2010/09/28

321【東京風景】六本木から神谷町へ

  今年の夏はあまりに暑くて、徘徊老人をやることができなかった。机上のPCに向ってばかりいたのだが、どうも運動不足の上、姿勢が悪かったらしい。ちょっと腰をひねると、イタッとなるぎっくり腰もどきである。正しい姿勢で徘徊運動再開が望ましい。
さて、猛暑から突然の晩秋である。出歩くには絶好である。小雨のなかを六本木から神谷町まで、ぶらぶら徘徊した。
   ◆
 地下鉄六本木駅から久しぶりに六本木交差点に出た。防衛庁跡地の「東京ミッドスクエア」開発を見る。この前は一昨年だったろうか、まだ工事中であったが、すっかりできあがっている。
 超高層建築はなんだかつまらないデザインである。「ガレリア」なるサントリー美術館が移ってきた大きな吹き抜けのも、今時では陳腐なものである。
 外は開発緑地と檜町公園(既存改修)とが連続していて大きな都市のオープンスペースとなっているのが、なかなか良い。
 その開発緑地の隅っこに、平屋で横長の三角屋根が見える。「21‐21design site」なる美術館であるらしい。安藤忠雄の設計であるから例によって遺跡、割り込みデザインである。
 入ってみると、現代アート見世物展覧会であった。佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と認めざるを得ない”展」だそうである。大勢の若い男女が、コンピューター仕掛けの見世物に嬉々としていた。このような見世物アートは好きだが、仕掛けが見え見えなのがちょっと気にいらない。
    ◆
 六本木から檜町公園下までずいぶんレベル差がある。このあたりは全く起伏の激しい土地である。東京だからこんなに斜面でも何でも建物を建てているが、田舎なら森の丘陵と入り組んだ谷に水が流れる地である。
 檜町公園の下、赤坂中学よりに、屋敷の林の中にずいぶん古そうな廃屋寸前に見える木造家屋がある。一昨年にきたときもあったが、今度も健在であった。ミッドタウンの超高層との取り合いが面白い。
 昔々、なにかの用事で六本木駅から防衛庁の横の細い道を下って、赤坂秀和レジデンスに行ったことがあったことを思い出した。あの寂しいところがこんなになったのか。
    ◆
 氷川神社を経て六本木二丁目方面に移動する。氷川神社の森はここが東京の真ん中かと思わせる。山王日枝神社みたいにこの空中権を移転して開発するって話がありそうなものだが、どうなのだろうか。
 一山超えてアークヒルズの近くまで来る。アメリカ大使館の下にある神社境内から見る超高層群も、鳥居と取り合わせるとなんだか妙なものである。
 首都高の谷町ジャンクションに来る。ここは三角の交差点が三角の高速道路に囲まれ、下には駐車場などで、上も下も環境も景観も悪い、全くもって雑駁きわまる空間である。アークヒルズが都市空間をあれだけ一生懸命につくっても、この交差点のあまりのひどさに帳消しになってしまう。
 森ビルの開発の手は、アークヒルズの周りに伸びているが、すぐ南の二つの寺はまだ手がついていないらしい。道源寺の昔なりの墓地と本堂、庫裏が健在である。墓石、石仏と超高層との取り合わせはなかなかよろしい。

 また一山超えて神谷町にやってくる。
 オヤ、「虎ノ門パストラル」(農林年金会館)を取り壊している。新館のほうはけっこう新しいはずだったが、もう壊すのか。超高層のオフィスや共同住宅に変るのだろうが、なんだかもったいないような気がする。ここの会議室はけっこう使ったことがあるから、特にそう思う。
 愛宕山の西側にやって来ると、木造家屋が立ち並ぶ一角がある。ここは日本都市計画家協会への通勤でよく通っていたから、山の東側に建つ超高層との取り合わせを楽しんでいたが、まだその風景は健在であった。
 虎ノ門三丁目のあたりは、広く工事用の塀で囲って、建っていた建物がすっかりなくなっていた。環状2号道路の建設が始まったのだ。
 それにしてもこのあたりは建物が立ち並んでいて、いつも見慣れた風景であったのに、なくなってみると何があったかほとんど思い出せないのが、不思議である。

2010/09/22

320【法末の四季】今年の稲刈り

中越の棚田の山村・法末での米つくりは4年目に入った。先日、今年の稲刈りをしてきた。日照りで水不足と聞いていたが、実際はよく実っていた。棚田の場所によっては水不足もあったらしいが、わたしたちの田は大丈夫であった。
 3枚の棚田のうち、初日の午前中に下の一枚を3人で刈り取った。バインダーなる機械を使ったから、3人でも効率が上がった。
 後からやってきた7人を加えて10人で、その日の午後と次の日の午前中ですべて刈り取り、ハサ掛けを終えた。2週間後に脱穀である。
   ◆
 集落では超高齢化が進んで、農作業から離れていく人たちがボツボツと出てくる。
 わたしたちの仲間は、今年はこれまでところに加えて更に2枚の棚田をつくった。この棚田は、去年までは元気であった長老格の人のものだが、体調が悪くて仲間が米つくり支援を引き受けた。これは仲間の一人ががんばって刈り取った。
 ほかにも米つくりを撤退しようかという人もいるそうだ。現実に耕作されていない棚田があちこちに出現している。
 まだ元気だが近くの街に引っ越して行き、こちらの家は農作業用にしている通勤農業の人もいる。あるいは高齢の親を支援して、近くに住む息子夫婦が農作業にかよってくる例も多い。
   ◆
 80人いるかどうかの集落だが、毎年1~2人の死者が出る。入ってくる人はいない。
 この冬は自死者があったそうだ。この男性は首都圏のある都市からこちらに10年位前にやってきた。年金生活者のようであったが、モダンな家を建てて、山野草や盆栽が趣味であった。
 いちど訪ねてその沢山の鉢植えを見せてもらったことがある。解説を聴いたがこちらにその趣味がないのでよく分からない。周りの山の中から珍しい品種を採集して育てるのだそうである。なるほど、こういう趣味でここに住むのは、それなりに目的に適うものであると知った。
 そんな積極的な生き方をしているように見えた人だったのに、この冬、山中の深い雪の中で遺体が見つかり、覚悟の自死であったという。
 それ以上の詳しいことは知らないが、考えようでは、この山里を死に場所として選んだのかもしれない。生きがいのある場所でもあったが、死にがいのある場所でもあったのだろうとも思う。
 この「死にがいのある場所」とは、なかなかに深い含蓄があると思うのだ。
 自分の終焉の場を自分で選ぶのは、実際は難しい。美しい山野があり、清くて深い雪のあるこの地を選んだその人の気持ちが、おぼろげながら分かるような気がする。

2010/09/21

319【東京風景】変りゆく東京駅八重洲口の風景も面白い

 去年のはじめに東京駅の八重洲口に行ったら、巨大な真っ白な壁が出現していて驚いた。大丸取り壊し工事のための囲いである。この白い壁の架かる前は、ビルの黒いガラスのカーテンウォールであった。
 ごたごたした八重洲駅前に、幅200m、高さ50mくらいの真っ白な壁が立ちあがるのは、クリストのアートかと思わせるようなシュールリアリズムの光景であった。ただ真っ白で、いまどき流行の広告もなくて、潔かった。

    ◆
 先日久しぶりに八重洲通りから東京駅を眺めたたら、白い壁は下のほうに一部だけになっていて、丸の内側の高層ビルがいくつも見える。
 このビルを壊した跡は低層の建物を建てるらしい。新しい八重洲側の顔になるだろうが、上空に見える新丸ビルと丸ビルの超高層風景は、なんだか正面性がなくて中途半端にごたごたしている。
 それは八重洲通りと丸の内の駅前通り(通称・行幸通り)とが、軸がずれているからだ。八重洲側から見ると半端に正面に立つ新丸ビルの、これまた半端なデザインが気になる。
 丸の内側のビルの建築家は、八重洲から見える景観を考えて丸の内のビルを設計すべきところを、多分、忘れていたのだろう。
 同様に今後は、八重洲・京橋側の建築のデザインは、丸の内から見通す景観を考えて設計しなければならない。
   ◆
 八重洲口から東京駅に入るには、この工事中のごたごたしたところを通り抜けなければならない。
 そこを歩いていてふと思い出したのは、あれは1954年だったと思うが、修学旅行で東京に行き従姉にあったときが、まさにこんな工事中の東京駅であった。ごたごたした駅を通り抜けるときに、いま駅ビルを工事中なのだと教えてくれて、どこかのレストランでエビフライをご馳走してもらった。
 そのときは、いま壊しつつある駅ビルが完成間近の建設中であったのだ。あれから55年でビルは命を終えた。
 わたしより後から生まれてきたあんな巨大で頑丈なものが、わたしよりも先に消えるなんて、なんだかこちらが長生きしすぎているように思えてくる。

参照
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2010/09/16

318【老い行く自分】目も耳も人の縁も遠くなるばかりだなあ

 年取るとオシッコは近くなるが、逆にいろいろと遠くなることが起きる。目と耳がいちばん典型的である。縁も遠くなる人が増えてくる。
 わたしはまだ耳も目も、まだ遠くはなっていないと思っているが、それはこちらが勝手にそう思っているだけかもしれない。
 ただ、聞くのがめんどくさくなることが多くなった。話し相手でも会議での発言者でも、小さな声でぼそぼそしゃべるのは、もう聞かないことにしている。耳をそばだてるのが疲れるからである。
 居酒屋のガヤガヤのなかでも、若いときはしっかりと聞いたりしゃべったりしても、特にどうってことなかったが、今はどうせそんなところでの話だから真剣でなくてもいいやと、聞く努力をしないのである。聞こえる音をただ音として聞いているだけ。これが老人のボンヤリ姿になるのであろう。
 これは多分、同時に聞こえるほかの雑音との聞き分け能力、脳内仕分け能力が老化減退しているのだろう。
 勝手ツンボは、まだ芸がなくて、できない。
    ◆
 目が遠くなるのはまだ来ないが、乱視近視遠視(目が遠いと遠視とは違う)は進むようだ。若いときは変な姿勢で本を読んでも平気だったが、いまは寝転んで読書はちょっとつらい。目がチカチカ、腕がくたびれる。
 ただ、目が遠いフリをしておいたほうがよいように思う。なにしろ、人様の顔と名前を覚えるのが不得意のうえに老化が進んで、最近会った人も忘れる。次に会って向うから挨拶されても、忘れたのじゃなくて目が遠くて分からなかったと、すり抜けるのである。

2010/09/15

317【くたばれマンション】衣のファストフード、食のファストファッション、そして住のファストハウス、ファストマンション

 衣食足って礼節を知る、と、昔の人は言った。
 一般に衣食住と3つを並べていうけど、なぜ住はなくても礼節を知ることができるのか?
 食は足りすぎた先にファストフードとかジャンクフードとか、立ち食い屋みたいなどうにも礼節のない輩が登場している。

 では衣はどうか。最近はユニシロとかでてきて、それを真似するて安売り衣料屋が流行るとかで、それらをファストファッションというそうだ。
 ファストフードもファストファッションもそれなりに美味いものもあり、格好も良いものもあるのが、なんだか癪に障るが、戦後半世紀以上経って衣食はようやくそこまで来たってことである。

 で、残りの住はどうか。ファストハウスとかファストマンションとか、そんなものがあるのだろうか。夜な夜な立ちあがるダンボールハウスのことか。
 住だけは安くて品が良いってファスト段階にはいまだに及ばなくて、高くて品が悪い名ばかりマンションがはびこっている。衣でいえばプレタポルテ時代だな、食で言えばいまだに代用食時代だな。

2010/09/09

316【都市・地域、くたばれマンション】首都圏の住みたい街アンケート回答御三家は吉祥寺・自由が丘・横浜だって?

 マンション販売屋の大手8社が調査した、首都圏での住みたい街アンケートが発表されている。http://www.major7.net/contents/trendlabo/research/vol013/
 2005年から2010年までのランキングを見ると、毎年ベストテンに登場しているのは、吉祥寺、自由が丘、横浜が毎度のトップ御三家である。そのほかは二子玉川、恵比寿、広尾、鎌倉が毎回登場している。ふ~ん、そういうものなのか。
 マンション屋のアンケート調査だから、共同住宅を買って住みたい街はどこかという問いであり、一戸建て住宅や賃貸住宅は回答の対象ではないであろうことを前提に考えなければならない。
    ◆
 この中で横浜と鎌倉はほかと比べてエリアが広すぎるけれど、多分、共同住宅が多く建つところでそれなりに地域イメージがあるのは、横浜ならば関内あたり、鎌倉ならば旧鎌倉の市街地を言っているのであろう。
 東京では下町はでてこないし、千葉方面もない。ベスト20くらいまで入れると、豊洲や浦安が出てくる。
 川崎は、武蔵小杉だけが登場する。最近になって、大希望工場跡地ににょきにょきと超高層共同住宅群が登場した。マンション屋としてはイメージ作戦で武蔵小杉をベストテンに入れさせたかったのであろう。でも、あの街のどこがよいのかしら。環境とか景観よりも、比較的交通便利で比較的安価が理由であろう。
    ◆
 吉祥寺と自由が丘が毎年トップを争っているが、どちらもわたしには縁が深い町である。
 自由が丘は大学時代は遊ぶ街であったし、家庭教師アルバイトの街であった。その後も日吉に住んで通勤の行き帰りに何かと縁がある。いまでもたまに昔からの飲み屋に行く。あんなゴチャゴチャしたところが、どうして住みたい街なのかしらと首を傾げたくなる。
 吉祥寺は1970年代に、まちづくりに通っていた街である。その伊勢丹ができてからがらりと変わった。まあ、住みたくなるような街を作ったひとりかもしれないとも思う。でも、東京でトップになるってのがよく分からない。
 二子玉川は、学生のころは山岳部トレーニングでマラソンしてよく行った。その後は幼い息子をつれて遊園地に行った。あのあたりは上野毛からの台地にお屋敷があって、庶民が住みたいと思うようなところではなかった。それが高島屋のショッピングセンターができてから、ガラリと雰囲気が変わった。いまは遊園地であったところに超高層マンションが建ちつつあるらしい。
 恵比寿も昔はどうってこともないところだった。大きなビール工場があり、あたりは起伏の多いゴチャゴチャとした住宅街であった。ビール工場の跡地開発が街のイメージをがらりと変えた。
    ◆
ここまでを見て、自由が丘だけがずいぶん違うことに気がついた(横浜と鎌倉は別格)。どこも何か大規模な開発があってガラリと転換して行ったのだが、自由が丘は特にそのようなこともなく、狭い道のままに、じわじわと住宅街に商業が滲み出しつつ、なんとなく賑わいが出てきた街である。駅前の姿なんてわたしの学生時代と大差がない。ちょっと妙な街である。
 鎌倉は四半世紀住んだところ(ただし共同住宅でない戸建住宅)、横浜の関内の隣の関外に現在は住んでいる(ただしマンションではない賃借共同住宅)。東京の吉祥寺や自由が丘には住めなかったが、わたしもまあまあのミーハー居住地選択だった。そうだ、学生時代には自由が丘の隣の緑ヶ丘に住んでいたぞ、大学の中の寮だけど。
●参照→251百貨店時代の終わり

2010/09/08

315【各地の風景】浅草寺の門前町に今じゃあ建築という見世物小屋も建つんだな

 建築は見世物である。最近そう思うと、いろいろなことが分かるようになった。
 建築家は、自分のことをもちろん建築家というし、設計するものはもちろん建築と言うが、同時に「作品」とも言う。
 つまり、画家とか作家とかに肩を並べて「家」をつけたがるし、設計したものは絵画や小説と同じに芸術品でありたいらしい。
 ところが世間ではそうは言っていないのである。「建物」をつくる「設計士」である。街の不動産屋さんは「物件」という。どちらも「物」である。設計士と言うと、弁護士と肩を並べているようだが、どうも庭師とか指物師のような職人に聞こえる。
    ◆
 ヨーロッパに初めて行ったのは、もう40年も前だった。都市の観光コースには必ず地元のガイドが乗ってきて、ひととおりの説明をする。
 こちらは建築史の出だから、都市によっては世界的に有名な建築があって、写真で知っている現物に出会って驚き、喜ぶこともしばしばある。
 そのような建物の説明は現地ガイドはその設計者も入れて説明する。こちらは知っているから、ああ、あの建築家の名前を言っていると、外国語でもある程度は分かる。
 ところが、これを日本人通訳が翻訳すると、必ずといってよいほど建築家の名前を言わないのである。それは多分、怠慢ではなくて、建物ごとになんで設計した人の名を言うのか、そのこと自体が理解できていないからであろうと思った。それが悪いといっているのではない。日本はそういう文化なのだ。
    ◆
 日本の観光名所に行って美しい建築があると、パンフレットなどに説明書きがある。そこには必ずといって良いほど設計者の名前があることはない。広さが広いとか、こんなに昔に建ったとか、柱が太いとか、欄間が精巧であるとか。だれそれという有名人が住んでいたとか、ようするに不動産の物件説明よりましな程度の見世物としての説明である。
 東京駅を今、昔の姿に戻す工事をしている。1945年に戦災で焼けた3階から上を復原するのだという。わたしに言わせると、戦災から復興したときから今までの姿こそが、戦争とその復興を記念する姿だから、昔の姿に戻すべきでないと思うのだ。

 ところが世間では、JR東日本はすごい、500億円もかけて、昔の姿に戻すとはえらい、コピーであろうとレプリカであろうと早く明治(実は大正だが)の栄光の姿を見てみたいものだ、なんて、もてはやすばかりである。
 単なる見世物として期待をするのである。ディズニーランドと同じである。

 さて、建築見世物論を十分に堪能させる建物が建ちつつある。東京は浅草の観音様の雷門、その道の向かいに建築中の「浅草観光センター」である。
 なんでも去年、台東区主催で建築デザインコンペをして、一等賞は隈研吾さんだったとかで、さて地元説明会も終えて着工したろころで、地元からクレームがついた。
 それが浅草寺と地元商店街からだそうだ。審査員には地元商業界代表もいたし、もう決まって半年以上たつのに、どうしたことか。
 WEBサイトを探すと、それらしい区議会への陳情書があり、「雷門を起点とする浅草寺境内の宗教的聖域性に調和しない同センターの高さなどの空間的実感について、地域住民および関係者の要望を反映して現行案を縮小するように変更していただきたく存じます」と再考を求めている。
 マスメディアの報道なども読むと、どうもデザインがどうとかではなくて、雷門が日陰になるのが嫌だという浅草寺の強硬なる意向に、観音様で食わせてもらっている商店街が同調したようである。
    ◆
 さて、そのコンペ当選案を台東区のサイトで見たら、なんともはや、これこそ神社仏閣の祭りのときににわかに登場して祭が終わると消えさる、あの懐かしい見世物の掛け小屋のデザインである。筵の掛け小屋が立体的に積みあがっているのだ。
 そのザンシンさに噴き出してしまった。さすがにあのバブル時代に名を成した隈さんである。これは21世紀の浅草凌雲閣である。あの関東大震災でもろくも折れた浅草十二階がこんな形で戻ってきたのだ。
 浅草寺のクレームは、高さだけに対するもので、デザインにではないらしい。その見世物小屋デザインは「宗教的聖域性」にはマッチしていると思っておいでなのであろう。そこのところが、まことに興味深い。
 コンペでは2等賞は乾久美子さんだったが、この案もなかなかに門前町らしい賑わいに富んだ見世物デザインである。わたしとしては隈案よりもこちらのほうが好きである。
 いずれも、なんでもありの日本の門前町の景観を、建築という見世物にして見せてくれている。
 といことで、こんなのが家の近くに建ったら、とてもじゃないがたまらないけど、浅草には見世物小屋がよく似合う。あ、そうそう、川向こうにある空飛ぶ黄金色のウンコも浅草によく似合う。

2010/09/07

314【横浜ご近所探検】日の出町から伊勢佐木町へ

市立図書館にぶらぶらと歩いて通う。図書館近くの日之出町界隈はどこか戦後の下世話な雰囲気がある。
「ストリップ浜劇」が幹線道路に面して建っている。その向かいには「光音座 神奈川で唯一のゲイムービー(成人向け)」と看板のある映画館もある。
 図書館の近くでは風俗営業は禁止であるはずだが、図書館のほうが後からできたのだろう。

 大岡川を渡ったところのビルの谷間に、2階建て瓦屋根の煉瓦造の蔵がひっそりっ建っている。1945年の戦災の焼け残りであろうが、寂しそうながらけなげである。
 もうすこし伊勢佐木町よりに、全身が緑のツタにおおわれていて、何階建てか分からないビルがある。もこももとした姿が、ドーモ君にソックリである。今ならエコビルといわれるのか。でも窓まで塞いで暗いから電気代がかえってかかるかも知れない。

 更に進んで伊勢佐木町になると真っ赤で巨大な蟹がビルの壁に張り付いて、眼、爪、脚を振りたてている。どこか大阪的などぎついユーモラスさがある。
 大阪と書いたが、この「かに道楽」創始者は、たしか但馬の城之崎あたりの出身であったと覚えている。昔々その人に会ったことがある。そうだ、思い出した、日和山観光の今津さんといった。エネルギッシュな人であった。
 ぶらぶら徘徊していると、いろいろと興味をそそられる物件がある。

2010/09/05

313【言葉の酔時記】ヘンな「させていただく」の大流行

これほどまでになっているのかと、驚いた。2010年9月4日の朝日新聞(Be on Sunday)にあるアンケート結果である。
「させていただきます」がヘンであるか、ヘンでないか4202人の読者に聞いたところ、変だ54%、変でない45%だというのである。
 おおそうか、これほどにも「させていただく」が、変でない言葉として普及しているのか。

 世の中の言葉はこうやって、正反対の方向に変わっていくのだろうか。
 とにかくわたしは「させていただきます」を聞くと、背筋がムズムズするので、できるだけ聞きたくない。珍妙な遣い方だとふきだしてしまう。
 アンケート回答にもその例があり、不動産屋にこのあたりの道は渋滞するかと聞いたら、「朝はかなり渋滞させていただきます」と答えたという。読んで吹きだした。

 ある会社に電話をして知人につないでもらおうとしたら、本日お休みをいただいておりますとか、お休みさせていただいておりますなんて答えがあった。
 ほかでも一度ならずそれがある。おいおい、おれは休ませろなんて言った覚えはないぞといいたくなる。

 もちろん使って良いときもあるのだが、ほとんど正しい使い方であることはないのが原状だ.。これほどの割合で正しいと信じている人がいるとはねえ。

(追記)9月6日朝刊に小澤征二さんが「ひとこと謝らせていただきます」といったとある。腰痛で予定していた指揮ができなくなった音楽会でのこと。
 小澤さんはわたしと同じ年齢であるはずだ。う~む、困ったもんだ。間違って遣ったのでないとすれば、謝れといった人がいたのであろう。
   ◆
 この言葉については既に別に書いているが、ここに全文掲載しておく。

●イチャモンコラム8月号●させていただきたくない
 「作業スタッフ4~5名で伺わせていただきまして、お部屋の中からお部屋の中までお運びさせていただきまして、インターネット割引をさせていただきまして、できるだけお勉強させていただきたいもので、上司に交渉させて いただきましたところ、100,000~120,000円(税別・保険代(1,000円))まで、何とかOKを、取らせていただいたのですけれども・・・」(原文のまま)

 これは最近、引越し見積もりをインターネットで取ったら、ある業者からの返答メイルの一部である。オオ、6回も「させいてたただく」の大インフレ。全文この調子で、目が引っかかってチカチカイライラする。

 この10年くらいだろうか、「させていただき」大流行、挨拶なんぞで舌を噛みながら言っているやつもいる。
 元来「させていただく」の意味するところは、「あなた様のご意思に従ってそのようにいたします」という謙譲言葉とわたしは解釈しているので、こちらがそうは思っていないのに勝手にそう思わせられては困るし、腹も立つのである。

 「お疲れさま」とか「ご苦労さま」とか、若いやつから言われるとムカッとする。
 言うほうは無邪気なもんだろうが、元来はねぎらいの言葉は上から下に言うものである。お前にねぎらわれるほどもうろくしてないよ。

 居酒屋で注文すると「それでいいですか?」、ムカッ、そんな安物注文で悪かったよなあ、俺はそれいいから注文したんだっ。

 電車で「お忘れ物ございませんようにご注意を、、」と放送、おいおい、車掌の荷物までオレが知るかよー、「ございます」は自分のことに使うもんだよー、・・なさいませんようにって言え。

 故障の時など「ご迷惑をおかけしました」といって、それでおしまいの放送がよくある。迷惑かけた認識はあるらしいが、だからといって「お詫びします」とは言わないから、詫びないのである。

 この暑いときに、どうか日常語くらいは、いらいらさせていただきたくないものである。年とると骨が折れることが多くなるもんだなあ。(020722) 

2010/09/01

312【横浜都計審】市民委員退任にあたっての反省記

 役人や大組織の人事異動のときの挨拶の言葉として、他に出て行く人は「大過なく無事に務めることができてありがとう」という。
 これに対して入ってくる人は「図らずも任じられて来ましたがよろしく」という。

 わたしが横浜市都市計画審議会委員を、2008年11月からやって今年の7月で任期を終えた。
 これに関して挨拶するとしたら、「図って任じられましたが、大過なく無事に務めて残念でした」ということになる。
 公募に自分で応募したのだから、図ったのである。

 大過なく無事で残念とは、あれだけ毎回がんばっても、毎回わたしの意見は通らずに、審議会は毎回何事も無く終わったということである。
 7回の審議会に一度の欠席もせず、毎回事前調査を現地や市役所で行い、毎回議案の問題点を指摘する意見を映像資料を使って発表し、終わると毎回の状況をその都度「まちもり通信」に掲載してきた。
 これを愚直といわずしてなんであろう。

 マドンナという議題を一生懸命追いかけて、自分では口説いているつもりが、結局は相手にされない。
 そして次の審議会という旅にでて、またしょう懲りもなく次の議題というマドンナを口説くが結果は同じ。まったくもってフーテンの寅さんの気持ちがよくわかった。
 あるいは風車に立ち向かうドンキホーテであったかもしれない。

 終わって反省と立腹とがあるので、一応のまとめをしておいたので、お暇な方はお読みください。
 
参照⇒あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている2013:横浜都計審の実態(要約版)

2010/08/31

311【くたばれ乗用車】ドケドケッてお顔の自動車

 自動車には興味がない。ただし、ジャマだという意味では大いに興味がある。
駐車場を通り抜けていて、ふと気がついた。なんだか睨みつける沢山の視線を感じるのだ。
 わかった、並んでいる乗用車の人相(車相か)がドレもこれも、典型的な悪人とか意地悪な面構えなのである。
 オラオラ、ボケッとあるってんじゃね~よ、ドカねーか。
 このド太いでっかいバンパーが見えねーのかよ、撥ねっ飛ばすぞー。
 奈良美智の作品に出てくる例の意地悪顔ソックリのものもある。でっかいグリルでっかい電球目玉で、真っ赤に塗ると祭りに出てくる唐獅子面ソックリの奴もいる。真っ黒でダースベーダーな奴もいる。
 昔オーストラリアのリゾートにいったときに(調査にね)、あまりに太くてでっかい頑丈なバンパーをつけている車ばかりなので聞いたら、カンガルーが突然飛び出すからだそうだ。アチラのほうがでかくて、車が壊れるので対策だそうだ。
 日本では、いまや歩行人間がカンガルーなみに扱われるようになった。
 自動車デザイナーというか自動車メーカーの思想がよく分かる。

2010/08/28

310【本づくり趣味】手製本「まちもり叢書」第3号と4号を発行

本作り趣味を始めて、第3号と第4号の著書を作った。
 第1号は「父の十五年戦争」(発行部数11部)である。父が兵役についた満州事変、日中戦争、太平洋戦争の時に書いた手記である。
 
 第2号は「横浜B級観光ガイドブック・関外編」(同6部)。関外地区のことをあれこれ書いている。
 このガイドブックは、表紙をデザインしてくれた友人に3冊、そのほかの友人2人に1冊ずつ、息子に一冊で、今日までに合計発行部数は6冊である。

 今度の第3号は「波羅立ち猜時記」なるイチャモンエッセイ集で、堂々の120ページである。背に文字が入る。これは友人3名に居酒屋で押し付けた。今のところ発行部数3部である。

 つづく第4号は「あなたの街の都市計画はこんな会議が決めている」というのである。
 2008年11月から今年7月まで横浜都市計画審議会で公募市民委員を務めたので、その全7回の会議のドキュメンタリー報告である。これも堂々の112ページ。
 これは発行部数2冊、都市計画審議会の会議のための下調べなどで協力してくれた友人2人に送った。

 オンデマンド出版である。もっとも、デマンドはどこからもないので、デマ運動出版の押し付け発送である。
 だれかに送りつけようと思いついたら、その都度、内職みたいに机上作業をやる。何冊もやってくるとそれなりに手際がよくなってくる。
 いまのところホッチキス中綴じ製本だが、いつになったら糸でとじて、花きれもつけ、ハードカバーで、革装の豪華本を制作することができるだろうか。

●関連→306手製本2種

2010/08/23

309【歴史・文化】映画「キャタピラー」と「氷雪の門」を見た

 近所の映画館ジャックアンドベティで、二つの映画を見た。
 ひとつは話題の新作「キャタピラー」、もうひとつは1974年の旧作「氷雪の門」リバイバルである。11時半から15時半まで、続けざまに見て疲れてしまった。
 ここでは俳優や映画制作については、知識がないから語らない。
 二つとも反戦映画という分類はなるだろうが、36年という時間のギャップが見えて、そこが面白かった。
 簡単に言えば、「氷雪の門」が一方的な被害者として戦争を語るのに対して、「キャタピラー」では加害者としての戦争も語るのである。これははたして時代の思潮の差なのだろうか。
   ◆
 映画「氷雪の門」を制作した頃は、ベトナム戦争の末期に当り、加害のアメリカ、被害のアジアという図式があった。それをサハリンに置き換えたのだろうか。
 あるいは、加害のアメリカ、被害の沖縄という図式の、サハリン版であったのだろうか。映画「ひめゆりの塔」(1953年)を連想する。
 氷雪の門では、加害者としての日本は全く登場しない。日ソ不可侵条約を一方的に廃棄して、日本が敗戦降伏後も戦いを挑んで、多くの死者を出したソ連を糾弾している。
 それはそれで事実であろう。だが同時に「キャタピラー」を見てしまったものには、あまりに安易なストーリーに見えてくる。
 なぜ今、リバイバル上映になったのか、そこが分からない。
   ◆
 サハリンの歴史は複雑である。歴史的に大昔からロシアと日本の共有の形であったが、互いに自国領土としていたようである。
 いさかいもありながら共有してやってきたのだが、そのけりを正式につけたのが、1857年の「樺太・千島交換条約」の締結であった。日本は樺太島の領有権を完全に放棄して全島がロシア領となったときである。
 この制度的に明快に落着した状況が破綻したのは、1904年に始まった日露戦争で、日本軍は樺太に上陸して占拠した。1905年日露戦争は日本の勝利となり、ポーツマス条約で樺太の南半分が、ロシアから日本へ割譲された。
 その後、日本はこの地に植民して開発してゆく。大勢の朝鮮人の徴用があって、その問題は今に尾を引いている。ここには植民地としての加害の歴史がある。もっとも日本の制度としては、朝鮮や台湾と違って本土の一部と決めたので、形式上は植民地ではないとしてるらしい。
 ロシアにとって見れば、条約で正式に領土となったものを、その後の日露戦争でむしりとられたとしていただろう。現代のいわゆる北方領土問題は、その延長上にある。
   ◆
「氷雪の門」に登場する若い女性が、わたしはここで生まれて育ったのだからここで死にたい、という。
 そこに植民地の深層にいたる問題があるのだが、映画ではそうは語られない。故郷を奪われる悲哀のみである。
 日本からの満州への植民で、現地の農民が追われたような加害は、サハリンではなかったのだろうか。歴史的にロシア、朝鮮、日本からこの島に人々が住み着いていたのだから、日本領となったときに何かがあったに違いない。
 1974年の公開当時に、ソ連がこの映画に不快感を示して、当時の日本映画会社とソ連との合作映画制作とからんで、全国上映が円滑にできなかったという。この映画がフィルム配給制度を押さえている日本の大手映画会社の制作でなかった為である。
 ソ連の不快感は、この映画を見れば単純によく分かるが、この島のソ連と日本の間の歴史的ななにかを見つめることも必要であろうと思う。
   ◆
 さて「キャタピラー」である。性的な場面で話題のようだが、それは女性の俳優に気の毒である。
 手足を戦場でもがれて芋虫(キャタピラー)となって帰還した男との性行為は、男の中国戦場での強姦という加害と関連あるために必要であるが、それは特に芋虫男である必然性はなかっただろう。映画として猟奇性の話題であろうか。
 この加害の場面は、「氷雪の門」で上陸してきたソ連兵の、市民への無差別殺戮と同じである。
 閉鎖的な農村の日常から針穴のような視界で、あるいは茅葺屋根の農家の座敷の茅の中から、日本の戦争を見渡すというこの映画の手法は、なかなかよくできている。ニュース映画の引用の戦場とのギャップが深い。
 いっぽうの「氷雪の門」は、戦争の大局的な視界の中のひとつの悲劇の場面として描かれる。これが映画としては普通の描き方だろうが、「キャタピラー」のひとひねり、ふたひねりにはとても敵わない。
 皮肉にも、前者がかなりの制作費らしいのと比べて、後者はかなり安かったように見える。
 性と食の同じような執拗なるくり返し場面が、徐々に変化していく作り方が面白かった。それにひきかえ、茅葺農家の点在する棚田の村の風景は、全く変らない。
   ◆
 わたしが気になった登場人物は、「あいつは戦争があるごとに気が触れる」といわれている、赤い着物の中年男である。
 この赤い着物は、芋虫男の軍服の対照として描かれている。どちらが狂気か、どちらも狂気か。
 このキャラクターは狂言まわし役であろうと期待していたが、それほどのこともなかった。もう少し、なにかをやらせることで、狂気と正気との逆転世界をあぶりだして見せてほしかった。
 敗戦となった日、赤い着物から着替えて白ワイシャツと黒ズボンで出てきて、バンザイと叫ぶのも、分かり易すぎてちょっと安易であった。もうひとひねりほしい。
 キャタピラーとは芋虫のことだそうだが、「氷雪の門」には戦車が登場して、ごうごうとキャタピラー音を立てて迫ってくる。思い出すと場面が混同する。
 芋虫男のことで、だいぶ前に読んだ『ジョニーは戦場へ行った』(Johnny Got His Gun ドルトン・トランボ作1934年)を思い出した。
 もうひとつ思い出したこと。戦後、街角やお祭の露天の間に、カーキ色の戦闘帽、病院の白衣、黒眼鏡の風体で手足の切断面を見せ、座り込んだり松葉杖で立ちつつ、アコーデオンを弾いて物乞いする男たちがいた。傷痍軍人と呼ばれ、1960年代には消えた。
   ◆(追記100826)
 大江志乃夫『日本植民地探訪』(新潮選書1998)を読んでいたら、サハリンのことも出ている。
 それを読むと、映画「氷雪の門」の真岡郵便局事件は、その局長が後になって書いた「美談」を元に脚色しているらしい。
 しかし、後に別の人が生き残りの人たちに聞き取りして出版しているが、それによると、真岡局には他にも局員はいたし、交換手も全員自殺ではなくて生き残りもいた、とある。
 わたしは娯楽映画が真実を描くべきとは全く持っていないが、事実はまた違うところにあることに興味を持った。

2010/08/22

308【言葉の酔時記】沖縄の姓はなんと読むのか?

 高校野球には特別興味はないが、今朝の新聞にあまりにも大きく記事が出ているので、ついつい目が行った。
 で、勝負はどうでもいいが、沖縄興南高校プレーヤーの姓に気をとられた。
 記事で振り仮名のあるものは兎も角として、そのほかもほとんど読めない。ウェブ検索すれば分かるだろうが、わざとしない。

 国吉陸は、クニヨシリクかしら?
 慶田城は、ケタグスクかとおもったら、振り仮名があってケダシロである。
 我如古は、ガジョコ? ワレ、イニシエノゴトシとは、なかなかに風格がある。
 真栄平は、マエヒラか。
 銘刈は、メカリだろう。
 山川は、ヤマカワにちがいないが、この人だけ平凡すぎる。
 伊礼は、イレイかイレか。
 安慶名は、アゲナと振り仮名があった。
 島袋、大城も沖縄の姓だが、これらは人口に膾炙している。
 監督は我喜屋で、ガキヤと振り仮名があった。

 これらを見て、この高校は野球で有名なのかどうか知らないが、全国あちこちから野球の上手い子を集めてきて特別教育をしてるのじゃなくて、地元でじっくりと人を育てているらしいことが分かる。
 ところで、対戦相手の東海大相模高校にも、変わった姓の人がいて、一二三にヒフミと振り仮名がついている。
 やれやれ、ようやく終わってくれて、野球ボケの朝日新聞は普通に戻るかしら。

2010/08/20

307【言葉の酔時記】一度はいたらどんなに汚れても脱げない魔法のパンツ

 海水浴にはもう長らく行っていない。行く元気が出ないくらい暑い。
 19世紀末頃か、ベルツだったか長与専斎だったかが公衆衛生学の立場から、健康医療活動として湘南海岸で始めたのだと、何かで読んだ。
 そこで水着である。ビキニ水着のことは原爆実験に発祥すると書いたから、もう書かない。ここは単に泳ぐためのパンツのことである。
あれをどうして海水パンツというのか。海水浴パンツであろうがッ。海水で作ったパンツかよッ。略して海パンとはなにごとか、海草の入ったパンか、海辺で売っているアンパンのことかッ。
 真水のプールで泳いでも海水パンツとは、これいかに。プールパンツだろッ、プーパンだよッ。いや真水パンツかも。
 水泳パンツといっていたのを、いつ頃から海水パンツというようになったのだろうか。
   ◆
 ところが、今朝の新聞に奇奇怪怪なるパンツの広告が載っている。
 いっぺん穿いたら、もう脱げなくなる魔法パンツだというのである。
 そんな無茶な、ウンコシッコ汗にまみれても脱げないままなるパンツなんて、思うだにぞっとする。
海パンならぬ怪パンである。いや魔パンか。
 パンツ、ズボン、ショーツ、パンティ、パンタロン、、、なんとかせい。

2010/08/18

306【本づくり趣味】手製本を2種つくった

 暑い、暑い、この3日間は締め切って冷房機をつけっぱなし。潜水艦の中にいるようで、閉所恐怖症気味のわたしはどうにもたまらない。
 時々は浮上して窓をあけて、ホンモノの空気を入れるが、これがまあ潜水中にいつのまにか熱湯の風呂桶の中に来ていたらしいのである。
 こもっていて不全をなすだけではなるまいと、ここらで趣味の手製本にそろそろ取り掛かることにした。

「父の十五年戦争」は、5月にキンコーズでプリントだけして、中綴じ10部つくって、息子や弟、従兄妹たちにくばった。これがまあ、テストである。
 今回からは、材料のほかはなにからなにまで自家製とするとして、「父の十五年戦争」新規製作からはじめた。
 東急ハンズで買ってきた二つ折り中綴じ専用のA4用紙に、これも最近買った新しいプリンターで冊子印刷で自家プリント、二つ折り中綴じホッチキスとめ製本、別紙で見返しと表紙をつけて、A5版55ページの本として製作した。これは息子にやった。
 その次は、「横浜B級観光ガイドブック 関外 横浜戦後復興の残照」である。
これには、絵画を趣味とする畏友に表紙のデザインを頼み、ついでに装丁もいろいろと助言してもらった。6冊と20枚程度の失敗刷りを経て、A5版、中綴じ、36ページ、オールカラーでできあがった。
 こちらは「父の十五年戦争」よりも、かなり質が高い。いや中味じゃなくて、体裁のことである。
 さっそく試作第1号を畏友にさし上げたところ、沢山のダメ出しをくらった。どの意見もごもっともである。
 で、今日は大幅に直して、40ページに仕立て直した試作第2号を送った。またどんな意見具申がくるか楽しみである。
    ◆
 こんな程度の厚さの本では、いつか買ってきた道具は、まだほとんど出番がない。
「本の雑誌」9月号に、新潮社では10万部販売突破した自社出版本は、4冊限定で特性の豪華皮装本にするとて、その製本過程のイラストレーションが描いてある。
 これだけで製本方法が分かるわけもなし、ものすごい年季の入った職人芸らしいから、わたしがすぐ真似することはできないが、こちらは自分が書いたものを、自分の趣味で本にするのだから、ちょっとくらい不体裁にできてもいいから、イッチョウやってみるかって気になった。

 立派な本は厚みが必要である。まあ、内容はともかく厚みだけなら、これまで書いてきた駄文を、アンソロジー風に編集すればなんとでもなる。
 しかし、装丁が立派なら、ついでに中味も立派な内容にしたいようにも思う、という大問題がクラウドの如く立ちのぼってきた。あ、いまどきのクラウドとはちがいますね。

 そうだなあ、書きおろしは大変だから、書き下ろし風におおきく編集し直しするか。
 それなら「父の十五年戦争」にくわえて、ご先祖様のこと、故郷のこと、自分自身のそこでの暮らしのことなどを、これまで書いてきたものをつなぎ合わせ、間につなぎ文を書き加えつつ、大河小説風にまとめると、けっこういいかも、、うん、いいぞ、やれ~。だれでもひとつは小説を書けるって、ソレである。

 大問題は、いつになったらその原稿がまとまってできあがるかである。なにしろ出版社から締切を追われることがないのだから、いつになってもできそうもない。
 だが、気がついたのだ、出版社よりも厳しい締切があることに、。
 ボケである。うん、早くやらなくちゃ。
 
 ●参照→268本作り趣味  http://datey.blogspot.com/2010/05/268.html

2010/08/17

305【父の十五年戦争】戦後60年の靖国神社に野次馬で行ってきた

 戦後65年目の今年の8月15日は暑すぎた。戦後60年目の8月15日に、わざわざ靖国神社に行ったことがあった。
 そのときの感想をまちもり通信に書いたのだが、どこに分類したか分からなくなったので、ここに再掲しておく。
 以下2005年の8月15日の記。
    ◆
 今年は8月15日、野次馬で東京九段の靖国神社に行ってみました。
 このところ総理大臣が参拝して近隣諸国が怒りアレコレあって、有名になりました。
 戦後60年目の節目の年(科学的な根拠はないでしょうが)とかで、どんなことが起きてるのかなあと興味津々、
 でも、実はたいしたことはありませんでした。
 起きてるだろうなあと思ったことが起きていたのは、終戦60年国民大会なる例の単純論調の絶叫が続く集まり、そしてこれも戦争懐古賛美らしき本やら映像やらの販売、無宗教の慰霊施設設置反対署名運動、みんなで参れば怖くない国会議員の集団参拝、日の丸を振る軍服の一団など。

 これらは当然やってるだろうと予想しましたが、ちょっと気になったことは、野次馬らしくない若者たちの姿が多いことでした。
 大勢の若者カップルが賽銭箱の前で手を合わせていて、もしかしたら初詣と間違えているんじゃないかしら、間違えているのならともかく、どこか不気味な感もありました。

 死者を貶めたくない遺された生者の心理と戦争暴力とがないまぜになると、このような社会現象がおきるのかなあと思うのでした。
いずれにしても戦死者を讃えると戦争駆動装置にならざるを得ません。いや、駆動装置だからこそ讃えるのか。
 南海に没した叔父もここに合祀されているのでしょうか。
 それにどんな意味があるのか理解できません。(050824)

   ◆

 上に「南海に没した」と書いた叔父は、フィリピンのマニラ東方山地で1945年5月に戦死したと、1948年になって戦死の公報が、名前を書いた白木の位牌のみ入った骨壷と共に届いた。
 そして遺族が、そのほぼ全滅となった悲惨な叔父の戦場を知ったのは、なんと1987年、死後42年も経ってからであった。
 わずかな生き残りの中の部隊長が、ようやく重い口を開いて手記を送ってきたからであった。そこにはジャングルを「転進」し続けながら、劣勢の中で戦ったことばかり書いてある。フィリピン戦線の悲惨さは悪名高いから、奇妙に思った。

 そこで傍証となる戦記を探したら、同じ戦場で兵站病院の衛生兵であった人の手記が出版されているのを見つけた。その中の一部に叔父の部隊の敗残兵たちの、あまりに無残な様子が書いてある。そこに叔父がいたかどうか知りようがないが、遺族が読むのは苦しい。
 これは父の十五年戦争執筆の、あまりに重すぎる副産物であった。

2010/08/15

304【世相戯評】夏の風物詩?

 東京は蒲田駅のコンコースに、西瓜を入れるロッカーが登場した。
 この駅の利用者は西瓜が大好きで、スイカの季節になると通勤の行きかえりに買っては、この保冷装置つきスイカ専用ロッカーに一時保管する。いかにも夏らしい風物詩である。
ということなのかしらと、昨日、蒲田駅をとおりかかってこれを見て思った。
   ◆
今日は敗戦記念日である。夏になると必ず登場する、古稀あたり以上の人には、それぞれに特別の思い出が詰まった日である。これも風物詩と言えそうである。
 先日、屋根を葺く瓦職人の話を聴く機会があった。そこに持ってこられた多くの見本の瓦のほかに、ちいさな瓦のかけらがひとつ。
 そのかけらの一面は普通の黒い瓦だが、もう一面は表面に粟粒模様が沢山できていて、なんだか煮え立った後のようである。
 実はこれは、1945年8月6日、広島で原子爆弾の灼熱を浴びたものの一部だそうである。
 瓦は熱線で、屋根の上で再び焼成されたのであった。
   ◆
 息子がやってきて、お盆だからやっぱり墓参りに行こう、という。親に似ぬ律儀な奴である。
 アア、そういえば世の中はそうであるな、神社の宮司であった祖父、父にもお盆なんてあったっけか?
まあなんでもいいやと、公園墓地におもむき、超暑い午後の陽に照らされつつ、墓石に榊を立てて、水をざぶざぶとかけてきた。
 これがいちばん夏の風物詩らしい。

2010/08/11

303【歴史・文化】南海の海中で世界遺産となった旧日本群の戦艦

 さきにビキニ環礁が世界遺産として登録されたことを書いた。
 昨日、読んでいたものの本に、そこには戦艦長門が沈んでいる旨が書いてあった。さっそくweb siteを探すといろいろ出てくる。

 日本海軍の軍艦の中で、太平洋戦争敗戦時に生き残っていた戦艦は「長門」のみであった。(戦艦に分類される軍艦が何隻あったのか分からないが、)
 1945年の日本敗戦でアメリカ軍に接収された戦艦「長門」(全長224.94m)と巡洋艦「酒匂」(174.50m)は、1946年3月に原爆実験のためにビキニ環礁に移動させられた。

 1946年7月、この月2回の爆発実験で、原爆の標的になる多くのアメリカ軍の軍艦とともに長門も酒匂も、もう戦わないただの鋼鉄の物体としてビキニ環礁の海中に沈んだ。
 第2次大戦敗戦の軍艦は、次なる冷戦のお役に立ったのだ。

 その後も何回も実験はあって冷戦終了と共に実験停止、そして2010年、ビキニ環礁は原爆実験の場であったことをもって世界文化遺産として登録された。
 そこには原爆が生まれる前の日本の戦争の歴史を背負い、戦後の冷戦の歴史も背負った2つの証人も含まれているのである。

 長門は海面下50mの海底に逆さに沈んでいて、高度な水中ダイビングで沈黙のその姿を見ることができるらしい。
 日本で保存されている水爆被爆の第5福竜丸も、3つ目の日本の船の世界文化遺産であるといってよいだろう。
●参照→300南海の苦楽園世界遺産

2010/08/10

302【世相戯評】今年の暑さが特別なのか

 やっぱり暑さのことを書いておこう。
 ロシアでは自然発火した泥炭が燃えつづけて、大煙霧が広がり、火はチェルノブイリ事故で放射能汚染した森に及ぶかと心配されているそうだ。
 日本も今年は特に暑い暑いと人も言うし、新聞やTVニューズでもいう。

 だが、と、へそ曲がりは言わなければならない。
 今年は、わたしの部屋の冷房機をめったにつけることがない。去年よりは明らかに少ない。だって、けっこう風があるんだもの。もしかして歳のせいで鈍感力が増大したからであって、いまに室内で熱中症か、干物か、、。
 7階という高みにあるせいか、バルコニーのドアーを半分開けて寝ると、ときには風邪を引くかと思う涼風もあり、目覚めてあわてて薄物をかける。
 事実、一回風邪をひいてしまって、ようやく元に戻ったところである。夏風邪は治りにくい。

 本当はいつもの年とそう違わない暑さかもしれない。暑い暑いというのが新聞屋テレビ屋の仕事であるのに乗せられている。
 晴れた夏の空を見ると、鎮守の社の森の木々でぎざぎざに縁取られた境内広場の上の狭い空から落ちる真っ白な陽光の中を、大人たちが黙々とラジオ放送を聴き、黙々と森を出て行ったあの日を思い出さずにいられない。
●参照→166夏の日の鎮守の森で

2010/08/06

301【横浜ご近所探検】ご近所心霊スポットは昔は小学校だったのが、、

 横浜関外のわたしの住いの近くに、横浜市立大学の病院がある。
 いっときわたしは足が不治の難病となって通院していたときに、その近くにある廃墟の汚い5階建てのビルの前をとおっていた。
 今は廃墟だが、かつては横浜市立大学医学部であったのだと、つい最近になって知った。
日本建築家協会(JIA)が主催して、旧日吉小学校の見学会があるというので見に行ったら、なんとその廃墟がそうであった。
   ◆
 なんでも元はといえば、1926年に建てられた由緒ある小学校の建物が、戦後は市立大学になったのだそうだ。それがもうすぐ取り壊しになるという。
 建物は特にデザインが特徴あるようなものではないが、入って驚いたのは、解剖室があったことだ。
 ドアに解剖室と書いてあって、中は総タイル張り、傍らには冷蔵庫のような扉があって、中には死体を入れるラックが錆付いておいてある。
 まさかこれが小学校教室であるはずはないから、小学校の建物を医学研究用に改造したのだ。
 ほかにも寄生虫学教室とか動物飼育室とか書いてある。
 最近廃墟探検が流行らしいが、都心の廃墟の心霊スポットとしてピカイチ物件かもしれない。
 わたしは心霊スポットに興味あって行ったではなく、行ってみて初めて知ったのであった。
 そんなことで侵入者が絶えなくて、防犯上で問題があるらしく、町内会から市に対して取り壊しの要望が出たそうだ。
   ◆
 なんにしても区役所に建替える予定で、今月中には壊すとかで、建物の保存を要望していた建築家協会がお別れの見学会をしたのであった。
 わたしは保存する建築家団体メンバーでもないのだが、保存要望した建築家達がこの建築をどう評価して保存したいのか、そこに興味があった。
 だが、わたしが見学して考えた歴史的評価とは、ずいぶん食い違っていた。
 なお、不治の難病との診断は、治癒する病の誤診で、治療もせずに自然治癒した。
 参照→歴史の証言としての建築記録保存

2010/08/05

300【歴史・文化】核兵器実験による南海の苦楽園は人間の醜さの記念として世界遺産に

 最近、世界遺産に太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁を、文化遺産として登録したという。
美しい珊瑚礁を自然遺産ではなくて、核爆弾実験場として人類の負の文化遺産だそうである。
 ここで1946年から1958年まで、アメリカは水爆の実験を含めて67回もの実験を行なった。
 今はマーシャル諸島共和国だが、その当時はアメリカが国連信託統治していたから、島民と協定して実験場にしたのであった。
 南海の楽園に見えるが、実験のために持ってきて破壊沈没させた多数の戦艦、爆発跡の巨大クレーターなどが、美しい珊瑚礁の中にできものの如くちりばめられている。
   ◆ 
 今では残留放射能は低減しているそうだが、現地の農水産物はあぶない。いまだに米軍基地らしいから、観光気分で世界遺産訪問はできないようだ。
 南海の楽園ならぬ苦園である。見た目が美しいだけに一層その苦の世界が痛ましい。
 世界遺産委員会のサイトに「its paradoxical image of peace and of earthly paradise」と書いてあるように、まさに矛盾の世界である。
   ◆
 ビキニといえば思い出すのは、第5福竜丸事件である。
 1954年、マーシャル諸島の海でマグロ漁をしていた日本の漁船が、水爆の放射能を含む灰を浴びて、乗組員1人が死亡した。
 このときはマグロは食ってはいけない魚になって、日本漁業に大きな影響を与えた。
 日本に保存してある第5福竜丸も、ビキニ世界遺産の一部とするって考えはなかったのかしら。
 同時に、マーシャル諸島の住民も放射能の灰を浴びた。それは日本の原爆症と同じ問題をいまだに抱えているようだ。
   ◆
 このような人類の負の文化遺産の世界遺産登録は、ナチスのユダヤ人収容施設、アフリカの奴隷輸出施設、広島の原爆ドームがある。ほかにもあるかもしれないがよく知らない。
 今年の新規登録の中のひとつに、オーストラリアとタスマニアの刑務所群がある。
 18~19世紀にかけてイングランドの犯罪人を、遠くオーストラリアに流刑して収容したところである。そこで囚人達に植民地建設をやらせたのであるが、そこでは原住民のアボリジニを追い払ったのであった。
 アボリジニにとっては、イングランドと戦争したわけでもなく、その災禍はビキニの原爆実験と同じある。
 これも負の遺産なのだろう。
   ◆
 考えてみると、歴史的文化遺産は、それを築いた王朝か支配者が作った施設が多いのだが、そこに至るには戦いがあって多くの血が流れたに違いない。
 京都は先の戦争といわれる応仁の乱があったし、登録待ちの中世都市鎌倉も地中から多くの中世人の白骨が今も出てくる血なまぐさい戦乱の地であった。
 人類の発展の証しと唱える文化遺産の陰には、人類の負の遺産が隠されていることを、ついつい忘れそうになる。
   ◆
 ビキニといえば、あの布切れの水着である。
 あのような衣装は昔からあったのだが、なんでも、1946年にビキニ原爆実験のものすごさを知ったフランスの下着デザイナーが、「ビキニ」とネーミングしたら売れたのが元だそうな。
 1945年の「ヒロシマ」ではないのは、どうしてなのだろうか。ヒロシマとビキニの間に横たわるなにかに、心がひっかかる。
●関連→210鎌倉の世界遺産

2010/08/02

299【怪しいハイテク】机上の地球goole earthにはまる

 マニアではないが地図や航空写真が好きである。都市計画をやっていたから、仕事としても好きを生かすことができた。
 インターネットに、地図のウェブサイトが沢山できている。あれこれ情報が入っているのはよいが、いらない商売情報が多い。
 その一方で、地形や土地利用という地図としての基本的な情報が欠けているのが、気に入らない。
 やたらに道路ばかり出てくるのだが、そのくせ細い歩けるだけの道になるとほとんど登場しない。要するの自動車でなにかにアクセスするために使うようにできているらしい。
    ◆
 カーナビゲーションの地図がまさにこれである。あそうか、あの地図屋がカーナビゲーションをやっているのだから当りまえか。
 カーナビゲーションの普及で、運転人間はだんだんとバカになる。カーナビゲーションの中のオバサンの声に導かれて目的地に着くから、途中のことは何も知らなくても良いことになってしまったのだ。
 それまでは運転する人は地図を自分の頭に読みこんで、方向感覚とか地形の目印とかを覚えていたのだが、もうそんなことは不要になった。
 もしも災害かなにかで車を使えなくなったら、迷子だらけになるだろう。
 地図はやっぱり国土地理院のものがいちばんすばらしい。
    ◆
 航空写真は地図とは異なる情報が満載されていて、どこのでも見飽きない。
 古いものは国土地理院のサイトの空中写真だが、新しいものはいまやgoogle earthの衛星写真である。
 google earthサイトはわたしにとっては机上の地球である。世界のどこにでも一気に飛んで行ける。
 海外旅行で訪問した街に、空から懐かしい訪問もできる。そこにgoogle streetがあれば、街並み歩きもできる。
 故郷の生家の前にも、中国での父の戦場跡(1933年)にも、アイガー北壁の途中にも、フィリピンでの叔父の戦場跡(1945年)でも、、、、いや、まったくすごいもんである。
 そのうちに弱ってきて動けなくなったら、これで旅行三昧の徘徊老人に浸ろう。
   ◆
 でも喜んでばかりいられないことに気がついた。
 ところどころ、妙に塗りつぶしてあるようなところがある。どうも軍事施設らしい。その筋からイチャモンが入って墨塗りしたらしい。
 ということは、もしかしたら写真自体に偽造がされているところもあるに違いない。本当は陸なのに海になっていたり、建物があるのに山の緑になっているとか、、。
 景観戯造はわたしの遊びだが、これはまさに景観偽造である。
 衛星写真だから真実を写しているなんて、うっかり信じてはいけないのだ。
   ◆
 日本が中国やアメリカを相手に戦争していた頃、軍事施設のある町の風景写真絵葉書には、軍のお達しで手を入れて一部偽造していたことがあった。例えば、横須賀のその頃の写真を見ると、あるはずの山がないとか、奇妙なところがある。
 もちろん地図も軍事施設のあたりは偽造していた。
 そういうことがgoole earthにも行なわれていることは、十分に考えられる。
 それも怖いことだが、写真の精度が上がってくると、青空の下ではうっかり変な真似はできなくなる日常の怖さがある。立ちシ●●ベンは、木の下でやりましょう。
 この衛星写真といい、街にはびこる監視カメラといい、どこでもいつでも監視されて、住みにくいケチな世の中になったものである。気をつけなくっちゃ。

2010/08/01

298【怪しいハイテク、故郷高梁】机上で故郷の生家を訪問できるなんて、、、

 わたしの生まれ故郷は岡山県の高梁市である。
 もう20年も前のこと、ハイデルベルクに遊びに行って驚いたことがある。まるで高梁とソックリなのである。
 まちの中を歩いていて、デジャビュに襲われてしまって、どうしてなんだろうと気分がモヤモヤしていたが、アッ、ここは生まれ故郷の高梁なんだと気がついて、晴れ晴れとしたことがあった。
 このことは前にも雑誌に書いているのだが、最近、高校同窓会誌にもそれを書いた。
参照→異国で発見した故郷
参照→高梁:日本のハイデルベルク
    ◆
 ところで、goole streetなるサイトがあって、ここで高梁の街並み見物ができるのである。
わたしの生家は神社なのだが、その鳥居、参道、鐘楼がいまも健在である姿を、机の上で懐かしむことができるのである。
 生家の近くの武家屋敷町も、なんだか映画のセットのようにきれいに見える。高校生が自転車で走っているのも見えるから、絵葉書ではない楽しさがある。
 この高梁は、映画の「男はつらいよ」寅さんシリーズで2回登場する。
 その寅次郎の義弟、つまり妹さくらの夫の生家が、この武家屋敷町の中にある設定になっているからだ。珍騒動の舞台も見える。
 日本各地で撮影車を走らせているgoogle street屋さんて、これでなにをしようとしているのだろうか。
 まあ、便利は便利だが、ただ便利がっていてよいものかしら、、なんだか不気味でもある。

2010/07/29

297【横浜ご近所探検】共同住宅ペンシルビル

 近くにある小さな空き地で工事が始まった。お知らせパンフレットを見ると、8階建ての共同住宅である。
 典型的なペンシルビルで、間口を1スパン、奥行き2スパンで、これを縦割りにして各階に2戸のワンルーム型の住宅とする。最上階2階分が建て主の住居らしい。
 既に3方を共同住宅ペンシルビルで囲まれていて、残りの道路側も向いは10階建てビルである。
 道路側から午後の短時間だけ陽が当たる。そのような住宅でも需要があるのだろうか。
    ◆
 気の毒なのはCの共同住宅ペンシルビルである。これがこの一角でいちばん最初に建ったらしく、各階が何戸あるか分からないが、いずれもバルコニーを隣地のAとBの側に設けている。Bにビルがない頃は十分に陽があたっていただろう。
 その後に建ったBビルで、7割がたのバルコニー面はふさがれている。写真②でみるように、バルコニーの先に建築基準法で言う「窓先空地」がまったくないのである。規模から見て違法ではないだろうが、実態としては真っ暗住宅である。
今度はAのビルで、このCビルは残りの3割がたの採光面もふさがれることになる。どういうわけか南の道路側にほとんど開口部がない。
 隣の土地にビルが建つ可能性は当然にあるのに、これはCの設計が悪い。
いまさらではあるが、ABCDの土地を共同開発すれば、住み良い共同住宅ビルになったであろうに、と思う。
      ◆
 こんなことが都市の真ん中ではあちこちでおきつつある。こういう共同住宅は今後どうなるのであろうか。
寿町の簡易宿泊所(通称ドヤ)のビル群が、まさにこの状況である。
あれは住宅ではなくて、一時滞在を前提とするホテル旅館だから、法的には許されている。しかし実態は日常的に暮らしている低所得者住宅である。立体スラム住宅街の感がある。
 共同住宅ビルがこのように日照通風が悪くなると、住み手がなくなって空き家ビルになっていく。そうなると空き家を埋めるために、寿町ドヤのようなものに変化していくのだろうか。
 できの悪い都市の不良資産は、立体スラム化するおそれが十分にある。

2010/07/25

296【横浜都計審】ついに市民委員をクビになったらしく遺言を言えないまま退任かよ

 今日、横浜市の都市計画課から、先日の都市計画審議会関係の追加書類が来た。
 都市計画行政のプロである市民委員のMさんが、これでは資料不足であると指摘した磯子三丁目地区計画について、事業者提案と横浜市案との比較対照一覧表と、一括指定している散在する緑地の各位置と面積の詳細資料である。
 審議会の席では、横浜市は資料に遺漏はないようなことを回答していたが、やっぱり気になったのであろうか。

 それはそれでまあよいとして、送り状に次の審議会は11月と予告が書いてある。
 ということは、わたしは2年の任期がそのときは終わっていることになるから、いまや既にクビになっているのであった。
 なんだよ、9月にやるのかと思っていたら、今年度は都市計画審議会開催がそれまでの年度よりも1回少ないのであるか、、。

 次回は引退試合となるから、きちんと遺言の挨拶をしようと思っていたのに、そのまえにクビになって残念である。
 では近いうちにわがまちもり通信サイトで、横浜都計審総括論文を書くことにしようっと。
参照→都市計画審議会を改革せよ

2010/07/24

295【あやしいハイテク】血出痔のTVって?

 語感が悪いぞ、チデジ、血出痔なんて。ホント無神経である。
 その血出痔TVへの対応ができていない日本全国の世帯数は、今のところ約2割あるそうだ。へえ、もう8割もが血出痔になったのか。
 わたしのところは2割のうちである。2割といったって1100万世帯もあるのだから、数にすればかなりなものである。
 TVはめったに見ないから知らないが、新聞に血出痔TVに買い替えろとのたびたびの脅迫広告。
 今の受像機はゴミなる。なんとその廃棄量は約1,712万台とご関係当局の発表。でも、これはどう考えても少なすぎる。だって2割で1100万世帯なら、10割なら5500万世帯、一世帯一台としても5500万台になる計算。
 なんにしてもエコロジー時代に反する。まったくもってケシカラン、政府とTV屋が結託して、勝手に今のTVを見えなくする陰謀をして、こちらのお金で高い機械に買い換えろなんて、全くもってケシカラン。
    ◆
 では血出痔TV機械を買ってきてアンテナをつなげばいいのかっていうと、どうもそうではないらしくて、なにやら別に金がかかるらしい。ますますもってケシカラン。
 ではどうすればよいのかNHKが教えに来たかというと、全くそういうことはない。聴視料金だけはとるくせに、。
 先日、NTT光回線屋から電話が来て、光回線につないで毎月3000円でTV放送を見ることができるからどうだという。そんなことしなくても、現に今もTV放送は見えてるよ、大きなお世話である。
 ウェブサイトで調べてもわたしの家ではどうすれば分からない。
 うちではどうもCATVで見ているようなのだが、ここでは2015年までアナログに変換して放送を続けるらしい。それならまだまだデジタル機械に買い換える必要がない。
 だけど、そんなことは偶然見つけたWEBサイトの片隅に小さく書いてあっただけで、新聞にも何も書いていないのはどういうわけだ。
    ◆
 血出痔にすると双方向通信も可能とか宣伝している。大きなお世話、今のままで結構。今にカメラつきTV機械が出てきて、双方向通信をつかって家の中がTV局のほうでは丸見えになっている、てなことが起きるぞ。
 血出痔にすると今よりチャンネル数が多くなるという。バカ言え、いまでも見てもしょうがない番組だらけなのに、これ以上なにを放送するのか。
 まだ1年さき(あるいは5年先か)のことだが、わたしはその日はTV放送のご臨終場面を見届けようと思う。録画しておこう。
 もしも今度の衆議院選挙で、血出痔反対マニフェストの「アナログ党」ってのが出てきたら、わたしは投票する。

参照→145血出痔の準備    124地デジ血で痔   011血出痔問題

2010/07/21

294【法末の四季】地中から湧き出る赤い水で染める「法末赤渋染め」を開発したぞ

 中越震災復興支援中の山村の法末集落に、田圃の草取りに行ってきた。稲は青々と育っている。
 5月末の田植えの最中に、白い帽子を泥田に落として汚してしまった。そのとき思いついて、これを泥染めにすることにした。昨年の田圃仕事で着衣にはねてついた泥が、その形のままに泥土色に染まっているからだ。
 ならばこの愛用のアメリカ製のホワイトハットを、泥で染めてみよう。積極的に染めるならばこの田圃の泥土色の泥ではない、もっと良い色にしたい。

 ちょうど、わたしたちのいる家の近くの崖地から、朱色の泥を含む水が湧き出ているのだ。
 多分、鉄分を含んでいるのだろうが、朱色とクロームオレンジの中間ぐらいの鮮やかな色である。このままの色に染まると実に美しいに違いないと思いついた。

 さっそくに朱泥を採集してきて、バケツに入れて水で掻き混ぜる。その朱色の溶液に白い帽子をもみながら漬け込む。
 しばらく置いておいて、もうよいかなと引き揚げて洗うと、朱は流れていって、あとはまだら薄黄色汚れみたいで、どうも調子が悪い。
 泥水につけて真っ赤になったと喜んでも、洗うとただのまだら黄色汚れになるというくり返しばかり。
    

 その日は横浜に帰宅するので、帽子は泥をしっかりつけたままに室内に干してきた。乾燥させてるうちに染まるだろう、ってなもんである。
 じつは泥染めという言葉は知っていたが、やったことはない。単に思いつきだから、赤い泥をつければ赤く染まるだろうくらいのいい加減さであった。
 簡単には染まらないもんだとわかって、そこは工業大学の卒業だから化学や繊維学の専門の知人がいる。かれらにいろいろメールで聞いてみたら、染料とか顔料とかいろいろ教えてくれた。

 こちらは染料も顔料も区別がつかないのだが、わかったことは、朱泥の粒を1ミクロン以下にすれば、繊維の間に入って定着するらしいことであった。
 粒子には大小があっても、泥水の上澄みにはそれくらい微細な粒子が入っているので、それで何回も染めればよいらしい。
 さて、その超微粒子をどうやってつくるのか。そういう精密機械はあるらしいが、高価なものらしい。

 これに米作り仲間の1人がおおいに興味を示してくれて、磁器性の乳鉢を買ってきた。採取した赤泥をこの乳鉢で乳棒で細かに摺りつぶすと、1ミクロン以下になるというのである。
 そんなこんなで2ヶ月がたち、今回の草取りでの法末行きである。このまえ室内に干しておいた赤泥つき帽子は、仲間が一度洗って干してくれていた。

 原料の朱泥のようにはいかないが、それなりに渋い赤と黄色の中間ぐらいに染まっていて、それはそれでけっこう良い仕上がりである。
 手染めのようなムラもあって好ましい。洗濯機にかけてみたが、色落ちもしない。よしよし。
    
 見れば囲炉裏のほとりには、例の乳鉢と採取した泥の塊がおいてある。今日は来ていない仲間が用意しているようだ。
 それではと、赤泥を乳鉢に入れ、ゴリゴリと陶磁器のスリコギで練っていく。ねっとりとした粘土状の赤泥になる。
 これをポリバケツの中で水で溶いて濃い赤泥液ができた。

こんどはティーシャツ作りである。ザブンと漬けて揉んで揚げて、また漬けて揉んでを繰り返す。いつだったかどこかで見た藍染めの仕事を思い浮かべる。
 適当なところで物干しに吊り下げると、おお、いい色である。だが乾燥すると粉が吹いたようになり、水をかけるとまだら黄色になってしまう。

 そうか、藍染めのように何回も繰り返すしかないのだなと、漬ける干すを繰り返していると、指が朱色に染まってくる。おお、これでは朱屋高尾だなって、次第に職人気分になってくる。
 この染がうまく行くなら、法末土産に赤染ティーシャツをつくりたいねと、仲間と話している。
 ネーミングはさしずめ「法末赤渋染」か。
    
 この法末にくることになったきっかけの2004年に中越地震があり、そのあと2007年の中越沖地震もあって、それら2度の揺れで、わたしたちの拠点としている民家の内壁も一部が剥落している。
 米作り仲間たちが、その剥落した塗り壁の修理をする壁塗りプロジェクを始めたのである。それは集落の人たちにも公開して、左官仕事のプロの指導も受けつつ、進めていった。

 その床の間の壁の仕上げの漆喰に、帽子を染めた朱泥を混合したところ、なんともいえず趣味の良い黄色味を帯びた良い色となったのである。もとはあまり品のよくない緑色の模造ジュラク壁であったのが、実に品よくなった。
 問題があるとすれば、今の住人の仲間達が、この床の間を床の間として使っていないことであろう。ついつい物置のようにしてしまうのである。
 2階の床の間も剥落があるのだが、一箇所くらいは震災記念に剥落のままにしておくこともよいと、わたしは思っている。

(追記)化学を専門とする友人が、朱泥を微細粒にする方法を教えてくれた。
 「ボールミル」なる器具があるそうで、それは乳鉢に代えて磁器製の蓋付容器を、乳棒に代えてゴルフボール大の磁器製塊状物数個を用いるものである。普通は電力でまわすのだが、水路でごろごろ回す水車式芋皮剥装置にボールミルを仕込んで、法末の水路に据えるのだという。
 なるほどそれは面白い、やってみたい。実は足湯のそばで水車がまわっているのだから、それにボールミルを取り付けさえすればよいのだ。
 次の問題は、そのボールミルをどこからタダで仕入れてくるかである。


参照→中越山村・法末集落の四季

2010/07/13

293【横浜都計審】次期の市民委員を公募中

 わたしがいまやっている横浜市の都市計画審議会の公募市民員は、次の9月(多分)の審議会で2年の任期が終了します。
 ほかの委員は任期が終わっても再任がありうるのですが、わたしは公募の条件で2年限りで再任はありません。
 横浜市では、ただいま次期公募市民委員を募集中です。
 この2年の間、わたくしは愚直に委員を務めてきたつもりです。次のお方も、ぜひ愚直に務めていただたきたいと存じます。
 応募される方はできれば、わたしの「都市計画審議会を改革しよう」のサイトをぜひ参考にしていただきたく存じます。応募書類提出期限は7月末まで(必着)です。
 11月都市計画審議会からは、傍聴席から新市民委員を応援したいと思っております。

(追記)
 市民公募委員の応募資格に、「横浜のまちづくりに携わった経験のある方」と書いてある。一昨年のわたしが応募したときの資格は「まちづくりに携わった経験のある方」となっていた。なぜ変ったのだろうか。

(また追記100725)
 9月に都市計画審議会があるとばかりい思っていたら、11月だとのお知らせが来た。ということは、わたしは一昨年11月から委員だったから、もう2年の任期は終わってクビになっているのであった。

2010/07/12

292【世相戯評】やっぱり根性無しだったなあ選挙民って

 参議員議員選挙の結果は、民主党の負けだった。でも参議院第1党ではある。
 零から10人になった“みんな”党は無限大倍の大躍進である。
 昨日書いた冗談半分予想の“みんな”党が漁夫の利って与太話があたってしまった。選挙賭博ってのがあれば一発あたったのになあ。

「消費税増税で勝負っ」て菅さんに大上段に振りかぶられて、選挙民はへなへなと腰を引いて、“みんな”党親分にすがりついたのであった。ほんと、ナサケない。

 すがりつかれた“みんな”党って“どんな”党なんだろ。
 “こんな”党にキャスイングボードを握らせて大丈夫なのか。
 “へんな”党じゃあないんだろうけど、
 “あんな”党に入れなきゃよかったなんて
 “そんな”こと後で思っても遅いよ。

 でもまあ、ネジレ国会にしたのは、今回の選挙民のいちばんの功績ではある。もっとも、そう思ってやった訳じゃないだろうけど。
 これでこそ参議院の良識を発揮できるはずであるって、正論がちっとも聞けないなあ、。

172またもや翼賛選挙
174選挙あれこれ
042選挙に行かない

2010/07/11

291【世相戯評】消費税選挙

 今日は参議院議員選挙である。民主党が政権をとって最初の選挙である。
 どうやら消費税値上げ選挙と銘打ってもよさそうである。
 1998年消費税が3パーセントから5パーセントに値上げ直後の参議新選挙で、橋本自民党は惨敗した。
 さて、今回は結果ではなく、これからの政策として真正面から消費税5パーセントを2倍に値上げすることを問うているようである。
 じつはあまり政治に興味がなくて新聞の選挙記事は読まないので、本当のところはよく分からない。でもシングルイシュウでもないらしいが、新聞見出しをだけを眺めているとそのようである。

 シングルイシュウといえば、小泉郵政選挙がそうであった。あのときはわけも分からず翼賛選挙して、まったくもってバカな選挙民であった。
 さて、今回のシングルイシュウは、郵政民営化なんて無責任な選挙民でも直接に身には響かないイシューと違って、かなり身に響くものである。
 それを選挙の争点にしたところが、菅さんはなかなか度胸があると思う。国の財政問題を、選挙民の懐と直結させて信を問うなんてことは、今までの選挙であっただろうか。国政選挙とはまさにこういうことだろう。

 これまでの選挙では、いつも聴くだけなら気持ちよい公約ばかりを選挙では唱えていたような気がする。
 こんな耳障りの悪い公約で、菅さんを支持する結果をもしも選挙民が出したなら、ずいぶん選挙民も成長したもんだと思うが、果たしてそうなるか。
 やっぱり耳障りの良いことだけしか聞かない選挙民はどうするだろうか。

 消費税反対党に票を入れようと思ったら、あれ、自民党も同じようなこといっている。
 じゃあ共産党にするかって、そっちに票がなだれを打つていくか、まあ今の世ではそんなことはなかろう。
 では社民党か、う~ン、なだれは兎も角小川ぐらいはあるかも、。

 しょうがないから“みんな”党にするかなんて、とりあえず“しょうがない選択”の奇妙な流れになって、漁夫の利を“みんな”が得るか?
 まあ、明日の朝のお楽しみである。
 ところで、選挙賭博ってあるのかしら。

2010/07/10

290【言葉の酔時記】新聞の人名呼称ってなんだかオカシイよ

 女子中学生二人の放火犯罪が新聞に載っている。記事を読んでいてなんだかよく分からない。
 
二人の女の子が共謀してそれぞれ自分の家に放火したらしいのだが、どちらも女子中学生で、放火した家は別のところにあるのに、人名呼称がどちらも「女子中学生」だから、どっちがどっちか、どっちの家の子か分からない。

 書いた新聞屋もそう思ったか、一方を「長女」と書いているが、これももう一方も長女かもしれないし、よけい分からない。
 事件は気持ち悪いし、読んでも頭がこんがらかるし、途中で読むのをやめた。

 特定の人間を指しているのに、普通名詞の女子中学生とか長女とか書くからおかしいのだ。A女、B女と書いてくれると簡単に分かるのに、わざとこんがらかるように書いている。
 他のところで4人くらい女性が登場する記事があって、ここでは新聞屋もさすがに困ったらしく、A子さん、B子さんなんて書いている。

 犯人と確定しているのじゃないけど、どう見ても犯人らしいやつを、敬称を付けないでどう表現するかって、新聞屋さんのお困りが、そのまま読むほうのお困りになっているのですよ。
 男の犯人なら「男」、男の被害者なら「男性」と書くのも、どっちも普通名詞だから、同じ記事で何度も「男」が登場すると、途中から、世の男ども全部が悪い奴ってことないでしょう、なんて抗議したくなってくる。
 昔の新聞では仮名ってのを使っていたけど、世に同じ名の人がいると怒るだろうから、ここはA女、B女性、X男、Y男性なんて書いてはどうですか。

●参照→195女は悪いが男性は悪くない

2010/07/09

289【お遊び】やまももでジャムをつくったら美味い

 ヤマモモの実でジャムを作った。
近くに住む旧友のF田さんからメールが来た。庭にあるヤマモモの木に、沢山実がなったから取りの来いととのこと。
 ふた月ばかり前にも、サクランボの実がなったから来いとのメールで、大喜びで自転車で駆けつけた(このことはコチラ)のだから、持つべきものは旧友である。
 今度は暑いから自転車はやめて、おなじ同期生の旧友のY崎さんの車に拾ってもらった。

 庭のヤマモモの木は、背丈の1倍半ほどでさほど大きくもないのに、実は沢山ついている。老人3人で夢中で採って10キロほどにもなったろうか。
 売ろうってのじゃないから少しでいいのだけど、なんだか食べ物を残してはいけないような気分で、ついいついムキになった。それでもまだ残した。
 F田夫人も一緒になっって与太話しつつ、お昼ごはんもご馳走していただく。
 採ったヤマモモを山分けし、Y崎さんが持ってきた自作の野菜もいただいて、お土産の山を抱えて戻りついた。
    ◆
 ヤマモモは焼酎やブランデーにつけて果実酒にすると美味いそうだが、わたしは酒は酒で飲むべしとのマニフェストの飲酒党員だから、ジャムを作ることにする。
 WEBサイトでヤマモモジャムの作り方を検索してみると、これはマーマレードよりは簡単そうである。実が腐りやすいとあるので、さっそくジャム製造に寄りかかる。

 全部で6キロくらいはあるだろうか、丁寧に洗い、若い実はどけて、できるだけ熟したものに精選すると、7割くらいになった。
 これをホーロー鍋二つに入れて軽くゆでる。
 荒い金網笊で裏ごしをする。これがいちばん面倒であった。
 種と果肉とのまじったものすごく沢山のゴミが笊の上に出て、せっかくいただいたのに、こんなに捨てるのかとちょっと気が引ける。

 汁と裏ごしされた果肉とは鍋ひとつに納まったので、これを煮詰めていく。
 砂糖を400グラムくらい加えて、かきまぜつつ、あくを掬い取る。レモン半分をスライスして入れる。
 さて、だんだん少なくなってきたが、マーマレードみたいに粘り気が出てこない。いつまでもサラサラのコンクジュースである。
 どのあたりで火をとめるか悩んだが、残量がこれ以下になるとあまりにも少なすぎてもったいないなあ、エイヤッと完了。
    ◆
 市販ジャムの空き瓶2つ半が製品となった。原料からの激減が悔しいような、もったいないような。減らすために投入したガスと人力のエネルギーに見合う味であれば良いが、、。
 しばらく冷まして味見である。プレーンヨーグルトに入れて食えば、おお、美味い!

 そこで味比べをしたのが、お土産にいただいたF田夫人製ヤマモモジャムである。おお、わたしのと同じくらい美味さである、ということはわたしの初めてのヤマモモジャムは大成功したのであった!

 Y崎さんからの玉葱とレタスもサラダにして一緒に食べると、これはまあなんと幸せなことか。
 もらいものだけで幸福になれるなんて、やはり持つべきものは旧友である。
 あ、待てよ、オレはお二人に何もさし上げていないなあ、コチラへの一方通行か、、う~ん、、ま、いいか、、お二人に感謝。 

2010/07/07

288【横浜都計審】今回の審議会でもまた敗退して連敗記録は増えるばかり、

 横浜市都市計画審議を2010年7月5日午後開催した。
 わたしはいままで6回の審議会に出席して、いくつかの議案の中の一つや二つは賛成しがたいものがあるので、異議を唱えてきた。
 そして議決となると、いつも1対20くらいの差で敗退していた。
 今回は7回目、やはりひとつの議案にどうしても賛成できないので反対意見を述べた。それは磯子三丁目のプリンスホテル跡地開発の案件である。
 ほかにも発言する人がいて、採決となったら反対5、賛成15であった。
 つまり5人の反対者がいたのであった。
 おお、ついに5倍の仲間を得ることができた。連敗記録をまた更新はしたが、1年8ヶ月の努力は少しは前に進んだのだ!
   ◆
 今回から市会議員の委員が大幅に入れ替わった。
 若い顔もあるので活発な発言があると思ったら、並んだ10人がはじめからしまいまで全くの無言で、ただただ原案に異議無しと言うばかりであった。
 あれはどういうことなのだろうか。奇妙にして不気味でさえあった。普通なら、賛成ならその意見を言いそうなものだ。
 わたしも市民だから言うが、あれで議員の役割を果たしていらっしゃるのであろうか。
 審議会委員報酬を受け取っていないから(議員歳費の上に二重取りにならないように)、ここではなにも言わなくてもよいのでしょうか。それとも、、。
   ◆
 ところで、横浜市営地下鉄が法律違反で走っているって、知ってましたか?
 そうなんです、地下鉄は都市計画で決めているのですが、あちこち決めたとおりに工事をしなかったのに、都市計画変更手続きをサボっていたのです。
 古いものは、もう25年以上も都市計画法21条違反なんですね。
 まあ、実害は何もないのですが、都市計画で決めたことを守らないのだから、違反は違反ですな。
 あわてて今頃になって追いかけて都市計画の変更をして、つじつまを合わせました。
 普通は「計画」とはこれからやることなんだけど、横浜市ではもうやってしまったことも計画というのです。

●参照「あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている横浜都計審の実態(要約版2013)

2010/07/02

287【横浜都計審】今回の議題に磯子3丁目プリンスホテル跡地利用計画がある

 横浜市の都市計画審議会は、7月5日14時からである。  今回の議案のなかに、磯子三丁目地区・地区計画案がある。これは横浜プリンスホテル跡地の住宅開発計画であり、事業者から都市計画提案制度による地区計画の提案があり、これを受けて横浜市が策定した地区計画案が出される。
 この開発計画は、いろいろと地元で賛否両論が渦巻いていて、都市計画手続き過程でも、公聴会の申し出や都市計画図書縦覧中の意見書の提出が、賛否両側から各200通を超える数が出された。
 都市計画提案制度をどう運用するかという、良くも悪くもモデルケースの感がある。
 久しぶりに意見が多く出る審議会になるだろう。わたしも事前調査に忙しい。

計画地区の歴史的経緯は次のとおり。
1937年 東伏見宮磯子別邸が竣工(設計施工竹中)
1945年 終戦連絡局長鈴木九万が官邸使用(~947)、GHQフランス使節が使用
1953年 西武鉄道が買収
1954年 横浜プリンス会館開業食堂7室・客室4室
1960年 横浜プリンスホテル新館開業(28室)
1964年 根岸線(桜木町-磯子間)開業
1966年 西武鉄道が磯子台分譲
1970年 新都市計画法による新用途地域として住居専用と住居地域に指定、旧都市計画法による風致地区をホテル営業エリア部分を廃止、そのほかを第4種風致地区指定
1977年 西武不動産が日本住宅公団にゴルフ場跡地売却
1987年 横浜プリンスホテル営業終了
1990年 横浜プリンスホテル開業(441室)、旧館は宴会場「貴賓館」
1993年 貴賓館を横浜市が歴史的建造物に認定
2000年 西武不動産が磯子プリンスハイツ販売
2001年 プリンスブリッジ開通、都市計画マスタープラン磯子区プラン策定開始(9月から12月)
2002年 2月「磯子区民のまちづくり提案集」公表
2003年 3月「磯子区まちづくり方針素案への意見と回答」公表、8月「磯子区まちづくり方針」決定
2005年 横浜プリンスホテルの売却検討を発表
2006年 横浜プリンスホテルを特定目的会社に譲渡、東京建物が大規模住宅開発を発表、横浜プリンスホテル営業終了
2009年 横浜プリンス跡地SPCが住宅開発の都市計画提案
2010年 7月同上に基づく横浜市策定の地区計画案を横浜都計審に諮問

●参照ー135王子様の夢の跡
    ・都市計画マスタープランは時代にどう対応するか 

2010/07/01

286怪しいハイテ】なんとまあハイテク回転寿司屋だってよ

 回転寿司屋は普通はどこか馬鹿にされている。
 わたしは、美味いかどうかは別にして、早いのと自分の懐と腹と舌のいずれの都合にも合わせることができて便利なので、急ぐときはちょくちょく利用する。
 これまで美味いと思って記憶しているのは、京急横須賀駅のガード下の店だけである。

 さて本日、昼飯に金沢八景で回転寿司屋に入った。
 これが驚いたのは、まさにハイテクなのである。
 カウンタの前に一人一人に対応して液晶タッチパネルが吊ってある。この画面にある寿司種の絵をタッチ、個数をタッチ、注文をタッチすると、OKが出る。
 待っていると、目の前の回転コース上に注文品がまわってやってきて、パネルから注意音が出るので、それを拾うのである。
 ほかの客の注文品も回っているから、音が出たとき目の前にある皿が自分のものであることを確認して拾わなければならない。うっかりしていると流れていってしまう。なかなか緊張するのであった、回転寿司ごときに、、。

 という仕掛けを、両隣客の初対面のオジサンとネエチャンにおしえてもらいながらやって、無事に昼飯を食うことができた。
 食い終わった皿は、カウンターの目の前に穴があってそこに放り込む。カウンターの上の汚れ皿の山が回転寿司の欠点であるが、ここではきれいに片付いて気持ちがよい。

 だからお勘定は、皿の数を数えるのではなく、これもパネルの「おあいそ」ってところにタッチすると、店員が飛んできて勘定書きを見せて「はい、この枚数ですがよろしいですか」と聞く。
 聞かれても皿が目の前にないから、いいとも悪いとも返事ができないのであった。皿にICチップでも仕込んであるのかしら。

 タッチパネル如きには驚かないが、回転寿司屋で出てくるとはねえ、、。いまにカウンターでキーボードを叩くようになるか。
 厨房は見えなかったが、そこではロボットが寿司を握っているにちがいない。あ、あの店員の女性もロボットだったかも、、。
 全品105円に相当して寿司そのものは美味くはなかったが、ハイテク寿司屋を楽しんだ。でも、いっぺんやれば十分である。

2010/06/30

285【世相戯評】世界タマケリ大会に占領された新聞がようやく普通の新聞に戻った

 これでようやく新聞も普通に戻るだろうと、ほっとしている。
 なにしろ今朝の新聞は、負けたのに1面も社会面も占領して、困ったものである。
 そう、世界タマケリ運動会の記事である。
 実は、昨夜は日本パラグアイマッチをTVライブで見た。はじめてである。
 これで決着つくかと期待したら、そのとおりになった。
 PC画面のはじっこに小さく写しながら、文章書きをしていたが、うるさくて音を消した。
 ブブセラもそうだが、それよりもおしゃべりがうるさい。あんなにしゃべらなくても見れば分かるよ。それともタマケリ試合ってのは、解説がないと世のファンは分からないのかしら、。
 いちばん面白かったのは、最後の1対1の対決であった。
 相手の作戦というか、心理状態というか、目つき動作というか、それを互いに読みあってすばやく予想して対応する。力や技じゃなくて心理作戦で相手をうまく裏切った方が勝ちってのが、面白い。
 それに引き換え、本試合のほうは2時間も右往左往しているだけで、なにが面白いのか。

(夜、追記)
 夕刊もデカデカと1面から最後まで占領しているので、ハテナ、もしかしたら日本チームは勝ったのかしら?、サッカーのルールはゴール数が少ないほうが勝ちなのか?、と、今朝は読まなかった記事を読んだら、やっぱり負けていた。もう、いいかげんにせ~よ、。

●参照
http://datey.blogspot.com/2010/06/277.html

284【言葉の酔時記】縦割りでそれぞれ勝手な言い方の役所用語

 区役所の年金保険課から手紙が来た。
 「課税所得」が現役並みなので医療費負担が3割になるが、夫婦とも70歳以上なので特別申請手続きすれば1割になるのでどうぞ、というのである。

 そこで所得税確定申告の控えを見ると、「課税される所得金額」は現役並みに届かないのである。おかしい。
 一方、区役所の民税課から来た税額決定通知書の「課税標準額」を見ると、これは現役並みの額である。
 とすると、「課税所得」(区役所年金保険課)と「課税される所得金額」(国税庁)と「課税標準額」(区役所市民税課)の関係はどうなっているのだろう?

 保険課に質問したら市民税課にきいて教えてくれた。
 分かったことは、まず同じ区役所の「課税所得」と「課税標準額」とは同じものであること。同じなら同じ名前にしろよ、わざわざややこしくするなって。
 次に「課税される所得金額」(国税庁)と「課税所得」(中区保険課)とは、違うとのこと。控除する金額を所得税の場合とは異なる計算をするのだという。
 ソックリな用語で実は違うってのは、誤解を招きやすい、ややこしい。
 縦割り勝手な名づけ役所用語をナントカしてくださいよ。

2010/06/29

283【各地に風景】そうか静岡は徳川家康の町であったと足と目で認識してきた

 静岡に行ってきた。このたびは地元の商店街の経営者の人たちや、静岡の都市プランナーたちと一緒であったので、わたしはなにも知らない静岡の歴史について学ぶことが多かった。
 そのなかで、特にわたしの無知が恥かしいが、この街は徳川家康で持っているのであった。

 徳川家康というと、静岡あたり出身であるらしいことは分かるが、やっぱり江戸でしょうよ、と思っていたのだ。
 ところが征夷大将軍をたったの2年で退いてからは大御所といわれて、静岡つまり駿府で10年間も実質的に政治の実権をもっていたののであった。天皇家ならば院政である。

 江戸初期の静岡は、日本の政治中心であったのだ、と、静岡の人たちは思っているようだ。
 浅間神社商店街できいた歴史的な話にも、徳川家康、金地院崇伝、林羅山などが地元の人として登場するのである。徳川様の町である。
 家康号、竹千代号という名のボンネットバスが、浅間神社商店街を走っている。

 徳川家といえば、徳川慶喜は敗軍となって静岡に蟄居したが、このとき江戸から観世流能役者たちが家元ともども静岡に移った。
 おなじように学者も移って来て、「静岡学問所}ができたそうである。
 ほかにもその時代の一流どころが移ってきたすれば、維新前後の静岡は一時的にせよ、日本でもかなり高い文化的状況であったのだろう。
 それは今の静岡に続いているのだろうか。

●参照→静岡:門前町の盛衰ー静岡の街並み(2010.06)

2010/06/28

282【世相戯評】博打騒ぎの相撲界に都市計画界の大御所の伊藤滋さんが登場とは???

 今日の新聞(朝日新聞2010年6月28日)朝刊第一面トップに、伊藤滋さんの写真が載っている。
 あれ、珍しくも都市計画で大ニュースなのかと見れば、なんだ、相撲取りどもの博打騒ぎである。
 なんとまあ、伊藤さんはご専門から大きく外れて、相撲協会の賭博事件調査の担当委員会の座長であるとか。教育者としてのご出馬であろうか。

 いつだったかいただいた年賀状に「去年いちばん驚いたことは、相撲協会の理事に推薦されたこと、、」なんて書いてあったのを、思い出した。
 でも、この伊藤さんの記事を見た世間の人たちで、この方が日本の都市計画の大御所であることを知っている人は、どれくらいいるものだろうか。

 ほかの委員の肩書きは、元検事とか元警察のなんとかとか、ご専門がもっともらしく分かるのだが、伊藤さんの肩書きは早稲田大学特命教授である。
 これでは何がご専門なのか分からないが、もしかしたら早稲田大学から特に任命されて、相撲協会のごたごたに首を突っ込まれているのかしら、と思うひともいるだろう。

 ちなみに、伊藤滋さんは、文学者伊藤整のご子息である。
 なんだかしらないが、伊藤先生、ご健闘を祈ります、、。
 へえ~、相撲取りが野球賭博やるのか、じゃあ野球屋は相撲賭博やっているとか、今はサッカー賭博が流行っているとか、あるのかしら?
 ところでご関係者は、ゴルフで賭けをやってないんでしょうね。

2010/06/26

281【世相戯評】こんなにもたくさんの政党があるのかよ~

 あきつ新党、改革党、共産党、公明党、幸福党、国民新党、自民党、社民党、女性党、スマイル党、世界経済共同体党、大地党、たちあがれ日本党、日本創新党、新党フリーウェイクラブ、新党本質、民主党、みんなの党

 新聞の参議院議員選挙立候補者の一覧を眺めていたら、なんだか面白い名の政党がある。そこでしげしげとあちらこちら参照しつつ、政党名らしいものを拾い上げたのがこれである。選挙の公平性から50音順にならべておく。

 ただし、新聞では略称だけしか書いていないものもあって、これが正しい政党名かどうか分からない。
 東京都の選挙区にとくに珍しいというか、普段は聞いたことのない政党名の立候補者がおおいのは、毎度のことである。

 新聞(朝日)の政党名の候補者欄への記述が、政党名の略称をかいてあるものと、諸派とひとくくりにしてその他大勢の分類にしているものがある。
 例えば、選挙区欄では、幸福党は「幸」とかいてあるのに、日本創新党、世界経済共同体党やスマイル党は「諸派」としてその他扱いである。そのくせ、比例区欄では日本創新党、女性党は諸派ではなくて政党名が書いてある。
 この差別はいったいどこから来るのだろうか。

 ところで、選挙の投票推進運動で、「みんな幸福のために女性スマイルたちあがれ」なんて標語は禁物になったんであるな、。
 むかしは「公明選挙」といっていたものだが、政党に乗っ取られた。

●参照
174選挙あれこれ 
http://datey.blogspot.com/2009/08/174.html
172またもや翼賛選挙
http://datey.blogspot.com/2009/08/172.html
042選挙に行かない
http://datey.blogspot.com/2008/09/election.html
175選挙TV報道
http://datey.blogspot.com/2009/08/175.html
163言葉の酔時記・政党の名前
http://datey.blogspot.com/2009/08/163.html

2010/06/24

280【能楽鑑賞】惜しまれる能楽師関根祥人の死

 関根祥人がなくなったと今朝の新聞にある。祥六の読み違いと思ったがそうではなかった。
 わたしがファンであったこの能楽師は、まだ50歳であの芸を見せてくれなくなってしまった。

 去年の5月、横浜能楽堂で祥六、祥人、祥丸の3代が出演する石橋をみた。
 今年は7月3日に観世能楽堂で再演する予定であったのが、その日が葬儀となってしまったのが、お気の毒である。
 死因は急性大動脈解離とあって、WEBで見ると高血圧性の病気らしい。

●参照→134三代の能楽 http://datey.blogspot.com/2009/05/134.html

2010/06/21

279【世相戯評・言葉の酔時記】二つの大企業の新聞広告を批評する

 今朝(2010年6月21日)の朝日新聞に、二つの全面広告がある。それがなんだかおかしいのである。
 ひとつはIBM世界で、日本で、スマートな都市が生まれつつあります
 コンピューターグラフィックらしい「スマートな都市」の絵が大きく載っているのだが、これのどこがスマートなのか? どうみても立体スラムにしか見えない。
 広告ってのは、どこか現実から少し乖離したあたりを示して、それに憧れ、あるいは羨ましく思わせるものと思うのだが、この絵はへたくそというか、現実そのものを絵にしただけである。
 形容詞のスマートsmartの意味を辞書(英辞郎)で見ると、
「利口な、賢明な、賢い、頭が切れる、頭の回転が速い、(機器が)高性能の、コンピュータを用いた、コンピュータ化された、ハイテクの、気が利く、(外見などが)格好いい、おしゃれな、洗練された、小粋な、ハイカラの、最新流行の、(人や店などが)上流社会の、粋な、高級な、(人の動作や物事の動きが)きびきびした、活発な、急激な、(人の言動が)生意気な、こしゃくな、抜け目のない、〈和製英語〉スマートな(やせている)」
 この広告がどの意味なのか分からないが、視覚的にはとてもスマートな広告ではない。
     ◆
 二つ目は、イオン命あふれる森を、未来のこどもたちへ
 まず、「子どもたちへ」は言葉としておかしい。「子供」は子の複数形だから、さらに複数を意味する「達」をつけてはヘン。
 写真は、中国の万里の長城あたりである。ここに苗木を植えて森にするプロジェクトをずいぶん前から続けている。それは高い評価をしたい。

 問題は、そのイオンが、日本では森をつぶしてきていることだ。郊外の田畑や森林をつぶして巨大なショッピングセンターをつくり続けてきている。
それは緑をつぶすばかりか、その近隣の歴史的な街の商業をつぶして、街を壊してもいる。そして市場が飽和あるいは縮小すればさっさと撤退していく。いわゆる焼畑商業である。跡は廃墟となったままであるから、「跡は野となれ山となれ」よりももっと始末が悪い。

 どうもこの中国植樹プロジェクトは、日本で緑壊しをしてきた罪滅ぼしでもしているように見えるのは、わたしの僻目である。
 僻目ついでに言えば、これでイオンは中国でのイメージを上げておいて、これからは中国各地の都市郊外で巨大ショッピングセンター開発を容易にする基礎づくりをしたので、焼畑商業を輸出するのであろうか。

2010/06/20

278【怪しいハイテク】merory of PC

 わたしのPCが時々つまづくような感じがするときが多いような気がする。稀にはストップして、いわゆるフリーズになってしまう時もある。
 そんなところに旧友から来たメイルに、彼もそんなPCにあいそうつかして買い換えてWIN7にしたという。なにやらかにやら入れ替えが超面倒だったけど、こんどは滞ることなく早く動くようになった。

 そうか、わたしもそうするかなあ、うちのPCはメモリーの奴がたしか512MBなんで、けつまづくんだろうなあ、買い換えるかなあ、でもいまのWINXPは動いているしなあ、買い換えて乗り換えのために馬鹿マニュアルにつきあわされるのはごめんだなあ、いや、あの超めんどくささに腹たてているとボケ防止になるなあ、でも高価なボケ防止だなあ、この間スキャナーが壊れて複合プリンター買ったし、続いて洗濯機が壊れてこれも買ったしなあ、ここはメモリー増設するほうが手っ取り早くて安価で、そうだっ、なによりまだ使えるPCをゴミにするモッタイナイことしなくて環境対応志向であるのがいまどき的でよろしい、と、まあこういう言い訳を考えついたのであった。

 メールでそのナヤミを旧友たちのメーリングリストに流したら、なかの一人が経験上でそれがよろしいといってくれた。
 さっそくWEBサイトでうちのPCに適するメモリーを探して型番を調べ、その型番のメモリーを売っているところを検索した。結局はAMAZONから代金引換で512MBを2枚買った。それ以上の増設は不可のPCである。
    ◆
 次の日にはそのメモリーはやって来た。さっそく取替え作業にに入る。
 電気製品の修理なんてのは、電線が切れたのをつなぐか、電球の切れたのを取り替えるくらいしかやったことがない。こんな精密機械をいじったことは皆無である。
 これもWEBサイト大明神にお伺いを立てて、メモリー取替え方法を教えていただいたのである。

 問題は、PCの箱を開けるのがどうしたらいいかわからない。WBサイト見てもよく分からない。
 とにかくビスをはずしまくって、こねくり回していたら、パカッとあいたのだった。良く見たら3つのビスをはずせばすむのを8つもはずしていた。開ける方法ぐらい箱に書いておけよ。

 来た奴と同じ格好のメモリーがあるので、どう刺さっているか見極めて抜き取り、新品を同じようにはめこんだ。
 箱の蓋を元に戻し、電源をつなぎ、あれこれつないでスイッチオン、おお~、画面が登場したぞ、インターネットにもつながるぞ、よかったよかった。
 小学生の頃、4球スーパーなるラジオを組み立てて、音が出たときの感激を思い出した。そうか、あの時はわたしも精密機械をいじったのだったか、。
    ◆
 でも、これで渋滞や凍結がなくなるのか、前より早くなったのか、しばらく使ってみないと分からないが、せっかくやったのだから、とりあえず早くなったような気がすると思い込むことにする。
 取り外したメモリーなるものを、捨てる前にしげしげと見ると、これがまあ、すばらしいアートなのである。
 まさかアートとしてデザインしているのではあるまいが、「機能的なものは美しい」という、近代建築のデザイン原理を思い出させる。
 メモリーのメモリーとして写真を撮った。

(追記100620)
 さっそくこの状況を書いて旧友たちのメーリングリストに流したら、推奨してくれた彼からこんなメールをもらった。
「処理速度はCPUで決まるので、通常作業ではスピードアップの実感はないはず。沢山のアプリケーションをパラで流しているときには、メインメモリーの容量を越え、HDDとのアプリ入替えが始まると、極端にスピードが低下する。最近はネットのブラウザの規模が大きくなり、数箇所をパラで流しているときによく経験した。今回の増設はこのケースを回避できるということ。したがって早くなったような気がするだけで、通常の作業では作業速度の変化はないはず」
 あ、そういうものなんですね。眼に見えて劇的に何かが変わると思い込んでいたのが恥かしい。早くなったと思い込んでもしょうがないような、思い込んでもいいような。
 とにかくありがとう。

2010/06/16

277【世相戯評】世界たまけり運動会

 新聞もテレビもインターネットも、アフリカで開催している「世界たまけり運動会」のことで一杯である。
 あんなに点が入らない、つまらないスポーツゲームはない。90分もの長丁場を、大勢のプレイヤーが、たまけりしつつ右往左往するばかり、それのどこが面白いのか。
 ごく稀に点が入ると、大げさに喜んで大の男たちが抱きつきあったりして、こちらが恥かしくなって見ていられない。

 そして日本から行ったチームが、アフリカのどことかチームに勝ったとて、大騒ぎである。優勝したのかと思ったぞ。まだ1回戦ジャン。
 新聞のスポーツ欄からはみ出して1面にも社会面にも大きく場所をとる。TVのニュース番組にもはじめのほうにでしゃばってきている。読むところがない、見るニュースがない、困ったものである。

 それも妙なことに、今日も日本が勝った記事やニュースを放送しているのだが、どうも一昨日のプレイのくり返し報道らしい。同じ事件で3日も稼ぐなんて、あくどいぞ。
 たまけりゲームで日本人のチームが勝つのは、かなり珍しい事件なのだろう。

 もうすぐ高校野球が甲子園で始まるらしい。そうしたら、こちとらはダブルパンチである。新聞代とTV聴視料金を負けろ。
 サッカーといえば、はるか昔の高校生のときのこと。運動会の後の校庭でファイアーストーム(あら、懐かしい言葉だ)をしたとき、勢い余って木製のサッカーゴールを倒して薪にして燃やしてしまった。大いに怒られた。

(追記 2010.6.20)
 今朝の新聞を見ると、日本からのチームは今度はオランダに負けた。負けたくせに第1面のトップ記事で反面以上占めているし、社会面もそうである。
 ところで、普通なら新聞は国名をイギリスとか英国とか書くのに、サッカー大会ではイングランドと書いているのは何故か。あそこも韓国と北朝鮮みたいにナントカランドと分裂国家なのか。


276【怪しいハイテク】新印刷・読取複合機

 8年くらいまえに買ったエプソンのスキャナーが壊れた。修理に出そうかと思ったが、いまどきは修理のほうが買うより高いこともある。
 プリンターとスキャナーの複合機を買おうか、スキャナー専用機を買おうかと迷った。プリンターはキャノンの安いのが手元にあって、まだ使える。
 問題はスキャナーなのであるが、プリンターも疲れ気味の感もあるので、このさい複合機を買うかと調べた。いまやプリントも、スキャンも、ものによってはファクスもできる複合機が主流らしい。
 でもハイテク機器にはおなじみの、どうせ要りもしない機能があれこれついているのだろう。
    ◆
 わたしは1万枚くらいのマウントしたカラーポジフィルムがあり、これをデジダルデータにする必要があるので、その機能がつくものを探した。
 ところが、それがないのである。ようやくひとつだけあったのが、キャノンのMP990というタイプである。そういう用途に使う人はいないのだろうか。
 でもネットで調べると、スライドフィルムからデジタルデータにするのを外注すると、1枚100円もするのだ。それじゃあ100万円もかかってしまう。
 実は1万円でYASHICAのフィルムスキャナー専用機を買ったのだが、性能が悪くてこれはどうしようもない代物であった。付属のソフトがエプソンのスキャンソフトと競合して動かない。しょうがないからペイントで取り込むのだが、光源の明るさの自動調整がないらしく、画面がハレーションを起して使い物にならない。これは買わないほうがいいですよ。
 壊れたエプソンのスキャナーにはもちろんフィルムスキャナーがついているのだが、これが読み取りがまったくもって遅いのである。新しい奴ならもっと早いだろうと期待もする。
    ◆
 プリンターも今のは安物だから、両面印刷が自動的にはできない。これからブックデザインと手作り本を趣味にしようというとき、それでは困るのだ。
 という理由をつけて自分を説得し、キャノンMP990を買うことにした。
 近くの電器屋の新聞折込広告に31600円とあり、そばに小さく値段は相談に応じますと書いてある。ネットで調べると最安値が26160円とある。
 店で店員にもうちょっと負けてよというと、500円安くしますという。
 え、ネットでみるともっと安いよ、そこまでとは言わないけど近い値段にしてよ。
 店員はネットで調べていたが、持って帰るなら26800円にするという。これならネットで注文して代金引換手数料を払うことを思えば大差ない。で、買った。
 店から家まで150m、30kgくらいありそうで重くて抱えて帰るのが大変だった。ちょうど雨が降ってきても両手がふさがっていて、傘もさせないのであった。
    ◆
 さて性能である。まだよく分からないが、いちばん期待するマウントスライドフィルムのスキャンは、壊れたエプソンよりもかなり早いので、これはよかった。
 セットアップするために嫌いなマニュアルを読んでいたが、そこでわかったことは、写真のプリントがいかに簡単に美しくできるか、ということばかり強調していることだ。
 そうか、世間の人は写真のためにプリンターを買うのか。おまけにつけてくれたのも写真用の紙ばかりであった。
 わたしはめったに写真のプリントをしない。ほとんど文書であるから、マニュアルの途中で、このプリンターは文書印刷できるのかと不安になったくらいである。文書“も”印刷できます、そんな書き方である。
 なんだかでかくて重くて、いろいろどうでもいいような機能がついているらしいが、使うことはないかもなあ。
 OCR機能もある。これはよくつかう。20年位前には200万円くらいで、とても手が出ないソフトだったが、いまやおまけソフトなのである。
 そういえばその頃に買ったスキャナーは40万円もしたなあ、でもなあ、あれはほとんど使い物にならなかったなあ、、。

2010/06/14

275【世相戯評】イトカワさんちにハヤブサ君がはじめてのおつかいに行ってきたらしい

 宇宙のお隣「イトカワ」さんちに行って、ジャガイモのかけらをもらってきてちょうだいって頼まれた「はやぶさ」くん。
 はじめてのおつかいに張り切って出かけて、無事にイトカワさんちに着いたのはいいけど、庭先でこけてしまった。
 泣き泣きようやく起き上がったのはいいけど、気が動転してかけらを拾うことを忘れてしまって帰途についちゃった。
 帰り道で道草を食ったり、迷子になったり、転んで怪我したりして、おうちの人を心配させつづけたけど、4年で帰る筈を7年もかけて、ようやくおうちの地球に帰り着いた。
    ◆
 宇宙飛行の現実に慣れてきて、もうロマンがなくなったと思っていたら、惑星探査機「はやぶさ」が話題になっている。
 わたしも昨夜は、帰還場面のネット中継サイトに入ったけど、混んでいて全然つながらなかった。
 わたしでさえもそうしたくらいの人気ぶりは、ひとえにその飛行のドジさ加減と、それを飛ばした宇宙屋サンたちの心配さ加減が、いかにも人間臭いからである。
 宇宙でいっぱいのトラブルを乗り越えた有名な事件は、アポロ13号帰還劇であった。あの時は酸素飢餓になるので、人間の命がかかっていた。
 こんどの「はやぶさ」は無人だったから、4年の予定が7年に延びても、人間が飢餓になることはなかった。もっともロケットは燃料切れで飢餓状態であったらしいが、なんとか食いつながせたのがロマンの出所である。
 地球誕生の45億年前の何かを抱えている「イトカワ」への旅は、まさにタイムトラベルである。はたして45億年前まで行ってきた証拠物件を持って帰ったのかしら。
 それにしても宇宙のジャガイモ、いやピーナツか、奇妙なもんである。
    ◆
 旅の疲れに燃えつきた「はやぶさ」くんは、来年から東北新幹線の列車に生まれ変ってこの世に登場することになった。こんどは無事におつかいをやってくれるだろう。

2010/06/11

274【世相戯評】牛豚の口蹄疫なる病気問題はまるで人間にも起きそうな恐怖のSF世界

 ある都市で突然に新種の流行病で、住民が次々に死に出す。特に過密なスラム街での流行がすごい。
 対応する治療方法も薬も開発されていないので、対策はただひとつ、発生地域を閉鎖して封じ込め、その中で消滅させる作戦しかない。

 あらゆる交通出入りを遮断する。その都市を封鎖する。食糧や医薬品を空輸して空中から投下する。
 住民はパニックになって逃げ出そうとするが、政府は軍隊を使って厳重に囲い込む。
 そのようななかで噂が流れる。ある種のエリートの人々だけには、密かに脱出して避難する作戦がされているらしいと。不公平だと、抗議の声がごうごうと起る。

 そうやって、発生都市ではむごい死体処理作戦が進んで1か月、ようやくに沈静化する様子が見えてきた。
 ところが、遥かはなれた都市でまた発生する。その犠牲と努力もむなしく、どうやら虫や鳥がその病原菌を運ぶらしく、飛び火のように発生した。また、同じ作戦である。
 そうこうしているうちに、避難させたエリートが発病し、、、。
 こんなSFF小説なんて、多分、もう書いたものがあるに違いない。
    ◆
 今、宮崎県で猛威を振るう牛や豚の病の口蹄疫事件は、現場から遠くにいるわたしには、申し訳ないがどこかSF小説の世界のようにも思える。
 あの大きな生き物を何万頭も短期間に殺す人間は、牛豚にとっては口蹄疫ウイルスよりもはるかに怖い存在であろう。

 鯨を殺すと怒る西欧系の人たちは、こんな大量に動物殺戮をする東洋人をどう思っているのだろうか。牛や豚ならオレたちも殺しているからって、抗議に来ないのかしら。
 どうして突然に大量殺戮することになるのだろうか。それは多分、肉牛・肉豚類の飼育の場は食糧原材料の生産工場という効率をもとめて、動物として生きるには超過密な環境なのだろう。
 1頭でも罹病するとぱっと蔓延するのだろう。広い牧場のあちこちに散在して草を食っていれば、こうはならないのだろうと推測する。生物多様性の反対の極にあるのだ。

 このことは前に養鶏場の鶏が鳥ウィルスにやられたときに、まさに過密飼育によって大量罹病大量処分が起きた。それに何も学ばなかったのか、それとも鶏と牛豚とは状況が異なるのかしら。
 口蹄疫が起きた地域を閉鎖する策が出されている。

 第2次大戦争が終わった直後のことだが、ベルリン封鎖という大事件があったことを思いだす。
 また、中世にペストが大流行したとき、人間の世界でもこんなことが起きたのかしら、と連想すると怖くなる。

2010/06/07

273【文化・歴史】木喰上人作の栃窪薬師堂にある仏像群は集落民の群像にちがいない


 木喰仏はやはり里の仏であり、庶民の家の仏であった。
 これまでにいくつか木喰仏のことを書いているが、このたび改めてそう思った。
 遅い春が終わったと思ったらいきなり夏の日照りの6月6日、栃木県鹿沼市の栃窪集落に、木喰仏を訪ねる機会があった。木喰上人の末裔、伊藤勇さんが企画してくださった。
 栃窪あたりは、関東平野が北にいたってそろそろ尽きようとする地域で、低い丘陵まじりののどかな田園地帯である。点在する集落ごとに今も寺や社が見える。
    ◆
 栃窪の薬師堂には、薬師如来、日光・月光両菩薩、十二神将など15体の木喰作の木彫像がある。1780年、木喰行道が弟子の白道とともにふらりと立ち寄って、50日間滞在したときの作品である。
 木喰は全国廻行の旅の途中、泊めてもらったもてなしに応えるべく仏像を彫って、世話になった人たちに、あるいは集落においていった。
 栃窪にその頃あった寺に滞在し、薬師堂を建立して15体の木彫仏像の群像を置いていったし、3軒の個人宅にも4体をおいていった。
 このたび、それらを守り伝える地元の人たちが薬師堂に集めてくださって、一度に見る機会があった。 

    ◆
 1780年といえば木喰上人は63歳である。仏像を彫り始めてからまだ3年、後の微笑仏と比べればいかにも古拙とも言うべき出来である。3体の墨書には弟子の白道の名もあるそうだから、共作であろう。
 薬師堂の段に居並ぶ十二神将たちの顔が、実は栃窪集落の人たちを写したのであろう、との解説を聞いた。それが証拠には神将たちは、それぞれ鎌や鋤、火縄などを持っているのである。
 中にはバアチャンにも見える素朴にしてリアルな十二神将の表情は、なるほどそのせいであるのかと納得する。世話してくれた人たちへの似顔絵ならぬ似顔彫刻とすれば、その子孫が薬師堂で仏を拝めば、そのまま先祖の面影に再会することもできることになる。これは栃窪集落民の群像彫刻である。
    ◆
 集落内の家に伝わる木喰仏も見せていただいたが、これらは普段は仏壇に安置するのだろうが、家の人たちが抱いたり磨いたりするし、子どもの玩具にもなったという。
 薬師堂仏と家仏と比べて面白かったのは、薬師堂仏は初期木喰仏のどこか無骨さをみせているのに対して、家仏はながらく人の手に触られて黒光りし、彫りの鑿跡も丸みがついて、どこか後の微笑仏につながるやさしさが加わっていたことだ。
 そして家仏として大小二つの大黒天という福の神を遺しているところが興味深い。庶民には教義の難解な真言密教の仏よりも、日常の冨をもたらす福の神である。
 薬師堂の木喰仏たちも、多分、かつては抱かれ、遊びに使われてもいたのであろう。それがまさに木喰仏らしい信仰の仕方とも言える。
    ◆
 この薬師堂と木喰仏は、いまや24戸となったこの小さな集落民たちで維持している。薬師堂とその前にある神社、そして神社境内にある公会堂、これらは一体となった集落のコミュニティセンターであるようだ。
 薬師堂の木喰仏は県の文化財指定となって、かつてのように自由に触ることはできない。しかし文化財を守るために大谷石で囲われる耐火の御堂を、県からの補助金を入れて建てることができた。
 集落ではこの薬師堂で「天然仏」という毎年の民俗行事の祭礼をおこなっているそうだ。そのときは薬師堂も神社もひとつのイベント会場となる。祭例をつかさどるのは、近くの寺院の僧侶であるという。
 ここの木喰仏の現代における大きな意味は、集落共同体の象徴となって、コミュニティーの継続に寄与していることであろう。かつては信仰とはそういうものであったのだろう。
    ◆
 大正末期の柳宗悦による木喰仏発見によって美術となった後と、それ以前の無名の里の仏とでは、木喰仏のイコン性は社会的には大きく変わった。
 ここ栃窪集落でも、県文化財指定によって里におけるイコン性に微妙な変化があっただろう。全国各地でどのような変化があったか知りたい気がする。
 仏像や神像には、堂宇の奥深く安置されてめったに見ることもましてや触ることもできないものもあれば、全く逆に家庭の仏壇や神棚に置かれて日常的に目に触れ手にとるものもある。その間にはいくつもの段階があるだろう。
 木喰仏ははじめは後者であったのだろうが、今ではほとんどが前者になりつつあるようだ。
 栃窪の薬師堂の仏像群も、創建時は狭いお堂の中で手にとるようにしていたかもしれない。それが壇に飾られ、箱に入れられ、今では仏像群だけを隔離する鉄の扉の向うに安置される。
 江戸時代に一宿一飯のお礼に木彫をおいていく旅の勧進僧(勧進は乞食と同義語になった)を、集落や商人たちがマレビトとして歓迎したようだ。絵描きもそうやって旅をしていたし、俳諧の松尾芭蕉も似たようなものだ。
 マレビトを迎えた集落の人たちは、そのもたらしてくる見知らぬ外の世界の情報に耳をかたむけていたのだろう。その人と情報のイコンとして木彫像は後世にまで伝えられた。
    ◆
 鹿沼栃窪の薬師堂に行くときは車に乗せてもらったが、帰りは鹿沼駅まで2キロあまりを歩いた。
 日本各地を行脚した木喰上人が見た田園風景を、木喰上人と同じ視線と歩みでみてこそ、木喰仏の里の仏としての意味が分かるかもしれないと思うのである。
 現代のスピードで木喰仏に行き着き、仏像を鑑賞だけしただけまた現代のスピードで立ち去っていては、あまりに見えないことがありすぎる。
 木喰上人を接待し、木喰の仏像を大切に守ってきた集落の田園、家屋、寺院、神社など、木喰の風景をゆったりと見たかったのである。
 もっとも、歩く道には自動車が行き交って、うるさく危険であり、本当なら田圃の中の畦道を通りたかったが、道不案内では仕方なかった。
 次の3回目に丸畑に行くときは、あの静かな林の中の坂道をゆっくりと歩いて登ってみたい。

◆参照
3つの展覧会http://datey.blogspot.com/2008/07/blog-post_11.html
木喰微笑仏の微笑とはhttp://datey.blogspot.com/2009/04/115.html
木喰の風景https://sites.google.com/site/machimorig0/mokujikibutu

2010/06/03

272【世相戯評】鳩から豆鉄砲を撃たれてしまった選挙民

 わたしが小学生のころは首相といえば鳩山一郎、吉田茂とだれでも覚えていたものだ。この20年くらいは、子どもはもちろんだが大人も覚えていられない。
 ましてや外国のお方は、日本に首相はいるのかしら、なんて。
 まあ、それでも日常生活はかわらないから、政治はわたしには遠いものである。沖縄の人はそうは行かないだろうけど、。
 またまた、またもや、こんどもまた、総理大臣をおとりかえ交換する選挙民は、いったいどういうおつもりなんでしょうかと、選挙しなかったわたしは思うのだ。

 それにしても民主党も変った姓の人が多い。このところTVニュースを見ているので、政治家の名前の読み方も分かったのだ。ま、小沢とか岡田とか陳腐な姓の方もいますけどね。
 鳩山なんて姓というよりも雅号ですな。ハトヤマキュウザンなんてしゃれていると思うけどなあ、引退して名乗ってはいかがですか。あ、逆にして鳩山山鳩、サンキュウでは、、。

 菅というのも読みに困る。スガって政治家もいたな、友人にスゲさんがいる。
 そして樽床とは超珍しい、テレビ見たからタルトコとわかった。知床を連想して北海道の方かと思ったら、言葉に関西訛りがある。
 ところで、今回の辞職ってイシュウが分かりやすいなあ、オバマさんのアメリカに対するあてつけ、いや抗議のハラキリか。
 それなら選挙民はハトを責めるのじゃなくてオバマを責めなくっちゃ。