をはじめた。PCの中にあるわたしの著述類を机上で編集して、「まちもり叢書」と名づけて十数種類、これを装丁・印刷・製本して手製ブックレットにする。
 いやとは言わせないように、わたしの遺言だから受け取ってくれと、知人たちに配っている。ただいま延べ発行部数105冊。(伊達美徳・都心隠居74歳・横浜市)

(この投稿に対して本の雑誌の浜本編集発行人のコメントがついている。曰く「なにはともあれ、本誌だけは購入いただき、ありがとうございます」)

●参照→まちもり叢書
http://datey.blogspot.jp/p/dateyggmail.html

2011/10/11

506濃縮核毒と共に生きる

 どうもわからない。原発から降ってきた核毒を、地上から取り除く「除染」である。
 おなじことを何回も考えては書いてしまう。
「消染」ならわかるが、除ってのはとり除くだけで、染まった核毒が消えるのではない。消すことができないらしい。
 だから、ここからとり除いた核毒は、何十年か何百年か知らないが、あいかわらずどこかにあるのだ。
 しかも、除染作業によって集めた核毒ゴミは濃縮されたことになる。除染濃縮核毒である。

 そんな濃縮毒物質をどこか最終処分場にもっていくまで、あちこちの中間貯蔵場に積んでおくらしい。右にあった毒を左に置くだけである。
 で、その中間貯蔵場は、あたりまえなのことに、だれもがNIMBY(NOT IN MY BACKYAD)である。東電からの贈り物なんか、うちの裏庭においてほしくない。
 だからわたしはITNPY(IN TODEN NUCLEER PLANT YARDS)しかないと思うのだが、誰もそういわないのが不思議である。
 
 そこで更に思うだが、もうものすごく核毒降り積もる東電福島第1原発の周りの除染はどうするのだろうか。
 あ、そうだ、原発そのものの除染はどうするのだろうか。ものすごい毒性でものすごい量のゴミが出るだろう。どこかに持っていくなんて常識はずれだ。
 考えてみると、原発を要としてひろがる核毒扇のどこまでを除染するのだろうか。
 その除染超濃縮核毒汚染ゴミを、常識的には持っていくところがあるはずがない。
 それなのに、中間貯蔵場とか最終処理場とか言う。そもそも処理できるものなのか

 わたしたちは核毒と共に生きていくしかない、いや裏庭の核毒に埋もれて死んでいくしかない、思えば思うほどそうとしか思えないのである。

 除染、除染とこのところ騒がしいが、多分、除染産業なるものがおきるだろう。いや、もう起きているだろう。
 福島の産業の再生は、除染産業がになうことになるだろう。そして除染科学が地域に学問を興すかもしれない。
 それは原子力産業が支える地域の、もうひとつ姿である。
 それは核で生きてきた地域の悲しい宿命である。
 福島のほかにもその宿命を背負う候補地があることを、忘れてはならない。

2011/10/08

505除染核毒は東電が持っていくのが当り前

 福島第1原発が発射した核毒物質に汚染された地域を除染(この用語がでてこないのでPCに今教えたぞ)するのだが、その汚染土壌などをどこにおくかということが、問題になっていると報道が伝える。
 そんな毒物質を集めて、自分の家の近所に置かれてはたまったものではないってのは、実に健全なる考えである。

 そりゃNIMBYだよって思う向きもあろうが、これがNIMBYと違うのは、ゴミや車や火葬場のような、その発生に自分がかかるものではないことにある。
 毒の発生源はあくまで東電のせいであるから、これは東電が引き取るのが当たり前と思うのだが、そんなことは新聞のどこにも書いてない。
 誰もそう言っていないのだろうか。不思議である。

 そもそも東電から、その毒物を返していただきますって、言いだすべきであると思う。原因者が責任とるのは、なんでもあたりまえでしょ。
 全部引き取るには土地が足りなければ、福島第1原発の周りの土地を買いとればよいでしょ。いくら地主が愛着あるといったって、あんな毒だらけの土地にだれが住むもんですか。

 今はやく、除染した毒物を引き取るって東電が言えば、それだけ社会不安も減少するはずでしょ。除染毒の処理で地域コミュニティが壊れそうなのが心配である。
 はやいこと、もう戻れない地域を決めて、そこに核毒をどんどん運び込むしかないと思う。そしてそこが「東日本大震災記念公園核毒禁断の森」になっていくのだ。

2011/10/04

504なんだ?4K3DTVって

 4KTV受像機なるものを電気屋が売りだすそうだが、なんのこっちゃ?
 3K仕事ってのがあったよなあ、暗い、怖い、汚いってことだったな。
 で、TV受像機はどうなのよ、もうひとつ「くだらない」を加えるってことなんでしょうね。
 暗いってのは画面があかるくないのかしら、怖いってのはたとえば火が出るとか、汚いってのは画面が汚くなるのかしら、クダランてのは中に映る番組がそういうことなんだな。

 では、3Dってなんのこと?
 ドジ、ダメ、デクノボー?
 まあ、そういう番組ばかりのように思えます。正直でよろしい。

2011/10/02

503押上の斜塔

 東京下町に自転車で行って、今、評判のスカイツリーなるものを眺めてきた。
 スカイツリーって「ジャックと豆の木」のつもりかしら、でも、うえがちょん切れている。
 ツリーならば枝葉を茂らせているはずだけど、枝も葉もないゴボウ状態の枯れ木である。
 まあ、ねぎぼうずのお化けってところか。

 下町の河童橋本通りから見るスカイツリーは、電線やら看板やら信号やらの枝葉を茂らせている。
 この風景はスカイはないけどツリーになっていて、なかなかによろしい。

 浅草寺の伝法院の庭園に入らせていただいた。回遊式庭園そのものはなかなかよろしいが、小高い景色を眺めるところにくると、いけない。
 昔は富士山が見えてよかったのだろうが、いまは色とりどりのビルの箱が立ち並ぶ。
 ひょいと視線をめぐらすと、浅草寺の五重塔とスカイツリーが、妍を競っている。これはこれでなかなかよろしい。

 久しぶりに隅田川くだりで浜離宮(ちょっとクリックをどうぞ)へ。
 優雅な吊曲線を描く清洲橋の向こうにスカイツリー。
 20世紀はじめの関東大震災の復興橋梁とその100年後のスカイツリー、前者は地球の重力に横方向に逆らい、後者は縦方向に逆らう。

 せっかくだからスカイツリーのそばまで見に行った。
 まだ工事中であるが、もう、傾いているような、、、、。
 危ないので斜め下から押し上げておいた。何しろ建っているところが「押上」だから。
 
 面白かった。企画とお世話してくださった、
東京ダイバーシティと自転車まちづくり研究会の方々に感謝。
 あ、見たのはスカイツリーばかりじゃないけど、
そのほかのことはまたいつか書きます。

2011/09/29

502名作建築と道路拡幅

 新発田市のまちなかに、カトリック新発田教会という、アントニンレーモンドが設計した、小品の名作建築がある。
 木造のよさをみごとに表現して、和風に陥らずに教会の空間をつくりあげている。
 以前は前面の道が狭くて建築全体像は見えにくかったが、それなりに建築と植栽とがよい雰囲気であった。
 その前面道路が都市計画道路であったので、このたび行ってみたら拡幅されていて、教会建築がよく見えるようになっていた。

 実はまえまえから、その都市計画道路の拡幅が、教会の建物の軒先をかすめるように線引きされていて、そのまま道路ができると教会前の植栽はなくなって、名建築の雰囲気がなくなることを、教会や建築関係者は心配していた。
 それがこのたび行ってみたら、道路は予定どおりに拡幅が完了していたのだが、なんとその歩道の中に教会の植栽空間が保全されていたのである。
 どのような経緯が関係者の中であったのか知らないが、ひとつの解決策である。

 よくあるのは、道路予定地に信仰対象の大木があって、これを道路内に残したり、迂回することだが、民有地の植栽空間を名建築のために保全したのは、これが初めてかもしれない。
 できたら、教会側のペーブメントを歩道上にも展開できたら、もっとよかったとは思うが、それにしてもよくできたものだと、関係者に敬意を表する気持ちになった。
 レーモンドもあの世で喜んでいるかもしれない。

 レーモンドの功のついでに、罪のことをこちらに書いているの、どうぞ。

●関連ページ
◆新発田:同時多発の中心街再生策で5年後が楽しみhttp://homepage2.nifty.com/datey/sibata04.htm   
◆新発田-雪の城下町(2008)

●関連外部サイト(建築としてのカトリック新発田教会)

2011/09/28

501杉本博司演出の三番叟

 神奈川芸術劇場で、杉本博司演出による「三番叟」をみてきた。(2011.9.21)
 この劇場はつい最近オープンしたばかり。県立ホールが音楽系で、こちらは演劇系とするらしく、芸術監督は宮本亜門である。
 建物の建設に当たって発掘調査をしたら、日本の開国期からの外国人居留地の建物基礎、道路、配水管などの遺構が出てきたそうだ。
 古くは古墳時代の遺跡も出てきて、そのころも海ではなくて砂州があって人が住んでいたらしい。

 三番叟は能楽の「翁」の一部である。翁は、シテ方と狂言方が交互に出演するという、珍しい形で古式を伝えており、狂言方が担当するのが三番叟である。
 演じたのは野村万作と萬斎親子である。同時に出るのではなくて、万作が先に三番叟を舞い、後でまた同じ三番叟を萬斎が舞う。

 80歳と55歳の体力の差が歴然と出るのは仕方がないが、残酷なものである。
 前段の揉之段は激しい動きであるし、後段の鈴の段は不自然な姿勢を続けなければならない。
 万作は2階席でも聞こえる大きな息をついでいたが、萬斎にはそれがない。
 10年位前に、観世能楽堂で正月恒例の翁で、萬斎の三番叟を見たことがあるが、汗びっしょりになっていた。
 萬斎のうごきにはキレがあるが、万作には流れがあると見よう。
 万作が枯淡の境の動きであると見るほどの眼力は、わたしにはない。

 杉本演出は、ほぼ三番叟の舞だけに焦点を当てており、能舞台を平土間にすえて、後方からまっすぐに後橋掛かりをつける。
 万作の三番叟は、できるだけ古式に近くする意図らしく、目付け柱と脇柱が半分の高さで立っている。萬斎のときはこれをはずしてしまった。

 面箱の扱いなど幾分かの省略はあるらしいが、基本的には能楽の舞と囃子には新演出はなかったとみてよいだろう。
 新演出は、萬斎の舞台のときに、大地踏みにあわせて稲妻を光らせたことだろう。稲妻効果のためか、舞台は極端に暗い。これをよしとするかどうか、難しい。

 いつもの明るい能楽堂では、演者の動きや囃子につれられて、見ているこちらの自由な妄想を楽しむのである。
 それが何もない舞台の能楽の面白さである。
 ところが、こんな暗い舞台で稲妻が走っては、杉本の意図する世界にはいらざるを得ない。それが演出というものだろうが、そのわざとらしさが邪魔でもあった。
 いや、実は、そういう見方を楽しむべきであるのだろう。

2011/09/26

500カリフォルニア歌人

今日の朝日歌壇(朝日新聞朝刊2011年9月26日)に掲載の歌のひとつ。

仰ぎ見る万国旗は皆同サイズアメリカアフガン並びてはためく
(アメリカ)大竹幾久子

ことしの1月のこと、やはりこの人の歌が朝日歌壇に載ったことがある。

香港とスロバキヤから来し嫁と厨に立ちて雑煮を作る
(アメリカ)大竹幾久子

この歌人にわたしは面識がない。
だが実は、この人の夫と兄とわたしは大学寮の同期生であった。
のちに夫となる男とは、山岳部仲間として夏の日も雪の日も一緒に山の中のテントで暮らし、岩壁では一本のザイルにつながって身を託しあった。
兄なる男とは、つい先日も新潟で稲刈りなどして一緒に遊んでいる間柄である。http://datey.blogspot.com/2011/09/498.html
この二人が義兄弟になり、妹夫婦はカリフォルニアに住み着いたと、兄から聞いていた。この正月の歌を新聞で読んで、はて、もしかしたらと、その兄に尋ねて分かったのであった。

今日の朝日歌壇には外国からのもうひとつの歌が載っている。

原発にさよならをしたこの秋のドイツの空の風みどり色
(ドイツ 西田リーバウ望東子)

これらの歌には、期せずしてだろうが、地球をひとまわりする想い、あるいは人間の未来に対する思いがこめられている。
ほかの入選歌には、そのようなことを歌うものはひとつもない。
故国の地を離れて歌うときは、人はグローバルに思いをはせるものだろうか。
と思ったが、いつもそうではないだろうから、これは選者の採りあげるときの視点であろう。

さて、来月末には歌人が夫とともに故国にやってくると、その兄が教えてくれたのは、一昨日のことであった。楽しみなことである。
これはその挨拶ブログである。

●参照⇒648日本人は5度も大被曝しても原発を動かす

2011/09/23

499天国へのエレベーター

 横浜駅前にある百貨店に、こんな表示のエレベーターがあります。
 このまま乗っていると、屋上を通過して天国に連れて行ってくれます。

2011/09/22

498中越震災7年目の山古志と法末

 久しぶりに山古志を訪ねた。この前は中越震災から4年目の2007年の秋であった。ようやく一般人も山古志に入ることが許された年であった。
 そのときは2日間にわたって10数kmを歩いて、被災と復興の様子をながめたのであった。参照→
https://matchmori.blogspot.com/2021/07/yamakosi2007.html
 同じところを4年ぶりに歩いて、その後の様子をみる予定であったが、9月なかばというのに猛烈な暑さで、熱中症寸前になって予定の半分も歩けなかった。
 詳しいことは、まちもり瓢論に書くことにするが、少ないながら生活の場が戻っていることがうれしく、そして山古志闘牛が復活していたのがおどろきであった。

 歩いているときに、偶然にも今日は闘牛が開催と聞いて、次にまた来ることはなさそうだと考えて2000円を支払って見物。
 1000人は入りそうな野外のアリーナである。うちはなしコンクリート表現で、なんだかモダンなデザインである。
 お昼過ぎからの開演で、16組の闘牛である。2頭の牛が頭と頭、顔と顔、角と角を合わせて、ぐいぐいと押し合う。牛が巨大なので迫力がある。
闘牛の動画


 勝負に賭けるのかと思ったら、それは一切なしで、原則として引き分けにする。それでも見れば勝ち負けの分かる場合もある。

 どうもこの闘牛は、元は牛飼いの遊びが、今は金持ちの道楽になっているらしいようだ。山古志の集落で育てているオーナーもいるが、東京とか新発田とか岩手だとかにいるオーナーの牛も出てくる。肉牛とあわせて闘牛も育てているらしい。
 だから観光の呼び物ではあるが、元来は地元の人々や牛の飼い主が楽しんでいるらしい。ヤマコシハルウララなんて名の牛もいれば、大勝力なんてのもいる。
 何番か見て途中で会場を出て、バスで小千谷にくだり、法末からの迎え車にのった。

 次の日は一転して寒いような雨となった。朝から雨中で稲刈り、ハサかけの労働。暑いよりは助かるので、けっこう能率が上がった。
 今年は、小正月に来て賽の神の行事、5月に来て田植え、今回の稲刈りで3回目である。
 2005年から震災復興の手伝いでやってきだしたが、いちじは月に2回もきていたものだたが、もう疲れてきた。
 稲刈りも体力がついていかなくなったらしい。休み休みに怠けてやっても、腰が痛い、足が痛い。
 震災から7年、集落の人たちも老いたし、わたしも老いてきた。人口は減少しても増えることはない。

 さて、7年先の三陸は?、フクシマは?

2011/09/15

497なんと1億立方メートル

 2011年9月15日の朝日新聞朝刊に、つぎのような記事がある。
「東京電力福島第一原発事故に伴い、放射性物質の除染対象になる可能性のある地域は、最大で福島県全体の7分の1に当たる約2千平方キロに及ぶことが専門家の試算で分かった。除染土壌の体積は東京ドーム80杯分に相当する1億立方メートルに上る計算だ」

 毎時1マイクロシーベルト以上の分布域が約2千平方キロ、この範囲の地表を深さ約5センチまではぎ取ると、体積は約1億立方メートルになる、という計算である。

 全域をはぎとるってことはできないだろうから、山の方はやめとくことになるかもしれない、とも書いてある。
 でも、山ははぎとらなくても、よいのだろうか。山から農地へ町へと水はながれくるが、それはセシウムを含まないのか。
 はぎとったらはぎとったで、保水力がなくなるから洪水になりやすいだろう。
 どこからどこまで除染したか、地上に線を描くのかしら。立ち入り禁止区域だらけの地域で暮らすなんて、う~む。

 1億立方メートルって,どれほどの大きさなんだろうか。
 10メートルの高さにつむとして、広さ1000ヘクタール、3.3キロメートル角の土地の広さになるが、余裕も入れると4キロメートル角ぐらいになるんだろう。

 これだけの核毒を含んだ土などを、トラックで福島第1原発の敷地に運搬てのも、えらい大変だなあ。沿道の人たちは、たまらんだろうなあ。
 福島第1原発の敷地が足りないのなら、その周辺の土地を東電が買い足して、核毒の丘を造るのであろう。そのうちに木が生えて核毒の森となる。
 だが、そこから流れ出る水に含まれるセシウムなる核毒は、太平洋に直接注ぎこむのだよなあ。

 考えるだけで頭が痛くなるのは、わたしがドシロウトだからかしら。
 だれか、そんなバカなこといってと、哂って教えてください。

(追記110915夕方)
 朝日新聞の夕刊に、こうでている。
「東京電力福島第一原発事故による放射能汚染が新たな環境問題として浮上している。冒頭のスピーチで細野豪志原発相兼環境相は、被災地の除染について「政府として不退転の決意で臨む。経済性を度外視してでも取り組む」などと述べ、環境回復への決意を表明した」

 大臣の個人的決意はともかくとして、「経済性を度外視してでも」って、どういうことなんだろうか。
 そもそも核毒の除染に、経済性なんて視点があるのか? 
 そんなもん赤字にきまってるだろう、もちろんその赤字は東電が背負うべきものだよね。
 たとえば集めた核毒から、再利用エネルギーを取り出す方法が、あるんだろうか?
 
 除染に経済性なんてものが、あってたまるかってんだ。
 これって、原発が経済的だといってるのと同根の思想だよ。
 つまり核エネルギーをコントロールすると誤解していたことが分かったのに、まだ核毒をなくす技術があるんだというのである。
 ほんとうだろうか。

2011/09/14

496核毒汚染地域になぜ戻るのか

 どうにも、わからないことがある。
 福島第1原発から発射した核毒は、田畑に山林に学校に住宅にと、ふりそそいでいるのだが、これを除染(これは除洗かしら)といって汚染した毒を除くのだそうである。
 除染が必要なことはわかる。そこからさきがわからない。だって、その場所で除いた核毒は、いったいどこに行くのだろう。

 たとえば水で洗うとして、その水の流れた先に毒が移転するだけだろう。その移転先をまた除染して、そこから移転先をまた…、ようするにイタチゴッコである。
 川から太平洋へ行くのかしら。川の汚染、海の汚染が大変なことになる。海の除染なんでできるのかいら。
 
 今朝の朝日新聞に、こうある。
「福島第一原発から半径20~30キロ圏の「緊急時避難準備区域」を抱える福島県の5市町村が、区域の解除に向けた復旧計画をおおむね完成させ、近く国に提出する。各市町村は住民が帰還を完了する時期について、来年3月末を軸に調整している。とはいえ住民が戻るには放射性物質の除染が不可欠。自治体側は「すぐには見通しがたたない」と不安も抱えている」

 おなじく、こういう記事もある。
「筑波大の恩田裕一教授や気象研究所などのチームは6~8月、計画的避難区域に指定されている川俣町山木屋地区の3地点の森林で土壌の汚染度や大気中の放射線量を調べた。
 この結果、土壌のセシウム134と137の汚染度の合計は、広葉樹林が1平方メートルあたり71万ベクレル、杉の若齢林が47万ベクレル、壮齢林は91万ベクレルと、チェルノブイリ原発事故での「強制移住」レベル(55万5千ベクレル)の汚染だった」

 このような濃度の核毒が森林にあるなら、もちろん田畑にも、住宅地にもある。
 チェルノブイリでは強制移住したレベルの地域を、フクシマでは除染して復旧するのだろうか。
 もうちょっレベルが低い(らしい)「緊急時避難準備区域」では、除染して復旧するらしいが、これって本気だろうか。

 まず第1の問題は、どうやってその広大な地域をくまなく、除染作業を行うことができるのか。森林は丸坊主となると水害が起きるだろうし、田畑は表土が命なのに洗ったり他に持っていってしまったら作物ができなくなるし、住宅地や市街地は私有地にどうやって対応するのか。

 第2は、そうやってとりのぞいて溜まった膨大な量の核毒の蓄積するものを、どこにもっていくのか。そんなものを持っていけるところは、いまのところたった一箇所、福島第1原発敷地のみである。そんなにひろいのかしら。

 第3に、そんな大量の猛毒ばかりの中で、だれが除染作業に働くのだろうか。それをやるべき人は、発毒責任のある東電の社員たち(株主たちも)だろう。

 第4に、その期間である。そんな広大な地域をすべて洗うとかチリなど取り除くとか、いったい何年かかるのだろうか。その間に避難している人たちは、もうひとつの生活を築くしかないから、除染後にもどる人がどれくらいいるだろうか。

 第5に、その膨大な費用である。これは当然のことながら、東電と株主とですべて負担するべきである。

 どうもわからない。
 しろうとかんがえでは、現実にはとてもできることではないような気がする。
 故郷を捨てがたい人々によりそうべき政治や行政の立場からは、除染して復旧するといわなければならないことは、よくわかかる。
 しかし、それは、問題を先のばしにするだけであると、わたしは思う。
 どこかで除染をあきらめて完全撤退、どこかは除染するが再居住も撤退もあるという、線引きをせざるをえないだろう。

 そして積極的撤退の政策を手あつくすすめるべきであると、わたしはおもう。
 それは人口減少時代の日本の居住政策のありかたと、共通の大問題の課題である。

2011/09/13

495福島第1原発は再稼動するらしい

 今朝に朝日新聞に、福島原発の事故現場で働く人たちのことで、労働災害にガンも加えるようにするという記事があり、そこに原発の「復旧作業員」なる言葉があり、オヤッと思った。
 福島第1原発では「復旧」作業をしているのかい?、えっ、まさかそんなことあるまい。

 で、新聞の「復旧作業」をネット検索してみたら、あるある、ずっと使ってるんだ。
 たとえば、「福島第1原発の復旧作業に当たった40代の男性作業員」(日経8月30日)、「お盆期間中も福島第一原発での復旧作業は続いており」(朝日08月11日)。
 初め頃はどうだったろうかと見たら、「中断していた電源復旧作業を再開した」(朝日3月24日)とあって、これなら電源だからあたりまえに分かる。
 それが今は「福島第1原発の復旧作業」であるから、これはもう原発を震災前のして再稼動するための作業しているのである。

 そうだったのかあ、しらなかったなあ、わたしはてっきりもう福島第1原発の復旧は、ありえないことと思っていたんだよなあ、わたしはナンとおバカなんだろう。
 こうはっきりと、再稼動に向けて作業していると、たびたび報道されているのに、ちっとも気がつかなかったよ~。
 こわ~い。
 まさか、新聞屋が復旧って日本語の意味を知らないってことは、あるまいなあ。

2011/09/12

494死の町への地図

 怖い地図である。こんなにも核毒が降り積もっているのだ。
 チェルノブイリの前例を思えば、この赤と薄赤の範囲は、死の町になるのだろうなあ。
 当然、そこの関係権利者たちには、東電が十分な補償金を支払い、移転代替地も確保して、手厚く対応するにちがいない。当たり前でしょ。

 この地図は、9月11日時点の福島原発から出た核毒の分布状況であり、群馬大学の早川由紀夫さんのブログに載っている。
http://kipuka.blog70.fc2.com/blog-entry-418.html
http://gunma.zamurai.jp/pub/2011/0911gmap06.jpg
 こう注意書きがある。
「転載のルール:新聞とテレビへの転載は固くお断りします。これは9月10日鉢呂大臣を辞任に追い込んだ不当な報道に対する抗議です。非商用目的には自由にご利用ください。無料です」

●参照→核毒の森と海
http://sites.google.com/site/dandysworldg/kakudoku-woods

2011/09/10

493国際大相撲

 今朝の新聞に大相撲番付なるものがあり、相撲取りの一覧表がある。
 みれば、上位の横綱と大関はモンゴル人2人、エストニア人とブルアリア人が各1人である。

 で、下の方を見ると、グルジア人3人、モンゴル人6人、それにブラジル人、チェコ人、ロシア人が各ひとりである。
 おお、なんとまあ、国際的であるなあ。
 それにしてもモンゴル軍の席捲ぶりはすごいものがある。

 1274年と1281年にモンゴル・高麗連合軍が日本に攻めてきて、2回とも日本軍に負けて逃げていった。
 あれからモンゴルは雌伏720余年、21世紀となってついに日本軍に勝って見事に復讐を遂げたのである(らしい)。
 今度は高麗ではなくて、モンゴル・東欧諸国連合軍である(らしい)。
参照→http://datey.blogspot.com/2008/11/blog-post_28.html

2011/09/09

492福島原発周辺は死のまち

「鉢呂経済産業相は9日の閣議後の記者会見で、東京電力福島第一原子力発電所の周辺自治体を野田首相らと8日視察した感想を述べ、「残念ながら周辺町村の市街地は人っ子一人いない、まさに死のまちという形だった」と発言した。
 経産相は「福島の再生なくして、日本の再生はない」とも述べたが、原発事故やその後の対応で政府の責任が問われる中、担当閣僚自身が周辺地域を「死のまち」と表現したことは波紋を呼びそうだ」(YOMIURI ON LINE 2011.9.9)
 asahi.comもこう結ぶ
「原発事故の被災地を「死のまち」と表現したことは今後問題になる可能性がある」

 こういう記事は、どういう意図で書くのだろうか。
「波紋を呼びそうだ」とは、だれが波紋を投げるのか。
 もうだれかが波紋を起こしたのなら、そう書くべきだろう。まだなら予断記事だ。
 どうも思うに、あの大臣はけしからん、と、新聞記者が世の中を扇動しようとしているとしか読めない。

 福島原発周辺が死のまちなのは、そのとおりであって、そう言われて怒るとしたら東電だろうなあ。
 地元の人が大臣からバカにされたと思うものだろうか? よくぞ言った、そのとおり、それをやった東電けしからん、そう思うような気がする。
 あ、そうか、原発推進派の読売新聞は、東電の悪口になることをいうと怒るんだ、そうにちがいない。
 でも朝日は脱原発派だよなあ、??

(追記 110910)
「鉢呂吉雄経済産業相は9日夕の記者会見で、東京電力福島第一原子力発電所の周辺市町村について「死のまち」と表現した自らの発言を撤回し、陳謝した。この発言をめぐり、野田佳彦首相は同日、「不穏当な発言」として謝罪と訂正を指示。原発事故の被災地も反発している」(2011年9月10日朝日新聞)

「9日午前の記者会見で、福島第一原発周辺について、「人っ子一人いない。まさに死のまち」と表現したことについて、同日午後の記者会見で「被災地の皆さんに誤解を与える表現だったと真摯(しんし)に反省し、表現を撤回し、深く陳謝申し上げる」と謝罪、発言を撤回した」(2011年9月10日03時03分 読売新聞)

 ふ~ん、謝っちまったんだ。メディ屋にいじめられたらしい。新大臣はあら捜しされるのは仕方ないのか、ここで突っぱねるとごたごたと政局にかかわるから、本音じゃなくても謝らざるを得ないだろうなあ、気の毒に。

 ところが謝らない人がいる。
 武田邦彦・中部大学教授が、読売テレビ(大阪市)の番組に出演して、こんなことがあったそうだ。
「4日午後に放送された「たかじんのそこまで言って委員会」で、「東北の野菜とか牛肉を食べたらどうなるの」という小学生の質問に、「青酸カリがまかれた」「青酸カリをのけてから植えてくれ」「東北の野菜を食べたら健康を壊す」などと発言した際に一関市の名を挙げた。ほかの出演者が「発言を取り消すべきだ」と言ったが、「取り消しません」と応じていた」(2011年9月10日朝日新聞)。

 その後一関市長からも抗議があったけど、「分かりやすく言ったまでのこと」と、取り消しや謝ったりはしないとのこと。そりゃそうでしょう。
 ここが政治家と学者の違いであろう。政治家はつらいね。
 それとも鉢呂さんて、もともと変な人で、なにかボロをだすだろうとメディ屋がてぐすねひいて待ってたのに、引っかかったのかもなあ、。

(また追記110910夜)
 あらら、とうとう辞めちまった。鉢呂さんてどんな人か知らないが、民主党は後にもっとよい人材がいるのかしら?
 それにしても、今後は原発事故発言はうっかりとはもちろんだが、思い切ったことも言えないことになったな。原発事故には思い切った政策が必要なのになあ。
  悪いのは東電なんですよ、敵を間違えないように、忘れないようにね。

(またまた追記091112)
 これから鉢呂さんの後任人事に誰をすえるか、野田さんもあたまがいたいことだろう。
 原発もTPPも積極推進する人にせよと、産業界から圧力がかかっているに違いない。
 そして、そういうひとを任命するにちがいないよなあ。

(みたび追記091113) 鉢呂さんの後任は枝野さんにきまった。この人だけはわたしも顔を知っているのは、ふだんみないTVを原発爆発のあたりはのニュースでよくみた政府の報道官?だったな。
 少なくとも原発のことは、いやおうなくよく知った人だろうってことぐらいは、わたしでも分かるが、この人の原発TPP政策への考えはどうなんだろうか?

491シニア・アダルト商品はいかが?

 なんだかあれもこれも食いものが核毒に犯されていく。
 地域的にも品数的にもどこまで広がるのか見当もつかないし、その核毒がなにから来たのかよく分からなかったりするのだから、これはもう風評被害なんてものではなくて、純粋に被害そのものである。

 今朝の朝日新聞に放射線防護学者の安斎育郎さんが語っている。
「71歳のじいさまである安斎育郎が、汚染したものを多少食おうが、20年後にがんになりますといわれても、ほかの原因でたぶん死んじゃっているでしょう」

 そうなのである、前から思っていてこのブログにも書いたが、年よりこそは福島核毒地域に救援ボランティアに行くべきだとね、と。
 そう言いながらわたしはいまだにいってないのだが、。
 そこでどうだろう、70歳以上には、東電から交通費の半額補助をするのである。これなら喜んで行くものが多いだろう。まあ、手足まといも多くなる心配もある。

 そしてまた考えた。
 福島振興のために、核毒汚染食品を年寄りが積極的に買って食うのである。
 これも70歳以上という身分証明書を見せると売ってくれるようにする。70歳未満には売らない。
 これもできれば、同じようなものの市価の半額くらいにしていただけると、わたしはまことにありがたい。もちろん後半分は東電が負担するのだ。
 つまり核毒シニア・アダルト商品である。ほかにもありそうだ。

2011/09/04

490内閣支持率調査って?

 日経67、読売65、産経62、毎日56、朝日53
 なんの数字かといえば、今日の各新聞にある世論調査で、野田内閣を支持すると答えた人のパーセンテージである。同じ日に調査すると、互いに協定しているのだろう。
 多い順に並べてみたが、これって新聞社としての内閣支持度合いと一致しているのだろうか。
 まあ、こんな数字はどうでもよろしい。だって、これまで一度もオレところに調査に来てないんだもん、本当に調査してるんかい、。

489核毒の森と海

 1986年4月26日にウクライナ共和国のチェルノブイリ原発4号炉が爆発して大量の放射線物質つまり核毒をまき散らした。
原発から30km圏や300kmも遠くのホットスポット地域が永久に居住禁止、消えた村や町は500にもおよび、40万人もが故郷を追われたそうだ。
 goole earthでその今の様子を空から見た。プリピャチ市に原発のためのニュータウンがあったのだが、もちろん今はゴーストタウンである。
 住棟の間は森となっている。まさに「核毒の森」である。
 もしもこれが雨量も多い温暖な日本なら、もっと緑の生い茂る深い森になっているはずである。
●参照
・プリピャチ・ゴーストタウン
http://static.panoramio.com/photos/original/42440870.jpg
・チェルノブイリ原発石棺
http://static.panoramio.com/photos/original/41850379.jpg
・プリピャチ・ゴーストタウンとチェルノブイリ原発石棺
http://static.panoramio.com/photos/original/13702819.jpg

 同じように福島第1原発のあたりも空からのぞいてみた。
 福島第1原発事故の今後はどうなるのだろうか。 福島第1原発事故の今後はどうなるのだろうか。
 都市や地域の計画をやっていたわたしには、原発から発した核毒汚染地域の今後である。多分、永久に居住禁止になるだろう。
 この写真の範囲は、多分、ゴーストタウンとなり、20年後は深い森になっているのだろう。


●続きの全文はこちら
http://sites.google.com/site/dandysworldg/kakudoku-woods

2011/09/02

488対日戦勝記念日の新聞広告

 今朝の朝日新聞の全面広告に、当時の極東指令官マッカーサーの姿が載っている。コーンパイプをくわえて、厚木飛行場に着陸した飛行機から降りようとする。
 これは1945年8月30日であった。

 日本では8月15日を終戦記念日というが、太平洋の向こうのUSAではこれに対応する日は9月2日で、対日戦勝記念日(Victory over Japan Day)というそうだ。
 つまり日本がミズーリ号の甲板で公式に降伏文書に調印した1945年のその日なのだ。
 そう、今日である。対米敗戦記念日である。

 この広告はなにを言おうとしているのか。
「いい国つくろう、何度でも」
 下の端っこに「宝島社」とあり、文字はこれだけである。宝島社とは出版社のことだろう。
 多分、震災復興への期待を込めて、あの悲惨な戦争から復興したのだから、今度もがんばろう、なんて言ってるつもりなんだろう。

 極東軍司令官だったマッカーサーは、1942年3月にフィリピンから日本軍に追われて、「I shall return」と悔しさを込めて言ってオーストラリアに逃げ出した。
 それから3年半の戦いの後、自分を追った敵地日本に勝利軍としてリターンしたときの、得意の姿が今日の広告である。

 この後、すぐに横浜に行き、都心のホテルニューグランドに居を構える。
 極東軍司令官として彼は横浜都心を無差別爆撃により破壊していたが、こんどは連合国軍最高司令官として横浜都心部などを広く接収して、占領軍の基地とした。
 横浜は戦災の上に占領が重なったが、さらに1950年から始まった朝鮮戦争の連合軍基地ともなり、マッカーサーのおかげでその復興は他の戦災都市と比べて著しく遅れざるを得なかったのであった。
 
 あの頃を知る横浜市民にとっては、この写真に復興をかけるのは複雑な思いであろう。同じ思いは沖縄県民もだろうか。

2011/08/31

487大丈夫か横浜都計審

 横浜市都市計画審議会の傍聴に行った(2011年8月31日)。
 今回の議事には市街地再開発事業の都市計画という、じつに高度にして複雑な案件があったので、委員がどうこれに対応するか興味があったのだ。
 もう少し意地悪に言えば、はたして実質的な審議ができる能力が、今の委員にあるのだろうか、議案の内容よりも委員の議事への態度を傍聴に行ったのであった。
 結論から言えば、再開発事業の都市計画に関しては、どなたも何にもご存じないらしかった。素人談義でさえもなかった、といってよいだろう。

 再開発事業の都市計画に関する議案を審議するには、都市計画審議会は次のような視点を持たねかればならない。
 まず、事業権利者や事業地区周辺住民等への対応で計画策定過程で適正な手続きをしてきているか、都市環境を大きく改変するこの再開発事業が都市計画として適正であるか、そして事業の早期実現性から見てこの都市計画は適正であるかの、3点である。

 この案件での発言は、21人中4人が7件、しかし実質的な内容にかかわる発言は、たったの一件であった。肝心の事業の実現性にかかる発言はまったくなし。
 計画内容に特に大問題があるとは思えないが、内容が複雑多岐にわたっているし、反対の意見書提出や公述が多くあったのに、審議会がこの程度の審議でよいのだろうか、と、つくづく思った。
●この全文はこちら
 http://sites.google.com/site/matimorig2x/110831yokohama-tokeisin

●関連→あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている
http://sites.google.com/site/matimorig2x/tokeisin

2011/08/30

486世界遺産帝国主義論!?!

 文化庁は近いうちに、鎌倉は富士山と一緒に世界文化遺産登録の推薦書をユネスコに出して、審査を受ける段取りに入るそうだ。
 鎌倉は日本の世界遺産登録の最初の推薦暫定リストに入ったのだが、いまだに本推薦に入れない状態にある。それはどうしてかはここでは書かない。
 
 世界文化遺産はコアとなる施設やエリアが登録対象資産となるが、その周辺地区を登録資産と調和する景観域(バッファーゾーン)として設定することが求められる。
 分かりやすく言えばバッファゾーンには超高層ビルとか真っ赤な看板とかは禁止である。
 鎌倉市のいわゆる旧鎌倉と呼ばれるエリア内に登録候補資産はあり、バッファゾーンは旧鎌倉エリアのほとんどとなる。

 さて、そのバッファーゾーンに「元治苑」という邸宅がある。そこには立派な庭園があり、移築してきた江戸時代の茅葺屋根民家がある。
 そしてお決まりのように、ここを住宅開発事業者が買って、分譲共同住宅(いわゆるマンション)を建てることになった。
 そしてまたお決まりのように、近隣住民たちから反対運動がおきた。

 わたしは詳しいことは分からないが、反対運動の理由はこうらしい。
 まず、世界遺産登録候補資産のバッファーゾーンに共同住宅に建てることは、世界遺産登録を目指すまちづくりにはふさわしくない。
 そして、歴史的建築物と庭園を調査をきちんとして評価し、歴史的な施設として保存するべきである。
 そしてまた、地中には鎌倉幕府の遺跡がある可能性が高いので、その調査をして遺跡保存するべきである。
 
 鎌倉にお住まいのジャーナリストの知人から、この件についてアンケートで回答を求められたので、回答した。
 その方のブログにわたしの回答が載せられている。
  http://blog.livedoor.jp/kikurotakagi/archives/3503280.html
 そしてほんの少しだが反論があった。
  http://blog.livedoor.jp/kikurotakagi/archives/3506583.html

「世界遺産帝国主義」なる刺激的にも読める言葉をあえて使ったので、反論がものすごくあると期待したのだが、それほどでもなくて、期待はずれだった。
 世界遺産帝国主義でなにが悪いって、そんな反論をわたしが書きたい。

 わたしはレーニンも秋水も読んだことはないのだが、「**帝国主義」なる言葉は、社会学者の上野千鶴子が建築家の山本理顕のことを「空間帝国主義者」と言ったのを読んで、なるほどこれは面白いと、適当に応用しているのだ。**原理主義も使える。
 そういえば、世界遺産登録ってのは、どこか西欧による文化帝国主義の臭いがする。

●参照→景観帝国主義
  http://datey.blogspot.com/2009/01/blog-post_30.html
 鎌倉の世界遺産
  http://datey.blogspot.com/2009/12/210.html
 世界遺産談義
  http://homepage2.nifty.com/datey/kamakura-sekaiisan2010.htm

2011/08/28

485言いにくいことを言って辞める菅さん

 政治家も、行政マンも、そして多分もっとも痛切に住民さえもが、そう、だれかれもがそう思っている、そう思うしかないのだが、どうにも言いにくいことがある。
 それは福島第1原発の周辺地域は、もう人間の場ではなくなったことである。
 しっかりと核毒が降り積もっていて、これを解毒もできないし、どこかに持っていくこともできないのだから、当然のことである。

 そしてまたもうひとつの言いにくいことだが、原発周辺地域を越えて広く薄く降り積もった核毒まじりの土砂や瓦礫などを持って行って置いておくのは、この人間の場でなくなったところしかない。核毒を振りまいた東電が引き取るのである。
 そう、これをわたしは「核毒の森」と言うのである。http://datey.blogspot.com/2011/08/47921.html

 ところが、ついにそれを公言してしまったのが、首相の菅さんである。
 昨日(201年8月27日)、管首相は福島県知事と会談して、原発周辺では長期間住めない地域が生じること、県内に放射能汚染の土壌や瓦礫を中間貯蔵する場所を作りたいと、伝えたと新聞の報道である。そして怒る福島県に謝ったそうだ。

 これは実は誰もがわかっていて、実に言いにくいことだが、誰かがいつか言わねばならないことだ。それもできるだけ早期に。
 菅さんの次の首相に言わせて、彼は逃げてもよさそうだが、あえて言ったのであろうか。
 もしかして次の候補者たちが原発にはあいまいな態度なので、ここで言っておかなければなるまいと奮起したのか。辞任の置き土産だろう。

 菅さんの言葉は、長期間住めないとか、中間貯蔵とか、時間と空間をあいまいにして言っているが、はっきり言って人間の場ではなくなるのは明白だろう。
 そんな汚れきったところで誰が働き、だれが暮らしたいと思うのだろうか。フクシマ「核毒の森」にならざるを得ないと、だれもが思っているに違いない。

 そもそも東京電力が発した毒物であるから、原因者の東電が回収するのが当然のことだろう。
 こういうときに首相の菅さんが登場して謝り、どうして東電の社長が出てきて謝罪と核毒回収を言わないのか不思議である。政府は東電の手先か。
 そりゃ東電だけでは解決できない政治的な問題となっていることは確かだが、それにしても不思議きわまることである。モラルハザードの典型のような気がする。

 受益圏と受苦圏という考え方が、環境社会学の世界であるそうだ。
 事故以前の福島は、原発受益権だったのか、それとも受苦圏だったのか?
 今まさに福島が受苦圏になったことの社会的な意味はどうなんだろうか?
 一般に原発の受益圏、受苦圏はどう考えるのだろうか?
 この受益圏と受苦圏について、もう少し考えてみたい。

2011/08/27

484女性マラソンの風景

 KOREAのテグで開催されている国際大会らしい、TV中継の女性マラソン競技を見た。
 スポーツ競技をTVで見ることはないが、マラソンだけが例外である。
 といっても競技には興味がなくて、その背景に映る町並みを見たのである。
 うるさい音を消して見ていると面白いのだが、突然に変な画面になる。邪魔な広告である。
 ふん、こちとらは邪魔が入ると、TV画面から新聞に目を移して読むのだ。
 はじめのうちは邪魔広告が多かったが、終わりのあたりから少なくなったのは、ちょっとは広告の入れ方を考えているらしい。
 邪魔といえば、しばしばあられもないアマゾネス群が画面を占めるのだが、まあ、これは仕方ない。
 
 テグの街は、メインストリートらしいから、並木が整い、広い歩道で、高層ビルが諸所に見える。
 見慣れた普通の現代風の姿で、はっきり言って、つまらない風景だった。建築デザインも普通だった。
 どの店舗にも壁面に大きな文字広告があるのが、目に付いたくらいのものであるが、読めないから分からない。
 ところどころに横に入る道が見えて、そちらの方が面白そうだが、もちろんカメラは曲がらない。
 
 テープを切ったアスリートは、アフリカ系のようだった。
 マラソン女性たちを見ていて、一様に乳房が小さいのに気がついた。これって、走るのに必要のない筋肉が、過酷なトレーニングでそぎ落とされていったのだろうか。
 参照→170はるかなるベルリンhttp://datey.blogspot.com/2009/08/170.html

2011/08/26

483言葉の酔時記よろしいですか

 え、強盗大国?、、よく読んだら強大国だった、北朝鮮人民共和国のスローガンである。う~む、最近目が悪くなったなあ。
 でも、耳はよいのだ。気になる言葉が多くて、困る。

 すし屋で昼飯メニューの特寿司、上寿司、並寿司の中から、並を注文をした。
「はい、並寿司でよろしいですか」
「あのなあ、安物の並でいいのかよって、客に失礼でしょ。確認したいなら、『並寿司でございますね』って言いなさいよ」

 本屋で1050円の本に5千円札を出した。
「はい、5000円でよろしいですか」
「あ、いや、よろしくありません、3950円お釣りをください」

 劇場公演チケット予約で聞かれた。
「では、お名前を伺ってもよろしいですか」
「あ、いや、よろしいかよろしくないかって聞かれてもわかりません。よろしくありませんって答えの選択もあるんでしょうか。あのね、単に名前を聞きたいだけなら質問形式じゃなくて、『お名前をお教えください』って言いなさいよ」

 ホテルのフロントで予約の確認をされた。
「お名前とお電話番号を頂戴してもよろしいですか」
「あ、いや、よろしくありません。名前も電話番号もあなたに差し上げるわけにはいきませんので、それだけは勘弁して泊めてくださいよ」

2011/08/25

482震災を食いものにする人たち

 震災に関しての悪稼ぎは、避難後の空き巣盗、放置被災自動車盗などがあるらしいが、それはコソコソとやるだろう。
 ところが、トラック野郎たちは昼も夜も堂々と盗人たけだけしいのだから、なんともいやはや、いくら犯罪にならないといってもなあ…。

 震災復興の支援策として、東北方面の高速道路利用のトラック通行料金を無料にしたら、これを悪用して関係ない方面にも無料通行するヤカラが続出、無料制度を取りやめにするそうだ。
 まあ、復興支援を急ぐためにチェックシステムがないままに、トラック屋のありもしない良心を信じたのが間違いのモトであった。
 悪貨が良貨を駆逐した、、か。

 今わたしが心配しているのは、被災地のどこかを公有地化する必要が必ず出てくるが、そこを国や自治体より先駆けて買い占めるヤカラがいるだろうことである。
 かつて、「ダム屋」といわれる人たちがいた(今もいるか)。河川のダムによる水没予定地の土地を買って小屋を建てて暮らしているように見せて、ダム事業者が買収にくるとなんだかんだとゴネて値を吊り上げて不当利得をせしめるのである。
 こんどは「震災屋」とでも言おうか。

 特に、福島第1原発の周辺地域は、核毒汚染で使えなくなったのだから、東電の金で公有化して、人間の場所でなくしてしまうしかない。
 ここの土地にダム屋のようなヤカラが目をつけないはずがない。
 いますぐにでも地価凍結、権利凍結の手を打つべきだが、政治のごたごたでモタモタしてると、利に敏い「震災屋」さんたちに食いものにされるぞ。
●参照→「核毒の森

2011/08/24

481あの品のない顔と口のアンチャンか

 島田紳助なる芸人がいて、暴力団の人と付き合いがあるのがばれて、引退するというニューズ。
 TV番組をめったに見ないから知らなかったが、新聞の写真を見て、いつだったか骨董品の鑑定の番組に出ていた人だと気がついた。
 そのときは、なんとまあ品のない口ぶり、ついでにお顔のほうもお品のない方、何者だろうって思ったものだ。

 新聞によれば、そんな人がいくつものTV番組を司会する人気芸人だそうである。
 まあ、どうでもよろしいが、全国紙の読売新聞は第1面の記事なんですね、しかも「さん」付けですよ。
 朝日新聞も社会面の半分も占めているんだからなあ、よくわからん。

 記事の中身が奇妙だと思ったのは、ひとつは、暴力団がいけないのではなくて島田なにがしが付き合ったのがいけないというニュアンスであることだ。片一方にずれているような気がする。
 もうひとつは、芸人当人は悪いこととの自覚はまったくないらしいことだ。上から言われたので悪いことらしいと気がついたので、いさぎよく引退するって、なんだか粋がっているらしい。

 引退といえば菅さんを連想するが、彼はなんで首相引退するのだろうか。
 暴力団と付き合ったのかしら、なにか失言でもしたのだろうか、それとも大失政でもあったのだろうか、相撲取りみたいに八百長したのかしら、内や外からの政治屋・新聞屋にたたかれて、もういやになったのだろうか。どうもよくわからん。
 あ、そうか、日本の首相は1年で引退ってルールがあるんだっけな。

 で、次は誰なんだろうか。
 芸人島田の引退した後の番組の司会業を引き継ぐ人は、今度は顔と口に品のあるゴ清潔なお方なんでしょうね。
 でもなあ、芸人が清潔でイケメンじゃあ人気でないよなあ、昔から無頼と芸人とは紙一重でしょ。
 首相のほうの後継も、なにとぞ品のある口とお顔の方になっていただきたいものである。
 アンチャン顔のお方では困るのである。こちらは芸人じゃないんだからね。
 ま、どうでもいいけど、どうぞご勝手に。

引退の話の追加(110826)
 アップル社のスティーブ・ジョブズが、病気療養のためにCEOを退くのだそうだ。天才経営者と言われる人も、病には勝てない。その年齢が56歳、まだ若い。
 で、あの島田某の年齢が55歳である。まだ若い。
 お粗末引退芸人と比較しては、ジョブズが怒るだろうが、たまたま同時期に起きたので、ついその顔つきとか言動とか評判とか比較してしまった。

2011/08/23

480ネパールからモティさんがやってきた

 ネパールからモティ・マハジャンさんがやってきた。
 モティさんは、カトマンヅ日本語学院の教員である。今年3月末から4月にかけてわたしが遊び仲間とネパール旅行に行ったときに、通訳兼ガイドをしてくださった。
 国際交流基金による日本語研修を受けるために来た。埼玉県に研修宿泊施設があり、50カ国程度から90人ほどの研修生が、遠くは南米コロンビアからもいるそうだ。

 モティさんはもう4回目の来日、横浜はまだというので、研修が休みの土・日曜日に、関東南部から行ったF、Y、Dの3人が横浜の港の街を案内、Fが自宅に宿泊招待した。
 元町を歩いていて、モティさんが突然立ち止まって店の看板を見ながら、このパン屋さんのご夫婦をネパールで案内したことがあるといい出した。
 閉店直前の店に入り、確かめたらまさにそうであった。そこを訪ねる予定はなくて適当に歩いていたのだから、まったくもって国際的偶然であった。
 数日前の休みには、研修生仲間の数人で富士山にも登ったという。モティさんはヒマラヤのある地の人だから、富士山の登りははたいしたことはなかったが、下りの須走りには困ったそうだ。

 翌日の弘明寺観音で、ネパールから来たと聞いた僧侶が、近くにネパール料理店があると教えてくれて、早速にたずねたら店中をあげて大いに盛り上がる。
「ゴルカキッチン」の名のごとく、カトマンヅからきたゴルカ出身者の経営である。
 経営者の弟の若者が給仕をしてくれて、横浜国大のドクターコースでバイオテクノロジーの研究をしているとのこと。さすがに日本語がうまい。
 久しぶりにネパールの味に再会した。評判の品はなんですかと聞くと、それはナンです、と答えるので、食ってみたがたしかに美味かった。ただし年寄りには1枚でも多すぎるのが、ナンである。

 つい先日、ネパールでは肝心の憲法はいまだにできないままに、首相が3ヶ月でまたもや辞任するというニュースがあった。
 その裏をちょっと聞いてみたが、南北にインドと中国という大国にはさまれた多民族国家の深い悩みは、政治素人外国人にはよくわからない。
 ネパールで案内してもらっているときは、忙しくてじっくりと話が聞けなかったが、こちらでは飯を食いながらあれこれと日本とネパールの違いやら同じところやらを聞いて、実に面白かった。
 長い昼飯となったその店を出て、「今度はヒマラヤでまた会いたいね」と、わたしはそこで別れた。東京に用事あるFが、銀座に案内して行った。

参照→●ネパールの旅      ●ネパール逍遥  ●草の根校舎の会

2011/08/22

479●21世紀の「谷中村」は「核毒の森」

 その地の人々には気の毒ではあるが、福島第1原発から出る核物質で強度に汚染された地域は、21世紀の谷中村にならざるを得ないと、わたしは思っている。
 昨日、政府がそれをこわごわながらも言い出したのは、近日中に代わることになっているらしい首相の菅さんが、最後の一手として火中の栗を掴んだのであろうか。
 それは多分、後継の人が言い出しにくい種のひとつであるこの栗を、辞める菅さんに言いだしっぺとして掴ませたのであろう。

「平野復興相は21日、東京電力福島第一原子力発電所事故で高濃度の放射性物質に汚染された周辺地域への立ち入り禁止措置が長期化した場合の対策として、他地域に避難している住民が長期間住むことができる住宅を新たに整備する意向を明らかにした。(
読売新聞 8月21日(日)18時16分)」


「政府は、東京電力福島第一原子力発電所の事故で、放射線量が極めて高いなどの理由で、相当長期にわたって帰宅が困難な、原発周辺の一部区域については、当面、警戒区域のまま解除しない方向で、こうした区域の土地については、国が買い取るなどの対策も検討していくことになりました。(NHKニュース8月21日 18時39分)」


「菅政権は、東京電力福島第一原発の周辺で放射線量が高い地域の住民に対し、居住を長期間禁止するとともに、その地域の土地を借り上げる方向で検討に入った。(朝日新聞8月21日朝刊)」

 わたしでさえ予想していたのだから、その筋の業界のかたがたは、現地地権者との折衝に、すでに動いていらっしゃるかもしれない。
 こうなったら、政府は土地建物立木等権利移動凍結・価格凍結の施策を今すぐにでも打つべきである。
 もたもた遅れている間に、妙なことをする人々が介入してきて権利移動・価格高騰が起きると、結局は住民にも国民にも迷惑がかかることになる。

 足尾鉱毒事件は19世紀末からのながながい公害事件で、古河鉱山と手を結んだ政府が、渡良瀬川下流域の村々を強制収用して農民を追い払ったのであった。
 その跡には、銅山から出た重金属に汚染された広大な土地が広がる。これを渡良瀬遊水地という。鉱毒の言葉がないのは、鉱毒のためではなく治水のためと詐称して作った巨大空地だからだ。

 福島核毒事件は、今年3月から始まったが、やはりこれもながいながい公害事件にさしかかっていて、東京電力と手を組んだ政府が、福島第1原子力発電所を取り巻く広範な地域から、住民を追い出すのである。
 その跡には、原発から出たセシウムなどの核物質に汚染された広大な土地が広がる。さてこの地をなんと名づけるか。
 
 鉱毒の重金属は今も遊水地にあるが、核の毒もこれから百年以上も地に残るらしい。人間はそこに住むことも、そこから産物を得ることもできない。
 人間ばかりか生物はみなそうであろう。
 人間の手が全く加わらなくなったら、日本の気候は多雨だから、ここにはかつての太古にあったような森林が復活してくる。これを自然遷移という。
 福島県の太平洋沿岸地域は、植生学上の潜在自然植生分類ではヤブツバキクラス域だから、タブを中心にしてシイやカシの類の常緑広葉樹の森になり、内陸部はブナクラス域だからブナ、ミズナラ、ツガなどの森になるであろう。
 
 この森を「鎮魂の森」とか「望郷の森」とか言いたい人もいるだろうが、わたしは「核毒の森」と名づけたい。当然ながら人々の進入を規制する禁断の森である。
 この禁断の森を後世の人々が忘れないように、その所以を伝えていくべきであると思うからこそ、渡良瀬遊水地のような欺瞞の名称ではなく核毒をもって名づけたい。

 この「核毒の森」のイニシャルコストとランニングコストは、巨大公害を起こした原因者の東京電力の企業および株主が負担して、国有の公園とする。
 それらの費用の一部は、多分、わたしにもいろいろな形で負担を強いてくるだろうが、それは原発の発した電力を享受した罰として、負担可能な相応額は引き受けざるを得ない。
 だが一儀的には、東京電力という企業とこれを支えた株主たちであることを、忘れないようにしたい。

 もちろん森の中心地には福島第1原発の廃炉群が無残な姿を見せている。
 廃炉の管理のための投資は長く長く続くだろうが、できるだけ無残な姿を露出して保存してもらいたい。
 放射線を出し続ける炉などはカバーするとしても、あの無残な建屋鉄骨はどこかにそばに移してでも、必ず保存してもらいたいのは、この大事故を後世伝えるには、目に見える姿が最も訴求力があるからだ。原爆ドームのように。
 そしてこの地を今すぐに世界文化遺産に登録するのだ。
 この深い禁断の森と発熱する廃炉群を、そしてそこに至る道程のすべてを、現世と後世の地球上の人々にしっかりと伝える役割を持たせるべきである。

 それがこの土地を追われた現代の谷中村民に対する、わたしたちの基本的な礼儀であると思う。
 悲惨であった足尾鉱毒時代とは違うから、十分な金銭補償等はなされるであろうが、それで済む問題ではない。
 だから登録は今すぐ行うべきである。3.11以来起きている物事のすべてを文化遺産として、後々まで伝えるべき重要なる人類の資産であるからである。

 世界遺産登録の基準に適合しないからできないなどという、手続きで反論があるだろう。
 だが、今の基準に適合しないような世界文化遺産に相当する事件が起きてしまったのだから、今の基準に拘泥する理由はまったくないのだ。
 もちろん世界遺産が観光資源と思われている世の中だから、その視点から登録の是非が議論されるかもしれない。だがこれは、論外の誤解曲解そのものである。

 できればチェルノブイリとスリーマイルも合わせて世界遺産に登録したいものである。
 そうすれば、すでに世界遺産登録となっている広島原爆ドームとビキニ環礁を合わせて、一連の人類愚行の核毒遺産として認識されるであろう。

●地震津波核毒事件コラム
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2011/08/19

478本日の広告イチャモン

 ときどき新聞広告にいちゃモンをつけている。今日は朝日新聞の全面広告3つ。

●罰当たりな時代になったもんだ
満足に食っても半分しかカロリーがない、そんなことが売り文句になる時代である。
 66年前のあの日から、毎日が腹の減る日々で、少なくてもカロリーあるものをと、必死に食料をあさった時代があった。
 それは今でも、地球上のどこかで同じことがおきている。
 罰あたりな宣伝文句が通用する時代は、平和なのか、ちょっと不気味でもある。

●汚い魔法のパンツ
この広告にはずっと前にもお目にかかって、そのときは「魔法のパンツ 一度はいたらやめられない」と書いてあったので、そんな脱げないパンツなんて、ウンコでキタナイよとイチャモンつけたことがある。
 参照→怪パンhttp://datey.blogspot.com/2010/08/307.html
 今日は「魔法のパンツが手放せない」とある。ちょっと変えてるなあ。

●道で冒険するなよ
いつもの道で、忘れかけてた冒険を蘇らせる、なんて、ああた、いい加減にしなさいヨッ。
 自分の行為に「ご用意」と書くし、「乗れる」「試せる」なんてら抜き言葉も平気で書くしなあ
 このコピーライターはどんな頭してんだよ。

追記20140613)本日、コメント欄に匿名さんから投書が来た。曰く『「「乗る」も「試す」も五段活用の動詞ですけど?」』
 あ、そうか、ら抜きしてもOKなんだ、この場合は、。動詞が五段活用あるいはサ行変格活用のときは「れる」OK、分りましたありがとう。
 ゴメン、ゴメン、お詫びして当該部分の罵倒を取り消します。

2011/08/18

477 原発船で安心だあ~?

 あるブログで、なんと原子力発電船の建設が紹介されている。
 もっとも、造船所の倒産で頓挫したらしいけど。
「ロシア、世界初の洋上原発プロジェクト頓挫」
http://infrascape.exblog.jp/16126557/
http://www.reuters.com/article/2011/04/18/us-nuclear-industry-floating-idUSTRE73H3S020110418
 そのブログではロイターの記事を紹介して、要点をこう書かれています。
「2つの原子炉で構成されており、これにより35000世帯を賄う70mWの発電が行える。プラントはドックまたは沿岸に停泊しそこからケーブルで送電を行う」
「ロシアの国営原子力エネルギー企業のPosatomは、輸出目的で12の洋上発電所を建設する予定だ。」
「最初の原子炉の建設費用は5億500万ドルで、当初見積もりより4倍超も高額になっているが、それでも従来の大型原子炉に比べてればごく小額だ」
****** 
 驚きました、あるんですねえ、世の中に本当にそういう計画が、。
 実はわたしのブログ「伊達な世界」に、3年前に冗談に書いたことがあるのです。
 その要旨は、次のとおり。
「巨大な原子力空母は巨大な原子力発電所を抱えているのだろうが、波にゆれる洋上では地震の真上にいると同じだけど大丈夫なのか?
 そこで突然に思いついた、アッ、そうだっ、原子力発電船を作ればよいのだっ、いい考えだぞこれは、。
 海に浮かんでいても、アメリカ政府や日本政府の言うように絶対に事故がおきないのなら、電力需要の多い地域の港に停泊して発送電すれば、エネルギー効率が断然良くなる。大規模工場はたいてい海べりにあるから、原子力自家発電船を作ればよい。
 万が一、事故がおきたらすぐにはるか沖に出て行ってしまえば、害を及ぼす範囲は格段に小さくなる」
●全文は→「地震に強いかも原子力発電船」2008年9月29日
http://datey.blogspot.com/2008/09/nuclear-carrier.html.
*****
 どうです、思いがけずに福島第1原子力発電所の大事故です。
 あれがもし福島第1原子力発電だったら、津波が来るぞとわかったらすぐに沖合いに出ちまえば、こんなことにはならなかったでしょうに、、なんて、、う~む。
 冗談と現実の境目が取り外されると、困ってしまうよ。

476足尾鉱毒事件と福島核毒事件

 19世紀末から始まった足尾鉱毒事件という大公害があった。福島第1原発事件は、その21世紀版のような気がする。鉱毒ならぬ核毒である。
 栃木県足尾の山中にある銅山から発生した毒煙・毒水の鉱毒が、周辺や下流域の地域に大きな災害をもたらした。

 足銅山周辺地域は、山林は硫黄を含む毒煙で丸裸になり、田畑も汚染で作物もできす、いくつかの村が廃村となった。
 銅ややカドミウムの毒水は、銅山下流の渡良瀬川流域の田畑に流れ込んで、作物を汚染して、流域の農業を立ち往生させた。
 洪水のときは利根川をへて関東平野東部にも毒水が及んだ。

 どんな公害があろうとも、どんな抗議があろうとも、銅山経営者の古河鉱業は、責任をとろうとしない。
 流域被災農民からの鉱業停止運動は、官憲の弾圧を受ける。ついにリーダーの田中正三の天皇直訴事件が功を奏して、マスコミが取り上げて社会問題となる。
 窮した明治政府は、富国強兵殖産興業のために銅山に対する公害対策を後回しとし、たびたび起こる渡良瀬川の洪水の調整池づくりを理由として、その毒水の沈殿地としで渡良瀬遊水池を計画する。

 遊水地の場所は、鉱業停止運動の根拠地である。その村と住民を根こそぎ取り除いてしまう作戦であった。
 それは20世紀末まで工事が続けられて、今、栃木・茨城・群馬・埼玉の諸県境にひろがる広大な湿地草原と谷中湖となっている。
 その広大な遊水地のためにために、田中正造の反対運動で有名な谷中村をはじめとしていくつかの村が強制廃村、強制移転させられた。

 今、強制避難させられている福島第1原発の周辺の市町村のことを、わたしはいやおうなく連想してしまうのである。
 毒煙・毒水を核汚染物質に置き換えると、その発生も、その毒を取り除くことができなくて、人間のほうを強制的に動かすのもそっくりである。
 21世紀の谷中村が福島に出現するに違いない、と、わたしは思う。

 19世紀末に発生したこの大公害は、原因者の古河鉱山が認めて賠償金を支払ったのは、20世紀末のことであった。被害者にとっては、大企業と政府を相手とする100年かかった争いであった。
 廃止となった銅山は、その後も毒水を出し続けるために、その処理を延々と続けなければならない。これも核汚染物質の処理と同じである。
 鉱毒もものすごい毒であるが、それよりも核毒のほうがもっと強烈である。ここが科学が人間の毒の方向に進歩した証拠である。

 わたしは1958年だったか、その廃村のひとつである松木村の跡にある松木沢に入ったことがある。
 谷の両側に赤茶けた荒涼たる岩山が続いていて、草木はほとんど見えない。ここは日本だろうかと思わせる、凄絶な景観であった。
 渡良瀬川にたびたび洪水が起きたのは、この禿山のせいであったに違いない。洪水被害も公害であったのだ。
 そこに行った目的は、所属していた大学山岳部の合宿で、その日本的でない岩肌が屹立する岸壁を利用して、ロッククライミング登山の訓練をしたのであった。
 その後、緑は回復しているのだろうか。

 20年くらい前に、愛媛県新居浜の別子銅山跡地に行ったこともある。ここも谷だが両側の切り立つような山には、濃い緑が繁っていた。
 別子銅山でも19世紀末に煙害や銅山川の洪水による毒水公害が起きている。
 しかし、別子銅山経営の住友はここが本拠地であり、地域全部が住友銅山の町であったので、かなり早期から公害対策をしてきた歴史があるようだ。
 植林も住友の産業のひとつとなっているくらいだから、足尾の古河鉱業とはかなり態度が異なる企業である。

 この廃鉱跡地を産業遺産を生かした観光施設に転換しようというプロジェクトがあり、わたしはそのマスタープランづくりメンバーのひとりとして、現地を視察に行ったのであった。
 その計画は実現して、「マインとピア別子」として営業をしている。
 廃鉱となって40年ほど、いまだに発生する鉱毒水の処理を続けている。原発廃炉後も、長期にわたる核燃料や汚染物質の処理が必要なことと似ている。

 足尾鉱毒事件とその対策のあり方が、今の福島核毒事件になんらかの示唆を与えてくれそうだ。資料を読みこんで考えてみたい。

参照:ついに始まった東電核毒事件の福島貯蔵地は百年前の足尾鉱毒事件の渡良瀬遊水地そっくり

2011/08/16

475無差別空襲の日々

 3月の地震以来、朝起きると新聞を広げて、二つの定例の記事を見る日々である。東日本大震災の「被災者数」と「各地で観測された大気中の放射線量」である。
 被災者数にある死者・行方不明者数は、震災から5ヶ月過ぎた8月15日は、行方不明者4,666人、死者15,698人となっている。
 この二つの数字は毎日変化していて、死者は増えて行方不明者が減るのだが、合計値が漸減傾向で、どうやら20000人ちょっとのあたりに収斂しそうである。

 もうひとつ毎日掲載記事の「各地で観測された大気中の放射線量」は、地図の上に数値が載っている。前日の核汚染物質空襲状況報告である。
 太平洋戦争末期にあった空襲警報が、またもや出され手いるようなものだが、あの時は飛び飛びだったが、今度はず~っと出され続けているから大変だ。
 福島原発を中心に、遠くは山形、南魚沼、わたしの住む横浜までの地図に数値(毎時マイクロシーベルト)が出ている。
 実は勉強していないので、その数字の意味するところをよくは知らない。わたしの横浜は13日は0.027、この日の最高値は飯舘の2.62、この差はなんだろうか。
 なんにしても毎日、減少を願うばかりである。
   
 ところで、この死者・行方不明者数と放射線量の記事は、西日本地域でも毎日の新聞に掲載しているのだろうか。
 この数値を毎朝見るのと見ないのでは、ずいぶん意識が違うような気がする。
 わたしはもしも見ないでいたら、すぐに忘れそうである。そして、まだ余震が毎日あるので、そのたびにはっと思い出すってことになりそうだ。
 ということは西日本ではこれらの数字を見ることがないだろうから、おのずと東日本とは意識が異なるだろう。
 思い出せば(といっても、もう思い出せないのだが)、阪神淡路大震災については、これと逆の状況であったのかもしれない。

 核汚染物質の空襲が続く毎日であるが、太平洋戦争の末期は、爆弾と焼夷弾が日本全土に降り続く日々であった。
 それは敗戦とともに止んだが、いまの核汚染物質はいつ降り止むのだろうか。そして地に降り積もった核汚染物質はいつ無害になるのだろうか。
 66年前に降り止んだ爆弾は、その後の世にもたまに不発弾が被害を及ぼし、広島・長崎の核爆弾はいまも死者を作り続けている。
 焼夷弾空襲は津波襲来であり、原子爆弾は原発事故であるとの、アナロジーが成り立つか。
   
 太平洋戦争の空襲の話で思い出したが、アントニン・レーモンドという人ががいた。
 チェコ生まれだがアメリカに渡って、後に日本で有名な建築家となった人である。そのころはそうでもなかったが後に世界的な大建築家となったフランク・ロイド・ライトの弟子となる。
 ライトが設計した東京の帝国ホテル(1924竣工)の建設のために日本に来た。ホテル建設が終わってもそのまま日本で仕事をしていた。
 太平洋戦争中にアメリカに帰国した。そしてアメリカ軍への東京大空襲アドバイザーをやっていたそうだ。
 砂漠の中に木造長屋群の実物大模型を作って、日本の都市や家屋の燃やしかたを実験し研究した結果が、ヨーロッパのような破壊型爆弾ではなく、焼夷弾による焦土攻撃になったという。
 日本の家屋や街をよく知っている専門家だけに、その指導で効果的な無差別攻撃となった。
 戦後はまた日本に来て、有名な建築家として活躍した。さてこれをどう考えるか。
 建築家の林昌二さんは、レイモンドのデザインや技術はすばらしいけれども、「人間としてはとんでもないやつだ」と言っている(2010『著者解題・内藤廣対談集2』)。
参照http://blog.livedoor.jp/shyougaiitisekkeisi2581/archives/cat_50031934.html#

 戦中の日本の建築研究者は、防空都市の研究もしていたが、現実には木造ばかりの日本でできる空襲対策は延焼防止の強制疎開であった。
 ここで言う疎開とは児童疎開とは違って、燃えやすい家を撤去して、広い空間を作るのである。火がついても燃え広がらないように、街をあらかじめ疎らに切り開いておくことで、これが疎開の本来の意味に近い。
 戦争末期には都市の密集地や駅や鉄道近くでは、木造家屋の引き倒し破壊をやっていた。その跡はいまも広いままに使われていて、例えば谷中銀座もそのひとつである(『谷中根津千駄木』80号2005)。
 あまりに簡単に燃え続けた日本の都市の反省で、戦後の都市再生の出発は不燃都市を標榜して、いろいろな政策を行ってきたのであった。
   
 空襲といえば、連合軍の無差別爆撃に対する被害の怨嗟が語られている。それは当然である。
 太平洋戦争を始めたのが1941年12月、次の年の4月にはもう東京が空襲された。
 その時は洋上の空母から発進した爆撃機だったが、次第に日本が太平洋の島々で負け続けて、敵は近くの島から発進してくるようになった。1945年は空爆されるのが日常になってしまった。日常の死の恐怖はつらい。
 だが、日本軍も無差別空爆をやっているのである。
 1932年の上海事変では、洋上の戦艦からとんだ偵察機の10次にもわたる爆撃で、軍事施設のほかに市街地も破壊して多くの一般人死者を出した。以後、中国ばかりではない。
 1938年から43年まで国民政府の本拠の重慶を200回以上も空爆している。この無差別爆撃が、後の広島・長崎の原爆を正当化するとも、連合国側では言ったらしい。
 もっとも、中国やフィリピンなどでは地上の市街戦だから、空爆どころではない無差別攻撃に一般住民はさらされたのだった。
 市街戦は日本では沖縄だけであったから、被害意識に大きな違いが出るのだろうが、無差別空襲、無差別攻撃は日本軍もやったことを忘れてはなるまいと、わたしは思うのである。

2011/08/15

474 66年目の空襲と疎開

 あれから66年、またもや空襲を逃れて疎開する日々が来ている。東日本大震災による原発事故で、核汚染物質の飛来から逃れるためである。
 太平世戦争末期の焼夷弾の空襲におびえたあの日々の死の恐怖は、どこまで次世代・次次世代に伝えられているのだろうか。
 日本全土の都市が攻撃された空爆による死者の総数は、(諸説あるらしいが)約50万人だったそうだ。そのうち半分は原爆によるから、今も死者は増加中である。
 あのときの恐怖は66年前のこの日8月15日に終わった。
 この核汚染物質の空襲におびえる日々に、8.15はいつ来るのだろうか。
   ◆
 東日本大震災の死者と行方不明者を合わせると、約2万人程度になるようだ。
 核物質汚染による被害は地域的にも内容的にも範囲を広げつつある。
 この空爆による死者は、今は出ていないのかもしれないが、その性格からして原爆のように後々に出るかもしれない。
 特に食品汚染への恐怖は、真綿で首を絞められるようにじわじわと迫る恐怖である。
 66年前のこの日、戦争による死の恐怖は去ったが、次は食糧不足による飢えの恐怖が始まったことを思い出す。
 少年だったわたしの戦争に関連しての恐怖は、日々の飢えだけであった。毎日腹が減っていたなあ。また飢えるのか。
   ◆
 この日が来ると、毎度書いているような気がするが、また書く。
 わたしの生家は岡山県の中部にある、小さな城下町の盆地にある神社であった。
 あの日の正午、その鎮守の森の中の社務所の前に、ラジオを囲んで集まったのは、大人と小学生を合わせて20名足らずだったろうか。
 大人は近所の人たちだったが、小学生たちはその社務所に遠く兵庫県から疎開してきていた女子児童たちである。当時はラジオが初期のTV程度の普及だったろうか、その疎開学級はラジオを持っていた。
 わたしはなにしろまだ8歳だから、これが終戦の詔勅放送だったとは後から聞いたのだろう。日ごろにない集まりを眺めていただけで、放送の音についての記憶はまったく無い。
 だが鮮明な記憶は、聞き終わった大人たちが、なんとなく列を作って誰も一様に黙りこくったままに、森の中から暑い日差しの町へと、参道の石段をおりて帰っていく姿である。子供心にも異様であったから覚えているのだろう。
   ◆
 その盆地は、B29空襲はこない平穏な日々であったが、空襲から疎開してきた学童たちがいたという現実に戦争の影はあった。
 その疎開児童がどこから来たのか調べいて『学童疎開の記録』(1994全国学童疎開連絡協議会)という本でわかった。芦屋市の精道小学校の学童が、岡山県上房郡高梁町(現・高梁市)の頼久寺に126名、同じく金光教会に47名が疎開したと記してある。
 わたしの生家の御前神社は出ていないが、これら2箇所と至近にあるから、どちらかの分教室であったのだろう。
 その芦屋が8月6日に空襲に遭って、学童たちの家族も被災し、親の死で孤児となった悲劇もあったようだ。
 空襲のもうこなくなった焼け野原の都市に戻っていったあの少女たちは、その後どのような人生を歩んだのだろうか。
   ◆
 わたしの父はそのころ小田原で、湘南海岸に上陸すると見られるアメリカ軍を迎え撃つ本土決戦の準備中の通信兵であった。
 小田原は8月15日の前夜半に、この戦争の最後の爆撃を受けた。父は郊外の山中で陣地構築の穴掘りをしていて、炎上する市街地の火を見ていた。
 その月末に兵役解除となって帰宅してきた。
 彼の戦争は、1931~34年と1938~41年の2度の中国、そして1943~45年の内国と、実に15年戦争の半分を兵役に送り、これが3度目の生還である。このとき35歳の老兵であった。
 参照「父の15年戦争、本土決戦」

2011/08/13

473仮想水、仮想電力

 沖大幹さんて人が言ってるけど(『本の雑誌』9月号33ページ)、1杯の牛丼を作るのに必要な水の量は大体2000リットル、湯船にして10杯くらいだそうだ。
 え、どうして?
 その丼の中のコメを作るのに200リットル弱、乗っている牛肉85グラムを作るには1700リットル、ほかにもタマネギとかショウガとかを作るに要る水を足すと、そうなるのだそうだ。
 これをヴァーチャルウォーター、仮想水という。
 
 仮想水の重さは牛肉は20000倍、豚肉は6000倍、鶏肉は1500倍を必要とするのだってさ。
 こうなると日本の半分以下の雨量のヨーロッパで、牛肉を食う文明が育ったのはどういうわけだろうかと思ってしまう。
 雨量が多いということは、それだけ食料が豊かで、自給自足しやすいってことか。なのに日本の食料自給率は4割を割ったそうだ。

 重さの何千倍もの水を使うといっても、垂れ流しているのではない。また雨になって戻ってくるから、まさに再生可能な原料である。
 水の無い地域の人々は、水を輸入するのではなくて、それを千分の1、万分の1に圧縮した食料として輸入するってことである。逆に言うと、牛肉を輸入するとその2万倍の水を輸入することになるのか。
 人間も1キロ太ると10トンもの水を消費したのだろうか。

 こうして見ると、太陽と水と土を資源とする農業が、もっとも再生能力が高い産業であることに思い至る。
 ところが、福島第1原発の事故が、その再生の循環の輪を断ち切りつつある。
 核物質に汚染されたらもう再生循環できないのである。今年だめでも来年があるさって、そういう期待をできない農業となった。
 毎日降り注ぐ核汚染物質は、来年からの未来がある生活圏の復興をさえさせてくれない。生活圏が縮んでいく。
 この食料と生活の場を奪われていく日々の状況が、わたしの心のなかになんともたまらない閉塞感を蔓延させる。

 仮想水で思いついたが、仮想電力ってのもありそうだ。
 近代農業は機械、プラスチック製品、農薬、合成肥料、照明など、多くの電力を使っている。
 コメ1キログラムに何キロワットの電力を使うのだろうか。昔はトマトを真冬に食うなんてことはしなったが、温室栽培では1個に何キロワット要るのだろうか。
 農業も原発の電力に頼るようになって、再生能力が低減しているかもしれない。

 人間が生きるために働いているとしたら、そのもっとも根源にある目的は、毎日の安定した食料の確保である。
 そこに避けようも無く遮断の手を突っ込んでくる核汚染事故の怖さが、人間の身に染みるには、もう一度くらい同じことが起きることが必要なのだろうか。

2011/08/12

472日本語下手くそグーグルクローム

 インタネットブラウザーがいろいろあるが、わたしはMSinterenet explorerを使っている。
 わたしのブログ「伊達な世界」には、その閲覧者がどんなブラウザーで見てるのか、統計が出てくる。
 それだとMSi.e.が3分の2で圧倒的の多く、2割がfirefox、以下chrome、safariなど。
 ついでにOSは、MSが77パーセントと圧倒的で、MACはそれに次ぐがわずか11パーセントである。

 ブラウザーをほかのやつに乗り換えようかと、あれこれやってみるが、やっぱりMSi.e.に戻るのだ。
 わたしの評価ポイントは、縦書き用htmlタグが有効か、こちらの指定したフォント形式が登場するか、その2点である。
 こ難しいことはもともとできないし、文章主体だからそれが重要なのだ。

 さて、4つのブラウザー(i.e. chrome firefox opera)を、わたしの作っているサイト「まちもり通信」の「景観戯造」ページで、表示の仕方を比較してみた。
 まず、縦書き表示だが、これはi.e.だけしかできない。あとは全部不合格。
 これって、どうも縦書きhtmlタグがMSi.e.だけにしか通用しないらしい。それってけしからんと思う。MSが開発したタグだからほかのメーカーは読んでやらないって、狭量である。
 
 次は文字であるが、隷書を表示できるのはMSi.e.だけなのである。
 chromeは無茶無茶文字に化けしてしまった。日本語を知ってるのかよ。
 operaは隷書と角ゴシックの混合表現に化けた。
 fire foxはすべて角ゴシックに化けた。
 隷書以外のフォントでも文字の化け方はあるのかもしれない。

 こうしてみると一番だめなのはchrome、とりあえず合格はi.eである。
 縦書きと隷書をどうやったらMSi.e.以外のブラウザでも表示できるのだろうか。

 なお、画像の上にポインターを置くと別の画像に換わる仕掛け(参照「景観戯造」)は、どのブラウザでもできたが、これがMACだと全然できないらしい。

471お子様化社会

 なんでも名古屋のTV放送局で、本放送で手違いで映してしまった短文で大騒ぎ。
 で、放送内容はというと、岩手県産米のプレゼント当選者を「怪しいお米 セシウムさん」などとかいたテスト用のオフザケ文章のテロップが23秒間だそうだ。
 放送会社の社長は岩手県まで謝りに行くし、役員減俸処分。
 まあ、岩手の人は怒るだろうけどねえ、大人が本気で怒るほどのことか?

 もしかして、そのTV番組はかなり高級なる内容で定評があったので、このテロップがその高級さを台無しにしたのかい?
 いまどきそんなすばらしい番組を放送してる東海放送ってのは、すごいなあ。
 でもなあ、こんなオフザケの間違いで台無しになる程度のものってのも、情けない。

 どうもわからないのは、明らかにオフザケと手違いとわかることでしょ、それをなんで大げさなことにするの?
 TVってのは、それほどまでに幼稚なアホバカが力を持ってるものなの?
 大人気ない、とはこういうときに使う言葉だろう。
 どうも世の中がどんどん「お子様化」する感じである。
 京都大文字焼きの東北津波薪騒動の右往左往もそうである。

 お子様は、長い論理的な文章を書く能力がないもんだから、ツィッターなんて短文しかかけないツールをつかう。
 で、いま屁をひったとか、飯が不味かったとか、ショウモナイことのついでに、今見たバカTVをケシカランとか、垂れ流しているんだろう。
 それを真正面から取り上げる大人たちも、どんどんお子様化している。
 ガキに持たせたピストルかよ~、ツィッターは。

2011/08/11

470言葉の酔時記:拍手をちなみにこだわる

 講演会やシンポジウムが終わったときに、総合司会者が言う。
「もう一度盛大な拍手をお願いいたします」
 わたしはこれを聞くと、失礼なやつだって腹が立って、拍手をしないことにしている。
 だってそうでしょ、出演者にしてみれば、司会者が催促しなけりゃ拍手が来ないつまらない話だったんですよ、って言われてるんだもの。
  
 話や文章の中で最近よく使われる言葉がある。
「ちなみに、……」
 ちなみに言っているんだから、たいしたことじゃないと思っていると、実は重要な話であることが多い。
 意味を知っているか?
 これって、本筋じゃないけど思いついたのでついで言っておこう、ってほどの意味の接頭語なんですよ。

「こだわる」って言葉も、「脱原発にこだわる首相の言動は無責任としかいいようがない」(産経新聞8月7日社説)なんて、大手のマスメディアさえも間違った使い方ばかりするのは、困ったものである。
参照→360菅さんには諫早も沖縄も些細なことか
参照→215スパコンなんてどうでもいい?

2011/08/10

469東北3県超高齢化時代の復興は?

 政府総務省が発表した東北地方の岩手、宮城、福島3県の2010年人口統計がある。
 東日本大震災の直前年の調査だから、20111年以後はこれが大きく変わるだろう。
 津波に襲われた沿岸地域の市町村の、高齢化率だけを見て、その原因とかいろいろ考えた。専門家ではないし、資料をあさるのも面倒なので、見て考えるだけである。
 
 福島県の浜通り市町村ごとの65歳以上人口割合の図を見ると、おおかたは25パーセント以上であるが、福島原発のある辺りが21から23パーセントで、高齢化率が比較的低い。
 これは、多分、原発あるいは原発関係企業への、若い就労者がいるということなのであろう。
 福島県の人口の性格は、会津が超高齢化、中通は比較的若く、浜通はその中間と、明確に分かれて見えるのが興味深い。
 推察するに、会津が第1次、中通が第3次、浜通は第2次と、それぞれの産業の中心が異なっているのだろう。

 宮城県の沿岸地域の高齢化は、南部は比較的に遅く、北部が三陸では進んでいる。
 原発のある女川町が33パーセントの超高齢都市であり、福島の原発立地地域と比べてかなり高いのは何故だろうか。関連就労者の多くは隣接の石巻に住んでいるのだろうか。
 仙台市で津波で壊滅的となった若林区は高齢化率18.4パーセント、宮城野区16.6パーセントで、高齢都市ではあるが比較的低いということは、多くの勤労世代が被災したのであろう。

 岩手県の三陸沿岸部の市町村の高齢化率は、ほとんどが30パーセント以上である。
 福島や宮城のように、地域差が見られないのはリアス式の海岸が続く、漁業を主体とする同じような構造の生活圏だからだろうか。
 考えてみると、漁業はその生産基盤は海だから、沿岸漁業は影響あるとしても大変化はないはずだ。問題は船、港、冷凍倉庫等の漁獲手段の崩壊だろう。
 中越震災の農業地域のように、田畑が崩壊して灌漑も不能になるという生産基盤の被災とは違うから、当然に復興の仕組みが大きく違うのだろう。
 
 それにしても今でも3人に1人以上が高齢者であり、この長高齢社会はさらに進むことは確実だから、震災復興はその人間の構造を見極めつつ進める必要がある。
 元の町あるいは近くの高台に、復興に10年かかって完成してみたら、そこにはもう動けない年寄りばかりとなっていることもあるだろう。
 それを予想した老人の「死に甲斐のある町」(これは近江八幡の川端五兵衛元市長の言)への復興もあるだろう。

 あるいは、まだ高齢化の比較的低い内陸部地域に積極移転して、新たなコミュニティを共同して復旧するほうがよいかもしれない。このとき問題となるのは、住み慣れた故郷を離れることへの抵抗である。
 しかし、いずれ老いたままで過疎地域で暮らすことはできないのだから、その地域を閉じて都市部へ移転することが、今がチャンスととらえることも大いに意味のあることと思う。これは中越震災後の過疎山村に通っていて感得したことのひとつである。

参照→地域を閉じる

2011/08/09

468不景気と戦争

 中国黒龍江省方正県政府が建てた、日本の旧満蒙開拓団員の慰霊碑が、建てて10日程で撤去されたというニュースが新聞に出ている。
 侵略者の慰霊碑とはケシカランというネット批判にさらされた結果だそうだ。先日の高速列車事故の証拠破壊と復旧作業みたいに、なんだかすばやすぎる対応である。

 それで思い出したのは、1933年3月のことだ。
 その3日に起きた昭和三陸大津波のことを調べようと、3月の新聞を読んでいたら、こんな記事があった(3月20日 東京朝日新聞 夕刊)。
「第2回自衛移民団 関東、東北で募集  その人選、移住地等については、陸軍と関東軍と打ち合わせ中であるが、陸軍では第2回自衛移民は中国ならびに九州地方より選定する意向であったが、その後種々の事情から第2回自衛移民は大体第1回同様、青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島、新潟、石川、富山、茨城、栃木、群馬、長野、山梨各県の在郷軍人から五百名を選定することに決定した」

 この「自衛移民団」とはなんだろうかとネットで調べたら、「試験移民団」とも「武装移民団」とも言われたらしいが、1932年にできた日本の傀儡政権「満州国」の、辺境の地に送り込んだ農業移民「満蒙開拓団」の初期の名称である。
 第1次移民団は1932年に送り出しているが、その名前のようにまさに武装しての移民であった。関東軍の庇護の下にあった。
 なぜ「自衛」とか「武装」の移民団であったかは、現地で地元民のゲリラに襲われるからだった。
 その移植地が、もともとその地を開墾して耕していた現地の農民たちの土地を、日本政府が武力で以って安価に無理矢理に取り上げたために、当然のことながら抵抗がありトラブルが発生するのだった。

 この武装開拓団が試験的に第4次まで入植し、1937年から本格的に集団移民が始まった。
 1945年には30万人前後となり、ソ連参戦後の大混乱で悲劇となり、帰国できたのは11万人であったそうだ。
 満蒙開拓団は、敗戦での被害者である前に実は加害者であったのだから、慰霊碑への中国人の非難は当然だろう。戦争の被害と加害はあざなえる縄か。

 1933年の三陸大津波の頃は、日本は昭和恐慌が続いていて労働争議は頻発し、特に農村は疲弊していたので、王道楽土・五族協和の美名の下に、植民で棄民をしたのであった。
 今の日本はどうだろうか。リーマンショック以来の不況は深刻になり、そのようなところに東北地方を中心に大津波、その上に核物質が拡散するありさまで、先行きが見えない閉塞感が色濃く立ち込める。
 この大不景気打開のためにイッパツ戦争を、なんてことにならないように、祈るしかない。
 なにしろ日本が昭和恐慌から立ち直ったのは、1931年勃発の満州事変に対応する1932年からの高橋積極財政策があったし、1945年の敗戦疲弊から立ち直ったのは、1950年の朝鮮戦争特需だったのだから。

●参照→津波と戦争そして原発