2010/06/02

271【横浜ご近所探検】バスバー

 もう3年も前(2007年)の夏、寿町のホステルビレッジに友人たちと泊まった。ドヤ街のドヤをヤドにしているところ。
 その頃の経営はファニービーという会社で、ステキな女性リーダーと、奇妙なオジサンが居た。今はどちらもいないしファニービーも消えて、コトラボ会社の経営である。

 さて、泊まった晩のこと、そのお二人の案内でわたしたちは奇妙なバーに行った。
 本牧あたりの先で街の灯は消え去り、高速道路の高架をくぐって、草ぼうぼうの埋立地の先、物揚場らしい岸壁の上に出た。横浜の秘境か。
 先方に青色のボロバスがとまっていて、これがバーである。暗い岸壁の上に木のテーブルとベンチもある。バスの中も怪しい雰囲気である。

 岸壁の上で飲んでいると、背中から高速道路の高架から騒音と排ガスが降ってくる。目前には暗い入り江があって、向こう岸には高層団地住宅の灯がきらめいていて、こちら側の殺伐たる風景と対照的である。
 まあ、普通の常識では営業はありえない場所であった。もちろん非合法営業だろう。
 だがこちらとしてはその場所といい、非合法をいい、アジールそのもので、酒の味がいちだんと美味いのであった。大げさに言えば、禁酒法時代の酒飲みの秘密のタノシミと冒険の感もあった。
 参照→http://jsurp.net/machikan/yokohamareport.pdf


 さて今年3月末、そのときに一緒に行った仲間が近くを通りがかりに寄ってみたら、消えていたとのことだった。
 そしてまたそのすぐ後に、そのときの別の仲間から、BANKART・NYKに近いうちに営業再開するとの情報をもらった。

 気になっていたがようやく今日、BANKART・NYKに行ってみたら、青バスが岸壁にとまっていた。おお、これか~、BANKARTも粋なことやるもんだな。
 BANKART喫茶コーナーの女性に聞けば、4月からここで再開、夜8時から午前2時まで営業とのこと。
 バスを見れば、ボロではあるがえらくきれいなのは、塗り替えたのかしら。その女性は前のバスバーに行ったことないが、持ってきたと聞いているとのこと。

 今度は非合法であるはずがない。なにしろ日本郵船の土地だし、市が運営するBANKARTの敷地の中なのだから。その上、隣が神奈川県警本部であるのだ。
 だからバスは綺麗になったし、風景もMM21の超高層やら横浜港のベイブリッジが見えたりして、前がB級というかC級だったのに、今度はA級に格上げである。
 管理された非合法?になってアジール性はすっかり消えたようだが、まあ、アートだと思えばそれでよいか。
 いつか夜になって寄ってみたい。
●参照→横浜B級観光ガイド:関外地区


(追記100612)
 BANKART-NYKで2010年6月12日午後から夜にかけて、昨年暮に急逝した北沢猛さんを回顧してこれからの都市デザインを考える会があった。250人もの大勢が集まった。
 会が終わって岸壁側に出て、バスバーに寄った。
 
いろいろとあちこちから聞くと、前のところを立ち退きとなって、常連の人たちがあちこちに移転先を探しているうちに、BANKARTの関係者に話が届き、そこはアートの世界であるから、面白い、やろうと一気に進めてしまったのだそうだ。

 マスターはあんまり忙しいのは嫌だから、宣伝はしないでと頼んでいるから、世に知られていないが、常連やら面白がり屋やらがやってくる。今夜もいっぱいであった。
 海面に映るミナトミライの灯が見えて、A級穴場になってしまったが、中に座れば雰囲気は前のままである。

2010/05/29

270【言葉の酔時記】はずかしがりもせずにヘノコヘノコと辺野古談義

 ヘ〇コと書くなんてイヤラシイ、ワタシャミントーメンとフクシマさん。
 オレにたてつくとはフテだってハトヤマさん。
 まったくもってキナワメーワクだってナカイマさん。
 久しぶりにTVを見たら、ニュースでそのいきさつをやっていた。
 ヘ〇コ、ヘ〇コと男女が口々にいう。聴いてるこちらが恥かしい、まあ、いろんな意味でね、。
●参照→212辺野古仕分け分別

 わたしがそんな政治ニュースをTVでわざわざ見るし、つい先日もPCで仕分け作業のNET中継を見てしまったくらいだから、新政権は目に見える政治にしたことは、少なくとも前政権とは大きな違いがある。
 これは功績だと思う、内容についてはいろいろとイチャモンはあるがね。
●参照→263民主党は77万票失うか 167時代遅れの民主党公約

2010/05/25

269【法末の四季】山村の棚田で今年も田植えをしてきた

 中越の棚田で、仲間10人と田植えをしてきた。久しぶりの法主集落である。
 この冬は、この豪雪地の住人たちさえも話題にするほどの、まれに見る大雪だった。
 行く道の回りにある杉林のあちこちに、幹が途中から折れた跡が、白く痛々しく見えている。
 わたしたちの拠点の民家も、屋敷周りに植えてある杉の木のうちの2本が、根元近くからボッキリ折れた。モウソウ竹も何本も折れ曲がっている。
 北隣との境のケヤキの木は、雪で危ないので隣の方が伐った。庭木の松ノ木も、支柱にしていた竹が支えきれなくて倒れた。
 母屋と土蔵とを結ぶ廊下が、震災で少し傾いていたのが、雪の重みで傾きが進んだようだ。次の冬も大雪になったら倒壊するかもしれない。
 それでも春がくれば、スギナの草原になった庭には、花が咲いて風情がでてくる。タケノコやらウドも生えてきて、美味い料理になった。
   ◆
 田植えする棚田は合計で5段で5枚ある。昨年までは3枚で、今年は2枚増えた。
 さすがに5枚もとなると、あわせて2000平米近くなって、これまでにように遊びでやっているのだから田植えも稲刈りもなんでも人力でやってみよう、ってわけには行かない。
 3枚は田植え機で、広い2枚を手で植えたのであった。手で植える田には、あらかじめ六角という6角柱の木の梯子のような道具を転がして、碁盤目を土につけておく。その交点に植えていくのだが、なにしろ水中にあるから歩くそばからにごって見えなくなるので、ある程度は適当にやることになる。実はいい加減間隔に植えると、あとで困ることがあるのだが、まあいいや。。
 ウグイスを聞きながらの田植えは、腰の痛いのは兎も角としても、なかなかに風流なものであった。
 新たに増えたのは、その持ち主の住民の方から、もう疲れたのでやってくれないかと仲間に話があったので、できるだけ支援してみることにしたのだ。
 限界を超えた集落だから、このようなことが次第に起きてくるだろう。農業後継者がまれな時代だから、集落では珍しいことではなくて既にあちこちで起きていることである。たまたま今回はわたしたちが話を受けてやることになったのだ。
   ◆
 考えてみれば、この集落にはじめて仲間が来てからもう6年目、米作り体験も4回目の季節に入った。
 こうやって話を持ってきてくださるのは、仲間の努力で集落の方たちから信用される立場になったということであろう。
 しかし、農業技術があるわけではないし、毎日いるのではないから、作業方法や日常管理は地元の方の指導に頼らざるを得ない。
 これから米つくり体験の場を増やすわけにもいかない。増やすなら他から人を連れてくるしかない。仲間の中にはそんな実験を始めようとしているものもいる。
 しかしこれから先、どの棚田も誰かが耕作継承とか支援をすることはできないから、放棄棚田は増えてくるだろう。そのままにしておけば、草が生え木が生えて次第に森に還っていくのが、日本の自然の強さである。
 自然はそれでもよいと思うのだが、人間の高齢化は元に還ることはないから、集落はどうなっていくだろうか。集落縮退計画なるものが必要だろうか、あるいはそのような計画がありうるものだろうか。思案する。
●参照→●中越山村・法末の四季
    ●中越法末・四季物語

2010/05/17

268【本作り趣味】新しい趣味として自家製本づくりを始めることにした

 新しい趣味を始めようと思い立った。思い立ったら書いておかないと忘れるから、ここに書く。
 しかも、道具をすぐに揃えたから、思うだけでやらないってわけには行かないハメに、自分自身を陥らせたのである。
 製本というか装丁というかブックデザインというか、そういう手仕事をやってみることにした。

 早速に図書館からそのための本を借りてきた。栃折久美子著「ワープロで私家版づくり」と同じ著者の「装丁ノート」である。
 読んで基本的なことは分かった。そこでWEB検索したら、ここにも製本の方法を書いたサイトがいくつもある。
 WEBサイトでわかったのだが、自分史を書いて本にしたり、ブログに書いたことを本にするのが流行しているらしい。

 それは自費出版もあるけど、製本趣味で本にすることも流行しているようだ。製本趣味の教室もあるらしいし、NHKで趣味の放送もあったとか。
 なるほど、そういう時代なのか。
 栃折さんの本を読むと、製本はけっこう大昔からあった手仕事で、それなりに面白そうで、奥も深いようだ。
   
 わたしが突然に製本を趣味にしようかと思いついたのは、「父の十五年戦争」なる長文の記録を書いて、キンコーズでプリンター印刷し、ステップラーで中綴じしたA5版冊子を数冊つくり、従兄妹と息子たちに配ったことに端を発する。

 一応は配布し終えたのだが、そうか、表紙をつけてもうちょっと格好よい本にすることもあるなと気が付いた。しかも自分の趣味で一冊一冊異なるデザインにするのだ。いいぞ。
 そうやって、東急ハンズと100円ストアーであれこれと材料と道具を買ってしまったのだ。

 では早速に本にしようかと、新たな紙に新たなインクで印刷をして、5折りの本文(ほんもん)はできた。これを糸で綴じるかと眺めているうちに、もっと厚いほうが立派になるなあ、なんて、欲が出てきた。
 そうなると、ほかの原稿も取り出して編集することになる。それはそれで面白そうだ。やってみようと思いついた。

 だが、まだ始めていない。ほかに先にやるべきことが、それなりにある。
 楽しみは6月になってからだ。趣味は急ぐことはない。問題は忘れることだけだ。だからここに書いておく。

参照⇒◆「まちもり叢書」自家製ブックレットシリーズ

2010/05/16

267【各地の風景】鎌倉鶴岡八幡宮の大銀杏が消えた風景

 久しぶりに鎌倉に行った。今日のお目当ては、鶴岡八幡宮の大銀杏である。この3月に参道大石段脇にあった大銀杏が強風にあっけなく倒れた。
 数百年を越えて聳え立つていたから、永遠に立つものと誰もが思っていたから、そのあっけなさに驚いたものだ。
 あれは生き物であったのだ。遠くから見れば狂気の逆髪のごとく枝葉を天に乱し広げていたし、近くに寄れば巨大な胴周りに気根が牢爺人の瘤か老婆の垂れ乳のごとくにぶら下がり、そろそろ妖怪変化銀杏になる生き物の雰囲気を宿していたものだ。
大銀杏があった頃の景観

大銀杏がなくなった今の景観

 わたしは八幡宮の正面からの写真を、四季に応じてけっこうたくさん撮ってきている。大銀杏が目当てではなくて、社叢森の生態的変化をとらえたいのだ。
 大銀杏が消えた八幡宮の正面の風景は、大銀杏が左半分隠していた随身門が、今は全部見えるようになった。さてこれをどう評価するか。
 この大石段上の随身門は、若宮大路の南方の遠くからも望むことができる。銀杏がある頃よりもよく見えるようになってランドマークの性格が強くなった。
 西欧的な意味ではこれのほうが良いのだろう。

 しかし日本のランドマーク性は、むしろ奥深くに見えないところに隠すことによって深まるのだ。伊勢神宮内宮にしても天皇の居所にしてもそうなのである。
 その点では銀杏によって見え隠れする八幡宮のほうが日本的な象徴性を持っているのである。
 もっとも、それは日本の古代的な思潮であり、仏教が輸入されてからは大伽藍を造って顕示型になったとすれば、八幡宮もながらく八幡宮寺であったのだから、現在のような視覚に仰々しいほうが正しいのだろう。
倒れた大銀杏の根からひこばえが育つのを待つ

●参照→大銀杏の死 

2010/05/10

266【老い行く自分】さくらんぼ狩りをして少年時代の神社境内の生り物の味覚を思い出す

 サクランボを木から直接とって食べ放題、そんな贅沢をした。近くに住む友人の庭木である。実の付いた枝を折ってもらってもちかえった。
 太陽の下で、赤い実を一粒づつつまんでは口に入れていると、思い出したのは少年時のこと、生家の神社境内にあったユスラウメを同じようにして食っていた。
 そういえばその頃、本当にサクランボを食ったことを思いだした。参道の石段沿いに山桜と八重桜があり、そのなかに花が散ったあとで大きめの実をつけるものがあった。
 濃い紫色になる頃に食べると、口の中が紫色になった。ただし美味くはなかったから、味を試す程度だった。今のようなサクランボがあることを知らなかった頃のことで、これをサクランボといっていた。
   ◆
 境内の広場の周りや山林には、いろいろな木の実、果実が四季に応じて勝手に実った。何の手入れもしていないが、そういうものであった。
 戦後の食べのもののない頃は、腹の足しにするおやつでもあった。子どもはそれで四季を知る。
 春の桃は数個が生った。昨今の店に並ぶものと違って、歯ごたえがあり、ほんのり甘くほんのり酸っぱかった。懐かしい味だが、もう出会えそうにない。
 梅の実はたくさんなった。母が梅干を作っていたこともあった。
 広い斜面の竹やぶには、マダケのタケノコがたくさん生えてくる。ちょっととって来てと台所から母に言われて、崖上から身を乗り出しタケノコを折りとった拍子にヤブの斜面をずり落ちたことがあった。
   ◆
 夏になるとユスラウメとグミである。たくさんの実をながい間にわたって食べさせてくれる。グミといわず違う名であったが、思い出せない(追記100620 これを読んだ高校同期の女性がメールをくれて、30分考えて「ぐいび」といったと思い出して教えてくれた)。
 秋は銀杏の巨木から、たくさんの臭い実が落ちてきた。拾い集めて樽に入れてかき回して皮と種を分離する。種を干しておいて貯蔵し、ホーロクで炒って食べた。そういえば焙烙なる素焼き陶器の台所道具は、今もあるのだろうか。
 林の中の一角にキノコが群生していて、これは食べられたが、なんと言うキノコだったのだろうか。
 山栗のイガがはじけて落ちてくる。朝早く拾わないと、散歩に来た人に拾われてしまう。鎮守の森の山林のあちこちに栗の木があるのだが、これはその場所を知っている境内の住人のわたしの秘密の場所である。
 甘柿渋柿2本の柿ノ木には、1年交替でたくさんの実がなった。渋柿はゆでて甘くした。
   ◆
 冬はなにかあったろうか。そうだ柚子があった。濃い緑の葉の独特の香りと、棘を思い出す。葉を食って育った大きな毛虫が、そのまま柚子の葉のにおいを発散していた。
 父が京都の苗木屋から取り寄せて植えた果実の木があった。その名は「チンカポポー」。幼児の耳にも覚えていて、どんな実が成るかたのしみだった。だが、この木は大きくなるばかりで、一向に実がならないままだった。チンカは珍果であったらしい。
   ◆
 ずっと後に鎌倉に住むようになり、庭にユスラウメとグミを実らせたのは、思い出の再現である。
 庭に実生で生えてきた枇杷の木を大きくしたが、これは実が出るとすぐにリスに食われてしまって、めったに人間の口に入らなかった。
 その裏山には栗の果樹園があった。栽培中は入れないが、終わると入れたので枯葉のなかに拾い残しを拾った。キノコも沢山出ていたが、さすがにこれは採集する気にはなれなかった。
   ◆
 サクランボの友人の庭にも、たくさんの実のなる木があった。梅、ヤマモモ、甘夏、みかん、柿、キウィ、ユズなど、味で四季を感じさせる。この元プラスチック技術者は、玄人大工はだしのDIY趣味の延長上で果実作りもやっている。
 韮崎にいる友人もいろいろな果実をつくっているが、こちらは庭ではなくて広い畑である。ここのサクランボはまだならない。リンゴ、ソルダム、栗などとともに、何種類もの野菜も植えていて、この情報工学の専門家はロボット盲導犬の開発に忙しいが、農作にも忙しい。

 参照→136小屋を建てる 025今もし失明したら

2010/05/06

265【各地の景観】醜い景観を醜くなかった頃の景観に復元して遊ぶ景観戯造ごっこ

 インターネットのウェブサイト作りは、高齢社会のボケを防止する有用な道具であると思う。
 まちもり通信サイトで「景観戯造」というシリーズを始めた。
 これは美しい都市景観や自然景観をみていて、あれさえなければもっと良いのにという景観の中の異物を取除くという、景観を偽造する遊びである。

 本物の景観から取除くことはできないが、画像ならそれなりにできることがある。
 ある景観の画像をいじって、要らないかもしれないものを取除いてみると、意外な姿が現れることがある。
 あういは期待に反して、たいして違わないものが現れることもある。
 そんな遊びのような、景観スタディのような、現実ではできないけど画面ではできること、そうやって風景を偽造してみるのだ。

 江戸の名園の今と昔のありえたかもしれない姿、美しい山岳風景とその昔に見えたかもしれない風景など、いくつかの戯造した景観を載せる。
 ご覧になって、さて、あなたはどちらの風景をお好きですか?

題して
景観戯造


その1例をどうぞ

このほか多数あり

今後、ヒマにまかせて随時に追加していきます。

2010/05/02

264【各地の景観】スイスアルプスのアイガー北壁

 ドイツ映画「アイガー北壁」を見てきた。
 映画館に入ったのは何年ぶりだろうか。
 シネなんとかっていう、いくつも映写ホールのある映画館だが、スクリーンがずいぶん小さいし、客席も100人もはいるだろうか。8割くらいのいりこみだった。
 老人料金は1000円であった。さてこれは高いのか安いのか。もうちょっと待てば、近くの貸しディスク屋で老人料金200円で1週間かりられる。

 どうして見に行ったか。
 大学時代の山岳部仲間から、面白かったというメールが来たこと、昔々、この映画原作となっているハインリッヒ・ハーラー著「白い蜘蛛」を読んだ記憶があること、そして2006年6月にわたしはアイガー北壁を登ったことがあるからだ。
 登ったとは、北壁の中のトンネルをユングフラウ登山鉄道で登ったのである。
 それにしてもこんなところを電車を通すなんて、ものすごいことをやるものである。今なら環境保護派が承知しないだろう。
 長いトンネルを掘ったズリを、北壁の横にあけた穴から下に落としたのだそうで、途中の駅でその穴から外をのぞき見ることができる。

 ユングフラウ・ヨッホからの帰りには、トンネルを出たところのアイガーグレッチャー駅で途中下車し、歩いて下山を始めた。
 左にメンヒとユングフラウを眺めつつ、アイガー氷河に沿って下る。氷河の末端部が滝のように崩れ落ちる巨大さやら、その汚れやらに驚嘆する。
 とにかくあらゆる風景がスケールが雄大であり巨大であることに驚いている。

 放牧の牛の糞だらけの草原を下って、クライネシャイデック駅につく。ここのホテルが、北壁と共にもうひとつの映画の舞台であった。
 北壁の雪と氷と岩の壁に宙吊りとなって苦闘するトニー・クルツたちの苛烈な風景の映像が突然に一転して、暖炉の火の燃える温かく優雅なホテルの内部に替わる。
 この極端なる対比を映像は狙っていたのだろうが、ちょっと常套的すぎる。

 対比といえば、当時(1936年)のナチの台頭による政治的な様相を、オーストリア併合の問題も含めて、このアイガー北壁登攀に絡ませていることも、違和感があった。
 もちろん原作にはそんなことは書いてないのである。
 ただ登りたいだけのアルピニストに、政治を絡ませるのは映画としてはありうることだ。ただし、描き方がどうもとってつけた感があり、どこかしっくりこなかった。

 クライネシャイデックで一息入れて、右に方向を変えて下っていく。今度は右にアイガー北壁の正面をいつまでも眺めていられる。
 下のほうはよく見えているのだが、上方の「白い蜘蛛」辺りから上は雲の行き来が忙しい。あまりに巨大すぎて、見上げる首が痛い。足元に注意しつつ真正面から見上げるアイガー北壁を堪能する。
 これだけでかいと日本の山の岩登りはものすごく小さく思えて、ルートハンティングの勝手がおおいに違いそうだ。
 なんだかどこでも登れそうだが、はっとスケールを勘違いしていることに気付き、どこも登れそうにないと見えてくる。
 
 赤い断崖の下あたりや、その左あたりにいくつかの穴が見える。左の穴は窓になっていて、アイガーヴァント駅のところで、登りには途中下車してそこからこちらを見下ろしたことろだ。
 右のほうの穴は、最後にトニー・クルツ救助隊がここから北壁に取り付いた。
 悲劇の主人公トニー・クルツの恋人はここから出て、トニーを励ましつつ、氷の岸壁で夜を明かしたし、目の前にぶら下がるトニーの死を見つめることになる(原作にはない)。
 この女性を登場させるのも、映画の常套手段として、もっともらしいことであるとは思った。
 トニークルツに肩入れしたい昔山岳部としては、彼女をもっと純粋な形に登場させてほしかった。

 さて、たっぷりと北壁の眺めを味わいつつお花畑を下っていった。仲間は咲き乱れる花にしゃがみこんだりしているが、わたしはもっぱら見上げているばかり。
 そうやってアルピグレン駅まで歩き、また登山電車でグリンデルヴァルトに下った。

 映画の原作といっている「白い蜘蛛」を、昔々わたしは読んだ覚えがあるのだ。学生の頃だろうか。
 その中にあった一枚の写真、トニー・クルツがザイルで空中にぶら下がる姿に、強烈な印象をうけたのだった。救助のために出た坑道辺りから撮った書いてあった(ような気がする)。

 映画を見てきて、「白い蜘蛛」を県立図書館から借りて再び読んだ。奥付を見ると、1938年に初登攀したハイリッヒハーラーが1958年に出版した「DIE WEISSE SPINNE Die Gschichte der Eiger-Nortwand]で、日本では「白い蜘蛛-アイガーの北壁」と題して1960年に横川文男訳で出版している。
 ところが不思議なことに、そのトニー・クルツの写真がないのである。ということは、わたしの読んだのは別のなにからしいが、いったいそれは何だったろうか。

 岩壁登攀の映像は、かつて岩登りをしていたことがあるものから見ても、なかなか迫力があった。
 「アイガーサンクション」という映画があったが、岩壁登攀映像はインチキ臭くて、見るのがバカらしくなったものだ。
 ただ、岩登りをしていたものや、登攀ルートの知識のあるものには興味深いが、それだけに物足りない感がある。
 もっと事前のルートハンティングや、現場でのルートファインディングの苦労を見せてほしいものである。

 逆に、岩登り知識のないものには、場面場面の迫力はあるが、なぜそうなるのか全然分からないだろう。自然は厳しいものだなあ、てなくらいなものだろう。
 まあ、娯楽映画はそんなもんだ、といえばそうなのであろう。
 日本の山岳映画として最近評判になった「剣岳 点の記」よりははるかによかった。「点の記」はストーリーがなってないし、風景映像は美しいが順序がでたらめ、下界でのあれこれ場面がなんで必要なのかさっぱり分からなかった。

●参照→昔山岳部●参照→・ヨーロッパアルプスは棚田だった(2006)
http://homepage2.nifty.com/datey/swissalps.htm

2010/04/27

263【都市と地域】民主党は100万票失うか

 民主党政権が政府事業の仕分けをしていて、都市再生機構(UR)が槍玉に上がったとか。
 詳しいことは政府のそのページに書いてあるが新聞報道も見ると、第1に都市再生事業を縮小すること、第2に賃貸住宅事業を縮小すること、第3に関連会社への随意契約発注を廃止する、この3点らしい。
    ◆
 まず、第1の都市再生事業の件だが、これは縮小すると言うよりも方向を変えるべきと、わたしは思う。
 これまでURが行なってきた都市再生事業の中心である都市再開発事業(区画整理、市街地再開発事業)に関してみると、どうも政府、自治体系のなにかの施設の跡地(空き地)を狙って事業をやって来ている傾向が強い。
 都市再開発の本質は、過密で燃えやすいような密集市街地を改善することにある。
 しかし、URのやってきたことはその方向ではなくて、やりやすい大規模跡地を区画整理して大規模ビルを建てるとような仕事が多い。はっきり言えば、やるべきところよりも、やりやすいところばかりである。
 最近のURは、建物を建てて売ることができない制度になったとかで、土地だけ整理して民間事業者に卸売りする方式であるらしい。
 跡地整理ならはじめから民間でできるし、いや、民間事業者がやるほうが効率的である。
 URがこれからやるべき都市再開発は、民間企業ではなかなか取り組めない、息の長い採算性に乗らないような、しかし社会政策として取り組むべき事業である。
 例えば木造密集市街地、あるいはドヤ街のような環境の悪い居住地を改善するような事業である。それらは自治体ではとても無理なので、政府の社会政策として取り組むべきことであるからだ。
    ◆
 第2の賃貸住宅のことだが、報道では高級賃貸住宅はやめて民間に売却せよ、高齢者や低所得者対応賃貸住宅は公営にせよ、ということのようだ。
行政刷新会議のサイトを見るとこう書いてある。
「全員の意見は、高齢者・低所得者向け住宅の供用という政策目的の部分と市場家賃部分は切り分ける、その上で政策目的部分は自治体あるいは国、市場家賃部分は民営化/民間に売却/段階的に民間にシフトしていくべき、ということに集約されているので、その方向で整理していただくということを我々のWGの結論としたい。」
 これにはわたしは大反対である。なにか根本的な誤解か無知があるとしか思えない。
 民間賃貸住宅に仕分け人は暮らしたことがあるのだろうか。あの契約関係のひどいこと、管理のいい加減なこと、高額でしかも礼金を取ること、まったくもってどうして民間に任せろなんていえるのか。
 高級賃貸住宅というが、2LDKで18万円もするとは、高級なのは家賃だけなのだ。
 そのような高額にして狭い賃貸住宅を供給しなければならないようなURという公的事業体の仕組みこそが、日本の住宅政策の貧困であるのだ。
 質の良いものを安価に供給させるようにURを改めることこそ、民主党が自民党とは異なる政権としての事業仕分けのはずだ。
 仕分け人の言うことを住宅政策として翻訳すると、民間賃貸住宅が質が悪いから、UR賃貸も民間にせよと言っていることになるのだ。本末転倒もは甚だしい。
 住宅は社会資本であり社会政策であるということが、民主党になっても分かっていない。
 URが1955年から営々と供給してきたような、質の高い住宅が今こそ必要なのである。今の民間住宅はほとんどが、住宅公団以来のUR賃貸住宅のノウハウの上に立っているのだ。
 せっかく戦後に住宅公団から築きあげてきた室の高い住宅の供給体制を、低質な賃貸住宅がはびこる民間に移行するのは愚の骨頂である。
 民間任せの住宅政策、経済政策として住宅政策が、貧困ビジネスの繁栄に手を貸していることは、先般の暮から正月にかけての派遣村が見事にそれをあぶりだしたのだが、政治家は分かっているのだろうか。
 あるいは横浜寿町のドヤ街に行ってみれば、住宅政策の貧困がまさに現在の貧困ビジネスを支えていることがよく分かるはずだ。
 アフォーダブル賃貸住宅供給事業こそが、URの進む道であり、政策はそのように展開するべきだ。
 URが持っている77万戸の賃貸住宅のストックを、生かす道もそこにある。
 55年体制を危うく思想になった公団住宅住民の革新系への肩入れを、公団住宅の賃貸から分譲住宅への転換で阻止しようとしたと私は見ている。小さな財産を持った庶民は保守よりになる。
 そしてそうなって自民党政権を支えた。それが民主党政権で振り子は元に戻るのかと思っていたら、なんとこれでは民主党が55年体制の仕上げをする役割になるのだ。
 今回の仕分けによるUR賃貸住宅の縮減策は、もしかして、77万戸入居者の約100万票を民主党は敵にしたかもしれない。
 仕分け人たちは、住宅の需要側の視点で社会政策として事業を見るべきなのに、供給側の経済政策としての視点で見てしまっている。
 誰もが必要である住宅という基本的人権にかかる社会政策を、市場任せにするようでは民主党は自民党と同じである。
 参照→187民主党の居住・住宅政策は?
   ◆
 第3の関連会社への独占的発注であるが、これは昔わたしが仕事をしていた頃から、奇妙なことだと思っていた。
 わたしはURの仕事をしたことはないが、周辺からいろいろと聞いていた。
 例えばURの発注する建物の工事監理となると、かならずある特定会社が独占していた。八王子の多摩ニュータウンで起きた大規模な欠陥住宅事件も、工事監理がしっかりしていれば起きなかったことだが、この会社がやっていたような、。
 あるいは計画や設計に関しても、ある特定の会社はURのみからの受注で経営しているらしいのだ。しかし、そこの内部だけでは仕事をこなす能力が足りないので、他の設計事務所やゼネコンから人を派遣させて仕事をこなしていることもあった。
 URにも民間会社から派遣されている技術者が多いことは、聞いたことがある。
 なんでもかんでも一般競争入札による発注が良いとは決して言い得ないが、これまでのやり方が問題がありすぎたと、はたから見ていて思った。

2010/04/24

262【都市と地域】新白河駅前計画のアイデアコンペに入選した

 東北新幹線の新白河駅前の土地を持っている企業が、その活用についてアイデア募集コンペをやっていることを、WEBサーフィンしていたら偶然に見つけた。
http://www.sankinkk.co.jp/compe.htm

 2004年に起きた中越震災の被災地に復興支援のまねごとで、2005年秋からのちょくちょく行くようになっていた。
 地域おこしの事業に関わって連続して山村に行っていると、都市と同じ問題を抱えているが、もちろん都市における地域振興とは違った視点での問題が見えてきた。
 そのあたりことは「法末の四季」に書いている。

 山村地域振興政策について、現状に疑問を感じていて、新たな展開方法があるように考えるようになった。
 それは地域を振興することと、地域を閉じることを対にして考え、そういう政策が必要だということである。
 そこで、地方都市の中心とその周辺の過疎地域を結んで、地域の企業がそのような政策に対応する事業を、ソーシャルビジネスとしてできることがあるだろうと考えた。

 コンペの対象地になっている駅前に、そのソーシャルビジネスの拠点を設けて、「さとまち両全事業」となずけた事業展開することを提案応募した。
 結果は、いくつかの入選のひとつに入ったのであった。優秀賞ではなかったが、アドバイザー特別賞として、優秀賞と同じ賞金6万円である。
 アドバイザーの後藤春彦さんが認めてくださったのだろうと、嬉しい。
http://www.sankinkk.co.jp/ipan-koukai-shinsa-keka.pdf

 わたしの提案内容をわたしのサイトに掲載するには主催者の許可が要るだろうが、審査結果発表があったばかりだから、まだ掲載しない。
 とりあえずはコンペ入選なんてものに縁がなかったわたしの、ささやかな喜びを書いておくのだ。
提案書全文掲載(100502)→https://sites.google.com/site/machimorig0/sirakawa

2010/04/21

261【言葉の酔時記】腹立ち猜時記

 コンピューターを毎日いじっているが、まったくもってこんな役に立つ機械は無いと思う。わたしの人生がこれに間に合ってよかったとつくづく思う。
 その一方で、こんな未完成なものを売りつけてけしからん、そのうえ使い方の説明の日本語がまったくもってなっとらんと、腹が立つ毎日である。
 コンピューターばかりか、世の中分からんこと、なっとらんこと、そして危ないことが増えてくる。
 例えば、電気自動車なんてものをもてはやすのが分からない。
 電気自動車は排気ガス出さないけど、電気を製造するときにガスも核廃棄物もどしどし排出しているから、これはちっともクリーンじゃないぞ、なっとらん。
 もうひとつ例えば、大規模超高層マンションである。
 あんな危険きわまる代物を、どうして世間では売り買いするのか、まったくもって理解できない。阪神淡路大震災であれほどその危ないことを証明されたのに、もうわすれたのかしら。
  ◆
 アラウンド古稀のわたしはアラコキというらしい。ウソコキも上手になった。
 アラコキほどの馬齢を重ねると、そしてそれなりに知識は多く積み重なってくる。
 そしてまた、それなりに枯れてきたり、余裕の心になってくるはずである。
 ところが、わたしの知識と世の中の知識が、どうもずれて来ている様子があるのだ。
 だから、世のものごとがどうもおかしなこと、わからないことが多くなり、それが腹立つのである。
腹立つ方向は、なにも人様ばかりではなく、自分自身に対して腹立つことも多い。
 食い物に関しては、年とると不幸なのは、どんなに美味いものを食っても、どこかでこれより美味いものを食ったなあ、思い出すことである。
 若い頃はなにを食っても美味いと思っていたのに、不幸になった。
 変な言葉遣いをする若いやつらに出会うと、そんな口の利き方は無いだろうよと言いたくなるが、そこは我慢して腹が立つ。
 そう思って腹を立てる自分に腹が立つ。もっと素直に、美味いもの食ったときは真直に喜び、若者の感性を理解しろと、自分に言い聞かせる。
 あ、いかん、年寄りの愚痴を言うのではないのであった。
   ◆
 そんなことを「伊達な世界」ブログ「まちもり通信」サイトに、グダグダだととりとめもなく書き連ねてきた。あまりぼう大になったので、その中でいくつかを採り上げて、カテゴリーごとにまとめて編集してみた。
 実は5年ほど前にも同じようなことを考えて、そのときは書籍にして出版しようかと考えた。
 だが、これだけインターネットが普及すると、紙情報よりもこちらのほうがよさそうな感じになってきた。
 売れなくて抱え込むことは無いし、わたしが死んでも絶版は無いし、何時でも追加訂正できるし、制作費も送料もほぼただ同然である。
   ◆
 というわけで、題して「腹立ち猜時記」である。
第1章 自分のPCなのに分からん
第2章 ブログが分からん
第3章 ハイテクITが分からん(業界編)
第4章 ハイテクITが分からん(言葉編)
第5章 デジカメが分からん
第6章 電気自動車が分からん
第7章 電話もテレビもおかしい
第8章 日本語がおかしい(会話編)
第9章 日本語がおかしい(単語編)
第10章 医療がおかしい
第11章 マンションがあぶない
第12章 東京駅があぶない
   ◆
 ところで、これについて面白いことがあった。
 WEBサーフィンで偶然に「作家になろう」というサイトを見つけた。サイトの管理者はインテルとあるから、アメリカのハイテク企業らしい。
 小説とかエッセイとか日記とかの原稿を、そのサイトにあるシステムに投稿すると、そのサイトの中で書籍のような形にして読むことができるのである。
 もちろん投稿すればそのまま公開されるのではなくて、管理者のインテル側で審査して、公序良俗違反とか特定宣伝とか誹謗中傷とかあれば、公開掲載不可となって書き直しを求められる。
 そこで、この「腹立ち猜時記」を投稿したのである。各章ごとに審査をするのであるが、結果は見事にどの章も公開不可となった。
 いくつかの章はコンピューター屋を罵倒しているから、あちらから見れば誹謗中傷に読めるのであろうから、それはしかたがない。ほかの章がどうしてNOなのかは分からないが、それなりの企業判断があるのだろうから、それもしかたがないか、。
 そこで、ためしに「横浜B級観光ガイド」を投稿してみたら、これも全章が公開不可の通知が来たのであった。
 う~む、オレはそんな無茶を書いているのかなあ、、、世の中が分からなくなった。

2010/04/20

260【各地の風景】今、甲州は桃源郷

 いま甲州は桃の花の盛りとて、畏友を訪ねて韮崎へ。
 韮崎には新府城跡がある。新府城跡から見下ろす一面の桃の花のじゅうたん、その向うに雪をかぶる八ヶ岳がぎざぎざした山稜の連なりを見せていた。
 おきまりの桃源郷の風景だが、去年は雨で八ヶ岳が見えなかった
 甲斐の武田氏は、ここが滅亡時の最後の城だそうだ。
 周りに土塁や堀を巡らせた小高い丘の上に築いている。中世から近世への過渡期の城郭であろうか。

 城跡には武田氏を祀る藤武神社がある。今日はその祭礼に日とて、神楽の笛の音とカラオケらしい歌声とがこんがらがって聞こえる。
 急な100段以上はありそうな階段を息を切らせて上る。
 社殿そばの舞殿では、いましも神楽が進行中。見れば、翁が鈴を持って舞っている。神楽面ではなくて能面の切り顎の白式尉の翁面である。
 畏友にきけば、神話による神楽を行なうというが、今日は畑仕事が待っている。来年の祭礼にでもまた見にこよう。

 山上の広場にはたくさんの屋台が並び、焼そばやらの匂いが漂う。
 広場の向うには舞台もあって、いましもオバサンがなにやらカラオケ唱歌中である。神楽の笛と音が入り混じるのが困る。
 いつもは禁止だろうが、今日はたくさんの乗用車が登ってきている。松林の中が駐車場となっていて、どうにもこの風景はキライである。

 林の中を下って、観光客が通らない桃畑の道を抜けて歩く。ピンクの花の向うに八ヶ岳や富士山の白い山容をすかし見つつ、桃源郷を堪能する。
 もっとも、桃の花の本質は観光ではないから、これから花を摘んでいくので、桃源郷の風景は一気に褪せてしまう。摘んだ花から花粉を採って、また桃畑の残りの花に吹きかける作業をするのだ。こうして受精させて、果実を実らせるのである。

 ここは八ヶ岳噴火の溶岩台地のうえで、水はけが良いので桃の美味しく実るのだ。
 それでも観光客が通る道筋の桃畑では、道沿いに菜の花を咲かせている。黄とピンクとは取り合わせがなかなか良い。

2010/04/16

259【東京風景】ぶらり本郷から四谷まで徘徊

 本郷から四谷までぶらぶらと回り道しながらあるいた。延約8km、延約4時間である。西片町から裏町を歩きだしたが、本郷あたりはゴチャゴチャとした住宅地が面白い。
 時には昔のお屋敷のままにうっそうとした林の中に、和風住宅や蔵が見える。
 商店街のような住宅街のような通りの看板建築も面白い。

 水道橋まででて神田川を渡り、駅前の三崎町にでた。
 ここは地図で見ると、普通は碁盤目に道が通っているところに、斜めに道が入っている。
 だから6差路、5叉路、3差路の交差点ができているのが、今どきで面白いのだ。
 6差路交差点でパノラマ写真を撮る。こういうところは、たいていはロータリーを設けるのだが、ここには無い。かつては合ったのだろうか。
 もっとも、6差路が面白いと見えるのは地図や航空写真だけであって、地上から見る風景はゴチャゴチャした街並みで、面白くもない。

 
 このあたりはかつては神田三咲町といったらしい。
 千代田区のホームページによるとこう書いてある。
 「明治五年(1872)、東京の多くの町が新町名へ変更した際に、この界隈も三崎町と改称されました。明治二十三年(1890)には、陸軍練兵場(旧・講武所)が三菱社に払い下げられ、市街地としての三崎町の開発が始まりました。その後、劇場の三崎三座(東京座、三崎座、川上座)や神田パノラマ館ができ、日本法律学校(現・日本大学)も移転してきました」

 三菱合資会社が、丸の内地区を明治政府から高額で買い取らされたときに、交渉してここをおまけにつけさせたのであった。
 そして丸の内並みとは行かないが、計画的に開発をしたのであった。だから碁盤目状の道路に、西洋風の近代都市計画を気取って斜めの道を入れたに違いない。
 もっとも、丸の内のように建物まできちんとやらなかったらしいし、三菱が持っているのではなくて分譲してしまったらしいから、いまではどうってこともない風景になってしまっている。

 飯田橋から竹橋方面に抜けて、千鳥が淵を通り過ぎて、半蔵門へ出る。
 半蔵濠のあたりの桜は散りかけているが、土手の菜の花が美しい。

 ぶらぶらと赤坂見附から居の国坂を登りかけて、途中で外堀の上にかぶさる高速道路の下から、ホテルニューオータニを見上げる。
 外堀の水と生い茂る斜面の常緑樹の森、その上の超高層建築、そしてかぶさる高速道路の取り合わせに、近世から近代への動的な風景を見ることができる。
 
 さらに登って赤坂迎賓館に出る。久しぶりである。
 正面の門扉を通して片山東熊設計の宮殿建築を見れば、おや、うしろに超高層建築が数本あるではないか。
 東京ならこうなるのは当然であろうが、何しろここの敷地は広いから、向うに建つ超高層建築には負けないだけの距離感がある。まあ、ちょうど良いくらいのプロポーションか。

参照→東京風景

2010/04/10

258【父の十五年戦争】小田原に花見に行ってきたが実はそこは父の戦場だった

 昨日もまた花見に行って来た。小田原城を訪ねると花盛りをすぎて散りかけている。それもまたよし、花の下で生ビールである。
 そしてまた、小田原から酒匂川を遡って足柄平野の北の松田山を訪ねたのだが、ここの河津桜は緑の葉桜になって、枝垂れ桜が見ごろであった。
 だがしかし、だがしかし、そんなものを見に行ったのではなかったのだ。

 今から65年前、1945年の5月から8月まで、この足柄平野は血走った兵士たち大勢がやって来て占拠されたのであった。
 太平洋戦争の末期、大本営はここを本土決戦の戦場としようとしたのであった。湘南海岸に上陸してくるアメリカ軍を迎え撃つのである。

 その軍の兵士の中に、わたしの父も居たのだ。住民たちも動員してあちこちに銃砲の陣地を作って、上陸に備える準備をしていた。父は松田の山中で穴掘りをしていたという。
 だが、アメリカ軍が上陸してくるよりも前に、敗戦となって穴掘りも陣地つくりも中止、兵士たちは引き揚げていった。跡には掘りかけの穴がたくさん残った。住民たちは疲弊した。

 もしもアメリカ軍が上陸してきたら、武器は足りないし兵は老兵の日本軍ができることは、肉弾戦しかなかったのだ。悲惨な沖縄戦の再現であり、確実に父は死んでいただろう。
 その父が1945年の夏に、はるか遠い岡山県の片田舎の三人の幼子と妻を思いつつ眺めたであろう足柄平野の風景、それを65年後のわたしも眺めてきたのだった。

 今のあまりにものどかで平和な風景では、父のそのときの心境を想像することさえできなかった。
 参照→「父の十五年戦争」全文公開

2010/04/07

257【お遊び】桜5景

 この季節は、やっぱり今は桜の花のことを書いておこう。
 母校の大学に花見に行った。本館前庭にたくさんの大木にはながさきみだれている。
思えば1957年に入学したときはほんの3mにも届かない若木の林であった。
 その林の中を行き交い、毎水曜土曜の山岳部トレーニングの二子玉川マラソンはここから出発して、ここに帰りつき、体操をし、スロープでうさぎ跳び、石垣で岩登り練習であった。
 その若木はいまや老木となって、花は美しいが幹は真っ黒で瘤だらけ、つまり、これはわが姿であるのだと感慨を催すのであった。

 久しぶりに五反田に行く。
 89年から2000年までここにオフィスを構えていた。
 90年にその前の道の歩道に桜の若木が植えられた。2年ほどで桜は咲き、2階のオフィスのわたしの席のまん前が花のカーテンとなった。
 この桜も道路の上空をトンネル上に覆って、花のカーテンは4,5階あたりになっている。この若木は育ったが、こちとらは年取った。

 横浜のわたしの近所では、大岡川の両岸が美しい。屋台がたくさん出ていて、懐かしい花見が風景が広がる。
また、半世紀ほども前までは遊郭だった真金町には、誘客がそぞろ歩きした広い道があり、その中央に桜が植わっている。その昔なら紅灯に映えていたのだろう。

 山梨県の塩山市で、昔々数年にわたって仕事をしたことがある。
 あそこは今頃は桃源郷にふさわしい景色だ。風景が一面に桃色に霞んでいる。
 そこの慈雲寺に巨大な枝垂桜がある。
 あれはもう30年も前のこと、その花の下で美しい女性たちがお茶会をしているところに出くわした。上に桜花の瀧、下に緋毛氈の波、そこに和服の女性たち、これはこの世のものとも思えなかった。

 能「紅葉狩」は秋の妖怪変化の出来事だが、これは春のそれかと思うばかりであった。
 そこを再び訪ねたいと思うばかりで年月がすぎていく、ああ、行きたや、行きたしと思うとすぐに実行しないと、来年があるかどうか分からない年頃になった。本当にそんな悲しいことが、もうあれは10年も前だったか、病を得た飲み友達に起きたことを思い出す。

 今日は松田町に花見に行く予定だったが、雨で延期である。
 花見にも行くのだが、本来の目的は父が十五年戦争参加の最後の任地、つまり敗戦を迎えたところが松田だったので、父が眺めた風景を見に行こうと思ったのだ。
 もしかしたら、父が掘った塹壕の跡があるかもしれない。戦争遺跡を訪ねるのである。

2010/04/01

256【横浜ご近所探検】横浜B級観光案内ガイドブック:関外

 横浜の昔からの都心は、関内と関外地区とされる。
 港があり、山下公園があり、中華街があり、馬車道があるのは関内である。つまり観光で有名なところはこちらである。

 では関外には何があるか。そうですねえ、伊勢佐木モールぐらいのもんでしょうか。でもここは、最後の百貨店の松坂屋は閉店したし、老舗の専門店は閉店していって、だんだんとチェーン店ばかりが増えてくる。この横浜いちばんの繁華街は、B級になってきた。

 伝統ある都心というけど、実は太平洋戦争の空襲で丸焼けにない、戦争が終わったら今度はアメリカ軍に占領されてしまって基地になり、1955年頃まではまったくどうしようもなかったから、実態は戦後の都心である。

 他の戦災都市と比較すると10年は遅れた戦後復興の涙ぐましい努力は、いまも街並みに見えている。わたしはその痕跡を探して、徘徊老人を続けている。
 関内と関外では、戦前・戦後の都市の痕跡がかなり違う。関内はある程度は戦前の伝統らしい痕跡が見えるのだが、関外では戦前の痕跡はほとんど見えない。

 わたしが面白いと思うのは、関内では中華街である。あそこはB級感が漂っていて好きである。そのほかは特に面白くもない。
 関外はどうかといえば、これは全体がマニア好みとしか言いようがない。どんなマニアか問われても困るのだが、総じてどこかB級感が漂っているところが面白いのだ。

 わたしはそのB級感覚を吹聴して、ときどき悪仲間を引率して関外ツアーをやっている。何度もやる内に、これはガイドブックがあればよいのにと思ったが、関内側のガイドはいっぱいあれど、関外は無いのだ。
 そこで自分で書いたのである。ちょっとマニアっぽく、、。

 詳しくは→「横浜B級ガイドブック・関外編」をどうぞ。
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hama-b

2010/03/28

255【東京風景】東京タワー半世紀

 東京の下町に新・東京タワーとて、スカイツリーなる鉄塔が立ち上がりつつある。
 今の東京タワーは1957年に着工し、1958年12月に完成した。
 その頃わたしは大学生になって関東に移ってきた。今のスカイツリーと同じように、東京タワーの途中の高さの鉄塔を見た。芝公園の緑の上に立っていた。
 なんだかスカスカした鉄骨だなあと、建築初学生は思った記憶がある。

 あれから半世紀以上がすぎて、スカイツリーは2011年12月に完成するそうだ。
 なんだかよく分からんが、テレビ放送がデジタル化するので、これが要るのだそうだ。今の東京タワーよりも高くしないと、デジタル電波って奴は届かないのだろうか。

 だったら宇宙衛星から電波を投げれば、あんなものよりもうんと高いから、それがいちばんよさそうなものだ。
 なんで地上デジタル、略して血出痔の電波にする必要があるんだろうか、全く分からん、まあ、わたしはデジタル化してくれなくても一向に差し支えないから、知りたくもない。

 お国の都合でデジタル化して、わたしの家にあるTV受像機という財産が機能を無理矢理停止させられたら、これは公共工事による私有財産の強制収容と同じだから、当然に正当な補償として新TV受像機をくれるんでしょうね。

憲法第二十九条 財産権は、これを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。

2010/03/27

254【言葉の酔時記】感謝状は授与するもんじゃなくて贈呈するもんでしょうに

 横浜の関外の黄金町といえば、かつては青線街、特殊飲食店街として悪名高い街だった。
 警察の手入れと復活のいたちごっこだったが、2005年からその一掃に県警が乗り出し、地元団体や大学等も協力して「初黄・日ノ出町環境浄化推進協議会」を作って地域再生に取り組んでいる。
 このたび、その取り組みに努力している安部 泰輔氏と横浜市立東小学校及び児童を、地域再生まちづくり貢献者として、横浜市長が表彰した。
 それはよいことであり、努力に敬意を表するものである。
   ◆
 わたしがこの件でひっかったのは、横浜市のWEBサイトにこう書いてあることだ。
「第11回協議会定例会の中で感謝状を受賞者に授与します。」
 この「授与」という言葉である。この意味は上から下へと授け与えるものである。
 感謝状というものは、授けるものだろうか。そうじゃなくて贈るものであろうと思う。
 市長が市民を代表して、感謝の意を込めてお礼を申上げるのだから、「感謝状を贈呈いたします」と書くのが普通だろう。
   ◆
 ところで授与式をネット検索すると、今ちょうどその最中だからか、卒業証書授与式、学位記授与式がいっぱい出てくる。ほかには本田賞授与式、ハイチ国際救援隊隊旗授与式なんてのが出てくる。
 大学という権威、本田宗一郎なる斯界の権威の財団、国家という権威が授け与えるある種の資格のようなものの場合らしい。
 授与と並んで授章式もある。これも権威筋から賞を授け与えるもので、文化勲章、芸術院賞、日本アカデミー賞なんてのが出てくる。
 では文学賞はどうか。これはどれも贈呈式である。芥川賞のような、いまや権威の世界になっても贈呈式である。上から授け与えるのではなく、下からか横からか知らないが贈るのである。
 授与か贈呈かで、それを出すほうが権威主義に乗っているとみるか、それともデモクラティックなスタンスに立っているか、なんとなく違いが見えてくる。
 貰うほうも、その権威にひれ伏すか、あるいは市民的連帯を喜ぶか、考えるところがあるかもしれない。
 なんにしても賞にも感謝状にも縁の無いこちとらがいうと、単なるヒガミに聞こえるかなあ、。

2010/03/23

253【怪しいハイテク】情報の検閲と検索

 アメリカ企業のグーグルが、中国での検索事業から撤退すると発表した。
 中国で検索事業やるなら国家権力による情報検閲のもとで行なうべし、とする中国政府の指示のもとで商売するのはイヤだってのが理由だそうである。中国側は中国で商売するなら中国政府の方針に従え、いやならやめなさいってことらしい。
 一方は、検閲そのものがけしからんから引き上げだ、一方は、検閲する政策だから従え。国家権力の行使に仕方に関する基本的な違いは埋めようが無い。
   ◆
 商売人ならば、お上の言うことにしたがっておけば儲かるんだから、ここは目をつぶろうってのが普通だろう。
 現に、グーグルはこれまで中国での検索事業は、自主的に政府に都合が悪い情報は出てこないようにしていたそうだ。中国進出のときに政府と取り決めたのだそうだ。やっぱりね、。
 ところがここにきて突然に毅然とした態度になった、ように見えるのはどうしてか。本当にそんな格好よいものなのだろうか。国際的な中国非難の揺さぶりを期待できる環境になったってことかなあ、。
 思えば、グーグルが世界の先頭に立って築いたインターネット情報検索技術の発達は、国家権力による情報検閲技術も発達させてしまった。皮肉である。
   ◆
 グーグルが「日本語入力」という、PCで日本語を書くソフトウェアーを無料提供している。
 ダウンロードの最初のページに「豊富な語彙 Webで使われている膨大な用語をカバーしています」とある。検索能力を生かしてWEB上にある言葉を、キーボード打ち込みを日本語に変換するときに取り込むらしい。多分、使用頻度順の高い順に変換するだろう。
 問題は、猫杓子ブログ時代だから、間違いだらけの猫杓子語が横行する。
 でもそれが間違い言葉かどうかグーグル検索は判断をしないから、世に間違い言葉書き込みが多くなると、多数決でどんどん間違いが横行して、言葉は変わっていく。
   ◆
 このことについて先日の朝日新聞の日曜版に載っていたのは、「喧々囂々」(うるさいこと)と「侃々諤々」(各自固執すること)をごっちゃにした「喧々諤々」(あれ、IMEでこれが出てきたぞ、おかしいなあ)がグーグル辞書に登場する事例をとりあげて、グーグル日本語入力ソフト導入には注意せよとあった。
 たしかにケンケンガクガクっていいそうだなあ、でも辞書には載せないだろうって思い、ためしに広辞苑で「喧々諤々」をひくと次のようにある。
けんけん‐がくがく【喧喧諤諤】(「喧喧囂囂(ケンケンゴウゴウ)」と「侃侃諤諤(カンカンガクガク)」とが混交して出来た語) 多くの人がいろいろな意見を出し、収拾がつかない程に騒がしいさま。「―として議長の声も聞こえない」 おやおや、間違い語のままに辞書に載ってしまっている。IMEにもあるのだから、これじゃあグーグルにケチをつけられないなあ、朝日さん。こうやって言葉は変わっていくのだ。
 つまり検索技術が上達すればするほど、実は衆愚検索、いや、集愚検索となる可能性を持っている。こここそ検閲が必要だろうが、言葉を検閲をすると次は内容の検閲になるか、、う~む、。

2010/03/21

252【世相戯評】環境悪化移転制度?

 風で作った北海道産の電気を、東京駅前の丸ビルに送ると新聞に書いてある(2010年3月21日朝日新聞1面)。
 電気に色がついているのかしら。そんなに遠くまで送ったら途中でずいぶん減ってしまいそうだ。
 よく分からないのだが、東京都の新制度で、今後5年間でCO2削減目標6~8%に届かない場合は、自然エネルギーを使う方法で削減に対応することができるのだそうだ。そこで丸ビルは北海道や東北地方で作った風、水、バイオマスによる発電を買うのだとか。
 でも、本当にその電気が丸ビルまで電線を伝って来るのかしら。他の電気と混じっちゃうだろうし、電線の中で行く先を間違えるんじゃなかろうか。

 またもやよく分からないが、なんでもその間にグリーン電力証書なるシステムが介在するらしい。その証書を買えば、北海道から電気が来たとみなすらしい。だったら沖縄からでも、南極大陸からでも電気が来ることになるんだろうなあ。まだよくわからん。

 またまた分からんことも書いてある。森林のある地域では、その森林が吸収するCO2の量を他のCO2排出企業に売ることもできるとか。これも証書にして売るのだそうだ。
 ということは、もう林業できなくて常緑樹も広葉樹も茂り放題の裏山が、ある日突然に宝の山になるのかしら。何か不自然なような。うちの庭木も金になるかも。
   ◆◆
 関連して自分の専門領域のことで思いついたのは、容積率移転という都市計画手法である。
 土地には敷地ごとにその上に建てられる建築物の床面積の上限が法によって定められていて、それを容積率という。

 ある敷地に建物を建てるときに、ある一定区域の地域内ならば、他の敷地が上限まで使いきっていない容積率を持ってきて、こちらの敷地の容積率に加算して、上限を超えて建築することができる。
 このときこの2敷地の所有者間で容積率の売買を行なうことになる。
 CO2排出権の売買とは、どうも排出権という名の容積率移転を、日本中に広げたみたいなものらしい。

 建築の容積率は、かなり狭い範囲で限定された条件下でないと移転はできない。周囲の環境が異なる敷地間で移転が起こると、たとえば低層住宅地の中に超高層ビルが建つような環境破壊が起きるからである。

 CO2排出権の移転はどこにも持っていってもよいらしい。となると、ある施設がCO2排出権をよそからじゃんじゃん買い取れば、その施設周辺はどんなに環境悪化しても構わないってことになるのだろうか。
 なんだか環境悪化移転制度みたいである。日本のゴミを開発途上国に捨てるってことが起きているそうだが、どこかしらなんだか似ているような、違うような、、。
 とにかく、排出権が移転してきた施設の辺りには住みたくないよなあ。
 またもやまたもや言うが、どうもよく分からん。

2010/03/18

251【都市と地域】百貨店時代の終わり?

 東京都武蔵野市の吉祥寺にある伊勢丹百貨店が閉店したそうだ。
 わたしの近くでは横浜・伊勢佐木町の松坂屋が昨年に閉店した。
 どちらの街も人口が減ってはいないから、基本となる購買客はいる。閉店の理由は、近くの商業施設あるいは繁華街に負けたか、百貨店という業態が終わろうとしているのか、どちらかだろう。
 吉祥寺伊勢丹百貨店については、わたしは思い入れがある。1970年前後のこと、現地に通ってこの建物の設計監理をしたからだ。開店は1972年だから38年でひとつの幕が下りた。
 わたしは1990年に、こんなことを「週刊まちづくり」に描いたことがあるので再掲する。
   ========
●吉祥寺は中心市街地活性化の元祖だ(気まぐれコラム1990 伊達美徳)
 吉祥寺はいまでこそ一大商業地だが、1970年でしたか伊勢丹百貨店の開店から急上昇した街。なぜ吉祥寺まちづくりは成功したか、思い出してみる。
 第1に、地域にまちづくりリーダーたちが居たのです。加えて、積極的にまちづくりを進める革新行政(有名な社会党市長)があった。伊勢丹のビルは実は市の公社が事業主です。ついでに、それを支えるコンサルタントがいた(つまり私たちのことですね)。
 第2に、当時としてはしっかりしたマスタープランをつくって再開発を進めたこと。もちろんプランどおりにできあがってはいなけど、プランがまちづくりの羅針盤であったことはたしか。
 第3に、大型店の配置が、既存商店街の外周部にあること。街を楽しく回遊するように伊勢丹、近鉄、東急の3店がとり囲むようにした。アメリカ型大ショッピングセンターと同じですね。駅前で客をすべて吸収してしまうような、よくある大型店配置ではないところがミソ。
 第4に、まちづくりの端緒となった伊勢丹のビル(正式には伊勢丹も含めて武蔵野市開発公社ビルという)づくりは、実は道路づくりと一体となっていること。当時バス通りが今のサンロードであったごとく、まるで道路が無い吉祥寺に、2本の都市計画道路を抜いた。その道路に当った商店群をこのビル内に移転してもらうためのビル建設だったのです。
 第5に、自動車を商店街の中から排除したこと。今ではあたりまえですが、当時としては画期的で、わたしはこの計画を警視庁の交通担当者に説明して、えらく怒られた覚えがあります。地上を人だけにして、地下に車のネットワークを作りますと案を説明したところ、なにを寝ぼけたことを言うか、車でどこでも行けるのが街だ!と。
 第6に、これが最も重要と思いますが、吉祥寺には密度の高い暮らしの街がとりまき、緑濃い井の頭公園があること。しかも所得階層の高い世帯が多いことが特徴です。商業側から言えばしっかりした日常マーケットがあり、都市としては街を支える緊密なコミュニティベースがあることですね。
 つまり、良い街はよい暮らしをする住民がいることが大前提であるということで、思えばあれは中心市街地活性化事業の元祖であったか。
  ======
 さて、そうして2010年であるが、周りに密度の高い高所得世帯がいることは、今も多分変わらないと思うのだが、それでも伊勢丹の撤退とは、、?
 1970年代の中央線の街には、立川にも八王寺にも伊勢丹は進出した。そのどちらも今はない。
 当時の伊勢丹の人に、吉祥寺店を作る意図を聞いたところ、新宿の伊勢丹を旗艦店舗として、その裾野にあたる中央線市場を総て手に入れるためとのことであった。中央線沿線の客は、新宿まで来なくても、伊勢丹ブランドを地元で享受できるようにするというのであった。
 伊勢丹が吉祥寺に進出後に、百貨店は近鉄(後に三越となり今は安売り電器屋)と東急が、専門大店として丸井とパルコが出てきた。
 何でもあるようで何にもない百貨店といわれるそうだ。わたしは、本と電気製品のほかには買い物をしないから、よくわからない。
 ただ、いつも買わないもの、例えば贈り物とかお土産を買うとき、どこになにを売っているか何を買って良いか分からないから、とりあえず百貨店に行けばなんとかなるのが便利ではある。こんな客だけ相手では、成り立ちっこないなあ、。

●参照→中心市街地活性化問題の背景と周辺

2010/03/15

250【ふるさと高梁】大銀杏が死んだ日

 鎌倉の鶴岡八幡宮のシンボル的な大樹の大銀杏が倒れた。樹齢は800~1000年だそうだ。いくうもの気根が垂れ下がっていて、いかにも老木の感じであった。
 1219年に源実朝を暗殺した公暁は、このイチョウに身を隠していて躍り出て刺したという言い伝えがある。樹齢800年ならまだ幼木だから身を隠しようもないが、1000年なら可能だったろう。
 生き物だからいずれは死ぬ運命にある。いつ倒れてもおかしくない樹齢である。

 今の鶴岡八幡宮は大きな樹林に覆われていて、大昔からこのような姿だったと思いがちだが、実はそうではない。明治時代の写真を見ると、大銀杏はあるが裏山は貧相な松の疎林である。江戸時代もそうだったろうが、どこでも山は薪炭林として定期的に切りたおしたから、貧養立地で松林が多かった。

 生態景観は替わっていくものである。ただ、大銀杏のように特別に伝説もある樹木は、生態に文化が付与されるから無理矢理に生かされるのもやむをえないだろう。
 もっとも、銀杏は原始的な種だから移植はやりやすいし、 けっこうしぶとく生き残るものだ。この銀杏も根とヒコバエがすぐに生えて来るだろう。
   ◆◆
 大銀杏といえば、わたしの生家の御前神社境内の広場の端にも、大人3抱えほどもある大銀杏があった。気根はなかったから樹齢は八幡宮のそれほどではなかっただろう。
 毎年秋になるとたくさんの実を落とす。それを拾い集めて、臭い皮を落とし、種を干す。保存食みたいなものだった。戦争直後の食い物のない時代は、街の人たちも拾い来た。

 その大銀杏を、1950年ごろと思うが、どういうわけがあったのか知らないが切り倒した。多分、神社修復費用調達のために売ったのだろう。
 長方形の広場の角にある大木で、広場方向のほかは崖地だから、切り倒す方向は広場の対角線上の位置のみである。さすがにプロの技だったらしく、みごとにその方向に倒れた。地響きがした。
 誤算は、広場に埋設してあった湧水の排水管が破損したことであった。
 切り株からひこばえが何本も出ては消えていたが、結局は再生しなかった。

2010/03/13

249【父の十五年戦争】父と叔父の戦場

 十五年戦争中に、父親が3回延べ7年半の兵役についた記録をまとめた。
 満州事変での父の激戦地である中国河北省「界嶺口」、太平洋戦争で叔父が戦死したフィリピンマニラ東方の山地が、いったいどこであるのかインターネットのgoogle earthで探してみた。
 正確な地名が分からないし、山の中の辺境もいいところだから、探し当てるのはかなり苦労したが、あれこれやっているうちに両方とも見つけた。
 1933年、22歳の父が最前線に出て銃弾をかいくぐった「界嶺口」は、河北省北部の万里の長城の関所だったみたいな村であるらしい。
 なるほどよくみると万里の長城が、峰を伝ってえんえんと延びているのがgoogle earth画像に見える。それをどんどん伝っていくときりも無い。まったくもって人間がつくった最大のものといわれることが分かる。
 今の山村風景からは想像できない戦場であったのだ。
    ◆◆
 1945年、31歳の叔父の終焉の地は、「千秋山」と生き残った部隊長の戦記には書かれているのだが、これは日本軍が勝手につけた名だから検索しようがない。
 モンタルバン、ワワダム、マリキナという地名が出てくるので、これでまず検索したら日本からの観光旅行の記事が出てきた。
 戦場であったことを知らないでいた人もいれば、慰霊に訪問した遺族の記事もある。ただし、そのままではgoole earth検索のキイワードにならないので、適当にローマ字を当てて何度も検索をくり返し、地形をたどっていたら遂にあたった。
 ここはダムがあって、今はマニラ郊外の観光地だそうだ。
 現地に行かなくてもこんなことが分かるのだ。goole earthはほんとにすごい。こんなことができる時代にわが人生が間に合ってよかった。
 そうそう、グーグルストリートで、わたしの生家の神社が出てきたのには驚いた。

父の15年戦争

2010/03/10

248【老い行く自分】わたしの傷病譚

 いま排水装置が故障している。前立腺が錆付き膨張しているとて、脱錆薬で修理中だが、順調に機能回復中である。
 実はこれと同じことを4年前にもやった。そのときは突然に39度の熱が出て、震えがすごくて立っていられなかった。このときも突発性の炎症で、1か月くらいかかって薬で治った。
 わたしは幸なことに大病をしたことがない。もの心ついて入院した経験は2回しかない。思い出して書いておく。

 最初は中学生1年生のときで、右腕骨折。校庭で走っていて、丸太で作った平行棒のような遊具に足をすくわれた。
 ちょうどその頃、母親もなんだか忘れたが接骨医院に入院していて、わたしもついでに入院した。いま考えると父親は大変だったろう。

 2回目は、40歳の頃、ある日駅の階段を登っていたら、突然に左の臀部が痛くなり、歩きにくくなった。
 大腿骨の頭と骨盤とのフリージョイント部には、潤滑油のようなものが入っていて円滑に動くようになっているのが、重い荷物をもって階段を駆け上がったので、その潤滑油が切れて骨と骨とが接触したのであった。
 実はこうわかるまで1ヶ月くらい、あちこちの医者で見てもらったが一向によくならなかった。鎌倉のS病院でそうとわかって、10日間くらい入院した。
 やった治療は、ベッドで寝ていて右足に紐をくくりつけ、その先に錘をつけてこれをベッドからぶら下げておくのである。要するに、骨と骨の間をひぱって開けておき、そこに切れた潤沢油を戻すのだ。分かりやすい治療である。
 そんなことは通院でもできそうなものだが、それでは行きかえりでまた元に戻ってしまうから、ベッドにくくりつけておくのだそうだ。

 入院配しているが気分のほうは全く問題ないのだから、ワードプロセッサーを持ち込んで仕事をしていた。
 大部屋だったので周りの入院患者たちの様子を観察してもいたが、これは面白かった。
 骨折して入ってきた80歳の老人は、完全介護の付き添いが何もかにも世話していた。そのうちにしだいに老人はボケが進んでいく様子で、これはちょっとこわかった。
 もう何回目かの入院ベテラン中年男がいて、看護婦をこき使っていたのも奇妙だった。次の入院も人生模様のある大部屋がよい。
 夕方になると近くの銭湯に行く。胃腸は健康そのものだから、病院の給食を食ってから後がこまる。幸にして銭湯のまん前が酒屋である。カーテンの中で本を読みつつ、ばれないように一人静かにカップ酒を飲むのは、なんとなく禁酒法時代もかくやと、悪くなかった。
 退院してからもしばらくは、わが家で足引張りをしていたら、そのうちにどちらの足か忘れるようになった。

 入院はその2回だけである。全くもって生命傷病医療保険の料金の払いすぎである。
 入院こそしなかったが、現代医学で社治療方法がない難病、奇病にかかったことがある。
 この大腿骨頭壊死症、萎縮症の件はすでに別のところに書いた。
 ●参照→にわかハンディキャッパーは「誤診」だった(2003~06)https://sites.google.com/site/machimorig0/handicapped
 
 奇病といえば、大学2年生のときにメニエル氏病になったことがある。
 三半規管が故障して、まっすぐに歩けないのである。例えば、歩道でふち石の上を歩いても、3歩も続かず足が外れる。
 原因は分からないままだったが、2、3ヶ月だったか通院を続けて栄養剤の投与をしばらく続けて治った。
 
 これは奇病かどうか分からないが、帯状疱疹で寝込んだことがある。30台の終り頃だったろうか、勤め先の仲間と大勢で山陰の海に泳ぎに行った。
 どういうことだった忘れたが、かんかん照りの太陽の下を、裸で3時間ぐらい歩き続けた。そのときは特になんともなかたが、自宅に戻った次の日から、腹と胸を一周してたくさんの真っ赤な粒粒が出てきた。触ると痛くて痛くて肌着も着ることができない。
 真夏なのにふわふわ毛布を出してひろげ、その上のそ~っと寝転び、寝返りもうてずに安静にするしかない。あれは苦しかった。1週間ほど寝込んだ。
 後で知ったが、もともと体内にあるヘルペス菌が体調がわるいと出てきて発症するもので、帯状疱疹は命に関わることもあるとか。

 同年齢あたりの仲間が集まると、どうも病気の話になりやすい。あまり経験がないので話の仲間に入りにくいのが、残念なような、それでよいような。

2010/03/08

247【言葉の酔時記】建築家、建築士、設計士

 珍しくTV番組を見た。長周期振動の地震波による建築物の倒壊の話を、昨夜のNHKでやっていた。
  内容は高層ビルが長い波長の地震波で壊れるかもしれないが、対策はほとんどとられていないというのであった。そのことについてのコメントは「長周期地震波災害」を見ていただくとして、ここでは一般の建築を設計する専門家への見方のことである。
 芝居仕立ての番組構成は、超高層ビル45階にあるバーのバーテンダーが狂言回しとなる。カウンターで男女の客が地震を怖がる話をしていると、やおら別の男が割り込んでくる。
 何者かと聞くと「建設会社の建築設計士」と名乗るのであった。
 ここでわたしは引っかかった、オカシイ、。え、どうして、と、オカシイと思うほうを世間の方はオカシイと思うだろうか。
長周期地震波災害-明日来る大地震に備えて借家へ(2010.03)
   
 実はこれまで多くの建築の設計を専門とする人に出会ったが、誰一人として自分のことを「設計士」といった人に出合ったことがない。自分が建築設計をしていた30年以上前でも、そういう職業名を考えたこともなかった。
 でも、天下のNHKが設計士というのである。世間では建築士あるいは建築家のことをこう言っているのであろうか。
 そういえば先般、文筆家の方から私の文の引用依頼があり、その引用の外の文章に知人のことを「建築設計士」と書かれていたので、専門の世界では使わないことを申上げたら、全く他意なく使っていたとのご返事であった。
 そうか、世間では「建築設計士」というのか、。
   
 でも、本当は「士」がつくのは国家資格である。弁護士を筆頭に、公認会計士、司法書士、計理士、税理士、航空士、航海士などなど、はいて捨てるほどあるうちに、「建築士」もあるのだ。一級建築士資格はわたしも持っている。都市計画に関する資格の「技術士」ってのも持っている。どちらも持っているだけで何の役にもたっていないが、、。
 世間にはナントカ士って勝手に資格を考え出して、金を取って売る商売もあるらしいから、ナントカ士の全部が国家資格でもないようだ。逆に国家資格のナントカ士を資格も無いのに詐称すると罰せられる。
 とういうわけで、バーで自らを「建築の設計士」と名乗る人がいたら、これはほぼ間違いなく「建築士」と間違わせようって魂胆のある人、つまり偽専門家である。お気をつけ下さいませ。

くたばれマンション
https://sites.google.com/site/machimorig0/datemegane-index#mancion

2010/03/07

246【くたばれ乗用車】轢き殺される側

 世界一に成り上がった自動車メーカーのトヨタが、なんだか知らないが欠陥車を売ったとて、アメリカから叱られているらしい記事が新聞に載っている。
 運転していると突然スピードが出るとか、ブレーキが利かなくて暴走するとからしい。それで欠陥商品だ、いや運転が悪い、とか言い争っていて、アメリカの国会からお呼びだし食らった社長が、とうとう「謝罪」したとある。
 謝「罪」だから犯「罪」行為だったということなんだろうなあ。なんでもアメリカあたりじゃあ、謝ったほうが悪いって習慣らしいよ。
 あれ?、日本の国会はどうして呼ばないのかしら。
    ◆◆◆
 で、気に入らないのが、車を買った客に謝っただけらしいってことだ。新聞論調も、消費者の立場で作ってるのかって口調であるのも気にくわない。あまりに一面的だぞ、その暴走車に轢き殺される側の身にもなってみろってんだ。
 何の関係も無い歩行者が、道端で突然に襲ってくる車に殺されることは、日常茶飯事で起きている。それが運転過誤で起きている現状に加えて、運転者も知らない原因での襲撃も加わってきたとなると、そんな通り魔型大量殺人機械に進化されては、こちとらはどうしようもないぞ。
 ついでに言えば、排気ガスによる長期的殺人装置でもあるし、騒音による慢性痴呆化促進装置でもあるぞ。 
 こんな殺人機が、日常的にそこいらじゅうを走り回っているのが不思議である。
    ◆◆◆
 もしもこれまでに世の中に自動車がなかったとする。そこに突然、こんなものを発明しました、超便利だがこんな害毒もあるってわかって売り出すとなると、はたして世のに受け入れられるだろうか。
 自動車は長い年月をかけて徐々に既成事実を積み上げ、素人も使うことができる殺人機であることをデファクトスタンダードとして世に公認させた稀有な商品である。
 それには戦争という天下公認の殺人ごっこが、大きなドライブとなったことを忘れてはならない。特に第1次世界大戦(1914~18)では、自動車が兵器として大きな役割を果たし、その後の普及を促進した。
 殺人機であるからこそ、厳重な法的規制がかかっている。運転免許という国家が運転を許す仕組みがその最たるものである。
 とにかく、わたしもあなたも、この殺人機に、今日か明日には轢き殺されるか、廃ガスで喘息窒息死するかもしれない運命にあるのだ。
 メーカーもマスメディアも、轢き殺される側の視点が欠けている。
    ◆◆◆
 とりあえずやるべきことは、法律を変えて運転免許を厳格なる審査を経たプロフェショナルにしか交付しないこととせよ。ド素人でも殺人機を運転できる今の制度は間違っている。これじゃピストル売買自由と同じだ。
 2つ目は、自動車は何か異常があると、とにかく停止するフェイルセイフ設計とすること。例えば50キロ以上の速度が出たら自動的に停まるのだ。
 3つ目は運転者が最も衝突リスクを負う設計にせよ。運転者がまず安全とする設計にするからスピード出すのだ。ぶつかって一番先に死ぬのは運転者にせよ。ぶつかられたこちらが安全な設計にせよ。
 
●参照→くたばれ自動車

2010/03/06

245【世相戯評】優勝は銀メダルらしい

 まったくもう、新聞の社会面にも第1面にもづかづかと土足で、毎日毎日入り込んできて、本当にジャマであった。スポーツ欄に引っ込んでろよ、オリンピックめ!
 TVは見ないから言いようがないいが、あちらはモットすごかったのだろう。
 なんでこんなに大ニュースなのか。社会面にはなんだか美談調のお話らしい見出しである。中味はもちろん読まない。
 この紙面の感じは、どこかで見たなあ、そうだ、この1年ほど父の戦争史を調べているので、図書館で1931年からの戦中の新聞を見出し読みしてきたのだが、その激戦の報道とソックリである。
 負けているのに勝ったかのような報道は、スケートで韓国と日本の女の子が競った記事である。いや、読んではいないのだが、見出しだけ眺めていると分かるのだ。
 第1面にどかどかと瓜実顔の女の子が出ていて、「銀」、と大見出しである。ふ~ん、この報道量の大きさからしてオリンピックってのは昔は金が優勝だったけど、いまは一等賞が銀で、2等賞が西瓜顔の女の子の金なんだ、、。
 この書きっぷりは、日本軍の大本営発表(戦後になって嘘発表の代名詞になった)鵜呑み記事に、雰囲気がなんだか似ている。 ボロ負けしてもボロ勝ちしたように書かされるのだった。
    ◆◆
 1933年3月3日に、日本の東北の三陸地方で大津波が発生して、1500人以上も死者が出る大災害が起きた。新聞はそれまでは毎日毎日、満州事変が拡大して日本軍が万里の長城を越えて侵攻した熱河作戦記事でいっぱいだった。その日から毎日がこの昭和三陸地震記事(死者1522名、行方不明者1542名)で埋めつくしている。かなりの期間、中国での戦争は脇に追いやられた。
 後の太平洋戦争末期の1944年12月7日に、東海地方で1200人以上の死者が出た東南海地震について、当局は「戦局苛烈な折、国民の士気を阻喪してはならない」と実情報道を禁じた。翌12月8日の朝日新聞は「一部に倒半壊の建物と死傷者を出したのみで大した被害もなく、郷土防衛に挺身する必勝魂は、はからずもここに逞しい空襲と戦う片鱗を示し復旧に凱歌を上げた」とある。
 満州事変時代はまだ少しは健全であったとも言える。
 今はどうか。オリンピックの前に起きたハイチ大地震の記事は、オリンピックになってからぱっと消えさった。
 と思ったら、オリンピック終了直前にチリ大地震である。さすがに1面に載ったが、社会面はオリンピックお涙頂戴記事、次の日からオリンピックがすぐに押し戻した。遊びが災害に勝った。いま、時代は健全か?

033オリンピックが終ったらしい

2010/03/05

244【怪しいハイテク】ローテク掃除

 3月になった朝から体調が悪い。排水装置のあたりに故障があるらしい。2日に専門医に診てもらうと雑菌で錆付いているとて、薬を貰って飲んだら少しは排水機能回復したが、まだ錆排水で不調である。
 微熱があるらしく、コンピューターいじりも気分が乗らない。毎日かわいがっているうちのPCに触らないのもかわいそうである。
 そうだ、まわらぬ微熱頭を使わないいじり方がある。キーボードの掃除をすることにした。これまでやったことが無い。刷毛でささっとそよがせるくらいだ。
 この刷毛は製図用刷毛である。製図版で設計製図をやったことある人は、アレだっ、そんなものまだ持ってるのかって懐かしがるだろう。消しゴムかすを掃き落とすヤツで、KENTのブランド品である。製図版は7年前の引越しで捨てたけどこれはもっている。そういえば製図版を蕎麦打ち板にして再利用している知人がいる。ちょうどよいとか。
 あ、製図の話じゃなくてキイボードである。もう7年も使っている。
 しげしげと見ると、茶色のものがあちこちについてる。たぶん蜜柑の汁が飛んだのだな。
 キイの間には綿埃がたまっている。ためしに中央あたりのキイを3つはずす。ありゃ、埃モワモワの中にクッキーのかけらがある。
 3つ分くらいの大きさのENTERキイをとる。ウワッ、ゴキブリの巣か、埃の山に煎餅のかけらもある。
 こうなったらしょうがない、徹底的にやるぞ、気分はすぐれないが、なんだかファイトが沸いてきた。どうもお安いファイトである。
 かたはしからはずしていく。問題はそれらがどこにあったのか分からなくなることだ。慎重にもとの配置のように別のところにおいていく。
 綿ぼこり、煎餅かけら、クッキーかけら、ステップラー針、そして茶色のこびりつき、まったくもう机上の魔窟である。
 ミニ掃除機、刷毛、濡れ布巾、爪楊枝、塵取りをもって、ボードとキイとを徹底的にほじくり、吸い、吹き、掃き、拭う。
 さて、キイを戻していく。これって、ジグソウパズルか、いや、なんだか少年時のラジオキットの組立みたい。
 あれ、こんなキイあったのか、一度もたたいたことないぞてのがいくつもある。だいたい辺境の地にいる奴らである。
 北極のあたりにいるF1からF12の流氷キイ群に触ったことあるかしら。PCのやつからなにかで押せと命令されたことがあった様な気がするだけだ。
 アラスカのもっと北東カナダ奥地にいるエスキモーキイ群のなかではDeleteはよく使う。Insertはまれに使うが、それはDeleteと間違えて押したときに元に戻すために過ぎない。PrtSc--SysRqなるわけの分からんキイは、画面コピーでたまに使う。ダウンロード禁止措置をしているページの盗撮である。これを知らないころは、カメラで写すとモワレがでて困っていたが、このキイではそんなことはない。Pause--Breakってなんのことだか。
 辺境にありながらよく使うのは、Enter、BackSpace、半角/全角‐漢字である。これらやDeleteが、有用なる能力を持ちながら、なぜ辺境配流の気の毒な境遇にあるのだろうか。
 未利用キイはほかにもあるけど、使ってないってことはいらないってことだろう。そのうちに何かで使うようになるかもしれない。
 そうやってPCのほうの魔窟はローテクノロジーでもって撲滅したのだが、体内の魔窟はどうなるのか。いや、医者は魔窟ってほどじゃなくてすぐ治るといっている。そうだ、ちょうど「父の十五年戦争」を1年ほどかかって書き上げたので、気と体が緩んだのであろう、、なんて、いかにも作家みたいで格好よろしい、はは。

2010/03/01

243【くたばれマンション】片想いの賃貸住宅政策

 住宅供給公社よ、もっとがんばってくれ
  わたしが住んでいる賃借住宅の家主である県住宅供給公社から、「家賃改定に関するお知らせ」なるものがポストに入っていた。
 おお、値上げか、また文句をつけるかと読んでみると、こうである。
「皆さんの現在お支払いただいている家賃につきましては、平成22年度4月に改定することを予定しておりましたが、昨今の社会・経済情勢を踏まえ熟慮の結果、平成22年4月の家賃改定は見送ることといたしましたので、お知らせいたします」
 ありゃ、値上げしないのか、でもデフレ時代だから値下げするのが本当かもよ。
 文面で気になるのは「昨今の社会・経済情勢を踏まえ熟慮の結果」のところである。つまり公社が考えに考えた末ってことらしい。この賃貸住宅ビルだって空き家がたくさんあるしなあ。
 でも、値下げするのが嫌だから、「熟慮」して「見送」ったのだろうと、意地悪く読めるのである。
 これでよいのだろうか。というのは、公社家賃は市場価格と連動すると制度上の決まりがあるからだ。
 実は2002年入居からこれまでに2回の家賃改訂があった。2回とも値上げである。その最初の家賃改定のとき、わたしと家主の公社の間でトラブルが起きた。

●以下全文は→片想いの賃貸住宅政策

2010/02/25

242【横浜ご近所探検】街なか高齢者施設

 近くの表通りの角地にあるガソリンスタンドが突然閉店したと思ったら、どんどん建物の取り壊しをはじめた。
 巨大なキャタピラーつきの自動車が、巨大な蟹のハサミのような手先を持った腕を振り回している。コンクリートの壁でも床でも、ガブリと噛み付いてギリギリギリと齧り取る。
いつまでも道端に立って見ていると、怪獣で興奮しているガキの気分になってくる。10日ほどでペチャンコになった。
 後に何が来るのか、どうせ名ばかりマンションなる共同住宅なんだろうと思って工事看板をみたら、なんと高齢者介護施設を建設すると書いてある。ほう、こんな街のど真ん中に、こんな高層建築で介護施設とはねえ、。

 そこから50mほどの次の角には、2階床までコンクリートが立ちあがったところで、もう1年以上も工事が止まったままのビルがある。
 わたしの住む賃借共同住宅の隣である。それは分譲共同住宅の予定であったが、あれも高齢者施設に設計し直して工事続行したらどうか。

 いいねえ、こんなところに高齢者介護施設とは、遊びにも買い物にも便利だもんなあ、、あ、いや、そんな人じゃなくて寝たきりを入れるのかなあ、まあいいや、わたしもそのうち入れてもらいたいが、場所が場所だから高額だろうなあ、。

2010/02/19

241【父の十五年戦争】1945年の血なまぐさいオリンピック

 バンクーバーでオリンピックをやっているらしい。日本選手が勝たないことを願っている。
 だって、勝ったら新聞の読むところがぐ~んと減ってしまうんだもの、新聞代を負けろ!。

 ところで2008年8月にもオリンピックをどこかでやっていた。そのとき、このブログで「オリンピック作戦 operation olympic」なるコラムを書いた。
 1945年はじめ、日本はアジア太平洋戦争の敗北が続いて末期的症状にあり、4月には沖縄本島にアメリカ軍が上陸して、次は本土に上陸して戦闘になることを避けられないとして、本土決戦の準備に入る。

 一方アメリカ軍は、「ダウンフォール作戦」と名づけた日本本土上陸作戦を立案していた。
 それは二つの作戦からなり、九州上陸が「オリンピック作戦」で、関東上陸が「コロネット作戦」であった。
 実際は原爆によって、この作戦計画実行よりも早く日本が降伏したので、作戦は日の目を見なかった。

 時は移り2008年10月、わたしの母親が死んで、遺品から父親の戦争日誌が出てきて、それを解読していたら、父は「コロネット作戦」と危ない関係にあったことがわかったのだ。
 このブログに2008年8月「オリンピック作戦 operation olympic」を書いた時は、そのことをまだ知らなかった。
   ◆◆
 1945年1月、大本営は現実味を帯びてきたアメリカ軍の本土上陸に備える、最後の決戦に臨むことにした。4月には沖縄本島にアメリカ軍は上陸した。
 わたし父は、1944年はじめから姫路にある第84師団にいて、南方戦線のラバウル島に行く船を待機して通信隊の教育に携わっていた。
 しかし戦況は不利になるばかりで、制海権制空権は徐々にアメリカ軍に奪われてゆき、輸送船の調達も郵送そのものも難しくなる。

 では台湾へとか沖縄へとか朝令暮改するうちに、幸なことに父の師団は国内にとどまり、神奈川県松田町に移駐することになる。
 この松田町が「コロネット作戦」の中心地にあったのである。関東上陸作戦の中心地が相模湾沿岸であり、松田町は上陸後に東京に侵攻するルート上にある。

 わたしが鎌倉に住んでいた頃、海岸部の崖にたくさんの穴があり、それは戦争末期に掘ったもので、そこに砲をすえつけて連合軍上陸に備えていたのだと聞いてはいた。
 それがわたしの父親にも関連しているとは、思いもつかなかった。
   ◆◆
 1945年1月、大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」で本土決戦の方針を出し、軍組織を改め、大動員をかけた。しかし、これには訓練を受けていない兵や老年兵が多く含まれ、武器もそろわず、かなり無理な計画であった。
 3月には大本営は「国土築城実施要綱」で各地に陣地を造って戦場とする準備を命令、3月には「国民義勇隊」の結成を閣議決定し、これは国民全体を本土決戦の要員としようとするものであった。

 4月に「決号作戦準備要綱」を大本営は発表して本土決戦部隊を日本各地に派遣、上陸が予想される関東や九州の海岸で重点的に、アメリカ軍上陸を迎え撃つ陣地構築が始まった。
 そして第53軍(司令官赤柴八重蔵)が本土決戦作戦の神奈川担当となり、第84師団はその編成下に入り、5月に相模湾上陸の敵に備えるために小田原に配備されて司令部を置いた。7月には松田町に司令部は移動した。

 この部隊は相模川以西の沿岸地域の担当で、海岸と後背地に陣地を構築して、ノルマンジーのように上陸してくるかもしれない連合軍と刺し違えて、止めようもない侵攻を遅延させる作戦であった。
   ◆◆
 第84師団に属する父の岡山201聯隊は、5月から移動して当初は沼津で陣地の構築作業をおこない、6月には松田町の松田国民学校に駐留した。
 町民や中学生も動員して陣地構築など行なった。松田山に穴を掘って司令部を移転する陣地の構築を進めた。あちこちに穴を掘って上陸軍を撃つ陣地構築も進めた。
 海岸では砂浜に兵士1人づつが入る穴をたくさん掘って、上陸してくるアメリカ軍の戦車の下に爆弾を抱えて飛び込む自爆作戦であった。

 おそらく父もそれらのどこかで穴掘りをやっていたらしく、「松田の山中で穴掘り中に終戦」と手記に書いている。
 このころは通信隊であろうが工兵隊であろうが隊の任務に関わらず、あらゆる仕事に携わっていたようである。
 部隊の食糧は自給自足であったので、田畑を作っており、これに住民たちもかりだされた。
   ◆◆
 コロネット作戦は、千葉県の九十九里浜と神奈川県の相模湾湘南海岸に上陸して、双方から東京に侵攻するもので、太平洋方面のアメリカ軍の総力を結集して、日本に対するとどめの攻撃となるはずであった。
 重点は相模湾側にあり、ここから北に攻め上って東京へと進むのであるから、小田原平野の北端部にある松田町はその進路のひとつにあたることになる。

 もしも本当にここで本土決戦の戦いがあったら、質量共に豊富なアメリカ軍に竹やり肉弾戦法の日本軍が勝てたはずはないから、わたしの父もここで果てたにちがいない。
 実際には、1945年6月に原子爆弾の開発が成功したことにより、コロネット作戦は保留となり、原爆の投下によって必要がなくなったのであった。
 その意味では、原爆が多くのアメリカ軍兵士の命を救ったというアメリカ流の原爆の意義解釈を、父にも適用できるかもしれない。

 それにしてもアメリカ軍上陸作戦地を日本軍がよく知っていたものであるが、諜報活動の結果か、それとも誰が考えてもそうなるのだろうか。
 8月15日敗戦、8月25日には部隊は引き上、父は郷里に8月31日に戻った。
   ◆◆
 ゆるゆると1年ほどかけて資料を調べながら解読した父の戦争の手記を、「父の十五年戦争」として、わたし足の解説をつけて一応のまとめを一段落した。
 1931年から1945年までの十五年戦争の、最初の年から断続して3回の召集を受けて、兵役で7年半を過ごした記録である。
 副産物として、フィリピンで戦死した叔父の戦場、悪名高いインパール作戦の生き残りの中越山村の長老の戦場のことも知ることができた。

 おかげであの戦争をはじめから最後まで、父が行かなかった南方戦線までも追うことができた。上の文は、その最後の兵役時代の要約を載せたのである。
 父の十五年戦争記録は弟たち息子たちには見せるが、ほかにどうするわけでもない。わたしの人生の宿題のひとつが、ボケないうちにできたと言うことである。次は残りの宿題にかかろう。

◎参照→父の十五年戦争

参考文献
・「相模湾上陸作戦―第2次大戦終結への道」大西比呂志ほか 有隣新書 1995
・「小田原地方の本土決戦」香川芳文 小田原ライブラリー 2008
・「茅ヶ崎市史 現代2 茅ヶ崎のアメリカ軍」茅ヶ崎市 1995
・「松田百年」松田町 2009
・「戦史叢書 本土決戦準備(1)関東の防衛」防衛庁防衛研究所 朝雲新聞社

2010/02/17

240【横浜ご近所】都市計画はきれいごとだけではない

 横浜国大の「地域地域連携と都市再生」と題した授業で、15日に学生のレポート発表会があり、そのコメンテーターで行ってきた。
 横浜市をテーマにしたいわば「まちづくり講座」で、わたしもメンバーの「NPO横浜プランナーズネットワーク」が協力している。

 学生の提出するレポートの趣旨は、横浜市内の特定の地区を採り上げて、その現状分析から将来への持続性を論じよ、というものである。
 学部学年を横断しており、受講する学部生が200人以上もいるのがちょっと驚く。どこに興味あるのだろうか。近頃の学生はまちづくりに関心を持っているのだろうか。

 わたしがコメントしたレポートは、黄金町・日之出町界隈を採り上げたものであった。
 黄金町は売春街が徹底的に手入れを受けて壊滅して、もう4年くらい経つだろうか。
 いまは地元と横浜市大などが協力して、アートの街として再生を図っているのだが、現場を散歩してどれくらい効果が上がったいるのか、わたしの目にもみえづらいので、ましてやイチゲンの学生では手におえない代物である。
 ありきたりのレポートになるのは仕方ないが、これをどうインスパイアするか、教えるほうとしては思案する。

 コメンテーターとしては、あの街界隈のいまも背負っている負の面のよってきたる歴史を述べて、それでも都市はきれいごとばかりでは成り立たない、計画的にできた表しかないのも都市だが、一方では裏路地やアヤシイ遊びの場もあってこそ都市なのだ、そのようなところに君たちはどう切り込んで住むようにするか、それを追求してほしいと言ったのであった。

 ちょっと困ったのは、都市の怪しさを学生に講義するには、短時間では誤解が生じるだろうなあ、しかし長々と怪しいことを講義するのもなんだかなあ、ということで、中途半端になってしまった。

2010/02/13

239【世相戯評】おバカな板すべり大学生

 オリンピックをやっているらしいが、なんの興味もない。新聞で読まないページばかりになるのが困る。

 でも、社会面を賑わわせる番外の話題は目に付く。買った負けたじゃなくて、スケート競技の中学生の女の子がケロリとして結構しっかりした受け答えするとか、板すべり競技の大学生の男の子が珍妙な格好や受け答えがちゃらんぽらんで顰蹙をかったとか、、。
 
 その国母クンという名の顰蹙男は、ずり落ち尻ズボン、シャツをその外に出し(オレだって出すぞ)、鼻ピアス(顔ピアスしてるヤツに出会うとキモチ悪くなる)してるとかだが、おバカなスポーツマンは古今東西珍しくもないだろうに、それをテレビで見てオリンピック選手なのに態度が悪いとて、オリンピック関係者のどこやらへ抗議しているヒマな”愛国者”たちがいるらしい。
 つまり、国母が母国を逆撫でしたってことだな。

 これと直接関係ないけど、国母っていう姓は珍しいようなすごいような。
 だって国母とは国王の生母のことですよ。もしかしたら、昔は小窪か小久保だったのを変えたのかもなあ、。
 知人に光多というちょっと格好よい姓の人がいるが、これは昔は満田だったのを変えたそうだ。 

2010/02/09

238【くたばれ乗用車】出て来い鰤臼設計者

 奴与太自動車の鰤臼なる新車に仕込んだコンピューター制御に誤りがあり、ブレーキ踏み込みへの反応が遅くなって、普通よりも停止が数メートル先になるので危険だとて、リコールをすることになったそうだ。
  そうは言われても自動車運転しないわたしには、どうもよく分からない。
 ブレーキかけたらすぐ停止、それが原則だろう。なのに、コンピューターに任せておけばいつか停まるだろうっていう時代になっているらしい。つまり人間の運転能力はコンピューターの後回しされているってことである。
 もう、人間の運転能力は問われないらしい。これは怖いことである。わたしたちはいつのまにか、機械が支配するSF的世界に入り込んでしまっているらしい。
 そうやって機械が支配するのならば、その機械を設計した人、つまり今回はコンピューター制御システムを仕込んだ人たちに重大な責任がある。
 それなのに奴与太の社長やら副社長など素人ばかり出てきて、技術者は出てこないのはどういうわけか。会社ぐるみで技術者をかばっているんだろう。
 車を買った客やそれに轢かれる歩行者は個人だから、なにかあっても巨大組織相手には勝ち目が無い。
 建築の設計を見てみろ、あのアホの姉歯建築士でさえも責任とらされたではないか、それなのに20万台も世界に売った疵物の設計技術者が出てこない、社会的責任を取らないって、自動車産業の世界は奇妙奇天烈である。
 わたしにこれをいう資格があるのは、そのブレーキのきかない自動車ではねられて死ぬ危険性を、今日も明日も歩く道で抱いているからである。

2010/02/06

237【くたばれ乗用車】奴与太・鰤臼

 鰤臼とかいう名の自動車のブレーキがきかないとか、アメリカではブレーキが利かなくて突っ走って死んだとかで、「顧客の視点でつくっていない」なんて、マスメディアはメーカーの奴与太をさんざんに非難している。
 おい、ちょっと待ってくれ、どこかおかしいんだよなあ、その言い方が。
 顧客ってのは、その車を買う人なんだろうし、その買った人が欠陥車で死ぬかもしれないからけしからんとの論調ばかりなのは、どうも片面的な視点でありすぎて、おかしいと思うぞ。
 わたしが道を歩いているとする、そこにブレーキのきかない鰤臼がやってきて、わたしを跳ね飛ばし轢き殺すのは、いったいどうしてくれるんだよ。
 その第三者被害の可能性の視点でこの問題を論じているヤツはどこにいるのか。
     ◆◆◆
  そもそも自動車メーカーは、乗ってるヤツの安全ばかり考えて、歩いていてはねられ殺されるかもしれない第三者のことを念頭にいれていない車つくりをやっていて、実にけしからん。
 例えば、ぶつかったらバンと開くエアバッグである。あれは運転席につけるのじゃなくて、バンパーあたりの外につけるもんだろ、そうすりゃ少なくともひき殺されなくてもすむだろうに。
 バンパーだってあんな頑丈だから、ぶつかった歩行者を殺すか怪我させるに決まっているだろ。
 わたしが乗用車の設計をするなら、運転席をいちばん前に持っていくね、ぶつかったら即運転者が怪我するようにすれば、嫌でも安全運転するはずである。今の設計は少々ぶつかっても運転者はなんでもないが、ぶつけられたほうは大怪我か死ぬ。それが根本的におかしいのだ。
 とにかく、自動車の設計思想には、これが第三者への凶器にしないとする観点が抜けている。いや、逆か、第三者への凶器として設計しているのだな。
 特に鰤臼は、エコなる福の神の仮面をかぶっているが、実は中味は鬼であった、と、ちょうど節分にふさわしいニュースとなった。

2010/02/02

236【老い行く自分】昔々丹波で出会って影響を受けた伊藤ていじ先生が亡くなられた

 今朝の新聞に、建築史家の伊藤鄭爾さんがなくなられたことが報じられている。
 享年88歳とあるから、思い出せばあれは先生が38歳のときであったのか、もっと若かったように思っていたが、、。
この「日本の民家」の本は、学生時代にフィアンセからもらった。
 1960年の夏、わたしは大学の建築史研究室所属の同期仲間3人で、丹波の農村に滞在して民家の調査をしていた。東京大学の建築史研究室との共同研究で大勢の学生や院生たちがいて、その指導教官の一人が伊藤鄭爾さんであった。当時は東大の助手か、助教授だったのだろう。

若い身でありながらその語る人生感と個性に、わたしは強烈な印象をもち、このときに何がしかの影響を受けたのであった。
 一面の稲の田んぼの田舎道をテクテクと出かけて、古い大きな茅葺の民家に上がりこんで、屋根裏まで入って煤で真っ黒になる毎日であった。

 伊藤さんは、ひょろひょろの細身で、力がないからカバンは持たないのだと、風呂敷包みひとつを持ってひょいひょいと歩きながら、そしてまた夜は酒飲みながら、いつもなにかを語って下さった。
 細い身で力が無いのは、結核で死にかけたからであった。東大の院生だったかのころ、病院で寝ているある日、目覚めると周りには泣いている人たちがいる、ははあ、俺はいま死のうとしているんだななと思ったけれど、気力がないから何の不思議もなく眺めていた、という。

 ところが、それほどの病状だった土壇場に、ストレプトマイシンが登場して、その投与で治癒したのであった。
 伊藤さんが言うには、そのストレプトマイシンは貴重な薬であり、なかなか手に入らないものであったので、ある種の差別的な患者選択で投与の優先順位が決まって、東大の研究者はその投与対象に入った。だから、今の自分は何千人何万人かを押しのけて生きているんだから、それだけに熱心に生きなければならないんだ。

 丹波の田舎で聞いた伊藤さんのとどまらない多くの語りは、今考えると彼一流のヨタ話もあったかとも思うが、若いわたしはおおいに感激をしたものであった。
 田園の美しさについて、伊藤さんにわたしが反論した覚えがある。
 ある日の出かける途中で伊藤さんが、この田園風景の美しいことはどうだい、と感激していう。
 わたしは、その美しさの陰には苦しい労働があるのを忘れはいけませんよ、すると伊藤さんは、いや、美しいこととそれとは別ものだよ。この話がどう決着したか忘れた。
 たくさんの話の中からはっきり覚えているのは、先生が死の床から劇的に生き返った話だけである。

 そして伊藤先生は、民家研究の大成者としてその世界を築き、教育者としても工学院大学の学長もなさって、かつて押しのけたかもしれない人たちに代わって立派に米寿まで生き遂げられたのであった。
 その後はわたしは伊藤先生とは縁がなくなったが、大判の「日本の民家」なる評論と二川幸夫の写真、あるいは「谷間の花が見えなかったとき」という松本與作評伝とか「日本デザイン論」などの印象深い著書が、たくさんのわが蔵書処分から逃れて今も手元にある。

 1980年ごろ、東京駅のステーションホテルでのなにかの会合で見かけて、その昔、丹波でお世話になったものでございますと、深くお礼を述べたことがあった。
 もちろん、先生はわたしを覚えてはいらっしゃらなかったが、わたしとしては20年ぶりに何がしかの荷をおろした感があった。

 この4年ほど通っている中越山村で民家調査の手伝いをやることになり、一昨年から半世紀ぶりに屋根裏で煤まみれになる再体験をして、伊藤さんを思い出していたところに、訃報であった。合掌

2010/01/30

235【くたばれマンション】去年はマンション不況でよろこばしい

 国土交通省が2010年1月29日に発表した住宅着工統計を見ると、2009年中の着工戸数は788,410戸であった。
 2008年中のそれは1,093,485戸だったとあるから、なんと3割減である。
 持家も貸家も分譲住宅も減ったなかで、給与住宅だけが増えているのは、どういうわけだろうか。

 減少の中で分譲型共同住宅(日本ではマンションというが、実は名ばかりマンションのこと)は、2009年中は76,678戸(内首都圏100,726戸)、2008年中は182,572戸(内首都圏40,041戸)だったから、なんと58パーセント減少(内首都圏6割減)である。
 大地震が来たら危険極まりないこの分譲共同住宅が減っているのは、なにはともあれ喜ばしいことだ。

 しかし、着工が減ったといっても実戸数は増えているので、新たに18万戸ということは30万人以上がこの危険なものに昨年から新たに住みだしたか、住みだしつつあることになるのだろう、コワイ、、。
 わたしが推奨する貸家が、2009年中は321,469戸で、これは2008年中よりも3割も減少しているのが、気に入らない。
 統計に公的な住宅が分類として登場してこないも、気に食わない。統計に載るほどの戸数供給をしていないってことか。全く気に食わない。

●参照→230震災記念日・マンション売逃げの勧め
  
   125名ばかりマンション
     187民主党の居住・住宅政策は?

2010/01/26

234【怪しいハイテク】ウイルス対策ソフトウェア

 インタネットにつなぐごとに、ウィルス駆除ソフトの期限が切れたから、延長手続きをせよとの画面が、毎度毎度立ち上がってうるさくてしょうがない。
 そういえば、今入っているヤツは2年有効だったなあ、きれたのか。

 ネット上で延長手続きをすることもできるので、いくらなのか見たら、1200円で1年期限とある。まてよ、これを買ったときは1980円で2年期限だったのに、こんどは高いのはどいうわけだ?
 えい、安売り電器屋に行ってみよう。もっと安くていいやつがあるかもしれない。

 そこでコジマだかノジマだかヤマダだか、同じような名前なので自分がなんという店に行ったのかいつも分からないのだが、その店に行ってきた。
 同じメーカーのもので、2930円で更新期限なしってヤツがあった。断然こっちのほうが安い。ネット上の更新のほうは箱もCDも流通経費もみんなタダなのに、なんで1年で1200円なんだよ。

 気になるのは、メーカーがもしつぶれたら、日常の更新手続きもとだえるのだろうか。そうなると安いか高いか分からないことになる。
 まあ、いいや、買ってきてインストールした。ソフトウェアのメディアは、CDではなくてUSBメモリーであるのが、ちょっと進化していた。
 ところで、PC3台までインストールできるとあるが、うちには1台しかない。残り二つ、だれかに高く売りつけてやろうか、。

2010/01/25

233【各地の風景】伊豆下田みやげ

 伊豆半島の突先にある下田の街に行ってきた。幕末に黒船がやってきた日本鎖国の敗れる歴史の町で、その関係の史跡の宣伝もあるが、私はそれにはあまり関心が無い。
 町に風景のなんといってもよいところは、伊豆石となまこ壁の町屋や土蔵が町に中に宝石の如くちりばめられていることである。
 
観光的に土産物屋や飲食店にその町屋や土蔵を活用して、それらしくしているところもある。
 しかし、わたしが惹かれたのは、なまこ壁や伊豆石の家が、ごく普通の生活空間として街に生きていることである。いかにも伊豆の町にやってきたと言う雰囲気を、よそ者として楽しんだのであった。
さて、観光地ならおみやげである。みやげはめったに買わないのであるが、ひとつだけ自分のために買った。
 それは布草履である。数年前に倉敷で買って室内履きとしていた布草履が傷んだので、下田産のそれに買い換えたのだ。NPO経営の土産物屋で600円。
 もっとも、倉敷や下田が草履の名産地であるとは、聞いたことがない。

 参照→伊豆の下田に行ってきた

2010/01/24

232【横浜都計審】都計審委員全敗記録をまたもや積み重ねた

 横浜都市計画審議会の委員になって、この1月で6回目の審議会であった。
 その間に毎回、いくつかの議案に対して問題点を指摘して、いろいろと提案をしてきた。
 好んでイチャモンをつけているのではないが、議題となっている現地を見てくると、何がしかおかしいところが見つかるので、審議会で委員のみなさまに披露して、考え直したほうがいいと言っているのである。
 しかし、わが意見が入れられたことは一度もなくて、みごとに毎度の連戦連敗の全敗で、記録更新を続けてきているのだ。

 さて、この1月審議会では、ついにこの記録の積み重ねは終わるだろうか?、、張り切って画像まで使って意見を述べた。
 今回は、市街化調整区域から新しく市街化区域に編入する地区について、現地を見てきたら、その新しい用途地域指定がどうも実情にも合わないし、今の社会としてもそのような都市計画は不適切であると気がついて、原案に反対したのだ。

 出席委員21名、採決したらわたし1人だけ原案反対、あと19名(会長は意志不明なので除く)は原案賛成、見事にあえなく全敗記録またもや積み上げ!
 今回は嬉しかったのは、土俵の外であったが、二人の委員がそれなりの理解を示してくださったことだ。いつも泣いてた?ドンキホーテ・寅次郎は少しは気をよくしたのであった。

 医院の人気、アレ、委員の任期はこのあと2回でおしまいになので、これからも記録の積み上げを目指して、ガンバリます。

●詳しくは→郊外開発誘導型の都市計画は変らないのか
https://sites.google.com/site/matimorig2x/tokeisin/7-kogai-toshikeikaku

2010/01/22

231【横浜ご近所探検】歴史的建築のコピー再現が流行するこの頃

横浜球場のそばに、ストロングビルと言う、ちょっとモダンな戦前の3階建てのビルがあった。2007年に壊されて、跡地にホテルが建った。この1月に開業らしい。
 表から見ると、1階から3階まではもとのストロングビルのファサードをコピーして再現している。

 もとのビルとの格好の違いはよく分からないのだが、どうも階高が高くなっているようである。
 大きな違いは、もとのビルは道路境界線まで一杯に建っていて、一階は5段くらいの階段を登って入るようになっていたが、新ビルの1階は道路面と水平、外壁が道路から5mくら引いていることだ。

 ビルのコピー再現は、本町通りの銀行だったビルを共同住宅の下に持ってきている例があるし、国の合同庁舎も蚕糸検査所を低層にコピー再現だし、横浜には多くある。
 伊勢佐木町の商店街にある松坂屋も閉店してもう1年以上になるだろうか、これもそのうちに壊して建て直すが、ファサードの一部をコピー再現するそうである。

 いまや建築ばかりではなく、牛や馬はクローンとかでコピー再現が可能になっているから、世の趨勢だろう。そのうちに人間もそうなるか。

2010/01/17

230【くたばれマンション】震災記念日につきマンションの売逃げをお勧めします

 今日は、あの阪神淡路大震災からちょうど15年目の日、何かと関連行事があるようだ。
 私がこれに関して思っていることの一番は、あの時、ものすごい数の住宅難民が出たことの教訓を、すっかり忘れていることである。
 この「伊達な世界」ブログにも本家「まちもり通信」にも何回も書いているのだが、今日はまた書く。

 大都市では超高層マンションなど、1棟でものすごい戸数の大規模共同住宅ビルが次々と建っている。分譲広告が新聞紙面や折り込み広告を賑わわせている。
 もちろん、それを買い求める人がいるからだろうが、こんな危ないものはないのに、なぜ売る人がいて、買う人がいるのか、なんとも不思議でしょうがない。
 阪神淡路大震災のときに、いちばんの問題になったのは、マンションと言われる分譲共同住宅ビル(正確には区分所有型共同住宅)であった。ばっさりと倒れたり、柱や梁に亀裂が入ったり、設備が壊れたりして、建て替えやら大規模修繕になったりした。

 そこに住んでいた人たちは一時は住宅難民になったが、それは他の戸建住宅でも同じである。
 ところが、マンションと言われる分譲型共同住宅ビルの人たちは、そこから先に超難題が待ち受けていたのだ。
 それは、分譲で各戸を別々の人が持っているいるのだから、建て直すにしても修繕するにしても、そのための大金を負担するには、持ち主みんながOKしないと前に進まない。貧乏人もいれば金持もいて、意見がまとまらない。
 大規模なものほど権利関係者が大勢いて、いつまでもまとまらない。法制度の改正までしたが、人々の心までは法は踏み込めない。
 多くのマンション難民問題は後々まで引きずった。いや、今も引きずっているであろう。

 そのようなことがあったから、その後は分譲方式の共同住宅ビルは規制するかと思ったけど、そんなことはぜんぜんない。
 姉歯事件(耐震偽装)なんてことがあって、あれに関わった賃貸住宅は早期に建て直しなど解決したが、分譲共同住宅は今もほとんど解決しないでいるようだ。震災のときと同じことが起きたのに、何も規制をしなかったのだ。
 近頃は超高層マンションとかで、一棟で1000戸もあるようなものも建っているらしい。「このビルは免震構造で大地震にも安全です」と宣伝文句に入っているかもしれない。

 たしかに建物は工学技術的には倒れないかもしれない。
 でも、上下水電気等の設備配管やエレベーターなどは、それ自体を頑丈に作っても耐震にはできないから、かならず壊れる。
 また、建物が揺れたときに、とりあえずは人命に関わらない程度に、どこか壊れるようになっていて、そこが地震エネルギーを吸収するようになっている。
 もちろん超頑丈に作って、ぜったいに壊れないものを作ることは技術的には可能かもしれないが、それにはものすごいお金がかかるから、売れないだろう。
 震災後にもその建物は見たところは建っているけど、中味はずたずたぼろぼろ、大規模に修繕する必要が出るに違いないのだ。

 そのとき、超高層ビルでは規模がでかいだけに、また共有部分が多いだけに、とんでもない工事費がかかるに決まっている。修繕積立金はそのようなことも含めての金額なのだろうか。そこまで修繕積立金を載せたら、販売額が高くなりすぎて売れないだろう。
 その大規模修繕工事費の負担を、1000人もの持ち主が簡単に同意するだろうか。法的には4分の3賛成で建て替えが可能だが、現実はそうはいかない。一人でも反対すると難渋するのだ。
 超高層でなくても、何棟かがひとつの敷地にあって、低層、高層などが数棟ある場合、大地震で棟ごとに壊れ方が違うから、違う被害の建物を一緒にして建て直すとか大修繕とかになると、益々こんがらかってくる。

 そんな危惧のある大規模分譲共同住宅(あえてマンションなんて格好だけつけて言わないのだ)に住む人は、いまや何万、何百万人いるのだろうか。そんなもの禁止すればよさそうなものだが、あまりにたくさんできてしまって、今更禁止にすすると社会問題となるからしないのだろうか。
 でも実は、大震災で難民続出という起きるべき社会問題を、分かっていながら見ない振り考えない振りして、先送りしているだけなのである。日本の人々は、いったいどうなっているんだろうか。
 もうすぐ来るという静岡あたりや関東あたりの大地震、明日かもしれないし、20年先かもしれない。
 そのときになって困っても、わたしは知りませんよ。別にお前に知ってもらってもしょうがないよって、言われそうだが、そのとおり。
 だから、わたしは1棟まるごとの賃貸借共同住宅ビルの1室に借家住いなのだ。壊れたら大家さんがナントカするでしょうよ、ちゃんと高い家賃を払っているんだから。

 分譲大規模共同住宅を持っている読者のみなさま!、大地震が来る前に早いこと売り逃げしたほうがいいですよ。
 結局は大地震が来た時に持っている人が、トランプのババ抜きのババをつかむのだ。問題は、トランプと違ってババの数があまりにも多いことだ。そして、そのことが分かっていながら何らの対策もなくて、どんどん危ないババ住宅が増えていることである。
 なお、不動産業界には既にババ抜きと言う言葉があるらしいが、それは傷物とか古物の共同住宅のことを言うらしい。
 ここではそうではなくて、不動産業界ではれっきとした代物としているので、なおさら厄介である。

 ところで不思議に思っているのだが、こんな心配をするわたしはおかしいのだろうか。誰もこんなことを言っていないのが、奇妙なのである。
 これをお読みなった方で、わたしのいうことが間違っているなら、ぜひ教えてください。
 メールアドレスdateygアットgmail.com(アットは@になおして)伊達美徳宛てに教えてください。
 お願いします。

 アっ、いま揺れているぞ、、。
 おりからカリブ海での大震災報道があるが、あれは海の向うのことではないのだ。明日、こちら岸のあなたに起こるかも、コワッ、、。

(追記2010年1月28日)
 昨日の朝日新聞東京版の1面に、分譲マンションの怖い記事が出ている。
マンション管理費、住まない所有者へ増額認める 最高裁」の見出しで、分譲マンションの部屋を持ちながら自らは住んでいない「不在所有者」には「居住所有者」より額を上乗せして払わせてもよい、との判決が出たというのだ。
 所有してすんでいるものは一生懸命に管理する努力をしているのに、投資目的で他人に賃貸している所有者は何もしないという不公平を、管理費増額で差を埋めようとしたら、訴えられたらしい。
 つまり、分譲型の共同住宅はこんな紛争がおきるほどに、居住形態と所有形態に矛盾が出ているということである。

 もしも震災により大規模修繕や建て直しが必要になったときに、この間での対応は大きく違ってくるだろう。
 投資目的所有者は、壊れた時点で投資が終了したのだから、新たな投資をして立て直すよりも放棄して、ほかの物件に投資するほうがよいに決まっている。建て直し派と放棄派との間に面倒なことが起きるだろう。
 こうして共同住宅は、立体お化け屋敷になる可能性が充分にあるのだ。
 いやもう、実は既にそんな共同住宅が実在するらしい。こんなことでよいのか、。

参照→◆名ばかりマンション   085借家か持家か
姉歯大震災の喚起するもの(2005~2007)
賃貸借都市の時代へー体験的住宅論(2000~2008)

2010/01/15

229【世相戯評】カブが安いとて蕪でも買うか

 日本航空会社が会社更生法適用とかで、そのカブが超安値と新聞第1面の記事、そこでいつもは縁の無い株式欄ページを見る。
 え~と、目がちらちらするなあ、いったいどこに日航と書いてあるんだ? あ、JALとあるこれだな、おお、安値6円とある。

 これをどう評価するのか知らないが、デフレ時代で物価が安いからカブも安いのだろうなあ。
 他と比較してみると、え~と、同じような一ケタ値段があるか、、、あった、おお、堂々の5円!で日航の負け、いや、勝ちか、。この「シルバ精」って、なにしてる会社かしら。シルバー世代に精をつける品をつくってるのか、ならば、もっと景気がよさそうなものを、、。

 わたしも八百屋でカブを買うことがある。
 この葉っぱを刻み、根部を適当に切って、しょうが千切りを混ぜ、塩少し、昆布一切れとともにポリエチ袋に入れてちょっと揉み、半日くらい冷蔵庫に入れおく。簡単に作れて美味い酒の肴だ。
 八百屋のカブは、6株を束ねて200円くらい、1株33円、日航株の5倍以上もする。

2010/01/11

228【くたばれマンション】斜面地共同住宅

 
 街の中を車で走っていたら、建物の陰からチラッと、異様に明るく真っ白に輝く巨大な丘が見えた。
 とまってしげしげと眺めると、それは大きな丘の斜面におおいかぶさって斜めに建っているというか寝転んでいる共同住宅ビルが、西日を浴びているのであった。
 後に見えるふたつの鉄塔は、その丘の上に建っているらしい。
 丘陵の斜面の緑をそっくり剥ぎ取ってしまって、住宅群に置き換えられた丘には、まるでたくさんの切り餅のようにバルコニーが積み重なっている。中央に青い包丁が立てかけてあるのは、斜め昇降エレベーターらしい。

 また別のところでも斜面地共同住宅に出会った(下の写真)。こちらは隣に緑の斜面があるので、元はどんなところか分かる。
 斜面地は相対的に地価が安いから、土木や建築の工事費がかかっても採算にあうのだろうが、こんなのばかりになると風景は一体どうなるんだろうか。

●参照→崖地はめ込み共同住宅

2010/01/10

227【怪しいハイテク】中古カメラを買った 

 カメラを買った。
 デジタルカメラを買うのは、これで4つ目である。最初は2003年くらいだったろうか。
 建物や街並みを写すことがほとんどなので、広角が必要である。フィルムカメラも広角を使っていた。
 もちろん、ハンディなコンパクトカメラでないと、あちこちもって歩いてやたらにぱちぱち撮るのに不便である。記録だから高精度の画像が必要ではない。

 広角レンズ(加えて単3電池兼用、日付写しこみが条件)のデジタルコンパクト機種が出るのを、辛抱強く待っていた。ようやく条件に該当する28ミリのRICOH Caplioが出たので早速買った。
 その1年後に性能が上で形が更に小さいCaplioが出て、また買った。それを2年くらい使っていたが、レンズカバーが閉まらなくなり、ズームが動きにくくなった。

 その頃になると広角レンズカメラがでまわるようになり、ixy900isを買った。単3電池兼用でないのが不満で、ときどき電池切れになる。
 このカメラは一度、便器にボチャンをしても何とか生き返って使っていた。その後、液晶画面が表示しなくなっても、目でのぞくファインダーがあるから今日まで使ってきた。
 Caplioは主に録音機として使っているが、予備的に本来のカメラとしても何とか勤まる。
   ◆◆◆

 デジタルカメラ(canon ixy 900is)の液晶表示画面が表示しなくなって1年1か月、この間、液晶表示がなくても目で覗くファインダーがあるから、特別に苦労しなくてこのカメラを使ってきていた。
 でも、液晶画面を見ないと設定の変更ができないから多少は気になってはいて、同じ900isの中古品か、910isを買いたいなあと、ときどき中古カメラ店やインターネット市場を見てはいた。

 このふたつに決めていたのは、電池が同じだからである。わたしは都市景観の記録に使っていてカメラをかなりこき使うので、液晶表示をして使っていると電池消耗が著しい。
予備電池を買おうと思ったら5000円もするので、ちょっとばかばかしい。そこで、これらの機種を買えば予備電池もそろうのである。
 しかしどちらもなかなか見つからない。見つからなくても困らないので、探すのが楽しみみたいなものであった。

 それがついに今日、900is中古品を横浜駅前の店で見つけてしまい、買った。8820円であった。見たところほとんど新品だからから安いと言えよう。
 欠陥商品だったら1週間以内ならば引き取ると、店の人は言った。明日から試してみよう。

参照→073カメラ液晶表示がダウン

2010/01/07

226【お遊び)リンゴジャムを作る

昨年11月に、韮崎に焚き火に行ったとき、友人からたくさん貰ったリンゴが、冷蔵庫に未だにあるので、思いついてリンゴジャムを作ることにした。
 以前に福岡の友人から貰った夏みかんでマーマレードを作ったことがあるから、すぐにインタネットでレシピ検索である。便利である。

 いろいろな造り方を読んで、マーマレードに比べるとずいぶん簡単なので、適当に覚えて製造にとりかかった。
 リンゴ3個を芯だけとって、皮をつけたままざくざくと適当に切りつつ、塩水につける。これは色が黒くならないためらしい。
 無水鍋に、水を切ったリンゴをいれ、レモン1個を絞りかけ、甜菜糖約350グラザーッと入れて、木の箆で適当にかき回す。
 火をつけてしばらく見ているとどんどん水分が出てくる。適当なところで蓋をして、弱火で約30分、開けてみるとやわらかになっているので箆でつぶす。
 適当につぶしたら火を止めて蓋をして、そのまま冷めるまで放置。

 並行して、できあがったジャムを入れるため、市販ジャムの空き瓶を大きな鍋に入れ、熱湯で煮沸する。これは保存ジャムにカビが生じないようにするためである。
 しばらくして、熱湯消毒の瓶も無水鍋も熱さが取れたので、ジャムをすくって瓶に入れた。結局瓶は2個で納まった。ずいぶん減るものである。

 味見をすると、結構美味いのは自分が作ったからである。
 でも、こんな甘いものはたくさん味見できないから、明日の朝食の紅茶に入れるのを楽しみにして、今日の作業はおしまい。

(次の朝の追記)いつものようにロシアンティーにする。今朝はマーマレードではなく、手製のリンゴジャムである。
 おお、美味い、自作ジャムは美味い、ジャムだけでは甘すぎるのが、紅茶の中でほどよい香りほどよい甘さである。
 小市民的しあわせとはこういうことであるか。次は自作の米でドブロク密造だな。

2010/01/04

225【法末の四季】大雪の中越山村

 今、中越の山村・法末集落は、暮から降り出した雪が積り積っている。
 その法末にある仲間の活動拠点「へんなかフェ」に、M田さんは28日からひとりで泊まりこんでいる。いや、もう住み込んでいるといったほうがよいか、。
 大晦日、M田さんは1mの視界の吹雪の中を、集落の中の山頂にある神社に、雪を掻き分け掻き分けて2年詣でをしたそうだ。
それは集落の年中行事の一つであり、どんな吹雪の大晦日でも住民はおまいりをするのだ。
 そうして民家に戻れば、屋根に厚く厚く積った雪を家の周りに落とし、その落とした屋根に登れば吹雪で飛ばされそうになる。雪をまた家から離れた場所に片付けなければならない。
これを雪かきならぬ雪堀りという。その寒さの中でも、雪との格闘は汗ダグになってしまう。 しかし地上に積った雪の上に、更に屋根から落ちた雪が積って、もう軒までもの雪山になってしまうと、手作業ではとてもできない。除雪機を頼むしかない。
 そうやって除雪しても、また天から雪は更に次々と降り積もる。天気予報はず~っと雪マーク。
そんな豪雪の村からのM田さんの日常報告ブログを、はらはらしながら見ているのである。
 応援に行きたいが、今すぐはちょっと都合が、、、う~む。
(追記)1月14日の現地情報は、ものすごい近来まれな大雪とのこと。

●参照→法末天神囃子   ・中越・法末四季物語

2010/01/02

224【老い行く自分】元旦だとても書くこと無し

なにか特に書くほどのことがある元旦でもありません。そういう日々なのです。
 元旦だから何かを書かなければ、という、ある種の“追いかけられ感”、自分自身にドライブをかける装置としての元旦、それはもう必要でなくなったようです。
 でも、そのこと自体がなんだか危ないなあ、と考えている自分もいるのですから、まだ枯れきってもいないようです。
 今日着いた年賀葉書が135枚。ありがたいことです。
 さて、これはわたしにとっては多いのか少ないのか。どうも多すぎる感もあります。だって、こちらからは去年に続いてまだ1枚の年賀葉書も出していないのですから、。
 もっとも、寒中見舞いを出しましたが、、。
   ◆◆◆
 とりあえずここで、このブログをお読みいただいているありがたくも奇特なるお方様たちに、「謹賀新年」のご挨拶を申し上げます。
ことしも健康にお過ごしくださいませ。
 あなたのご健康状態はここでは分かりませんが、わたくしのそれは、もしもあなたが日常的にこのブログをお読みいただいているならば、そして、もしもここに1週間の書き込み途絶え期間があったならば、それはわたくしが倒れた、もしくはPCの故障、そのどちらかとお考え下さいませ。
 とにかく、今年があなたにもわたくしにも、よい年であればいいですがねえ、、どうも祈るってことが苦手なモンで、。