2011/11/16

532横浜ご近所再開発6題

横浜のご近所のあちこちで、町の姿が変わってくる。それを追いつつ徘徊するのだ。
●参照→347ご近所再開発 http://datey.blogspot.com/2010/11/347.html

 横浜の伊勢佐木モールにあった、ちょっとクラシックなビルの松坂屋百貨店が取り壊されたのは208年のことだった。
 閉店の前にそのアールヌーボー的な内部意匠を見学した。
 それから工事弁の中でトンカチ工事が進んでいた。今日みると、工事囲いの上に新ビルが顔を出している。
 おや、なんだか昔見たような姿だ。どうやら元の建物の表の姿の一部をコピーして再現したらしい。
 でも、ちょっと縮んだかな、なんだか物足りないような。
 写真を撮って以前おと比べたら、やっぱりかなり省略してコピーしているのであった。まあ、その努力だけは認めましょう。
 といいつつも、馬車道の日動火災ほどの断固たるデザイン意図を持ったハイブリッドデザインでもないのが、ものたりない。


 伊勢崎町2丁目の角に先月末に巨大なパチンコ屋が開店した。ここには3階建ての防火建築帯であったと思しいビルがあった。ながらく空き地のままだったが、2年ほど前に工事が始まった。
●参照→365横浜ご近所再開発2011正月 http://datey.blogspot.com/2011/01/3652011.html
 1年足らずで3階建てくらいの建物がほとんどできた頃、どういうわけか取り壊しが始まった。その囲いのままにまた工事をしていて、ビルとしてはたいしたことない規模なのに、ずいぶん時間がかかった。
 伊勢佐木モールもだんだんと高級老舗店舗はなくなっていって、チェーン店がはびこり、そしてパチンコやゲーム屋などの風俗営業店舗が多くなりつつある。街の雰囲気がだんだんと落ち着きがなくなって、ハデハデになってきてる。


 これだけ地震騒ぎで分譲共同住宅はあぶないものなに、その建設はとまらない。山吹町に共同住宅がまたひとつできた。


 長者町2丁目角にガソリンスタンドがあったのが壊されて、ここにも分譲共同住宅が建つに違いないと見ていたら、なんと高齢者専用の施設ができあがった。
 介護センターとか、介護老人ホームとか、わたしが今後の用がある施設である。
 なるほど、こういう時代に対応する再開発が成り立つ時代である。分譲共同住宅でないのが、なかなかよろしい。
 
 富士見町で4年ほど前から建設していた共同住宅ビルが、地上2階床までコンクリートをうったところで、デベロッパーが倒産だとかで工事がとまったままになっていた。
 1年ほどブランクの後に、新たなディベロッパーが買ったらしく工事が再会した。
 つい先月に一応出来上がったようだ。販売パンフレットを見ると、ほとんどが1寝室、少し2寝室がある程度だ。投資屋向けかもしれない。
 これはわたしの家のある貸借共同住宅ビルの道を隔てたすぐ北側にあるから、日当たりはあまりよくない。

 山田町に小さな敷地に精一杯建てたペンシルビルができた。これは1寝室の単身者用の賃貸住宅らしい。完成から3ヶ月くらいたつが、見たところ入っているのは2、3戸程度か。これも、わたしの家のあるビルが邪魔で日陰だもんなあ。
●参照→297共同住宅ペンシルビルhttp://datey.blogspot.com/2010/07/297_29.html

2011/11/15

531地下便所の境界線

 地下鉄の便所で小便をしようとして気がついた。
 律儀にも道路と民地の境界線をタイルの壁に表示してある。
 この線の左だと道路で立小便、右でやるとどこかのお宅の庭で立小便。
 なぜここだけ表示してあるのだろうか。別々に管理しているのかしら。
 まあ、どうでもよろしいですが、書いてあると気になる。

 小便ついでに、もうひとつ。
 スイスのゴルナーグラードというマッタホルンが見える高原にある便所。
 小便しようと便器を見ると、蝿がとまっている。
 こんな高山でも蝿がいるのか、こいつをめがけて放水するのは、男の本能だ。でも一向に蝿のやつは気にしない。
 よく見れば絵である。
 ふむ、ひっかかったか、いや小便じゃなくて、わたしが。

2011/11/14

530酉の市とB級グルメクラシック

 横浜南区の真金町にある大鷲神社で、今日は今年の二の酉の市。
 この屋台がずらりと並ぶ祭りに風景を大好きである。これまでは夜に訪ねたが、今回は写真を撮りやすい昼に訪ねた。

 平日なのにもう混雑している。縁起物の熊手を売る露店では、手拍子の音が景気よく聞こえる。熊手が売れたらその場でシャンシャンと打つ。
 熊手は、小さなものはストラップの飾り物から、大きいのは両手を広げるくらいのものまである。値段が書いてないが、何十万円もするのだろう。縁起物だから、買う人は買う。

 熊での飾りをしげしげと見る。お多福の面、小判、米俵、鯛、宝船、末広がり扇、鶴亀などなど、日本の古典的な富の姿をモロに飾りつけているのが、欲望丸出しで面白い。
 サイケデリックデザインというかキッチュという他はない。現代アートかもしれないとさえ見えてくる。

 露店が並ぶ中を歩く。見ているだけだが楽しい、そのサイケデリックなようで、統一感がるようで、ばらばらなような露店デザインが面白い。これも現代アート並みに不思議な光景である。

 露店で売っているものは、縁起物のダルマや招き猫もあるし、射的、スマートボール、金魚すくいなどの古典的ゲーム、お子様向けのお面は時代のヒーローを現し、そして元祖B級グルメとでも言うべきさまざまな食べ物飲み物がならぶ。

 クラシックないか焼き、焼き鳥はもちろんだが、トルコ発祥のシュシカバブが露店の地位を占めたのが面白い。
 露店で売る食い物の時代的変化を追うと、なかなか面白そうだ。
 最近。B-1グランプリなんていうB級グルメの全国大会があるそうだが、この露店の繁盛の様子こそB級クラシックレースとでも言うべきか。ただしこれは全国区のB級グルメであるところがB-1とは違う。
 富士宮焼きそばとか白コロホルモンの露店が出ているのだが、これってB-1グランプリでまさにグランプリをとったB級グルメだったから、こうやって全国区になったのだろうか。

●関連→060横浜ご近所探検・酉の市

2011/11/13

529除染、滅染、移染

昨日と一昨日に「福島会議」が福島大学で開催、わたしは行けないがネット中継を少し見た。
 放射能に関して専門家がチェルノブイリの現状に関して調査したことを語っったあとで、質問や意見があったなかでの会場の女性からの発言。

 その人は地元の方らしいが、放射性物質の除去に熱心に取り組んで活動しているそうだ。
 その除染の方法は、汚染地にEM菌を撒くのだそうだ。
 そうすると放射能がぐんと下がるので、あちこちでやっているが、公的機関でも積極的にやれ、みたいなことをおっしゃった。

 え、そうなの、初めて聞いた。EM菌てのは多様な微生物によって土壌とか水質の浄化をするのに使うとかって、聞いたことはある。
 だが、微生物が放射線を浄化するというか、半減期を短縮するって、そういうことが本当にあるのかしら。
 ネットで調べると、賛否両論があてなんだか分からない。
 わたしは放射線物質のことはなんにも知らないが、なんだか信じがたい。
 
 現地のその会議に出席している知人に、FACEBOOK経由で聞いてみた。
「EM菌で除染できるって、真剣に発言したおばさんがおられましたが、本当ですか? 核の毒を菌が食うんですか?不思議」

 知人の返事。
「その方、私の斜め前に座っていた女性ですね。真剣そうでしたよ。でも現場の住民はわらをつかむ思いなので、その後もみんなで話を聴いてあげました。
 本日(昨日)の高畑さんの放射能分科会の最大の話題でしたが、EMにせよなんにせよ放射性物質の「無害化」ではなく「移動」にしかすぎない、ということをなかなか理解してもらえず苦労していました。
 でも、各分野の専門家とよばれるような人たちでもわからないことだらけなので、ましてや被災した一般市民が、不正確な情報による俗説に振り回されるのは、やむをえないことと思います。
 正しい知識・情報を共有することは最重要課題なのですが、同時に現場(追い詰められた現地住民)の感情に配慮した情報の「伝え方」にも、もっと工夫が必要だと感じました」

 なるほど、現地に入った人だからこそ、実体験として現地の人たちの感情が身に染みて分かるからこそう、そう言えることですね
 おぼれるものの藁かもしれないが、つかむ藁がそこにあることで、次に流れてくる浮き輪をつかむ手だてになるってことを、支援なさる現場の人たちは知っているのですね。

 それにしても、除染は単に移染に過ぎなくて、決して減染でもまっしてや滅染でもないってことが、実に重要なポイントである。
 これまでは除染とは、物理的な汚染は水に流すし、生物的あるいは化学的な汚染は煮沸や薬によって完了するものだった。
 水俣病や四日市公害の除染も、時間はかかっても、基本的にはそうであった。
 ところが核毒はまったく次元が異なるものだから、なんとも理解するのが困難である。
 人間に「三尺流れて水清し」の時代があったことが、いまや夢みたいである。

2011/11/11

528わからんオリンポス事件

ギリシャ発祥の経済問題が日本のカメラ会社にも飛び火した(らしい)。だって会社名がオリンポスなんだから。
 損失隠しとか飛ばしとか投資家に迷惑かけるとか、その世界のことはぜんぜん、なにを言ってるのかサッパリ分からん。
 ひそか処理して、誰も損してなかったか、あるいは損しても誰も知らなかったとすれば、20年もナントカやってきたんだし、会社そのものは今も経営がうまく行ってるんだから、これはもう損はなかったことになるはずでしょ。
 それを今頃になってなに言ってんのよ!

 だって、その昔も損失を隠してたから配当があって、投資屋(なんで投資ってえらそうにいうんだろう)たちは、大もうけしたんでしょ。
 今になって、当時の損失をひそかに処理したってのがバレて、株価が下落して損したって騒ぐなら、その昔に損失がありながら配当を受けたお金を返すのかしら。
 もらうものはもらった、損失は損失ってけしからんて、それはリスクを負ってやる投資屋の言うべき言葉じゃないような気がする。

 ガイジン社長が暴露しなきゃ、そのままで平和だったんでしょ。
 と、株はしかしらないわたしは思うのである。

 オリンポスの株価は、ばれる前の5分の1になったそうだ。
 唯一知ってる株価がある。T&DHDという保険屋である。
 20年以上前だったかに、相互会社から株式会社に変更して、加入者だったわたしの会社が自動的に株券を受け取ったことがある。200株だったか。
 その頃のこの株価は8000円くらいだった。
 それが今はナンと今日見ると700円である。10分の1以下!
 なんでこんなになっているかサッパリ分からない。オリンポスよりもひどいが、似たような事件があったのかしら。

2011/11/10

527空に浮く生活・地に這う暮し

 晩秋の東京散歩である。東京駅から八重洲通りを歩き出して、中央大橋を渡った。
 この橋を渡ると20世紀末のバブル景気の産物「大川端リバーシティ」である。そのすぐ隣に細い運河を隔てて、佃煮の名前の発祥地・佃島である。
 前者が日本のバブル景気の超高層住宅群、後者が江戸から続く漁師町の密集木造住宅群である。
 どちらの土地も、隅田川の河口の島として江戸時代にあった。
 そのあまりに近くにありながら、あまりに異なる風景が対照的で面白い。
 それだけに、東京の都市問題を考えさせられる。

「大川端リバーシティ21」のある土地は、江戸時代の人足寄場の「石川島」であり、19世紀半ばから石川島播磨重工業(現・IHI)の造船所となり、戦艦をたくさん製造した。
 造船所が景気が悪くなって土地を売り、1985年ごろから大川端リバーシティの名で再開発をはじめて、2000年までに8棟の超高層集合住宅ビルが建った。約3800戸が住んでいるらしい。

 大川端を広辞苑で見ると、「隅田川の吾妻橋(大川橋)より下流の右岸一帯、特に両国橋から新大橋辺までの称」とある。とすれば、大川端リバーシティは位置的に新大橋の下流の左岸にあるから、これは詐称である。時代が変われば、湘南みたいに拡大するのであろう。

 公開空地に入ってみれば、ここは日本かしらと思うような風景である。
 日本かしらと思うのもおかしいが、要するに街として造っているんだぞって、そういうデザイナーというか開発者の意気込みが、ここもかしこもみえみえで、新聞折込のマンション広告パンフの写真みたいな風景である。
 そう、きれいなんだが、なんだか押し付けがましさ感がうっとうしいのである。公開空地の庭のあちこちに、入るとか登るなとか注意書きがあるのも気に食わない。

 見上げる空に超高層住宅が夕日に輝いている。はて、天空のあそこに人の暮らしがあるんだろうか、どんな人が暮らすのかなあと思う。
 あんな高いところに住み着くと、地上に降りるのに一仕事と思うような気がする。
 7階に住んでいる私でさえもそう思うのだから、まして30階もの超高層建築の上のほうでは、いくら超スピードエレベータがあっても、心理的な隔絶感があるにちがいない。

 リバーシティと隣の佃島との間には細い運河があって、昔からの形で隔てられている。
 島の西の隅田川から運河は入り込んで、住吉神社を角にして南に曲がると舟溜まりである。島の南にあった運河は佃大橋がかかって埋め立てになったから、佃島は今は3方が水である。

 佃島からリバーシティを眺めると、どこでも写真になる。その対比が「いかにも」の風景になるのである。わたしは15年ぶりくらいにきたのだが、その風景はほとんど変化がなかったのは、佃島は再開発されていないのである。

 佃島は昔の漁師町の町割りを今も継続して使っているから、大川端の大ブロック・超高層建築・広場のある西欧型近代都市計画とはまったく逆の、零細敷地・木造2階建て・路地という構成である。
 しかし、公共施設の道路や公園あるいは運河については、それなりにこざっぱりときれいに修景をしているから、清潔である。
 そして路地には生活観があふれている。リバーシティは開放的な都会の生活があるとすれば、ここには息ぐるしいほどの緊密な暮らしがある。
 小公園で大勢の子どもが声高に遊んでいるのが、下町らしい。リバーシティでは池の中(入ってはいけないと注意書き)で魚取りしていた子ども二人を見ただけだった。

 リバーシティではちょっと歩くと、まあこんなもんだろうと、見て歩く興味を失ったが、佃島ではあちこちの路地を抜け、神社境内に入り、運河を渡り、舟溜まりを覗き込み、川向こうの超高層建築群を見上げ、まことに興味がつきないのであった。
 ここには地に付いた暮らしがある。
 地についた仕事としての佃煮は、いまはどうなのか知らないが、「竹安」なる店で昆布・貝ひも・浅利の3種類各100グラム、金1820円を買い求めた。

 佃島からはずれて、夕暮れの月島商店街へと入れば、もんじゃ焼き観光街の様相はますます著しい。下町の近隣商店街の変貌は驚くばかりである。
 表通りは集合住宅ビルもいくつも建っていて佃島とはちがうが、裏に入ると佃島と同じような姿の路地の町である。

 商店街を通して勝どき方面を見れば、大きな超高層建築群が見える。
 20年ほど前に、東京都から依頼で、勝どき交差点角の再開発構想計画をしたときにはじめてきて、それからもういちど10年ほど前にきたことがあるが、こんなに超高層建築はなかった。
 ずいぶん変わったものだ。(2011.11.01)

2011/11/09

526【ふるさと高梁盆地】昔よりも短くなった方谷橋

 高梁盆地の高梁川には、現在は2本の橋が架かって、東西の町を結んでいる。
 下流側の「高梁大橋」は1972年に架けた、現代のありふれた鋼製の桁橋である。
上流側の「方谷橋」は、上に鉄骨アーチをもっていて特徴ある形態だ。これは1934年の水害の後、1937年に架けている。
 上のアーチから、下の路盤面を支える直線の鉄骨主桁を吊っている形式である。
 でもよく見ると、路盤側の主桁もかなり立派なものだから、アーチと直線の桁とでつくる半月形の構造体で、これをランガー形式というらしい。



 土木学会のサイトで図面を見ると、半月の弦の長さは56メートルである。
 アーチの両端部を、それぞれ橋脚が支えている。それに加えて路盤を支える主桁が、アーチの両端から4.4メートルはねだし形式(カンチレバー)でもちだして、それは皿という字の上を丸く描いた形である。土木の専門語で「下路カンチレバー状ランガー」形式というそうだ。
 その皿の下の一文字の先に別の桁が架かっていて、両岸と結んでいる。橋の総長さは99.9メートルだが、竣工時の図面では110.7メートルとなっている。


 
 方谷橋が竣工したときの1937年に写した記念写真がある。今の方谷橋と比べて見る。
 大きな違いはふたつある。ひとつはアーチの先の東側の桁が西側のそれと比べて、10メートルほど短くなっていることだ。
 橋の主桁についている工事銘盤に1972年3月とあるから、このときに東側の桁を短縮左右のバランスが崩れた。

 ということは、その年に川の東岸にある国道を10mほど拡幅したことになる。その拡幅分の川幅が狭くなるから、それまでどおりに流水量を確保するためには堤防を高くする必要があったのだろう。
 いまでは堤防の道からの立ち上がりが2メートルくらいは高くなって、 街から川は見えなくなってしまっている。昔はそれが1メートルくらいだった。
 川岸の国道は広く、堤防は高く、川と街は切り離されたようだ。

 もうひとつの違いは、かつてあったおしゃれな高欄親柱が、今はなくなっていることである。橋には欄干などで構成する高欄がどこでもある。その一番端っこには大きな柱を立てるが、これ親柱という。親柱は橋の玄関の門のような役割をする。
  関東大震災の後で多くの鉄の橋がかけられ、そこには都市の風景としてのデザインが加えられるようになってきた。
 方谷橋ができるころは、日本の橋のデザインもセンスがよくなってきたが、その片鱗を方谷橋でも見ることができる。

 ここでは当時の流行のひとつである表現派風の曲線が見えていて、アーチの曲線と共におしゃれなモダン風景である。
 それは両岸側共にあったのだが、今はどちらにもない。いつ頃なくなったのであろうか。無愛想なコンクリの塊に橋名板があるだけだ。
 高いコンクリ塀となった堤防を土塀コピーするのも、まあ、よろしいが、国道拡幅でなくした親柱を復元してはいかがか。

●全文は→ふるさとの川と橋
●関連→高梁の風景論集

2011/11/08

525新聞の話題ふたつ

 プロ野球に何の興味もないが、モガベーとかモベガーとかDeDTとか言う会社が、横浜のプロ野球を買収すると、新聞の社会面にあるのを読んだ。
 どうぞご勝手に。でもモゲバー・ベイズダーズなんて、語感が悪いよなあ。
 ネットでモガベーを検索すると、結構たくさん出てくる。
     ◆
 オリンポスなる会社が、なんだか変なことしたって、投資屋に申し訳ないとか言ってる。
 ガイジン社長が社内告発したら、逆にクビになっちゃって、イギリスに逃げて遠吠えしたら、マスメディアが喜んで食らいついたらしい。
 まあ、こちとらは投資なんて関係ないから、どうぞご勝手に。
 でも、外人が騒がなきゃそのまま臭いものにふたして、会社も社員も無事だったのになあ、余計なことしてくれたよなあ、って、そう思います。
 日本では納豆やなれ寿司のように、臭いものにふたをしておくとそのうちに発酵して美味になるってことを、ガイジンは知らないからなあ。
 で、これもオリンポスだから、ギリシャ発祥の騒ぎのひとつなんだろうなあ。

2011/11/07

524老婆の橋、少年の橋梁

 東京駅前から八重洲通りを八丁堀まで歩いて隅田川に出ようとしたら、その前の支流の亀島川に、なにやら鉄骨トラスの橋が見える。いまどき珍しい。
 近寄ってみると橋の入り口に門型が組んであって、「南高橋」なる銘盤が掲げてある。これはまあ、明治の頃にはやった形である。

 橋詰広場に案内板があり、隅田川に架かっていた両国橋(1904年竣工)の一部を、1931年にもってきて再利用して架けたとある。つまり震災復興の橋である
 震災復興で両国橋は新品に架け替えたが、ここには新規架橋なのにお下がりを頂戴して架けたというのである。おかげで、今も珍しい形を見ることができる。

 両国橋は最初は1660年に木橋が架かり、その後なんども流れたり焼けたりして架け替えがあった。1897年の川開き花火の見物客が大勢乗りすぎて崩落して死傷者を出したので1904年に鉄橋に架け替えた。

 橋に入る門型のデザインが、なんだか古写真で見た懐かしいというか珍しく眺めたのであった。
 亀島川よりも隅田川の方が広いから、3つあったトラスのうちの中央の一つを持ってきたとあるから、それに両端の門型装飾ををくっつけたけたのであろう。トラスにつける門型は、昔の吾妻橋の絵にもある。

 現代の鉄の橋はたいていは道の下に単純な梁が架かっていて、単なる道路の一部に過ぎないが、こういうトラス橋だと、さあ、向こう岸の別世界に潜り抜けて渡るぞって、そんな特別の気分になる。
 橋とは元来そういう役割を持っていたのだ。橋は民俗学的に面白いのだが、その話をするときりがない
 それにしても100歳を超える橋とは、品のよい銀髪の老婆に出会ったようだ。

 横浜にもこのような古いトラス橋がある。中村川にかかる「浦舟水道橋」で、水道管と歩行者を渡らせている。
 この橋も南高橋のように、他にあったものを持ってきたと銘盤に書いてある。それがなんとここに来る前にも一度引越しをしていて、最初の創建時は1893年とあるから、両国橋よりも古い。

 この橋の上には高速道路の高架橋があり、橋の下の橋となっていて、ちょっと気の毒な風景である。昔から橋の下は家なし乞食がいて、今はホームレスがいるところ、この橋もさまよってここに居を見つけたか。
 それでも真っ赤になって気張っているのが、老婆というよりもこちらは少女のようで、可愛らしい。


 横浜には桜木町に「汽車道」という歩行者専用の道が海のなかを通っているが、ここにトラス橋がある。1907年に臨港鉄道の橋として架かったものだそうだ。
 今はレクリエーションの道として、人だけが通るのだが、歩行面にしいた板の間にレールを見えるように残している。

 トラス橋は古いものばかりではなくて、東京品川区の天王洲には1996年に架かった、新しいトラス橋もある。これも人道橋である。
 これは天王洲再開発における新規プロジェクトのひとつであり、運河沿いの散歩道で島をつなげるのに、ちょっと面白くしようと、わざわざレトロデザインをしたのだと、ここの開発コンサルタントから聞いた。
 遊び心のレトロデザインはよいとしても、その名が「天王洲ふれあい橋」とは、味気ない。
 
 話を戻して、南高橋を渡って川沿いに歩き、隅田川にかかる「中央大橋」を大川端リバーシティへと渡る。
 こちらも1993年にできた新しい橋のごとく、名前は味気ない。
 超モダンな斜張橋の中央大橋は、主塔がたくさんのロープを引っ張って、そばの超高層ビルに負けないようにピンと突っ立っている。
 おしゃれを気取る不良少年のようで、先ほど渡った銀髪老婆の南高橋とは対照的である。(2011.11.01)

2011/11/06

523いびきをかくコンピューター

 この10日ばかり前から、机の上のPCがときどきイビキをかく。人間の寝息とちょうど同じ間隔で、グーッ、グーッと気持ちよさそうである。
 はじめは隣の部屋の連れ合いのイビキか、壁を隔てて聞こえるようでは大変、脳梗塞でダウンしたかと見れば、なんだ、居間でテレビを見ている。

 数年前にこのPCが妙にやかましくなったことがある。イビキではなくて鼻息荒いのであったが、しばらくしたらPCそのものが壊れた。
 中にホコリが溜まってファンが回らなくなったのが原因だった。ハードディスクを取り替えた。

 それから5年、今回はいびき程度だがよく起こるので、また壊れる前兆かと怪しみ、今日はふたを開けて、ファンの掃除にかかった。
 なるほど、ふたつのファンにはホコリがいっぱいついている。こんなにホコリをどこから吸い込んだのだろうかと思えど、わが書斎からであるに違いない。
 綿棒でぬぐい、掃除機でていねいに吸い取る。
 そして起動すれば、今のところイビキかかずに起きて働いている様子である。

 一度ハードディスクを換えたとはいえ、もう8年とはPCとしては十分に働いたXPであるが、持ち主と同様に、老いてももうちょっとがんばってほしい。
 XPのあとにVistaそして7とちがうやつが出てきているが、さてこいつが壊れたら次はどうするかなあ。

 XPの前にMeてのを買ったら、すぐにXPが出てきてMeはママコ扱いになってしまったことがある。Vistaもどうもそんな気配である。
 次はいっそのことMACにするかなあ、最初に買ったのがそうだったから、老いては昔に戻るのである。
 ただし問題は、慣れるまでに面倒だよなあ、でも、ボケ防止になるかもなあ。

2011/11/05

522紙ヒコーキ超高層

 丸の内の東京駅の斜め前では、中央郵便局舎の建て替え工事が進み、下半身の旧ファ
ザード一部保全工事部分はまだ梱包の中だが、上空にガラスのタワーが全部見えてきた。
おお、やっぱり、どうみても紙ヒコーキだよな、これは。あのガラス壁の折れ曲がりは、懐かしい折り紙だよ。

 ほぼできあがったガラスのタワーを横から見たら、ガラス面は一枚の折紙のように、ビル表面に浮いてくっつくディテールである。
 まさに巨大折り紙ヒコーキそのものである。

 去年、この再開発プロジェクトの完成予想図が公表されたのを見て、はて、これはデザインソースは紙ヒコーキだよなあ、そう思ったのだが、現実にそうなっているのだ。
 デザインを担当したという建築家ヘルムート・ヤーンはアメリカ人だが、これもよくあるガイジンが抱く日本イメージのひとつなんだろうなあ。

 そして、アッと気がついたのは、これはまさに9.11のパロディだぞ、ってことだった。そう気がついてすぐにこんなことをわたしのサイトに書いた。
「その絵をしげしげと見ていて、はっと気がついたのだが、この上部構造の超高層建築のデザインは、折り紙飛行機なのである。
 ガラス板で折ったヒコーキは今、下部構造たる中央郵便局舎に突っ込んできて、まっさかさまにブスリと突き刺さったのだ。
 次の瞬間、、、なにもおこりはしないが、ある幻惑にかられるのだ。超高層部は立ち上がっているのではなく、天から舞い降り突入してきたのだ。
 21世紀幕開けの年にニューヨークで起こったあの9.11事件、これはそのパロディにちがいない。
 かの地の業務中枢のマンハッタンとこの地の丸の内、最高に高いWTCとJPタワー、そしてガラスに託したヒコーキのメタファー、これはパロディであるかもしれないが、むしろ真正面からの文明批評と言わねばなるまい。」
全文は→東京中央郵便局舎の改築と建築保存の諸問題

 これは建築デザインによる文明批評に違いない。
 USAではそんなパロディは袋叩きだろうが、遠い日本ならパロディでもよいだろう、はたしてパロディと気がつくかどうかが問題だが、とまあ、こんなふうにへルムート・ヤーンが考えたかどうか、もちろん知らない。
 でもモダンアートは見るほうの心が決めることだから、ありうるのだ。

 ところで、下半身のほうは梱包が解けたら、どう見えてくるだろうか楽しみである。
 そのモダニズムデザインは、俗受けしないから東京駅ほどには保存運動は盛り上がらなかった。
 当時の鳩山総務大臣(元総理大臣の弟)が口出しして、マスメディアが面白がった事件があった。ちょっとだけ盛り上がったが、結局は駅前広場に面する2スパン分の保全が決まった。
 免震構造にするとかで、面倒な工事をしているらしい。

 東京駅丸の内駅前広場を囲む建築は、三菱ビル・丸ビル・新丸ビル・オアゾは21世紀の新築だが、日本工業倶楽部会館は1920年と2003年の重層で完成、そして東京駅が1904年と2012年、中央郵便局が1931年と2012年のそれぞれ重層となってできあがるのである。
 建築における歴史の重層的表現を、これからどのように評価するか、楽しみである。

 と同時に、東京駅赤レンガ駅舎といい、三菱1号館美術館といい、大金をかけて昔の建築をコピー再現する見世物小屋をつくるという、奇妙な退廃的爛熟気味の時代の面白さも楽しみである。(2011.11.01)

東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)


2011/11/04

521見世物建築ちょい顔見世

 東京駅と丸の内は、何十年ものわたしの定点観測地点である。
 今の赤レンガの東京駅舎は、クリストのアートのごとくに布で梱包されていて、復原という名目をつけて、歴史的風景の破壊工事中である。
来年半ばには完成らしいが、先日(2011年11月1日)一部の梱包がとりはらわれていて、コピー再現した建物の部分がちょこちょこと見える。

 中央郵便局寄りの角の尖塔のあたりが下から上まで見える。尖塔の頭の辺りはあんな形であったのか。
 図面でのイメージと違うと思ったのは、なんだか丸髷が椀をかぶったような鈍重さである。

 修復された壁や窓まわりのレンガや石の装飾をよく見ると、汚れたところときれいなところが混じっている。既存材と新規補填材との区別がつくようにしたらしい。

文化財の修理の考え方も、昔はできるだけ新旧がわからないように、わざわざ新材を古びさせる工夫をしたものだが、現代はその逆となったらしい。それは歴史の重層を表現して、まことによろしいことである。

 梱包の上の方から、丸いドームの頭が出ている。なんだか思っていたよりも全体に小さい。壁部分が赤色でなくて茶色であるのは、あそこは赤レンガではなかったのだろうか。
 丸い頭に細い避雷針のような尖塔が立つ形は、19世紀プロイセンの軍隊がかぶった鶴嘴鉄兜(ピッケルハウベ)を連想させる。

 工事囲塀に工事の内容と出来上がりの絵などが展示してある。そこに今回の修復前(1947年)と修復後(2012年)の比較の立面図が書いてある。
 立ち止まってしげしげと見ていて、ドームが小さく見えた理由がわかった。実際に小さくなったのであった。半分以下の大きさになっている。
 そうか戦災で焼ける前は、そうだったのか。

 そして思うのは、あの物資の極端にない敗戦直後のときに、簡単な屋根でも雨をしのぐことができたろうに、よくまあ鉄道省の建築家たちはがんばってこんな大きなドーム屋根を作ったものだ、ということである。
 ついでに言えば、ドームの天井内装も、ローマのパンテオンのモダナイズであるのも、なかなかすごいことだ。あの壮大な天井も消えるのであろうか、もったいない。

 大きなドームも壮麗な天井も、あれは戦後の仮設に過ぎないから、昔に戻すのだというのが復原の論理らしいがが、どうしてどうして、あれが仮設であるはずがない。
 だからこそ66年も保ち続けて、創建時の姿よりも長生きをしたのだ。

 そしてまたふたつの図を見比べつつ思ったのは、どちらかといえば、戦後修復デザインの方が、辰野金吾のオリジナルよりもメリハリがきいていて、プロポーションもよいということである。
 辰野デザインはただただ長く横たわり、尖塔やドームでメリハリつけようとするのだが、全体に鈍重である。辰野の設計の建物は、どれも西欧様式ディテールのアプライは得意だが、総じて建築デザインとしては鈍重である。

 国鉄の建築家(課長・伊藤滋)が戦災復興のために手がけた修復デザインは、台形ドームを載せるという近代建築の手法を様式建築にアプライして、非凡な腕を見せている。
 みればみるほど、日本の不幸な戦争とそこからの力強い復興の姿を、これほど如実に表現していた証人たる建築が、復原という美名に聞こえる宣伝の仕業で消え去ろうとしているのが、残念でならない。

東京駅丸の内側から八重洲側に移り、東京駅を背にして八重洲通りをまっすぐに歩く。

 銀座通りとの交差点でふりかえって見ると、道の真正面が真っ黒な新丸ビルである。丸の内の行幸道路とは一直線でなくて軸が曲がるので、こうなるのである。

 新丸ビルがこんな風に見えるのなら、都市景観としてはこんな中途半端な形態ではなくて、もっと正面性を持たせるデザインであった方がよかった。(2011.11.01)

*参照→東京駅復原反対論
http://homepage2.nifty.com/datey/tokyo-st/index.htm

2011/11/03

520鎌倉世界遺産登録推進第ワークショップ

毎年開いている鎌倉ワークショップへのお誘いです。
      
●鎌倉世界遺産登録推進第5回ワークショップ

【テーマ】『住んでよく、訪れてよい鎌倉のまちづくり』
「武家の古都・鎌倉」は日本の世界文化遺産としての登録を
ユネスコへ推薦されることになりました。
登録後を見すえた「歴史を活かすまちづくり」について、
みんなで語りあいましょう。
・主催 鎌倉世界遺産登録推進協議会
   http://www.shonan-it.org/KWH-kyogikai/
・共催 鎌倉の世界遺産登録をめざす市民の会

【ワークショップの進め方】
①下記のテーマごとのグループに分かれて自由に意見交換
Aグループ
  
交通問題:交通混雑への対策、望ましい回遊空間の整備
Bグループ
  
情報センター:世界遺産情報の発信とその内容、保護、管理
Cグループ
  
まちの姿:鎌倉の多様な空間要望に応える都市空間の整備
②意見や提案を付箋に記入、多様な考え方を一覧しながらグループごとにまとめる。
 意見や提案は必ずしも一つにまとまる必要はありません。
③中間で進行状況を発表、ゲストや運営側の感想や意見を聞く。
 さらに、グループとしての意見をまとめて発表。
*提案の成果は、事務局でできるだけ早くまとめて公表します。

【日時】平成23年11月27日(日)13:30~16:30<13:15開場>

【場所】鎌倉市役所・第三分庁舎講堂(鎌倉駅西口徒歩5分)

【参加料】無料

【申込締切】平成23年11月18日(金)必着
   先着50名様…結果は全員に通知いたします

【申込み先】
 〒248-8686(住所は省略できます)
 鎌倉市役所 鎌倉世界遺産登録推進協議会「11/27ワークショップ係」
 電話:0467(61)3849
 FAX:0467(23)1085 
 E-mail:sekaiisan@city.kamakura.kanagawa.jp

【申込方法】
 下記必要事項を記入、FAX・Eメール・はがき、
 いずれかでお申込みください。

=====参加申し込み=======
11月27日第5回ワークショップ参加申込書
・氏名(ふりがな)
・住所 〒
・性別   男性 女性(○をつけてください)
・電話番号
・FAX番号
・Eメールアドレス
・参加希望するグループ(○をつけてください)
  第一希望  A交通問題 B情報センタ Cまちの姿
  第二希望  A交通問題 B情報センタ Cまちの姿
  第三希望  A交通問題 B情報センタ Cまちの姿
・ご意見や話題にしたいテーマなど自由にお書きください。




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このブログの関連ページ→210鎌倉の世界遺産

2011/11/02

519価格ゼロ円の原発被災土地

 原発被災土地の地価がどうなるのか気にしていたら、こんな新聞記事が出た。
「国税庁は1日、相続税や贈与税の算定基準となる2011年分(1月1日時点)の路線価に、東日本大震災直後の地価下落を反映させる調整率(倍率)を発表した。(中略)第一原発周辺の警戒区域と計画的避難区域、緊急時避難準備区域(9月30日解除)については、放射性物質などの影響を算定できないとして、調整率の設定を見送り、税務申告の際、路線価の欄に「0円」と記せるようにした。国税庁は「土地の価値を0円と判断したわけではない」としている」(読売新聞2011年11月1日夕刊)

 路線価は税制上の値で、国税庁が「土地の価値を0円と判断したわけではない」と言っても、現実の土地取引価格に影響するのは常識である。
 地震津波被災では対応する調整率を示したが、原発被災地では示すことが不可能としてはいるが、実態は価格ゼロを不動産業界では意味するだろう。
 地震津波は天災だから、天災の影響を受けやすい土地の価格が低くなるのは、取引上ではあたりまえ。
 だが、原発事故被害は天災ではなくて人災である。

 これまでも人災による被害はあってもそのまま土地価格下落に影響することは、ないことはないだろうが、ほとんど一過性だっただろうと思う。
 原発の場合は、人災ながらもその影響の深刻さ、時間の長さ、範囲の広さがはなはだしいから、土地価格へも大きな影響が長期に響く。
 その公的な認知が、原発被災地の路線価対応でようやく始まったといえる。
 さて、その土地価格ゼロ円になった財産下落について、その原因者の東電はどう補償するのだろうか。
 いま行いつつある被害補償に、この項目もあるるのだろうか。多分、ないだろう。核毒の濃度、除染の具合、元に戻る期間など、算定条件があまりにも難しい。
 だからといってこの財産侵害を等閑視しておいてよいことでもない。

 そのいっぽうで、こんなことも考えるのだ。
 これは8月22日にこのブログに書いた記事21世紀の「谷中村」は「核毒の森http://datey.blogspot.com/2011/08/47921.htmlであるが一部再掲する。
『「菅政権は、東京電力福島第一原発の周辺で放射線量が高い地域の住民に対し、居住を長期間禁止するとともに、その地域の土地を借り上げる方向で検討に入った。(朝日新聞8月21日朝刊)」
 わたしでさえ予想していたのだから、その筋の業界のかたがたは、現地地権者との折衝に、すでに動いていらっしゃるかもしれない。
 こうなったら、政府は土地建物立木等権利移動凍結・価格凍結の施策を今すぐにでも打つべきである。
 もたもた遅れている間に、妙なことをする人々が介入してきて権利移動・価格高騰が起きると、結局は住民にも国民にも迷惑がかかることになる』

 つまり、住民がもう戻れないと見られる土地、つまり路線価ゼロ円の土地を、いまのうちに所有者から買い叩いて買占め、いずれ政府なり自治体なりに高額に貸したり売りつけようって、そういうアウトローなことが起きるのではあるまいかって、ことである。
 わたしの杞憂であれば幸いである。

(追記111103)
 相続税が減額されるってことは、国の税収が減るってことである。
 その原発によっての減額に関しては、その原因者の東電が、原発事故がなかったなら徴収できるとみなした差額の税金を、国に補填をするべきである。
 でないと関係のない沖縄の人までも被災することになる。
 同様に、固定資産税も減額になるだろうし、その他、土地取引にかかる諸税、事業所がなくなるに伴う諸税など、もろもろの減少についても同様である。

2011/11/01

518天日干し自作新米がやってきた

 さあ、今夜は自作のうまい米の飯だあ!
 中越の法末から新米コシヒカリが、先ほど届いた。
 わたしもメンバーの「法末棚田クラブ」の仲間たちで作ったものである。
 今回で6回目の収穫である。
 わたしは今年は、田植えと稲刈りの2回だけの参加だったが、実態は、会費さえ払えば、それだけで米ができるものではない。
 田植えの前の準備、田植えしてから水の管理と草取り、ハサつくり、稲刈り、天日干し、そして脱穀、精米、袋つめ、発送などなど、たくさんの仕事がある。
 指導してくださる地元の田の持ち主、ちょっと現地にはまって稲作をがんばってくれる仲間たちがいるからこそ、うまい飯に到達できる。感謝。
●参照→中越山村の四季

2011/10/30

517福島観光パンフレットを見て

 横浜の都心部の日本大通りで、東北復興支援のイベントが開催されていた(2011年10月29日)。
 福島県の観光パフレットをもらってきた。震災後まだ行っていないので、震災と核災のお見舞いには、どう行けばよいか知りたかったのだ。

 ところがである。震災も核災(原発事故被災)も一切書いてないのだ
 う~ん、そういうものかしら。
 それらしいことは、地図の上に事故原発を中心に灰色の半円が書いてあるだけ。その半円も何キロか分からない。それが原発関連だと、わたしは知っているけど、地図には何も書いていない。
 常磐線久の浜駅ー亘理駅間は運転見込みが立ってない、と書いてあるのだが、地図には久の浜駅も亘理駅も記載がないから、どこか分からない。

 観光パンフレットだから、震災や核災は関係ないのだってことだろうか。福島には震災も核災もなかったことにする、そういうようである。
 なんだか間違っているような気がする。
 これをおつくりになった方の意図を忖度すれば、ひとつは災害情報は物見遊山の来客を阻害する、もうひとつは物見遊山気分でこられては困るって、そういうことなんだろう。

 しかし、いまの東北に行くのは物見遊山だけではない、いやあってはならないと思うのは、いまや世の常識である、とわたしは思う。

 その地の光を見るという古典的な観光ではないが、震災と核災というその地の闇をこの眼で見ることで、次の時代への光を探る(当て字をすれば「観荒」か)のも、重要なる観光であると、わたしは思う。

 福島の人たちの気分を害してもいけないと思うが、世の警鐘として震災・核災をひろく知らしめることが、いまの福島の役割でもある、福島観光はそういう新たな時代に突入していると、そう考えてはどうだろうか。

 わたしが福島原発を世界遺産にせよと唱えるのも、物見遊山の見世物観光ではなくて、深い沈思の文化への志向をも観光に意図するからである。

516敵は東電だろうに

 それにしても不思議なのは、原発事故問題で、政府の偉いおかたばかりが福島にたびたび行くし、たびたび謝ることだ。
 これってほんとはぜ~んぶ東電がやることでしょ
 除染ってのも、ほんとは東電がやることでしょ。なぜ政府がしゃしゃり出るのかしら。
 東電の尻をたたいてやらせるのが政府の役目のような気がする。

 ってことは、つまり東電がその能力を欠いているので、緊急を要する社会的大事件なので、政府がかわりにやってるってことかしら。
 もしそうだとしたら、そんなアホな事業者に危険とわかりながら原子力発電を任せていたことが、そもそも間違っていたことになる。
 ということは、他の電力会社もそうなんだろう。
 能力ないのは困るけど、せめて政府のあとをくっついていくぐらいするモンでしょ、直接原因者なんだから。

 あ、もしかして東電も動いているんだけお、マスコミが伝えないだけかもなあ。
 世の中には、なんでも政府が悪い行政が悪いと言っていれば、とりあえずは万事がうまく収まるって、そんな風潮があるのに、メディア連中も尻馬に乗って煽っているのだろう。
 そして本当の敵を忘れさせる

 なんだか東電の身代わりで政府が怒られているような。
 ということはその政府を作っているわたしたち、みんなが東電の身代わりになってるのか。
 東電の不始末の尻拭いを、日本中でよってたかったみんなでやってあげるって、そんな構図になってるのは、いったいどういうわけなんだろうか。
 だんだんと東電のことを忘れて、基地問題みたいに政府を追及するばかりになるのかしら。
 だんだん敵を間違えてきているような気がする。

2011/10/29

515普天間問題に似てるような

 福島第1原発によって各地に降った核毒汚染物質を集めて、それぞれ近場に仮置き場を設けて3年間ほど置いておくそうだ。
参照http://www.asahi.com/national/update/1029/TKY201110290361.html?ref=any
 どこに置くかもめるだろうなあ、NIMBYで当たり前だもんなあ。
 絶対にNIMBYといえないのは東電ただひとりだけである。そうか、原発作っている東芝や日立、三菱もそうかな。

 山の中の国有林におくとかの話もあるようだが、水が流れてくる上流部においたら、雨のたびにだんだん流れて、人里にやってきそうだよなあ、いいのかしら。
 といって、隣の町との境のあたりに置くと、隣が文句言うよなあ。

 3年ほどの後に、こんどは中間貯蔵施設に持っていくのだそうだ。で、この中間貯蔵施設だって、仮置き場と同じ問題を抱えてるから、難しいよなあ。
 それからまた30年以内に福島県外の最終処分場に移設するのだそうだ。そこには大量の核毒がやってくるのだろうなあ。
 お近くの人は、30年も毒に行き来されては、たまったものじゃないよ。

 県外に移設って、はて、どこかで聞いたような、あそうかUSARMY普天間基地移転の話だ。
 そう、大迷惑施設の受け入れ先が、福島県外って言っても、どこなんだろうか。
 これって原発立地の交付金以上に持参金をつけたら、こんな醜い嫁あるいは馬鹿な婿でも、もらう気になる自治体が出てくるのだろうか。
 もういちど鳩山宇宙人にでも、ゆきさき探しをお願いますかねえ。

 このブログに何度も書いてきたけど、わたしはどう考えても、東京電力が福島原発敷地とその周辺の土地を買い増しして、そこに持っていくしかないと思う。
 ITNPYである(in TODEN nuclear power plant yards)。
 あ、そうだ、そこは福島県から分離して、東電県としてはどうか、それなら県外である、って、冗談を言ってみたが、考えるとありうるかもなあ。

  あ、そうそう、で、東電県を世界文化遺産に登録するのであったよ。
 東電はご自分が出したすべての核毒を抱えこんで、その毒が消えるまで何百年間かしらないが、世界の文化遺産としてずっと県土をお守りなさって下さいませ。

2011/10/26

514【くたばれ乗用車】年寄りの自転車

 土地がまったいらな横浜都心に住むようになって、足も老化しつつあるこちとらには自転車の利用をしやすい。
 でも近所をまわるにはともかく、遠出となると横浜都心の周りは丘陵ばかりで、けっこう歩いて押さなければならない。
 まあ、足の運動になってよろしい。

 先般東京の有楽町から浅草まで自転車で走った。横浜都心でもそうだが、自転車で走っていて困るのは、車道に停車している自動車である。
 これを回避するために、さらに車道の中側にはいって走るのが怖い。それが、しょっちゅうあるのだ。

 車道の駐車を回避するために車道の中よりに移るとき、とうぜんのことながら後方確認をする。
 年寄りになって反射神経が鈍くなると、自転車での走行時によそ見をすると、ふらふらする。
 ふらふらしても、歩道なら倒れてもなんとかなるだろうが、車道で倒れたらこれは危ない
 危ないから歩道を走ることになる。
 でも歩道には車道から建物に入るために切込みがあるので、自転車は上へ下へと振られて不安定である。これも老人には危ない。
 車道に自転車専用レーンのようなものは、見たことがない

 で、今日の新聞に、歩道を走る自転車の危険運転や歩行者との事故が目立つとして、警察庁は自転車は車両であることを庶民に認識させて、歩道通行自転車を断固取締りすると決めたとの報道である。
 警察庁の通達を見た。http://www.npa.go.jp/koutsuu/kikaku/bicycle/taisaku/tsuutatu.pdf
「車道を通行する自転車の安全と歩道を通行する歩行者の安全の双方を確保」という大義名分であるらしい。

 自転車の取締りをしっかりやるってことは、車道に駐まる自動車もしっかり取り締まるのでしょうね。パーキングメーターのある道路は、どうするのだろう。
 車道を走っても安心できる自転車専用レーンをつくるのでしょうね。
 警察庁の最新通達を見たら、書いてあった。
 曰く、「自転車道等の整備を検討」とか「パーキング・メーター等を撤去を検討」とある。
 あのなあ、役人用語で「検討」って、昔から「やらない」って意味だったはずですが、どうなんですか。

 自転車は歩行者なのか車両なのか、よくわからないままに、その場その場で変身するカメレオンをやってきたが、これはいけないのだった。
 歩道を通ってよい例外は、13歳未満の子ども、70歳以上の高齢者、身体障害者とある。法を調べると道路交通法施行令第26条にあった。
 そうか、わたしも例外にはいるのか、ではこれからは堂々と歩道を走ることにするか。つかまったら、身分証明書を出すのだ。
 美術館無料とか、映画1000円とか、自転車歩道走行OKとか、年寄りの役得である。

追記111028)書き忘れたこと。 自転車で出歩くと一番困るのは、とめるところがないことだ。
 歩道走行云々もけっこうだが、駐輪スペースをなんとかしてほしい。
 コンビニ、パチンコ屋くらいは止めるスペースを確保しているが、商店街ではほんとに困る。
 特に横浜中華街では、従業員用駐輪場ばかり大きいが、客用はどこにもなくて、ちょっとしたデッドスペースに止めようとすると、かならず駐輪禁止と書いてある。なんとあかしろ。
 量販店の前の歩道にむやみに広がるのは、みっともないし、危ない。
 神奈川県民ホールにもないので、どうすればよいか聞いたら、道をわたって山下公園にある駐輪場を使えという。
 新しくできた神奈川芸術劇場には駐輪スペースがある。
 横浜開港資料館では、駐輪スペースはないので、建物の陰にでも置いておけという。

参照→021老いて徳はないけど得をする
http://datey.blogspot.com/2008/07/blog-post_22.html
   222交通信号を歩行者のために
http://datey.blogspot.com/2009/12/222.html

2011/10/25

513城下町・高梁の玄関の風景

 久しぶりに故郷の高梁の駅に降りた。駅前から見る風景は、城下町とは思えないのは、全国どこの城下町駅でも同じことだ。
 でも、通りの向こうに霧にけぶる山が見えるのがうれしい。この山あての風景こそが高梁の大切な個性であるし、わたしの記憶の中の大切なふるさと風景である。
 とくに高梁の象徴である備中松山城のある臥牛山(がぎゅうざん)は、街のどこからでも山あて風景となっている。
 でも、並木がどうしてこんなにショボイのかしら。

 ありふれた駅前風景だが、おや、なんだか目障りな看板がビルに張り付いている、ブサイクな風景だなあ。
 え、「学園文化都市 ようこそ高梁へ」だって?
 これってどうみても非文化的な風景だけどなあ。
 その上にはまたひときわ大きく「備中高梁 ロケのまち」ってある。
 ロケってどんな高梁名物なの?

 で、駅の方に振りかえると、おお、こちらも負けすに大きな看板。
 あのね、この備中高梁駅舎って、歴史的な代物なんですよ。なにしろ1926年、大正15年8月にできたってのですからね。
 今はなんだか年寄りの厚化粧って感じだけど、皮をむくと昔の姿が出てくるだろう。
 やる気があるなら登録文化財くらいにはしてもバチが当たらないと思いますがねえ。もうちょっと大切に姿をまもってあげてはどうですか。

 もちろん、宣伝なさるのはよろしいのですが、どこかこの風景は、品がないと思うのです。
 学園文化都市もよろしいし、映画になるような文化的風景都市もよろしい。
 ですが、もうちょっと、文化的な宣伝のしかたというか、文化的な風景になる看板のあげ方がありそうなもんです。
 せっかく、歴史的街並みの保存の努力をなさっているのに、玄関先がこれじゃあねえ。
 
 ついでに、自動車での玄関口を見るかと、グーグルストリートを探した。
 高梁川沿いに国道180号を北上してきての玄関は、向こうに臥牛山が山あてで見えているのはよいのだが、鉄塔やら赤い看板やらなにやらが、いただけない。
 お客をまねきいれるホスピタリティに欠けていて、愛想なしである。
 両側に樹木を植えた美しい並木道にして、うるおいある風景にしてほしいものである。
 もうひとつの玄関は、ループ橋からおりきったあたりだろうが、そこはグーグルストリートにはでてこない。どんな風景なのだろうか気になる。
 どこの町でも、こういうところには派手な看板が立ちならんで、ゲンナリとさせてくれる。
 実例として、長野県の城下町・松代に行ったときの、わたしのゲンナリ風景をご覧ください。
http://datey.blogspot.com/2008/10/blog-post_27.html

 ふるさとの街の客間や居間をきれいになさるのはもちろん嬉しいことですが、玄関もきれいにしてくださるといいのになあと、おもいました。

2011/10/23

512路地と小路

 街の中の狭い道が、自動車が通りやすくとか、災害時に消防車が入りやすくとかの理由で、次第に広げられていく。
 昔の道は、人が歩き荷車がとおればよいから、ほとんどの道幅が6尺程度でよかった。街を貫通する大動脈のような数本の主な表通りは広くても、それらをつなぐ毛細血管のような道は細くてよいのだ。

 そこでは子どもの遊び場でもあったし、ちょっと広がったところに井戸があって井戸端会議をする。縁台を出して涼みながら将棋をうったりして、近所つきあいの場でもあった。
 先般、ネパールに行ったとき、カトマンヅ盆地の古都バクタプルを訪ねて裏町を歩いたら、子どもが遊び井戸端会議のある路地が生きていた。

 戦前の都市計画では、便所の汲み取り路として、細い裏道をわざわざつくったものだ。それが生活の道となって今も生きているところがある。東京の銀座にもそのような細い裏道が今も生きている。
 そんな狭い横丁や裏道を「路地」とか「小路」とか、各地で呼び名がちがう。
 いまは法律が4m幅未満の道路を許さない。だから、今も生き残る狭い路地は道路としては違法であるか、または道路ではない街の隙間である。

全国路地サミット」なる妙な名前の会合が、毎年一回は各地で開かれている。今年は、東京都墨田区の向島地区である(2011年10月21~23日)。
 毎回、100人ばかりが全国からやってきて、うろうろとあちこちの狭い路地を歩きまわったあとは、みんなで集まって路地を守ろうと気勢を上げる。もちろん路地裏の飲み屋での2次、3次の会が続くらしい。

 自動車が通りやすいように道を広げてばかりいるが、狭い道がかつて持っていた地域での生活の場としての役割を見直そう、というのが会合の大義名分である。そのいっぽうでは裏路地の飲み屋の保存も大切な目的であるらしい。
 新潟市や諏訪市など、かなり興味深い路地保存運動がされているところがある。行政マンが市民運動として保存運動をしているのも面白い。

 墨田区では、来年の夏にスカイツリーなるノッポ鉄塔ができて、これの見物客がわっと押し寄せる。そうすると路地にも観光客が入り込んでくるかもしれない。
 表通りの商売人は喜ぶだろうが、路地はほとんどが住宅地だから住民は大いに迷惑である。さて、どう考えるか、そんなことが話題になっている。

 だが、住宅地の面白くもない路地に入ってくるのは、物好きだけだろうとおもう。
 もっとも、鉄塔がらみの観光客は年間2千万人と皮算用だそうだから、その0.1パーセントの物好きがいても2万人か、ちょっとした数ではある。

 その物好きのひとりであるわたしは、昨日、向島の玉の井をうろうろしてきた。永井荷風が愛した私娼窟だった街である。
 実は歩いてみても、その名残はなにもないのである。東京下町によくあるありふれた木造建物が密集する住宅街である。

 1923年の関東大震災以来のその下半身商売繁盛の街は、1945年の東京大空襲による丸焼けのあともさらに北に広がって繁栄する。1956年の売春防止法の施行によって幕を閉じた。
 いま残るのはその曲がりくねった細道ばかりだが、これは江戸時代からの遺産で、田んぼの畦道がほとんどそのままに現代に引き継がれているのだ。

 細い路地を通り抜けながら、故郷の高梁小路(しょうじ)をおもいだしていた。
 こちらは江戸期の都市計画の城下町だから、道は曲がりくねるのではなくて直線だが、ところどころに筋替えとなる食い違いがあるのが特徴である。
 向島はまったいらだから、路地の向こうには広い表道に建つビルが見えるが、高梁は盆地の中で小路の向こうには必ず山が見える。ハイデルベルグの路地と同じなのである。

 高梁救助か町にはたくさんの小路があるが、それらの名前のなかでわたしの記憶にあるのは「菊屋小路」と「牢屋小路で」、「森小路」というのがあったような気がする。
 菊屋小路は幅6尺ほど、わたしの生家と母の実家を結ぶ路の一部だったので、よく通ったものだ。両側に蔵が並び、途中で食い違いに折れ曲がる。
 幼児のわたしが、ひとりで母の実家に行くとき、母に必ず言われたことは、菊屋小路からでて本町(ほんまち)通りを横切るときには「左右を見てバスに気をつけて!」
 その本町通りは、なんとまあ狭い道であることか。

 だが、高梁のそのような小路も、自動車が通りやすいように道幅を広げているし、食い違いはまっすぐにしている。時代の要請だろうが、道の先が見え隠れする面白さがなくなって、味気ない風景となっていく。
 せめて道の上に、元の道の形を色違いにして描いて、城下町の記憶のよすがにする工夫をしてほしいものだ。

 菊屋小路は今もあることを先日に確認したが、この道は都市計画によって12mに拡幅されることになっている。
 はたしてそれが必要なのだろうかと思うが、わたしのノスタルジック小路は、さて、いつまであるものやら。
 牢屋小路はいまもあるのだろうか。

2011/10/22

511【ふるさと高梁盆地】小堀遠州作の名園の借景を守る

 高梁には江戸初期の幕府官僚アーキテクト・小堀遠州政一がデザインをした頼久寺庭園がある。
 小堀遠州は15年ほどの間、備中松山藩の代官だったことがあり、頼久寺に居を構えていて作庭をした。
豪快なサツキの大刈り込み、その背景の高い生垣、その向こうに雄大な愛宕山(あたごさん)がゆったりとやさしい三角の山容を見せている。遠近が効いていて大きな庭になっている。
 この愛宕山の借景が、遠州の作庭のポイントであったのだろう。
 
 ところが、地図や航空写真で見ると、実にちっぽけな庭である。それがどうしてあれほど大きく見えるのか、そのポイントは遠くにある愛宕山の借景にある。
 庭と愛宕山頂上とは、水平距離にして1.5kmもはなれている。その距離をこの庭に圧縮してとりこんだのである。  

 同じような借景庭園として有名なものに、京都岩倉の円通寺がある。比叡山をとりこんでいる。
 頼久寺と同じ頃に作られたが、こちらは後水之尾上皇による。頼久寺が武家の作庭なら、こちらは公家のそれである。

わたしは1960年ごろに、この庭を見た記憶があるのだが、そのときは刈り込みの背景の生垣の上に、すぐ外にある養老院のセメント瓦の屋根が見えていたような気がする。
 そう思ってアルバムを探したら、わたしが撮ったそのとおりの写真があった。

今は外の建物が見えないのは、その建物がなくなったのかと思って、向こうの生垣のすぐ外に出てみた。
 下の写真に見るように、それらしい建物が今もあるから、建物の高さを低く建て直し、周りに常緑樹による生垣を高くめぐらしたようだ。



 そう思って庭の中からみると、生垣がちょっと高すぎる感がある。外の建物を見切るためにそうなっているのであろうが、内外の境界を感じさせる。
 当然のことに、小堀遠州が作庭したころは、外は田園であろうし、小さな茅葺きの家はあったかもしれないが、刈り込みの背景をこれほど高い生垣をたてて、外を見切る必要はなかっただろう。
 いまよりは低い生垣で、おおらかに外の風景につながっていたにちがいない。

 それにしても、庭園の中から見る愛宕山と、庭のすぐ外の墓地に出て同じ視線でみる愛宕山とは、あまりにも異なる風景であることに驚く。とても同じ山を眺めているとは思えない作庭テクニックである。
 借景庭園の外に、高い建物が建って借景の山は見えなくなってしまった庭は多くあるだろう。
 あるいは借景の山がなくとも、庭園を取り囲む樹木の連なりが美しい庭園の外に、庭の樹林の上に無粋な四角なビルが顔を出したりすることも多い。
 東京の名園はどこもかしこも、ビルにのぞきこまれていいる。のぞきこむ名園が隣にあることを売り物にしている住宅ビルもあるから、まったく始末におえない。
 そのおかげで東京の浜離宮庭園が、ニューヨークのセントラルパークみたいになって、大名庭園は台無しになった

 頼久寺も円通寺も、その危惧があるので、庭から見える借景の範囲にある街に、高い建物を建てないように、都市計画で規制をしている。
 頼久寺の場合は、吉備国際大学の新設のときに、「地区計画」(都市計画の規制手法のひとつ)を決めたそうだ。
 それまでは特に高い建物が建つようなところでもなかったが、大学ができると高いビルが建つことは十分に考えられる。
 都市計画の用途地域も、それを許す指定であったので、市民から何とかするべきとの声が上がった。

 そこで、庭園の外の借景が見える方向の街の中の、高い建物が建ちそうなところに風船を上げて、頼久寺の庭から眺めてそれが見えない高さに、建物の高さ規制値を定めたそうだ。
 市民の努力は実って、いまも借景の愛宕山は美しい姿を見せている。
 そういえば庭園ではないが、高梁の近くにある倉敷市の有名な倉敷川あたりの美観地区では、その風景の背景に高いビルが建たないように条例を決めて規制している。(2011.11.121960写真追加、関連して文を一部修正)

参照→景観戯造(各地の借景庭園風景)

参照→怨念の景観帝国(京都岩倉円通寺庭園の今)

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伊達美徳=まちもり散人
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2011/10/21

510ふるさとの鎮守の森

 久しぶりの生家の御前神社訪問で、鳥居が新品で白くなってびっくりしたが、参道を登って境内広場に入ってまたびっくり、見えなかったもう一段上の境内にある社殿が見えるのだ。
 参道を登って丘の中腹を、2段に伐って境内地はつくられている。その下の段に広場があり、ここではかつては祭りには神楽が舞われ、戦時中には武道訓練の矢場になったり、戦後食糧難の頃は芋畑になったりしていた。いまは駐車場である。

 ここからまた鳥居をくぐって、石段を登り上の段の境内にでると社殿がある。下の段から上の段の社殿は、森の樹木の葉にさえぎられて見えない、はずなのが、今は丸見えになっているのである。
 その森の何本かの大木が伐られて、見通しがよい、明るいのだ。

 私の住んでいた宮司住宅はとりこわされて空き地に、それにつながる社務所は建て替えられえ、明るい白壁が見える。
 1957年にわたしが出てゆき、弟たちが去り、そして最後に両親がここをあとにしたのは1966年であった。

 少年の日と比べて、なにもかも明るい。広場も建物もきれいに管理されている。
 少年のわたしは、ここを掃除させられるのがいやだった。掃いても掃いても落ち葉はあるし、むしってむしっても草は生える。
 社殿の横で栗の実を一つぶ拾った。ここでは少年の頃にも拾ったと思い出したが、何代目の木だろうか。ジーンズのポケットに、いまもはいったままだ。

 おもいだせば、あれは戦後すぐのころだろうか、下の段の境内広場の南にあった、大人が3人でかかえるくらいの、イチョウの巨木を倒したことがあった。ここにしか倒す方向はないという位置に、樵職人はみごとに切り倒した。(参照→大銀杏の死

 家にかぶさるように枝葉を張っていたモミの大木があった。家の中から窓ガラス越しに枝葉とその間に見える空が描く複雑な模様を見上げて、なにか怪物の影にみたてて怖がった幼年のわたしを思い出す。これを切り倒したのは、いつだったのだろうか。

 周りは暗く真上の空だけはやけに明るい境内の森の中を、社務所で敗戦の放送を聴いたばかりの大人たちが、列になって黙りこくって参道を下っていく風景を思い出す。
 それは1945年8月15日、暑く快晴の昼過ぎのことであった。(参照→66年目の空襲と疎開

 高校生だった1955年の夏、少し遠くに住む同級の友人が遊びにきた。
 持ってきたてメタセコイヤの苗木を、境内の石垣の小段に植えた。すくすくと育って30mくらいの大木になっていた。
 青春の記念樹であったが、これも伐られて大きな切り株だけになっていた。大木が風でゆすられて、石垣が危うくなったのだろう。
 わたしも木も歳をとりすぎた。 わたしの記憶の中にある秋と春の祭礼の日には、境内から参道に幟旗やぼんぼりが立ちならび、綿菓子を売る露店などがでて、街から人々がおおぜいやってきた。
 そして人々の肩にかつがれた重い神輿が、行列をしたがえて街の中をめぐる。神輿の直前には、装束をつけた父が歩いている。

 今も、祭礼はあり、神輿が街を巡るそうだ。
 だが、氏子といわれる旧城下町の北半分の街の人口は減り老齢化が進む。神輿はトラックの荷台に載せて巡るそうだ。あとは推して知るべしである。