2024/01/12

1779【中西利雄アトリエ】山口文象設計の木造モダンデザインの最後で唯一の現存建築か

  久しぶりに建築家山口文象の話題である。

 今朝(2024年1月12日)の東京新聞に、彫刻家の高村光太郎が戦後に東京でのアトリエとしていて、ここで終焉した建築が今も建っており、イサム・ノグチも滞在したことがあるという記事が載っている。それが元は画家の中西利雄のアトリエ(1948年竣工)であったという由緒もあるので、文化的記念建築の意義が深い。これを何とかして活用できるように保全したいと、活動している人たちもいるという話題である。
 参照→●東京新聞記事20240112 高村光太郎ゆかりのアトリエ残したい@中野 画像

旧中西利雄アトリエ 現況 google street

 たいていのこういうたぐいの新聞記事に、その建築設計者の名が出てくるのはかなり稀であるが、この新聞記者はそこまで取材して書いている。「設計は近代日本建築運動を先導した建築家山口文象(1902~78年)」と書き、建築史家の内田青蔵氏の「戦前から戦後に活躍した山口文象による貴重な事例で、オリジナルが残っている。モダニズムを象徴する無駄のない空間を創る思想が現れた建物だ」とのコメントもある。

 ここで文化的著名人として高村光太郎、イサム・ノグチ、中西利雄そして山口文象の名が出てきて、それらの人たちの文化的足跡の記念として、この建築を保全したいという活動が起きているという。さて、これらの名が世間の人々にとって、どこまで記念すべき文化人に値するのか、それが保全が可能かどうかの尺度になるだろう。

 わたしが言えるのは、山口についてのみであるが、日本の近代建築史における重要な一角を占める建築家山口文象の現存する作品としては、中西アトリエは貴重な位置にあるといえる。それは山口のモダンスタイル木造住宅作品として、唯一現存するからである。
 山口はグロピウスのもとから帰国(1934)してきて、日本へのモダンスタイルの導入で世に名をあげ、多くのそのスタイルの木造住宅も設計した。例えば山田智三郎邸小林邸あるいは番町集合住宅(いずれも1936)がある。

 山口は1920年半ばからの建築運動の関係から画家たちとの付き合いがあり、彼らのアトリエをいくつも設計している。私が作った山口年表から拾うと菊池一雄(1931)、藤川雄三、仲田菊代(1933)、安井曾太郎(1934)、前田青邨(1936)、林芙美子(1940、一部に画家の夫のアトリエ)、佐々木象道(1941)そして中西利雄(1948)に至る。

 これらのうちで現存するものは、前田青邨、林芙美子そして中西利雄の各アトリエのみである。前田と林のアトリエは純粋に和風建築であり、比べると中西アトリエのモダンさがよくわかる。山口は中西アトリエのような、庇のない木造板張り壁で勾配の緩い屋根のモダンデザイン木造建築を多く設計しているが、雨の多い日本の風土では保全が難しかったので、いまや中西アトリエのみ現存する。

 中西アトリエは戦後建築で戦災に遭わなかったことも幸いしている。山口の渡欧の作品だが、モダンデザインそのものの菊池一雄アトリエが、戦災を逃れて数年前まであったが今は消えた。実は、わたしは中西アトリエが現存するとずいぶん前に仄聞してはいたが、今はもう消えただろうに思っていたので、よくここまで保全されたと驚いている。

 山口作品で、文化的な施設として現在保全されている二つの木造建築がある。そのひとつは「林芙美子邸」(1941)であり、現在は「新宿区立林芙美子記念館」として公設の展示施設となっている。復元して原型をよくとどめており、管理も行き届いている。住宅建築としての本来的な活用ではないのが少し残念であるが、著名小説家を記念するためだからやむを得ない。

 もうひとつは「旧関口邸茶席」(1934)であり、現在は「北鎌倉宝庵」として、積極的な利用による保全をされている。この茶室建築と庭園は、もともとは北鎌倉の名刹浄智寺の境内地の一部を借地して建てられた民有の住宅の一部であった。そのオーナーは評論家であり、趣味の茶人であった。大工棟梁の息子として和風に通じている若い山口に、本格的な茶室の設計をさせた(参照:宝庵由来記)。山口はその近くに同時並行的に、モダンデザインそのものの山田知三郎邸を作っているのが面白い。

 1970年頃にこの茶室建築と庭園の部分を鎌倉の建築家榛沢敏郎氏が取得し、永らく主が不在で荒れていたのを修復復元してアトリエとして活用していた。これもアトリエ建築であったのだ。それが2017年に地主の浄智寺に建物付きで返還され、この美しい庭と茶室は才気ある住職と能力ある運営者を得て、新たな出発をする。

 2018年から浄智寺の「北鎌倉宝庵」と名付けられて、公開運営されるようになった。多くの茶人たちの道場となり茶会の席として、時に展覧会場や撮影会場となり、月に1回の茶席一般公開日もある。運営管理に利用者たちも関わり、その本来的な活用が積極的になされていて、山口作品の中では最も幸福な建築である。名建築保全策としても理想的であろう。

(20240112記)

このブログ筆者の山口文象関連ブログ記事
建築家山口文象+初期RIAアーカイブズ
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2024/01/10

1778【能登はやばいよ続編】あな怖や地の底海底北国に揺すられている核毒半島


 能登地震の被害は次第に判明してくると、ますます増大拡大する。昨日も大きな余震が佐渡の沖であったから、能登から佐渡へ越後へと広がるのだろうか。となると、志賀と柏崎刈羽の二つの原子力発電所を心配になってくる。

 気象庁のサイトに、これまで群発している能登地震のそれぞれの震央の位置を示すマップがある。今年の1月から今日までの期間の、それらを分布地図を取り出して、原発の位置との関係を見た。

2024年1月1日15時から10日9時半までの発生地震の震央分布と二つの原子力発電所





 能登の志賀町西海岸に建つ志賀原発については、外部電源のひとつが切れているが大丈夫
とか、高さ3mの津波が来たと後でわかったが大丈夫、なんて情報が五月雨的に出てきている。そんな情報の出し方が、本当に大丈夫かしら、と思わせるのだ。

 で、マップを見ると、う~む、素人にはよくわからないがという言い訳けつきだが、志賀原発はなんだか実に危うい位置にあるのだなあ。すぐそばに震央がある。地震の大軍隊がじわじわと志賀原発めがけて押し寄せてきているようだ。
 見ようによっては、志賀原発は実にうまい立地に建っている、能登の地震の巣からちょうど外れた位置を探して建てたのだなあ、よくまあそんなきわどい立地を探し出したものだ。

 2007年の夏、上の地図にもある柏崎刈羽原発の、北方16kmほどの海中が震源の「中越沖地震」があった。この時はこの原発は火災を起こした。さらにその3年前の2004年の秋、この原発から東20kmほどの内陸で「中越地震」があった。
 中越地震時にたまたま輪島の宿にいて大揺れに遭遇(参照→奥能登100キロウォーク)、その翌年からわたしはNPOスタッフの一人として、被災山村集落の復興支援のお手伝いに10年ばかり通った経験がある。参照→法末集落復興日録

 その時に入った集落の位置が、柏崎刈羽原発から20キロ圏にある。地震の程度によっては原発事故となれば逃げ出さねばならない距離だ。福島で起きたように核の毒が降り注ぐ被害の地に自分はいるのだと、身に染みて怖いと思った。
 そのころボランティア拠点として取得した民家の電気代を支払う銀行口座に、柏崎刈羽原発事故による迷惑料のような性質の金が、東電から振り込まれていた記憶がある。

 もしも志賀原発がフクイチ並みに事故となったらどうなるのだろうか。今の伝わる交通状況では、半島から避難することがかなり困難であるようだ。道路は地震で寸断、港湾施設は津波で壊されたり、海岸は土地隆起で陸地になったりで、陸も海も逃げようがない。

 さらに問題は、志賀原発は半島の首のあたりに立地しているから、風向きによっては半島脱出の逃げ道をふさがれてしまう。参考のために、能登半島と福島第1原発事故の時に核の毒が降り注いだ地図とを、同じ縮尺で並べてみよう。能登半島はすっぽり入る大きさであることが分かる。さて、どこにどうやって逃げるのか?
 
   能登半島と志賀原発     福島原発事故の核の毒が降り注ぐ図 (同縮尺)

 3・11のフクイチ事故の時は、内陸へと逃げるいくつかの道はあったが、その重要な道のひとつが核の毒の放射性物質が降りそそぐ方向が一致していた。それに気が付かずに、飯館村へと多くの人たちが逃げてゆき、多くの被爆者が出た。ふさぐべき道がふさがれず、被災の道になった。
 その教訓は能登の場合はどう生きるのか。柏崎刈羽と志賀との両方の原発で事故が起きたらどうなるのか。杞憂か?

 さらに気になるのは、朝鮮半島の北部から日本海へ飛んでくるミサイルなどがしばしばあるが、間違って(故意にでも)こちらに飛び込んでくることは、絶対にないのか。もしか日本政府はすでに仰撃ミサイルとかの配置をしているのかもしれない。そうなると志賀原発があることが能登に戦争を招く可能性になる、なんてことまで思ってしまう。杞憂か?

 こんどの災害救助で能登半島に大量の自衛隊員の投入があるらしいが、もしかしてそれはそのまま北辺の守りと称して居つき、能登は軍都になるのかもしれない。これこそは半島の北の国への挑発となることだろう。怖い怖い、杞憂でありますように。

 そうか、わかった、能登半島は日本列島の縮図なのだ、と。

(20240110記)

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2024/01/08

1777【老人二人の死】われよりも若き老衰に戸惑へば脳内にわかに昔歌ぞ流る

●篠山紀信の83歳老衰死に戸惑う

 近年はコロナパンデミックに加えて戦争紛争、地震津波豪雨など大災害による人間の大量の死が、毎日のマスメディアやネットに登場して 、人間の死に不感症気味である。それがさらに増幅されるのは、今や個人的に身近な知人たちの死も珍しくない年頃に自分が至っているからだ。もう人の死に驚かない。

 ところが、先日、新聞の訃報に驚いた。わたしでも名前を聞いたことがある著名な写真家の篠山紀信が死亡したとの15日の記事である。篠山氏に面識はないが、驚いたのはその死因である。なんとまあ「老衰」だそうだが、その年齢が83歳とあるところまで読んで、これはと驚き戸惑ってさえいる。

 エ~ッ、83歳?、いったいどうしたのかと狼狽気味、だって、わたしよりも3歳も若いッ、その歳で老衰ってことがあるのか、いやいや、こうして現実あるものなんだなあ。
 そうかそうか、わたしもついに知らぬ間に老衰死の資格の獲得に至っていたのか、気が付かなかった。では、これからは堂々と自分の死を語ることができるぞ。なんだか安心感もわいてきた。

 老衰死の人は、いわば生物的に完結したのであろう。それが若かろうが超高齢だろうが、これこそが天寿の人である。それに対して事故死や病死は、生物としての生きることができた期間を余儀なく短縮したのである。一般に非業の死という。逆に、老衰死しようとする人を、医療技術で無理やり生き永らえさせるのも、死者から見れば余儀なく延長である。どちらも不自然なる人生であったことになる。自分の意思による死も完結と言えるだろう。

 さて、私も生物としての人生を自然現象として完結したいものだ。近年ではコロナワクチンを入れたが、これまでめったに薬を入れた身体ではないから、ありうるだろう。
 だが、老衰死って苦しいのだろうか、楽なんだろうか、そこが気になるが、まあ、なるようにしかならない。願わくばピンピンコロリタイプの老衰死をやりたいものだ。

●中村メイコの死と70年前の歌の記憶

 今日のニュースのひとつに、俳優の中村メイコの訃報がある。こちら89歳で病死とあるから、この事実には驚かない。でも、彼女の歌に「田舎のバス」があったと書いてあるところにきて、脳内にその歌がワ~ッと流れたので、そんな自分にビックリ。

「♪ 田舎のバスは~おんぼろぐるま~タイヤ~は傷だらけ~ま~どは閉まらない~それでもお客さん~我慢をしてる~それ~はわたし~が美人だか~ら~ ♪

 ここまでだが、これで歌詞一番の全部だろう。たしかミキトリロー作詞作曲で、NHKラジオ放送番組の「日曜娯楽版」の中の「冗談音楽」で初めて聴いたような覚えがあるが、定かではない。冗談音楽の導入部も脳内を流れる。(参照:「冗談音楽」)

もしもしあのねあのねッ、これからはじまるッ、じょーだんおんがく~

 おどろいたねえ、これらの歌を聞いたころから今まで思い出したことは一度もないのになあ、いつの歌?。ネットで見ると1954年に作り、55年にレコード発売とある。70年も前のことだ。ユーチューブで歌詞とメロディーを確かめたら、あっていた(参照:「田舎のバス」)。

 日曜娯楽版はわたしが高校生のころだが、政治風刺がきつく効いたコントが続き、実に面白いラジオ番組だった。その風刺が効きすぎて、当局(政府か進駐軍か)からにらまれて、番組名が変わったら全然つまらないものになった記憶がある。

 あそうだ、おんぼろバスから思い出したが、そのころだったかしら、木炭車のバスが走っていた。バスの後部にそのための缶(かま、というのか?)が煙を出していた。力がないらしく坂道では客がおりて押した。あれはいつ頃だったろうか、この歌のころはもうガソリン車だったかな。ガソリン車が(再)登場したころ、子供らはその後ろで排気ガスを吸って、ああいい匂い、なんて言っていたが珍しい匂いだったのだ。なんて突然思い出した。

 篠山紀信も中村メイコもわたしは全く面識がないし、TVなどで見た記憶もない。だが、ある人の死は、その人とともにあった頃の昔の自分を、突然にむりやり引きずりだされる、これっていやなものだ、と、今思う。

われよりも若き老衰に戸惑えば脳内にわかに昔歌ぞ流る

(20240108記)


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2024/01/06

1776【新年忘れ物】自民派閥ネコババや旧統一教会問題やらを忘れさせている能登地震

 能登地震で被災の方々にお見舞いを申し上げます。ネットに登場する被災者自らの状況の書き込みに、胸の内にこみ上げるものを感じつつ読んでいる。
 新年早々からこのだ事件の話題で、マスコミもネットももちきりである。日々この話題ばかりで、去年から続くニュースは戦争もあるが、何か忘れているような気がしていた。

元日からこの話題ばかりの新聞

 なんだか隙間風が吹いているような気がしてならなかったが、あ、そうだ、あの自民党巨額裏金事件と旧統一教会巨額寄付事件のニュースが、どちらもパッタリと消えていることに気が付いた。
 そうだそうだ、そうだった、この巨大地震発生で驚愕する中で、これらの関連の人たちは、ほっとひと息ついてお正月をお過ごしに違いない。

 去年の暮れまでは毎日あれほどにマスコミを騒がす日本の2大事件だったのに、元日のの能登地震にすっかりお株を奪われたままだ。今年になってもう1週間になろうというのに、これらの件に関して新聞でもネットでもこれら関連記事を見聞きしたことがない。TVを見ないからそちらはどうか知らないが、たぶん登場してないのだろう。これはどうしてだ。

 もちろん能登震災の報道が重要で大切なことはわかっている。だが、あの安倍派だの二階派だの、裏金だのキックバックだの、何億円の金をネコババしたという政治スキャンダル話は、今年になってからいったいどこに行ったのだろうか。このマスコミに追いかけられないでいる間に、一生懸命になって繕いをやって時間を稼いでおられるに違いない。

 自民党のネコババ関連のお方たちは、いま、能登に足を向けて寝るなんて、とてもおできにならないであろう。だからと言って、この際だからキックバックかネコババだかの全額を、能登震災の救援復興に寄付するって、いや、なさらないよなあ、そんなことしたらせっかく世間が忘れかけていたのに、また思い出させるだけだものねえ。

 もうひとつの安倍暗殺事件のもとになったコリアン発新興宗教巨額寄付事件はどこに行ったのだろうか、その新興宗教団体を解散させるって手続きとか訴訟とかはどうなってるのかしら。この件は昨年暮れのあたりもなんだかこのごろニュースを見ないって感があったのが、今年になって能登地震でますます世の中から忘れられている。

 このさいだからとて、あの集めた巨額な献金を、能登地震救援と復興に役立ててくれと、ど~んと寄付してくるとか、宗教団体であればこそこのようなことを積極的に行うものだと思うが、そのあたりはどうお考えなのだろうか。いや、しないだろうなあ。
 自民党と旧統一教会にとって、能登地震はしばらくは救いの神の仕業になっているかもしれない。 (20240106記)

(20240107追記)今朝の新聞に久しぶりにネコババ議員1人逮捕のニュース、ヤレヤレ。

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2024/01/04

1775【能登はヤバいよ土までも】地震と原発そして北の隣国から脅威にさらされる半島立地は

●地震の緊急放送
 
 能登地震のことを考えているとどんどん不安が募り、今やわたしの恐怖になりつつある。
 元日にTVで叫んでいた女性の声が、耳から離れない。津波からに緊急避難を声をからしていたが、あれは声を出すプロの演技であって、地震に関する一般的な情報になると、突然に冷静なNHKアナウンサーになるのが、不思議と言うか、怜悧と言うか、さすがプロと言うか、これは3・11の教訓なのだろうなあと思いつつ、声が枯れないのかなあと聞いていた。

 「津波が来ますッ、今すぐ逃げてくださいッ、大津波警報が出ましたッ、すぐ避難してくださいッ、決して戻ってはいけません・・・」のような言葉を繰り返していた。
 もしもその時にこんなフレーズが付け加わっていたらどうだったろうか、と後で思ってゾーッぞとしている。

大津波警報が出ましたッ、その範囲には志賀原発が入っていますッすぐ逃げてくださいッ、放射性物質が降ってきますッ、

 もしもこれが叫ばれていたら、能登半島を逃れ出ようとする人々で大パニックになったことだろう。もちろん実際には放送されなかったのだが、それは実際に必要がないから放送しなかったのか、パニックを引き起こさなぬためにワザと放送しなかったのか、いずれだろうか。もしもこの次に実際に必要になっても、集団パニックを起こさないように、放送しないだろうか。考えていてだんだんと怖くなって来た。

 311を思い出すのだ。あの時にこんな放送をすべきだったのだ。でも、しなかった、いや、できなかったのか。あの3・11の時のことは、震災核毒騒動日録として、このブログに書いた記事をまとめている。これに能登のことも書き加えていくのだ。もう一つ別の震災騒動日録「法末集落復興日録もあるのだ。

 実は1月1日のTV放送を見聞きしていた時のわたし(TVを1時間も見ていたのは3・11以来だ)には、志賀原発のことは頭になかった。だが、能登半島の人々はよくご存じのことに違いないと思うのだ。それでも逃走パニックを起こさなかったのは、目前の地震動による大騒動に気をとられてたのだろうか、それともみんな沈着だったのだろうか。

 おりしも次の日には燃える日航機から、400人近くもが18分でパニックもなく避難した。能登半島はまるで航空機のごとくに逃げ場が限られる空間だ。もしも志賀原発で、3・11のフクイチ原発事故のようなことがおこると、日航機からの様に南の加賀に向かって、あるいは周りの海上に素早く避難できるものだろうか。逃げる道は山崩れ出し、海は津波などで楽で安全に逃れ道ではないのだ。

●地震の巣の半島立地の原発

 志賀原発は、実は無傷ではないことは公表されている。安全だと言えるのではあるまい。初めに少しの情報があったが、その後は何も情報がないのが、かえってオカシイ。
 能登ではもう3年のもわたって群発地震の巣になっているので、今回はその中の最大級が起きたのであり、群発地震がこれで収まるのではなく、更に超最大級が起きないとは誰も言えない。それがフクイチ並みの事故を起さないとは誰も言えない。上の震央の分布図に見るように、次第に志賀原発に近づいているのが不気味だ。

 そんなことを思うと言いたいことがある。これはもしかしたら誰もが言いたいが言ってははならないタブーかもしれぬが、わたしのようなノンインフルエンサーは敢えて言う。
 能登の人々はもはや能登から加賀へとエクソダス、国家的プロジェクトの時である。

 だが、実のところは、わたしがこんなことを言わなくても、この地震を契機として、能登の人々は加賀へと確実に移っていくことだろう。地震が来なくても人口減少が急激に進むのだから、地震と原発がその後押しをするのだ。いや、先導をするという方が正確だ。

 実は2011年震災の時に東北地方の町や村から、仙台へと人々は移るに違いないことを思い考えて、このブログにも書いたことがある。そしてその通りになっている。半島の能登は東北よりもその勢いは絞り出されるように急に進むだろう。

 わたしは2004年に、能登の街や農漁村を5日間にわたって、100キロもの長距離を歩いたことがある。そしてつぶさにその生活圏や植生の有様を眺めたのであった。特に農村の過疎化は目に見えていたから、あれから20年ででさらに進んでいるだろう。農村と漁村と比べて、漁村の方が衰退が遅いように見えた。あの美しい「間垣の里」はどうなっているだろうか。

 あのときに歩いた村里は、この地震で今はどうなっているだろうか。その時にも思ったのだが、地震が起きると地形的に漁山村は孤立が起きることだ。歩いた数日前に集中豪雨があって、寸断された道を歩いたのだったが、その時に痛切に孤立のことを思った。まだマスコミには出ないが、能登でそのような状況にある人々はかなり多いはずだ。
 参照→奥能登100キロウォーク

 地理的に孤立する宿命、地質的には地震の巣、巨大な毒の塊の核発電所、これら内的脅威に加えて、北に隣接する半島や大陸諸国からの外敵脅威もありうるこの能登半島に、どのような明るい未来がありうるのだろうか、とさえ思うのである。

 能登には縁があって七尾には何度も行った、実にいろいろな意味で実に素敵な街だった。古くから「能登はやさしや土までも」と言うと聞いたことがある。だがその土の下の地下から揺すられて、今やその土に裏切られている能登、「能登は厳しや土までも」と言い換えねばなるまい。

(20240104記)

ーーーこのブログの震災関連記事ーーー
・2011年~3/11の記録震災核毒騒動日録
・2004年奥能登100キロウォーク
・2005年~法末集落復興日録
・2000~2006年七尾:能登はやさしや土までも

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2024/01/03

1774【災害日本】ほぼ10年ごとに大地震が発生する日本列島の次はいつ?

●戦災に加えて震災も火災もある新年

 昨年はウクライナからパレスチナへと戦乱が拡大して、困った年のままにくれたが、開けたとたんになんと日本の能登半島あたりで大地震発生である。困った新年出発だ。戦乱は人災であるから何とか止めようがあるかもしれないが、震災は天災がもとだから人間には止めようがない。ひろがるのを防ぐしかない。

正月早々の新聞の第1面は災害記事から開始

 災害は更に続くのだ。次の2日には飛行機が衝突炎上とて、全く世の中に災難の種は尽きない日々である。ところがその飛行機事故は、どうやら能登震災が東京羽田にが飛び火したものらしいのだから困ったものだ。

 衝突炎上して死者5人を出したほうの海上保安庁機は、海上保安庁が能登地震への救援物資などを載せて運ぶものだったという。能登地震が無ければ起きなかった災難である。天災が人災を招いた。海保の死者は気の毒であったが、もう一方の日航機のほうは全員が辛くも逃げだすことができたとのこと。

●災害転倒ビルの風景

輪島市内の転倒ビル ネットで拾った
 災害写真でいつもいくつか目を引くシーンがいくつかあるものだ。今回は輪島
市内の7階建てビルの転倒である。基礎から完全に転げてしまっている。死傷者が出ていることだろう。転倒ビル写真を新聞で見て、これはネットで転倒前の姿を探しだすことができそうだとやってみた。輪島市の中心部をグーグルストリートであちこち動かしていて、見つけた。

上の転倒ビルの転倒前の姿 グーグルストリート
 その周りを見ると、転倒した方向に3階建ての建物がある。高さから見てもろに覆いかぶさる位置である。そこでネットニュースをあちこち見たら、なんとその黒い建物を下敷きにしてしまったとある。まさかということが起きてしまった。反対側とか後方の建物の人たちは口には出せないがホッとしているだろう。

 あれほどきれいに基礎から転んだビルの写真を、2011年の東日本大震災で見た記憶があるので、ネット検索したらあった。ところがこれは輪島のそれと大違いは、横から襲ってきた津波で倒れたのだった。輪島の転倒は地震動のみによるのだろうから、基礎工事の欠陥だろうか、地盤に問題があるのだろうか。1995年の阪神淡路大震災の時は神戸市内を訪れて、たくさんの傾いたりへたり込んだりした建物を見たが、横倒し建物を見ることはなかった。

●地震の名前に元号つける歴史否定感覚

 このたびの能登での地震を、気象庁は「令和6年能登半島地震」と名付けたそうだ。ヤレヤレ、またこの地震も何年前に起きたのか分からなくなるんだねえ、どうして「2024能登半島地震」と名付けないのかねえ。

 そういえば2011年の東日本大震災の時の地震は、なんという名前だったのか、その前の2004年の中越大震災の地震名は?、その前の1995年の阪神淡路大震災の地震名はなんというのかねえ、やっぱり元号が付いているのかしら。そう思って気象庁サイトをみたら「気象庁が名称を定めた気象・地震・火山現象一覧」があった。

 それによると、「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」、「平成16年(2004年)新潟県中越地震」などと言うのが正式らしい。元号和暦にカッコで西暦をつけるのだから、「令和6年(2024年)能登半島地震」と言うのが正式なのだろう(この一覧には載ってない)。長たらしいから西暦だけにしなさいよ。「2024能登地震」にすればよろしい。

●ほぼ10年ごとに大地震発生の日本列島

 この一覧表を見て変なのは、1968年から78年までの8件の地震には西暦だけである。どういうわけか82年から併記に変わっている。このときになにがおきたのか、保守系政治家が気がついて命名ルールを変更させたのかしら。さすがにさかのぼって変えさせることはできなかったらしい。

 さらに変なのは、台風や豪雨などは西暦併記はなくて元号のみであることだ。定見のない気象庁である。とにかく地震や台風に元号をつけて呼ぶ庶民を知らない。元号で有名な地震は貞観地震だけだが、一体何年前のことだろうか。

 そもそも元号だけだと、今から何年前に起きた災害か分からなくなるでしょ、災害の歴史を忘れさせようって政策だろうか。わたしが覚えているのは1995年、2004年、2011年そして2024年の各大地震である。この数字を見るとほぼ10年おきに大地震が起きていることがわかるでしょ。元号では分からないでしょ。天皇制と地震とはなんの関係もないでしょ。

 地球の日本列島あたりはほぼ10年ごとに震えあがっている、だから次は2035年前後に大地震が来ますよ、その頃はわたしはこの世にいないからどうでもいいのだけどね。

(20240103記)

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2024/01/01

1773【コロナ明け寿正月】今年も無料弁当配布に並ぶ長い長い行列が取り巻くドヤ街風景に凍える

  今日は1月1日、年の初めである。それがどうした、なにも変わりないでしょ、単に365日前から見ると地球が太陽を一周したんでしょ、人間ごとき微小なるものがそれに何の関係もないでしょ、そう、わたしは生まれから80数回も経験していると、すっかりすれっからしになって、正月なんて面白くもない。

 と、人間が思っていたら、地震の方はこの日を特別に扱ってくれたらしく、われらが列島があるあたりの地球の一部を揺すって、人間どもを大いに驚かし脅してくれたのだ。これはすれっからしでいられない。なんでも能登半島のあたりで大揺れ震災がおきて、正月どころではない事件になっているらしい。能登半島西岸の志賀町にある核発電所でなにか故障が起きたらしい。怖い

 わたしの住み家はそこから遠く離れた横浜、そこの地上20mの空中陋屋だからユラ~リユラ~リと長周期に長時間揺れているのだ。その間にTVがヒステリックに「津波が来ます~っ、すぐ逃げて~っ」てな感じで叫んでいる画面をついつい見ていた。ずいぶん久しぶりにTVなるものを1時間ぐらいも続けて眺めた。この前に見たTVも東北の津波だったなあ。

 TVを飽きてPCに変えてSNSを見ていると、助けて!と言う投稿がいっぱい出てくる、被災動画も次々と出現してくる。現実のもたらす迫力がありすぎる情報の襲来に、なにもできずにオロオロ見るしかない自分を嫌になってしまい、それも切り、これを書いている。

戦争で明けくれる年を逃れ出で迎える年は震災で明ける

SNS投稿の能登震災実況動画のひとつ

 そんな物騒な正月突入ちょっと前の昼過ぎに、ふらふら出て行った先は、神社初詣でもなければ繁華街初売りの買い物でもなければ観光街で雑踏見物でもなくて、その名も正月らしく?おめでたい「寿町」徘徊であった。

 もちろん普通の人出がある街ではないが、実は正月だけに発生するこの街特有の行列となる大勢の人出があるのだ。今年もあるかしらと確かめに行ったのだ。場所はこの地区の真ん中あたりにある小公園である。

中高層ドヤビルに囲まれた寿公園(赤丸内)

 その公園に近づくと、おお、今年も人が大勢いる、いる。この晴れた寒空の下に黒々と立ち並ぶ。あの行列の後端はどこかと、そちらに回れば、この公園のあるブロックを一回り近くもの長さ約250mもある。およその勘定で500人くらいだろうか、でも今や行列は進んでいるから、始めはもっといたのだろう。

行列最先端

行列最後尾

街区を一周する長い長い行列 左向こうが公園
 
ようやく公園へ 左端が最先端

 ほとんどが男ばかり、女は10人もいただろうか、若い人はいないようだ。モクモクボチボチと列は進み、寿公園にしつらえられた正月特別仕立ての弁当配給所へと行列は吸い込まれていく。2段重ねプラケースに飯とおかず、プラカップの味噌汁、ミカンが袋に入れて配られている。これは去年もその前もその前もあった正月風景だ。

公園に掲げられたスローガン?

センター庇下にたたずむ野宿者

 ここから500mも離れていない先には、有名な観光街の横浜中華街がある。そこは今や一年中の四六時中も人が多いから、コロナ明けの今年の今日は特別多くの観光客が内外から集まって、華やいで騒いでいることだろう。それと比べて、寿町のこの人出の特別さはどうだろう、全く世の中どうなっているのかと思う。今年は中華街に回る気力が湧かない。
2023年正月中華街雑踏賑わい風景 今年はもっとすごいだろう

 実は毎年の正月におめでたい寿詣でをしているのだが、変わってよくなってきているのかしら、貧困の風景は相変わらずのようだ。
(20240101記)

これまでこのブログに載せた寿町の正月風景

・2023/01/05【横浜ご近所正月徘徊】港あたりにタワー群、貧困街で炊き出し、中華街は大混雑 https://datey.blogspot.com/2023/01/1665.html

・2022/01/04【コロナ正月】寿町・中華街・元町・伊勢佐木へ旧横浜パッチワーク都心新春徘徊 https://datey.blogspot.com/2022/01/1604.html

・2019/01/05【初徘徊は寿町に】B級横浜ガイド・寿町・松影町あたり:デラシネ日雇労務者が高齢化定住した貧困ドヤ街 https://datey.blogspot.com/2019/01/1180b.html

・2018/12/19【寿町の繁栄】貧困で超高齢化する日本の縮図のようなこのドヤ街は縮図どころが拡大しているような https://datey.blogspot.com/2018/12/1173.html

・2015/01/05横浜寿町ドヤ街は新築高層ドヤ建築が林立して周辺へも拡大中にて貧困ビジネス繁盛 https://datey.blogspot.com/2015/01/1046.html

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2023/12/31

1772【階段や梯子の最後の段を踏み外す話】太平洋と七百年の時空を超えて響きあう警句

 学生時代からの親友のが、もう半世紀以上もカリフォルニアに住みついている。その頃の山岳部仲間8人で作っている同期会があり、会誌を毎年1回作っている。何を書くか自由であり、いわば、まだ生きている証拠を残すためのようなものである。

2023年の会誌

 2023年12月31日発行日付の今年の会誌に、が書いたエッセイは『「歩くこと」に関する考察』というタイトルである。要するに年とって来て、歩くのが下手になったことを、エンジニアらしくあれこれと自己検証する方法を考え出したという話である。

 その中の一つの項に「階段や梯子の最後の段を踏み外す」との話がある。ちょっと長いが、その要約を載せる。なぜそれをここに載せるかは後で述べる。

ーーーーー引用(一部省略)ーーー

 階段や梯子の最後の段を踏み外すという問題は、かならずしも老人だけに起きる問題ではない。実際、私は二度ほど経験しているけれど、いずれも、不幸中の幸いで、50代60代に起きている。ただ、足を捻挫して1~2週間痛めただけだった。

 日本のプロ野球のある監督が、自分のチームが首位で戦ってきたペナントレースの終わりに近づくも負けに負けが続いたのを見て、「試合は最後に強くプレーせよ」と叱咤激励したとか。これはアメリカのMBA のクラス等で引用されている。

 今から20年も前、頻繁に訪日していた頃、ある床屋で時間つぶしに取り上げた柳生連也斎の文庫本の一節・・・武芸者AとBは、小雨の降る夜の河原にもう小一時間も対峙している。技能は5分と5分。ふっと雨がやみ雲から月が顔をのぞかせた刹那、武芸者Aは目を瞬き、武芸者Bは「しめた!勝った!」と切り込んだ、が、切られたのは武芸者Bであった。勝つ前に勝ったと思ったほんの一瞬に奢りの隙が生じた・・・と書かれてあった。 

 上記の2例は、事が成就する前に成就したと思ってしまう態度の顛末が書かれている。実際、私が梯子の最後を踏み外した時も、暑い日照りの中、家の修理を終え、やれやれと思いながら梯子を降りてきて、最後の一歩での不注意、即ち最後の一歩を完成せずに、仕事は終わったと思ってしまった事が原因して、足を捻挫してしまったのである。不幸中の幸いは、まだ若かったので老人によく起こる複雑骨折を免れたことであろう。 

 武士の時代の真剣勝負の教えが、AI時代の今日にも通用するということらしい。この梯子の例を前述のバランスで考えると、ただボケ~ッと前を見ていただけで、仕事が本当に終わるまで視線ベクトルを安定させていなかったからなのである。(後略)

ーーー引用終わりーーーーー

 は柳生連也斎の時代の昔話を持ち出しているが、わたしは似たような話を読んだ記憶が脳の端っこにひっかかってきた。それは柳生連也斎がいた17世紀後半よりもはるか昔の話だったような、おぼろげな記憶をあれこれ本棚やらネットやら探したら、あった。

 それは有名な「徒然草」(吉田兼好 1283-1350)の中ににあった。徒然草は1330年頃に書かれたとあるから、柳生連也斎よりも350年くらいは昔の話になる。
 「徒然草第百九段」に「高名の木登り」という話がある。その全文を引用する。

ーーーー引用ーーーー

 高名の木登りといひし男、人を掟(おき)てて、高き木に登せて、梢を切らせしに、いと危く見えしほどは言ふ事もなくて、降るる時に、軒長(のきたけ)ばかりに成りて、「あやまちすな。心して降りよ」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候ふ。目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍(はべ)れば、申さず。あやまちは、安き所に成りて、必ず仕(つかまつ)る事に候ふ」と言ふ。

 あやしき下臈(げろう)なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も、難き所を蹴出して後、安く思へば必ず落つと侍るやらん。

ーーーーー引用おわりーーーー

 わたしがここに徒然草を引用したのは、の話の補強になるかもしれないが、まあ、単に老人の記憶を探した思い出話にすぎない。
 だが、700年ほども隔たる超有名な日本古典随筆の一部と、太平洋を隔てるアメリカ人の親友の筆が、時空をはるかに超えて響きあうことを、嬉しがってもいるのだ。ちょっとオーバーだが、。

(20231231記)

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2023/12/29

1771【柿色政治家】そのテーマカラーはかつては非人や囚人の衣装の色だったとご存知かしら

 この数日、検察の特捜部によって、国会議員たちの家宅捜索やら逮捕やらが、立て続けに行われている。今朝の新聞に柿沢とかいうお方の記事がある。このか方は逮捕されたようだが、わたしの興味はそちらではなくて、この新聞記事の見だしにある「柿色」である。
 今回の事件の元になった江東区長選挙で、区長候補応援スタッフが柿色のジャンパーを着ていたというのである。この人たちは柿沢某氏のスタッフであることを意味するらしい。

 衣類と柿色でひょいと思い出したのは、歴史家の網野善彦による『異形の王権』という、もう35年ほども前に読んだ本である。本棚から探し出して読み返した。それによると中世では、柿色の衣をつけていた人々は「非人」(ひにん)と言われていた階層の人たちであったという。
 非人とは何者かとなると話が長くなるから、ここでは詳しくは述べないが、この本は面白い。久しぶりに読ませてくれた柿沢某氏に感謝。

 要するに、言葉のとおりに「人間にあらざる人」ということで、賤民もいれば神につかえる人もいれば、身体障碍者もいるし、乞食や病人もいた。上層部の人々ではないことは確かだが、全部が賤民ではなくて特別な階層にいた人々と言う意味に近いのだろうか。

 そしてずっと後世、19世紀末の近代監獄制度ができたころは、監獄にいる囚人の衣装は柿色であった。逃亡を防ぐためか上から下までかなり派手な赤い色であったようだ。この人々も特別な位置にいる人たちには違いない。

 ネットで柿沢某氏の姿写真を検索すると、柿沢某氏はご自分のテーマカラーを柿色になさっているらしい。柿色の歴史的意味をご存知でそうなさったのか、単に姓との連想でそうなさったのか、どちらだろうか。
 いま、柿沢氏は現代における非人なる階層に転落するのかどうか、かなりきわどい所におられるらしいが、でも自ら柿色衣装になさるのは、まだ早すぎると思う。

 では、柿色とはどんな色なのかと、柿沢某氏ご当人の写真と色見本を並べてみる。柿色よりも少し照柿色に近いか。

 そういえば今思いだしたが、都知事の小池某氏のテーマカラーが緑色であるようだ。もしかして政治家はみんなテーマカラーをお持ちかしら。それならその色の歴史的意味もお考えになっておくほうがよろしいですよ。
 ついでに歌舞伎の定式幕を見ると、黒・・萌葱のストライプである。歴史的想像をすると、ここでの柿色は、たぶん、芝居役者は河原者という非人のひとつであったことを意味するのであろう。

  これ以上書くとわが筆のいい加減さがどんどんバレるので、ここらへんで幕引きにしよう。

(20231229記)

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2023/12/27

1770【マイナンバーカード改名】マイナーカード・まいないカード・個人番号カード・コバカ

  今日(2023年12月27日)のNHK WEB NEWSにこんなことが書いてあることを発見した。


 おお、わたしはこれまでに何度も、「マイナーカード」って変な名前だと散々に馬鹿にしてこのブログに書いてきたら、気が付いたのかどうか知らないが、ついに改名するらしい。

 でもねえ、この7月のNEWSでは、あの出痔垂れガンコ大臣コーノさんでさえも、(たぶん)このネーミングが変なことに気が付いて恥ずかしくて変えたかったのに、官房長官がこんなこと言って変えさせないのだった。
 どうやら、このたび官房長官が交代したので、ようやく改名にとりかかったのかしら。
 なんでもいいから、こんな名前なんてはやく変えてた方がいいよ。名前から連想するのが「マイナーカード」ってのも変だけど、「まいないカード」とも連想させられるので、なおさらオカシイ。
 政府発行の重要なカードを賂(まいない)に使えるのかしら、政府に言わせると行政手続きが何でも便利になるそうだから、そうかもしれないとも思う。どうしてそんな愛称にしたのか、言語感覚を疑っているのだ(ねんのため解説:「まいない」とは賄賂のこと)。

 ついでに言えば、変えないと言った前官房長官は、いま大評判の安倍派裏金というネコババ主犯のひとり、見ようによってはあれは「まいない」のような気もする。銀行カードと紐付けするなら、賂も便利になるさ、いや、ばれやすいか、。。
 「紐付け」も金融業界の隠語らしく、わたしはこの歳まで知らなかった言葉だ。とりあえず持ち合わせのカード類をひもで結んでおいた。リンクと言いなさいよ。
紐づけたカード類

 もっとも、改名じゃなくて、法律に言う正式名称「個人番号カード」に戻すってのもあるでしょ、それを縮めて「個番カード」、更に縮めて「コバカ」っていかがかな?、コーノ出痔垂れ大臣は質問者に対してよく人をコバカにする態度の発言をするから、ちょうどお似合いでしょ。

 わたしがこのブログにこれまでに書いたマイナーカード悪口雑言一覧。

・2023/12/22●1767【健康保険証消滅】めったに医者にかからぬし近いうちそれも不要になるから平気だな https://datey.blogspot.com/2023/12/1767.html

・2023/06/21●1692【紐づける】マイナーカードではなぜ「リンク」と言わず「紐づけ」と言うのか? https://datey.blogspot.com/2023/06/1692link.html

・2022/10/21●1651【背番号カード】マイナーな庶民がマイナーなポイントに釣られて作るマイナーカード https://datey.blogspot.com/2022/10/1551.html

・2020/06/10●1468【コロナ用語爺典その2:ひもづけ】個人番号カードと預貯金口座をひもづけて「ひもつき給付金」かよ https://datey.blogspot.com/2020/06/1468.html

(20231227記)

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