2013/03/21

740歴史は下手な小説よりも虚構に満ち満ちていて面白い

 わたしの書斎兼寝室兼居間兼晩酌室には、壁4面の本棚に未読本がものすごくたくさんある。
 金はないけど、閑はある、せっかく買ったのに読まないままに死ぬのはもったいないから、もう書店で本を買いこむ癖をやめて、それら未読本制覇にとりかかった。 

 どれからにしようかと考えて、思いついて日本史を読みながら、いろいろと他の本も並行することにした。
 日本史の本は「週刊朝日百科『日本の歴史』」である。A4版、全133冊だが、一冊は32ページで図版写真が多いから、気楽に読める。
 1985年の刊行だから、現代史ではもう古くなっていることや、近頃の研究で内容が変わっている事項もあるだろう。

 でも、この30年でどう歴史の叙述かかわったかそれも面白いだろうと、「宇宙と人類の誕生」編から読み始めた。
 これは猿人とか旧人とかが出てくるところまでで、今では違う学説もあるかもしれないが、まあ、よろしい。

 次は「原ニホン人と列島の自然」の巻、フムフム、そんな昔から日本列島に人間はいたんだなあ。
 え、30万年も前からいた可能性があるって、え、座散乱木遺跡って、アレ、なんだ引っかかるなあ、なんだっけ、あそうだ、これって以前に大スキャンダルニュースで騒ぎになった旧石器遺跡捏造事件で聞いたことあるぞ、あれだあれだ。
 なんだ、2巻目にしてもう歴史が変わる事件にぶつかってしまった。
 
 さっそく書棚にあるはずの、スキャンダル発掘暴露した毎日新聞が書いた本を探すのだが、みつからない。
 昔なら図書館にでも行くところだが、いまや貧者の百科事典ウェブサイトのお世話になる。あるある、いっぱい出てくる。
 昔の本に書いてあったこと以上に、裏の裏まで書いたものもある。全く便利になったものだ。

 それによると、捏造事件発覚は2000年11月のことであった。
 藤村なにがしという遺跡発掘の専門家が、発掘のたびにあらかじめ発掘する石器を地中の何十万年も前の地層に埋めておいて、発掘時に「新発見」をし続けたという事件である。

 このなかに座散乱木遺跡があったのだが、おかげで遺跡が遺跡じゃなくなった。ほかにも40ほどの発掘で捏造をして、石器どころか遺跡そのものが捏造だったという。
 捏造遺跡にしたがって、何十万年も前から日本列島には石器をつくることができる人間がいたという、考古学会のおとぎ話が構築されていて、この本にも写真解説付きで載っている。


 それにしてもあれは変な事件だった。
 たった一人の石器アマチュアが嵩じて発掘屋になった男が、発見の名誉心にかられて、日本中の石器時代遺跡でほかで拾った石器を埋めては、自分で発掘する「新発見」を続けて20年余、その間、専門家のだれひとり見抜けなかったというのだ。
 一部に見抜いた人がいたが、その人たちは学会から村八分にされたそうだ。

 あの当時も呆れたが、いまネットでいろいろ読んでてさらに呆れた。
 30万年も前にそんな精巧な石器(実は弥生時代の石器)をつくったり祭祀遺跡を持つところは、世界中になかった。日本だけで文化を持った旧石器人が発見されたのだ。
 そこで日本の考古学者たちは考えた、日本人はそれだけ文化的に優秀な民族だったからだ、と。そう発見当時に語っているのであった。
 これって、日本民族は世界にぬきんでて優秀だから、鬼畜米英には負けない高い文化国家なのだって、まるっきり戦中のおハナシだよなあ。

 で、その後の考古学の世界では、あのスキャンダルを藤村ひとりに全部押し付けて、誰も責任は取っていないのだそうである。
 さすがに当時藤村のそばにいつづけてその新発見を学問的業績にした学者たちは、わが身の不明を謝ってはいるが、学界の重鎮のままらしい。
 さらに疑問は続いているらしく、あんな一介の発掘屋の(こういう差別的な言い方もどうかと思うが)藤村ひとりでできるはずはない、実はストーリーをつくってやらせた学者がいる、そこには学会の勢力争いが裏にある、なんて話もある。こちとら庶民を面白がらせてくれる。

 思い出したが、昔、永仁壺事件てのがあったなあ。現代の名工がつくった古びた壺を、文部省は永仁期の本物とまちがえて重要文化財に指定してしまったのだった。あれもおかしかった。
 歴史は面白い。下手な小説よりもまことに虚構に満ち満ちている。
 このあと読んでいてどんな虚の歴史が出て来るか、楽しみになってきた。

739震災核災3年目(10)これを機に日本の住宅政策を経済政策から社会政策に転換せよ

 昨日の「738地震津波火事原発3年目(9)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●日本の住宅政策の欠点を大災害が暴露した

 朝日新聞の資料の一覧を見ていて「災害公営住宅」がかなり多くなっていることに、興味をひかれた。記事にもこの公営住宅希望者が増加しつつあるそうだ。
 東北被災3県合わせて、2万戸近くを建設するそうである。そんなにも建てなければならないのか、これまで公営住宅に空き家の余裕はなかったのか。

 その希望者が多い理由は、どこにあるのだろうか。
 高齢者が多くなっていて、新たに借金して建てても返済できない、ということは金融機関が貸してくれない、そのようなこともあるだろう。とくに今回の被災地は高齢者が多い。

 持ち家の自宅を建設することが資金的にできなくて、公営の賃貸住宅のほうを選択しているのだろう。資金的にできなければ借り入れる方法もあろう。
 だが問題は、借りようにも、被災してなくなってしまった住宅建設のためにすでに借り入れていて、いまだに返済が終わっていない、借金返済だけが残っている、2重借金はできない、どうもそういう例が多いらしい。
 
 そうであろう。日本では一生かかって返すほどの借金を負わないと、自分が住む家がないという政策の国なのだ。

 住宅というものは、基本人権の生存権とセットになっているはずだが、日本の住宅政策は社会政策ではなくて経済政策になっているのだ。
 自分が家族と暮らすための家を得るのに、日頃見たこともないほどの大借金を抱えなければならない。その金を返すためには20年30年とかかるから、その間は一生けんめいに働く。借金を返し終えたころは、疲れた老人になっている。

 言葉は悪いが、家の借金を返すために遊里苦界に身を沈めた遊女のごとく、借金に追いまくられて働く人生である。じつはわたしもその道を歩んできた。
 わたしは賃借住宅主義者である。なのに50歳で借金住宅を建てたのは、賃貸住宅に適切なものがなかったからである。
 それは、賃貸住宅政策は冷遇され、売り家住宅政策ばかり厚遇されているので、立地、家賃、広さなどが適切な住宅がなかなかないのだ。だから無理しても借金住宅になる。

 賃貸住宅冷遇の証拠は、東京区部にドーナツ状の広大な木造住宅密集地域にあるアパート群である。家を建てられない、つまり借金できない層が暮らす、いわゆる木賃住宅群である。
 需要に応じて土地持ちが庭先に無秩序に建てていった木造2階建て共同住宅群が、いつの間にか東京都心部を取り囲むドーナツ状になり、災害には最も弱い地域をつくっている。
 社会底辺からの需要があるのに、住宅政策が対応していない結果である。
今になって首都圏直下大地震で、被害甚大地帯になると騒いでいる。もっと前にわかっていたことだが、後回しになった。
 
 そのような借金住宅政策が、公営あるいは公団や公社等の公的賃貸住宅を縮小させて行き、民間賃貸住宅も供給が少なく質的低下もまねき、それが大災害を機に一挙に矛盾を暴露したのだ。
 公的住宅が多くあれば、被災者の避難先として、その空き家を柔軟に対応することができただろう。
 公的賃貸住宅政策が行き渡っていれば、2重借金問題は少なかったはずである。

 住宅は持ち家でなければならないという政策をつくったのは、戦後高度成長期1970年代からのことである。国民に少額でも土地建物という財産を持たせて保守化して、保守政権を維持させようという政治戦略であった、と、わたしは思っている。

 その前の戦後の時代は、公団住宅が典型のように戦後も借家は当たり前だったし、戦前の日本は借家が普通だった。
 戦後しばらくは住宅政策は社会政策だったが、それを保守安定政権維持のために経済政策に転換してしまったのが、あまりに乱暴すぎるのである。

 衣食住というが、衣はファッションとなり、食はグルメとなったが、住はいまだに問題を引きずっていることは、この災害が露呈した。
 あの大戦争から立ち直る時期には、住宅を社会政策としてつくってきたことを思い出し、この大災害からの立ち直りも住宅をしっかりと社会政策としてつくり、それは災害復興のための一過性の政策ではなく、これからの日本の基本政策に転換してほしい。(明日の記事につづく

●参照→「賃貸借都市の時代へ」(まちもり瓢論)

2013/03/20

738震災核災3年目(9)津波甚大被災土地を自然の森や海に戻す土地不利用政策は荒唐無稽か

  昨日の「737地震津波火事原発3年目(8)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●土地海面化事業が必要な時代が来た

 津波で甚大な被災をした土地を、自然に返還するという論を勝手に思いついて、ここまで書いてきた。
 そのような考えが、今の復興現場にあるのだろうか、それともないのだろうか、現に震災復興にかかかわっている知人たちに聞いてみた。

 まず、災害被災低地をどう利用するかの議論は、現地ではまだまだ進んでいないのが現実だそうである。その理由は、こんなことらしい。
 今は高台整備、漁港復旧、防潮堤整備などの検討と調整の作業がいっぱいになっていることから、跡地利用まで手が付かないこと。
 それらの仕事も行政の縦割りでいろいろな事業が進んでいるので、総合的判断をしにくい現状であること
 行政で用意している復興の事業メニューに、低地利用を進めるための手法がないこと。
 そして被災者も行政もいまは住宅の再建での悩みがいっぱいあって、まだ跡地の低地利用のことを考える余裕がないこと。

 その一方で、空き地となる低平地を自然に戻すとか農林地にしようとかの考えは、一部の地域の人たち、専門家、あるいは支援者などから、ひとつのアイデアとしては出ている。
 しかし、実現手法の点、合意形成の点で進捗ははかばかしくないという。

 復興は基本的に復興交付金事業の40事業メニューで進んでいる。
 そのなかに広大な土地を自然て土地利用に近いと言えるメニューは「都市公園事業」くらいなものである。
 公園事業には「都市林」というものもあるが、海にするというのはあるだろうか。
 これまで海面埋め立て事業というのはあったが、その逆に土地海面化事業なんてのが必要な時代になったような気もする。
 公共事業として自然環境を復興事業としてやるのは、どうもできそうもないらしいのだ。

 そこには、日本の土地利用はいまも「経済の論理による開発の思想」で動いていることがある。
 開発的な土地利用をやめて森林とか海などの自然に戻すとしたら、行政としては、それが市民の暮らしや産業の振興のために必要なことという「公共性」を求められる。しかし、その論理がまだ見いだせない段階では、行政が手を出せないという。
 開発をしない土地利用事業には税金を投じないということである。

 とにかく、事業手法がないからやれないのではなくて、こういう考えはありなのか、無しなのか、そこのところから考えてはどうか。
 今の東北地方には、先進的な役人、優秀な研究者、有能なプランナーたちがおおぜい結集しているのだから、ぜひとも今のうちに何とかして、人間の土地から自然の土地への転換(還元)について論理、制度、手法を構築してもらいたいと思う。

 明治三陸津波(1896年)の教訓は、昭和三陸津波(1933年)で生かされずに多くの死者をだし、その2度の教訓も生かされずに平成三陸津波(2011年)にはさらに多くの死者を出した。
 それを繰り返さないなら、津波甚大被災土地を永久に使えないようにするしかない。それがこの思いつきの原点である。

 と同時に、人口減少時代における生活圏のコンパクト化の動きへの対応の、ひとつの方法でもある。(明日の記事につづく

●参照→588『津波と村』海辺の民の宿命か
http://datey.blogspot.jp/2012/02/588.html

2013/03/19

737震災核災3年目(8)こんな日本列島巨大地震津波ハザードマップをみると諦めが先にたつ

  昨日の「736地震津波火事原発3年目(7)」からのつづき
http://datey.blogspot.jp/2013/03/736.html
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●こんな巨大災害が日本列島南半分で起きるのならもう諦めるしかない

 津波被災地の復興についての書斎での心配を書き綴ってきているが、今朝の新聞を見てなんだか心配が小さすぎるって気になった。
 昨日、巨大地震対策の検討をしている国の有識者会議のワーキンググループが、南海トラフ巨大地震の被害想定を発表した。
 総額220兆円とあるが、巨額らしいが庶民にはなんのことやらである。これはものすごいとわたしでも分かるのは、死者32万3000人の数値である。

 庶民には、地震でわが身がどうなるかが心配なのである。
 今朝の朝日新聞(2013年3月19日朝)がその大災害起きる様子を視覚化してくれていてる。まさにに「日本列島地震津波ハザードマップ」である。
 地震4分後に高さ34mの津波に襲われる土佐清水市では何が起こるのか、新島では31mの津波だとすると島全部が海の底になるのか。

 これを見ていると、もう日本列島から逃げ出すか、すっぱり諦めてこのまま暮らすか、その二つにひとつしかないと思えてきた。まあ、金もなし、先も長くないわたしは後者である。

 もちろん若い人々には、その二つの中間がある。津波と地震からちょっとでも安全らしいところを探して引っ越すという手もあるだろう。そこがどこなのか、という大問題はあるのだが。
 少し前にそう思ってちょっとだけ探索したら、意外にもわたしの生まれ故郷の高梁のあたりがよさそうだと気が付いたことがある。
参照→696日本で地震からも津波からも核毒からも米軍基地からも逃れる地域はどこだろうか http://datey.blogspot.jp/2012/12/696.html

 この日本列島ハザードマップの逆の図をつくってほしいと思う。地震・津波・原発から安全な地域はここだ、それがわかる「日本列島安全地図」である。いや「日本列島比較的安全地図」か、いやまあ「日本列島多分安全地図」でもいいか。

 いま日本は、人口減少と超高齢化で生活圏の再編が必要となって人口移動が起きているが、その移動先が列島沿岸部にある大都市に向いている。
 そのようなときに、この「日本列島地震津波ハザードマップ」は冷や水を浴びせるものである。内陸部の地震の少ない地域への人口誘導政策が必要になっている。

 内陸への民族大移動は、津波と原発からの事前避難である。いわゆる国土政策は、この視点から進めなければなるまい。
 多分、これまでの国土政策をつくってきた優秀な官僚たちも、これは分かっていたのだろうが、経済政策が許さなかったのだろう。
 いま、とうとう、パンドラの箱が開いた。そして2万人もの人柱を立てて、ようやく安全優先の国土政策が始まろうとしている。
 わたしはそう思いたいのである。

 だが、わたしはもう自分の人生には間に合わない。すっぱりと諦めることにする。(明日の記事につづく

2013/03/18

736震災核災3年目(7)これまで人間が自然から借りていた土地をそろそろ返還する時期か

  昨日の「735地震津波火事原発3年目(6)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●自然から借りていた土地を返す時期が来た
 これまで人口増加と経済成長の20世紀では、住家も産業施設も増えるから、土地が必要だとばかりに、山を削り海を埋めてそれらのために土地をつくってきた。そしてかなりの範囲で無計画に街を拡大してきた。
 だが、いまになって思うと、どうも土地を使いすぎたようだ。中心街から人が減って空き地空き家がいっぱいで来ている、郊外住宅地でも同じだし、郊外胃に移転した企業も撤退している。
 現にしだいに街が空洞化しているし、更にこれから日本の人口が減少傾向は1世紀くらいは続くようだ。自然から人間が収奪してきた広大な土地が余る時代が来ている。

 そこで話が災害危険区域に戻るが、そこになにか住宅以外の利用にしようと一生懸命に使わなくても、空き地のままでもよい時代が来たと、わたしは思う。
 災害危険区域全部を使わないと言っているのではなくて、どこもかしこも使う必要はない、ところによってはまったく使わなくすることもあるだろうと思うのだ。

 
 土地を使わなくなるとどうなるか。使わない土地は、荒れ地になってそのうちに砂漠になる、きちんと維持管理しないと災害を招くと、言われることがある。
 そんなことはない。日本の気候では、土地を放っておくとどんどんと草が生えてくる。初めは、例えば黄色の花が一面に咲くセイタカアワダチソウのような荒れ地好みの草が一面に生えてくる。これは大変だと思う人もいるが、実は次々と植生は交替して行って、落葉樹が生えて林になり、常緑樹が生えて森になって行く。これを自然遷移という。
 現に今、山間地では過疎化が進み、放棄された田畑や人家などの跡地がどんどんと緑に覆われて、森に還りつつあるのは、日本中に見られることだ。
 日本の気候はそういう温暖なのだ。これなら維持管理費もかからない。

 それではもったいないとするなら、用材になる樹種を植林するのもいいだろう。
 現在の日本の山々の生産林としての植林地は、土地が急峻だったり、利用する地域から遠隔地だったりして、木材利用のためにはコストがかかる。これが海岸部の平地林ならば、植林、保育、伐採、運搬などにコストが低廉になるだろう。
 もちろん生産林ばかりではなく、保養林にもなる多様な植生の森をつくるのもよい。
 バイオマスエネルギー原料にもなるだろう。市街地に近いとレクリエーションの場にもなるだろう。そしてなにより、海辺に近いのだから津波の防砂林、防潮林になる。

 津波被災地で、いまだに津波に乗ってきた海水が居座ったままの地域も多いそうだ。
 そこはこれから埋め立てしてまた陸地に戻す計画だろう。その土は山を削るのだろう。高台をつくるときに発生する残土をもっていくのだろうか。

 どこもかしこもそうしなくても、昔そうであったように、海に戻すという方法はどうだろうか。そのまま海にしておけば、自然干潟になってそれなりに有用であるような気がする。
 あるいは、積極的に浚渫して、漁港をつくる、養殖漁業海域にする、海浜レクリエーションの場にするなどの考えはどううだろうか。

 要するに人口増加時代の人間が自然から借りて使っていた土地を、このたびの地震津波という自然からの手荒な返還催促に従って、もとに還すのである。
 どうも20世紀に無理な借財をしすぎたかもしれないし、そろそろ不要になったから、このへんでお返しするのである。
 そう考えてはも差し支えない地域だってあるように思うのである。机上の寝言と言われればそれまでだが。
 でも、現地ではどうなんだろうかと、そちらに詳しい人に聞いてみた。(明日の記事につづく

2013/03/17

735震災核災3年目(6)二股かけて復興まちづくりして虻蜂取らずになるかもしれない

 一昨日の「734地震津波火事原発3年目(5)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 悲観論ばかり言ってもしょうがないけれども、では、住宅移転してきた高台の街もできた、災害危険区域も店舗や工場がやってきて両立する街が復興できた、うまくいったとしよう。
 でも、どこの被災地でもこうはいくまい。わたしにはそれがどこかわからないが、それはかなり限られた都市になるだろう。

 さてうまく両立した復興の街づくりができたとしよう。そこからの問題は、巨大都市を除いて、日本のどこも人口減少であることだ。
 いま、日本の都市・地域問題は、21世紀の人口減少社会の進行において、20世紀に人口増加を前提とした社会の構造、あるいは都市・地域の構造が耐えうるかということである。
 そこで、いま流行しているのは、新たな人口減少に対応する都市と地域の構造として、拡大している20世紀の生活圏を、コンパクトな生活圏に再構成することである。いわゆるコンパクトシティである。
 
 この点から見ると、高台にも街をつくり、元の街も再建したのでは、コンパクトタウン化の逆方向であることは確かだ。
 人口減少が避けられない時に、人口増加型の都市・地域をいまさらにつくっていいのだろうか。
 高台の街が、交通にも買い物にも働くにも便利で安全に、しかもコンパクトに整っているならばよい持続するだろう。 

 だが、単なる住宅地であるならば、そのうちに人々は便利な元の津波で被災した街に戻ることだろう。それを禁止しても、止めることはできないだろう。高台の街は衰える。
 人間は忘れる動物である。忘れたころに津波はやってくる。二股かけた復興都市再生は、虻蜂取らずになるのだろうか。また悲観論になった。

 そこで思うのだが、やっぱり、災害危険区域は単に住宅禁止ではなく、土地利用そのものを禁止するしかないだろう。
 都市計画では市街化調整区域に指定変更してはどうだろうか。

 人口増加時代を前提とする現在の都市計画法は、都市の範囲を市街化区域と市街化調整区域に分けている。
 後者は人口増加で市街化の圧力が強い時代に、その抑制と計画的な開発を調整するという意味だが、一般に市街化予備区域としてとらられている。

 なお、都市計画法を決める初めの検討では、4つの区域を考えていた。既成市街地、市街化区域、市街化調整区域、保存区域である。保存区域は開発を一切しない区域である。
 災害危険区域を、この保存区域なみにしてしまうのである。もちろんそれには土地所有者からの公的買取請求を認めることになろう。それは現に防災集団移転事業では行っていることである。
 このように、津波の危険区域は都市的土地利用をしないとしたら、どうなるのだろうか、考えてみたい。

参照:自然と人間はどこで折り合って持続する環境を維持できるのか
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru

参照:地震津波火事原発コラム一覧
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#jisin
 

2013/03/15

734震災核災3年目(5)災害危険区域という広大な空き地は何かで埋めるのか

  昨日の「732地震津波火事原発3年目(4)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●災害危険区域という広大な「空き地」はどうするのか
 「災害危険区域」は津波に襲われて大被災した区域であり、指定後は人の居住が制限される。この指定区域一覧表にある各自治体の指定面積を足してみたら12492.1ヘクタールになる。岩手県は、たぶん、これから指定する予定の自治体もたくさんあるだろうから、もっと広くなるだろう。
 阪神大震災(1995年)では1市1地区1.59ヘクタール、新潟県中越地震(2004年)では2市14地区27.97ヘクタールの指定だったそうだから、今回はものすごい広大さである。

 災害危険区域に住んでいた人々は、区域外の高台や他の新旧市街地などに移転する必要があるから、そのあとには広大な空地が発生する。
 すでに津波によって広大な空地ができている。今は避難していても、元に戻って家を建てて住むわけにはいかない。住宅以外なら立ててもよいが、実際のところは店舗や工場などが、どれほど建つだろうか。
 郊外型大型小売店舗ならべつにしても、人が住まない街で普通に商売するのは、なかなか難しいだろう。

 問題は、住むことを禁止しても、商工業や農林水産業あるいは公園などに再利用することはできるということである。
 大ショッピングセンターができたり、大規模遊園地ができたら、住んでいるよりもはるかに多くの人がいることになる。住んでいて津波で被災することは防ぐことはできても、買い物や働きに、あるいは遊びに来た人の被災は防げないが、よいのだろうか。

 更に心配は、東北の太平洋沿岸地域に、南北数百キロにわたってばらまかれたこの広大な空き地に、いったい何が立地するのだろうか。
 たとえば、宮城県山元町の災害危険区域は、行政区域の3割以上の広さを指定、津波前の可住地の8割以上が非可住地になったようだ。
 津波で一切が失われた荒涼たる跡地は、いったい何がありうるのか。農業も田畑の塩害で簡単には立ち直れないだろう。草ぼうぼうの空き地ばかりとなるだろう。


 空き地がなにかで埋まるのか。
 この「空き地を埋める」という言い方は、「開発」的な考えが基本にある。土地は何か人間の日々の生活のために利用しなければならない、という強迫観念のようなものが、20世紀的な開発の基本にありそうだ。

 「復興」という言葉はまさにそれを一言で言い表している。
 震災復興、戦災復興、火災復興などどれもこれも、早く復興しなくては増える人口に間にあわない、産業の復興のためには広く開発していこう、そのためには公共投資をいとわない、復興さえすれば取り戻すことができる、これが近代の災害復興の思想であった。
 戦後復興期のまっただなかの人口増加時代を生きてきたわたしには、それがよくわかる。

 しかし、人口減少時代の今もそうなのか。
 
 反対に、「空き地は空き地のままでよろしい」という考え方は、あるのだろうか。つまり、人間の日々の生活のためにどこもかしこも土地は使わなくてもよろしい、とするのである。
 だって、人口が減る、地域は縮退する、高齢化して生活圏は縮む、そのような世の中である。そんなに土地を利用しなくてもよいではないか。
 いや、利用したくても利用できないかもしれない。(明日の記事につづく)

733この160年間の日本の災害で死者最多は空襲という人災だった

 建築学会の機関誌『建築雑誌』2013年3月号は、『「近代復興」再考』と題する特集号である(編集担当:中島、牧、村尾)。
 近代日本の災害復興の歴史をふりかえり、これからの復興のあり方を展望しようとする、なかなかに興味深い内容である。

 その表紙に1847年からの日本の大災害での死者と行方不明者のリストを、円の大きさで視覚化している。
 その数の上位から並べると、1位は太平洋戦争下の空爆被災(1944~45年、330,000人)、2位が関東大震災(1923年、142,000人)、3位が明治三陸地震津波(1896年、21,959人)、そして次の4位に今回の東日本大震災(2011年、18,587人)が登場する。


 こうやって一目で比較できるようにしてくれて驚くのは、戦争末期の空襲による死者の円が、はるかにとびぬけた大きさであることだ。
 天災ではなくて、まさに人災そのものの災害の巨大さに絶句する。

 これにはもちろん広島長崎の原爆死者(約20万人)も入っているだろう。
 空襲による死者の半分は原子爆弾によるものである。つまり、原子力発電と兄弟関係にあるのだ。
 なんとまあ、人間の文明災害は、自然災害よりも上を行っているのであったか。

 2年も前の原子力発電所の事故によって、いまだに17万人もの人が避難している現実がある。
 68年も前の原爆投下によって、いまだに死者が増え続けている現実もある。その数も加えると、死者の円の大きさはさらに巨大になる。

 原発事故被災はかなり異質の被災であると思ったが、実は原爆ですでに起きたことだった。あのときは誰も何も教えられず、事後避難もしなかったのである。
 地球上に人間がいるかぎり、災害はなくならないようだ。災害とは、人間が受ける害であることと、人間がひき起こす害であるという、二つの意味からである。
 

2013/03/14

732震災核災3年目(4)災害危険区域にショピングセンターができてもよいのか

  昨日の「731地震津波火事原発3年目(3)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●災害危険区域にショピングセンターができてもよいのか
 またこんな問題もある。災害危険区域から「防災集団移転事業制度」によって津波の来ない地域に集団移転する場合は、跡地を自治体が買い取る。
 しかし、全員が強制的に移転させられるのではない。なかには移転を待ちきれなくて、破損した住宅を改修したり、新築した人がいて住み続ける、あるいはどうしても住み続けたいと居座るとなると、法的には問題あるが例外的に危険区域にも住宅は存在し続けることになる。

 となると危険区域には、住宅でない施設、まばらな住宅、公有地となった住宅跡地とが、まだら模様になるのだろう。
 そのような公有地をどう使うのか。公共施設を建てるには、広くもない住宅跡地では使い勝手が悪いだろうし、そもそも危険区域に公共施設を建てることを、市民が許さないだろう。
 

 大きな商業施設が空き地になった災害危険区域に進出してくるのは、歓迎されるだろうか。そうなると、移転先の新住宅地につくるであろう商業施設が劣勢になって閉店、買い物のために毎日もと住んでいた街までやってくることになるのか。
 大規模商業施設を災害危険区域に建てることは、法的には問題ないらしいが、そのような不特定の集客施設を、災害危険区域内に設けることは理にかなっているのだろうか。
 おおぜいがショッピングセンターに買い物にやってきているときに、津波が来ないという保証はない。
 では、学校はつくってもよいのか。たとえば小中学校をつくろうとすると、これはもう市民が許さないだろう。なのに商業施設はよいのか。
 どうも、ヘンである。

 大型ショピングセンターは、災害危険区域を選んで進出することはない、なんてことはあるまい。あの類の施設は、土地は借りて安価な建築で、2年も営業すれば元を取るのだから、絶好の進出機会だろう。なにしろ危険区域だから土地代は安価にきまっている。
 買い物が便利となると、危険だったことを忘れて、平地に次第に人々が住むようになるかもしれない。それはもちろん災害危険区域では違反行為である。
 だが、法による指定は、法によって解除することもできる。かつて1933年の大津波の跡で居住禁止にした地域に、やはり戻ってきて住みついて、このたびの災害に会った人は多いはずだ。

 実は「災害危険区域」の指定は、防災集団移転事業とセットになっていることに、基本的な課題がありそうである。防災集団移転事業で移転すると、手厚い公的補助制度があるが、それには災害危険区域からの移転である必要がある。
 とにかく津波被災地から移転したい、それには補助金が入る事業を行うのがよろしい。となると防災集団移転事業だ、そのためには災害危険区域を指定した、いまは移転先のことで一生懸命で、移転跡の災害危険区域をどうするのか、そこまだまだ頭が回らない、どうもこのようなことであるらしい。

 現場を知らないものの勝手な推測だが、本末が転倒しているような気もする
 と書いて、怒られないように付け加えておくが、早期に災害危険区域指定をした自治体は、津波跡地の乱開発を防ぐための、とりあえずの政策意図であったことは確かであろう。(明日の記事につづく)

2013/03/13

731震災核災3年目(3)災害危険区域で住宅のみ排除する意味はどこにあるのだろうか

  昨日の「730地震津波火事原発3年目(2)」からのつづき
     (現場を知らないわたしの机上心配年寄繰り言シリーズ)

 それにしても「災害危険区域」という制度はよく理解できない。
 建築基準法によって、自治体の長が条例でその区域を決める。だから県知事あるいは市町村長と議会が決定権をもっていることになる。
 災害危険区域を指定すると、その範囲の土地から住居系の施設だけを追い出さなければならない

 事例を見ると追い出し方もいろいろである。
 住宅全面禁止して他の区域への水平的追い出しから、津波が来ない上層階なら住宅OKという垂直的追い出しとか、各種の決め方ができようだ。住宅だけの追い出しのほかに、ホテル、保育園、病院を禁止する例もある。

 いくつかの今度の被災地の自治体のウェブサイトで指定の事例を見たが、とにかくその区域指定した範囲が広いことに驚いた
 例:宮城県山元町の災害危険区域図  http://goo.gl/eaNKA
        岩手県宮古市田老地区の災害危険区域    http://goo.gl/gLd1w

 先般の津波で被災した区域を指定するのだから、平地の少ない三陸地方では、市街地があった平地のほとんどがその指定区域になるようだ。
 逆に平地部の多い宮城県南部では更に広大になる。山元町では市域の3分の1が災害危険区域である。

 この津波が来る前はそこが人々が生きていた拠点となる街であったろうに、それをそっくり指定してよいものだろうか。だからこそ指定したのかもしれない。
 状況変化によってあとで変更すればよいからと、とりあえずは津波が来た区域に住宅が建つことを制限しておこう、そういう戦術かもしれない。
 あるいは、高台移転の補助金支給のために、決めるということもあったかもしれない。
 それはそれでよくわかる。だが、それなりの問題もありそうだ。

 もちろん津波が来ても平気なように、街の土地全部を盛り上げて高くすれば、災害危険区域にしなくてもよいだろう。
 あるいは防潮堤を高く造って、街を塀の中に囲い込めば、指定は不要かもしれない。
 指定していても、そうなったときに変更してもよいだろう。

 どちらも金がかかりそうだ。
 もともとは海だったところ埋め立てたとちだから、その時にすでにかなりの造成費がかかっている。その上にさらに金がかかる2重投資である。
 津波が怖いからとて高台移転した後になって、移転跡地に土盛りや防潮堤をつくると、さらに3重の投資になる。
 命を守るという大義名分はあるが、未来に大借金を残さざるを得ないのが、難しいことである。

 津波被災地域は中小市街や集落ばかりだから、たいていのところは職住接近あるいは職住一体の町であったろう。商店はたいていが2階が住宅だったろう。
 つまり、それまでの中心的な仕事と生活の場から、住宅だけが強制的に追い出されるのである。職住分離を無理やり行うのであるが、それではさて、地方の小さな市街地はそれで成り立つのだろうかと、心配になる。
 住む人がいない街なんて、大都会のビジネス街か工業専用地域くらいのものであろう。

 居住空間だけの禁止という考え方は、どこから来るものだろうか。
 人々の日常の生活域を考えると、夜は住宅で寝ているが、昼は仕事や買い物あるは学校などにいる時間が多いだろう。ということは、寝ている夜の時間が確率的にはいちばん長い利用の生活空間から、そこに災害が発生しにくい土地利用ゾーニングをするということだろう。

 あるいは個人の財産である住宅を優先的に保護して、災害直後に路頭に迷うことのないようにするということかもしれない。
 企業の財産はよりも個人の財産優先ということは、それなりにわかるが、そういうものだろうか。

 では命を保護する面ではどうか。
 このたびの津波では、職場や店舗あるいは学校などで多くの人が命を落とした現実がある。住宅だけを排除することにどれほど意味があるのだろうか。
 よくわからなことばかりだが、不慮の災害とはそういうものだろう、とも思うにしても、、。 (明日の記事につづく)

2013/03/12

730震災核災3年目(2)次の巨大津波は迫っても事前危険排除都市計画は無いらしい


           昨日の「729地震津波火事原発3年目(1)」のつづき

●災害危険排除建築から津波防災地域づくりへ
 災害危険区域指定の制度について、ちょっと調べたのだが、どうもよくわからないことがある。
 この制度は建築基準法という、安全な建築をつくるための法律である。一つの建物が地震や火災に強いようにすることとともに、複数の建物相互の関係で環境が悪化しないようにすることを決める。

 その中に「津波、高潮、出水等による危険の著しい区域」を、災害危険区域として地方公共団体の長(県知事、市町村長、特別区長)が決めることになっている。
 ここの「等」には、何が含まれるのだろうか。「核毒」も含まれるとしたら、福島でも使えるだろうが、今のところそうしていいない。
 

 というのも、全国の災害危険区域の指定状況を調べる能力はないだが、ウェブサイトをパラパラと見た限りでは、どうもこれまでの指定状況は、いちばん多い例は、がけ地崩壊危険区域である。
 市街地の開発で崖地が崩れて死ぬ事件がおきたので、災害危険区域を指定したらしい。
 そのほかは河川の洪水による出水、例外的なのは伊勢湾台風による高潮地域がある。どうも津波による区域指定は、今回の東北地方より前では、奥尻島だけらしい。

 気が付いたことは、災害危険区域のどれもこれもが、実際に災害が発生して、死者とか負傷者とかが発生した地域だけらしいのだ。全部を調べてはいないので確信は持てない。
 指定条件の「危険の著しい」区域とは、「危険の著しいと予想される区域」とは違うのだろう。
 以前から思っていてこのブログにも書いたが、日本では人柱が建たないと政策は動かないのだが、やっぱりそうらしい。

 ここに「関東の津波リスク」という図がある(2013年3月3日朝日新聞朝刊から引用)。 

 これを見ると、いつの日か、いや、明日かもしれないが、やってくる東南海トラフの大揺れによる大津波を思うと、今のうち災害危険区域を事前的に指定するべきだろう。
 大津波がやってきて死人がでてから指定しても遅いのは、3・11津波で経験したとおりである。
 まあ、事前指定するにはいろいろ問題はあるだろう。事後指定した東北地方の被災地でも、指定反対がずいぶんあったらしい。なにしろ、そこにもう住めなくなるのだから。

 多くの地域で指定した目的は、防災集団移転事業という補助金欲しさのためという目先の必要性(それが悪いと言っているのではない)もあるらしい。
 そのことはこれから後に問題が見えてくるだろうが(これについては別に後述する)、今は、それどころではない、というのが現場だろう。

 
 ところで、2011年に「津波防災地域づくり法」という新法ができている。この法に「津波災害特別警戒区域」を指定する制度がある。これは県知事が決めることになっているのは、津波は市町村の範囲を超えてやってくるからだろう。
 この指定区域では建築の制限をすることができるので、建築基準法の災害危険区域と似たような制度であるが、もうすこし柔軟で広く使える制度らしい。

 建築基準法による災害危険区域は、区域の危険を排除するけれども、その区域を今後どうするのかという都市計画の視点が欠けていると思う。
 津波防災地域づくり法は、その名のごとく地域づくりの視点からの制度である。この違いについての考察は、更にしてみたい。

 しかし、WEBサイトで探したかぎりでは、現時点では津波防災地域づくり法による津波特別警戒区域指定したところは、まだ日本中にひとつもないらしい。
 事前指定すると住民が逃げ出して人口減少が進むだろうし、不動産価値が下がると文句言う人がいるだろうし、行政では難しいのだろう。

 でも早く決めて手を打たないと、今晩にでも明日にでも津波はやってくるかもしれない。それでは「防災」地域づくり法にならないけど、いいのだろうか。
          (明日の記事につづく)

2013/03/11

729震災核災3年目(1)震災復興取組が岩手と宮城でどうしてこれほど違うのか

 初めにお断りしておくが、わたしは何も東北の復興に役立つ行動をしていない。あれから3年目になっても、ただ心配しているだけの「復興心配書斎派」にすぎない。
 それでも、昨年の秋に小さなボランティア活動ついでに宮城県の被災地を見てきた。見れば、ますます心配が募るばかりである。聞いても募る。
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru
https://sites.google.com/site/dandysworldg/greatforestwall

 震災復興に関しては、2004年に起きた中越大震災の復興おてつだいで、長岡市の山村にしばらく通ったことはある。その程度の机上の心配である。素人の杞憂かもしれない。
 でも、言い訳がましく言うと、ほとんどの人たちが同じような心配をするだろうと思うから、今のうちにここにあれこれだらだらと書いておく。

 今日はあの大災害から3度目の3月11日にである。あれから2回四季がまわったのに、どれほどの回復ができただろうか。分からないことばかり。

●東北3県での復興取組状況の差に驚いた
 東北の太平洋岸側では、東日本大震災からの復興が進んでいるような、進んでいないような、地域差もあるような。
 あまりにも広い地域だから、いろいろ事情があるだろうが、どうも気になる。
 先日(2013年3月2日)の朝日新聞に、「見え始めた?仮設後 30自治体の再建状況」と題して、東北3県の居住環境復興の一覧表が載っている。
 被害が大きかった茨城県がないのはどうしてだろうか。
  

 北から南へと見ていて、ハッと気がついてショックだったのは、福島第一原発あたりの自治体は空白のまま、つまり復興はまったく手がついていないことである。
 それはそうだろう、半永久的に消えない核の毒をばらまかれた土地が、簡単に復興できるわけがないが、お気の毒の極みである。
 他の自治体だってそれほど進んではいないにしても、こうやって並べて比較するとこれがいつまで続くのか、核毒が抜けて復興ができるのだろうかと、つくづく疑問に思ってしまう。

 3県の状況を比較して眺めていて、これもショックだったのは、岩手県の自治体では「災害危険区域」の指定をほとんどしていないことである。他の2県と大きな違いである。
 宮城県ではほとんどすべての被災自治体で指定しているのに、この差はどうしてだろうか。自治体によって差があるのではなく、県全体がそうであるのはなぜなのだろうか。

 岩手県ではできないなにかがあるのだろうか、それとも積極的に指定しない県の政策なのだろうか。基礎自治体と県との間は摩擦はないのだろうか。
 岩手県の狭いリアス海岸の土地に災害危険区域を指定して、人が住まないところをつくるのは、地理的に現実的ではないのだろうか。
 それともどこの自治体も大防潮堤をつくるので、災害危険区域は必要ないという政策判断なのだろうか。

 しかし気仙沼や南三陸でも似たような地形だろうに、これほど違うのは県による政策選択に方向が違うのだろうか。それとも単に指定が遅れているのだろうか。
 それにしても、福島の遅れは分かるが、3県でこれほど差があるのが不思議である。

 ところで、福島の原発あたりこそ災害危険区域そのものだと思うのに、どうしてそうしないのか。もちろん制度が予想していないから、法的にその指定ができないってことはわかる。
 だが、ここで言いたいのは、これほど災害危険区域の立派な資格を備えているのだから、それ相当の制度を適用してあたりまえだろうに、とおもうのである。
                                                              (明日の記事につづく)

2013/03/09

728二川幸夫・伊藤ていじ「日本の民家」に53年ぶりに出会って年寄りになったと自覚して懐古譚

●本棚にある2冊の宝物本
 建築写真家の二川幸夫が1950年台前半に写した、日本の民家の写真展を見に行った。これはいろいろな意味で懐かしい。
 写真の風景そのものが懐かしいのはもちろんだが、実はその写真そのものが懐かしい。学生時代にその写真の民家に強烈に魅せられたことがあるのだ。そしてまた、その写真に民家の論考を書いた伊藤ていじ先生との出会いに、強烈な思い出もあるからだ。


 近頃はなんだか、昔の回顧展が多いような気がするが、そうじゃなくて老化して懐古趣味になったわたしが、そういう展覧会に目が向きやすくなったということだろう。
 歳をとるとしだいに原点回帰する現象が起きる。わたしは建築学を学んで大学を出た。卒業研究は建築史の研究室で、京都御所遺構に関する論文を書いた。
 社会に出て建築設計の仕事に就いたが、いろいろとあって30歳半ばころからしだいに都市計画に転向していった。建築家になれずに都市計画家になってしまった。
 そして建築史を趣味としたのである。これはなかなか品がよろしい。

 建築学生の時に、二川幸夫が発表した民家の写真を見て、そのあまりに美しい風景、建物のプロポーション、しつらえの良さに感激し、魅せられてしまった。二川は本物の民家を見て魅せられ、わたしは二川の民家の写真に魅せられた。
 わたしの魅せられっぷりは、卒業設計にいくつかそのデザインをパクッてアレンジした覚えがあるほどだ。
 倉敷の町屋は、少年時に見ていたから美しさをそれなりに知っていたが、二川の写真で再認識した。

 わたしの本棚に宝物のごとく鎮座する2冊の本、それが二川幸夫の写真と伊藤ていじの論考が載っている『日本の民家』(「陸羽・岩代」編、「山陽路」編、美術出版社 1958 各420円)である。
 420円という定価は、学食の昼飯定食が30円の時代だからけっこう高額である。貧乏学生がよく買ったものだと思うが、それだけ感激したということだろう。
 少年時代、学生時代に買った書籍類は、何回もの引っ越しで一冊も手元に残っていない中で、この2冊だけは表紙の背が切れてぼろぼろになっても、いまだに宝物のごとく持っている。
(追記:これを書いたときは忘れてたが、その後に思い出した重要なことを書いておく。この2冊の本は、のちにわたしの妻となる人からのプレゼントであった。)
 

 二川の民家写真の中でももっとも感激したのは、遠野の千葉邸であった。力強い中にやさしい茅葺の曲線があり、全体に均整のとれた配置にマイッたのでああった。
 ところが千葉邸にはまだいったことはない。今は保存公開されているとのこと、いつの日か訪ねる楽しみを、残り少ない人生にとっておくのだ。


●伊藤ていじ先生の思い出
 展覧会場のロビーで、二川幸夫にインタビューする映像を見せていた。
 美術出版社が二川の民家写真を出版してくれることになり、伊藤ていじと組んで全国を撮影に回った端緒について語っている。
 その始まりが1950年とすれば、伊藤ていじは28歳、その頃、死にそうになった大病(肺結核)がようやく治癒したばかりだった。二川は伊藤より9歳若い。

 二川は、写真に論考を書く相棒を、それまでの民家研究者や建築史家ではなくて、まだ若い研究者だった伊藤を選んだそうだ。後の伊藤のことを思うと、その人選は実に見事だったし、二川の眼力のすごさに驚嘆する。
 病み上がりの伊藤が全国行脚を渋るのに対して、二川は、どうせ一度は死んだんだから一緒に回って死んでも同じだろう、と、説得したのだそうだ。

 1960年の夏、わたしの所属する藤岡道夫研究室と東大の太田博太郎研究室の共同研究として、丹波の農村に滞在して民家調査をした。
 両大学から学生、院生、指導教官が集まって、毎日、手分けして民家を訪ねた。
 建ててから100年ほども経った大きな農家に上り込んで、間取りの現状と変化を調べ、天井裏に入って構造を調べる。囲炉裏から舞い上がって天井裏についている煤で、頭から真っ黒になってしまった。余談だが、それから48年後に越後の山村で、そのようなことをして懐かしかった。

 その指導教官に、伊藤ていじ先生がいらしたのであった。体力がないので、荷物は持たない、やむ得ず持つときは風呂敷ひとつであった。
 伊藤先生は毎晩よくしゃべった。それが実におもしろかった。若いみんなで聞き入ったものだ。けっこう与太話もあった。
 その話はもう覚えていないのだが、一つだけ強烈に覚えている話が、二川さんが映像で言っていた、ほとんど死にかけた病気のことだ。

 伊藤さんは、東大の院生の頃、肺結核で病院のベッドに伏して起き上がることさえできない日々、ほとんど死にかけていた。
 ある日、ふと目覚めると、ベッドの周りで何人もが泣いている。ははあ、自分は死ぬんだな、そう思っても、気力がないから何の感情もなく眺めていたという。

 肺結核は死の病であり、戦争直後の日本を、いまの癌のように席巻していた。
 その治療薬の抗生物質ストレプトマイシンが発見されたのが1944年、結核がこれの投与で治るようになった。
 ストレプトマイシンは戦後ようやく日本にも入ってきたが、初期だからそれを誰にでも投与するほどの数がない。

 そこで医者は優先的に投与する人を選んだのだが、その選に伊藤先生もはいったので、生き返ったのだそうだ。
 つまり、東大の将来ある学者としての立場がその選定の理由で、それで命は助かった。
 しかし、その陰には後回しにされて死んだおおぜいの患者がいる、その人たちに自分はおおきな借りがある、だからその人たちの分までもこれから生きるのだと、若い伊藤さんの熱のある話は、若いわたしの心を揺さぶった。

 わたしを魅了した日本の民家という名著ができたのも、ストレプトマイシンのおかげだった。そしてこんにち、それを懐古することもできたのだ。
 その後はわたしと伊藤先生とは縁はなかったが、個人的に尊敬する心の師匠として、出版されるご本を買ったものだ。
 記憶にはないが、もしかしたら丹波で伊藤先生の話にこの本のことをもあって、どうしても買いたかったのかもしれない。
 
 わたしが大学を出てからの伊藤先生との再会は、それから40年ほどたったころ、東京駅ステーションホテルの宴会場での何かのパーティーで出くわした。
 もちろん先生がわたしを覚えておられることはなかったが、しっかりをお礼を述べてあの時を思い出していただいた。

 ついでに、わたしの民家写真も一枚乗せておこう。

 
*「二川幸夫・建築写真の原点 日本の民家一九五五年」は、2013年1月12日(土)~3月24日(日)、新橋の「パナソニック 汐留ミュージアム」にて開催中。

(追記2013/0312)
 新聞報道によれば、二川幸夫さんは2013年3月5日に逝去されたとのこと。惜しいことです。
 
 それでふと思いついて、伊藤ていじ先生が亡くなられたときに、丹波の思い出を書いたような気がして、このブログ記事を探したら2010年2月に書いていた。伊藤先生も惜しいことであった。
 「236丹波の伊藤ていじ先生」http://datey.blogspot.jp/2010/02/236.html
 

2013/03/07

727津波の日からいまだに海水が引かない被災陸地もある

 
 昨年秋に東北被災地に、小さなボランティア活動に行った。仙石線にのって被災地を訪ね、東松島の惨状を見てこのようなことを書いた。
「地震津波被災地を見て思う」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru

 その記事の初めにこの写真を載せた。2012年11月11日に、仙石線東名駅近くの陸橋から南東方向に向いて、東松島市野蒜洲崎方面を撮っている。
 向こうに海のように見えるのは、実は2011年3月11日の津波から、いまだに居座っている海水である。
 ここから惨状をくみとって調べていろいろと書い たのだった。
ところが最近、ウェブサーフィンをしていたら、なんと、この写真の景色の真ん中の向こうのほうから、こちらにカメラを向けて写真を撮ったY.Oharaという人がいた。
 その写真ページには「許諾不要で自由に複製/再配布/二次利用/改変 OKの自由なライセンスです」と書いてあるので、コピーして拝借する。

 これはY.Oharaさんが2013年1月19日に撮ったパノラマ写真の一部を拡大した。中央あたりに陸橋が見えるが、そこからこちらを向いて撮ったのが、上のわたしの写真である。
 
 Y.Oharaさんのパノラマ写真の全景は下図である。上の拡大写真の陸橋があるあたりは、赤い矢印に下である。
わたしが撮った写真の中央上あたりの水上に建物がみえるが、それがY.Oharaさんの写真の中央にある黒い建物である。

 次の画像に、google earthの空中写真(2012/4/12)で撮影位置を示す。
 この赤色矢印の位置から撮ったのがわたしの写真、黄色○印がY.Oharaさんが撮った位置(推測)である。
 これを見ると、この区域は2011年3月11日の津波来襲から今に至るまで、ほとんど海水が引いていないことがわかる。

 
 そして下図は、津波前の2004年の空中写真である。
 一面に田畑があり、それに連なる集落がある。
 もしも津波前にY.Oharaさんがパノラマ写真を撮っていたなら、今は海面となっているところは田畑がひろがり、そのの向こうに家屋が立ち並ぶ街並みが写っていたはずである。
 
 そして、わたしも震災前に陸橋の上から撮っていたなら、海水ではなくて田畑の風景であったはずである。

 さらに詳しくは、Y.Oharaさんのパノラマ写真ページでどうぞ。
http://gigapan.com/gigapans/121827/
 このページは「助けあいジャパン|情報レンジャー」サイトにある。
http://tasukeairanger.heteml.jp/wp/

(追記)
今日のニュースで、今度はピロティ建築礼賛だそうである。
1995年の阪神淡路震災で、ピロティ建築が軒並みに崩壊、以後ピロティ建築はご法度。
ところが津波ではピロティ建築が効果的とか。津波が股下を抜けて行く。
あちら建てればこちらが建たず、なかなか世の中うまくいかないもんです。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130307/t10013027211000.html

2013/03/03

726震災津波による「災害危険区域」って人柱が建たないと指定しないのかしら

 また3月11日がやってくる。あれから2年、復興はどうなのだろうか。
 わたしが行っていた中越震災復興の長岡市小国町の法末集落の2年目、2006年を思い出せば、全戸避難した住民は7割くらいは戻って暮らし始めたが、まだ道や家の修理をしていた。
 それと津波被災地とを比べても意味はないが、それでもあれを思い出すと津波被災地は簡単ではないだろう。

 昨日と今日の朝日新聞朝刊から2枚の図を引用する。昨日は東北沿岸部の復興状況を示す図、今日は関東各県沿岸部の津波リスク図である。


 

 復興状況図をみていて「災害危険区域」指定の広大さに驚いた。広さを足してみたら1250ヘクタールにも及び、これから指定するところもあるから、もっと増える。
 早く言えば、これだけ広いところが津波で壊滅したということ、津波被害壊滅区域である。
 
 そして今日の関東各県の津波リスク図を見て、考え込んだのだが、要するに今後の津波による津波被害壊滅区域がこのあたりにしっかりとあるという図である。

 東北沿岸部の「災害危険区域」の指定は、大被害が出た後で指定したのである。
 関東沿岸部では、これから大被害が出るのである。そこは「災害危険区域」に指定するのだろうか。被害が出てからでは遅いから、その前に指定して対策をとるのが防災というものだろう。

 たとえば、わたしが住んでいた鎌倉とか、今住んでいる横浜都心とかは、いったん大津波が来たら「災害危険区域」となる資格は立派過ぎるほど備えているように見える。
 だとしたら、津波がやってくる前に指定してはどうか。指定するとどうなるかは、よく知らないが、なんでもそこに住んではいけないってことになるらしい。

 事務所、店舗や工場などは立地できるらしいが、でも、そこにも人間はおおぜいいるんだけど、それはどうしていいのだろうか。学校はどうなんだろうか。
 今の段階で指定したら、不動産業界は大恐慌だろうなあ、あ、そうじゃないか、高台や内陸に移転する人が増えて、災害前特需が生まれるかもなあ。
 災害危険区域には産業施設の立地はできるらしいが、それでもそんな危ないところから企業だって逃げるかもなあ。

 まあ、日本では昔から、なにか政策が大きく変わるのは、外圧と人柱によるものと決まっているから、実際に津波で人柱が建って初めて「災害危険区域」指定ができるのだろう。

●参照
瓢論◆絆を解いて民族大移住時代が来る
https://sites.google.com/site/dandysworldg/jinko-ido
弧乱夢◆地震津波火事原発
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm

2013/02/27

725福島第1原発の現地調査段階の記録映画を今見ると実に興味深い

 おもしろい無料配信サイトにある記録映画を見つけた。
「黎明 福島原子力発電所建設記録 調査編」(1967年 企画:東京電力、製作:日映科学映画製作所)で、「科学映画館」サイトにある。
http://www.kagakueizo.org/movie/industrial/350/

 製作されたそのころは日本が高度成長期にさしかかり、まさに発展途上国に足を突っ込んだ時代である。
 映画の雰囲気が、いかにもそれらしくて、なんだか懐かしくなる。今の若い人が見たら、これは中国の映画だ、と思うだろう。そういえば1950年代のソ連の宣伝映画がこんな感じだったな。

 映画は福島原子力発電所の工事にあたって、現地の地上、地中、海上、海中、空中、上空において、その綿密なる事前調査を行う様子を描く。地震、地盤、大気、水質、波浪などなど、こんなに入念に調査してるんだから安全だよと。

 さて、その中で「津波」がどう出てくるか、注意して聞いていたら、なんと、まあ、たったの一回のみであった。
 冒頭でこの用地の地域をこう紹介する。
数百年にわたって地震や津波などによる大きな被害を受けたことはない
 これだけ、あとは波浪は出るが津波はない。感無量になってくるよなあ。

 それにしても、あの原発用地の元の地形は、海岸からいきなり30m以上もの高さのある絶壁の上にある台地だったのですね。
 それを削って削って削って海岸に平地をつくり、そこに原子炉を置いたのだったとはねえ、、。
  
1966年当時の福島原発用地のあたりは絶壁海岸

映画に出てくる海から見た原発用地あたりの崖

 映画は、このようなナレーションで締めくくる。
かぎりない創造の夢はひろがり、人間のはかり知れない叡智は、輝かしい次なる文明段階へとつながり、今ここにひとつの偉大なる建設が成し遂げられようとしている

 ああ、あの頃、わたしの上に輝いていた未来、あの懐かしい未来は、いま、どこに行ったんでしょうねえ。

 今日の視点でこの映画を見ると、たまらなく面白いですよ(不謹慎ながら)。
 ついでにこれとセットで、開沼博著『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたか』を読むと、おもしろさが倍増しますよ。

●参照⇒地震津波火事原発オロオロ日
 http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2013/02/25

724再び唱える「福島第1原発を世界遺産に登録しよう」

―その登録運動自体が愚昧なる人類の悲劇を後世に伝える            

●福島原発跡の観光地化だって?
 若手の論客やアーティストたちのグループが、「福島第一原発観光地化計画」なる提案をしているそうだ。新聞でその紹介記事をざっと読んで、さっそくそのサイトを覗いてみた。
 サイトを見る前は、たぶん、原発反対運動のメタファーとして「観光化」なんて俗な言葉を使ってるのだろうと思っていた。


 ところが違った。真面目に観光化を考えるらしい。こう書いてある。
「福島第一原発観光地化計画、それは読んで字のごとく、福島第一原発の事故跡地を「観光地化」する計画のことです。…2036年の福島第一原発跡地に、どのようにひとを集め、どのような施設を作り、なにを展示しなにを伝えるべきなのか、それをいまから検討しよう、そしてそのビジョンを中心に被災地の復興を考えようというのが、計画の主旨…」
 そしていかにも建築家というか不動産屋が考えそうな観光計画らしい、俗な絵による提案もある。あら、若い人ってマジメなんだね。


 そこで年寄りも悪乗りして考えることにした。
 なにしろ2036年というと、わたしはそれを体験することは確実にありえないのだから、無責任になるはやむを得ない、という勝手な前提である。
 「フクシマ」がらみで観光というと思いつくのはなんといっても「常磐ハワイアンセンター」である。こう書いて、はてな、今もあるのかなと、さっそく貧者の百科事典ウェブサイトで検索したら、今では「スパリゾートハワイアンズ」と改名していて健在であると分かった。
 ここも石炭→石油へと燃料転換から生まれた跡地の観光化だから、福島第一原発事故による跡地の観光化は核燃料→自然燃料というこれまた似たような歴史をたどるかもしれないという点では、メタファー(暗喩)どころか、実に分りやすい直喩でさえある。


●福島観光ヌックリランド
 さてそれでは、“福島第一原発ハワイアンセンター”はどんなものになるのだろうか。常磐ハワイアンセンターができたころは、リゾートといえばハワイ、いや、リゾートという言葉もまだなかったな、“夢のハワイ”だったからハワイアンセンターだったのだろう。
 今は東京ディズニーランドもある時代だから、ここは「福島原発ランド」なんだろう。いや、もっと直截に「福島原発事故ランド」か、いや「核毒ランド」か、あ、「福島ヌックリランド」がいいか。

この続きと全文は
再び唱える「福島第1原発を世界遺産に登録しよう」
http://goo.gl/kEtO9
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hukusimagenpatu-worldheritage

2013/02/23

723横浜港景観事件(13)サーカス小屋のキリンが見ている横浜新港の観覧車と結婚式場工事

 いま、横浜都心で「木下サーカス」が公演中である。
 その隣のビルの窓から見下ろすと、真っ赤な丸いテントがあり、そのわきに出演動物たちの小屋も建っている。
おや、キリンが野外でウロウロしつつ、首を伸ばして海のほうの景色を見ている。

 木下サーカスねえ、懐かしい、としか言いようがない。少年時代を想い出させる。
 あれは生まれ故郷の町の稲荷神社のお祭りの日だったろうと思う。広い河原にたくさんの露天商の屋台群とともに見世物小屋もいくつか建っている。
 怪しげな蛇女とか首だけ人間とかの小屋もあるが、なんといっても素晴らしいのは大きなテントで堂々たる木下サーカスである。

 テント小屋の裏にまわると動物の檻がたくさんあって、ライオンやら象やらがいる。あたりに立ち込めるその糞尿のにおいも思い出す。
 金網で作った地球儀のような球体の中をオートバイがぐるぐると天地の境目なく走り回る、空中で男女が飛びながら手をつないでのブランコ、あまりに昔のことで、実はこれくらいしか記憶がない。 

 その横浜都心のサーカステントから、頭を港のほうにめぐらす。
 目の下の北仲通りの再開発はとん挫しているらしく、いまだにビルは建たないで、一面の駐車場になったまままである。
 2棟だけ残存している帝蚕倉庫の建物はどうなるのだろうか。

 その向こうの新港地区を見ると、サーカステントにお似合いの観覧車が回っている。
 お、あれはなんだ、おお、そうか、やってるやってる、これが例の景観騒動(世間では騒動でもないが、業界ではね)があった結婚式場の建物工事が進行中であるか。
 鉄骨骨組みが黒々と観覧車のふもとに建っている。これから白い外装がついてくると、これは結構大きい建物であるようだ。

 さてどんな景観が実物として現れるか、そして景観業界がなんというか、世間がなんと噂するか、ちょっと春が楽しみである。

●参照⇒横浜風景、横浜港景観事件

2013/02/17

722戦死者も津波被災死者も犯罪被害死者もひっくるめて犠牲者と呼ぶ風潮に引っかかる

 東日本大震災以来、妙に気になる言葉がある。「犠牲者」である。
 津波に襲われた死者も、テロで人質にされて殺害された死者も、通り魔に刺された死者も、いずれも犠牲者とマスメディアは書く。
 あるいは、これはずっと昔からのことだが、戦争の犠牲者とよくいう。
 ずっとなんだか引っかかっている。死んだ者は誰でも「犠牲」者なのか。

 そもそも「犠牲」とは、なにかとなにかがバーター関係であることがまず前提にあるはずだ。
 Aが有利になるためにBが不利になるのだが、このときBはAの立場を肯定して、やむを得ず、あるいは積極的に自分の立場を選んだ場合に、BはAのために「犠牲」になったというはずだ。

 スポーツの野球に「犠牲打」というプレイがある。
 あちこちの解説を簡単にまとめると「打者はその打撃でアウト(犠牲)となるが、それによって塁上にいる他の走者が進塁し得る打撃を指す」とある。自分はアウトになるのに味方チームの得点へのアクセスを容易になるように導く行為である。

 古典的には、牛などの生き物を神にささげて(生贄)、神の恩寵を得ようとする行為である。
 このとき牛は犠牲になる。もっとも、このとき牛は肯定していないだろうが、それを提供した飼い主が肯定していることになる。

 さて、津波に襲われた「犠牲者」は、何とバーター関係にあるのだろうか。
 津波は天然事象だから、それ自体は何かの目的をもっていはいないから、バーターは成立しない。
 ただし、こういう例では犠牲である。たとえば消防団の人で他人の避難を助けるための活動で、自分が避難に間に合わずにやむを得ずに落命した人である。他の人の命とバーター関係になっている。
 だれもかれも津波の犠牲者として言うのは、どうも引っかかる。

 同様に犯罪による死者は、何とバーターなのか。テロリストのいう目的とのバーターとか、アホバカ通り魔の言う理由とのバーターは成立しないことは明らかだろう。
 戦争の犠牲者という言葉も、どうも抵抗がある。戦争という行為を肯定しているからこそ戦死者を犠牲者というのだろうと、わたしには思えてくるのである。
 フィリピンの山中で非業の戦死をしたわたしの叔父は、あの悲惨な戦いを肯定してはいないだろう。ましてや遺族においておや。

 考えてみるに、近頃はどうも、いわゆる「非業の死者」はすべて「犠牲者」というようになったらしい。
 非業を非難しているつもりかもしれない。しかし、非業と死とはバーターにならないのだ。
 死者を悼むつもりでこの言葉を使うとすれば、使い方を間違っている。
 言葉は世につれて変ることは承知しているが、それにしても、「死者」と「犠牲者」はもっと慎重に使われるべき言葉であると、わたしは思う。

2013/02/13

721朝鮮半島地下核爆発と日本列島地上核毒バラマキはどっちが罪が重いか

 核実験と原発とは関係ないのかしら。
 どちらも原子核の分裂によるエネルギー発生を、装置として使ってるような気がするけど、違うの? 
 核実験はエネルギーを集中させて一気に使う、原発はエネルギーを徐々に出させて使う、こういう違いのような気がするけど、違うの?

 同じものを使いながら、核実験は「核」という言葉を使うのに、原発はどうして「核発電」と言わないのかしら、違うものなの?
 「核実験」はなぜ「原子力実験」といわないのかしら?
 あるいは「原子力発電所」は「核発電所」といったらどうなの?
 核実験で出てくる放射性物質は、福島原発から出てきたそれとは違うものなの?

 いま、世界でどれくらい原発があるんだろうとネットで探したら、こんなサイトを見つけた。
【地図】世界の原子力発電所からの【距離】
http://arch.inc-pc.jp/004/index_12.html


 あるわあるわ、いやまったくすごいもんだねえ、こんなにあるのかあ。お隣の韓、朝、中の各国にもたっぷりとそろっていて、かなりおそろしい。北東アジアは原発の巣かよ~。
 これらがエネルギーも作り出しているけど、同時に核毒ウンコもどんどん排泄していて、今のところその浄化槽はどこにもないから、多分、野積みなんだろうなあ。
 さらにかの発展途上大国では、もっともっと増設計画があるらしい。日本の原発密度を見たら、かの人口大国ではもっともっと必要でしょうね。

 あちらでは今、大気汚染の公害が著しいとのニュースが出回っている。日本が高度成長時代の事件と同じである。
 70年代には日本では誰もかれもがマスクをして暮らしていると、国際ニュースになったくらいである。
 それだけじゃなくて、偽物ブランド、無断コピー商品、安物衣料、安物電器などなど輸出して軽蔑されるって、昔日本がまさにそうだったよなあって、なんだか懐かしいニュースに思えてくる。

 
 で、原発であるが、アメリカとソ連という核爆弾と原発の先進国で原発事故が起きたように、日本もその後を追って原発事故を起こしたのである。
 アメリカの良いことも悪いことも倣って発展途上を抜けだしたと思った日本、やっぱり発展途上の大事故を起こした。

 さあ、次の原発事故はどこで起きるでしょうか。
 日本海や東シナ海の日本の向こう岸あたりで起きそうだなって、だれでも思うよなあ。
 近いうちに核毒まみれのPM2.ってえやつが降ってくるぞ。
 覚悟決めるしかないかもなあ、日本は、え、原爆を持つってことじゃないよ、原爆だろうと原発だろうと原子力だろうと、核抜き3原則でしょうよ。

 でもなあ、これだけたくさん作ったうえにもっと作り続けているのだから、もう引き返せないかもなあ。
 今に人類は自分がつくりだした核毒ウンコに埋もれて野垂れ死にするしかない、そう思えてきた。
 そのまえにこちとらは人間おさらばしているんだから、知ったことか、って言っていいのか、これって違うか?

(追記130219)
 先般、核発電装置(原発)の地図を発見してのせましたが、もっと探していたら、なんと核爆発の世界地図が見つかりました。
 地球上での核爆発の実績は、1945年から1998年まで、実に2054回、この後もまだやってるから、核発電装置とあわせて、いやはや、核の毒にすっかり侵されてしまった地球です。
 アーチストのさくひんだけあってメッセージ性のあるデザインです。
「"1945-1998" by Isao Hashimoto」
http://www.ctbto.org/specials/1945-1998-by-isao-hashimoto/

 

2013/02/12

720それにしても安倍さんにどうしてこれほど支持があるのだろう

 マスメディ屋さんたちがそろって安倍内閣支持率の世論調査。
 高い順に書くとこんな具合。
76.1%:TBS系(JNN) 2月11日(月)
71.0%:読売新聞 2月10日(日)
・64・5%:産経新聞社とFNN 1月26、27日
64・0%:NHK 2月12日
 なんかよくわからないが、いつも出だしのあたりは期待もあって支持率が高くなる傾向がある。調査方法にもよるのだろうが、ずいぶん差があるものだ。
 
 それにしてもどうしてこれほど支持があるのだろうか、安倍さんに。
 安倍さんになって起きたこと、株高・円安になっている数字だけはわかる。
 これをどういうわけか、アベノミックスと言うらしいが、株と円がミックスしてサンドイッチになってるのか。そういや昔、レーガノミクスってのがあったな。

 まあ、ミックスサンドでもミックスジュースでもよいが、景気がいいのは株屋と輸出屋だけで、株もなければ売るものもないこちとらには、な~んの関係もない。
 円安で海外旅行にも行けない。そのうちに円高になって旅行代金が安くなったころは、こちとらはヨイヨイになっていて、行きたくとも行けない。

 このところ大陸や半島あたりの国との関係で変なことが起きるたびに、それみろ、だから軍備拡大だ、軍隊派遣だ、憲法改定だとかって、政界も世論も安倍流に下司に盛り上がるのも支持率アップになってるんだろうが、それってかなり気味が悪い。
 

2013/02/11

719TV嫌いネット好きなわたしは浮世離れしすぎた年寄りだろうか

 NHKの研究所が毎年やっている調査らしいが、TVの見方について結果を発表している。
 世の年寄りはどう回答したのか興味あって、その中の一部をここに引用する。
 「あなたが欠かせないメディアは何か」という問いへの回答である。
まず、わたしの属する階層の「男70歳以上」では、どんな回答かしら?
 あれまあ、70パーセントもがTVを見なくちゃいられないよって、そんな回答をしている、驚いたなあ、ほんとかよ~?
 そしてまた、ウェブサイトはゼロであるらしいのには、もっと驚いたのである、まさか~?

 こうなるとTV嫌いでほとんど見ないし、ウェブサイトにかなりハマッているわたしは、つまり要するに、あまりに浮世離れしているってことになるのか。驚くこっちがおかしいのであったか。

 そういえば、FACEBAKAに書き込むのは、どいつもこいつも年下のやつらばかりかりだなあ、こちとらイイトシして恥ずかしいなあ、、。
 こりゃ、どうすればヒトナミの老後を過ごせるのかしらと、考え込んでしまうよなあ。
 せめて紙の新聞でも読んで、年寄仲間に入れてもらうしかないのか。
 でもなあ、ウェブサイトいじりは、庭いじりよりもボケ防止になると思うよ。
 そのうち老人ホームに入ったら、ウェブサイトいじりしようにも、そんな設備ありませんて言われそうだな、う~む、もっとボケが進むぞ。

 では若い奴ら「男16~29歳」の回答を見ようか。
 ウェブサイトが31パーセントで年代別ではいちばん多いが、意外に少ない感もある。
 驚くのは、たった2パーセントしか新聞に関心を示さないことである。これからは新聞は生き残れないのだろうなあ、だからせっせと電子新聞に切り替えろって宣伝してるんだな。でもそれって自分で自分の首絞めてるような。

 全体を俯瞰すると、活字メディアの新聞が、年齢とともに関心度が上がるのに対して、意外なのは本・雑誌・マンガが年代による大差がなくて、しかも少ないことである。
 男も女も50歳代になるとTV大好きになるようだ。これって、TVが普及進行する時代の世代であるような気がする。そこから下は普及しつくして、あるのが当たり前時代の世代だろう。

 ウェブサイトは、ただいま普及進行時代だから、このあとTVと同じような足跡をたどるのだろうか。
 今とは違うメディアが登場して、ウェブサイトを駆逐するとしたら、それはなにだろうか見当もつかない。
 まあ、かつてのTVもインタネットも今日ほどになるとは見当つかなかったのだから、わたしごときでは考え付かないのは当たり前だ。
 それに、そんなものが出てきたころは、こちとらはとっくにこの世に関係ないんだな、、、知ったことか、、。
 

2013/02/09

718茅ヶ崎美術館で村越襄+鈴木薫展を見て64年五輪ポスターは村越作品と知った

 茅ヶ崎美術館で開催中の二つの展覧会『村越襄 祈りのデザイン:蓮華幻相』と、『鈴木薫 作品展「蓮の肖像」』にいってきた。この二つの展覧会は密接な関係がある。

 村越襄(1925~96)は、1964年東京オリンピックのポスターのデザインをした人である。あの有名なポスターである。
 このポスターについては一般には亀倉雄策ばかりが有名だが、村越等と協同制作であると、わたしは初めて知った。
 村越は広告業界で写真を使ったデザイナーとして先駆者的な存在であり、有名写真家の早崎治、篠山紀信、吉田忠雄などと仕事をしていた。
 鈴木薫はデザイナーであるが、村越のもとで写真も撮っていた。

 村越は晩年、自分自身の作品を作るにあたり、蓮の写真をモチーフに選んだ。 
 その『蓮華幻相』として発表された作品の根源テーマは仏教思想にあって、般若心経と往生要集を元にする文章と、お釈迦様につきものの蓮の花や葉の画像との組み合わせである。
 いわば鈴木の画と村越の賛による構成であるが、実は両者は渾然一体となったアートである。

 こう聞くと、いかにも抹香臭くて敬遠したいが、実際に現物を見るとその密度の高いデザインの迫力に圧倒される。
 そのあまりにも迫りくる力を、経文と蓮の花が和らげてくれるとさえ思うのだが、その蓮さえも枯死しつつあるものさえあるのだ。
 『蓮華幻相』シリーズは、鈴木の撮影した蓮の写真の上に金や銀の箔を置き、経典の文字をレイアウトしてゆき、5年もの歳月をかけて完成したと、協同制作者の鈴木はいう。

 美術館で求めてきた図録も鈴木のデザインだが、ここにあらためて鈴木による構成、レイアウトされた作品を見ると、特に『蓮華幻相』の見開き絶ち落しは、また別の迫力があって目が離せない。
 実は図録にある解説をまだ読んでいない。読むとなにか影響されそうなので、読むまえに感想を書いた。

 『蓮華幻相』のために鈴木が撮りだした蓮の写真が、鈴木のデザイナーの延長上にある写真家としてのライフワークになっている。能の舞台写真もライフワークである。
 その蓮の写真だけを展示したのが「蓮の肖像」展である。平面が8角形の展示場の出入り口を除く7面に、各三枚の巨大な写真を天井からつりさげた和紙にプリントしてある。

 8角形の会場の中央に立ってぐるりと八つの花弁のごとき展示を見回すと、蓮は蕾、花、枯花、緑葉、枯葉など様々な姿を見せてくれていて、これはまさに輪廻転生である。

 村越・鈴木の『蓮華幻相』は一枚一枚が迫力をもちしかも連作として問いかけてくるのに対して、鈴木の「蓮の肖像」は展示空間を文字通りに「蓮の台(うてな)」に仕立て上げ、そこに輪廻転生の時間を見せようとしているのである。

 この二つの展覧会が同時であればこそ、このような興味深い見方を思ったのであった。
 この展覧会は2013年2月24日まで、茅ヶ崎美術館で開催中。ぜひお出かけあれ。

http://www.chigasaki-arts.jp/museum/exhi/2012-1209-224-murakoshi.html

2013/02/06

717あまり浮世離れしすぎてもいけないので代官山に行ってきた

 
 わたしは浮世離れしていると、天野祐吉さんに決めつけられてしまった。
白戸さんちが引っ越すという。こう聞いただけで分かる人はテレビの見過ぎ、わからない人はかなり浮世離れした人だが、ま、どうでもよろしい。(以下略)」(「CM天気図・白戸家の引っ越し」天野祐吉 2013年2月6日朝日新聞朝刊)

 TVのコマーシャルのことらしいが、TVを観ないし、たまに見てもコマーシャルになるとすぐに他の局に替えるから、知りっこない。
 これでおまえは浮世離れといわれては、へえ、そうでございますか、まさかそれほどでもないよ。
 天野祐吉のこのコラムは愛読者だし、辛口をうまくおっしゃる口ぶりをいつも学ぼうとしているが、まさかわたしがその辛口の相手になるとは思わなかった。

 浮世離れしすぎてもいけないので、昨日、東京目黒の代官山に行ってきた。今はなにやら先端的な街になっているらしいのである。
 行かなくても差しつかえないけど、無理に用事をつくって見に行ってきた。

 わたしは昔の代官山もちょっと知っている。
 大地主の朝倉家がヒルサイドテラスなる開発をする前の、この旧山手通りの緑が豊かな街並みの記憶がある。その写真も撮ったのだが、今探したけれども見つからない。
 そのかわり、開発初期の1975年の写真が見つかったので、ここに載せた。昨日とった写真と比べると、ほとんど変わっていない。
   1975年 ヒルサイドテラスの風景

   2013年 上とほぼ同じところの風景

 1975年にヒルサイドテラスを訪ねたときのわたしの感想は、なんとまあ、あの豊かな緑が無くなって真っ白な箱建物ばかりになったもんだ、いくら有名建築家の設計だといっても、こんなにハゲハゲになるのがよいのかしら、というものだった。
 いま、その昔の緑の豊かさの名残は、開発された旧山手通りから裏に入った南の斜面に見ることができる。ここも朝倉家の土地だろう。
 空中写真でこのあたりの移り変わり状況を見よう。

   戦前の1936年(国土地理院)

 戦後初期の1947年(国土地理院)

ヒルサイドテラス開発初期の1975年(国土地理院)

   1997年(google earth) 
   右上に同潤会代官山アパート再開発事業の敷地整備中

    2009年(google earth) 
   蔦屋書店はこの後に左上の空き地にできた

 そして今、旧山手通り沿いは、緑豊かなお屋敷の風景は消え去って、白い箱の建物が次々と並んでいる。
 それらの建物群が、ある一定の枠の中にあるデザインであり大きさなので、それが街並みの気持ち良さの原因であろう。それは開発オーナーの考えであるだろうし、地区計画がそれを支えている。
 そして開発オーナーが独自の考えをもっての用途構成も、代官山というブランドを作り上げているようだ。若い女性が多いのは、そういうターゲットなのだろうか。

 最近の開発の評判は、「代官山 蔦屋書店」であるらしいので、昨夜はそこで3時間ばかり過ごした。そのうち2時間はレストランでの打ち合わせだから、正味は1時間である。
 だが、面白いことにレストランやら書店やら分からない場所での打ち合わせであったことだ。図書館の中にレストランがあるような雰囲気なのだ。

 ジャンルごとに囲われたフロアの売り場があり、そのジャンルごとに店員のテーブルがあって、まるで図書館のレファレンス係(蔦屋ではホテル並みにコンシェルジェと言っている)のようである。蔦屋だからもちろんディスクもある。

 おやっと思ったのは、古本も置いてあることだ。
 新書と古書の両方が混じる本屋か、なかなかやるもんだ。
 あっ、まてよ、もしかしたら全部古本かもしれないなあ、、う~む、やるなあ。

 この書店は、全体に本屋というよりも開架式図書館の雰囲気である。本を売っている図書館といってもよい。テーブルや椅子もたくさんある。CDの試聴も自由である。
 これはなかなかよろしい。なにしろ、立ち読みならぬ座り読みしながら、コーヒーでもサンドイッチでも食ってよいのであるらしい。

 わたしが近くに住んでいたら、毎日ここにやってきて、そのへんの適当な本を抱えて座り込んで一日中すごすことができる。本は買わないのだ。
 もっとも毎日やってると気が弱いから買わざるを得なくなるかもなあ。

 レストラン、喫茶店、コンビニエンスストアも一体的に併設されているから、昼飯も食うことができる。どこの書店でも飲食お断りが普通の世の中で、これは意外であった。
 わたしがそうしたいと思うように、おおぜいの若者があちこちの椅子テーブルの座り込んで、本を読み、モバイル機器を操り、飲食をしているのであった。

 かなり実験的である。おいてある本も、わたしは好感を持ったが、かなり偏っている。どこかマニアックでさえある。売れるのだろうか。
 余計な心配だが、そのような書店が経営的に成り立つものだろうか。
 このあたりのことに詳しい知人に聞いたら、非上場会社オーナーの趣味に近いらしい。蔦屋というブランドの実験店なのだろう。
 昔々の京橋丸善の、洋書+バーバリー+ハヤシライスという古典的スノッブ取り合わせの、現代的翻訳が代官山蔦谷書店かもしれない。
 代官山は先進的、実験的な事業をしやすいところなのだろうか。

 先進的で思い出したが、この地には戦前の実験的・先進的な住居群があった。
 代官山同潤会アパートである。いまは再開発事業で超高層ビルと店舗群に建て替わったが、そのプラニングやデザインの先進性は有名であった。
 1975年に写したその風景を載せておこう。


2013/02/05

716こないだ勘三郎が逝ったと思ったら團十郎までも死んでしまった

 あれあれ、團十郎までも死んでしまった。こないだ勘三郎が死んだばかりなのに。

 で、ちょうど歌舞伎座建て直し中だから、もしかしたらこの建て直しが祟ってるのかも。
 なんて冗談を書こうとしたら、なんと筒井康隆が「偽文士日録」2月4日版に、「歌舞伎座を改築するときにちゃんとお祓いしなかったからいけないのではないか」なんて書いている。
http://shokenro.jp/00000882

 それにしても團十郎家は、薄命の家柄らしい。父親の11代目も役者にしては早逝だったといってよいだろう。美人薄命才子多病のたぐいか。気を付けようっと、あたしも、、、  ?。

 で、歌舞伎座である。4月のコケラ落し興業のサイトを見ると、團十郎の名が第1部と第2部に上がっている。
 差し替えてだれになるのだろうか。主役が突然いなくなって、松竹も困ってるのだろう。

 その建物の外観はどうやらでき上がったらしい。さて、5代目歌舞伎座はどんな姿になったか?
 え、なんだ、結局のところは、建て替え前4代目と同じ格好かよ~。石原慎太郎に風呂屋みたいってさげすまれたあの形である。風呂屋が怒ってるだろうが。

 建築家隈研吾も大資本が支配する伝統芸能の世界には、個性を持ったデザインで切り込めなかったのか。なら、なんで隈さんが必要だったのだろうか。
 超高層ビル(丸の内ビル群を見よ)と古典コピー(三菱一号館美術館を見よ)なら、三菱地所で十分どころか隈さんより得意だったろうになあ、なにかあったんだろうなあ。

 もっとも、隈さんてひとはどんなデザインもできますって器用な人らしいから(昔々、エーロ・サーリネンがプレイボーイアーキテクトと言われたみたいに)、別にモダンデザインじゃなくてこれでもやりたかったのかもしれない。

関連→093歌舞伎座の改築
http://datey.blogspot.jp/2009/02/blog-post_04.html
 

2013/02/02

715うちの本棚にある未読数とわたしの余命数とが釣り合ってきたようだ

 暮れと正月の閑な日々(実は毎日ヒマだけど世間なみに格好つけて)に読む本を、伊勢佐木町有隣堂の地下売り場で探していて、Jeffrey Archerの新作らしいペーパーバック2冊を見つけた。アーチャーの小説はこれまでほぼ読んだ。
 どっちか一冊でいいやと、安い方「Only Time Will Tell」を買ってきた。あまり面白い出だしではなかったが、途中から面白くなって最後の450ページまで一気に読んだ。

 ところがなんと話は終わらなくて、「The story continues in THE SIN OF THE FATHER」と書いてあるのだ。
 ここで主人公はイギリスからアメリカにわたり、ちょうど窮地に陥っている。どうなるか気にかかるところである。続巻が図書館にあるかと探したが、ない。

 しょうがない、正月が終わってまた有隣堂に、このまえ高くて買わなかった「THE SIN OF THE FATHER」を買いに行った。
 さて、主人公は窮地を脱してイギリスに戻り、またもや難題に直面、さてどうなるかと最後429ページ、ああ、またもや「 The story continues in REST KEPT SECRET」ときたもんだ。今年3月出版だってよ。
 もうういいや、これまでのアーチャーの作品と比べて、大して面白くもなかった。
 その間にジェフリー・ディーバーの新作を図書館で借りて読んだが、アーチャーのほうがだんぜん読みやすい。わたしの英語力ははまだちょっとたりないが、三文小説だから何とかなる。
 ケン・フォレットも読みやすい。フォーサイスはちょっと面倒だがまあまあ。イギリス作家の英語のほうが読みやすいのはどうしてだろうか。

 この数年前から、本は買うものではなくて、図書館で借りるものとしたのである。
 もうどうしても今すぐ読まなければならないような本があるわけもなし、金ももったいない、本棚の余裕もないし、というのが理由。

 その上、うちも本棚にはまだ読んでいない本がいっぱいあるし、読んでいたとしても忘れている本が山ほどある。これを片端から読めば死ぬまで続くと、ようやく気が付いた。つまり未読本の多さと、余命の短さとが釣り合ってきたということである。
 いっぽうで、もう読む気のない本がいっぱいあるのだが、これをどう処分するか。処分も金がかかる時代になったからなあ。

 ただいま図書館納入待ちのペーパーバックは、ケンフォレッの20世紀三部作の『Fall of Giants』 (2010)の第2巻『Winter of the World』である。まだかなあ。

●関連
182 Japanese knotweed
http://datey.blogspot.jp/2009/09/182japaniese-knotweed.html
535 千ページ英語小説一気読み
http://datey.blogspot.jp/2011/11/535.html

2013/02/01

714新聞がそのデジタル版広告を載せて購読料を取るのはけしからん

 今日の朝日新聞夕刊に2ページ見開きで、デジタル版新聞の広告を載せている。
あのなあ、それっておかしいよ、新聞に新聞自身の広告を載せるのなら、その分の新聞購読料を負けなさいよ。
 それもたまになら許せるが、最近しょっちゅう朝夕刊ともにその広告が載る。

 ほかにいっぱい広告があるのを我慢しているのは、その広告の掲載料収入でで新聞社の経営をしてるのだからと思っているからだよ。
 それがあんたのところの広告が2面も占めてるは、その分、広告料が入らなくても経営できるんだってことでしょ。
 ならば購読料をその分だけ引きなさいよ。

 さらに気に入らないのは、どう見ても広告そのものであるのに、「全面広告」って記載をどこにもしないで、一般記事を偽装していることだ。
 一般記事だから購読料の対象だって言いたいんだろうが、そりゃおかしいよ。

 さて、新聞がデジタル化して、紙でなくなるって時代はすぐ来るだろう。新聞が紙であったことが忘れられるだろうから、今のうちにそのことを書いておこう。

 昔々、新聞がまだ紙だった頃のことだとさ。
 新聞は、弁当の包装紙だった。うん、結構保温能力があるので便利だったし、弁当を食べるときに読んだものだ。
 新聞は、畳の下に敷く湿気防止用紙だった。大掃除の時に畳をあげてそとに干すのだが、つい古新聞を読んでて怒られるのであった。
 新聞は、八百屋の包装紙だった。野菜の大きさに対応して、いろいろに包んで売ってくれたもんだ。
 新聞は、便所の尻拭き紙(トイレットペーパーの正式名称)だった。家庭の大便所の中には、きれいに切りそろえた新聞紙が重ねてあったもんだ。あのころ日本人は肌が丈夫だったんだなあ。
 
 新聞は、保温材だった。大学山岳部のころ、雪山でのテントの中で寒さに対抗するには、ヤッケの下に新聞を着ると暖かいのだ。動くとガサガサやかましかった。
 新聞は、蠅たたきだった。丸めてバシンと打つ。あ、いまでもゴキブリにそうやってるな。
 新聞は、飛行機だった。大きな折り紙飛行機を、2階の窓から外にふわふわと飛ばしたものだった。そういえば、折り紙の兜も新聞の大きさだからできた。
 新聞は、薪を燃す焚きつけだった。風呂も焚火でも野営場の炊事でも、薪に火をつけるには新聞紙を軽く丸めて下のほうにおいて火をつけるのである。これは今もそうだろう。

 デジタル化するとこれらの使い方は出来なくなるのが寂しいが、でも、もうどれも過去のことばかりになっている。
 今じゃあ新聞紙を毎月のゴミにして出している有様だ。
 デジタル化すると、寝ころんで読むのは、まあ、携帯型あれやこれや電子機器でできるから紙新聞と大差はないだろう。
 寝ころんで天井に投影して読むと、手がつかれないだろうなあ、そういうのあるかしら。
 今にわたしもそうするときがくるだろうが、まだしばらくは紙で過ごそう。

2013/01/31

713スポーツ競技はもとが暴力行為だから指導者が暴力ふるって当たり前かも

 このところ運動競技に関して、その指導者が暴力をもって運動方法を教えているとて、その暴力でいじけた教え子が、自殺したり、上部団体に集団で哀訴したりして、事件になっているらしい。

 報道屋は面白がってケシカラン、政治家も尻馬に乗ってケシカランと合唱、運動団体の役員さんはお決まりのお詫びお辞儀記者会見。
 
 まあその通りだけど、どだい体力勝負の運動競技ってのは、もともと暴力沙汰である行為を、運動競技っていう一見きれいごとに仕立てたものである。

 柔道、相撲、拳闘、レスリングなんて格闘技の試合は、その典型的なもので、つまり喧嘩ですな。
 ラグビー、サッカー、ホッケーなどの試合は集団暴力行為、つまりデイリですな。
 これらが暴力でないなんて、チャンチャラおかしい。

 その競技の指導者とか監督なんてのは、つまり暴力方法にたけた人であるだから、教え方も暴力になるのが当たり前だろう。
 暴力の使い方を教える人に、暴力を使うなって言っても、そりゃ無理というもんでしょう。

 運動競技の世界には、もっとひどいこともある。
 銃による殺人事件が起きて社会問題になっているのに、ピストルやライフル等の銃砲を使った運動競技が平然と存在するのだ。
 平和の祭典なんてキレイごとを言っているオリンピックにさえあるのを、誰もおかしいと思わないのかしら。

 ところで最近はシゴキって言葉はないのかしら。わたしが高校や大学で運動部にいたころは、そういったものだ。
 例えば、山岳部では体重ほどの荷物を背負って歩いて疲れ果て、アア、今日はシゴカレタ。
関連:156昔山岳部
http://datey.blogspot.jp/2009/07/156_18.html

2013/01/30

712日暮里富士見坂から半身不随の富士山と満身創痍の都市風景が見える

 東京日暮里に富士見坂なる名前の場所がある。
 その名の通りここから、まだ富士山が見える。でも、そのうちに見えなくなる予定であるらしい。富士見坂と富士山との間にビルが建つからである。

 その富士見坂に、今日、大勢の見物人がやってきたそうだ。
 ここから見る最後になるかもしれない富士山頂上に沈む太陽を見るためである。まったく暇な物好きな人が多いものだ。
 なにもわざわざ日暮里まで行かなくても、太陽は毎日沈んでいるのだから、毎日どこかで富士山頂上に沈む太陽を見ることができる。今日に限らなくってもよさそうなものを。

 なんていうと怒る人がいるだろう、何をバカなことを言っておるか、富士見坂から見るから価値があるのだと、。
 でもね、「山あて」の道や坂はどこにでもあるよ、ここだけじゃないと思う、富士見坂ってのは、。
 で、ウェブサイトを見たら「東京の富士見坂」というのがあった。
http://www.t3.rim.or.jp/~kuri/fujimi/
 ここにも物好きな人がいて、都区内18か所の富士見坂を訪ねて、富士が見えるかどうかを確かめている。
 なんと富士山が少しでも見えるのは、たったの3か所だそうである。

 つまり日暮里の富士見坂におおぜいのヤジウマがやってきたのは、坂の名前に由来する風景が見えなくなるという噂に、ちょうど今日が太陽がてっぺんに沈むという現象とが重なった貴重なチャンスということだろう。
 で、その富士見坂から富士山をみえなくするビルが建つことに関しては、その眺望の消滅を惜しむ人たちにが建設反対運動を粘り強く続けているらしい。
 今日、ダイヤモンド富士を見に来た人たちは、もちろん、ビル建設反対運動をしているのであろう。

 ただし、そのビル建設を法的規制することは不可能だろう。今すぐできることは、だれか奇特な金持ちがそのビル用地を買い取ることしかなさそうだ。
 そのような奇特な人がいたとしても、富士見坂から富士山まで視線上にある土地あるいは視線を妨げる範囲の空中権を全部買い占めなければ、今後も同じことが起きるに決まっている。
 では、法的制限方法はあるか。都市計画でそれを決めることは法的には可能である。
 ただし、その制限受ける範囲の地権者や関係市町村の市民の意見も聞かねば決められない。さてそれは、どれだけのおおぜいになるのだろうか。

 ほかの富士見坂でも、こんな富士山夕陽見物とか眺望消滅反対運動が起きたのだろうか。それとも、誰もなにも言わなかったのだろうか。その違いはなんだろうか。
 かつての高度成長バンザイの貧乏な時代を抜け出て、景観にも目を向けるよう豊かな時代になったということだろうか。

 だが、それもなにかおかしい。日暮里の富士見坂から富士山の方向を見る風景写真は、ウェブサイトにたくさん登場する。
 それらを見てわたしが奇妙に思うのは、もはや富士山は左肩(右肩か)を失って半身不随、そしてその富士山を取り巻く都市風景は満身創痍であることだ。都市風景についてはだれも何も言わず,富士山が見えないことだけを言うのは奇妙である。
http://www1.ttcn.ne.jp/fujimizaka-hozen/shinnookubo/20111007-1.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/07/96d0fae037f5d656083f8876db406c03.jpg

 いやはや、この日暮里富士の頂に夕陽の光背が輝けば、これは片翼を失った鶴が掃き溜めで昇天するの図である。

2013/01/23

711インフラ整備インフレ政策インフルエンザ流行で残るはインフリとインフロか

 ただ今の安倍政権は、日本にインフレを招く経済政策を採用するのだそうである。
 インフレね~、インフレというとまず思い出すのは、1940年代後半の太平洋戦争直後のころである。44年から49年までの消費者物価はなんと100倍になったそうだ。 今持っている1万円が10年後には100円になるのか、。
 わたしが大学生の1950年代の後半、山手線の1駅は10円、今は120円かしら、半世紀ほどで12倍である。10年で100倍はすごいものである。

 戦争直後インフレ時代に小学生だったわたしは、家計のことはわからないが、義務教育費は無料ではなかったから、父母がわたしにもたせる教科書代や給食代などに悩んでいた。
 なにしろ毎日物価がどんどん上がるのである。持って来いという教師も悩んでいただろう。
 対策として新円切り替えというのもあった。新札を出して旧札を使えなくするのである。その効果は知らない。

 戦後すぐの大改革に農地解放があった。大地主が小作人に耕作させている農地を、政府が強制買い上げして小作人に売り渡したのである。わたしの生家の神社の農地がまさにその対象になった。
 いくらで買い取られたか知らないが、年賦で支払われる債券(というのだろうか、切り取り式切符のようなもので、毎年の支払い額が書いてあって、銀行に持って行って現金に替えた)は、大インフレでたちまちにして紙くず同然となった。

 戦後は小作米が入らなくなって、その日の食うのにも困った。神社境内は芋畑になった。育ちざかりの息子3人を抱えて、親は大変だったろうと思う。
 この農地改革とインフレが、腹ペコ少年だったわたしの戦争への恨みになっている。食い物の恨みは怖いよ。今、その農地は住宅地になっている。
 長じてのインフレ記憶は、オイルショック後1974年の狂乱物価である。あまり実感がないのは、食い物の恨みになっていないからだろう。

 ブラジルは今は安定した経済の国になっているが、1980年代半ばからの10年ほどはものすごいインフレ国であったそうだ。
 わたしが訪ねたのは1990年で、インフレ時代の低額の紙幣は、1枚では紙くず同然で使いものにならない。そこで20枚とか50枚とかまとめて丸めてゴムひもでくくり、まるで硬貨のように通用していた。中身枚数が足りているかどうか誰も気にしないのが、おかしかった。
 ドイツでは第1次世界大戦後に猛烈なインフレで、日常の買い物もベビーカーに札束を載せていったとかいう話がある。

 さて、今日ただいま日本はインフレ政策だそうである。庶民にはインフレは生活の恐怖としての記憶しかないから、え~、なんでインフレ~なの~?、ってなもんである。
 物価上昇に収入が比例すればよいけど、そうじゃないとどうすればいいのか。

 さしあたりの心配は年金額である。2か月ごとの年金の受取り時点の物価上昇に合わせて上昇してくれるんでしょうね。でもねえ、どうせ役所仕事の常として手続きは1年遅れになるんでしょ。このギャップをどうしてくれる。

 インフストラクチャ強靭化とて金をかけるし、インフエンザは流行するし、インフーション進行に力を入れるし、あと残るはインフとインフ、ってか?

2013/01/22

710今年も年賀状ではなくて寒中見舞いを110枚に絞って書き送った

 今年の年賀はがきのくじ引きで当たったのはたった3枚、しかも最下等であった。
数年前から年賀状に替えて寒中見舞いにしている。年賀状は昔から出していたが、一番多い時は500枚くらいになった。それでも、もらう方が多かった。
 仕事を辞めてしまってから出す先を減らしていった。出す先をやめる基準が難しい。
 寒中見舞いに替えた次の年からかなり減った。向こう様もやめるタイミングを計っているのだろう。
 なかには宛先チェックしないで、機械的にプリントして出すらしい会社名義のものもあり、こちらがずっと出さないのに、いつまでも続いてやってくる。

 ちかごろ、いただく年賀状のなかに、これでおしまいにします、とかいてあるものが混じるようになった。年末にはたくさんの喪中欠礼状がくる。そういう年頃である。

 100枚以内にする方針であるが、今年は110枚になった。
 で、今年の年賀状の標準がこれで、相手によってそれぞれバリエーションになっていく。こんな物騒なことは賀状には不似合いだから、寒中見舞いでちょうどよい。

寒中お見舞い啓上
 この冬も北国は大雪、大地震と大雪は連動するようです。今年も豪雪の法末集落の小正月行事「賽の神・初釜茶会」に行きました。震災復興支援からもう8年目になります。
 昨秋、宮城県沿岸部を震災復興支援の小さな活動で訪ねました。荒涼たる津波被災の各地で、海辺の平地を居住禁止にして、台地上に移住する復興事業が進んでいます。
 重大なことに気がつきました。わたしの住む関東から西の太平洋沿岸部でも、確実に起こりうることです。今から事前津波被災復興事業をやるべきと思います。
 それをやっても太平洋岸の住人たちは不安で、内陸に移住して行き、海辺の街はしだいに空洞化するでしょう。だがいったいどこに移住すればよいのでしょうか。 
 どうせ移住するなら、海辺・火山・原発・軍事基地から遠くて地震も水害も少ない街にしたいものです。でも、そんな受け皿地域が、日本にあるのでしょうか。
 わが横浜都心はもろに津波が来ます。でももう歳が歳だからどうでもよいのです。遊べる体力あるうちに遊んでおくことにします。●●さんのお住まいは大丈夫ですか。
 当方は身体は元気ですが、言われて気づけば今年は喜寿とて仰天、会合や飲み会に出かけると年下ばかり、FACEBAKAをやると書き込みは年下ばかり、さすがに観念しました。
 今年もお元気でご活躍されますように期待しています。

2013年 1月の寒さの最中

●●様 

2013/01/20

709巨人大鵬卵焼き、阪神柏戸カレライス、江川ピーマン北の湖、東電橋下ノロウィルス

 大学の学生食堂のTVが、大相撲中継を映している。
 相撲取りにしてはスマートでしかもイケメンの若い男が立ち上がった。ほ~、こんなのもいるんだ。
 その若者は相手を押して押して土俵際、相手も徳俵で頑張る、その瞬間、相手の両脇にさしていた両腕をすっと抜いてその両手でどんと相手の胸を押した。途端に勝負あり。
 へえ~、あんなきわどい瞬間にそんな芸当ができるんだ、すごい。

 これがわたしがはじめて見た大鵬であった。
 1958か9年あたり、大学食堂で遅い昼飯を食っていたのだから、大相撲もまだ番付が下位の取り組みである。
 だから後の大横綱大鵬が、幕内に登場したての頃だろう。わたしは相撲好きでも何でもないのだが、その勝負のTV映像は奇妙に印象に残っている。

 TV受像機の普及は、1964年の東京オリンピックまで待たなければならない。そのころは駅前に「街頭テレビ」なるものがあった。
 東横線自由が丘駅の軒先にTVがぶら下がっていて、大鵬と柏戸が登場する時刻には、駅前広場に人があふれたものだった。

 そのTV電波は1958年に建った東京タワーから発していた。
 大鵬と東京タワーは日本がようやく戦後から脱しようとしていた時代の象徴であった。
 そうだ、建設途中の東京タワーを見た記憶がある。

 1956年、経済企画庁の経済白書は「もはや戦後ではない」と書いたが、大鵬をはじめて見たころの学生食堂での飯は、「外食券」(コメは政府による配給制だった)を出すと2円だったか安くなったものだ。定食が20~30円の頃である。
 庶民はまだまだ戦後を引きずっていた。

「巨人・大鵬・卵焼き」とは、その頃に流行ったフレーズだが、だれが最初に言ったのだろうか。庶民の一番人気者を皮肉を込めて並べているから、大宅壮一あたりか。(追記、違っていた、言いだしっぺは堺屋太一だったとネット情報あり)
 わたしはもっとひねくれていて、「阪神・柏戸・カレライス」と、自分で発明して言ってたものだった。要するに1番手に対する反感と、2番手に対するシンパシーである。

 後に「江川・ピーマン・北の湖」とのフレーズがあったらしいが、それは知らなかった。ただ、この並べ方には見え見えの意地悪さがあって、上手ではない。
 今の世ではなんというのか。TVを見ない都心隠居老人にはさっぱりわからない。
 見え見えの底意地悪さを承知で言えば、ただ今のわがNOTORIOUS御三家は、「東電、橋下、ノロウィルス」

 大鵬が逝き、2代目東京タワー(スカイツリーとかいうらしい)が建ち、軍隊を持とうという首相が出てきて、戦後復興東京駅は姿を消して戦前の姿に戻った。
 もはや戦後ではないどころか、今や戦前である、かもしれない。戦前の次は、いうまでもなく戦中である。

 

2013/01/17

708核毒の地で懸命に生きる脱走豚と野良猪の愛の賜物イノブタも駆除されるのか

 福島県富岡町でイノブタ発見とか。

 東京電力福島第1原発事故で立ち入り禁止となった地域で豚舎から逃げたブタと、野生のイノシシが交配して生まれたとみられるイノブタの目撃情報が、原発周辺地域で相次ぎ、福島県が今月下旬から実態調査を行うことが16日、県への取材で分かった。(産経ニュース 2013.1.16 08:44)

 おやおや、がんばって生きてますねえ、ブタとイノシシが協力して子孫を残そうって、涙ぐましいなあ。
 東電原発から降り注いだ核毒にまみれながら、ちゃんとやることやってるんだ。どっちが雄でどっちが雌なんだろうか、どちらの組み合わせも再生産可能なんだろうか。

 でもこのニュースの続きには、増えすぎると農地を荒らすので、駆除するのだそうだ。可哀そうだなあ、その努力は虚しいんだ。
 でも、農地ったって、何も植えてるはずはないなあ、あ、そうか、核毒境界領域での農地かもなあ。そこは東電に柵を造らせましょうよ。
 鉄砲で撃っても、核毒にまみれているから、福島名物イノブタ鍋ってわけにもいかないしなあ。

 ウシもヤギもイヌも核毒の地をさまよっているから、ヤギウシとかウシイヌとかできるって、それはないか。ウナギイヌはどうか。

そういえば、昔々どこかの動物園でレオポンが生まれたってニュースがあったなあ、え、ご存じない?、ライオンと豹の子。
 これって人間が生命をもてあそんでるよなあ。その点、核毒イノブタは、飼育から逃れて自然に還ってるんだもんなあ、おおらかなもんだ。
 そのおおらかさと核毒のギャップに、こちらが考え込んでしまう。

 まあ、まだまだ消えることのない核毒に負けずに、イノシシもブタもウシもヤギもイヌもウナギも頑張っていてください。
 そのうちに東電が「核毒の森」自然動物園を作ってくれて、安楽に余生を過ごさせてくれるでしょうから、それまでの我慢です。
 「核毒の森」についてはこちら
 

地震津波火事原発コラム集
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